鹿江の圧政に耐えかねて家出を敢行した小学生の護。
しかし見知らぬ街で迷子になって……
シャドウゲールとプフレの過去を描いた百合です。
その日魚山護は人生何度目かの家出を敢行した。
「懐中電灯よし、水筒よし、携帯食よし、救急セットよし」
床に並べた荷物を一つずつ指さし確認し傍らのリュックに詰めていけばかなりの重量となる。
試しに背負ってみればずっしりと背中に食い込む。追手がかかった時の事も考えて荷物はできるだけ減らして身軽でいたいがそうも言ってられない、なにより生命線を繋ぐ必需品は省けない。しかしリュックに詰める品物を見た限りでは家出の準備というよりは子供の遠足の支度に等しい。
それも致し方なし、護はまだ小学生なのだ。
人生経験の足りない子供の頭で家出に必要な物を検討し、漫画や本を読み漁って徹底的にリサーチした。
家族との不仲や失恋や友人との喧嘩に無理解な大人への反発、護が触れた創作物の中において、校舎の窓ガラスをバットで割って回り盗んだバイクで走り出す反社会精神に漲った若者たちはさまざまな動機で家出を断行した。
護はそれら登場人物たちを参考に必要なものを揃え、がらんとした部屋の中を一抹の感慨をもって見回す。
庚江と二人でやったゲームも庚江が持ち込んだクッションも庚江のお気に入りの櫛もおいていく。
護の家出もまた時がたてば若き日の過ちとして笑って語れるようになるのだろうか?
否、断じて否。
それほど護の決意は固い。
「よし、と」
人小路家の敷地はだだっ広い。町一つ悠に入る面積がある。
護が生まれ育った場所だ、離れるにあたって少しも寂しくないといえば嘘になるがようやく自由の身になれる爽快感が上回る。
両親や使用人、人小路の人間に見つからないよう物陰から物陰に隠れて素早く移動する。行動には十分気を配った。枝ぶりのよい植木の影にサッと隠れ庭石の隣に伏せて、顔見知りの執事が通りかかれば石灯籠の後ろで息を殺し、姿が完全に見えなくなるまで辛抱強く待つ。
そんな苦労に苦労を重ねて漸く門から一歩外へ出た時は、思わず長々と吐息が漏れた。
シャバの空気はうまい。
懲役刑に処された囚人の気持ちがわかった。
しかし油断はならない、安心するのは早計だ。漸く第一関門を突破しただけだ、先はまだまだ長い。代を重ねて枝葉末節が拡張された人小路家の権力とそれがもたらす影響力は絶大で、護の生活圏の隅々にまで及んでいる。どこに間諜が潜んでいるかもわからない。時代錯誤だの誇大妄想だの嗤う連中は人小路家の偉大さを知らないのだ。
再び気を引き締めて、通行人に不審がられない程度の早足でその場を離れようと―
「あら護ちゃんこんにちは。今日は庚江さまは一緒じゃないの?」
「お嬢はおじい様に呼ばれてて、今日はひとりで。ちょっとそこまで本を買いに。新刊の発売日だから」
「護ちゃん、庚江さまは?」
「えっと、お嬢はおじい様のお付き合いで。わたしはちょっとそこまで」
「それにしちゃ大荷物だが……ハイキングにでもいくのかい?」
「ええとコレは……おやつ、そう、おやつです。お嬢と二人分入ってるんで」
「でも今庚江さまはおじい様に呼ばれてると」
「あとからくるんです、約束しててそれで。お嬢ってばああ見えて食いしんぼだから色々入ってるんです、これでもまだ足りないくらいなんです正直。いつもねこかぶってるけどバキュームカーのように食い意地張ってるんですよ」
「あらまあ、本当?」
買い物籠をさげた恰幅のよい主婦が朗らかに挨拶し、杖をついた散歩中の老人が相好を崩す。どちらも護とは顔見知りだ。登下校や遊びの行き帰りにすれ違えば気さくに声をかけてくる善意の住民だ。
人小路の家名に泥を塗らない為、両親の教育を疑われない為きちんと頭をさげて挨拶する。庚江に食いしん坊の冤罪を着せてしまったがこれまで自分が受けてきた仕打ちを思えば許されるだろう。
「じゃあこれで」
しどろもどろ言い訳しつつぱんぱんにふくらんだリュックを背負い直し、にこにこと見送るご近所さんの視線から逃げるように門前を離れる。
