頭のネジが何本か飛んでいる男二人が、食えば不老不死の力を得られるという人魚の肉を求めて北へ行く。
彼らのような人間は、案外傍にいるのかもしれない。
他の人がやりたがらないことを率先して行える人は良い人だ。
親だったか学校の先生だったか忘れたが、大昔にそんなようなことを言われた記憶がある。それを言った人はきっとせいぜいトイレ掃除くらいのことを想定して言ったのだろうけど、それを聞いた子どもはその将来、仕事で死体清掃をするようになった。
死体を片付けると言っても何らきな臭いことはない。いわゆる孤独死の後始末をするような、そういう仕事だ。……ただ、俺はその仕事をする自分のことを「良い人間」だとは思わない。
誤解のないように言っておくが、俺のやっている仕事は間違いなく立派な物だ。かつての誰かが言ったように、それはほとんどの人が避けたがる物であると同時に、絶対になくてはならない仕事なのだから。そういう意味では俺も自分自身を、客観的に見てそれなりに価値のあることをしている人間だと自負している。
が、俺が言いたいのはそういうことではない。俺が言いたいのは、人が本能的に嫌がることには、それなりの理由があるということだ。
例えば死体の腐った部屋には強烈な腐臭死臭が充満しているが、同業者もそれ以外の人たちも、出来ることならそんな臭いは概念ごとこの世からなくなればいいのにと考えていることは間違いない。明日世界の法則が書き変わって、死体からは柔軟剤の香りでもすればいいのにと思っているに違いない。
だがもしも本当にそんな世界が実現したとしたら、人は死体に近付くことを今より躊躇わなくなるだろう。死体の発見だって遅くなるはずだ。そして肉が腐るという現象まで概念ごと消え去ってしまえば、死後何ヶ月も経った死体に触れることすら誰も躊躇わなくなるのかもしれない。
仮にそれが実現した場合、すると世界はどうなるのか。……俺が思うに、その世界には感染症が蔓延するだろう。
臭いも見た目も解決した世界に、死体が原因となる感染症に関しては変わらず存在すると考えること自体不自然かもしれない。しかしそんな世界は実際一生実現しないのだから不自然だなんてことはどうでもよくて、つまり俺はこういうことが言いたい。
人間は、本能的な嫌悪感で危険を避けている。幽霊がいるかもしれないから暗闇が怖いのではなく、暗闇が怖いから幽霊という概念を考えついたのだ。そしてなぜ暗闇が怖いのかと言えば、それは暗闇が現実問題として危険に満ちているからである。それは死体に漠然とした嫌悪感や恐怖を覚えることと、仕組み的には全く同じことだ。
だから俺は自分のことを良い人間だとは思わない。実際にやっている仕事は立派だったとしても、その実俺は、本来本能として備わっているはずの危機察知能力に欠ける欠陥人間なのだ。
この世界に大勢いる「尊敬に値する人間」が、そのうちの何割かが、ひょっとすると俺と同じような欠陥品かもしれない。……そう考えると、世界中に潜むその欠陥が恐ろしく感じてしまう時がある。
何せ欠陥品が呼び寄せる危険は、当人だけの物とは限らないのだから。
危険は感染症の如く伝染する。俺がそう考えるようになる少し前、友達が突然こんなことを言い出した。
「人肉食に興味が湧いたことってない?」
「ぶっ」
俺は口の中の物を吐き出してしまった。もちろん友達の口から出たその台詞のせいだ。
その日は彼の……
「やめろよお前」
「え? いいだろう別に」
「確かに俺はバイオハザード見ながら飯が食えるタイプだけどな……これだぞ?」
品性の欠片もない庶民を代表して、俺はナイフでかつかつと乱暴に皿を叩いた。その上に乗っている物は食べかけのハンバーグだ。味は良い。
「バイオハザードでもアマゾンズでも何でも見るだろう、それを食いながらでも。僕の話もそれと同じだろうって」
「見るよ。見るが、それとこれとは別だ」
「違いが分からない」
「……ニュアンスで言えば、食事時にどんなグロ映画を見ようと構わないが、仕事の話はするなよってことだ。……分かるだろ?」
「ははぁ、なるほど」
彼にはそう言いつつも、きっと俺は死体の横でも飯が食えると思う。試したことはないがきっと出来る、今の仕事を初めてそこそこ経ちながら、人生を通して「吐き気を催す」という感覚を体験したことが未だにないくらいだから。
だけど「食える」と「美味い」は別だ。大抵の人間は、頑張れば便所で飯が食えるだろう。だが食いたいとは思わない。俺が食事中に仕事の話やそれに準ずる話題を避けることも、その感覚と全く同じなのだ。
ハンバーグを口に入れながら、自分がカニバリズムに手を染める図なんて想像したくない。そんな想像は、映画と違って少しも面白くないのだから。
「なら創作の話をしよう。人魚を食うと不死になるって話があるだろう?」
「あぁ、妖怪が三蔵法師の肉を食うと不死身になるみたいな話もなかったか?」
「そうだっけ? まぁ何にせよ、人魚って半分は人間だろう? 不死になれるとしても食うかな、普通」
「場合によるだろ。病で助からない身なら……とか」
「なるほどね」
コトリと極小さな音を立てて、向かいに座る彼がフォークとナイフを置いた。ソースの残骸を残して彼の皿の上は空になっている。
両手の人差し指でそれぞれ、自分の皿と俺の皿を指しながら、彼は言った。
「このハンバーグ、人肉で作ったんだ」
……キーンと、耳鳴りが聞こえたような気がした。
意識したわけでもないのに、自分の体全体がピタリと動きを止める。とはいえ内臓たちは今も俺を生かすために働き続けていて、意外なことにその中でも心臓は、少しも惑わされず落ち着いた一定のリズムを刻んでいた。
「マジ?」
「うん。原木が冷凍庫にあるけど見る?」
「マジかよ。見ないわ」
