今日は短めです。
暗闇の中、足元から波紋が広がる。
藤花は水面に目を落とすと一枚の薄紫の花びらがショートブーツの先に流れ着いてぶつかる。
「………」
じっと広がり続ける波紋とそれにゆらゆらと揺らされる花びらを見る。
「本当にやるのかい?」
誰もいないはずの空間に穏やかな男の声が響く。
「こういう時、出てくるのって家族じゃないんですか?」
藤花は呆れた様子で声がした方に振り返る。
陽が沈みかけているのだろう。
薄暗い和室だが端の方に置かれた行灯が室内を照らしている。
障子の外は藤棚でも広がっているのだろうか障子に藤の影が映っていた。
その目の前には長い髪をハーフアップにして袈裟を着た男性が立っている。
夏油傑。
藤花に呪術を教えた師であり、親友の手によって死んだ男。
「そうかい?藤花がそう思っているのならば私は藤花の家族だということじゃないのかな」
夏油の言葉に藤花は反射的に寝言は寝て言えと言いたくなったが口を噤む。
今、目の前にいる夏油傑は幻影だ。
「それは有り得ないです」
幻影に何を言ったところで変わらない。
今の言葉は藤花が夏油傑ならこの状況でこの言葉を投げかけるだろうと判断した結果に過ぎない。
でも、その言葉を否定しないわけにはいかなかった。
例え師であろうとも、彼は藤花の家族ではない。
その実力を認めていても、藤花が嫌いな術師でありながら好意を抱いていても藤花の家族には成り得ないのだ。
「そうか。それは残念だよ」
夏油らしい言葉に藤花は複雑な表情になる。
「そもそもなんで貴方なんですか?」
さあねと夏油は肩を竦める。
藤花の疑問に対する答えは夏油も藤花も持っていなかった。
沈黙が二人の間に落ちる。
陽は沈み続けている。
「それはきっと正しくないことだよ」
夏油から紡がれた言葉が何を指しているの藤花には分かった。
「ええ、正しくないです。ですが、それは貴方が言えることですか?」
藤花は間も置かずに肯定すると同時に夏油を見る目を細める。
夏油は自分の理想の世界のために
それを間違っているとは言えない。
自身の理想を実現しようと目指して行動を起こすのは間違ったことじゃない。
でも、正しいことではなかった。
それなのに自分のことを棚に上げてそう言われるのは酷くムカついた。
そうだねと夏油は苦笑する。
「悟が悲しむよ」
「あの男がどう思おうが知ったこっちゃないです」
敵対しても尚、互いを親友と称しただけのことはある。
でも、それは私には響かない。
藤花にとって五条悟は気を遣うべき存在ではない。
むしろ、好き勝手される分こちらも好きにさせてもらわなければ割に合わない。
「家族が悲しむよ」
「……そうですかね」
次の言葉に藤花は目を伏せる。
悲しんでくれたらいいけれど、藤花はそう思ってくれる自信がなかった。
悲しんでも、悲しんでくれなくてもどちらでも藤花は止めるつもりは微塵もない。
それが藤花の求める世界のためになると心の底から信じているから。
「本当にやるのかい?」
再び、同じ問いをかけられる。
「ええ、それが私がしてやれる数少ないことですから」
そうかと夏油は目を閉じる。
二人の間に再び沈黙が落ちる。
陽が完全に沈む。
藤の花びらが風に乗ってひらひらと舞い落ちる。
藤の香りとともに後ろから白磁のように生気がない細い腕が伸びる。
和室とそこにいた夏油はいつの間にか煙のように消えていた。
腕は壊れ物を扱うように優しく藤花を抱きしめた。
紅藤色の長い髪が藤花の頬を擽る。
足元は一面藤の花で埋まっており、その下にある水面が見えることはなかった。
そして、藤花は────────藤浪に埋もれた
パチリと藤花は目を開けた。
もたれていた椅子から背を離して伸びをする。