逃げるような足取りで……事実逃げているのだが……そんな自分が嫌になり、急に惨めになり、口中に苦い味が満ちる。
嘘をついた後ろめたさを噛み殺しつつ、リュックのベルトを両手でぎゅっと握る。
「庚江さま、か……」
護が物心ついたときから庚江はそう呼ばれていた、ナチュラルボーンに様づけだ。
アニメや漫画、フィクションの中でしかお目にかかれない呼称がリアルに引き継がれている。
さすがに家族は呼び捨てだが、屋敷の使用人も護の両親もご近所さんだって庚江に「様」をつけて恭しく敬っている。護と同い年の子供に、だ。対する護は年相応にちゃん付けで、呼称の区別に別段不満がある訳でもない。よしんばその呼称が立場の上下に基づいた差別であっても、庚江に非がないのだから恨むのは筋違いだ。
頭では理解している。だが心が納得しない。
へこたれかけた心を奮い立たせ、アスファルトで舗装された道を歩く。
人小路邸前と掲げられたバス停からバスに乗り、人小路邸前と冠された駅で降りた護がまず向かったのは女性用トイレの個室。
人がいないのを見計らって個室に入り、再び出てきた時、護の格好は一変していた。
野球帽を目深に被り、Tシャツにズボンというボーイッシュな服装。一目で女子だと見抜くのは困難、大抵の者は男の子だと誤解する。
「うん、いける」
トイレの鏡に自らの姿を映し、満足げに顎を引く。我ながらよい出来だ。帽子の庇をこまめに調整し顔を隠す。第二次成長期にさしかかる前、発育が良いとは言えない女子だからこそ使える裏ワザ。スレンダーで性差が曖昧な護には男の子の格好がよく似合う。もとからさほど長くない髪は帽子の中に隠した。体の線がでないようサイズが大きめの服をわざわざ選んだ甲斐はある。
きょろきょろとあたりを見回す。
誰もいないのをいいことに調子に乗って、腰に手をあて肩幅に足を開いて立ち、親指を立てるなどポーズをキメれば、鏡の中の自分も寸分の遅れなく追随する。
見事な変装だと自惚れる。自分の悪賢さが時々怖くなる。
頭のてっぺんからつまさきまで、惚れ惚れと鏡の中の自分を見直していたら、肩口に現れた女性がぎょっとする。
やばい、人が入ってきた!
「ごめんなさい、間違えました!」
音速で振り返り、変質者扱いされてはたまらないと脱兎のごとくトイレから走り出る。庇を深く引き下げてたので顔は見られなかったはずだ。
老若男女が行きかうホームの雑踏に紛れ、跨線橋を跨いで電車に乗る。
これは護の作戦。
駅まではいつもの格好で行き、トイレの個室で予め用意していた服に着替える。
野球帽とTシャツとズボンを身につけ、スカジャンを羽織り、帽子の中に髪をしまってしまえば一見して女子だとわからないはず。
もし追っ手がかかっても彼らが血眼でさがすのは女子小学生の魚山護で、だぶついたスカジャンと野球帽で偽装した男子小学生ではない。
その為駅に着くまでは普段通りにふるまって、逃亡者はスカートをはいた女の子だと印象づけたのだ。
護はおのれが平凡な容姿だという自覚がある、どこにでもいる没個性な小学生だ。だからこそ巧妙な変装でその他大勢に紛れることができる。
これがもし庚江なら、護の主人である少女ならひどく目立っただろう。
庚江はすべてにおいて同年代の少女たちをダントツ百馬身引き離した特別な存在だ。
容姿、成績、家柄。すべてにおいて恵まれている。お嬢様風のふんわりした巻き毛、すべらかな頬、長く優雅な睫毛に縁どられた大きな瞳。お人形さんのように華やかに整った容貌は異性同性問わず称賛と羨望の的となり、校舎内にはミーハーな有志によるファンクラブさえも存在する。一方護は……比べるのさえ哀しくなる。引き立て役、お荷物、金魚の糞。陰口にはもう慣れた。鹿江に比べて見劣りするのは仕方ないともう諦めている。
大体両親からしてそうなのだ。
ガタゴト電車に揺られながら窓に映る自分の顔をぼんやり見詰める。
ふと視線を下ろせば、リュックの側面に油性サインペンで書かれた自分の名前がとびこんでくる。
「3-1 魚山 護」
