お昼代契約ランチちゃん   作:昼飯用

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どうしてお前だけ七話も掛かってるんだスプリンター


25.スプリンターの辿る恋路

「よう、スプリンター」

 

グラウンドを走り続けるスプリンターに階段の上から声を掛けると、奴は足を止めて俺達を見た。

九月二十三日。調査六日目。午前零時過ぎに亡者の学園へと反転した穂叉(ほさ)学園のグラウンドに、俺達は居た。

 

「あ、深花先輩にラン先輩! お疲れ様です!」

 

目的は当然、俺達に向かって爽やかな笑顔を向けるスプリンターの説得だ。

スプリンターさえ説得すれば、俺達が関わった意思疎通が出来る七不思議は全て説得した事になる。

そうすればこの亡者の学園での調査は終わりを告げ、“結界”を解除する事で魔術師を炙り出す段階に移る。

 

「今日はどうしたんですか? 今度は深花先輩が競争するんですか!?」

 

どっちかと言うと俺に懐いているスプリンターが、期待に満ちた表情を俺に向ける。

走る事が好きなのは勝手だが、俺を巻き込むのは勘弁してほしい。

 

「いいや。用があるのは俺じゃない」

「こんばんは。今日も元気に走っていたんですね」

 

説得をする際のランは人見知りを殆どしない。答えを得た強さというものを、隣で居るだけで感じさせる。普段の俺の背中に隠れたり、傍から離れたがらないランを知っている身からすれば、それだけで信頼に値した。

それとは対照的に、俺と一緒にグラウンドへ降りていくランに、スプリンターは心配そうに声を掛ける。

 

「ラン先輩が走るんですか? 体調とか、大丈夫です?」

「気遣ってくれてありがとうございます。体調はもう大丈夫ですけど、今日は競争しにきたわけじゃないんです。……また無理をして、喘息が酷くなってもいけませんから」

「……っ」

 

ランの言葉にスプリンターは怯んだ。……俺が言うのも何だが、ランにこうして少しずつ追い詰められると迫力あるな。

正体を突きつける事によって驚かれるのも三回目。ランも流石に慣れたのか、澱む事無く話を続ける。

 

「今日初めて顔を合わせた人に、倒れた事があるって言われたんです。……その事を知っているのは、マスターとスプリンターさんだけですよ?」

 

証拠を突きつけられると、スプリンターは諦めたように笑う。

俺より身長が高い筈なのに、その姿はどうしてだかずっと小さく見えた。

 

「まさか、あっちの自分の事に辿り着くなんて。色々と違い過ぎませんか?」

「そういった細かい事は、あたしのマスターが推理をしてくれましたから。あたしはスプリンターさんと競争をしていただけです」

 

ランは自分は何もしていないかのように言うが、ランがスプリンターと競争していなければ正体は分からなかった。

今回の件でもしっかりとランは調査の役に立ってくれた。ま、それもこれもランが俺の事を信頼して行動を起こしてくれたからだが。

……本当。こうした頑張りを見せられたら、信頼するしかなくなるだろう。

 

「……そう、ですか。いや、はは。流石です、深花先輩」

 

俺の事は褒めているものの、その言葉に重みは無い。

紙切れの様に薄いその称賛を受け取る事はしない。月島の根底にある暗さを見た気がした。

ジャックナイフ、アリスと自らの現実からかけ離れた理想を見せられてきた俺達だが……成程。こうして見れば、結局。

 

「随分と自分の事を嫌っているみたいだな。まさか、性別までひっくり返すとは思ってなかった。おかげで大分苦労させられたぜ」

「……別に、自分の事は嫌いだとは思っていません」

 

絞り出すようなスプリンターの声に、ランは頷いていた。ランにはスプリンターの言いたい事が分かるのだろう。

真実はどうあれ、スプリンターが自らの性別を反転させたいと願ったのは事実だ。亡者の学園は登校した人物の性質を反転させるが、反転する性質の度合いは個人によって違いがある。

理想に基づいて風貌こそ変われど、ジャックナイフやアリスが反転させたのは性格だ。性別を反転させたいと願う程の悩みを抱えていたのはスプリンターだけ。

前者とは違い、既に関係を持っている相手との問題だからこその悩みである事が、そうまでさせたのだろうか。

 

「唯、玲先輩の事を考えると、どうしても思うんです。『どうして自分は、女に生まれたんだろう』って」

 

その疑問に答えなんて出ない。答えが出ないからこそ、こいつは亡者の学園に迷い込んだ。

そしてここに答えなんてないと知りながらも、夢の迷宮の中を彷徨い続けている。

 

