九月十九日、昼休み。
俺とランは空き教室に待機していた。俺は椅子に座って、ランはいつも通り浮いている。
寝て起きてみれば俺の体調も心理状態も何とかなっており、調査の方を中断する事もせずに済んだ。
何よりこれ以上ランに心配されるのは勘弁してほしい。
あれは事故みたいなものだ。余計な心配をする必要なんてない。
「それで、マスター」
霊体らしくふよふよと俺の周りを浮遊するランが口を開く。
誰にも見られる心配がないのでローブ姿だ。昨日は殆ど制服姿だったが、本来これがランの精霊としての基本スタイルである。
「お昼休みに空き教室に来るって事は、秋月さんからの報告でもあるんですか?」
「ない。……だから今日は中庭に行く」
「それって……」
ごくり、と息を呑んだランの呟きに頷く。
「慰霊塔を調べる。“月に笑む少女”が消える前に、慰霊塔に視線を向けていたからな。……ま、お前も行きたがってただろ」
どっちが本命でどっちがついでなのか、というのはさておき。
用事が被ったのなら一度に済ませるに限る。そう何度もランを連れていきたい場所でもない。
嬉しさを堪えるようなだらしない声が頭上から聞こえてきて、目線を上げてみれば案の定だった。
「……あぁ、もう。言っておくけど今回だけだぞ。次に行きたいって言っても連れて行かないからな」
「えへへー、分かってまーす」
そのまま浮遊霊よろしく俺に纏わりついてきた。霊体の状態ならこうしてスキンシップを取っても俺が問題にしないと学習したようだ。
実際霊体のランは誰かに見られる心配も無いし、重さを殆ど感じないので別に構わないが。信頼の証だと思えば安いものだ。信用は限りなく低いのだから、信頼は結んでおくべきだろう。
唯、数日懸けて契約が馴染んできたのか、ランの体温を強く感じるようになっていた。
早速行きたがると思っていたのだが、一応ランも“月に笑む少女”の事は気になっていたようだ。
「マスターを狙ってきた、あの血塗れの幽霊さん……。もう会う事は無いんでしょうか」
「あれが生者の魂だったなら、唯肉体に還っただけだ。日付が変わって亡者の学園の登校が始まったなら、また会う事になるだろうな。……だけど多分、それはないよ。あの姿は常軌を逸してる」
血塗れのあの姿が魂であるのなら、その入れ物である肉体も真面である筈がない。凡そ生物とは呼べなくなっている可能性がある。そんな存在が居たとすれば間違いなく協会の耳に入る。肉体があるとは考え難い。
それに、あいつが容姿を保てる程の存在の濃度を持っていたにも関わらず、実体ではなく霊体のままであった事も気掛かりだった。
亡者の学園ではありえない霊体を保ったままの魂。そして俺を狙ってきた理由。
その手掛かりが慰霊塔にあるかもしれない。だから調べに行く。
椅子から立ち上がると、ランは俺に纏わりついたまま力を抜く。どうやらこのまま着いてくるようだ。別に行動を制限されるわけではないから構わないが。
「言っとくけれど、外じゃ会話しないからな。変な奴だと思われる」
「今更じゃないですかね。……実体化しようかな」
物凄く私的な理由で実体化されるのは勘弁してほしい。半日前に魔力を使い切り掛けた事をもう忘れたのか。
「分かった分かった。人が居なかったら話してやるよ。……ま、多分話せると思うぜ」
「本当ですか!?」
嬉しそうなランの言葉に溜息で返す。
慰霊塔の意味を分かっているのだろうか。たとえ桜が咲いている春であっても、あそこの周りで昼飯を取ろうとする生徒は殆ど居ない。何の理由で建てられたかも分からない慰霊塔の周りで飯を取ろうとするのは、ネクロマンサーか何かだろう。
屋上は封鎖され、中庭は慰霊塔が建っているせいで使う気にならない。この学園において生徒達の憩いの場は殆ど無いのではないだろうか。
空き教室から出て、さっさと一階へ行く。昇降口から素直に出ようとも思ったのだが、それだと大回りで中庭に行かなければならない事に気付いた。
……面倒だ。上履きのまま、用務員が中庭掃除に使っている扉から出てやろう。
昇降口から校舎に入って直ぐの場所に、鍵が掛かった扉がある。そこから直接中庭に出る事が出来る。
当然用務員しか使えないように鍵が掛かっているが、そんなものランの前には無意味だ。
