お昼代契約ランチちゃん   作:昼飯用

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19.アリスが謡う恋の唄

九月二十一日。調査四日目。

既に亡者の学園の鐘が鳴っている。反転した魂達の登校も終わっており、もう放課後の時間帯だ。

一応確認してきたが、ジャックナイフは登校してこなかった。俺の読み通りなら、三葉の魂を掴む取っ掛かりが消えた事で、亡者の学園に引っ張られなかったのだろう。

その事実を知ったランは素直に大喜びをしていた。まぁ、これで俺達の目的の達成の第一歩が確定したのだ。気持ちは分からなくもない。

 

「さぁ、マスター。行きましょう!」

 

そんなわけで、今日も制服姿のランはやる気を漲らせていた。

俺も暇潰しに『今日の簡単時短晩御飯』を読んでいたが、このやる気に応えないわけにもいかないだろう。

本を仕舞い、立ち上がってからこれからの予定をランと確認する。

 

「今日は図書室までアリスに会いに行く。昨日のジャックナイフと手順は同じだ」

「はい、分かりました。……スプリンターさんはいいんですか?」

「今日の所はいい。もうこっち側であいつの情報は得られない。……あいつは何だか、ジャックナイフとスプリンターとは毛色が違う気がする」

 

言っている事があの二人と通じている部分はある。あいつが誰かの反転した魂である事は疑いようがない。

だが、何だろう。スプリンターからは負の感情を感じない。この亡者の学園へ登校する程の悩みを持っている筈なのに、悲しみから繋がる感情が『楽しい』だった。

スプリンターがどういう思考回路をしているかはともかく、あいつがどういう悩みを持ってスプリンターになったのかを掴まなくては、こちら側ではどうしようもない。

後の事に気を取られて今やるべき事を失敗しては、笑い話にもならない。今はアリスに集中するべきだろう。

 

「そんな事より、アリスを説得する勝算はあるのか。結局あの後殆ど会話してないぞ」

「お話する事が全てじゃないですよ。それに、勝負をしに行くわけでもありません」

「まぁ、お前がそうだって言うならそうなんだろうな。今更俺が口出しする事でも無い」

 

事実、ランはジャックナイフを説得している。それは俺が考えもしなかった方法で、俺には出来なかった手法だ。十分信頼に値する功績だ。

そのランが言うのだから、ランなりの思惑があるのだろう。そんな意図を込めて告げた言葉は、ランにとっては特別な意味を持つらしい。

 

「はい。え、と……マスターから信頼されて、嬉しいですよ?」

「そりゃ良かった。俺もお前が信頼するに足る相手になってくれて助かってるよ」

 

はにかむその表情を見ているのがどこか照れくさくて、俺は思わず意地の悪い返しをする。……案の定ランは不満そうに頬を膨らませていた。

 

「何ですか……マスターは素直じゃないですね。直ぐに意地悪言うんですから」

 

そんな事を言われると、また意地の悪い事を言ってやりたくなる。

 

「悪かったな。そんな事言ってるけど、お前、俺が素直になったらどう思う?」

「……少し、怖いですね」

 

「だろう?」と返してやろうと思ったが、それは叶わなかった。俺にしては本当に珍しい事に、ランの瞳の奥にある感情を、察してしまった。

――――何の冗談でもなく。ランはそんな俺を怖がっていた。

 

「マスターは好きとか嫌いとか以前に、自分のやらなきゃいけない事を優先する人ですから」

 

それは人の気持ちが分からない事にも繋がる。社会的にはそれで正しいのかもしれないが、人間的には失格もいい所だ。……そうでもしなければ、今頃どうなっていたか分からない。

――――だけど。

 

「……それは分からない」

 

今の問題はそこじゃない。ランを安心させてやる事が何より俺のやるべき事だ。

慰霊塔で具合が悪くなってしまってから、ランはどこか不安定になってしまっている。そんな相手を前に冗談でもおかしな事を言うべきではなかった。

 

「けど、たとえ俺がどうなっても、ランを信頼してる事に変わりはない。不安に思うなら、その事実だけを信じてろ」

 