凍っているならいつも見る死体現場よりはずいぶんマシな状態だろうとは思うけれど。勘違いされちゃ困るが、俺は別にそういった物を見たがっているわけではない。仕事だって死体目当てに選んだわけじゃない。それとこれとは別なんだ、アクション映画をスプラッタ表現目当てには見ないことと同じように。
「お前さ、俺が昔話したこと覚えてる?」
こちらもナイフとフォークを置く。正直美味かったが、さすがにもういらない。
「人肉は食いたくないって話?」
あっさりと彼がそう言ったので、俺も声を荒らげることになった。
「覚えてんなら、なんで!」
「君はこう言ってた。人肉を食うと脳がスポンジみたいにスカスカになる病気にかかって死ぬんだと。だから食いたくないと」
「あぁ、そう言っただろうな。今も同じことを考えている」
目の前の友人はいつ何時でもそうだが、今この時でさえ微笑みを絶やさない奴だった。細い体付きとその表情からひ弱な優男のイメージを他人に植え付けるが、その実こいつは……まぁこうなってしまった以上言うまでもないが、間違いなく「ヤバい奴」である。
彼は食に執着している。虫を食うくらいなら俺だって付き合うけれど、毒のある物にまでは付き合えない。けれど俺は彼への付き合いが良い方であることを自負している。彼が食おうとしている物が何物であるのかを毎度毎度インターネットで検索して、安全そうならば、たとえ「安全性以外のこと」がどうであろうと、二人で並んで座り同じ物を胃に収めてきた。
それについて「なぜ」と言われても困る。友達からラーメンを食いに行こうと誘われたら、一も二もなく誘いに乗るだろう? それと全く同じことだ。俺にとって安全性以外のことは全てどうでもよかった。だから仕事をする時だってやり方には気をつけているし、友達の趣味に口出しをするつもりもない。
……と思っていたのに、これだ。
「君が言っているのはクールー病というやつだろう? プリオンと呼ばれる悪性のたんぱく質が正常なたんぱく質を次々プリオンに変えて……とまぁ詳しいことは僕だって何も知らないんだけど、確かにネットにそんな風なことが書いてあった。昔食人文化のあった部族にだけ、その病が頻発していたとも。だけども、あれは元々自然発生の奇病にかかった人間の死体を食べたせいで始まった、単なる感染症のような物とも書いていなかったか?」
「……知らん。そんなこと書いてたか?」
昔に一度、春井からカニバリズムの話題を振られて調べたことがあった。正直、人間の肉がどんなものか、その味に興味があったのだ。しかしそこで人肉食から発生する致死率百パーセントの病の存在を知って、未来永劫人間の肉は食うまいと心に誓った。
誓った時点でその話題について調べることはやめてしまったので、俺だってプリオンがなんとかという病には何一つ詳しくないのだけれど、詳しくないからこそ、何かしらの入れ知恵的誘いにおいそれと流されて人肉を食うわけにはいかない。……食うわけには、いかなかった。
「何にしてもだな、人肉を食うことが病には繋がらないと言い切ることは出来んだろう。なぜならインターネットがそれを教えてくれるわけもないからだ。いったい誰が、これから人肉を食べる人のための情報を発信してくれる? 完全自殺マニュアルは存在しても、殺人マニュアルは存在しないのに」
「僕もその通りだと思う。結局のところ、人肉を食った末にどうなるのかはハッキリしない。ハンニバル・レクターの元気さは何の参考にもならないからね。AVから性知識は学べないように」
「どっちもフィクションだからな」
「そこで提案なんだ」
席を立ち、自分の分の皿をシンクの流し場に持っていきながら、彼はその「提案」をほとんど背中で語った。
じゃばじゃばと水の流れ落ちる音に、その声がかき消されることはなかった。
「人魚を食べに行こう」
「なに?」
「運が悪ければ、あるいは無知だったばっかりに、僕たちはこれから死にかねない。だからその前に人魚の肉を食べて、不死の体を手に入れようじゃないか」
彼を変人だと感じたことは今まで数え切れないほどあったが、彼を狂人だと感じたことは間違いなく今日が初めてだった。
「それこそフィクションだろうが」
「そうでもない、これを見てくれ」
無造作に彼のポケットから取り出されたそれは、鎖でぶら下げられる懐中時計のように見えた。……しかしよく見るとそれは、それにしてはあまりにも洒落たデザインの方位磁針だった。片方が赤く塗られたシンメトリーの針と東西南北の文字が見える。
再び席に戻った彼は自慢げに、針の赤色が指す北方向を自分の指でも示した。
「光っているだろう」
「え? あぁ」
針の先にある「北」の文字には、確かにイルミネーションのような淡い光が点っていた。またその光は点滅もしている。
方位磁針が春井の手首の捻りによっていくらか回転させられると、針と一緒に淡い光も動いていく。その様子を見て、俺はあるアニメを思い出した。
「ドラゴンボールレーダー……?」
「そんな感じだよ。これの指し示す先に人魚がいる」
「なんで?」
たったの三文字に何重もの意味を含んだ言葉だった。
なぜそんなことが言いきれる、なぜそんな物を持っている、なぜそんな話に俺を巻き込む……とそんなような疑問ばかりが俺の中にあった。あって当然だろう。
しかしそのうちの一つには実際のところすでに答えが示されていた。ブーメランのようだ。なぜ彼は人魚捕りに俺を巻き込むのか? ……その答えは「友達だから」だ。欠陥品のような人間同士、そこについては通じる部分がある。
俺も春井も、友達関係のことは多少特別視しているように思う。大多数の人たちよりもおそらく強くそうしている。
「なんでと言われても、そこは信用するしかない。僕というより、これをくれた人のことを」
「誰なんだ」
「人魚」
「はぁ?」
「人魚Aと呼ぼうか。人魚Aが、これは人魚Bを探す道具だと言って渡してくれたんだ。人肉の調達を手伝ったお礼に」
「……ちょっと待ってくれ、整理する」
人肉の調達を手伝っただと? 人魚が?
