九月二十二日。調査五日目。
俺とランは再び保健室前までやってきた。もう放課後の時間帯だが、今日は休日だ。
午前丸々と午後を使って洗濯と掃除を済ませたりしていると、亡者の学園とのギャップを感じて変な笑みが零れた。協会に所属し、異能が絡む事件と関りながら学生をしているような奴を、俺は殆ど知らない。日常と非日常を繰り返して平気な顔をしている奴が居たら、そいつは俺よりよっぽど人格が破綻している。
過去に秋月さんと何度か事件を解決したのだが、内容をあんまり憶えていないのは俺の防衛本能が働いたおかげかもしれない。
「それじゃ、開けますね」
正直蹴破ってもいいのだが、幾ら上桐が嫌いでも学園の備品を破壊するのは忍びない。
いつも通り無条件解錠が得意なランに頼って開けてもらう。
昨日からやたら距離が近いランは、朝起きたら更に酷くなっていた。朝からずっと服の袖やら端やらを摘ままれている。眠る前に確認したら本当に平気そうだったので安心していたのだが、何か嫌な夢でも見たんじゃないだろうか。
だが、ランの様子は昨日と変わらないので、大丈夫の可能性も高い。やはり、年頃の少女は複雑なのだろう。
おかげでランが開けようとしているこの場面でも、俺はランの直ぐ隣に居る。別に嫌でも何でもないのだが、今日が休みで本当に良かった。三葉辺りに見られたら何を言われるか分かったものじゃない。
ランが解錠しようと鍵穴に触れ、ぴたりと止まる。
「もう鍵が開いてます。上桐先生は確かに閉めて帰っていたんですけれど……」
「今日も上桐が居るんじゃないのか」
自分でも嫌そうに言ったのが分かる可能性を、ランは首を振って否定した。
「いいえ。今日は本当にお休みだって言ってました」
だとすれば、他に保健室に用がある奴が居るわけか。
それはそれで面倒だ。体力テストの結果を見る為の言い訳を適当に考えなければならない。
しかし今日を逃しても厄介だ。平日だと普通に他の生徒が保健室を利用する。上桐一人なら抱え込めるのだが、一般生徒相手だと色々と無理がある。
いざとなれば色々と説得して保健室から退場してもらおうと決めて、保健室のドアを開ける。
「失礼しまーす……あれ?」
律義に挨拶したランが疑問の声を出す。
それもその筈、態々休日に保健室に居た暇人は教員ではなかった。
長椅子に座っているその茶色いポニーテールには見覚えがあった。
「あんた達……」
振り向いた女生徒は
九月十九日に保健室の留守番をしていた時に知り合った。多少は印象に残っていたので、今度は名前も憶えていられた。流石にもう忘れる事は無いだろう。
「どうしてここに居る。上桐……先生は休みだぞ」
三年の久城が休日の学園、ましてや保健室に居る理由は無い。
この堂々とした奴にカウンセリングが必要とも思えなかった。実は繊細な奴だったと言われても驚かない程度にはお互いの事を知らないが、第一印象としての久城は堂々とした女だ。
だが、何故保健室に来たのかは俺達にも言える事だった。事実久城は訝し気に問うてきた。
「そっちこそ、どうして保健室に来たの?」
長椅子に座ったまま視線だけをこちらに投げた問いに対して一瞬だけ考えて、俺は名案を思い付いた。
上桐に頼まれ事をされた事にしよう。どうせあいつは後で確認を取られてたとしても、辻褄を合わせるに決まっている。
「上桐先生に頼まれた。陸上部の体力テストの結果を調べてくれってな」
「体力テストの結果……? どうして?」
「学園の七不思議の事は知ってるか?」
「あぁ……確か、“走り続ける少年”だっけ? 知ってるよ」
陸上部、という所から七不思議の内の何を調べているのかも察してくれたようだ。
学生の間で七不思議が浸透している事は分かっていた。一先ずこれで誤魔化してみよう。
どうやら、俺も行き当たりばったりが身に染みてきたらしい。魔術師が聞いて呆れる。……悪い気はしないが。
「噂だと、そいつは陸上部のユニフォームを着ていたらしい。だから一応、陸上部の事を調べておこうと思ってさ」
適当にも程がある嘘だが、これぐらいが落としどころにしてはちょうどいいだろう。