「ラン、鍵開けてくれ」
「うわー、悪ですねー」
にこにこと白々しい台詞を吐いて、ランは鍵を開ける。
誰にも見られていない事を確認して、扉を開けて中庭へ。
――――目の前に広がる光景は、渡り廊下から見た通りだった。
中庭の中央に建つ、高さ五メートル程の慰霊塔。そしてそれ等を囲む桜の木。亡者の学園では一本を除いて咲いていたが、当然こちらでは時期的に咲いていない。
当然と言うか何と言うか、中庭には人が居なかった。これならランと会話ができる。
「これが……慰霊塔」
ランがまじまじと慰霊塔を見る。
ここに祀られた、百四十年前の大事故の被害者を悼んでいるのだろうか。――――それとも。
だが、どっちにしたってランのやる事と俺のやる事は別だった。
ランは慰霊塔が気になるから来た。俺は慰霊塔が“月に笑む少女”と何か関係があるのか探りに来た。
目的が違うのだから離れた方が効率的な筈なのだが、ランは何故か俺から離れない。
「どうした、まだ纏わりつくのか」
「……すみません。もう少しだけ、このままで」
「別にいいけど。……何かあったら直ぐ言えよ」
ランの返事を聞いてから、俺は慰霊塔を調べる。
……と言っても、今更調べる事なんかあまり無いんだけど。
確かに夏休みが開けてからは、亡者の学園の調査で忙しかった。ランを召喚するまでの二週間は余裕が無かったし、昼の校舎を調べる事だって考えつかなかった。
とりあえずは慰霊塔に触って、何か不審な魔力の残滓が無いかの確認。……特に反応は無い。俺が知らない術式を使われた形跡もない。
「……何もない、か」
“月に笑む少女”が消えるその瞬間まで見ていたのは、対峙していた俺ではなくてこの慰霊塔だったように思う。
だから何かしら縁があると思っていたのだが、どうやら外れらしい。
まぁ、別にそれならそれでいい。もう会う事も無いだろうし、会ったとしてもあいつは救う必要が無い。何故だか俺はそう直感していた。
ランの方も、別に気になる何かを見つけたわけではなかったみたいだ。ぼーっとしている。二人揃って空振りした所で空き教室に戻ろうとした時――――俺はランの異変に気付いた。
……呆けている癖に抱き着く力が強くなっている。体温も先程より上がっていた。息も荒いし、緊張しているのは間違いない。
「おい、ラン」
「……、」
「聞いてるか」
「……嘘」
俺の声が届いていないのか、ランはずっと慰霊塔を見つめていた。
……いや、違う。俺は見間違えていた。ランは慰霊塔すら見ていない。視界の情報を処理する余裕すら、今のランには無かったのだ。
ここまで精神的に弱っていくランを、俺は初めて見たせいだろうか。頭は動くのに、身体が言う事を聞いてくれなかった。
普通じゃないと分かっているのに、どうして何もしてやらない。
「やだ。もう嫌。死にたくありません……助けて」
「ラン、どうした。助けてってどういう事だ」
決して強くはない彼女の握力が、現実に縋るように必死に俺の肩を掴んでいる。
緊張はやがて震えに変わる。恐怖を振り払うには心許ない小さな震え。それがランの精一杯の抵抗だった。
――――あの時も、そうだったのだろうか。
「嫌です……もう痛いのは嫌。あたしは何もしてません! やだ……来ないでください!」
「おい、何を言ってるんだお前! しっかりしろ!」
視界の隅のランの顔が青褪めていく。ありもしない何かに苦しめられているのは明白だった。
魔術で誰かに干渉されたか。いや、魔術の痕跡は慰霊塔には無かった。いくら本人が気にしていても、ここにランを連れてきたのは間違いだったのか。
――――違う。今はそんなのどうでもいい。ぐるぐると巡る思考を全て消して、俺がやらなければならない事を見据えるべきだ。
遂に俺から離れて、ランは力無く宙を漂った。自由になった俺は漸くランを見る。
ランは今、この時間には居なかった。泣きだす事さえ出来ない恐怖感と、ありもしない罪に呑まれ、正気を失い掛けている。屋上での俺も、こんな感じだったのだろう。
そう思えば、考えるより先に身体が動いていた。さっきまで動かなかった身体が嘘みたいだ。
『馬鹿だな』。自分が自分を笑っている。考えるより前に動くなんて愚者のする事だと、心のどこかで嘲っていた。