春井との付き合いは長い。彼は他人から警戒されづらい性質をしているが、かといって何かに関して天才というわけではない。俺に言わせてみれば、彼がこの日本という国で警察の目をかいくぐって人肉を調達出来るようにはどうにも思えない。……ただしそれも一人でならの話だ。
協力者がいたと言われればそれが一番しっくり来る。が、しかし人魚だと? 人魚が実在したと言われるだけでもにわかには信じ難いのに、その上その人魚と人肉調達の共犯関係になったと聞いて、それを誰が信用出来るというのか。
「……あのーあれか? 人魚っていうのは、何かの隠語か?」
「いいや? あぁでも、足はあったよ。人間と見た目は変わらない」
「じゃあ人魚じゃねぇじゃねえか」
「言葉の綾だよ。彼女の肉を食らった人間を皆不死にする、化け物としての女。それを今は人魚と呼んでみただけだよ。見た目が人間だったとしてもね」
「ならお前はどうやってそいつが人魚だと知った? まさか口頭で聞いただけか? 人肉調達に協力者がいたというのは分かったが、いったいそいつは誰で、なぜ俺をどこかへ向かわせようとする?」
言っていて、我ながら背筋に冷たい物が伝うようだった。漠然とした……しかし根拠の無いわけでもない不穏さは一言発するごとに増し、きな臭い想像が頭の中に広がっていく。人魚を名乗る春井の共犯者が、彼と二人で俺をどこかに誘っている……。
いつでも微笑みを絶やさない春井が、ことさらにっこりと笑った。
「これだよ」
彼が袖をまくる。誰かが長袖を着ていることに疑問を抱く季節ではなかったから、俺はその袖に防寒以上の意味があるだなんて考えもしなかった。
「……なんだよそれ」
けれども実際は違った。春井の腕の甲には、鱗のような物がびっしりと生えていた。それは周囲の明かりを反射して、生々しくキラキラとした魚と同じような煌めきを見せ続けている。
しかしそれは遠目に見ても分かるほど表面のざらついた、なんとも気味の悪い鱗だった。
「触れられたらこうなった。仮に彼女が不死ではなかったとしても、それでも人魚と呼んで然るべきだろう? 僕だってこんなレーダー、腕の鱗がなければ信じない」
「……なるほど」
彼はすぐに袖を戻した。俺ももうその腕を見たいとは思わなかった。
「それでお前、さっき言ったな。不運か無知によってこれから俺たちは死ぬかもしれないって」
「言ったね」
「それは違う、不運のせいでも無知のせいでもない。間違いなくお前のせいだ。そんなに人肉が食いたければ一人で食えばよかったのに」
俺は、皿の上に残っていた自分の分の肉を、一気に口の中に押し込んだ。正直この期に及んでもその肉は美味かった。
「人魚を探しに行こう。死にたくない」
「そうこなくっちゃ! 騙して悪かったよ、亮太」
似た者同士だからよく分かる。俺たちのような欠陥品は、主に普通の人間たちに合わせるために、思ってもないことを口にすることが出来るようになっているのだ。
俺も春井もすでに少しだけ酒を飲んでいた。車は使えないという話になると、方位磁針を鎖でヒュンヒュンと振り回しながら彼は言った。
「公共交通機関と徒歩で十分……というか、そうでなければ僕も誘いはしないよ。人魚Aいわく人魚Bは都内にいる。ここからは北方に当たる場所らしいけど……所詮は都内、北は北でもあんまりにも遠いなんてオチは無しだ」
果たして人魚Aとやらの言うことがどれだけ信用出来るものかかなり不安だが……とにかく春井の言う通りにするしかなかった。
徒歩で最寄り駅へ向かい、言われるがまま電車に乗り込んで、どこへ行くとも知れずに揺られる。レーダーの表示が特別変化しているようには見えないせいで、本当に人魚に近付いているのか俺は疑わしく思ったが、春井があまりにも確信して経路を選ぶから何も言えなかった。
もしかすると彼には、俺とは少し別の光景が見えているのかもしれない。彼にはというか……鱗が生えた者には。何せ人魚からもらったレーダーだ。
「次あたりで降りよう」
方位磁針のようなレーダーから目を離さない彼が俯いたままそう言って、俺たちはある駅に降り立った。春井の住処がある場所と同じく、ここも特別有名な駅ではないように思う。
そして降りたのならば俺たちは、また北へ北へと向かって歩き出す他なかった。目を凝らしてみれば、なんだかレーダーの光が強くなっているような気も……しないでもない……か……? 分からん。
首都圏にしては人気のない夜更けの裏通りを歩くこと、体感で約十分。ある時ふと春井が言った。
「あ、悪いけど少しコンビニに寄っていく」
「おう。いいけど、何か用が?」
「トイレ」
彼はコンビニの場所を、スマホで探した。まあレーダーに映るわけもないから当然か。
ほどなくして見つかったコンビニに入って、彼が戻ってくるまでの間に、俺は菓子パンを一つ買った。トイレだけ借りて出ていくのもなんだし、明日の朝にでも食うかと思って。
戻ってきた春井は何も買わなかった。
「なんでパン?」
「朝飯」
「ふーん」
背後に遠ざかるコンビニが、田舎に建つ物であるかのように過剰に眩く感じられた。
人魚がくれたというそのレーダーは、金属探知機のように音が大きくなっていくわけでもなく、カーナビのようにお知らせの声を聞かせてくれるわけでもない。ほとんど遭難時と同じなのではないかという不安と手探り感の中、東京にしては静かな道を進み続けるうち、自然と俺たちの会話は皆無となった。
だが、ある時春井が急に足を止めた。
「ここだ」
「……本当か?」
俺たちが立っていたのは、何の変哲もないアパートの前だった。
「ああ、間違いない」
「なんで分かる」
「なんでって、音が鳴ってるだろう」
「音?」
「ほら」