「女じゃなければ、誰の目も気にする事なく玲先輩の事を恋人って言えるのに」

 

それは相手と繋がっているからこその弱さだ。きっと相手が大切であればある程、その柵は強くなるのだろう。

覚悟をしていないわけではなかったのだろう。だからこそ月島は久城への告白に怯え、久城は月島の告白を受け入れた。

揺らがない人間なんて仙人とそう変わらない。その人間の物語は終わってしまっていると言ってもいい。

 

「玲さんは志希さんの性別なんて気にしていません。お二人の関係は誰にも否定する事は出来ない筈です」

「口で自分達に直接言う人はそう居ないかもしれません。……でも、思う人は幾らでも居ます」

 

それは変えようのない真実だった。普通の人間が同性愛に一片たりとも偏見を抱かないのは不可能だ。傍観者を気取る選択をした時点で、そいつの目には腫物として映っている。

発言での意思表示もせず、唯態度に出す。そういった奴等から滲み出る感情は、時として直接口にされるより不愉快だ。

 

「玲先輩はかっこいいから、中学生の頃から女子の間でも人気でした。自分もその一人です。でも、周囲の女子とはあまり話が合いませんでした」

 

それはそうだ。周囲が抱いていたのは憧憬で、月島が抱いた感情とは根本から異なる。

月島はそこで知った筈だ。自らの恋慕が世間一般では異端とされるもので、叶ったとしても世間からの目は厳しくある事を。

 

「陸上をする玲先輩を、自分はマネージャーとしてずっと見ていました。自分はあんな風に走る事が出来ないから、そうやって走る姿に惹かれたのかもしれません」

 

自分にないものを相手に求めるのは当たり前の事だ。俺がランの事を嫌いじゃないのも、ランの真っ直ぐに相手と向き合う性質が俺にはないものだったからだ。

こうしている今だって、ランは独白に近いスプリンターの言葉を真摯に受け止めていた。

 

「後輩として玲先輩の役に立ちたかったんです。恋人として傍で見ていられるだけでよかったんです。それだけで、何も要りません」

「嘘です。志希さんは現実に満足なんてしていません。男の人になっているのは言わずもがな、喘息がないから走っているのだって、全部志希さんが望んだ事じゃないんですか?」

 

自分よりずっと背の高い相手にもランは怯まず、優し気に目を細めている。

ランは待っているのだろう。スプリンターの口からスプリンターの事情が出てくるのを。

だから言葉を投げ掛ける。たとえ僅かな情報でも、スプリンター自身の言葉が出てくるように。

ジャックナイフは林檎を剥き、アリスは童話を読んでいた。二人の行動は肉体が憶えていた手癖の様なものに過ぎなかったが、スプリンターはそうではない。

月島は陸上の競技として走る事は出来ない。にも関わらずスプリンターが走っているのなら、それはスプリンター自身の意思――月島が叶えられない望みという事に他ならないのだ。

本人がその事実から目を背ける事は出来ない。やがて観念したように、スプリンターは重々しく口を開く。

 

「……そうです。自分は、ずっと走りたかったんです」

「……玲さんと、ですよね」

 

ランの確認に、スプリンターはゆっくりと頷いてグラウンドを見た。

きっと何度も夢見ていた。尊敬する先輩と、自らを受け入れてくれた恋人と、共に走って競い合う日々を。

 

「玲先輩は部内で二番目に速くて、一番目に速い先輩とも殆ど差が無かったんです。そして誰にでもあんな風に気さくに話し掛けて、部内でも人気者でした」

 

久城がグループの中心的存在になる事は想像に難しくない。

その光景が月島にどう映ったのかは、今ここで走っている事が答えだった。

喘息を患った身体では届かない背中に見えてしまったのか、女であるが故に堂々と恋人であれない世間の柵が見えたのか、俺には分からない。

けれど、無視出来ない心の蟠りが見えたから、スプリンターはここに居る。

 

「自分はマネージャーで、見ている事しか出来なくって。前は陰で支えていられたら満足してた筈なのに、今は心の中に重い何かが積み重なっていくようになりました」

「……それは、久城と月島の関係が変わったからだろ」

 

中学までの唯の先輩と後輩という関係なら、我慢が出来ていたんだ。

だが、この学園に進学した二人の関係は恋人同士。普通の恋人関係であるのなら、嫉妬心を煽られる事も不思議ではない。

 