事実、久城はこれで納得してくれたようだ。意外そうにこちらを見てはいるが、特別怪しんではいない。
――――感じるのは、理由の分からない羨望の情だ。
「ふーん。あんた、意外と可愛い事好きなんだね。そういう噂話、興味無さそうなのに。……あぁ、ランの方に付き合ってんの?」
「そ、そ、そうですよ? 芳乃君にはお手伝いしても、もらってるんです」
別に合わせる必要も無いだろうに、ランはとてつもないぎこちなさで嘘を吐いた。
誰がどう見ても嘘だったが、それが真実であるかどうかは興味が無いようだ。久城は特に追及しない。本当に助かった。
「まぁいいや、楽しそうだし調べ事なら付き合うよ。体力テストの結果だっけ?」
個人情報の守秘義務に関する疑問が欠片も存在しないらしい。月島との関係を公言して平然としているのを鑑みると、久城は色々と道徳性を気にしない性格なんだろうか。
まぁ、気にしないでくれるなら気にしないでくれるで助かる。後の事は上桐が適当に誤魔化してくれるだろう。
ランは体力テストの結果が綴じられたファイルが入っている棚の鍵をこっそりと解錠し、あたかも最初から開いていたかの様に開けた。
「これ……ですかね」
ランがファイルを三つ抜き取って渡してきた。
背表紙には手書きで今年の年度と『体力テスト結果』と書かれている。一年、二年、三年に分かれていた。
今年の四月に測定された体力テストの結果は、この三冊に纏められているようだ。
「あった?」
「丁度いい、三人で分担しようぜ」
「いいよ。じゃあ、うちは二年かな」
二年のファイルがお望みだったので渡してやる。久城は礼を言うと、ファイルを開いてぱらぱらと中のデータを眺め始めた。
そのデータを見る速度は淀みない。まるで誰が陸上部か知っているかの様だ。
俺の視線に気付いたのか、久城は軽く笑う。
「あぁ。うち、今年の夏まで陸上部だったから。後輩の顔と名前ぐらい憶えてるよ」
そういえば、この間留守番を代わってもらう時に『陸上部に顔を出す』みたいな事を言っていた気がする。
三葉がそうだったように、久城も受験の関係で部活動を引退しているのだろう。俺とランは陸上部の連中を知らないので、素直に名簿を使わせてもらう。
長椅子に挟まれた机に陸上部の名簿を広げる。久城が座っていない方の長椅子に俺はランと座り、名簿に従って体力テストの結果を調べ始める――――前に。
「そういえば、何の項目を調べればいいんですか?」
ランがそんな事を訊いてくる。久城も「そういえばそうだ」とでも言いたげにこちらを見ていた。よく考えて見れば、昨日は保健室まで戻ってきたら桜の話をして帰ってしまった。調べ始めてからランには教えようと思っていたし、結局教えず終いだった。
唯、久城の前でどう説明したものか。当然久城は七不思議の連中の正体が、この学園の生徒の魂が反転した姿であるとは知らない。そもそも魔術の事さえ知らないのだから、“制隠協会”の人間としては教えるわけにもいかなかった。
いや、待てよ。別に魔術を絡める必要も無いか。今この場では、“走り続ける少年”は陸上部の誰かという事になっている。正体は別に関係ないのだから、何を調べるかを教えるのは構わないだろう。
問題はランがうっかり亡者の学園での経験を漏らす可能性がある事だ。素直に教えると何かしらミスを犯さない保証は無い。
久城に教えていく中で、ランにそれとなく俺がどうしてその疑問に辿り着いたかを伝える必要があるだろう。
恰も今内容を考えているかの様に、暫し考えるふりをする。たっぷり時間を取った後、俺は久城に語りかけた。
「陸上部の連中って全員足が速いのか?」
久城の前で何も言えないのであれば、久城自身で何かに気付いてもらえばいい。答えなど分かりきっている質問を投げ掛ける。
俺の雰囲気で目的を察したのか、ランは苦笑いを浮かべ始めた。
「いや、必ずしもそういうわけじゃないよ。砲丸やハンマー投げ、棒高跳びは速さのイメージないでしょ? そもそも単純に走るにしたって、短距離と長距離じゃ速さの定義も違うしね」
厳密に言えばもっと違ってくるのだろうが、一般的なイメージで言えばそういう答えになるだろう。
