お昼代契約ランチちゃん   作:昼飯用

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本編終了、俗に言う最終話


31.反転する魔女

静かな夜だった。

“結界”の主を失った影響なのか、普段は点いている筈の亡者の学園の明かりは消えていた。窓から射し込む淡い月の光だけが、蒼く世界を照らしている。

眠りについた存在が闊歩する校舎は今、正しく眠りに就こうとしている。

 

上桐(かみきり)(さとる)さんの身柄は協会に引き渡しましたので、安心していいですよ』

「ありがとうございます」

 

亡者の学園の屋上で七不思議達を取り巻く一連の事件の犯人を追い詰め、向こう側へ強制的に送り返した後。芳乃は一人、三階の空き教室にて神無からの連絡を受けていた。

外界とは時間の流れが違う筈の亡者の学園へ、普通の携帯電話で当たり前の様に連絡が取れる。その事に一瞬首を傾げた芳乃だが、深く気にしない事にした。神無相手にはそういった理屈を気にするだけ無駄であると、数多の経験から理解していた。

 

『それじゃあ、私は慰霊塔の亡者の皆さんの解放を続けますね』

「分かりました、よろしくお願いします」

 

男とも女とも付かない、中性的な声と穏やかな口調。

それをこの亡者の学園で聞くだけで、芳乃はどこか宙に浮いたような感覚に陥る。

いや、それ以上に。芳乃は意識外からして、どこか落ち着きがなかった。それを付き合いの長さから敏感に感じ取られたのか、電話越しから小さく笑う声が聞こえてくる。

 

『深花君』

 

名を呼ばれ、芳乃はどきりとした。

脊髄が急に熱を放ち、電流が流れるように痺れる。

 

『私は電話を切っちゃいますけど、困った事があったら何でも言ってくださいね。雷ぐらいなら落とせますから。それではー』

「……何ですか、それ」

 

通話が終わった電話口に、芳乃は苦笑い気味に零す。

言っている内容は物騒にも程がある。その中でどこか温かさを感じたのは、きっと気のせいではないだろう。

携帯電話を仕舞い、芳乃は静かに窓際に背を向けて寄り掛かった。その後小さく息を吐けば、それに誘われるように空き教室の扉が開く。

 

「マスター! 凄いですよ、亡者の皆さんが次々と消えていってます!」

 

興奮した様子で入ってきたローブ姿のランが、校舎内で起きている事態を報告する。

先程の電話の内容からして、神無が通話をする片手間にやっていたのだと想像した芳乃は、思わず乾いた笑いを浮かべそうになっていた。

そんな芳乃を疑問に思い、ランは芳乃の左隣に並んだ。

 

「どうしたんですか?」

 

芳乃は「大した事じゃない」と返して、現状を思い返す。

亡者の学園の七不思議の内、魂を誘われ七不思議として登校していた“林檎を剥くジャックナイフ”、“童話へ還るアリス”、“走り続けるスプリンター”の三人はランによって説得された。

全ての始まりである“月に咲く死垂桜(しだれざくら)”、亡者の学園を作り上げた“夢に誘う天牛(カミキリムシ)”は、“回想するソメイヨシノ”の手によって去っていった。

その他大勢として誘われていた輪郭だけの亡者達も、神無の手によって次々と解放されている。

芳乃とランは肉体を持ったまま“結界”の内部に居る都合上、無理矢理に去るわけには行かない。“結界”の効力が弱まるまで校舎内で待機した後に、通常に戻った校舎から脱出しなければならなかった。

彼等にとってはそれがいつも通り。特別な終わりであっても、それは変わらなかった。

 

「眼鏡、外したんですね。久しぶりだったのに」

 

芳乃の顔をじっくりと見つめながら、ランは残念そうに言う。

その言葉に、芳乃は「あー」なんて気の抜けた声を出して自分の顔を触った。

 

「上桐を相手にする為には冷静でいたかったからな。一度はしてやられてるわけだし」

 

桜の魂を掴めない事で悟の動揺を誘い、亡者の学園が始まる瞬間に気付かせる事により魔術師にとって重要な準備の時間を大幅に削る。

そして自らは思考のスイッチにより冷静さを保ち、丸一日ある時間を使って万端の準備をする。

そんなありとあらゆる対策を取る程、芳乃は悟を魔術師として警戒していた。

 

「ま、それ以上にあいつの話を聞いてると多分殴るだろうと思って掛けたんだけどな。実際正解だった」

「マスター、結構我慢してましたよね」

「まぁ、その分お前が我慢しなかったし。バランスは取れてただろ」

 

悟へ向けた激昂の事を言っているのだと分かったランは、頬を振らませながら「茶化さないでください」と拗ねた。

きっと自分があれ以上の怒りを見せる事は、これからの人生の中で一度あるか無いかだと理解していた。……それがこれからの人生があれば、の話である事も。

 

「……終わったんですよね」

 