「少し運動したぐらいで苦しくなる自分の身体が恨めしかったんです。部内ではマネージャーとしてでしか玲先輩の近くに居る事が出来なかったですから」

「……そうか。お前はマネージャーを選んだんじゃなくて、マネージャーしか選べなかったんだな」

 

俺の言葉に、スプリンターは切なげに笑って頷いた。

 

「喘息が起きると、玲先輩は自分の事を凄く心配してくれるんです。それが嬉しいけれど、苦しくて。自分が走り続ける事が出来たら、つまらない心配を掛ける事だってないと思ったんです」

 

――――だから、“走り続けるスプリンター”。足が速くなくたってスタミナが無くたって、こいつは走り続けていた。

ひっくり返った道に、幸いが待っている。そう信じて疑わず、報われる事は無いとも知らず。誰も居ないグラウンドで、願いを叶え続ける。

ランだってその事は理解している筈だが、見守るような微笑みを崩さない。

 

「……玲さんがしていた事は、心配だけじゃないと思います」

 

――――そして。

ランが月島に何よりも届けたかった言葉に、スプリンターは振り返った。

 

「恋人同士でなかった頃から、応援された事はありませんでしたか? お疲れ様って声を掛けられた事は?」

「それは……」

 

スプリンターは言葉に詰まる。心当たりがあるのだろう。

月島は久城の為にマネージャーを頑張ってきた。月島がマネージャーとして頑張った思い出一つ一つに、久城の姿があった筈だから。

俺達もその姿を見ている。ここに来る前の放課後だって、久城は月島に対して労いの言葉を掛けていた。

あれは先輩と後輩の社交辞令なんかじゃない。久城が月島に掛けてやりたいって思った、久城自身の言葉なのだろう。

 

「あたしには玲さんと志希さんの仲に何かを言う権利はありません。だから、あたしはスプリンターさんの記憶に訴えかけようと思います。お二人が過ごしてきた時間が、スプリンターさんを説得してくれると信じて」

 

恋人でなかった過去から、恋人であった今まで。

その全てに訴えかけるように。月島と久城が培ってきた関係を、ランは信じていた。

 

「頑張っている事を応援されると、嬉しいですよね。もっと頑張ろうって思います。でも、一番嬉しいのは、自分の言葉で相手が頑張ってくれた応援した本人なんですよ、きっと。……思い出してください。あなたが大好きなあの人は、あなたが何をする事を応援していましたか?」

「自分が……玲先輩に応援してもらっていた事」

 

記憶を探るまでもなく、答えは分かっている筈だ。

散々自分で言っていたのだ。マネージャーとして、スプリンターを支えてきたのだと。

それだけはきっと、これからも変わらない。月島(つきしま)志希(しき)久城(くじょう)(れい)の恋人であるのだから。

 

「どうしたって目を背けられない苦しい事はあります。それと同時に、楽しかった思い出は、それを乗り越える為にあるんだと思います。あなたがマネージャーとして楽しかった瞬間はありませんでしたか? あなたがマネージャーであった事で、玲さんが笑った瞬間はありませんでしたか?」

 

月島(つきしま)志希(しき)が“走り続けるスプリンター”になったのは、久城(くじょう)(れい)の心配が苦しかったから。

だが、それ以上の楽しみは月島の人生の中で待ち続けている事だろう。自らを理解してくれる恋人が居る意味は、流石の俺でも分かっている。

 

「支えたい人を支えられた。……そう自惚れても、いいんでしょうか」

 

スプリンターの問いに、ランは大きな笑顔を浮かべて答える。

 

「いいも悪いもありません。あなたが玲さんを想った事実だけは、決して嘘なんかじゃないんですから」

 

ランの言葉に誘われるように、仄かな煌めきがスプリンターを包み込んでいく。

この亡者の学園に幽閉する為に必要な心の弱さが消えていく証拠だ。だが、スプリンターの弱さは一つだけじゃない。最も如何ともし難い性別の問題は、ランはどうする気なのだろう。

そんな俺の疑問を察知してか、ランは俺に視線を送ってから必殺の一言を告げる。

 

「それに、男の人のままでいいんですか? 志希さんは女性として、玲さんの事を好きになったんだと思いましたけど?」

 

――――そう言われて。スプリンターは目を丸くした後、おかしさを堪えきれないように笑っていた。

俺も笑ってしまいたかった。そりゃそうだ。こんな矛盾に気付かないなんて、本当にどうかしている。

月島は別に男の身体で女性の心を持ってしまったわけじゃない。正真正銘女性のまま、女性を好きになった。

男性になればいいわけじゃない。女性の心の問題の為に、女性である事を捨てるなんて本末転倒だ。それでは反転する価値が無い。

それに、この問題は月島だけのものじゃない。二人のものなんだから、ここで一人悩んでいる事は正解じゃない。

スプリンターを包む光が強くなっていく。気付いたのだ。自分が居るべきは一人きりの夜のグラウンドではなく、恋人が待つ夕暮れのグラウンドなのだと。

 

