十月二日。時刻は十七時過ぎ。俺は一人、携帯を耳に当てて慰霊塔の前に立っていた。
正確に言えば、慰霊塔があった場所だ。俺の足元には先週まで慰霊塔だった石が散らばっている。所々焦げた地面を見れば、落雷があった事は誰の目にも明らかだ。
暫く見なかった事にしてきたのだが、そろそろ現実と向き合わなければいけない頃だろう。喉の一歩手前から出掛かっている「どうしてこうなった」を何とか呑み込んで、俺は通話口に向かって苦情を出した。
「……本当に、これどうするんですか?」
俺の苦情など意に介さず、通話相手――秋月さんはいつも通りの声色で返してきた。
『だって深花君、珍しく仕事以外で私の事頼ってくれちゃったんですもん。それはもう、張りきるしかないですよね』
「……はは、どうも」
乾いた笑いが出てきた。どうやら公共物を木端微塵にした事は、結果通り微塵も悪いとは思ってないらしい。
秋月さんは色々と規格外だという事は分かっていたが、肝心な場面での倫理観も規格外だった。理解が足りていなかったらしい。
まぁ、確かに頼ったのは俺だ。秋月さんは確かに『雷ぐらいなら落とせる』と言っていた。そんな時に頼ったなら慰霊塔に雷を落とされるに決まっている。それも慰霊塔が粉々になるレベルの威力で。
これは……そう。フランチェスカを掘り起こす為に慰霊塔をどうにかする手段を、秋月さんに頼った俺への罰だ。最初っから他人頼みではいけないという、秋月さんなりのメッセージなのかもしれない。
「って、なるわけないでしょう! 誰が慰霊塔を粉砕してくれって言いましたか! 慰霊塔と桜の管理者として、許しませんからね!」
あれは別に、フランチェスカを隠しておく為だけに建てられたというわけではない。
被害者である亡者達を慰める為の塔でもある。それを当たり前の様にぶっ壊されるとは思っていなかった。管理者として普通に怒り心頭である。
俺の怒りが流石に伝わったのか、若干秋月さんはしょんぼりとしていた。
『うぅ……深花君、今日は圧が強いです。分かりました、その辺りはおいおい何とかします』
一応、反省はしているようだった。
考えてみれば秋月さんなら適当にやっても慰霊塔を破壊するどころか、地面に大穴を開けるレベルの威力だっただろう。
それを慰霊塔だけをピンポイントで破壊しただけに止めたのは、秋月さんなりに考慮してくれた結果なのかもしれない。
考慮した結果がこれなのはもう、仕方が無い事として受け入れるべきだろうか。
「……俺も協力しますよ。お世話にもなりましたから。寧ろ俺の方が負債は多いですしね」
随分と覇気の無い声だった。普段からそこまで元気だった覚えもないが、今のは自覚できる程度には酷い。
当然秋月さんにはばれており、心配そうに息を呑む音が聞こえる。
『本当に、あれでよかったんですか?』
主語が無くたって、ランの事を言っているのは分かった。
今日の昼頃まで散々確認を取ってきたのに、秋月さんは確認を取ってきた。
「いいんですよ。決めた事です」
迷いなく答える。告げた通り、決めた事だ。後悔なんてない。
そもそも、おかしな事を言ったつもりもない。心配される謂れなんて一つも無かった。
それ以降、秋月さんは何も追求してはこなかった。静かに俺の選択を尊重してくれて、通話が終わる。
本当に、秋月さんには世話になりっぱなしだった。多分一生頭は上がらないだろう。慰霊塔の件は除いて。
「……ふぅ」
秋の空気に、溜息が溶ける。
――――あれから、一週間程が経過した。
背が低い夕暮れは校舎の高さを超える事は叶わず、中庭に赤の色は薄かった。
あと数時間もしない内に世界は夜に切り替わる。亡者の学園は既に存在しないが、“反転”の“結界”は未だに存在している。
