「琥珀ーっ! あいつがー! あいつがひどいんだー!」
「琥珀ちゃーん! また料理失敗しちゃったよーっ!」
こんな図が、野々宮家の日常になってどれくらいが経っただろう。恥も外聞もかなぐり捨てて、いい年した男女二人が、一人の年下らしき女子に泣きつく図なんて、他じゃきっと見ない。
そして、決まって琥珀は、頭を撫でて、こう言ってくれるんだ。
「……よしよし。辛かったよね」
もう、どうしてこうなったという疑問すらも湧かない。俺も京楓も、この心地よさにずっと溺れていて、そして抜け出す機会が終ぞ見つけられていない。
それでも、頭の片隅で、少しだけ考えてみる。えっと、きっかけは、確か――。
「アキラ、ボクに料理を教えてくれない?」
それは、琥珀が野々宮家にやってきてから暫くしてのことだった。俺も京楓も大学に受かって、だいぶ慣れてきた頃合いだったから、確か夏前ぐらいだったか。
「琥珀も料理に興味持ったのか?」
「料理だけはまだだったなって。キョウカだって、アキラに料理教えてもらってたのに、ボクだけ出来ないのは何となく悔しいなって思うんだ」
成程、それは琥珀の向上心からきているものなのだろう。いっぺんにやらなかったのは、進行度合いが変わるだろうと俺が判断したからだった。
実際、京楓に料理を教えるのは、中々骨が折れた。だけど、琥珀なら京楓の時程苦労はしないだろう。
「それに、あかりで働くにあたって、料理できた方が、色々と融通が利きそうだからね」
「わかった。だったら、やろうか。何からやる?」
「まずは汁物かなぁ。油使わないし、少しは楽かなって」
「じゃぁ味噌汁からやろうか。各種基本も多いし、出汁さえ忘れなければ如何様にでもなるから」
別に、早く琥珀に嫁に行けとかそういうわけではない。だけど、味噌汁だけでも作れるようになっておけば、後々各方面に発展させやすい。
だから、やり方だけ指南して、まずは味噌汁一品作らせてみた。最初は具材を切るのも俺がやって、あくまで琥珀には鍋の番をしてもらうぐらい。
「さて、琥珀に入れてもらった味噌汁の味付けはっと――うん、旨い! いつも俺がやってる配分とぴったり!」
完璧だった。別に出汁の分量とか、味噌をどれだけ入れたかとかまでは口にしていない。だけど、琥珀の配分は、俺がいつもやっている分量ぴったりで、だから何も言わなければ自分で自身が作ったものだと言ってしまいそうになる出来栄えだった。恐らく言わなければ京楓はわからないだろう。
「アキラ、次は包丁の使い方教えて」
「よっしゃ、じゃぁお次は一から十まで味噌汁作ってみるか」
だから、その次はもう包丁の持ち方に内容を移すことができた。そして、二度目を教えることもなかった。
なんというか、琥珀は吸収がとにかく早いのだ。実務的に挑戦してみたことを、一発でものにしてしまう。だから教える方も楽でいい。
これに加えて、あかりのシフトが非番の時は、みさきから勉強を教わっているわけで。だから毎日が覚えることがいっぱいなはずなのに、どれも難なく自分のものにしていく。
「煮込むは楽だけど、炒め物とかは技量が試されるから、楽しくていいな」
「うわぁ、京楓と正反対のこと言ってる……煮物だって加減とかあるから楽じゃないってのに……」
そして、そんなことを一丁前に嘯き始めた時点で、俺は琥珀に料理を教えるのをやめた。琥珀が生意気だからじゃない。気付けば教えることがなくなっていて、そして琥珀なりに俺でもやらないことを試し始めていたからだった。それは寧ろ俺が教わる側になるようなもので、だから俺が出来ることがなくなってしまう。
「たっだいまー。暁―、ご飯―……って、どうしたの?」
京楓からすれば、どうしたのとなるだろう。台所は煌々と電気がついて、その下で琥珀が鼻歌交じりに料理をしているのに、独り暗い部屋で、大の男が落ち込んでいる情けない姿を見れば、その疑問も当然だ。
「俺……この家にいていいのかな……何もすることがない状態じゃぁ、いても意味ないだろ……」
「いやどういうこと……? 暁はいちゃいけないというより寧ろいてほしいけど、どうしてそんな突然……?」
「ボクがアキラの居場所奪っちゃったから、だよね」
そして、その『元凶』が、京楓の帰りに気付いて、俺たちに声をかける。
「ごめんね。アキラがやってたこと、みんなボクがやっちゃうようになったから」
「いや、別に琥珀のせいじゃなくて、俺が足りなかっただけだから……」
そう、俺が教えられる以上のことを、既に琥珀は身に着けてしまった。それは俺がずっと昔に身に着けているべき技量で、そしてそれが達成できていなかった時点で、いつかはこうなる運命だったのかもしれない。
「……よしよし」
不意に、頭に手が置かれる。手の大きさから、それが琥珀の手であるということに気付くのに時間はかからなかった。