ご丁寧に「ととやま まもり」と横に小さく振り仮名がふってある。自分で書いたから字がつたないのはご愛嬌だ。それでも庚江ならもっと達筆で綺麗な字を書く、全国小学生書道コンクールで入賞した腕前は伊達じゃない。
ため息をつく。
初対面の人間に正しく呼ばれた事がない名前。姓にも増して奇抜な名前は「まもる」と呼ばれる頻度の方が断然多く、そのたび訂正するのが面倒くさい。クラス替えの初日は教師にも間違えられた。しかたないと諦観していても何故自分だけがと運命を呪いたくもなるお年頃なのだ。
お嬢様を守れるように護と名付けた。
名前の由来を聞けば両親はそう言った。護は生まれた時から庚江に付属している。魚山家は代々人小路家に仕えていた家柄なのだから自分だけが特別でも特殊でもない、したがって可哀想な子じゃない。
けっして。断じて。
「……まもり、か」
ぽつりとつぶやく。
もっとかわいい名前がよかった。駄々をこねたら叱られた。もう少しだけかわいい名前がいい、せめて一目で女の子とわかる名前がいいと願ってしまったのは、身の程知らずで恩知らずな高望みなのだろうか。
車窓にはふてくされた男の子が映っている。
まもりちゃん、改めまもるくんだな。
内心を見透かすようなもう一人の自分の姿を凝視する。
魚山一族が人小路一族の多大な恩恵に浴し庇護を受けている事実は否定できない。護の住む家も両親の給金も人小路から供出されたものだ。
自分の家出が明らかになれば両親にも迷惑がかかる。
反面いついかなる時も人小路の家と庚江を優先する両親などどうにでもなってしまえという捨て鉢な反感が燻っている。
私はお嬢のおまけじゃない。
物心ついた時から何遍もくりかえした台詞を今また胸裏でくりかえす。ちっとも気分は晴れやしない。門を一歩出た時の解放感と高揚感は早くも萎み始めて、刻々と不安ばかりが募っていく。
しっかりしろ護、新しい人生は始まったばかりじゃないか。
行くあても頼るあてもないけど、鹿江に一生を捧げるよりは自分の足で行きたい場所に行けるほうが余程いい。
仮定の話だが。
もし自分が男に生まれていたなら、「まもり」ではなく「まもる」であったなら、庚江との関係は変化していただろうか。
縦長の車窓に閉じ込められた少年は、それが仮初の自分の限界だと悟っているかのように何も答えてはくれなかった。
地元から五駅離れた駅で電車を降りた。既に夕方、帰宅中の会社員や学生でホームはごった返している。人ごみに揉まれながら改札を抜け、駅のロータリーを抜ける。駅の前にはファミリーレストランやゲームセンター、カラオケボックスが密集し、猥雑な繁華街を形成していた。友達とつるんで放課後遊びにくりだす学生とすれ違いつつ、雑居ビル一階の自動ドアをくぐり抜ける。
数分後、肩を落として自動ドアから吐き出された護の顔には、ありありと幻滅の色が浮かんでいた。
「会員証がなければ入店不可って、そんなの聞いてない……」
自動ドアの横には「24時間営業 ドリンクおかわり無料」と銘打った漫画喫茶の立て看板が。
雑居ビル入り口脇の看板を忌々しく睨みつける。人通りがなければ蹴飛ばしていたかもしれない。しかしそんなことをしても足を痛めるだけで利益がないと思い直せる程度に護は賢明だった。
この漫画喫茶は会員制で、初見の客は身分証を提示して会員証を作らなければ利用できないのだそうだ。家出したらまず漫画喫茶の個室に転がり込んで、今後の対策を練ろうと考えていた護の計画は、初期の段階で最大の誤算を生じた。漫画喫茶ならば空調が整っているしドリンク飲み放題、数カ月かけてためたお小遣いで一晩はしのげる。ネットを使って次の行先を絞り込むこともできた。
しかし受付のバイトは未成年で身分証も所持してない護をすげなく追い返した。
「どうしよう……」
心細さに負けて弱音が漏れる。気落ちして自然と足取りも鈍くなる。周囲はそろそろ暗くなり始めている。街灯に明かりが入り、茜色の夕空もだんだんと薄墨に染まり始めている。
今晩どこで夜を明かす?公園のベンチで?四阿ならば最低限雨風はしのげる。そこから先は?ダンボールや古新聞にくるまって雑草を食べるホームレス小学生に?