学園を呪ったフランチェスカ=フリジメリカの魂が摩耗しきらない限り“結界”は続く。それはきっと、あと半世紀以上は続いていく事だろう。
亡者の学園がなくなっても、世界はそんなに変わらない。当然学園に通う人間は何があったかなんて知る由も無いし、誰かが劇的に変わったという話も無い。
変わったと言えば慰霊塔を囲むという桜の配置の表現が、円形に配置するという表現に変わったぐらいだ。
それも学園の人間が気にしていたのは最初だけで、一週間が経った今では気にする人間は誰も居ない。
所詮、世界の陰で起きていた事だった。異能の存在の秘匿を責務とする“制隠協会”の人間としては、喜ぶべき事だった。
学園内に残っている生徒達は部活や委員会をしている連中だけだ。今日は朝から協会に用事があったので学校を休んでいたが、明日からはまた一人の生徒として学園生活を送る。
慰霊塔を建て直す事は秋月さんと相談して進める事を決めた。
ここにはもう誰も居ない。ソメイヨシノの下に桜は眠っていないし、慰霊塔の下にフランチェスカも眠っていない。ソメイヨシノが繋げる命はもう存在せず、桜は自分だけの為に命を燃やし、花を付ける。そして漸く、慰霊塔も正しい意味で霊を慰める役割を果たせるのだろう。
ならば今日出来る事はもうない。慰霊塔跡地へ背を向け、家に帰ろうとして――――誰かがこちらへ向かってきている事に気付いた。
「……やぁ」
向かってきた男は俺と目が合うと、声を掛けてくる。
声音は気まずそうで、それだけで俺と男――上桐との関係を物語っていた。
ここでやる事もないが、こいつと話す事はもっとない。それは向こうも分かっている筈なのに、上桐は俺の前に立ち塞がって、今は咲いていない桜を見上げている。
「慰霊塔を見ていたのかい?」
「……俺はここの管理者だからな」
短く答えれば、待っていたのは沈黙だった。
上桐は変わらず慰霊塔の方を眺めていた。どうせ、桜の事でも考えているのだろう。好きにすればいい。
だが、今度こそ帰ろうと足を進めようとした途端、会話を続けてくる。
「今日は学校を休んでいたみたいだね」
自分が追い詰められた日の事を思い出したのか、苦々しい表情で上桐は言う。
「日中は協会に用があった。事件の後始末を色々と済ましてきたんだよ」
「それじゃあ、もう亡者の学園に関する事は全て終わったんだね。僕が張った“結界”も、もう無いのかな」
自分だって協会の取り調べを受けていたのだ。軽い顛末は知っていて当然だろう。
だが、自分で張った“結界”が解除されたかも分からないのは些か気に掛かった。
俺の疑問を察したのか、上桐は「あぁ」と軽く笑った。
「そうだよ。昨日まで協会の日本支部で処罰を受けていてね。“魔力回路”を悉く潰されたよ。それが昨日漸く終わって、今日から無事に職務復帰というわけかな。いやぁ、忌引き扱いになっていたから、約一週間も休んでいたのに逆を気を遣われてしまったよ」
上桐は困ったように頬を掻いた。欠勤理由については、協会によって色々と工作が入ったようだ。
協会が寛大だったという事だろう。その心遣いに感謝した方がいいだろうし、流石にそれが分からない程子供ではない。
そう思っていたのだが、おまけに上桐は少しばかり頭が回ってしまうらしい。どこか無視出来ない違和感を感じ取ったかのように、真剣な目付きで俺を見た。
「確かに処罰は受けたよ。“魔力回路”は全て潰され、僕はもう魔術を行使する事は出来なくなった。でも、これでも処罰が軽過ぎる。……単刀直入に訊くよ。どうして僕を助けたんだい?」
俺が上桐の処遇について協会の方に口添えしたのは、察しが付いているようだった。