そして俺はランを信頼しているなら、その信頼している気持ちを裏切ってはならない。ランが何をしても、ラン自身が考えて決めた事だ。俺はそれを受け止める責任がある。俺達はお互いが揺らいだ時にどうにかする存在だ。

優しさの欠片も無い無愛想な言葉だったが、それでもランには届いてくれたらしい。

 

「慰霊塔の時から思ってましたけど。マスター、女の子を慰めるの下手ですね」

 

からかうようなその言葉とランの笑顔に、何故か俺の方が安心していた。

……下手くそも何も、慰めるのなんてお前相手以外にやろうと思った事が無い。

 

「人の気持ちが分からない奴に何求めてるんだ。……調子は戻ったな。行くぞ」

「ふふ、はーい」

 

二人して廊下に出て、図書室へ向かう。渡り廊下から見える中庭には、たったの一本を除き、枝垂れ桜が咲き誇っていた。

ランは昼同様に慰霊塔を見たくないのか、唯前だけを見ていた。毎度毎度ここを通る度に意識させるのも気の毒だが、今日でアリスを説得出来ればそれも終わりになる。あと少しの辛抱だ。

そのまま特別棟の廊下を渡り、階段を上って図書室の前に到着した。アリスはジャックナイフの様に鍵を掛けるような性格ではないし、恐らくアリスも俺達が今日訪れる事は分かっている。

ランがこちらを見て頷いたのを確認して、俺は図書室の扉を静かに開けた。

 

「……異常は無いな」

「……本も散乱していないですし、本棚も倒れてませんし、大丈夫そうですね」

 

ランの言う通り、一昨日の方がよっぽど異常事態だった。

二人して何故かこそこそと入室する。初めて来た時と同様に、所々背表紙をひっくり返されて収められた本棚だけが異常な図書室だった。

 

「……ランお姉ちゃん、深花お兄ちゃん?」

 

部屋の中央まで行けば、俺達を呼ぶ声が窓際から聞こえる。

聞き覚えがある声は間違いなくアリスのものだ。その声色に哀しみの色はない。

声がした方へ進むと、いつもの場所にアリスは座っていた。月明りに照らされた茶色の髪の煌めきは、一昨日とは違って優美さを感じられる。

だが、それは痩せ我慢にも似た優美さだった。……目元に溜まった感情の雫を見れば、堪えている事ぐらいは分かる。

 

「待ってた。ようこそ」

 

アリスは童話の本を膝の上に置いていた。

俺達が来るまで暇潰しに読んでいたのだろうか。アリスは本を読む事に集中していると、俺達が図書室に入った事すら気付かない。どうやら俺達を待っていたのは嘘ではないようだ。

待っていたから、アリスは泣かずに済んだのだろうか。

 

「こんばんは。アリスちゃん」

「昨日は違う奴の相手をしてたから寄れなかった。今日はお前の相手をたっぷりしてやるよ」

「主にあたしがですけどね。この意地悪な人は置物です」

 

言うようになった。実際その通りだから反論はしない。

アリスは俺とランのやり取りを見てくすくすと笑った。……笑った陰で零れた涙は、俺は見なかった事にしよう。

 

「やっぱり、お姉ちゃんとお兄ちゃんは仲良しだね。……あの子と栗山君もそれぐらいで済ませればいいのに」

 

あの子、と言うのは蓬生の事だろう。

まぁ、確かにあの喧嘩は凄かった。司書の先生が事務室に籠っているのも、あの喧嘩に巻き込まれたくないというのが理由の一つにあるだろう。

ランはと言うと、別に苦笑いでもなく笑顔だった。にこにことアリスを見つめている。

 

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 

ランの様子に気付いたアリスが首を傾げ、俺の方を見る。残念ながら俺の方を見られても知らない。

問われたランはにこにことした様子を崩さぬまま、アリスへ語り掛けた。

 

「栗山さんとは一年生の頃から一緒だったんですよね。そういえば、出会いはどんな感じだったのかは訊いてないなぁって思いまして」

 

昨日のジャックナイフとの会話でもそういった前振りがあったのを思い出した。

ラン自身、魂からの方がそういった情報がありのまま得られると考えているのだろうか……と思ったが、多分違う。

俺みたいな駆け引きを視野に入れた思考でランは物事を考えていない。これは、ランなりのアリスの心に近付く為の布石なのだろう。どうせラン本人は無意識でやっているんだろうが。