京楓の手より小さいのに、それはとても大きく感じられた。そしてそれは、俺が長らく感じる機会のなかった母性そのもので――。
「あぁ……癒される……」
そして、それが破滅への沼の始まりだったんだ。
で、気付けば、料理以外にも段々と俺がよくやっていたことに、琥珀の影が迫るようになって。
「あ、アキラ、キョウカ、おはよう。朝ごはん作っておいたよ」
俺も京楓も、大学が時には勉学だ研究だ人付き合いだで忙しかったから、ありがたくもその誘いについつい乗ってしまって。
「掃除は洗濯物を干す片手間にやればすぐ終わるね」
何より、琥珀が教えたことをすぐ自分のものにしてしまうから、俺の方が殆ど教える手間というものが省けてしまって、それが故に俺が楽をするようになってしまったんだ。
「お風呂掃除は一週間に一回はしないとね。ぬめりとかは早めに取っておけば後から苦労しないし」
振り返ってみると、俺が色々していた時よりも、生活の質は明らかに向上していたんだ。
「二人共おかえり。何からする? ご飯? お風呂? それ以外? それ以外は――全部やっちゃったよ」
そして気付いた時には、野々宮家の家事の全てを琥珀がするようになっていた。
なんというか、状況的にただで拾った家政婦だ。そしてじわりじわりと生活に侵食していって、やがては俺たちの全てを包み込んでいる。
「暁が言ってたこと、本当だったね……私も、この家にいていいのかな……」
「なんかさ……大学へ行く目的ってさ……この家にいちゃいけない罪悪感ってのあるよな……」
「あーわかるわかる……で、そんな状況だと大学行くのにも罪悪感があるよね……」
何もかものやる気が出ない。俺と京楓、二人して漫然と日々を過ごしている。大学自体にも身が入らず、さりとて他に熱中できることもなくて。
だからいつしか、琥珀の母性を待望するようになっていた。帰るのが待ち遠しい。あかりのシフトがある日は待つしかなくて辛い。あかりに押しかけてもいいけど、お店でまでそんなことをするわけにはいかないという僅かばかりの理性が語り掛けて。
だから、デートっぽいことをしてどうにかして京楓と二人時間を潰して。そして漫然とした一日が終わって、あぁ、今日も時間を無駄にしてしまったなとどこかで考えてしまって。
そして、家に帰れば、琥珀が待っている。
「おーよしよし」
琥珀の、なでなでが待っている。
今は、気持ちいいということしか感じなかった。辛いことがあれば琥珀に慰めてもらえる。それだけで頑張れるし、それだけを生きがいにしてしまってもいいくらいだ。
いつしか、それしか望まなくなっていたような気もする。これは、いつしか俺が忘れてしまったようなもので、それが永らく享受出来なかったからこそ、その反動が来ている。
いや違うな。俺が忘れていたのは確かだけど、これはもっと根源的な――。
「もっと甘えていいんだからね」
そう言うと、琥珀は前傾姿勢になって、そして俺の頭をおなかに持ってくるようにして抱きしめた。
「――っ! ……ううっ……」
あぁ、俺が長らく感じることの出来なかったものがそこにはあって。それだけで涙が溢れそうになる。
そうか、これがオギャるということなのか。母親に甘えるということがずっと物理的にも不可能だったから、この感覚は本当に久しぶりだ。
ずっと誰かに甘えたかった。だけど、母さんが死んじゃって、そして、生きるために甘えることなんてできなくて。だから、これだけで、全てが赦されたような心地を覚えたんだ。
後で京楓にも教えてあげよう。京楓だってこれを望んでいるはずだ。
いいや、もう。被害、もといこの恩恵を受けるのが俺と京楓だけだったら。もう俺は駄目なままでいいよ――。
だけど、事は思っていたより重大だったらしくて。
「暁……相談があるの……」
大学でクレアから聞いた話は、流石にそんな事になるレベルだとは思っていなかった。
「あかりが廃業の危機……?」
「だって! 琥珀ちゃんが! 琥珀ちゃんがぁーっ!」
今にもガチ泣きしそうな勢いだ。とにかく話を聞いてみるしかない。
「経営不振でも、琥珀が献身的過ぎて、そして母性溢れすぎて骨抜きにされちゃってる、と……」
なんというか、懸案通りだった。経営不振という状況なのに、そのことから目を逸らしてしまうかのように琥珀がいい子いい子してくれて、改善も何も出来ないまま親子揃って甘んじてしまっている、とのこと。
「すべてを許してくれちゃう琥珀ちゃんが一周回って怖いよーっ!」
そして、話を聞いている内に、俺の方が罪の呵責に耐えられなくなっていた。
「悪い……! 俺の、俺のせいなんだ……っ!」
だから、洗いざらい話した。今の琥珀は俺が作り出したものなんだって。