教える義理は無いが、黙っている理由も無い。俺の個人的な感傷ではなく、こいつの価値に基づいた判断だったからだ。
「桜の為とか、都合のいい勘違いをされたら虫唾が走るから言っておく。お前はこの学園の養護教諭だ。お前にしか悩みを打ち明けられない生徒だって居るだろう。……こんな時間に態々ここに来たんだ。その事は今日、思い知っただろ」
「……そうだね」
どうせ、こいつはさっきまで保健室で生徒の悩みを聞いていたのだろう。
突然の一週間の休みに、上桐を待ち遠しく思っていた生徒も居た筈だ。
この学園には上桐が必要だった。それ以外に理由は無い。こいつの身を守ったのは、こいつが今までやってきた事による生徒からの信頼だ。
死者を追った所業の罪科を、軽んじてきた生者に救われる事は、こいつにとっては死よりもお似合いの結末だろう。
「……僕は間違った事をしたとは思っていない。今でもあれが、染衣さんにしてあげられる一番の事だったと信じている」
「好きにしろよ。どれだけそう思っても、お前はもう魔術は使えない。死人は死人だ。もうお前が出来る事は、精々墓参りぐらいだろ」
魔術師でなくなった上桐には、もう霊体を認識する事も出来ない。
普通の人間が行える程度の弔いで、こいつは自分自身を慰めていくしかない。
だというのに、こいつは何故か俺を哀れむような目で見つめている。
「……君はどうなんだい。ランさんの正体は、協会から聞いたよ。……僕は君に追い詰められる以上に、彼女に破滅へ導かれていたんだね。苦い思い出だ、早く忘れてしまいたいよ」
まぁ、事件の顛末を知っているのだから、その際にランの正体も聞いていて当然だ。
この聞き方からすると、こいつを協会に引き渡した後、俺とランの契約が終わった事も知っているのだろう。
勝手な奴だ。自分と俺を見比べて、同じ境遇だとシンパシーでも感じているのか。
「答える必要は無いな。あいつは“反転”の“結界”を消す為に、契約の履行を望まなかった。だから俺はそれに応えた。唯それだけの事だろ」
それがこいつの言いたい事だったなら、これで話は終わりだ。
いい加減上桐に付き合ってやるのも面倒だ。そもそも、こいつは一人で桜を眺めて自分を慰めに来たのだ。これ以上付き合ってやる義理は無い。
俺が歩き始め、上桐の隣を通りすがった頃。
「最後に、一つだけいいかな」
その言葉に、俺は足を止めた。
上桐の言う通り、これが俺達の最後の会話になるだろう。
これから先、きっと俺と上桐は交わらない。お互い不必要に桜の事を思い出さないように、唯の生徒と養護教諭以上の会話はせず、そして俺は卒業していく。
俺との最後の邂逅の終わりに、上桐は何を告げるのだろうか。
「どうして僕が犯人だと思ったんだい。君が僕が魔術師だとも知らなかった筈だ」
当然の疑問だった。いくら協会という組織の調査網があったとしても、協会に登録されていない人間を調べるのには時間が掛かる。
今回は確証があったから作戦を先に立てられたとはいえ、上桐の魔術師としての経歴が送られてきたのは夜になってからだ。
まぁ、そんな質問の内容で正直安心する。桜が幸せだったかとか、幸せにするにはどうすればいいとか、そんな感傷に満ちた事を聞かれていたら答えない所だった。
腐っても元魔術師なのだから、そういう己の興味や疑問をぶつけてくるべきだろう。
「……お前が桜の人形をソメイヨシノの下に埋めたからだ。枝垂れ桜の寿命とソメイヨシノの寿命を比べれば、どれだけ効率の悪い事をしているかの自覚はあった筈だ。だから、犯人はそれをする理由がある人物だと思った」
「それが、僕だと?」
俺は反応代わりに伝えてやる。