レーダーを耳元に当てられる。懐中時計のような洒落たデザインで、しかし方位磁針の形をしているそれは、秒針が動く程度の小さな音さえ俺の耳には届けてくれなかった。かわりにどこかから聞こえてくる虫の鳴き声ははっきりと聞き取れるのに。
「聞こえん。お前だけなんじゃないか、それが聞こえるのは」
「それこそなんで」
「鱗が生えてるから」
「……なるほど? ならまぁ問題はないだろう。こっちだ」
アパートの一階、表札のかかっていない部屋の前に立って、彼は何の迷いもなくチャイムを押した。
ピンポン……と時間の流れに区切りをつけるような音が、家の中から夜闇によく響く。
「はい」
それは女の声だった。俺の心臓は、この時ようやくドキリと跳ね、ほんの少し苦痛に似た感覚を演出してきた。
俺たちは人魚の肉を食わなければ、もしかすると死ぬかもしれない。だから人魚を探しに来た。……なのに俺は、未だにその存在を半信半疑で捉えていたように思う。本当にいるのだろうかと、まるで今は健康そのものである俺が、人肉を食ったからといって本当に死ぬのだろうかと疑うように。
けれどもその女の声が聞こえた瞬間に、現実的な緊張が全身を走った。その瞬間まで考えていなかったのだ。いったいどうすればその部屋の鍵を開けてもらえて、いったいどうすればその人魚の肉を食うことが出来るのかなんてことは。
……俺たちは今から、人魚を殺すのか? 人と変わらない姿をした人魚を。
「春井と申しますが」
「なっ」
そんな台詞があるか、と俺は春井に飛びかかりそうになった。突然名前だけを告げる他人が夜中に現れて、いったいどこの誰が扉を開けるというのか。
……が、俺の焦りとは裏腹にガチャリという音が鳴って、あっさりとその扉は開いた。
「どうも」
「どうも……」
フチの細い眼鏡をかけた小柄な女性。春井の言う通り人間そっくりの……あるいは人間の女性が玄関から出てきた。彼女の顔には気弱さと臆病さがありありと表現されている。
春井はまるで実家に帰ってきたかのように極々自然に玄関へ踏み込み、女性もそれを止める素振りを見せなかった。戸惑いながら俺も彼のあとを追おうとして、自然な流れで女性と目が合い、彼女からほんの小さな会釈をもらった。
家の中にはもう一人、高校生くらいと思われる男がいた。
「あ、今日話してたお客さんだから……」
女性がそう言うと、男はそそくさと立ち上がり、どうやら家を出ていこうと動き始めているようだった。
玄関へ続く廊下を抜ける時、彼が遠慮気味に、しかし恨めしそうにこちらを睨みつけていたような気がした。
「あなたが人魚ですか?」
レーダーをポケットにしまいながら春井が言う。
「人魚……?」
「ほら、不老不死の」
「……あっ、あぁ、はい、そうです。わたしが人魚です」
「じゃあさっそくいいですか」
「えっ、あっ、あぁ、はい、さっそく……」
名前を聞かせるだけで家への侵入を許したくせに、なぜかよそよそしい女性のその態度。そこから察して、俺は割って入った。
「おいちょっと待て」
怒りに近い感情から、俺の声は勝手に低くなっていた。そこから発せられる雰囲気に萎縮してか女性がビクリと肩を震わせる。春井の微笑みも引きつったような気がした。
「なんか変だろ。お前らグルか?」
人魚と呼ばれる女性が、おろおろと俺たち二人の顔を見回した。ほとんどそれが答えのようなものだったが……、
「バレたか」
春井は悪びれもせずそう言った。
俺は自分が情けなくなった。
何が情けないって、いろいろだ。レーダーの存在を信じたこと、人魚の存在を信じたこと、そして……冷凍庫の中を見なかったこと。
これまでの話の信用を支える全ては、春井の腕に生えた鱗だった。逆に言えばそれがトリックだということになれば、全ての前提が崩れる。……俺が人肉を食わされたというところから全て!
数十分前ならともかく、今となってはもはや、その鱗こそ嘘だと考えた方がしっくり来る。
「ちょっとその腕見せろ!」
春井の腕を掴み袖をまくって、鱗のような部分に思い切り触れてみる。しかしちょっとやそっとでは、その鱗らしき物は剥がれなかった。
……かわりに俺の手のひらが、びっしりと、おびただしく密集した鱗で覆われた。ザラザラと逆立ったそれが、まるで無数の虫のように見える。
よく見ると春井の腕の物まで含めて、鱗はウジのように微小に蠢いていた。
「うおおぉっ!?」
さすがに驚いた。普通の人なら鳥肌を立てて、ぶんぶんと手を振って鱗を払おうとしていたかもしれない。が、まぁそこは自分の性分に感謝だ。すぐに慣れた。
また春井の方もさすがに微笑むことをやめて、気の毒そうに眉をひそめて俺を見ていた。
「あーあ……」
「いや、あーあじゃない。なんだこれは」
「なんだと言われても僕にも分からない。人魚さん、これを治せる薬があるって聞いたんですけど、本当ですか?」
「あ、あぁ、はい、えぇ。ありますよ、ちゃんとあります」
「もらえますか」
「はい。……少し待っていてください」
家の中のどこかへ何かの準備をしに消えた彼女が、すぐにある物を持って戻ってきた。それは大きなブルーシートだった。それから分厚い枕も。
家具をその都度持ち上げながらブルーシートが床一面を覆うように敷かれると、今度は台所へ向かった彼女が中華包丁を持ち出してきた。そして春井がそれを受け取る。
「それではその、……お願いします」
人魚と呼ばれた女は、ブルーシートが覆う床の上でうつ伏せに寝転がって、枕にその顔をうずめた。
鱗を消す薬の件はいったいどうなったのだろう? そう思考する俺は、それが現実逃避の類であることを自覚していた。嫌な予感……どころではない。
「おい、何する気だ」
「……説明するよ」
どさりと、近くにあったテーブルに重たい物が落ちる音がした。それは分厚い茶封筒が置かれる音だった。
大きな包丁を持ったまま、春井が本当のことを語り始める。