確認するようにしみじみとそう言って、ランは芳乃との距離を一歩詰めた。

ランの右手が左手に触れ、それを皮切りにそっと左手を握られたが、芳乃はそれを振り解く事はしない。

契約があるからなのか基本的に距離が近いランだが、何の理由も無しに手を繋ぐような真似はしない。芳乃もそれを経験として理解していた。

 

「あとは“結界”から出た後に、術式を解除するだけだ。つまらない雑用だよ」

 

これからの話をして、芳乃は視線を中庭に向けた。

当然視線の先には、見慣れた慰霊塔と、それを彩らんとばかりに咲き誇る枝垂れ桜達。

そして眩暈がする程壮観な光景の中、唯一花を付けずにそこにあるソメイヨシノを見て、鉄色の瞳は僅かに揺れる。

ソメイヨシノの下に眠っていた桜の魂を入れた人形は、昨日の時点で掘り返されている。神無によって魂の定着は解除された。漸く染衣(そめい)(さくら)は、本当の意味で死を迎えられたのだろう。

ソメイヨシノも桜への供給ラインを断たれた事により、来年には例年通り花を咲かせる事だろう。

終わったのだ。何もかも。唯、深花(しんか)芳乃(よしの)だけを残して。

 

「……そうだ、忘れてた」

 

瞳の揺れを隠す為か、何でもないように芳乃は制服の右ポケットに手を入れ、ある物を取り出す。

それは亡者の学園の調査前、毎回の様に行っていた事。右手に握られている物が何であるか、見せられずともランは知っていた。

それが彼のこれからへの答えなのだと察して、嬉しさに目を細める。

だが、その手が受け取ろうと伸びる事は無い。優し気な笑みを浮かべて芳乃の顔を見たまま、ランは語り掛ける。

 

「ねえ、マスター。あたし色々聞きたい事があるんです」

「何だ。いきなりだな」

「上桐先生との会話の中で、気になる事がありましたから」

「……そんな事か」

 

返答までの間に、ランはどこか切なげに笑った。

今の間だけで分かってしまった。芳乃が何に気付いているのか。気付いた上で、何を選んだのか。

 

「上桐先生がこの亡者の学園でやっていた事は分かりました。その中で桜さんの魂だけが死者で、直接屋上に来る事でこの亡者の学園でも実体を得なかった事も」

「それがどうかしたか?」

「どうして、マスターには桜さんが見えていたんですか? 霊体って、普通は人間には見えないんですよね?」

 

霊体は普通の人間には見えない。芳乃自身は魔術師であっても肉体的には普通の人間だ。慰霊塔の様に所縁の深い場所且つ、霊が活発に動く時間帯等の条件が重ならなければ、視認する事は無い。

たとえ視認する事が出来ても像は朧気である事は、彼の記憶からも読み取れた事だ。

尤もなランの疑問に、芳乃は「分類的にはお前と一緒だ」と小さく笑う。

 

「上桐に人形を定着させられた桜の魂は、純粋な霊とは違う。精霊に近い。あいつには亡者の学園の中でなら、他者に認識されるよう術式が組み込まれていた。多分、生身のまま乗り込んできた俺が、あいつの姿を確認出来るようにだろうな」

 

昨日人形を掘り返した際に分かった事実だが、魔術師の領分なのでランに伝えない事が仇となったようだ。この調子だと悟が霊体のランを確認出来たのは、彼の瞳が死霊の研究者として、霊体を見れるように改造されていたからだとも説明した方がよかったのだろう。

まさかそんな事を気にしていると思わなかった芳乃は、「今度からちゃんと説明する」と揶揄うように告げた。

その言葉を聞いて、ランはまた切なさを含んだ笑みを浮かべ。――――彼女にとって最大の疑問を、投げ掛ける。

 

「上桐先生は、亡者の学園に登校した魂は姿が変わっていたって言っていました」

「あぁ。だからあいつは桜が生きてると勘違いしていた。血に塗れた桜の姿が、亡者の学園に登校した結果だと思ったんだろう」

 

“月に咲く死垂桜(しだれざくら)”の姿は、桜が飛び降りた直後の姿だった。

桜の死に対して否定的な固定観念があった悟は、それを人形に魂を移された桜が生きていると訴える証拠にしていた。

だが、その事は既に過ぎた話だった。ここまで露骨に話を逸らす芳乃は誰も見た事がないだろう。その事を思うと、ランの心中には嬉しさと心苦しさが湧き上がる。

だが、目を逸らすわけには行かなかった。告げなければいけなかった。この話の疑問点と、それが意味する真実を。

 

「おかしな話だと思いませんか? “結界”を張ったのは上桐先生の筈なのに、その上桐先生は『変わった』ではなく『変わっていた』と言っていました。これじゃあまるで、姿が変わる仕組みは上桐先生には分からなかったみたいじゃないですか」

「……何が言いたい」

 