「今じゃ俺とお前だけなんだよ。桜が、ソメイヨシノが好きな事を知っているのは」
だから犯人が分かった。桜がソメイヨシノが好きな事を知っていて、尚且つそれをする個人的な感情を持っている人間はお前だけだから。
お前が魔術師かどうかなんて関係なかった。俺はお前だと確信していた。桜の葬式に出た時の、『自分のせいで桜が死んだ』とでも思っていそうな表情が気に入らなくて、俺はお前と半年以上距離を置いたんだから。
最後の質問には答えた。俺は歩を進める事を再開する。
後ろから声を掛けられる事は無かった。俺達はこうして最後の問答を終え、二度と魔術師として交わる事は無い。
慰霊塔の様子を見るだけのつもりだったのだが、長話をし過ぎたようだ。校門を抜ける頃には、空はオレンジと群青が入り混じり、境は曖昧になっていた。
世界は何にも変わらない。事件が一つ終わったとしても、それは一日と一日の狭間に、一つの学園の中で起きた小さな事件だ。
バス停から遠ざかる恋人達にも、住宅地ですれ違う親子にも、家へと向かっていく夫婦にも、何も関係が無い事。
――――だけど、変わった事もある。
三葉はどこか行動が危うくなった。朝、ぎりぎりの時間に登校する俺とよく昇降口で出会うようになった。
蓬生は僅かに素直になった。昼に図書室へ借りた本を返しに行けば、お決まりの喧嘩の中で怒号以外の言葉が聞こえてきた。
月島は胸を張ってマネージャーの仕事をしていた。夕方、所狭しとマネージャーを勤め上げ、それを迎えにきた久城へ楽し気に告げていた。
全部、あいつが変えた事だった。魂だけが通う亡者の学園で、あいつが想いと言葉を伝えて変えた事。
本来であれば無意味だった亡者の学園に、あいつはたった一つの意味を生んだ。
考え事をしていれば、知らぬ間に俺が住んでいるアパートに辿り着いていた。
今まで何を考えていたんだったか。俺はポケットから鍵を取り出しながら思い出す。
あぁ、そうだ。あの亡者の学園に意味を生んだ事だった。鍵を回しながら考える。
あれはあいつにしか出来ない事だった。魔術師なんて人でなしには到底不可能な、人としての功績だ。
それに、あいつは見事に七不思議を説得する仕事を完遂した。功績は称えられるべきだし、仕事には報酬が支払われるべきだ。ドアを開けながらそう思う。
「おかえりなさい、芳乃君」
――――だから、俺は。
どんな代償を払ってでも、俺の帰宅を安心した笑みで迎えてくれるこの少女を――フランチェスカ=フリジメリカを、助ける事を選んだのだ。
◇
「――――色々と落ち着いたら、訊こうと思ってたんですけれど」
帰宅後、夕食を食べて。恒例となった腹ごなしを兼ねた散歩をしている最中に、ほぼ隣で歩くフランチェスカは俺を見上げながら訊いてきた。
「どうして、あたしを助けてくれたんですか?」
フランチェスカは俺の服の袖を掴んで放そうとしない。日中ならそこまで支障はないのだが、夜は俺が傍に居ないと外を出歩く事は出来ない。百四十年前の粛清は、フランチェスカの心に大きな傷を残していた。
今でも俺の身体に若干身を隠しながら、きょろきょろと周囲を警戒している時がある。
フランチェスカは封印されて運動機能が落ちていた身体共々、こうして外に出るリハビリが必要だった。
「……芳乃君って、協会の人ですよね?」
フランチェスカの視点からすれば、当たり前の疑問だった。
今まで散々自分を殺し、剰え封印までした組織の人間が、自分を保護しているのだ。理解が追いつかずに状況に流されるのも無理からぬ事だろう。
……まぁ、状況もそう分かってはいないだろうが。フランチェスカが封印されてから百四十年程の時間が流れている。文明レベルは天と地程の差があり、彼女は毎日を生きるだけで精一杯だろう。