春井には元々、インターネットで知り合った女友達がいた。付き合いが長くなるうち、彼はその人に自分の趣味の悪さを打ち明けるようになり、それによって、向こうも同じような趣味を持っていることが明らかとなった。
つまり二人は、人肉食への興味を共有する同志にだったのだ。……が、二人がその興味を実行することは決してなかった。それは単純に、安全に実行する手段を持たなかったせいだった。
まずそれが春井が俺についた第一の嘘。やはり冷凍庫に死体など存在せず、俺が食ったのは普通のハンバーグだったのだ。
しかしまぁ、コアな趣味が合う数少ない相手を見つけた男女の行き着く先は誰にでも想像出来る物で、ましてや住んでいる場所が近いということならなおさらということもあり、そのうち二人は実際に会うことになった。会って、食事をしたり遊んだりして、それを何度か繰り返すうちに、当たり前のように一線を超えた。
だが春井はその後初めて気が付くことになる。自分が抱いた彼女は人間ではなかったのだということに。その点について、春井は俺に正直だった。彼女は未知の力で春井の腕に鱗を生やして、耳元で脅し文句を囁いた。
「今から伝える、私と同じような人外の女に会え。そうすればその鱗も消せるだろう。……タダとはいかないだろうけどね」
春井は初め彼女の意図を測りかねたが、もう一人の人外と連絡を取ってみてすぐに全てを理解したという。
人外Bの目的は、自分の肉を金と引き換えに誰かに食わせることだった。Bはなぜそんな目的を持っているのか。それは彼女が不老不死であり、また彼女の肉を口にすることが特別な意味を持つからでもあったが……何より金が欲しいからというのが一番の理由だった。
つまり人外Aは、Bの客を斡旋する業者のような役割を担っていたのだ。ただしそれは人肉を食らう決心がつくであろう相手を見定めて、自分の異能力で鱗を生やしては脅すという悪質なやり方だった。人肉食に興味があるという話は、Aの吐いた嘘だった。Aだけが吐いた嘘だった。
一生鱗の生えた腕で過ごすか、それを避けるために大金を払って人間そっくりの化け物の肉を食うか。……普通の人間なら悩んでしまうところだろうが、春井はそれに即答したらしい。安全に人肉(らしき物)が食えるなら、喜んで! ……と。
そしてあろうことか、彼はある提案をしてAにそれを飲ませた。
「せっかくだから友達も連れて行きたいんだけど、別にいいだろう?」
彼の第二の嘘については、どこまでを第二として括るのか判断が難しい。彼がレーダーだと言い張った物は単なるふざけたデザインの方位磁針だったし、それをAから受け取ったということさえ嘘だった。その意味ありげなアイテムは春井本人がドンキで買った物らしい。
本当にそんな物がドンキに売っているのかどうかなんて知らないが、そんなことはもはやどうでもいいことだろう。
春井の作戦はこうだった。適当な理由をつけて俺をBの家まで同行させる。まずは自分がBの肉を、毒味または治験的な意味をこめて食う。何も問題なければ(あるいは良い変化が起これば)俺にもBの肉を食うことを提案する。もしも二人で人肉の感想を共有出来ればとってもハッピー! ……以上である。
「それでBの肉を食うとどうなる?」
「鱗が消えて、ついでにあらゆる怪我や病も治って、一生健康でいられるようになるらしい」
「……お前それを、自分を騙した女から言われて信じたのか?」
「あれ以上嘘を言うメリットがないだろう」
「どうだか」
友達を人肉実食の瞬間に立ち会わせるために、そしてあわよくばその友達にも人肉を食わせるために、あんな芝居まで打つ彼のような人間がいるのだ。もはや何を信用すればいいかなんて分かりようもない。
しかしそれよりも、今は目の前のことの方が気になってしまって仕方がなかった。人肉を食うということは、食ったあとの結果を確かめるよりも先に、必ず通らなければならない過程がある。
「B……って呼べばいいのか?」
「はい」
枕に吸収されくぐもった声で、足元から返事があった。
「不老不死にも痛覚はあるのか?」
「……はい」
「俺たちと同じように?」
「はい」
「……春井、お前は今から何をする気だ」
「彼女の腕を切り落とす。大丈夫、ちゃんとすぐに生えてくるから。それはAの方が実演してくれた」
実演ということは、トカゲの尻尾どころの騒ぎでななく、本当に一瞬で生えてくるということか。というか、人外はみんな切った腕がすぐに生えてくるのか……。
いよいよ話が理解不能な領域に入ってきているが、手のひらのざらざらとした鱗の感触が、これは夢でも他人事でもないと教えてくれている。まったく嬉しくは無いが。
「僕が切るから、亮太は彼女のことを押さえててくれ。大の男が上にのしかかれば、小柄な彼女では抵抗出来ないだろうし、枕に顔を押し付けれていれば悲鳴も外に漏れないだろう」
「……マジで言ってんの?」
「今度は本当にマジだ。大丈夫、彼女は死なない。ほら」
スーッと、刃がほんの薄く彼女の腕の肉に沈むと、そこからぷくりと血の赤が湧き出す。……が、しかしそれはすぐに収まり、春井が血を拭うと、Bの腕には切り傷が治った跡さえ残っていなかった。完全に「切られていない」のと同じ状態に戻っていた。
彼女の自然治癒能力が少なくとも人間よりは遥かに優れていることは分かった。本当に腕が生えるのか、あるいは悲鳴を抑えさせようとするあまり窒息させてしまったとしても取り返しがつくのかは、小さな切り傷が治っただけでは完全に信用する気にはなれなかったけれど。
「近所に不審がられたら終わりだからね、くれぐれも頼むよ。……あぁそれと、お互い上着は脱いでおこう。返り血が付くかもしれない」
「おいおい……」
「あ、切る役の方がいい?」
「いいや全然」