短く強い口調だが、そこに冷たさは無い。

『それ以上は言ってはいけない』と訴えられているようで胸を締め付けられつつも、ランは続ける。

 

「それに比べて、マスターはよく仕様を理解していたと思います。亡者の学園に昇降口から登校しないと、魂の姿が変わらない事を知っていたんですから。魔術師としての力量の差でしょうか?」

 

ランの問いに、芳乃は答えなかった。

自分が今、何を言おうと。ランが綴る言の葉は変わらない。それを理解していたから。

 

「でも、それこそおかしな話ですよ。だって、マスター言ってたじゃないですか。上桐先生の張った“結界”の範囲は、この学園の敷地ぎりぎり……校舎より全然、広いんです」

 

よく気付く奴だと、芳乃は乾いた息を吐く。

気付かなければ幸せでいられたのに。そういった悲哀の気持ちが、そこにはあった。

 

「そもそも、どうして“結界”の中に入ると姿が変わるんですか? ジャックナイフさんは危うくなりたくて金髪に。アリスちゃんは素直になりたくて童女の様に。スプリンターさんは恋人として胸を張りたくて男の人になっちゃいました。性格だってそうです。皆さん、まるでひっくり返したみたいに別人ですから」

 

そうして、一息呑んで。

誰よりも早く亡者の学園の仕組みに気付いていた魔術師へ、精霊は事実を確認するように平坦に告げる。

 

「――――“結界”は、もう一つあったんですよね。性質を“反転”させる、校舎全体に張られた“結界”が」

 

今まで説得されてきた七不思議達はこんな気持ちだったのだろう、と芳乃は思う。

考えてみれば当然の事だった。悟は桜の魂を、生身の芳乃に見えるように細工をしていた。

自らが張った“結界”に“反転”が組み込んであったのであれば、態々桜の魂に細工をする必要は無い。

つまり、悟が張った“結界”には“反転”は組み込まれていない事になる。

亡者の学園の在り方は悟が本来想定していたものとは違っていた。

偶然にしろ故意にしろ、亡者の学園には悟以外の何者かが関わっている。

これだけは気付かないと思っていた。気付かないまま事件は終わり、表面上は大団円。

そうあってくれればいいと、願っていたのに。

そして、ランはそんな願いを容易く踏み躙らんと、言葉を続けた。

 

「マスターはあたしに“結界”の説明をする時、外に出さない為の“結界”と中に入れない為の“結界”があるって言っていました。……そして“結界”には、人為的なものと自然的なものがあるとも、言ってましたよね」

「……あぁ、言ったな」

 

最早誤魔化す事は不可能なのだと悟った芳乃は、素直に認める。

その話が見当違いな方向に着地をしてくれる事を、只管に祈っていた。

 

「上桐先生が魔術でこの学園の敷地に沿って張った“結界”は、当然人為的なものです。だったら、この校舎全体に張られた“結界”はどうなんでしょう」

「……自然的なものだよ」

 

この情報を与える事で残酷な真実に近付いていく。

それを理解して、思わず繋いだ手を強く握った芳乃に、ランは「ありがとうございます」と柔らかく笑んだ。

 

「自然的なものとしてマスターが出した例えは……怨念でしたっけ。実際は怨念じゃなくても、強い想念なら何でもいいんだと思いますけれど。違いますか?」

「違わない。どんな感情であれ、強い想念は時としてその場所を歪め、“結界”となり得る」

 

芳乃の答えを嚙み砕くように、ランはゆっくりと頷いた。

頷いて、理解して。それでも変わらぬ問いを、今は世界でたった二人きりの相手へ口にする。

 

「――――校舎を“反転”の“結界”として歪めたのは、あたしですね」

 

二人は、時が止まったようだと思う。静かな確認だった。それは両者にとって、否定のしようがない事実だったから。

言葉に誘われるように二人は見つめ合ったまま、数秒の時を共にした。

お互いがお互いを裏切ってはならないと思い、真実への道を歩き続ける。

 

「教えてください、マスター。あたしが、誰であるのかを」

「……、」

 

彼の苦渋に満ちた表情を見れば、ランという精霊が本来何者であるのかなんて事は、ラン自身には簡単に察しが付いた。

残酷な願いだと分かっている。それを彼の口から言わせる事が、どれだけ深花(しんか)芳乃(よしの)の心を傷付けるか理解していた。

唯――――それでも。

 

「あたし、いつもみたいにマスターから聞きたいです」

 

そう願われれば、芳乃は答えないわけには行かなかった。

ランが芳乃に教えを乞い、芳乃がランに教える。

何時だって二人はそうしてきたのだ。最後だからこそ、それをしない事は今までの裏切りになってしまうから。

 

「……前にも話した事だ。百四十年前、協会はこの学園である人物を粛清した。粛清の際に出た大勢の犠牲者は学園で起きた事故の被害者とされ、彼等の魂を弔う為に中庭に慰霊塔が建てられた」