先行きの不安がぐるぐると脳裏で渦巻いて暗雲がたれこめる。他の漫画喫茶やネットカフェをさがす?会員証がなくても入店できる店があるかもしれない。一縷の希望に縋って駅付近を捜し歩いてみたものの該当する店舗はなく、刻一刻と日は暮れていく。
もとより土地勘のない見知らぬ土地だ。
体力と気力を消耗した護はさんざん駅のまわりを行きつ戻りつ徘徊した末、繁華街と住宅街の中間地点の児童公園へ引き寄せられる。
古びた団地と隣接したその公園は、申し訳程度の遊具を設置した酷く手狭なもので、子供にもそっぽを向かれそうな寂れ具合だった。
今の自分にぴったりだな、と自嘲し、自嘲する元気がまだあったことに少しだけ救われる。
ペンキの剥げたラッコのスプリングアニマルに腰掛け、億劫げにおろしたリュックを膝に抱く。
家に帰る?今さら?両親にこっぴどく叱られることを思うと気が滅入る。
「はァ~あ……」
前かがみに突っ伏し、リュックにぼふんと顔を埋める。
自分の考えが浅はかだったと認めざるえない。考えに考え抜いて立てた計画のつもりが、初期の段階で頓挫した。
庚江ならこんな失敗はしない、庚江ならもっとうまくやる、庚江ならきっと……
砂利を踏む足音。極端に緩やかな動作で顔を上げる。残照を背に立つ人影が眩しくて目を眇める。
公園に突如として現れたその人物は、疲労困憊して沈み込むようにラッコの遊具に腰掛けた護へと、実に優雅な声音で語りかける。
「むかえにきたよ護。あまりてこずらせないでくれたまえ」
「……お嬢?」
ぽかんとする。開いた口が塞がらない。
「なんでお嬢がここに?えっ、えっ?」
目の前にたたずむ少女にはいやというほど見覚えがある。ゴージャスな巻き毛、華やかに整った目鼻立ち、自信にみちあふれた表情。傅かれ奉仕されることに慣れた貴人特有の気品がたおやかな立ち姿から醸されている。
人小路庚江。
魚山護のご主人さま。
護のコンプレックスの源にして忌避と嫌悪の対象。
「まさかずっと尾行してた……?」
どん引きしてあとじさる護に庚江はあきれ顔。
「GPSをつけてるから君の居場所はすぐわかる」
「マジ?!」
「嘘に決まってるだろう」
……やられた。しかし庚江ならそれくらいやりかねない。事実庚江はこうして護の目の前にいるのだ。
「じゃあなんで……」
「正解は君が最初に口にしただろう。単純にあとをつけてきたんだ」
庚江は腕を組む。
「ふと窓から見下ろしたら石灯籠の影に隠れてちょろちょろ移動してる君を見かけてね。あんまり挙動不審なものだから興味を引かれてこっそりとついてきたんだ」
「全然気付かなかった……気をつけてたつもりなのに」
「あれでかい?」
庚江が涼しげに笑う。護はぐっと押し黙る。
「まあ君が乗ったバスがわかりやすく人小路邸駅行きだったからね、家の車を出して追わせたのさ。それをズルといわれたら返す言葉もないがね。断っておくが、駅からは自分の足で追跡したよ。私の尾行の腕前もなかなかのものだろう」
「それいばるとこですかね……ていうか私男の子のかっこしてたんですが」
「変装してるつもりだったのかい?それで?」
ぐうのねもでない。
「……わかってたんなら言ってくださいよ、私すごく痛いじゃないですか」
「随分と自信たっぷりな様子だったから水をさすのも気が引けてね」
「もっと早く声をかけてくれてもよかったのに」
「タイミングを計ってたんだよ、人ごみで不用意に声をかけたら逃げるじゃないか。それよりは疲れ果ててしょんぼり公園の遊具に腰掛けてる所に真打ち登場したほうが手間が省ける」
その通り。
庚は護のことをよくわかっている、まったく憎たらしいほどに。
「そういう格好の護も新鮮でおもしろいけどね。私はいつもの護のほうが好ましく思うよ」
本当にむかつくこいつ。