今日も日中までは協会の支部に一緒に居たのだが、その間も頭が回ってない様子で相槌だけを繰り返していた。
「死にたくないって思ってた奴を助けた。それじゃ駄目なのか? 生憎、死にたいって思ってる奴を助ける程お人好しじゃないからな」
「……吃驚しましたよ。学校で封印されたと思って、起きてみれば芳乃君のお家だったんですから」
――――あの日、ランが消えた後。俺は慰霊塔の下からフランチェスカを掘り起こした。
そのままフランチェスカを自宅へと連れ帰り、封印を解いた。術式は深花家に詳細な資料が残されている。解除は容易いものだった。
そうして、目が覚めたフランチェスカの混乱をどうにか静め、朝が来るまでに彼女の身の安全を確保する為に奔走した。
慰霊塔に雷をぶっ放してから一時間も経っていない筈なのに、何故かアパートに来てくれた秋月さんには感謝しかない。ワープぐらいは絶対に使っているだろう。
「お前の身の安全と、新しい戸籍、その他諸々……。正式な手続きを踏むにはそれなりの代償が必要だったな」
粛清対象だったフランチェスカの身柄を自由にする事は生半可な事ではなかった。
今回解決した事件の報酬は全て使ったし、事件の調書でランがどれだけ亡者の学園の調査に協力的だったかを訴えた。それでも足りずに教会でかなりの発言権を持つ秋月さんの力を借りた。おかげで俺は、暫く秋月さんに小間使いとして連れ回される事が決定している。今までも調査に協力はしてきたが、今度こそ生きて帰ってこれるかは怪しい所だ。
とりあえず、今出来る事はやった。後の事はどうなるかは知らないが、俺に後悔はない。
……今のこの状況だって、分かっていて俺はこの道を選んだ。
「……芳乃君って正式な手続きを踏むんですね。正直“反転”の問題辺りは踏み倒すものかと」
「それが一番無理な話だろ……お前、どうして自分が粛清されたか忘れたわけじゃないだろ」
意外そうな目で俺を見るフランチェスカ。何だか馬鹿にされてる気がしてならなかった。
フランチェスカが言っていた事は、俺とフランチェスカの間に結ばれた術式の事だ。
百四十年前の様に大規模な“反転”の兆候を俺かフランチェスカが感知すれば、俺の命を以て彼女の心臓が止まるようになっている。この術式そのものを“反転”しようとしても同様だ。
協会……と言うか、秋月さんがフランチェスカの身柄を俺に預ける際に提示した条件だった。これによってフランチェスカが死を受け入れず“反転”し、俺だけが無駄死にをした場合、秋月さんが彼女を滅する手筈になっている。
無論、秋月さんは俺達を信じているからこそ、この条件を提示した。協会に対する面子の様なものだった。
別れ際に『後は深花君次第ですから、頑張ってくださいね』と応援してきたが、何故態々そんな事を言ってきたのかは謎だ。
「ルールの抜け道は使うけど、ルールは守る。魂だけの死者じゃなくて身体と魂が揃った生者なら、摂理に反してない。ちゃんと代償も払った。上桐と一緒にするな」
「上桐? ……あぁ、えっと。亡者の学園? って場所を作っていた人ですよね。えーっと、えーっと……」
「あんまり無理して思い出そうとするな。心と身体がずれるぞ」
俺と繋いでいない方の手で蟀谷を押すフランチェスカを諫める。
――――当然の事だが。フランチェスカはランチとして活動した事は憶えていない。
脳に保存されるのは、肉体が経験した記憶だけだ。他の七不思議達と同様に、魂だけの記憶は脳には保存されない。無い物を引き出す事は出来ない。それは当たり前の事で、覆しようのない現実だ。
フランチェスカは、自らの魂が俺と共に亡者の学園を駆けた事は知っている。だけど、それは記憶ではなく記録として。飽くまで他人としてだった。