「はい。この学園の調査を始めた初日に話してもらいましたね」

 

だが、当時としては大勢の犠牲者の方が主題だった。

粛清された人物に触れるのは今回が初だ。何気無い話題の先に、事件の真相は眠っていたのだった。

期待を込めた瞳は続きを待っている。それが本当にいつも通りに見えて、口にすれば戻れないと分かっていても、彼女の望みを叶えたい気持ちが抑えられなくなる。

 

「粛清を受けた本人は、一人の少女だった。少女はある魔法を持ち、その魔法の危険性を察知した協会は“執行者”を派遣した」

 

その事情を、芳乃は情報として、ランは経験としてよく知っていた。

『その人は一体誰なんですか?』。そんな未来を夢見ていた。だけど、そんな甘い願望は通らない。

ランは躊躇わず、歌うように情報を補足する。

 

「その魔法の名前は“反転”。物事の状態や性質をひっくり返す事が出来るものです。そして、その魔法使いの名前は――――」

「――――フランチェスカ=フリジメリカ」

 

期待を込めた目を細めて嬉しがるランに、芳乃は何を望まれているのか理解した。

彼女は名前を呼ばれたかったのだ。たとえその先に未来は無くて、この一瞬だけの幸せであっても。

どうしようもなく、彼女は名前を呼ばれる幸せを求めていた。

名を呼んだ少年と名を呼ばれた少女はもう戻れない。これからの二人は、終わりへと突き進むしかない。

 

「やっぱり……慰霊塔で憔悴した時に、記憶は戻ってたんだな」

「やっぱり、気付かれてましたか。嘘まで吐いたのに無駄でしたね……すみません」

 

ランは自らの左手を見て、一つ一つ確認するように指を折る。

 

「あたしに出来る事は、相手を拘束する念を送ったり、鍵を解錠したり、逆に施錠したり。拘束する念は精霊としての基礎能力でしょうけれど、鍵に関しては違いますね。……あたし、鍵の状態を“反転”させてたんです」

「開いた鍵をひっくり返せば閉まった鍵になり、閉まった鍵をひっくり返せば開いた鍵になる……か。……鏡に張られた“結界”の中に入れられた俺を助けに来たのにも、“反転”を使ったんだろう」

「はい。中に入れない性質は中に入れる性質に、外に出さない性質は外に出す性質に“反転”させました。だからあたしも鏡の中に入れて、マスターを直接引っ張り出す事が出来たんですよ」

 

上桐もこんな反則技を使われるとも思っていなかっただろう、と芳乃は苦笑いする。

事実、そういった策を弄するタイプの魔術師にとっては、天敵に近かった。自らが張った罠の性質を悉く“反転”させられては、まるで策が機能しなくなる。

魔術師が恋をした少女の為の学園は――――始まりからして瓦解していた。

 

「慰霊塔に触れた時に、身体があった頃の記憶は思い出しました。でも、それ以降は相変わらずさっぱりでした。あたしの記憶は、マスターと出会った時が始まりなんです。きっと、それが精霊としてのあたしが始まった瞬間だからなんでしょうけれど。……だから、教えてください」

 

あたしとマスターの、本当の始まりを。

言葉にせずとも、芳乃には伝わってきた。彼女は自分が一番目の七不思議であると理解をしている。

それを一から説明をして、零へと至り。漸く、穂叉(ほさ)学園の七不思議は完成をする。

 

「調査を始めるずっと前から、俺は協会の資料でお前を知っていた。唯、協会の資料にはお前の写真は無かったけどな」

「百四十年も前ですからね。資料を紛失したのか、そもそもあたしみたいな粛清対象の写真を取るまでもなかったのか、分からないですけれど」

 

恐らくは後者だろう、と芳乃は思う。協会の陰湿さや傲慢さは彼が一番よく知っている。処分した、という記録になるだけの人間の容姿など、必要ないと判断したのだろう。

 

「慰霊塔の魂達を見ただろう。あいつ等は夜になれば、俺みたいに霊の存在を知っている程度の人間にも微かだが見えてしまう。殆どの亡者達はあの周りを漂っているだけだが、動きが違う魂もあった。その中で唯一校舎に向かう魂はこの空き教室に向かい、朝まで留まっていた」

「それが、あたしですか?」

 

ランの確認に、芳乃は頷く。

 

「その時点で分かってたわけじゃないけどな。誰かに危害を加えるわけでもないなら、割とよくある事だ。そんな時、一つの事件が始まった」

「上桐先生が亡者の学園を創ったんですね」

 

亡者の学園を察知した芳乃は、“制隠協会”へそれを報告した。

そして下された指令により、深花(しんか)芳乃(よしの)秋月(あきつき)神無(かんな)の支援を受けつつ、亡者の学園に潜入を始めた。

神無の日程の都合により、準備期間を兼ねた二週間の猶予が与えられた。しかし、芳乃は染衣(そめい)(さくら)の魂が登校をしていない事を確認する為に開始日を待たずに独断で潜入した。以前、神無の口から語られた事だ。