最初からバレバレだったと指摘された上に変装の粗さをあげつらわれ、赤っ恥をかかされた護は不機嫌に押し黙る。
庚の気配が動く。梃子でもラッコの上から動かない鹿江の隣、ぞうの遊具へと優雅に腰掛ける。
スカートが皺にならぬよう指先でさりげなく折り目を伸ばすのを忘れないあたりさすがお嬢様。人目がなければベッドの上でもフローリングの床の上でも平気で胡坐をかく護とは育ちが違うと思い知らされる。
隣に座った庚江からはほんのりいい匂いがした。
公園の中央に聳えるのっぽの街灯が、点在する遊具の影を長々と引き伸ばす。
隣り合う遊具に腰掛け、しばし互いに沈黙。気まずい。とても気まずい。何か言わなければと焦燥感が募るも、自分から口を開くのは敗けを認めるようで癪だと、子供っぽい意地が邪魔をする。
そろえた膝の上においたリュックに視線を落とす護の隣、しめやかな呟きが零れる。
「家出の原因は私かな」
用心深くそちらを向く。暗闇に呑まれて影になった表情を俯かせた庚江の問いに、下手に隠し立てしてもしょうがないと不承不承頷く。
「護は素直だね」と庚江は愉快げに笑い、だがその声はすぐに絶えてしまう。
落ち着かなげに膝をもぞつかせ視線を揺らす護の横で、庚江はそらっとぼけてひとりごつ。
「これで五回目……いや六回目かな」
「たぶんそれくらいです」
「私に不満があるなら聞こうじゃないか」
「というか、不満しかないんですけど」
「ふむ」
またしても不自然に会話が途切れ、沈黙が落ちる。
違う、こんなことが言いたいんじゃない。胸中で焦りが生まれ、体重を移動した拍子にラッコの遊具が軋む。言いたいことや伝えたいことは山ほどあるのに言葉が上手く出てこない、喉につっかえて音になってくれない。庚江が隣にいる、何も言わずじっと寄り添っている。不思議と見張られているとは感じなかった。
プレッシャーはなく、甘やかしもなく、庚江はただ当たり前のように自然な距離感でそこにいる。
さりげなく自然体で、ありのままの魚山護を受け入れている。
受容と許容と寛容が理想的な比率で同居する態度は、庚江こそが護の唯一の味方であり無二の理解者であると代弁するかの如くで。
経験則でわかっている、庚江は家出の具体的な理由はなんだと根掘り葉掘り詮索したりはしない、他人の心に土足であがりこんで散らかすような露悪の最たる真似は彼女の美学に反するところだ。仮に問われたところで当の本人も上手く説明できない、溜まりにたまったものが爆発して衝動的にの一語に尽きる。衝動に駆り立てられた突発的行為にあれこれ理屈を後付けしてもむなしいだけだ。
でも、それでも。
庚江が何も言わないから、護の不義理を責めないから。
言い訳しなきゃいけないような錯覚に陥ってばつ悪げに口を開けば……
「……私はね、護」
帽子の中に髪をたくしこんでいるせいで、囁きに乗せた吐息がじかに剥き出しの耳朶にふれる。
「家をでるならなんで私もつれていってくれなかったんだと、少しばかり腹を立てているのだよ」
「は?」
無茶苦茶だ。
庚江から離れたい一心で家を出たのに、その元凶を連れてでたら本末転倒じゃないか。
咄嗟に腰を浮かせ言い返しそうになり、自制心を総動員してぐっと堪える。
大人しく腰をおろし、恨めしげなジト目で睨みつけられた庚江はといえばせいせいとした様子であっけらかんと言ってのける。
「私と護の仲じゃないか。金輪際水臭い隠し事はなしにしてもらいたいね」
「お嬢と私の仲って……」
がっくりとうなだれる。
なんかもう疲れた。何に腹を立てていたのかも忘れた。すべてにおいて庚江は護の一枚上手で一歩も二歩も先を行くのだ、そんな相手に怒るだけ労力の無駄遣いだと痛感した。
ともすれば滑稽にとられかねない尊敬する祖父を真似た爺臭い喋り方も尊大な立ち居振る舞いも、何故か庚江にはしっくりと馴染む。
祖父の威厳が寵愛する孫娘に宿ったのかしらん?