「いいよ別に……。暁だって、そうなることを予期してたわけじゃないんでしょ? だから、仕方ないよ。私たちの心が弱かっただけだもん」
クレアはそうはいうけれど。それでもちゃんと謝らなければいけないとは思ったんだ。俺が、全てを琥珀に委ねてしまいたいとなる前に。
「とにかく、あかりに行こう。俺は今日はもうこっちは何もないし、だったら対策を考えるべきだと思う」
だから、すぐにクレアとあかりへ向かった。今何が問題なのか。琥珀がいない時に店としてやれることはあるか。琥珀の有無に関わらず、どういう方針で店を運営するべきなのか。
「ところで、あかりでの琥珀の様子ってどんなの?」
「えっと、最近は料理はみんな琥珀ちゃん、ホールもかなりの頻度で琥珀ちゃん。まぁお客さんが少ないとそんな感じにもなれるよね。それで、お客さんが少ないと言っても、特定のお客さんが重リピートしてるような感じで……」
「まさかと思うけど、特定のお客さんって、既に毒牙にかかってるんじゃ……」
「あっ……」
そして一抹の不安を覚えて着いたあかりは。
「あぁ、琥珀ちゃん……もう私より勉強出来るもんね……寧ろ私に教えてよ……」
「琥珀……人の心が僕にはもうわからないよ……」
「――よしよし」
ある意味で絶望的な光景が広がっていた。
俺たちが誇る秀才二人が、完全に琥珀に骨抜きにされていた。みさきの勉学の量を既に琥珀は抜いてるとのことだし、もう大誠の皆に対して見せていたような覇気もない。
なんというか、琥珀が新興宗教の教祖にしか見えない。だけど、琥珀が浮かべている表情は慈母のそれで、それが余計にある種の不気味さを際立たせている。
「よしよし……二人共、何も考えなくていいんだよ……。辛いことからは逃げてもいいんだよ……必要なのは休むこと……だからボクにいっぱい甘えて……」
そこに、俺たちの知っている二人の姿はなかった。あの場所だけは、世界すら違う。琥珀が一つの世界を作って、そこに二人を連れ去っていってしまっているんだ。
あそこが極楽浄土かエリュシオンかはわからないけど。でもあそこは俺も京楓も知っている天国だ。
その時、徐に店の入り口が開く音がした。そして、少しきょろきょろとしながらも、お客さんと思しき人が話しかけてくる。
「あ、すみません、バブみが深い店員さんがいると聞いて来たんですけど、ここで合ってます……?」
そして、そう口にして来た人の後ろは行列だった。全員がメンタルをどこかでやられていた。噂か何かを聞いてやってきたのだ。全員が全員、琥珀にオギャるために。
これならあかりは安泰だろう。そして、不本意だろうが、クレアもパパさんも、結局は自分たちの手でどうにかしたわけでもなく、好循環は続いていく。全てを琥珀に頼って。自分たちではどうしようもできなくて。
そして、致命的なまでの元に戻れないお店のイメージがつくことになるのだ。全ては俺が琥珀に料理を教えたばかりに。
「俺の……俺のせいだ……」
もう、力も入らない。みんなの世界を、俺が壊してしまった。もう、戻すこともできない。
そして、そんな俯いた俺の傍に、琥珀が迫っていた。
「アキラ……辛いの? だったらボクが慰めてあげるから」
そして、琥珀の手が、再び俺の頭の上に伸びて、そして撫でまわされるごとに意識が混濁していって――。
「――はっ!」
夢を見ていた。どこか、幸せな夢だった。
「えっと、おはよう……?」
他方で、恐ろしい夢でもあった。だからかどうかわからないけど、俺の寝起きの顔を見た京楓がぎょっとしていた。
「もしかして、暁も同じ夢見てた……?」
あ、京楓も同じ夢を見ていたらしいぞ。だったら、きっと同じ危機感を覚えたはずだ。
「えっと、どう感じた……?」
「――生きててごめんなさいって感じだった……」
「だよね……」
やはり一緒だったらしい。そして感想も共通だった。
結局は俺が匙加減を間違えたからあぁなったんだ。でも、琥珀にものを教えるとあの通りになってしまうとするならば。俺たちは、琥珀がいないと生きていけなくなってしまう。だったら、その前に、俺たちが琥珀に頼る状況を作り出さないようにすればいい。
「京楓!」
「うん!」
「一緒に生きよう!」
「うん! ――うん!?」
「二人きりでもちゃんと暮らしていけるように! 俺たちはそうやってやってきたはずだ!」
「それに関しては暁は大丈夫だと思う! 問題は私だ! 私が何も出来てない! だからお願い暁! 私に全てを教えて!」
「わかった! まずは料理だな! 掃除炊事洗濯全部やるぞ! 一週間で完璧にこなせるように!」
俺たちはやりたいことがあって生きている。だけどそれの前に自立をするということが求められているはずだ。
琥珀に全てを任せない。俺たちが全てをやるんだ。俺たちが駄目になってしまわないように!