その二週間の間で、容姿を持った魂――七不思議達が存在している事、そして輪郭だけの魂達は慰霊塔から登校している事に気付いたのだが、もう一つだけ、収穫があったのだ。

 

「……“反転”の影響を受けない魂が、空き教室に一人居た」

 

本来、亡者の学園に登校した魂達は“反転”の“結界”により性質が反転する。

容姿の話ではなく、条件が重ならなければ常人には見えない、という性質そのものが変質し、芳乃の様な生者にも見えるようになる。

そんな中、登校をしても姿が朧げなままの魂が一つだけあった。

芳乃はそんな魂と出会い――――気付いた。

 

「“結界”を張った人間なら、“結界”の影響は受けない。俺がこの魂が、魔女かもしれないと思った」

 

そして、芳乃は亡者の学園の調査に協力してもらう為の使い魔として、その魂を選んだ。

別に違っていても問題ない。“結界”の影響を受けていない時点で何かの特殊性を意味している事は変わりなく、この学園に居る魂であれば場所との相性も良好の筈だ。

仮に魔女の魂であれば色々と確かめられる。その程度でしかない、魔術師としての唯の興味に過ぎなかった。

 

「実際、お前は記憶が無いし。口調も微妙におかしくて、言う事も聞かないし。契約の対価は明日の昼飯代だしで、幸先は悪かったな」

「あの頃は自分でも不安定でしたから……」

 

ランは恥ずかしそうに頬を掻く。そんな表情も見れるようになったのだと、芳乃はどこか感慨深くなった。

ともかく、これで出会いは終わりだった。ここからの時間は、二人でずっと共有してきた時間だ。それこそお互いに信頼し合う程、時間は短くとも濃密な経験を重ねてきた。

だからこそ、芳乃は分からなかった。

誰かを助ける為に、言葉を尽くす。芳乃が侮蔑されれば、自分の事の様に怒る。そんな風に誰かを思いやれる少女が、何故魔女などと呼ばれ、粛清されるまで至ったのか。

理由なんて無い。唯これだけは分かる。フランチェスカ=フリジメリカという少女は、理不尽に生を奪われたのだと。

 

「……どうしてお前が、あんな目に合わなくちゃいけなかった」

 

理不尽への憤りは、呟きとして空気に溶けていく。

だが、たとえ呟きであっても、この至近距離ではランには筒抜けだった。彼女は天井を見上げ、百四十年という時間を遡っていく。

 

「あたし、孤児だったんです。基本的に贅沢とは無縁でした。“反転”は物心付いた頃から使える事は識ってましたけど、あまり使う気にはなれませんでしたね」

「大体の魔法使いはそうやって普通の人間として振舞う事が出来る。魔術師みたいに望んで異能を得たわけじゃない。使わなければいいだけなんだから、使う気が起きないのはお前が普通である証だ」

 

『そういえば、ランが自分の事を語るのは珍しいな』と芳乃は思い返す。

芳乃の事は知ろうとする癖に、自分の事は殆ど語らない。慰霊塔で記憶を取り戻してからは、彼への態度の変化と同時に、それが顕著になっていった。

何故それを今更語るのか。芳乃にはその行動が、自らの存在を芳乃の記憶に刻み込もうとしているように思う。

――――それが酷く、染衣(そめい)(さくら)との最期の会話と被った。

 

「お昼は基本的にありませんでしたね。だからいつもお腹ぺこぺこで、お腹一杯食べたいなーって思ってました」

「……まさかそれが、契約の対価が俺の明日のお昼代の理由だったりしないよな?」

「そうですよ? お昼代、大事ですから!」

 

当然の様に胸を張るランに、「あぁ、そうだな」と芳乃は同意した。

そこに呆れは無かった事を、芳乃は自分でも意外だと思う。

彼女の言葉に込められた想いと苦労を、知らず感じ取っていたのかもしれない。

 

「学校でもそれは変わりませんでした。外国人という事もあって、周りに居る日本人の皆に壁を感じたりもしていましたね。友達なんて居ませんでしたよ」

「お前が人見知りなのは、それが理由か」

「記憶を無くして精霊になったのは、ある意味幸せだったかもしれませんね。おかげで友達が出来ました」

「前向きだな。フランチェスカ=フリジメリカの魂であるお前は、彼女の根本的な所が強く出てる。友達が出来なかったのは、状況が悪かっただけだろ」

 

そう励ませば、握っている右手が強く握り返してくる。

じんわりと彼女の熱を強く感じた。それを失いたくないという想いも、比例していく。

 

「でも、特別いい子でもないです。空腹や孤独に耐えられる程、強くなんてありませんでした。ある時、学校でお昼の時間に思ったんです。お昼なんてものがなければ、お腹だって空かないのにって」

 

