時系列的には一期最終話後の話。
夢の中で槙島と対峙した狡噛が、彼に促されて手にとった本とは……
本人は登場しませんが、狡噛が朱への想いを語ってます。
白い部屋に白い男がいる。
無菌室めいた一面の白に埋もれることなく、その中心で一際清浄な異彩を放っているのは、同性でも思わず目を奪われる美しい男だ。
色の抜けた繊細な髪、きめ細かい白磁の頬、長く優雅な睫毛が縁取る切れ長の双眸と端麗な鼻梁。ほんの僅か色付いた唇にアルカイックスマイルを浮かべている。
芸術の域に達するほど整いすぎた容姿は、絶世の美形と評していい。
人の形を成す黄金律……存在自体が異端の象徴。
髪も肌も極端に色素が薄いが、彼の場合それはけっして存在感のなさや病的な雰囲気に結び付かない。かえって神秘性を増す要素として働いている。
真っ白な空間の中心に椅子がある。
今では見かけることの少ない、木製の安楽椅子だ。
ゆったり寛げるように人間工学的に設計された肘掛けに腕をのせ、もう片方の手に掲げた文庫本を読んでいる。緩く脚を組む姿からは、彼がリラックスしているのが見てとれる。
狡噛慎也はその異様な空間で覚醒するやいなや、これは夢だと直感する。
見ている本人に自覚のある夢……俗にいう明晰夢だ。
試しに一歩を踏み出す。体が意志通りに動くのを確認後、小さく息を吐いて顔を上げる。
白く殺風景な空間の中心、玉座に見立てた安楽椅子に腰かけた男が、狡噛の視線の圧に静かに本を閉じる。
視線と視線が絡み、薄い唇にまどやかな笑みが広がる。
「ようこそ、僕の世界へ」
それが槙島聖護の第一声だった。
もう二度と会うことはないと思っていた男と再び邂逅したが驚きはない。
何故ならこれは夢だから。
夢ではどんな摩訶不思議も起こりうる。
自分の手で殺した宿敵と対峙することも、当然。
襟足が長い銀髪がたおやかな首筋を流れ、琥珀の瞳が悪戯っぽく輝く。
怜悧な知性が磨き上げた金の瞳に、相手の反応を面白がる好奇心をやどし、玲瓏たる声音で宣言。
「お前は狡噛慎也だ」
「お前は槙島聖護だ」
すかさず狡噛は返す。
互いの声が奇妙に殷々と、静謐な空間に反響する。
事実確認のみに留まらない、当人同士には特別な意味を含むやりとり。
深沈と波紋を生じた声の余韻が消え入るのを待ち、槙島が口を開く。
「久しぶりだね」
「ここがお前の世界か。随分殺風景で退屈な場所だな、てっきりでかい本棚でもあると思ったが」
周囲を見回しながらの狡噛の皮肉を肩を竦めて受け流し、世間話をふる。
「本は好きかい?」
「ああ。紙の本がな」
「気が合うね、僕もさ。本はただの情報媒体じゃない、手で触れ目で見て感じる一個の完結した存在。読書は受動的な行為と思われがちだが、本来能動的な行為なんだ。自動的にはじまり終わる映画と違い、物語の先を知るには一歩一歩自分でページをめくるしかない。その過程で精神の調律も行える」
滔々と持論を述べる槙島を、狡噛はある種の感慨をもって観察する。俺は確かにコイツを殺した。引き金の感触はまざまざと思い出せる。
ということは、今目の前にいるこの男は、俺の精神世界に寄生する亡霊か?