ランがこちらを向いて「マスターも気になりますよね?」なんて訊いてくる。……一応、俺も同意しておこう。

 

「……あれだけ大喧嘩してるんだ。始まりぐらいは知っておいてもいいかもな」

 

思ってもいない言葉を言ってしまった。アリスもそれが分かってるのか、「お兄ちゃん、似合ってないよ?」と笑った。そういえば、猫被りは見破られているんだったな。

それでもランの望みに応えてくれるのか、アリスは記憶を呼び起こすようにそっと静かに目を瞑る。

……やがて、アリスは謡うように始まりの一節を呟いた。

 

「――――ある所に、曲がった事が許せない女の子がいました」

 

それが誰があるかなんて、今更問うまでもなかった。

蓬生(ほうじょう)和佳(わか)から“童話へ還るアリス”が生まれるまでの、彼女だけの御伽噺。

 

「女の子は周りからはとてもよく出来た子だと褒められていました。学校での成績は優秀で、責任感もあって、友達も多かったのです。そんな風に慕われている事は、女の子にとっても誇りでした」

 

聞いているだけで、どこか童心を擽るような心地良い声音だった。

まるで母親が子供へ語り掛けるような優しさで、アリスは蓬生の過去を語る。

……そこに含まれる微かな哀しみは、結末までにどれだけ膨らんでいくのだろうか。

 

「女の子が高校生になって、一人の男の子と出会いました。その男の子はとても不真面目で、女の子が一番嫌いなタイプでした」

 

どれだけ不真面目かは、昼の内に大体聞いた。

ランはうんうん、と微笑ましそうに頷きながら、屈んでアリスと目線を合わせて話を聞いている。二人の容姿差から鑑みると、今日学校であった出来事を妹に聞かされている姉の様だ。

まぁ、年下であるせいか、あっち側でもこっち側でもランは人見知りをあまり発動させずに接する事が出来ていた。そもそもの相性も悪くないのだろう。

 

「女の子は男の子を軽蔑していました。『不真面目なんて最低よ』。『関わりたくないわ』。そう思っていても、何かと男の子とは一緒になったのです。周りから担ぎ上げられ、あれよあれよと」

 

童話を語るような口調だが、口にする単語はしっかりとしていた。流石は蓬生の魂と言った所か。

思えば、口調と雰囲気が柔らかいだけで元から言葉自体はあまり幼さを感じるものではなかった。蓬生の中では童女と素直のイメージが直結しているのだろうが、俺達の前では既に本心を曝け出す事が出来ていた。

向こうで俺達相手に出来ている事をする為に、反転する必要も無い。俺達ではなく栗山と出会ったのなら、恐らくは飴玉の様な言葉遣いになるのだろう。

 

「そうして一緒にいる内に、女の子は男の子と喧嘩を繰り返します。だけど、男の子と喧嘩をしている内に女の子は気付いたのです。女の子は男の子を責める為に注意をしているんじゃなくて、男の子の今後を心配して注意をしていたんだと」

 

女の子――蓬生の心配は尤もだった。自らの自己管理が出来ない人間が真面な進学先や就職先を選べるとも思えない。

だが、栗山は蓬生から注意をされると反発してしまう。それが喧嘩に発展して栗山との仲が縮まらない事が蓬生の悩みだった筈だ。……厳密に言えば、素直に好意を伝えられない事だったか。

 

「どうして心配をしてしまうのか。その答えは簡単でした。女の子は知らず知らずの内に、男の子へ恋をしていたのです」

 

駄目な奴程気になってしまう性質なのだろうか。まったく持って理解出来ないのだが、そういう恋慕もあるのだろう。

ジャックナイフの信頼から来る不満といい、この亡者の学園では俺の知らない世界をまざまざと見せつけられる。

こうして人と人のやり取りの中で生まれる複雑な感情は、俺には縁遠いものだった。

 