それが彼女の間違いだった。子供の様な安直な考えを叶える力を、彼女は持ってしまっていた。一瞬の気の緩みが、当然の様に世界を異界へと変えていった。

そこからの結末は、芳乃もよく知っている。せめて辛い過去を自ら口にしなくてもいいように、彼女の言葉を奪う。

 

「百四十年前のある日、突如として昼が夜にひっくり返った。時間にして数分で終了したその奇跡は、当然協会の耳に入る。協会は調査の結果、フランチェスカ=フリジメリカに辿り着いた。お前は魔法を全く使っていなかったわけじゃない。今まで行っていた超常の痕跡は、微かに残っていた」

 

通常、手品程度の規模であれば、協会はそこまで躍起になって身柄を確保しようとする事は無い。その存在を知られた所で、トリック程度にしか思われないからだ。真偽はともかくとして、そういったイカサマは幾らでも転がっている。

しかし、短時間とは言え昼を夜に“反転”させる天変地異を起こす程の魔法は、異能の存在を世に知らしめる危険分子としては十分だった。

 

「“制隠協会”はお前を『魔女』と呼称し、討伐隊を編成した。貴重な魔法使いを欲しがるのではなく、殺害を第一目的にした事から見るに、相当事態を重く見たんだろう。そんな相手の討伐に、あいつ等は昼夜も犠牲も問わなかった」

 

それが、百四十年前の粛清の発端だった。

当時の事を思い出したのか、ランは縋るように芳乃の手を強く握る。

自らが語る事で彼女を傷付けている事実を、芳乃は自らの罪として背負う。

 

「学園で襲撃されたフランチェスカは、当然命の危機を感じて逃げた。校舎内を走って、どこに行けば助かるのかも分からず逃げ惑った。その最中も、フランチェスカを襲う魔術は関係の無い人間を殺めていく」

「怖かったんです。名前も知らない人達が、感情の無い瞳で迫ってくるあの光景が……。でも、あたしが大人しく殺されていれば、助かった人も大勢居たかもしれません」

「どうだろうな。口封じに全員殺されててもおかしくない。それぐらいなら平気でやる連中だ」

 

協会が欲しいのは事態が収束したという事実だけ。そこに至るまでの方法は重要ではない。

“元老協会”の非人道的な側面を抑制する事が目的の筈が、魔術の隠蔽という大義名分を得て虐殺を行う。それが協会という魔術師の巣窟の実態だった。

 

「……そして。お前は逃げ込んだこの空き教室で、一度目の死を迎える」

 

飽くまで事実として告げた芳乃の言葉を、ランは頷いて肯定する。

『一度目の死』という生き物のルールを無視した発言にも、訂正を求める事は無い。

 

「昼と夜を“反転”させた時みたいに、あたしはどうしようもなく揺らぐと、魔法を制御出来なくなります。追い詰められたあの状況は、あたしに自分の死を“反転”させるには十分でした。それからもあたしは殺される度に、自分の死の“反転”を繰り返していったんです」

 

当たり前の事だった。人間は必ずしも自分を律する事が出来るわけではない。

恒常的な日中の空腹によって溜まり続けたストレスが、ふとした拍子に破裂する事だって無理からぬ事だ。

何より他者によって齎される望まない自らの死を拒む事を、一体誰が責められるだろう。

 

「だけど何回目かの死の時に、あたしは“反転”しなくなりました。……どうしてだか、マスターは知っていますか?」

 

地獄の様な記憶を辿る中でも、芳乃に問う瞬間だけはランは笑顔を見せる。同様に、彼女を傷付ける苦しさを抱えながら、芳乃の口元も微かに緩まる。

ランの知らない事を芳乃が教える事は、知らず彼等が最も落ち着けるコミュニケーションと化していた。

 

「……殺しても死を“反転”させるフランチェスカを、協会は封印する事にした。死を経由しなければ、“反転”は起こらない。後は封印した身体を、死なないようにエネルギーを供給しながら管理すればいい」

 

その言葉を聞いて、全てのピースがランの中で繋がった。

情報が頭の中を駆け巡る。桜の魂が入った人形。封印された身体。亡者が集う慰霊塔。花を付けないソメイヨシノ。

 

「……あぁ。何となく、分かっちゃいました。どうしてマスターが、桜さんの魂の消耗を防いでいた手段を知っていたのか。どうしてあたしが慰霊塔に触れた時、意識を失うまでの記憶が戻ったのか。……そして、どうしてソメイヨシノが、寿命よりずっと早く植え替えられていたのか」

 

ランの言葉に、芳乃はゆっくりと頷いた。

過去に起きた非道の全てを肯定して、魔術師は真実を告げる。

 

「お前の考えてる通りだよ。あの慰霊塔の下には、封印によって成長が止まったお前の身体が眠っている。術式を維持する為のエネルギーをソメイヨシノから供給され、朽ちる事無く生き続けている」

 