長時間同じ姿勢をしていたからかバキバキと小気味良い音が鳴る。
懐かしい夢…いや、記憶を見た。
きっとその原因は最近会った
百鬼夜行の時に夏油傑は五条悟の手によって死んだ。
藤花はその時、京都に居たのでその最期がどのようなものだったかは知らない。
ただ、あの後の五条悟の様子から穏やかなものだったのではないかと思っている。
穏やかな最期だったのに、五条と家入の要らない気遣いで身体を使われるなんて…なんて皮肉なのだろう。
「ホント私たち、碌な死に方しかしないわね」
ため息とともに紡がれた言葉が物音一つもしない室内に零れ落ちる。
だからと言ってこの道を選んだことに後悔はしていない。
それはきっと彼も同じで。
例え、碌な死に方しかしなくても。
例え、正しくなくても。
それが自分の求める世界のためになるのならば。
きっと私たちは、時が巻き戻ったとしてもまた同じ選択をするだろう。
窓から朝日が差し込んだ。
辛酸・後悔・恥辱。
人間の身体から流れ出た負の感情は澱のように積み重なり、やがて形を成して呪いへと転じる。
それが呪霊。
元となった呪いが強大なほど力を持ち、その呪いが強大であればあるほど他の呪いと呼応し、伝播する。
例えば、一年前に起った百鬼夜行。
近年に見ない呪術師と呪詛師の大規模な戦闘。特級仮想怨霊や特級過呪怨霊と危険度に応じて振り分けられる階級の中でも規格外の特級が大暴れした。
この戦いは呪術師陣営の勝利に終わったがそれに影響されてかしばらくの間、呪いが活発となって奔走する羽目になった。
そして現在。
特級呪物両面宿儺が受肉した。
両面宿儺は千年以上前の呪術全盛期の総力を持っても祓えなかった呪いの王だ。
死後の残った呪物でも壊すことは不可能という規格外中の規格外。
受肉しただけとは言え、特級の中でも群を抜いての規格外ならそれだけでも十分な動きだろう。
既に影響は出ている。
新たな特級呪霊の登場。
行方知れずだった両面宿儺の指の出現。
これから先、その影響は大きくなっていくだろう。
────それに加え、夏油傑を名乗る男が何かを企み、水面下で動いている。
あの男は自身の目的は呪術師だけの世界を作ると言っていたが自身を夏油傑だと偽っていた時点でその言葉も信用ならない。
何を起こすか分からないがそれも相まって私が想像する以上の出来事が起こるだろう。
「……保険を、かけるべきかしら」
チラリと机を見た藤花はソレを手に取る。
ソレは数々の偶然と奇跡で出来た物で。
戦闘で自分が使う呪具を多く作ってきた藤花でも同じものは逆立ちしてもできない唯一無二とも言って過言ではない呪具だ。
保険としてその効力を発揮するかは正直に言って分からない。
そんな曖昧な物を保険として賭けるべきではないだろうが悔しいことに自身が作った物の中で一番出来がいい。
それに高専に目をつけられている物を出すのは保険としての意味をなさないので目をつけらていないコレが都合が良かったこともある。
もともと自分に使うつもりで作ったわけではないし、試しに何度か使って問題がなければ何時か手放すつもりだった。
手放す機会を捉え損ねてずっと持っていたが先ほどの考えもあり、藤花はこの機会を逃さないことにした。
「問題は……上手くいくかしら…」
この機会を逃さないと決めたはいいものも藤花はその先に立ち塞がる問題に不安そうに瞳を揺らす。
もし、藤花が懸念した問題が起きたら藤花が考えている前提条件が崩れることになる。
それをどうにかすることは藤花には出来ない。
藤花に出来ることは問題が起きないように祈りながら運に任せるしかない。
「どちらにしても、何もしないわけにはいかないわね」
不安を押しつぶすように藤花はソレをギュッと握った。