他の人がやりたがらないことを率先して行える人は良い人だ。昔の俺にかつて誰かがそう言った。その人はせいぜいトイレ掃除くらいのことを想定して言ったのだろう。今こうしている俺の役割も春井の役割も、きっとほとんどの人はやりたがらないはず。だけどこの場に「良い人」なんているはずがないのだから。
体重をかけてのしかかり押さえつけた小柄な彼女は、人外であることを忘れさせるほど当然に、声を押し殺して震えていた。
「いくよ」
生きたままの魚を捌く時に躊躇しないことと同じように、春井は重たそうな包丁を思い切り振り下ろした。俺は覚悟を決めて、押しつぶすつもりで人外女の顔を枕に押し付ける。
「………ぅゥ゛ゥ゛ゥ゛っっ!」
俺たちの耳にだけ届く悲鳴がブザーのように鳴った。それはくぐもっていてもなお、何物にも遮られず鼓膜をつんざく場合と同じくらい、当人の悲痛さを十二分に伝えてくる物だった。
当人の危機をけたましく知らせるような血は流れるだけでなく飛び散りもして、ブルーシートだけでは守りきれなかった家具等まで汚していく。その最中で、自分の体の下で無力にも暴れる女を押さえつけながら、俺はこう思った。……あとで掃除すればいいだろう、自分の本業がそれでよかった、と。
しかし、後のことを考えるのは悠長という物だったかもしれない。いくら折れそうなほど細い腕だったとしても、それが包丁一振で断ち切られることはなかったのだから。
悲鳴は何度でも聞こえてきた。顔なんか見えなくても、人魚が泣きじゃくっていることが分かった。
…………結局、俺もかなり必死に役目を果たしていたので、春井が何度包丁を振り下ろしたのかを数えている余裕はなかった。だがある時その凄惨な作業も終わり、腕が完全に切り離された頃には、Bと仮名で呼ばれる人外の女は、誰が押さえつける必要もなくぴくりとも動かなくなっていた。
取れた腕を持ち上げた春井は鼻歌を歌っている。
窒息か失血か、あるいは痛みのショックによるものか、間違いなく動きを止めてしまったBの心臓は、しかし活動再開まで十秒も要さなかった。そしてそれは腕の再生についても同じことだったのだが、しかし……それにしてもまぁ……。
Bの涙でぐちゃぐちゃになった顔と、不規則で荒い呼吸……。彼女の顔立ちは、か弱い人間の女性と何ら変わらない物で、今はそれが悲惨に歪んでいる。俺はその光景を見て、欠陥品の人間ながらこれは本当に、かなり良心が痛んだ。
そしてそんな心とは無関係に、ジュウジュウと油の跳ねる音が聞こえてくる。振り返ると、台所で春井が腕を焼いていた。
Bはそれには目もくれずテーブルの上の茶封筒を取って、家の中のどこかへと消えていった。
「そのまんま焼くのか」
「捌き方が分からない」
腕は無造作にそのままフライパンの上で焼かれていた。いかにもホラーな絵面だが、あれを食わなければ自分の手のひらに不気味な鱗が生えたまま一生を過ごすことになる。
「けど焼いた方がいいだろう? 新鮮とはいえ肉だし、むしろ焼かないなら切り落とす必要もなかった」
「好きにしてくれ。俺はお前と違ってこだわりがない」
肉を食らうことだけが目的なら、確かに直接かぶりついてもよかったのかもしれない。どちらがより残酷なのか俺には分からないけれども。
中まで火を通すのに時間がかかるらしく、そこそこ暇な時間が出来たので俺は掃除に取りかかることにした。というかそうでなくても、足元に血溜まりがあったのではやはり落ち着かない。さっさと片付けてしまおう。
……と思ったのだけどその前に、俺はブルーシートの上の血溜まりや、血しぶきの飛び散った家具に囲まれた今の状況に、二度とはないだろう機会を感じ取ってひらめいた。手近な椅子に座る。
荷物の中から菓子パンを取り出して、数分前の凄惨な作業を出来るだけ鮮明に思い起こしながら、俺はそれをかじった。
思っていたよりも案外美味しかった。やはり自分はそういう人間だということか。
「さて働くか」
パンは半分くらい残して袋で│包《くる》み、気合いを入れて立ち上がる。春井が何の断りもなくフライパンを使っているように、俺もそこらへんから掃除道具を拝借することにした。
その後しばらくして……数分の作業をしただけでも、特別な道具無しで出来ることの範囲では一応それなりに形は整えられたように思う。まだ誰かがこの家に入れば秒で違和感を覚えるだろう段階ではあるけれども、物を食べるのに最低限の舞台は出来上がったはずだ。
残りの作業は、肉が焼けたので食後にお預けとなった。
「とりあえず塩をかけてみた」
「人肉ってもっとこう、臭味対策が必要なんじゃなかったか?」
「やり方が分からない。どんな物が必要なのかも。だから開き直ってみた。何せもう二度と食うことはないかもしれない食材だから、素材の味をと思って」
「ふーん……? じゃあまぁそういうことでいいか」
「うん。それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
春井に治験させるまでもなく、今となっては俺もBの肉にこもった未知の力を信じている。鱗の存在やBの自己再生など超常的な力の実在は認めざるを得ず、また春井が言う「これ以上嘘を言われる理由がない」という話にも、信用を置くとまではいかなくとも一理あったからだ。
そしてどちらにせよ、死にたくはないと言いつつも、俺はBの肉を食ってみる以外に選択肢がない。どうやら触れると伝染するらしいこの鱗を隠し維持したまま生きることは、俺みたいな粗雑な人間には到底出来そうもないのだ。
手のひらの鱗を今一度見てから、俺も春井と同じようにその肉を口に含んだ。それはあれだけ苦労して切り落とした「そのままの形」であるだけあり、ナイフを使ってもハンバーグより遥かに切り取りづらい物だったが、果たして味の方は……。
「…………」
「…………」