俺が久城に何を言わせたいのか分からないのか、首を傾げて唸っているランを放っておいて続ける。
「じゃあ、短距離の男子がその辺の女子と殆ど同じ足の速さ、ってのはあり得ると思うか?」
「ないね。先ずありえない。それは女子が真っ当な人間じゃないか、男子が真っ当な人間じゃないかのどっちかだね」
どっちかではなく両方なのだが、当たりである。霊体同士の競争なんて、そうそう見れるもんじゃない。
ランは何となく察してきたのか、「おー」と感心していた。どうやら少しは俺の意図が伝わってくれたようだ。
「更に言ってしまえば、陸上部って少し走った程度じゃ息切れなんかしないよな?」
「してたら練習にならないね。基礎体力と怪我をしにくい身体作りは運動の基本でしょ。その為に走り込みや柔軟を徹底するんだから」
そこまで言うと、久城は「成程ね」と口角を上げた。
頭の回転が速い。何より悪そうな笑みだ。意外とこいつもこっち側かもしれない。
「その見られたらしい陸上部男子を突き止めるには、足の速さと持久力を調べればいいって事ね」
「そういう事かもな。頭が回る奴で助かったよ」
「何それ、白々しい。まぁ、調べるなら百メートル走と持久走の結果って事で」
呆れながらもどこか親愛を感じる笑みを浮かべながら、久城は再び結果を調べる作業に戻っていった。
俺も三年のファイルも調べようと思い開く。だが、ランはちょいちょいと俺の制服の袖を引っ張ってくる。
視線だけで答えると、ランは背筋を伸ばしてそっと俺に耳打ちしてくる。
「これって、あたしがスプリンターさんと駆けっこした時に気付いたんですか?」
俺は小さく頷いて答えた。
気になったの事柄は二つ。一つはスプリンターの足が遅い事。陸上部男子でありながら、女子のランと足の速さが殆ど同じだったのは明らかにおかしい。
もう一つはスプリンターのスタミナの無さだ。ランより多少はあったようには見えたが、およそ運動部の体力ではなかった。
ランとスプリンターの競争を傍から見ていたおかげで気付けた、スプリンターの異常点だ。数が多い陸上部から候補者を絞るには、これを手掛かりにするしかない。
ランにも何かしらの考えがあったのだろうが、ここまで読んでいたとは思えない。
「だって芳乃君の事信じてましたから、ぶいっ」
そんな俺の思考を察したのかランは俺から身体を離し、行き当たりばったりの結果を得意気な笑顔でピースサインをして誇る。
子供っぽいその仕草がどうにもおかしくて、小さく息で笑う。そんな俺の反応が面白くないのかランは膨れっ面になるが、それが本心でないのも分かっている。
「ちょっとお二人さん。見せつけるのもいいけど、うちだけに調べさせるのはないんじゃない?」
俺とランのやり取りに気付いた久城が、呆れ気味にそう言ってくる。
ランが耳打ちしてきたのに反応しただけだし、どうもこいつは俺とランの関係を勘違いしている。
「羨ましいって思っちゃうからね。堂々といちゃつかれるとさ」
「え、えへへ。そんな、いちゃついてなんて……」
「とりあえず総合病院行ってこい。お前の何が原因で勘違いしてるか分からないからな」
隣でだらしなくなってるランを放っておいて、久城の言う通り俺も調査に戻る事にした。
無視されたランが再び頬を膨らませて俺の肩を叩いてくる。今回は本気のようだ。
しかし肩を叩かれては視界が揺れて仕方がない。こっちはデータを見てるんだ。
ぱしぱし、と情けない音を奏でるランの手を片手で受け止めて握り、片手でファイルを捲る事にした。
横目でランの方を見ると、顔を赤くして撃沈していた。自分からはよく触れてきたりするのに、俺から触れられるのは恥ずかしいらしい。心構えの問題だろうか。
久城がにやにやとこちらを見ていた。楽しそうだなこいつ。まぁ、このまま放すとまた叩かれるのは目に見えている。暫くは拘束しておこう。
「深花ってさ、そういう所だよね」
「……で、ですね」
何か分かり合っているこの二人。……まぁ、ランと仲良くなってくれるなら悪い事じゃない。
そろそろ遊んでいる時間は無い。陸上部だってそんな遅くまで部活をしているわけじゃない。休日なので普段より早めに終わるのは予定表で確認済みだ。