いいよ。そういうのはもういい。そうやって俺を支えてくれたランに助けられたお前が、そんな事を言う資格は無い。
それでも理由が欲しけりゃくれてやる。目の前で苦しんでいる女の子は、お前が契約した女の子だぞ――――まだ目の前に居るってのに、お前が助けなくてどうするんだ。
「ラン!」
必死に手を伸ばす。ランの手を掴んで、力一杯引き寄せる。お前がぐらついた時、どうにかするのは俺の役目だ。
『女の子が傷付いていたら、強引且つ優しく抱きしめるものですよ?』。
何時かの記憶がノイズ交じりで蘇る。うるせえな、一々注文多いんだよ。
ランを思いっきり、壊れないように優しく抱きしめた。お前が俺にそうしたように、今度は俺がお前を。
「大丈夫だ。お前はここに居るだろう。……俺の傍を離れないんじゃなかったのか」
「……ぁ」
ランの小さな声を聞いた。
あぁ、これから何て声を掛ければいいんだ。どうすればランは俺の傍に居続ける。
とにかく何かを伝えたくて、何も考えられないまま俺は続ける。
「俺が居れば何となるんだろう。一人ぼっちは辛いんだろう。だったら一緒に居ろ。昨日約束した事も忘れたのか」
「ます、たぁ……?」
ランは朧げな目で俺を見上げる。
薄青の瞳はどうやら今を認識してくれているようだ。
「そうだ。やっとこっちに気付いたか」
何故だか、ランを離したらまたどこかに行ってしまうような気がして。俺は力を緩める事が出来なかった。
ランは苦しかっただろうに、何も言わなかった。悪夢から覚めた子供の様に、俺の腕の中で身体を擦り付けている。まるで猫の様だと、飼った事も無いくせに思った。
青い顔のままのランが、消え入りそうな声で俺に告げる。
「……嫌な夢を、見ていました」
「……きっと慰霊塔の霊達の念にでも中てられたんだろ。気にするな」
「…………かも、しれません」
腕の中で俺にしがみつくラン。
その手の内の中にある感情は、一体何なのだろうか。
恐怖か、懇願か、謝罪か。それのどれであったって、お前が置いていっていい感情なんだ。
「お前の言う通り嫌な夢だ。忘れちまえ」
弱々しく笑うランは、現をしっかりと生きている。
生きている存在に干渉出来るのは生きている相手だけだ。死者を想って狂うなんて虚し過ぎる。
生者と死者は交わらない。生者は死者と交わって、何かを得てはいけないから。
昼休みが終わる鐘が鳴る。当然だが、亡者の学園が始まる鐘の音と同じで酷く腹が立った。
「……授業、始まってしまいますよ?」
そんな事、どうだっていい。
「鏡が無いのが残念だな。そんな血色悪い精霊に周囲を飛ばれちゃ、俺は魔術師じゃなくてネクロマンサーだよ」
あと五分で五限が始まるが、別に授業を休んだ所で気にするクラスメイトも居ない。後で適当に理由をでっちあげて、暗示でも何でも使ってやればいい。
今はランを休める事が最優先だ。これは魔術師としても、俺としても、当たり前の判断だろう。
ランが手首から先だけを俺の背中に回す。五限が始まるまでの僅かな間。俺達はそうしていた。
◇
ごめんなさい、マスター。
あなたに嫌われたくなくて。あたしは、嘘を吐きました。
◇
「それで、この学園の生徒ではない彼女を保健室に?」
事務机に向かっている上桐は、そうベッドの傍に立っている俺に確認を取ってくる。相変わらずの敵対心を感じさせない柔和な笑みは俺の神経を逆撫でするが、俺はじっと堪えて頷いた。
「保健室は具合が悪くなった人間が来る場所だろ。昨日のお前の寄合所染みた使い方よりは真面だ。文句あるか」
「ないね」
上桐はコーヒーを飲みながら、何て事ないようにノートパソコンのキーボードを叩く。タイピングの音に舌打ちを紛れ込ませる。俺は静かに視線を下ろして、周囲をカーテンで仕切られたベッドで眠るランを見た。一応、寝顔は穏やかだ。魘されたりもしていないし、汗を掻いている様子もない。安定はしているとみていいだろう。
時刻は既に六限の終わりに差し掛かっている。五限が始まった際に保健室に運んだきりランは直ぐに眠ってしまったから、もう一時間以上眠り続けている。相当な精神負担があったのだろう。
当然、ランは実体化してこの学園の制服になっている。そうしなければ俺以外の誰にもこの学園の人間には認識出来ないし、服装だって怪しまれる。