「本は一個の世界、表紙は異世界への扉。ならば最初にノックをするのが礼儀じゃないか?」
「他人の脳内を覗くのは得意だものな」
「脳髄が見る夢を暴くのは悪趣味だけど、たまに面白いものが見れるからやめられない」
軽快に指を弾く。
「お気に召さないなら模様替えしようか」
突如として蔵書がぎっしり詰まった本棚が出現し、狡噛を驚かす。
「『本のない部屋は、魂のない肉体のようなものだ』」
「キケロか」
槙島がほくそえみ、試すように囁く。
「どれでも好きなのを選びなよ」
本棚には古今東西、あらゆるジャンルの名著が並んでいる。狡噛は人さし指で背表紙をなぞり、端から順に辿っていく。
椅子に掛けた槙島は、生真面目に本を選ぶ狡噛の様子を楽しそうに観察している。さっきとは立場が逆だ。
「『読む本を言いたまえ、君がどんな人間かあててみせよう』か」
狡噛は思案する。槙島は自分を試している。それを承知で槙島の顔色を窺うのはやめて、最も今の気分に合った一冊を選ぶ。
「へえ」
それを見た槙島が頬杖を付き、感心半分、興味半分の表情を浮かべる。
「アーシュラ・K・ル=グウィンの『風の十二方位』……なかなかいいセンスだ。彼女はゲド戦記に代表される児童向けファンタジーの大家だけど、SFでも特異な才能を発揮している」
「これに入ってる掌編が忘れられない」
「『オメラスを歩み去る人々』だね」
一瞬の空白ののち、槙島のおもてを過ぎった表情をどう形容すればいいか。
生まれて初めて同族と出会った新鮮な驚きと歓喜が、どうにも憎めない稚気を含んだ笑みとなって顔じゅうに滲み広がる。
こんな子どものような顔で笑う男が、あんな残酷なことをするなど信じがたい。
槙島は背凭れに深く掛け直し、形良く尖った顎先を上げて天を仰ぐ。
睫毛を伏せて瞠目、唄うような抑揚で語り始める。
「遠い遠い未来の話。ある処にオメラスという都市があった。オメラスは幸福と祝祭の町。国王も奴隷も広告も株式市場もない、原子爆弾もない。そこに住む人々は誰もが幸福で、衣食住の一切に不自由することなく、最高の生活を享受していた」
「ただし唯一の例外を除いて」
完璧な理想都市、清潔で快適な環境、老若男女問わず幸福な住人たち。
人類の夢の結晶たるその都市は、されど重大な秘密を抱えていた。
「オメラスの地下には窓のない牢獄があり、子どもがひとり閉じ込められている。出自はだれも知らない。否……上層部によって厳重に秘匿されていたのか。彼がおかれた環境は、それはもう惨いものだった。彼は知能が低く不当に虐げられ、栄養失調で痩せ細り、糞尿垂れ流しの暗闇で死にかけていた。この理想都市は一人の少年の犠牲の上に成り立っていたのだ」
何ら罪なき少年を監禁・虐待し、その代償に豊作や自由を享受する地上の人々。
偽りの幸福を疑いもせず、オメラスの素晴らしさを称賛する人々。
「たった一人の不幸な犠牲に目を瞑れば世はなべて事もなし」
「だが、真実を知ってしまった一部の人々はそれを是としなかった」
狡噛が続け、槙島が後を引き取る。
「彼らは自らの意志でオメラスを歩み去る」
「高潔な彼らは、無垢な子どもをサクリファイスに捧げ成立する都市の在り方を断じて認められなかった」
オメラスを歩み去る人々を、オメラスに残る人々はどんな気持ちで見送ったのか。
「……非常に示唆的な話だと思わないか」
狡噛は戯れに聞いてみる。
「お前はオメラスを歩み去る人々の列に加わりたかったのか?その先頭に立ちたかったのか」
「どうだろうね」
槙島は首を傾げ、唇に不敵な笑みをのせる。
「案外と僕こそが牢獄に閉じ込められた子どもなのかもしれない」
魂の牢獄に囚われた孤独な少年。
地上の人々からすれば不可視の存在、最後まで見付けてもらえない透明な子ども。
それこそが槙島の正体なら、なんと救いのない話だろうか。
[[rb:この都市 > シビュラシステム]]が白羽の矢を立てた[[rb:聖なる生贄 > サクリファイス]]。
「……よく言うよ。お前なら世話係を洗脳して牢を破るさ」
「そういう君は、きっと真っ先にオメラスを歩み去るだろうね」
見透かすように指摘され、不愉快げに眉をひそめるも否定はしない。
槙島の言う通り、この都市が無垢の犠牲の上に成り立っている真実を知ってしまったら、狡噛はここを去る。
それが彼の信念だ。
正義だなんだ善悪や是非をうんぬんするまでもない、詰まるところ狡噛慎也はそういう生き方しかできない男なのだ。
「最大多数の最大幸福の対義語がわかるかい?最低少数の絶対不幸だよ」
「人殺しが自分を憐れむのか?俺にはお前が不幸なようにはとても見えないがな」
「無謬の正義などこの世に存在しない。裁く側の欺瞞さ」
槙島聖護は無辜の怪物だ。
白い牢獄に閉じ込められた聖なる怪物は、ほんのひととき孤独を紛わせる遊び相手を欲し、そこにたまたま狡噛が名乗りをあげた。
槙島がスッと目を細め、感情を漂白した口調で呟く。
「彼はきっと、地上の人々がオメラスを去ろうが居残ろうがどうでもよかったんじゃないかな」
どちらの選択肢をとろうが、彼が孤独なのは変わらないのだから。見えない存在である現実は変わらないのだから。
「……だから、すべてを壊そうとしたのか」
狡噛の抑圧した問いを笑ってはぐらかす顔は、どこか寂しげに見えた。
本棚から抜き取った文庫本に眼をやり、狡噛は考える。
この男が憎い。憎いはずだ。
なのに憎みきれないのは何故だ、一度は殺した相手だからか?ここが夢の中だから、自分の精神世界だから、槙島の主張に共感めいたものを覚えてしまうのだろうか。
シビュラはオメラスの似姿だ。
この都市はサイコパス判定不能のイレギュラーな存在を、サクリファイスにすることで辛うじて成り立っている。
それとも俺は、こんな都市ぶっ壊れちまえばいいと心のどこかで思っているのか。
佐々山が死んだ時から、いやそのずっと前から、全てをシビュラに依存するくだらない世界など一度ぶっ壊れちまえばいいと思っていたんだろうか。
サイコパスでなにがわかる、なにが濁る?