モチャモチャと肉を噛む音だけが部屋に響く。そこに足音が足されたタイミングと、春井が言葉を発したタイミングは同じだった。
「うん、なるほど。不味いな」
金をどこかにしまって戻ってきたBと俺は目が合った。
「それはその、すみません……。でも、良薬ですから」
「いやこちらこそ、痛い思いをさせておいて申し訳ない」
春井はまた微笑みを絶やさなかった。
それはそうと、良薬とやらの効果は目覚ましかった。一口食べただけで俺たちの鱗は綺麗さっぱり消え去って、新しい腕が生えたBと同じように、元々鱗があった箇所には今や他の部分とまったく変わらないベージュの皮膚が張っている。その意味では非常にめでたい。
が、問題は、今度こそ人肉を食ってしまったことにあった。人外の肉は間違いなく特殊な力を持っているが、だけどそれは単純な「人肉」が持つ性質を否定する理由にはならない。鱗が消えたとして、不治の病にかかって死んでしまうなら意味がない。
とはいえそこは人外Bと、それから友達である春井のことを信用したいところだった。彼は結局、俺に人肉を無理に食わせることはしなかったのだ。俺よりも遥かに正確に状況を把握しているらしき彼が何も言わなかったということは、この肉は鱗を消すだけではなく、春井がサラッと語ったように、あらゆる怪我や病と無縁の健康をくれる物なのだろう。そう信じたい。
……けれども俺は、淡い希望を、都合の良い期待を抱きすぎていた。忘れていたのだ。我が友人は悪いやつではないのだが、嘘をつく時は嘘をつくし、黙っているべき時は黙っている……何より俺と同じくどこかネジの外れた人間であるのだということを。
「どうしたんだよ、不安そうな顔して。クールー病の心配はないぞ。この肉は絶対的な健康を与えてくれる物なんだ」
「だといいんだがな……。まぁ鱗は消えたことだし、信用するか」
「あぁぜひそうしてくれ。もっとも、信用してもしなくても、いずれ変化に気付く時は来るだろうけどね」
「なに?」
春井の微笑みは、心なしか幸せそうな物になっていた。
「この肉を食ったなら、健康どころか、もう命の心配をする必要はない。肉の主と同じように、僕たちも不死になるんだからね」
「なんだと? ……マジか?」
「そうだろう? Bさん」
話を振られたBは、彼女にしては珍しく力強く頷いた。
「マジかよ」
「死も怪我も病気も、何も心配しなくていい。痛覚が残ることだけはネックだけれど……少なくとも毒や感染症に怯える必要はもうないわけだ」
「だからあんな大金を……」
「そういうこと」
春井は金持ちではない。俺と同じような一般市民である。だから彼が無造作に投げ捨てるようにしたあの分厚い封筒に、その実並々ならぬ想いがこもっていたことを、俺は分かっているつもりだった。
しかしまさか不死になろうとしているとは思わなかった。
「マジかよ……」
「素晴らしいだろう。まさに人魚の肉だ、魚要素はなくとも」
「……あぁそうだな」
受け入れるしかなかった。
人にあるべき感覚がいくらか欠けている俺にも、死にたくないという気持ちは人並みにある。だからこれは喜ぶべきことなのかもしれない。
しかしどうにも、さっきの猟奇殺人的光景を経験してからだと、こうなんというか…………なあ?
「さあ、食って早く帰ろう。酒が欲しくなってきた」
「途中のコンビニで買えばよかったんだ」
「忘れてた。僕だってこういう時くらい忘れ物をする」
「いや忘れ物はいつも人並みにするだろ、完璧人間みたいな口ぶりしやがって」
「ははは」
料理長のようにBがずっと俺たちの隣で見張っていたけれど、笑う友達を見て苦笑いで返すくらいのことは俺にも出来た。
そして結局、不味いと言ったくせに、春井は腕を丸ごと一本食べきってしまったのだった。
帰りの電車はもう終電になっていた。誰もいない車内には電車の揺れる重い音だけがあって、それは窓から見える陳腐な夜景と合わさり、俺に物足りなさを感じさせた。
手持ち無沙汰感。それだけを理由に、俺は口を開く。隣に座る春井はウトウト眠りかけていたようだった。
「Aってどんな女だったんだ」
「え?」
今だけは誰にも必要とされていない吊り革が、皆同じような揺れ方をしている。頭では分かっていても、明日この車両が人で埋まることが、俺には上手く想像出来なかった。
「長い付き合いだけど、お前からそういう話は聞いたことがなかったなぁ、と」
「そうだっけ? ……いやそうだな、そうだろう。今までは踏み込む前に関係が終わっていたからね。亮太を除いては、男女分け隔てなく」
「そうなのか? 意外だ」
微笑みを絶やさず人に臆さず、そして適度に弱そうな春井は、どちらかと言えば人付き合いが上手い方であるように見える。だったら確率的に俺以外の親密な友人だとか、恋人だとかがいてもおかしくないと思っていた。
だけど考えてみればそれは、俺だって同じことだった。春井ほど柔和なタッチの人間にはなれないが、しかしそれなり普通に社会で生きている。普通にコミュニケーションが出来る。でも……というわけだ。
「遅かれ早かれ皆気がつくんだよ、僕がどういう人間なのかっていうことに。亮太もそうだろう」
「確かにな」
「……だからAと趣味が合った時は本当に嬉しかった。舞い上がったよ、正直」
「それも意外だ。けど気持ちは分かる気がする」
Aが春井に行ったことは、あまりにも特殊な形ではあるもののほとんど美人局だった。一方でこれは誰から見てもそうだろうけど、平気で人の腕を切り落として食っちまうような男が、そんな物に引っかかるなんてことは印象的に一致しない。
が、しかしあらゆる人間がいつか何かしらのタイミングで知るように……例えば春井の本性に気付き始めるようなタイミングで知るように、印象なんて物は、まるで信用に値しない物なのだ。