「いい加減調べるぞ、片付けだってしなくちゃならない」
「は……はい。手は繋いだままで……」
「嫌なら放す。あと叩いてこないなら。視界を揺らされると文字が読めない」
「……じゃあ、叩いてしまうかもしれませんから」
そういうわけで、ランと手を繋いだままデータを調べる事になった。
久城はにやついたまま二年のデータを調べている。時折「くっくっ」と声を出して笑っている。
ランも顔を赤くしたままのだらしない顔で、一年のデータを調べている。
陸上部員の数が多いと言っても百人も二百人もいるわけじゃない。それを学年毎に分ければ更に人数は少なくなる。
程なくして全員が調べ終わり、ファイルを閉じる。
もういい加減叩いてこないだろう。ランと繋いでいた手を放す。久城とランの少し残念そうな声が聞こえたが気付かないふりをした。ランはともかく、久城は俺とランが手を繋いでいる所を見て何が楽しいんだ。
「……で、何か怪しい記録を持っている奴は居たか?」
因みに俺が見た三年の中には一人も居なかった。どいつもこいつも当たり前の様に速いし、体力だってある。記録を計測した当時は現役だったのだから当然だろう。
となれば一年と二年の中に被疑者が居る筈だが、久城とランは首を横に振る。
念の為にそれぞれ調べる学年を変えてもう一度調べたが、確かにおかしな記録はない。
二人もまた同様だった。だが、スプリンターの異常点はそこが一番目立った。魂の経験は肉体の経験に引っ張られる。ジャックナイフが林檎を剥く事が上手かったように、スプリンターはきちんと陸上の走るフォームを取れていた。それで走った経験が殆ど無いランと、足の速さとスタミナが殆ど同じ。
これがヒントになるのは間違いない筈なのに、何故見つからない。
「……待てよ」
「芳乃君?」
俺の名前を呼ぶランの方を向く。そこに居るのは一人の女の子だ。基本ふよふよと浮いていて、こうして人前に出る時には実体を持つ。
霊体が基本状態なおかげで走る事はほぼない。実体で俺と居る時も走る事はない。つまり走った経験が殆どない。走るフォームなんて当然素人だ。陸上部が普段から意識しているフォームとは天地の差だろう。
走るフォームを徹底してランより少し速いだけなら、そもそもそいつは男ですらないんじゃないか。
亡者の学園では、七不思議達の容姿は反転する。危うさの象徴として金色の髪と瞳を手に入れたジャックナイフと、素直さを表す為に幼い容姿になったアリスがそれを証明している。
「性別に意味は無い。男をひっくり返せば女になる」
「それって……」
ランの驚愕する一言に頷いた。あのスタミナの無さもこれで説明が付く。
陸上部でありながら走り込みはせず、運動する体力も普通の生徒とそう変わらないポジション。大体のイメージとして女子生徒が付いてる役職。
「マネージャーだ」
俺の言葉に久城が目を見開いてぐらついたのを、俺は横目で確認する。その視線に気付いたランが久城の名前を呼んだが反応は無い。
脳を揺さぶられたようにぐらつく久城は、やがて落ち着きを取り戻す。上げられた顔に残る感情は、混乱と納得が混在した不純物。
「……知ってるよ。うん。考えてみれば、そうだね。陸上部のマネージャーは何人か居るけど。深花が言っている内容にぴったりな子、うちは知ってる」
飽くまで噂でしかない七不思議。朧気な輪郭しか表さない特徴。それをひっくり返した末に見えた、全てが一致する被疑者。
そんなわけないと思いながら、それでも否定しきれない。その可能性を確かめに行くのか、それとも目を背けるのか。
「そろそろ陸上部の練習時間が終わるよ」
――――それはきっと、久城の中で天秤が傾いた合図。
正体不明のスプリンターへ迫る、始まりの一言だった。
人物メモ
魔術師。
発想を反転させてスプリンターの正体を陸上部の女子マネージャーだと推測した。
ランチ
お昼代で契約した精霊。
何故か今日はやたら近い。今回何かし――――これから、これからです!
三年生。元陸上部。
頭の回転はそこそこ速い。どうやらスプリンターの特徴と重なる女子マネージャーを知っているようだ。