俺と明日の昼飯代で契約した精霊、ランチはもう居ない。……だが、俺はそれで構わなかった。
「別に思い出さないでいい。……俺がずっと憶えてるから」
「……芳乃君」
ぐい、と摘ままれた袖が引っ張られて。俺は彼女の顔を見た。
薄青の瞳は憂いを帯び、大きな水晶として俺を映している。成程、情けない顔をしている。これでは心配を掛けて当然だろう。俺は少しばかり強引に、話題を変える。
「そういやお前、料理出来たんだな。結構美味いよ。昼飯に弁当を食うのが久しぶりだから、そう思うだけかもしれないけれど」
「いやいや、お昼を食べる食べない以前に、芳乃君に任せると鍋しか出てこないんですもん。あたし、目が覚めてから既に五回は鍋を食べてますからね? それに、芳乃君がお昼は学校でお家に居ないからお昼代を貰ってるんですから、貰った分で返せる事はします」
フランチェスカが言う通り、昼は俺が学校で家に居ないので昼食代を渡していたのだが、貰うだけでは嫌だという彼女の言い分に従い弁当を作ってもらっている。
これが中々美味かった。現代のキッチン周りや調理器具に驚きながらも、楽しそうに料理をするフランチェスカを見ているのも面白い。
そう考えれば、一つの疑問が浮かんでくる。
なし崩し的に俺と生活をする事になったフランチェスカだが、あの時は俺しか頼れる人間が居なかっただけで、本当はフランチェスカにとって、もっといい道があったのではないだろうか。
俺と一緒に居るよりも他の誰かと居た方が、こいつには大きな発見が待っているかもしれない。
「……今からだって遅くない。お前が俺とは関係の無い人生を歩みたいなら、俺がそう出来るように頑張るよ」
一度疑問に思ってしまえば、伝えられずにはいられなかった。
小さく笑って、『俺は大丈夫だから』とフランチェスカが安心してくれるように祈ってみる。それを見たフランチェスカは、何度か声を出そうとするが声にはならず、一つ深呼吸をする。
そして意を決したように俺を見上げ、声を震わせながら言った。
「あたしが目覚めて芳乃君と初めて会った時、どこか懐かしい感じがしました。芳乃君が協会にあたしの身柄を引き取る事を申し出た時も、この人なら大丈夫ってあたしのどこかが言ってたんです。だからあたし、芳乃君に着いていくって決めました。……これって、あたしの中の何かが、芳乃君の事を知ってたんですよね?」
それは、フランチェスカが目覚めてからずっと感じていた事だったのかもしれない。
自分の中の魂が沢山の出会いと別れを経験して、大きく成長をした。それが既視感にも似た感覚を身体に与えるのは、避けられない事だった。
「……芳乃君にとっては、辛い事かもしれませんけれど。教えてくれませんか? あなたと契約したランチが、どんな女の子だったのか」
言い終わって。漸く言えたと言わんばかりに、彼女は華の様に笑った。
ランはもう居ないのかもしれないけれど、フランチェスカの魂としてここに居る。
それだけで何も要らなかった。生きていくには十分過ぎる。
俺は思い出そうとして、思い出すまでもない事に笑ってしまう。一週間やそこらで記憶の底に仕舞うには、ランの存在は大き過ぎた。
「……まぁ、先ず第一に食い物に弱かったな。林檎に釣られるし、お茶菓子に釣られるし、契約の対価は俺の明日のお昼代だし」
「ちょ、お腹が空くのは一大事なんですよ!? 芳乃君は食べ物への感謝が足りませんねぇ!!」
フランチェスカの怒りの抗議をしれっと無視して、俺は続ける。
返す感じがランに似ていて、どこか嬉しかったのは顔に出ていないだろうか。