告げられた中身は、ランの予想と寸分違わぬ内容だった。

桜へのエネルギー供給手段に気付いたのは、同じ手段を使用していたから。

ランが慰霊塔に触れた時に記憶を取り戻したのは、その下に眠る肉体と魂が感応したから。

そして、ソメイヨシノが通常の半分程の寿命しか持たなかったのは、その寿命を以て術式のエネルギーとして使われていたから。更に悟により桜に分け与え始めた段階で、ソメイヨシノには花を咲かせる程の生命力も残っていなかった。

 

「そこまで知っているマスターがこの学園に生徒として通っているのは、偶然じゃないですよね」

 

ランの確信に、「流石に気付くよな」と芳乃は軽く自嘲した。

隠していたわけではない。必要ではないから言わなかっただけ。気付いたのであれば、答えてやるべきだろう。

――――何よりも。ランには自分の事を知っていてほしいと、芳乃は願っていた。

 

「お前が眠っている慰霊塔と、その周りの桜。そして、お前が積み重ねた死への恐れが創り上げた“反転”の“結界”の監視を協会から任された魔術師の家系。それが深花家だ。俺はお前を監視する為に、穂叉(ほさ)学園に入学した」

 

故に彼は穂叉(ほさ)学園の“反転”の“結界”の存在を知っていて、亡者の学園に気付く事が出来た。

それを“制隠協会”に報告したはいいが、報告した芳乃が一番学園に詳しい事もあり、芳乃本人が解決する羽目になったのだが。

 

「どうして、マスターの家系が?」

「……当時の深花家は討伐隊の一人だった。お前を封印した張本人でもある。封印術式の管理はそいつにしか出来なかった……ってのが、表向きの理由だ」

 

表向き、と言った時点で、裏の事情があるのは明白だった。

 

「魔術師らしくないお人好しだったらしい。事前調査の人物像から、お前が“反転”を悪用するような人間じゃないと思っていた。だからせめて、お前の魂が安らかに眠り続けていられるように、管理を名乗り出た」

 

枝垂れ桜――誤魔化しの中にソメイヨシノ――純潔を植えたのも、そういった理由からだった。

だが、当時の深花家など顔も知らない芳乃にとっては他人にしか過ぎず、芳乃が穂叉(ほさ)学園に進学した事も単に監視がし易いからという理由でしかなかった。

契約を結ぶ相手にランを選んだ事もそうだ。封印までされた魔女が、本当に当時の深花家が気を掛ける程の純潔な少女なのかどうか、ついでに確かめようとしたに過ぎなかった。

芳乃は自分の意思でランと出会い、事件の調査を通してランチという少女を知っていった。

 

「それにしても色々あったな。本当に、お前に出会えてよかった」

 

お腹が空いていた。だから、食べ物によく釣られた。

魔女と呼ばれていた。だから、童話が嫌いだった。

生きる為に走った。だから、競争をコミュニケーション手段に選んだ。

ランチという精霊はいつも懸命に、今を生きていた。その姿は後悔を続ける魔術師を変え、前を向かせた。

答えは芳乃の右手に握られている。芳乃はこれからも、ランと共に居る事を望んでいた。

ランにもその気持ちは届いている。それは彼女にとって何よりも嬉しい答えで、尊い気持ちだった。

――――だからこそ。

 

「駄目ですよ」

 

芳乃の顔を見て、ランはきっぱりと拒絶する。

ランは、彼のこれからの為に明日のお昼代を受け取るわけには行かなかった。

それがどんなに苦しくて、瞳から何かが滲んでくる感覚がしても、伝えなければならない。

 

「マスターが協会から受けた指令は、この学園で起きている異常事態を解決する事。亡者の学園の原因の一つであるあたしを、放っておく事は許されません」

 

彼女が経験した数々の死への恐れが学園を呪い、“結界”と化した。

その念は彼女の魂が摩耗しきらない限り続く。“反転”の“結界”がどこかの魔術師によって、再び悪用されるかも分からない。

このままランを放っておいたままでは、協会からの依頼を完遂する事は出来なかった。

 

「……お前の魂が肉体に戻ったって、封印されている限り魂は摩耗しない。俺と契約してる状況と何も変わらない」

 

芳乃との契約によって得た魔力が底を尽きた所で、契約から解放された魂が肉体へ戻っていくだけだ。

そして、死を“反転”させる事により彼女の肉体は死ぬ事は無い。

だからこそ封印という手段を取るしかなく、百四十年もの間監視されてきた。

慰霊塔の下で眠り、動かぬ肉体で死を拒む。魔術師の許で起き、動く霊体で死を憂う。

どう転んでも彼女の魂は摩耗せず、現状は変わらない。

そんな事はランにも分かっていた。分かっているからこそ、彼女はこう告げるのだ。

 

「あたしを、殺してください」

 

――――芳乃の中で、世界が死んだように思えた。

 

「あたし、マスターになら殺されてもいいですから」

 