「恋を自覚した女の子はもう止まれません。喧嘩の中で育つ気持ちは、女の子を焦らせていきます。『どうして素直に仲良くしたいって言えないの!』。『ずっと喧嘩しかしてこなかったんだから、どう話していいか分からないじゃない!』。それからも、女の子の恋に素直になれない自業自得の板挟みは続きます。……ここから先は、お兄ちゃんとお姉ちゃんが見たような事の繰り返し。その度に抱えた哀しみを、あたしは涙で溶かしていくの」

 

まるで本を閉じるように、アリスは手の平を合わせる。どうやら救いの無い哀しい御伽噺は終わりらしい。

御伽噺を聞き終わって、俺にも一つ分かった事がある。

蓬生は栗山と喧嘩をしてしまうわけじゃない。喧嘩をするしかなかったんだ。それだけが蓬生が栗山と取れるコミュニケーションだったんだから。

ジャックナイフが言っていた、『いい子ちゃんの条件』とは真逆だった。蓬生は道を踏み外す勇気ではなく、正しい道を選び続ける勇気を持っていた。

それで良かった。何もかもを間違えていないのだから、他の選択肢なんて探す必要なんてない。

正解の選択肢しか知らず、されどその正解は自らが望む正解ではない。そんなどうしようもない袋小路に、蓬生は立っていた。

その袋小路に建ち続けている事で溜まった蓬生の心の蟠りが、アリスの哀しみとなって涙に変わる。

少なくとも俺の見解ではそうだった。説得する為にアリスに掛ける言葉なんて見つからない。

だが――――ランは、未だに微笑んでいた。どこかに勝算があるのか。そう思った矢先。

 

「いいお話でした。ですから、そのままでいいと思いますよ?」

 

さらりと告げられたその言葉に。流石に言葉を失った。同時に、心の内から楽し気な感情が湧き出てくる。

相変わらず、こういった時には俺の予想だにしない事を口にしてくれる。

アリスも信じられないものを見るように呆然としている。アリスを揺さぶる作戦かとも一瞬疑ったが、ランに限ってそんな複雑な手を使わないのは分かっている。

つまり、ランは本気で『そのままでいい』って言ってるんだ。……分かっている。俺はランのそういう所に期待していた。

 

「え、だって喧嘩ばっかりしちゃうんだよ? 仲良くなれないんだよ?」

「そんな事はありませんよ。和佳ちゃんと栗山さんはとっても仲良しです」

 

俺にはとてもじゃないがそうは思えなかったのだが、ランにはそう見えたようだ。

 

「あたし、見てましたから。喧嘩をしている時の栗山さん、笑っていました。和佳ちゃんは気付かなかったかもしれませんけど、凄く楽しそうでしたよ?」

「楽しそう……?」

 

……ランに言われて、俺も思い出した。

あの図書室での大喧嘩の中で、あんなにも言い合っていたのに栗山は帰ろうともしなかった。寧ろそれが続くように手を抜いて、蓬生の反感を買っていた。

蓬生にとっては迷惑な話だろうが、あいつは楽しい事を終わらせたくなかったんだろう。

 

「きっと、和佳ちゃんが自分の事を心配してくれている事も分かっています。でも、素直に気持ちを受け取る事に慣れてもいないんです。和佳ちゃんが栗山さんと喧嘩しかした事が無いのと同じで、栗山さんだって和佳ちゃんと喧嘩しかした事がないんですから」

「……成程。素直じゃないのはお互い様ってわけか」

 

呆れてしまう程単純だった。お互い、どうしていいか分からなかっただけ。

笑うとか泣くとか、表面に出る事からしか感情を読み取れない俺には見えない世界だった。人間関係の表面しか見る事が出来ない俺に、こんな答えは一生見つかる事は無かっただろう。

アリスはランの言葉の意味を一つ一つ受け取って、意味を考えていた。考える事で、ここでアリスでいればよかった魂は揺れている。

 

「……このままを続けて、本当に幸せな結末が待ってるのかな」

「きっと待っています。今は喧嘩にしかならなくても、二人は喧嘩をしたいわけじゃありませんから。どちらかが我慢できなくなった時が、新しい関係の始まりです」

 

ランの言葉に、アリスはおかしそうに笑う。

その笑顔に誘われるように、微かな煌めきがアリスを包んでいった。

 

「だったら、それはあの子の方が先。……あの子、我慢出来る程大人じゃないから」

 