「……そうですね。思い出しました。喘息でもいい。男気なんてなくてもいい。だって自分は――――玲先輩の恋人なんですから」

 

“走り続けるスプリンター”は光に包まれ消えていく。

これからもあいつは走り続けるのだろう。月島(つきしま)志希(しき)として、久城(くじょう)(れい)への恋路を。

他の七不思議と同じように溶けるようにして消えていったスプリンターを見送って、ランは安堵するように息を吐いた。

 

「……ぶい、です」

 

それでも何とか見せるピースサインに、俺は躊躇わず称賛を送る。

 

「よくやった。やっぱり、お前に任せて正解だったよ」

「それがあたしの役割ですから。……これで、“月に笑む少女”を除けば全員ですよね」

 

ランは言い難そうに俺に告げる。俺に“月に笑む少女”の事を思い出させたくはないのだろうか。

だが、目を逸らすわけにはにはいかない。“月に笑む少女”の正体が分からない故に後回しにはしてきたが、残ってる対象があいつだけになれば話は別だ。

だがあいつと対峙すれば襲ってくる以上、安全は確保出来ない。俺だけならともかく、ランに被害が及ぶのは駄目だ。こんなの意地を張る場面でもない。

 

「あいつは秋月さんと一緒に処理をした方がいいかもしれない。敵性がある上に復活もするんじゃ、俺達だけじゃ対処出来ない」

「そう……ですね。なら、マスターが対処する必要はありませんよね?」

 

どれだけ心配を掛けたのだろう。まぁ、無理もないか。俺自身、あいつを刺した時の虚脱感や嫌悪感の理由は分からない。

唯、あの脊髄が沸騰するような熱と、身体の内側から脳へ言葉を送り続けられるような圧迫感は思い出したくない事は確かだった。

 

「ともかく、今日は引き上げだ。帰ったら秋月さんに連絡を取って、指示を仰ごう」

「分かりました。それじゃあ、空き教室に戻りましょうか」

 

ランと一緒に昇降口まで戻ってそのまま階段を上ろうとすると、後ろに着いてきてる筈のランの気配を感じなかった。

どうしたのかと後ろを向けば、昇降口の姿見を横目で見てフリーズしている。

 

「何かあったか、ラン」

 

名前を呼べば、冷や汗をだらだらと流しながら目を泳がせている。

これはよっぽどの事があったのか。ランの傍まで戻った俺に、ごにょごにょと口籠る。

 

「その……。マスターに一つ言い忘れていた……上桐先生から聞いた七不思議が一つありまして」

「上桐から? ……ちっ。無視するわけにもいかないか」

 

ランが言い忘れていた事ではなく、上桐からの伝聞である事が純粋に気に入らなかった。

上桐から聞いたという事は、俺が職員室に名簿を取りに行っていた間に聞かされたのか。

明らかに機嫌が悪くなった俺に対して苦笑いを浮かべながら、ランは姿見を指差した。

 

「確か……夜中に昇降口の姿見を見続けると、過去の自分を見せられる……だった筈です」

「……そりゃまた、本当の七不思議だな」

 

今までの七不思議とは違い、特定の人物が登場していない。別に放っておいてもいい気がしてきたが、ランがそれを許さないだろう。

この姿見は三十年程前の生徒の卒業祝いとして寄贈された物のようだ。鑑の下部に寄贈年が小さく書かれている。

対人ではなく事象の類なら、“無干渉”の“属性”を持つ俺が適任だ。霊的な呪いを無効化出来るうえに、霊体への攻撃も可能だ。

自らの体内に“属性”を乗せた魔力を循環させて、俺は姿見の前に立つ。

 

「姿見を見続けていればいいんだよな」

 

姿見に映る確認する俺の姿は顰め面だ。まぁ、こうして表情に出せるようになっただけ心の余裕が出来たという事にしておこう。

術式が起動している形跡は見受けられない。どうやら本当に唯の姿見のようだ。

『本当に何か起きるのか?』と鏡を睨む事十数秒――――異変は、唐突に訪れた。

一瞬だけ、姿見に映る俺の姿が揺れた。揺れたのはほんの一瞬だけで、その後に映る像は落ち着いている。

だが、そう思えたのはそれこそ一瞬だけだった。

 