息が上手く出来なかった。そもそも呼吸とはどうやってやるものだったか、それすら芳乃は忘れてしまった。

こんな時だけ冷静に働く頭が恨めしくて仕方がなかった。彼女が死を拒まなければ、肉体は破壊出来る。人間の魂は人間の肉体に宿ってこそエネルギーを得る。肉体から解き放たれた魂はやがて摩耗していき、何時かは消えていく。

芳乃の右手が震えていた。彼女との明日を迎える為に握った拳が、今や彼女を殺す為にあるのだと思えて、切り落としてしまいたい衝動に駆られる。

教室に映る二人が並ぶ影に異変が起きる。存在の濃度を示すかのように、影の中に月光が混じり始めた。

 

「マスターならきっと、あたしの死を背負って生きてくれますから」

 

殺される事が決定事項であるかの様に言うランに、回らない舌を何とか動かして芳乃は抗議する。

 

「……まだ、やりたい事がいっぱいあるだろ」

「ありますよ。でも、もういいんです。あたし、この学園で沢山の人を助けられました。ジャックナイフさん、アリスちゃん、スプリンターさん。あたしの言葉で前を向いてくれて、頑張ろうって思ってくれた人達が居ました」

 

ランの声は震えていた。瞳から零れた涙は、床に辿り着く前に霧散してしまう。

やりきれない気持ちを隠せない芳乃に、ランは涙を流しながらも笑顔で告げる。

それは今までの感謝と――――別れの言葉。

 

「マスターからも抱えきれない程の気持ちを貰いました。あなたの冷たい優しさとか、あたしを抱きしめてくれた時の温もりとか。いつもあたしを励ましてくれて、背中を押してくれて。……そして何より、あたしが知らなかったこの気持ち――恋という経験も」

 

それはランの中だけの感情だ。同時に、芳乃がランに向けている感情も、芳乃の中だけの感情だ。それを愛と呼ぶ事を魔術師は未だ知らず、両者が同じ感情を持てなかったが故に、同じ決断を出来なかった事も気付かない。

だが、それでいいとランは納得していた。いつか彼の前には相応しい相手が現れる。その時には過去の人間である自分は邪魔だ。生者と死者が交わらないように、今と過去の人間も交わらないのは世の摂理なのだから。

月明りが、ランの身体をすり抜けた。薄青の髪が輝きを失い、緩やかにそこに居る筈のランが薄くなっていく。自分の存在が希薄になっていく事は自分が一番感じられるのに、こんな時でもランの心には恐怖は無かった。

――――その事に、『あぁ、そうだったんだ』と今更ながらにランは思う。

 

「あなたがくれたお昼代じゃなくて、あなたがくれた気持ち。それが、あたしとあなたの本当の契約の対価だったのかもしれません。冷たいあなたから受け取った気持ちは、あたしの最期には温か過ぎました」

 

人は自らの魂が求める何かと引き合う。

今この瞬間、ランは自分が何が一番欲しくてこの魔術師と契約をしたのか理解した。

もう、輪郭がぼやけていっていた。次に告げる言葉が最後だ。二人は直感して、その瞬間を迎えた。

 

「だからさようなら、マスター……いえ、芳乃君。この幸せを以て、あたしとあなたの、契約の……終わりを」

 

――――告げて。全てが夢や幻であったかと思うぐらい透明に。

ランチという精霊は、フランチェスカ=フリジメリカの肉体に戻っていった。

それから数十秒後。亡者の学園の終わりを告げる最後の鐘が鳴り、世界は夢から現へと戻っていく。

どうしてだか、鐘が鳴り終わった後も芳乃の耳には鐘の音がしている気がした。

 

「……“反転する魔女”、か」

 

耳にこびり付いた鐘の残響が終わり、静寂が世界を包んだ頃。

芳乃は最初にして最後の七不思議の名前を呼び、振り返って中庭を眺めた。

そこには見慣れた慰霊塔があった。桜に囲まれた慰霊塔。その下に眠る彼女。自分と共に夜を駆け抜け、絆を深めていった相手。

そんな相手が隣に居ない喪失感を、芳乃は漸く感じ取った。

もう、『マスター』とは呼ばれない。彼が結んだ契約は既に失効している。その現実が重くのしかかって潰れそうな何かがあると分かって、芳乃はやっと気付いた。

染衣(そめい)(さくら)の一件で、自分は慣れたと思っていた。

あの時に心は壊れてしまって、精々彼女がくれた仮面しか人間らしい所は残っていないのだと。

それは間違いだった。だってこんなにも、胸の内にある何かが欠けてしまった感じがするのだから。それは誰から貰ったものなのか、考えるまでもない事だった。

最後の夜。こうして、七不思議によって起きた穂叉(ほさ)学園の怪異は終演した。学園は日常へと戻っていく。

たった一人――――深花(しんか)芳乃(よしの)だけを残して。

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