昨日のジャックナイフの時と同じだ。煌めきが強くなる度に、魂を掴むために必要な心の弱さが消えていく。

 

「じゃあね、ランお姉ちゃん、深花お兄ちゃん。もう行かなくちゃ。童話の終わりは――――ハッピーエンドが、好きだから」

 

アリスも自分の身体に起きている異変の意味を分かっていた。

アリスを包む煌めきが一際強くなり、童女の姿が消えていく。

……かくして。童話が綴られた本は閉じられ。自らが読んでいたハッピーエンドを夢見て。

“童話へ還るアリス”は、笑いながら現の物語へ還っていった。

 

「……終わったか。結構スムーズだったな」

「本人の意識じゃなくて、時間が解決してくれる話でしたから」

 

空気へ溶けるようにして消えていったアリスを見送って、俺とランは顔を見合わせた。

ランは安堵をしたように息を吐いていた。そりゃそうだ。七不思議の中で、ランはアリスの事を一番気に掛けていた。

それを無事助けられたのなら安堵して然るべきだろう。その反応は、人として当たり前の事だった。

とにかく、今日やる事はこれで終わりだ。ランもそれは分かっている。

アリスに目線を合わせる為屈んでいたランは立ち上がり――――信じられない物を見たかのように目を見開いた。

ランの様子に気付いた俺は彼女の視線の先に目をやる。……成程、確かにこいつは刺激が強い。

 

「マスター……あれ」

「あぁ――――忘れたりなんかしない」

 

今の言葉がランの現実を受け入れられない呟きに対しての答えなのか、自分でも分からなかった。

アリスが消えた事によって拓けた視界。特別棟の四階に位置する図書室の窓から見える、教室棟の屋上。

そこへ漂う一人の少女。月へ浮かび、月を見つめ、月に笑む。

一昨日俺の腕の中で自殺した“月に笑む少女”は――――今日も変わらず、血に塗れた歪な笑みを浮かべていた。

 

 

          ◇

 

 

亡者の学園から撤退して、マスターの住居であるアパートの一室に帰ってきた。

あれから、あたし達は“月に笑む少女”を回避して空き教室へ戻った。マスターは『今は会わない方がいい』と言っていたし、あたしだって“月に笑む少女”にマスターを会わせたくはなかった。

あたしもマスターも、それから“月に笑む少女”の事を話さなかった。

マスターはお風呂と簡単にも程がある晩御飯を済ませ、定時報告も済ませている。

いつもだったら後は寝るだけなのだけど、今日は違う事をしていた。

 

「……明日の晩御飯は決まりましたか?」

 

ふよふよと浮きながら、マスターに訊いてみる。

 

「結局決まってない。何が簡単だよ、鍋で煮込んだ方が百倍早いぜ」

 

マスターは布団の上に座って壁に寄り掛かりながら本を読んでいた。その名も『今日の簡単時短晩御飯』。あたしが学園の図書室で見ようとしたお料理の本。

碌に晩御飯を食べないマスターの事を心配して簡単と銘打っている本を選んだのだけど、マスターは意外と面倒くさがりだった。

拘りが無い分、自分だけで完結してランクを落として支障が無い物はとことんランクを下げる傾向があるのだろう。

 

「鍋って……マスター、今は九月ですよ? すこーしだけ、お家で鍋は早いんじゃないですか?」

「何時どこで食ったって一緒だよ。寒くなったら鍋なんて固定観念だろ」

 

普段理屈っぽいのに、こういう所だけは感覚派なんだ。

それがマスターにも好き嫌いがあるって証拠になって、あたしは呆れながらも嬉しくなってしまう。

 

「確かにそうですけど……一緒に見てもいいですか?」

「お前が借りろって言ったんだろ、好きにすればいい」

 

借りろ、なんて言ってないんだけど、借りてくれたのはマスターがあたしの気持ちを汲んでくれたからだろう。

あたしはマスターの隣に行って、一緒に『今日の簡単時短晩御飯』を見る。

そんなに面倒そうな料理は掲載されてなさそうだったのだけど、本当に面倒なんだろうか。

 