「それにしても、驚いたよ。まさか深花君がランさんを抱えて駆け込んでくるなんてね」
「駆け込んできた覚えはない。お前白昼夢でも見てたんじゃないか?」
ふん、と鼻で笑って威嚇してみれば、笑い声で返された。まるで『そうじゃない』と告げられているようで不快だった。
仕方が無かった。これだけ消耗しきったランを、あんな空き教室の段ボールに寝かせるわけにはいかなかった。
「いや、たとえランさんを休ませるベッドが目的だったとしても、君が僕を頼るのは本当に珍しいと思ったんだ」
「……ランの具合が悪くなったのは俺の責任だ。たとえそれで俺がどんなに不快な思いをしたとしても、俺はランを気遣う責任がある」
俺は自分の右手の人差し指と中指を見る。ベッドに眠るランの左手と繋がれている。眠る前に、ランがそっと繋いできた。
心細さを紛らわす為だったのだろう。俺はそれを振り払う事は出来なかった。
ランの熱も、感触も。その全てを、今は感じていたかったから。……安心したいのは、俺の方だったのかもしれない。
そんな俺とランを見て……いや、ランはカーテンで見えていないだろう。ともかく俺達を見て、上桐は真面目な表情でこう言った。
「……君は。ランさんの事が、自分を曲げてもいい程大切なんだね」
――――その言葉だけは、お前から聞きたくなかった。俺をこういう風にしたのは、誰だったかお前は知っている筈なのに。
怒りは湧かない。唯虚しさだけが俺達の間にある。
こんな時あいつが居れば、直ぐ様間に入ってくるのだろうか。
でもそれはもうありえない事だ。もう終わった事だ。唯忘れなければいい、思い出さなくていい事なんだ。
「……ランを起こすわけにはいかない。殴るのは勘弁してやるよ」
「それは助かった。腕っぷしじゃ君に敵う気がしないからね」
困ったように笑う。その笑みにどんな意味が込められているのかなんて興味が無い。
意味を知りたいであろう相手はもう居ない。もう二度と会わない。
「そうだ、七不思議の調査はあれから進んだのかな」
上桐は急に話題を変えてきた。別にこれ以上会話をする気も無かったのだが、多少は得るもののある話題になったので良しとしよう。
「特に進んでいない。お前に訊いた“走り続ける少年”の事もさっぱりだ。もしかしたら本当に、ハシリドコロをキメてただけかもしれない」
「ハシリドコロは唯の毒だけれど、薬物は怖いよね。深花君もランさんも、そういった誘惑には乗らないようにね。……生きていればどうにかなるけれど、死んでしまう事だって珍しくない」
「は、今更保健の授業かよ。そういうのは夏休み前の全校集会で聞いたぜ。大体、よっぽどぶっ飛んだもんじゃなければ薬も毒も似たようなもんだ」
「そうだね。用法用量が定められているのはその為だ。飲み忘れたからと言って――――おっと」
俺と上桐の会話を遮るように、六限終了のチャイムが鳴った。
教室ではこれからホームルームをして、放課後に入る。
上桐は視線で俺のこれからを問うてきたが、俺の答えは決まっている。
「教室には戻らない。ランを放っておけない。目が覚めたら出ていく」
「そう。じゃあ、僕は職員会議があるから。鍵は開けたままでいいよね」
そう言って立ち上がり、保健室から出ていこうとする上桐を呼び止める。
「おい。生徒だけに保健室使わせる気かよ。監督責任はどうする気だ」
「君が居るなら問題ないよ。信頼しているからね。以前もあった筈だけれど?」
「あれは――――もういい。行け。お前が帰ってくるより先に出ていく事になったら、養護教諭不在の札ぐらいは掛けておいてやる」
「ありがとう。頼んだよ」
そうして上桐は本当に保健室を出て行った。
残された俺は、ランが眠るベッドに腰掛ける。何だか疲れた。身体より心が疲れるのを分かって、ランを保健室に運んできたのは俺なのだが。本当にもう、仕方の無い奴だと思う。
変わらず人差し指と中指は握られたまま。俺とランは繋がっていた。
人物メモ
魔術師。
ランを助ける事に成功した。
ランチ
お昼代で契約した精霊。
慰霊塔に近付いたら具合が悪くなった。もう近付けない方がいいだろう。
現在は保健室のベッドで眠っている。
この学園の養護教諭。
相も変わらずランを黙認した。むかつく奴だが、今回だけは礼を言うべきだろう。