「その次は……魔女が出てくる童話が嫌いだったかな。それを蔑ろにするハッピーエンドも、あいつは好きじゃなかった」
「それは、そうですよ……誰かが犠牲になるハッピーエンドなんて、嫌です」
哀し気に目を伏せるフランチェスカを横目に、俺は続ける。
こんな時、お前は手を握ってきたな。そんな事を思う。
「言葉じゃなくて走ってコミュニケーションを取ろうとする時もあったな」
「……身体を動かすのって大切な事ですよ。もう少し身体の調子が戻ったら、ランニングとかしましょうね?」
楽しそうに未来を想うフランチェスカと共に夜空を見上げ、俺は続けようとした。
だが、それを拒むようにフランチェスカは掴んでいた俺の服の袖を放す。
急に自由になった片腕に、俺は思わずフランチェスカの方を見た。そこにはこの一週間共に過ごしてきた少女とは違う、見慣れた別の少女の顔があった。
「それで――――
――――脳のキャパシティが一気に蒸発した気がした。おかげで『どうかしたか』と問う事は出来なかった。それどころか、今の瞬間が現実かどうかも分からず、くらくらしてきた。それだけ、今呼ばれた名前は衝撃的だった。
フランチェスカは悪戯っぽく笑って、今度は直接俺と手を繋ぎ直す。
彼女の熱が伝わって俺を現実に引き戻したけれど、まだまだ混乱したままだ。電流が走った錯覚がする。実体化ではなく、実際の肉体から伝わる熱を強く意識するのは初めてだった。
「色々と訊いてはみましたけれど……改めて訊いてみましょうか。どうして……色んな未来を捨ててまで、あたしを助けてくれたんですか? ……あ、あれ? んー、これは……まさか、ですかね?」
そう問いながら俺を見上げつつ、尚且つ混乱している少女が誰なのか。
未だに落ち着きを取り戻さない脳味噌を冷ましながら、彼女が落ち着くのを待った。
そうして暫く。お互いの混乱が静まった後、彼女は照れ臭そうに笑んで、頬を掻いた。
「えへ。少しだけ、ランチちゃんの記憶も読めるようになったみたいです。……それに、芳乃君への想いも。つまり、つまりですよ! あたしはフランチェスカで、ランチちゃんで……そう! ランですね!」
支離滅裂な言葉だ。何が言いたいのかはよく分からないけれど、何を伝えたいのかはよく分かった。
普段だったら鼻で笑うだろうけれど、今回ばかりは俺もその笑みに釣られてしまったのだろうか。
仮面を剥いで、冷たい心の内から溢れてくる気持ちに従って。
「僕にとっては、どんな未来より。君と生きる未来の方が、大事だったんだよ」
自分の気持ちを正直に伝えようなんて、思ってしまったのだから。
そんな気の迷いは一瞬で、直ぐに元の俺に戻ってしまったけれど。
俺の気持ちが届いたかどうかは、赤く染まりながらも、喜びに満ちたその表情を見れば一目瞭然だった。
「……げ、言質、取りましたからね?」
怒って、哀しんで、楽しんで。忙しい奴だと思うけれど、それが生きてるって事なんだろう。
願わくば、俺とランの終わりは喜びに満ちた終わりでありますように。
――――月夜に咲いたあいつが、そうだったように。
「芳乃君」
名前を呼ばれて、俺は今一度ランという存在をしっかりと見た。
薄青の背中まである長い髪。髪と同じ色の爛漫さを宿した瞳。整った鼻梁と、笑みを形作る事を願う唇。そして、朱に染まった顔。
「明日のお昼代、よろしくお願いしますね?」
「そりゃお互い様だ。弁当忘れるなよ」
俺達の出会いはこれで終わり。これから続いていくのは俺達の人生だ。
“回想するソメイヨシノ”と、“反転する魔女”。普通とは呼べない俺達にはこれからも沢山の困難が待っているだろうけれど。必要なのは、きっと。
――――大切な人へ送る、明日のお昼代だけだ。