「……マスター」

「下がってろ。危ないぞ」

 

怯えたように震えた声を出すランを、なるべく優しい声で下がらせる。鏡に映る俺を、あまり見てほしくはなかった。

鏡に映る俺は眼鏡を掛けていた。当然今の俺は眼鏡を掛けてはいない。

そもそも俺は普段の生活では眼鏡を掛けない。思考を落ち着かせる自己暗示の一環として、亡者の学園の調査の始まりに掛けてはいた。だが、それもジャックナイフ以外の七不思議達が攻撃的な態度を取ってこなかったうえに、あっちの性格が七不思議達から評判が悪かったので掛けるのを止めてしまっていた。

それだけじゃない。鑑の中の深花(しんか)芳乃(よしの)は目線が今の俺より低かった。

明確に身長に差が出る程の過去。一年以上前の眼鏡を掛けている俺。その最低限の感情表現すら碌にしようとしないロボットには、残念ながら見覚えがある。

――――染衣(そめい)(さくら)と出会う前の深花(しんか)芳乃(よしの)が、そこには映し出されていた。

 

「楽でいいよ、こういうの」

 

誰かを説得する必要はない。唯この鏡をどうにかすれば解決する。

魔術的痕跡が無い以上、何かしらの霊的呪いがある可能性が高い。条件を満たさなければ発動しない魔術とは違い、呪いはどんなタイミングで発動するか分からない。何時向こうに影響があるかも分からないのだから、排除は早めにするべきだ。

幸い俺の“無干渉”なら呪いの類には一方的に打ち勝てる。鏡に触れて“属性”を籠めた魔力を流してしまえば解決するのだから、躊躇う必要は無い。

俺は右手でそっと鏡に触れ、魔力を流し込み――――。

 

「なっ――――!?」

 

鏡の中でずぶりと沈んでいく手の平に、驚きの余り目を見開いた。

反射的に手を引こうとしてももう遅い。底無し沼に呑まれるように俺の身体は鏡の中へ沈んでいく。

だが、何故だ。“無干渉”に呪いの類は効かないし、精神干渉系の魔術だって俺には効果は薄い。そもそも何も術式は起動していない筈――――。

……そこまで考えて、俺は一つの事実に気付いた。

 

「嵌められたか……!」

「マスター! 手を!」

 

背後から掛けられたランの声に後ろを振り向こうとするが、既に半身が鏡の中で振り向く事さえ出来なかった。

視界の端で見えた小さな手を掴む事は叶わない。最後は呆気なく、俺は意識ごと鏡の中へ呑まれていった。

 

 

          ◇

 

 

「マスター! 大丈夫ですか、マスター!」

 

鏡の中に入ってしまったマスターへあたしは必死に声を掛けるけれど、反応はない。

マスターは消えてしまう前に『嵌められた』と言っていた。きっとこの鏡にはマスターの裏をかく何かがある。七不思議が作動したのはマスターが鏡を覗き込んでから。それからマスターが鏡に触れて、そのまま鏡の中に呑まれてしまった。

意を決して鏡に触ってみても、あたしは中には入れない。入れるのは恐らく、マスターだけ。

 

「……諦めちゃいけません。考えるのを止めちゃ駄目です」

 

自分で自分を鼓舞して、どうにか打開策を見つけようと観察する。

注意深く鏡を見続けていると、あたしは一つの事実に気付いた。

 

「マスターが……動いてる」

 

さっきまで唯立っているだけだったマスターの過去の姿は、生活を送るように動き始めていた。

まるで芝居が開演した人形劇みたい。あたしの知らないマスターが、鏡の中で生きているかの様だった。

こんなの絶対におかしい。映す相手が目の前に居ない鏡が誰かの過去を映すなんて。

マスターは鏡の中からは出てこれないのだろう。ある一定の領域から出れないようにする。それではまるで“結界”だ。

 

「……“結界”」

 

あたしは魔術にはてんで詳しくないけれど、それでもマスターから教えてもらった事がある。

“結界”には二種類ある。外に出さない為の“結界”と、中に入れない為の“結界”。もしこの二つが組み合わさったのなら、特定の人物だけを完全に閉じ込める檻として機能するかもしれない。

自らの両手を見て、鏡へと向き合う。あたしにはこれをどうにかする事が出来る。もしこの鏡が“結界”であろうと、そうであろうと関係ない。魔術だろうと何だろうと、その性質を持っているのなら十分だ。

――――だって……あたしは。


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