サイコパスが基準値から大きく逸脱し潜在犯認定された佐々山は、くそったれたイイ奴だった。
親父のような征陸は、青臭さがぬけない狡噛に刑事の基本を叩きこんでくれた。
「狡噛慎也、君も本当はわかっているはずだ。この世界は欺瞞だらけ、無謬の正義など存在しない。シビュラはオメラスの似姿だ。サイコパスを計測できない透明な存在、200万人に一人の確率で生まれる免罪体質が、どんな悪を犯しても裁くことすらできない。存在しない存在が悪を成すのは矛盾だ、だからオメラスを歩み去る人々の存在は消された、彼らがオメラスを去った事実ごと歴史から消去された。シビュラにできるのはせいぜいイレギュラーを隔離することだけさ、真っ白い牢獄にね……量刑の概念が存在しないオメラスの落とし子は、麦畑で子どもを捕まえる者にもなれやしない」
皆が僕をすり抜けていく。
クリアホワイトは何ものにも染まらず、何ぴとにも認識されない。
聞こえないはずの心の声を聞いた気がして、狡噛は今はじめて、槙島聖護が本質的にはごくありきたりな……かくれんぼの途中で忘れ去られ帰る場所すら失った、ひとりぽっちの子どもにすぎないと悟る。
槙島がひたと狡噛を見据える。切実な眼差し。
「今からでも遅くない。こちら側にくるかい」
シビュラが完全管理する世界に狡噛の居場所はない。
シビュラによって罪人と断じられたら、残り一生隔離施設で無為に過ごすしかない。
今の狡噛慎也は執行官ですらない、殺処分を待ちぼうける去勢済みの猟犬だ。
真っ白い空間で槙島と向かい合い……狡噛は、小さく首を振る。
「俺は、とんでもなく欲張りな女を知ってる」
槙島の目に疑問の色が覗く。
狡噛は柔らかく苦笑いし、嘗て上司だった一人の女性の顔を思い浮かべる。
「誰もにオメラスを歩み去る勇気が備わってるわけじゃないし、そうしたところで可哀想な子どもが救われもしない。アイツならきっと、子どもを牢獄から助け出した上で、都市に住む全員が幸せになれる方法をさがす。そんなこと不可能だって皆に嗤われても絶対めげない。システムの誤りと人の過ち、その両方を目をそらすことなく受け止めて、絶対不幸を作らない、最大多数の幸福ってヤツを手探りし続けるのさ」
ああ、そうだ。
アイツがいるから俺はまだこの世界に絶望せずにいられる、最後の最期まであるかもわからない希望ってヤツを見失わずにいられる。
常守朱はとんでもなく欲張りな女だ。
どれだけ追い詰められてもけっして逃げださない。
絶対に捨てず、諦めず、牢獄に囚われた死にぞこないの子供を死に物狂いで助けだし、偽りの都市に住む無知なる人々も守りぬこうとする。
成しうるものが為すべきを為す世界から、ひとを、自分を、かけがえのない何かを信じうるものこそ為すべきを為す世界に変えようと。
アイツは[[rb:一係 > 俺たち]]の誇りだ。
オメラスに居残り、なお戦い続ける道を選んだ。
「正直なところアイツがいるだけで、この世界もまんざら捨てたもんじゃないって思えるのさ」
誘いを断ると同時、槙島の目に一抹の翳りがさす。
「それが君の選択か」
「そうだ」
幻滅でも失望でもない。
物憂く伏せた眼差しにはただ、永遠の停滞が続く白い牢獄に置き去られる寂しさだけがあった。
槙島は儚げに微笑み、自らが読んでいた文庫本を表返す。
「ならば是非もない」
そこには狡噛が選んだ本と同じタイトルが、あった。
手に持った本がひとりでにめくれ、落ちる。
海外へむかう船舶の自室ベッドの上、束の間のうたた寝から目覚めた狡噛は瞬きし、胸元に伏せていた文庫本が滑り落ちたのに気付く。
タイトルは『風の十二方位』……アーシュラ・K・ル=グウィンのSF短編集だ。
寝る間際まで読んでいた本を持ち直し、『オメラスを歩み去る人々』の栞を挟んだページを開く。
短い夢の中、どことも知れぬ白い牢獄に幽閉された男と鏡合わせに。
架空の理想都市を描いた掌編に没頭しながら、狡噛はいずれかの未来にあるかもわからない、できうるならありえてほしくない仮定に思い巡らす。
もし常守朱が牢獄に囚われたら、その時こそ狡噛慎也は一度は歩み去った故郷の地を再び踏む。
シビュラの支配に挑み、必ず彼女を助け出す。