「さあ帰ろう、ご両親が心配する。宿題も片付けなければ」
用は済んだとばかりあっさりを腰を浮かす。
さりげなくさしのべられた手が何を意味するか、わからないほど子供ではなく意固地に拒むほど幼稚でもない。
憮然と口を尖らせたまま、ためらいがちに手に手を重ねる。
護の手をしっかり握り庚はにっこり微笑む。見る者を魅了する完璧な微笑み。
この笑顔は反則だ。
護は降参の白旗を上げる。
意を決して家出してきたはずなのに結局またこうして捕まってしまった、心の片隅ではこの結末を予測していた、自分の上を行く策士である庚江からはどうあっても逃げきれないと予感していた。男装した程度で悦に入ってた自分の悪賢さなど、笑顔で武装して他人の弱みに付け入る鹿江の狡猾さに比べたら子供だましの可愛いものだ。
繋いだ手から人肌のぬくもりが伝わる。庚江の手はしっとり汗ばんでいた。お嬢でも汗をかくことがあるんだなと内心驚き、至近距離でまじまじと横顔を凝視し、初めて疲労の上澄みに気付く。駅から徒歩で護を尾行し、小学生の足で見知らぬ街を歩き回ったのだ。疲れないわけがない。
自分の横顔を無言で見詰める護に、庚江が小首を傾げる。
「なんだい?」
ごめんなさいは違う気がした。
ありがとうもそぐわない気がする。
それでも今この瞬間何か言わなければいけない衝動に急き立てられ、庚江の視線に促されるように口を開き、また閉じ、それを二回ばかりくり返し……
「……ただいま?」
語尾が疑問形になってしまった。
庚江がきょとんとする。
「ここはまだ家じゃないし私は君の母上でもないのだが」
「わ、わかってますよそんなの!お嬢はお嬢だし私は私だってちゃんとわかってます、可哀想な子を見る目はやめてください!でもなんかお嬢がそう言ってほしそうな顔してたからついなんとなく!」
「はてそんな顔をしていたかな」
「もういいです!しらない!遠出がバレないうちにとっとと帰りましょ、善は急げって昔の人も言ってますし!」
自分でも口を突いて出た言葉が意外すぎて、申し開きしせんとして恥を上塗りして顔から火が出る。
庚江の手をひったくるようにしてずんずん突き進み公園をあとにする。
なんでよりにもよってただいまなのか?わからない、自分が知りたい。ここは家じゃない。
でも庚江の顔を見てたら無性にそう言いたくなって言わなきゃいけない気がして、おそらく護に恥をかかせぬよう護が家族に叱られぬよう一人でむかえにきてくれた庚江がそう言われるのを待っている錯覚をきたして、庚江の手の柔らかなぬくもりに包まれた瞬間親への反発とか己の運命への反抗とか意固地に凍えていた心が氷解し、たとえどんな悲劇や惨劇が世界を見舞おうと、きっと庚江の隣になら自分の居場所があるという安心感に満たされてしまったのだ。
今この瞬間世界が終わってしまっても。
護が世界のはてで迷子になっても、鹿江はきっと見つけだす。
どこにいてもむかえにきてくれる。
だから、ただいま。
おかしくなんて、ない。
庚のとなりが護の帰るところなのだから。
ふたりぼっちの帰り道。
街灯が等間隔に照らすアスファルトの舗装路を歩く途中、きゅっと縋るように指が絡んでくる。
「……おかえり護」
普段の庚江らしからぬ微かに安堵の滲んだ声音が柔らかく耳朶をくすぐる。
まだ家じゃないですよ、と憎まれ口を叩くのは控えた。お互い様だ。
完