「けど向こうの目的が分かった時、そこまでショックじゃなかった。Bの肉を食う話は渡りに船だったからかな。……あぁそうだ、今日のことは他言無用だから気をつけてくれよ。Bの存在が公になると、冗談抜きで僕たちはAに殺される」
「もっと早く言えよそういうのは。怖いわ」
不死を増産するというBの能力に対して、Aの能力が「伝染する気色悪い鱗をくっ付けるだけ」というたかが知れた内容になっているとは考えにくい。Aに殺されるという言葉には、不死になってなお直感的な重みがあった。
……というか俺たちは本当に不死になったのだろうか? わざと怪我をして治る様子を観察したわけでもなく、まだ確信は出来ない。しかし俺だってその確信を得るためだけに痛みを被るのは御免だ。春井だってそうだろう。だから、ここまできて不死の話がホラだなんてことはないだろうと信じている。
「けど逆にそれでよかった。不死を隠せっていうなら安心出来る」
「え、どうして?」
「さっき俺たちがやったことを、ちっさい隠しカメラとかで撮られでもしてたらどうするんだよって話。けど不死を隠せってことはそういう心配も無しってことだろ? 警察に突き出されて、万一死刑にでもなったら事だ」
「ははぁ、なるほど。それは考えてなかった」
我が友人は、時々思ったよりも間抜けで危なっかしいことがある。そんな人間だからこそ何でもかんでも口に入れたがるのだろうけど。
「……で? まだ質問の答えが無いが?」
「え?」
そんなことが気になるのか? とでも言うふうに、彼はキョトンとしていた。
車内に鳴るアナウンスが、俺たちが次の停車で降りるべきことを駅名で知らせてくれる。
「Aはどんな女だったのかって。好みのタイプだったのか?」
「うーん、そうだなぁ……。彼女は、背が高くて気が強そうな人で、顔の中では目力の強さが目立つ感じだったんだけど……好みかと言われると、どうだったんだろう。そもそも僕は、自分の好みが何なのかもよく分からないから、何とも言えないな」
「よく分からないのに好きになったのか」
我ながらにやにやと嫌な顔付きでそう問いかけると、諭すように春井が言う。
「誤解してもらっては困る。僕は波長の合った女性が、たまたまそういう見た目をしていたよと話しているだけなんだから」
「そこだけ切り取ると純愛っぽいな」
「実際そうだったんだよ。一方的だっただけで」
それでもきっと、許されるならAの肉だってこいつは食うんだろうと思った。シンプルな部分はBで食べたから、次は内臓にいってみようとか言って。それとも目立つ目玉に惹かれるのだろうか?
しかし実際の内容がそんな風に猟奇的だったのだとしても、俺は「一方的な純愛」という言葉に重みを感じてしまった。彼を同類だと思っているからだろうか?
だから同情してしまって、それを誤魔化すために茶化そうとするんだろうか。
「Aとのセックスはどうだった?」
「どうって?」
「なんかこう、あるだろ。語るべき何かが。なかったのか?」
「うーん」
彼は本当にAの性格にばかり惹かれていたのかもしれない。しっかりやることをやっているのだから性欲が無いわけではないのだろうが、記憶を振り返っている最中であろう彼からは、まるでそういった欲望のリフレインが感じられなかった。
あるいはそれこそが、彼という人間が常に張っている罠なのかもしれないが。
「手錠を使いたいと言ったんだ。僕が」
「おお? えぇ、なに、お前そういう趣味か」
「趣味というほどじゃないけど、やってみたくなったんだよ。それでまぁそう伝えると、彼女は「ん」って両手首を前に出してくれた。けれど僕は、あぁ違う、そうじゃないんだと言わなきゃならなかった。すると彼女は、今度は黙って後ろ手に手首を揃えてくれた。けど俺はまた、違う、と言わなきゃならなかった」
「……はぁ? なに、どういうこと?」
「ベッドの枠組みと彼女を手錠で繋ぎたかったんだよ。この前亮太が勧めてくれた96時間っていう映画でそういう絵を見て、試してみたくなってさ」
「うわ、なんだよお前、俺に癖の責任をなすり付ける気か? ……それで?」
「快く受け入れてくれたよ。その後で鱗を付けられたけどね」
「因果応報なんじゃねぇか?」
治すことが出来た者の余裕ということなのか、俺たち二人はそれで結構笑った。手錠なんかどこで手に入れるんだと聞くと、オモチャならドンキに置いてあるとノータイムで彼は答えた。本当かよと、また二人で笑った。
「ハンバーグを出して騙そうっていう作戦も、勧められた映画から思いついたんだよ。どの映画だと思う?」
「ええ? 最近お前に勧めたのは…………あぁ分かった! ゴールデンサークルか!」
「正解!」
「うわぁマジかお前。もう映画勧めるのやめようかな」
「えぇ、それは困るな。自分から見る気にはなれないんだ」
じゃあ何も困ってねぇじゃねえか、映画を見なきゃ死ぬわけでもあるまいし。
そう返すと、春井は「不死だけに?」と言って、一人で笑っていた。それについていけなかったあたり、どうも俺はまだ不死人としての振る舞いに馴染みきれていないらしい。
駅のホームに近付いた電車がだんだんと速度を落としていく。その最中、最後の無駄話として彼が問いかけてきた。
「亮太は」
「うん?」
「どんな女性がタイプなんだろう?」
言われて、俺は考えた。好みのタイプが分からないと言う春井を茶化したからには、俺はそうではないともちろん確信していたのだけれど、いざ言語化しろと言われるとなかなか難しいものがあった。
頭の中にいくつか浮かぶ特徴の羅列をまとめ上げて、俺は簡潔な一言を答えに選ぶ。それを口にしたのは、特有の音と共に車両のドアが開き、俺たちが立ち上がることと同時だった。
「俺の母親みたいな人」
「えっ、怖っ」
俺も、まさか彼の微笑みがこんなタイミングで途切れるとは思わなかった。