「……あ、これとかどうですか。唐揚げですよ唐揚げ。男の人好きでしょう?」

「肉を漬け込む時点で面倒くさい。衣を付けて揚げる意味あるか? 煮込めよ」

「えっと、これはどうです? 鱈に片栗粉を塗して焼くだけですよ」

「他の付け合わせの事を全く考えていないだろ。鍋にすれば全て賄えるぞ」

「……あ、そうですね。もう鍋でいいです。鍋最強でした」

 

マスターの鍋への執着があんまりにも酷過ぎたので、もうそれでいい事にした。

僅かだがマスターが得意気な表情をしてたのが少しおかしくて、思わず笑ってしまった。

 

「ふあぁ……何だよ」

 

もう見る気が無くなったのか、本を閉じたマスターが欠伸をした後にこちらをじろりと見てくる。

 

「いーえ、別に。じゃあ明日はお鍋ですね。……そういえば、明日はお休みですけれど、調査の方はどうするんですか?」

「……行くよ。とりあえずはスプリンターが誰なのか突き止めないと……」

 

マスターがそう言うのなら、何か方法も考えているんだろう。そういった推理事はマスターはとっても頼りになる。あたしも頑張って手伝おう。

さて、明日の予定が決まればあとは明日に向けて眠るだけだ。時刻はもう二時を回っている。昨日だったらマスターはもう眠っている時間だ。

よくよくマスターを見てみると、目を瞬かせている。

 

「マスター。そろそろ眠りませんか?」

 

朝起きて、日中は学校生活を送って、放課後も七不思議の調査をして、夜には日付が変わった後も亡者の学園に赴いているのだ。疲れが溜まって当然だ。

明日も学校に調査に行くのなら、きちんと睡眠だけは取った方がいい。マスターが夜更かしをし過ぎないようにこうして床に就かせるのも、あたしの役目だと思ってる。

 

「……ん」

 

眠たくなると思考力が極端に低下するのか、マスターは普段の様子からは考えられない程の子供っぽい返事をして布団に横になった。

唯横になっただけなので、掛布団を掛けていない。これでは体調を崩してしまうだろう。

 

「もう、ちゃんと布団を掛けないと駄目ですよ」

「……、」

 

もう眠る事に思考を支配されてしまっているのか、マスターは一向に掛布団を掛けようとしない。

仕方ないなぁ、もう。……なんて。そんな事を思いながら、あたしの頬は緩んでいた。

掛布団を優しく掛けてあげると、マスターは心地良さそうに目を瞑る。

こうなったマスターは直ぐに眠りに落ちていく。余程疲れているのか、それとも気を張っているせいで気を緩めたら眠くなってしまうのか。

眠りに落ちていく直前、マスターはふと訊いてきた。

 

「……そういえば、アリスの悩み。随分慣れた風に話してたな」

「……それはそうですよ。素直じゃない人の相手なんて、あたしが契約してからずーっとしてきた事ですから」

 

答えても、マスターは返事をしなかった。返事代わりに寝息が聞こえてきたのを確認して、あたしは一先ず安心する。

“月に笑む少女”に関わると、マスターは少し様子がおかしくなる。彼女が自殺した時の取り乱しようは言わずもがな。初めて見た時、ぼーっと見惚れて、剰え手を伸ばそうとしていた。あんな迂闊な行動、普段のマスターからはありえない。

今日だって、図書室から彼女を見た時に掛けられた言葉が、あたしに向けての言葉だとは思えなかった。マスターが遠くに行ってしまう気がして、こうやっていつも通りに一日が終わってくれた事には安堵しかない。

 

「……今日はいい夢を見れるといいですね」

 

だから、後はいつもの願いを告げて。

その願いが現実になる事を祈りながら、マスターの寝顔を眺めていた。




人物メモ

深花(しんか)芳乃(よしの)
魔術師。
レシピ本を借りた末に、作るのは結局鍋。

ランチ
明日の昼飯代で契約した精霊。
アリスを無事説得し、事件解決にまた一つ貢献した。
返答を聞き損ねたが、アリスの悩みを慣れた風に――――もう教えませーん。時間切れでーす。

アリス
何個か足りない七不思議の一つ、“童話へ還るアリス”。
ランによって説得された事により、亡者の学園に登校させられる事はもうないだろう。
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