「ところで暁、二人で生きようって……?」
「文字通りの意味だけど?」
「――ふわぁぁっ……!?」
――その結果!
「どうして……」
「こんなことに……」
「うにゃーん……ご飯まだー……?」
琥珀は 駄目人間に 進化した!
「退化してんじゃねぇかあぁぁぁ!」
こんなはずじゃなかったはずだ。いやでも、結果的にはそうなる運命だったのかもしれない。琥珀に何もさせないということは、確かにこうなる道を辿るということはわかっていたはずだ。
それにしても、これはハッピーエンドなのか? 琥珀に何もさせないようにしたのは俺と京楓だ。だけど、あかりで働くということをせず、みさきから勉強を教わらず、ただ怠惰な日々を過ごすだけの存在として、野々宮家に鎮座ましましていた。
なんというか、猫だ。いや元々存在が猫だったわけだからそういう意味では似合う姿なのかもしれない。でもだからこそなんとなくむかつく思いがするのも正直なところで。
さてどうしようか。完全にただの居候というのも……と思ったその時。外から、ものすごい勢いで誰かがやってくる音が聞こえた。
「なんかすごく……」
「嫌な予感がするね……?」
その音はうちの前で立ち止まり、刹那の間を置いて、開け放たれた玄関と共に音が突進してきた。
「琥珀ちゃあああああん! 私を慰めてよおおおおお!」
「琥珀ちゃんーーー! 勉強がわからないよーーー!」
「琥珀―――! あいつをどうにかしてよーーーっ!」
「琥珀ぅぅぅっ!」
「やっぱりぃーーー!」
なんで! みんなは! 結局! こうなってしまうのか! というかさっきのは夢じゃなかったのか! もう何が正しくて何が間違ってるのかもわからない!
いやもうなんというか、それよりも。
「一生懸命生きると誓った俺たちの決意は……こんなんじゃなかったはずなのに……」
あぁ、これだったら、ともすれば。あの時みんなで成仏してしまっていた方が確かに幸せだったのかもと。
琥珀に巻き込まれる形でもみくちゃにされながらも、足りない頭で、それだけを思った。
「――という夢を見たんだ」
「それさぁ……一部は現実味がありすぎて怖いね……どっちに転んでも……」
夢一つで一大スペクタクルだった。いやものは違うけど、それでも一つの方向性の違いだけで、俺たちの行く末がまるっきり変わってしまっていたかもしれないという点では同じだ。
いや、流石にみさきもクレアも大誠も、琥珀に泣きつくようなことがないとは思いたいけど。でも、もしかするとあり得るかもしれないという可能性一つがとにかく怖い。
こてんと、京楓に寄り掛かる。あれは正夢だったのだろうか。でもある種暗示めいた夢だったからこそ、無碍には出来ないだろうという直感がある。
ともあれ、仮にも京楓と付き合ってるというのなら、少なくとも俺の自立は必要だ。まぁそりゃただで住まわせてもらっている以上、その恩を返せるようにはしてきたつもりだけど。でもまだまだ足りない自覚はあるから、どんなにやっても無駄になるとは思わない。
というより、琥珀もそれなのだろうか。俺程強く思ってないとは思うけど、同じことを考えていてもおかしくはない。
まぁ、どっちに転んでも誰かが駄目人間になってしまうとするのならば。
「心を強く持って自立だよな……頑張ろうぜ、京楓」
「そうだね、まずはちゃんと料理教えて、暁」
京楓と二人で生きようと誓ったパートは、俺たちに関して言うならば、方向性は間違いじゃなかったから。だったら、恥じないようにそれをやるだけだ。
琥珀は――どうしよう。実際ものを覚える吸収が早すぎるから、俺たちが頼りきりにならないように、ゆっくりと、少しずつ。
そんな人の気も知らないで、噂の渦中の相手は日向ぼっこをしている。
ソファーで、琥珀が気持ちよさそうに午睡に身を沈めている。