今川義元の野望(仮)   作:二見健

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12.安祥の戦い

 三河出兵にあたって、織田信秀は二千の兵を組織した。

 

 事前に各方面に声をかけ、水野家が話に乗って千の兵を出している。さらに旧領奪還を賭けて戸田家も五百の兵を集めてきた。知多半島を領する二家が立ち上がると、乗り遅れてなるものかと佐治家も腰を上げ、こちらも五百の兵を出している。

 

 総勢四千人である。

 

 信秀は沓掛城で近藤景春を迎え入れると三河に入った。

 

 沓掛城の近藤景春は元松平家の家臣である。森山崩れ以降は織田に従っており、三百の兵が新たに傘下に加わった。

 

 三河に入った織田軍は永見家の知立城を包囲した。

 

 永見家は知立神社の神主も兼ねており、こちらも清康の頃から松平家に従っていた。

 

 知立城は森山崩れの追撃戦では捨て置かれた城だったが、信秀は今回はここから攻め始めた。松平広忠の出方を窺うためである。

 

 永見家では当主の貞英が水野忠政に降伏した。

 

 永見貞英にとっては領地が近い水野家の方が話がしやすくて安心ということだった。

 

「水野にも褒美が必要だろう」

 

 知立城のような小城ぐらいならくれてやってもいいと信秀は言う。

 

 しかし永見貞英の弟、永見貞近は武人としての死を選んだようだ。貞英の決定に異を唱える家臣と共謀して籠城してしまったのである。

 

 とはいえ小城だった。

 百人程度が籠城しているだけで援軍の見込みもなく、織田軍は容赦なく知立城を攻め落とした。

 

 そして落ち延びた兵が岡崎城の広忠に窮状を訴えたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 広忠の方も織田軍の侵攻は把握していた。

 積極的に物見を放ちつつ、岡崎城に家臣を集めて対策を練っているところだった。

 

「安祥城が危険です」

 

 阿部定吉が発言する。その通りだと広忠は頷いた。

 

「安祥城に兵を入れなければなりませんね」

 

「お待ちを」

 

 大久保忠俊が制止する。

 

「それでは岡崎城が手薄になります。未だに桜井信定めはこの城を狙っており、我らが隙を見せるのを虎視眈々と待っておるのですぞ」

 

「……大叔父上ですか」

 

 広忠が疲れ切った溜息を吐いた。

 何度も頭を悩ませてくれる御仁である。親族であり互いに歩み寄る余地があったはずなのに、今や信定は完全に宗家の宿敵であった。

 

「兵はどれぐらい集まりましたか」

 

「千五百人ほどですな」

 

「まだ増え続けておりますので、いずれは二千人にはなるでしょう」

 

 松平清康の全盛期には五千から七千の兵を出したというから、それには全然及ばないが、これだけあれば桜井信定に備えることができるはずだった。

 

 だが、織田家が相手では話は別である。

 

「今川家に助勢を求めなければなりませんね」

 

 広忠の言葉を聞いた家臣たちは固まってしまった。

 

 家臣たちの意識では今川家は敵国だった。伊勢宗瑞を大将に攻め寄せ、松平長親がいなければ滅亡するところまで追い込まれたのだ。広忠が今川家の援助を受けたことは知っているし感謝もするが、家来になるつもりはないというのが家臣たちの本音だろう。

 

「……松平家だけで撃退できないだろうか?」

 

 控えめに発言したのは本多忠豊である。

 

「織田は四千の大軍だぞ。如何にして戦うのだ」

 

 大久保忠俊に問われた本多忠豊は困り切った顔をした。

 思ったことを言っただけで、代案はなかったらしい。

 

 しかし、酒井忠尚は違った。

 本多忠豊の発言から閃きを得たようである。

 

「我らを援助したのは今川家だけではない。吉良家や富永家なども手を貸してくれたではないか。それに加えて湯治に行っている蔵人(信孝)殿を呼び戻せば、兵力は三千にもなる。戦えぬことはないと思う」

 

 自信に溢れた声である。

 重臣たちも、戦えるのではないかと希望を抱き始めたようだ。

 

「いや、それでも桜井の備えに千の兵を岡崎に残さねばならぬ。結局は二千で織田に立ち向かうことになるぞ」

 

「……内膳か」

 

 大久保忠俊と阿部定吉が苦り切った顔をした。

 

 膝を突き合わせて話し合っても、行き着くところは桜井信定だった。

 

「申し上げます」

 

 その時、評議の場に旗本の少女が現れた。

 

「あ、と、その」

 

 だが、その少女の歯切れが悪い。

 己の役目すらこなせないのかと重臣たちが苛立っていた。いくら城主が入れ替わったからといって、程度の低い者が旗本に混じるようでは困ると言うことだ。

 

「早くせんか! 我らには貴様なぞに構っている時間はない!」

 

「ひっ! いえ、その。あう、あう、ご、御一門の、さ、桜井さまが来られたので……お伝えしなければと……あうあう、ふえぇぇぇん」

 

「なにぃ!?」

 

 大久保忠俊が腰を上げる。

 

 なお、泣いている少女は無視されていた。

 

 桜井信定の来訪。一大事である。

 

「兵はいかほど連れて参ったのだ?」

 

「はうぅ。ご、五十人ほどですが、いずれも軽装でした」

 

「……解せんな」

 

 阿部定吉が唸り声を上げている。

 

 桜井信定は松平家の不倶戴天の敵である。そして信定は用心深い男でもあった。信定に丸腰で敵地にやってくる度胸などないというのが、重臣たちの総意だった。

 

「内膳め、どういうつもりだ」

 

「ここで内膳の首を取っておけば、後顧の憂いが消えるが、さてどうしたものか」

 

「拙者としては斬っておきたい。多分に私怨が入っているがな」

 

 忠俊は信定に何枚も誓紙を書かされているため、感情的にも信定を許せないと考えているようだ。

 

「いいえ、斬るべきではないでしょう」

 

 広忠は阿部定吉たちの議論に口を挟んだ。

 

「岡崎城の奪還には正当性がありましたが、大叔父上を騙し討ちするのは流石に卑劣すぎます。私には大叔父上がこちらに歩み寄ってくれたのだと思えてならないのです。そんな相手を有無を言わさず殺してしまうのは人道にもとるのではありませんか」

 

「……うむ。広忠様の言う通りだ」

 

 大久保忠俊は頷いたものの納得していない顔だ。

 

 とはいえ我慢して貰うしかないだろう。

 

「では、信定を連れて参れ。共の者は三人まで。武器は取り上げよ」

 

「くれぐれも見落としのないように気を付けよ。どこぞの痴れ者がご主君を斬ってしまうかもしれんからな」

 

 本多正豊が皮肉を飛ばす。明らかに阿部定吉を揶揄した発言だった。

 

 定吉は唇を噛んでいた。森山崩れの一件がまだ尾を引いているのである。定吉も悔しいのだろうが、重臣たちの誰もが彼を庇おうとしないことが、定吉の立場を明確に現していた。定吉の能力や実績は認めても、感情では納得できないのだ。

 

 険悪な空気の中、桜井信定が現れた。

 

 松平内膳正信定。松平長親の三男、桜井松平家の当主。

 広忠を軟禁して宗家の乗っ取りを企てた、松平家の獅子身中の虫だった。

 

 年齢は五十代半ば。とうに老人である。

 

「久しいな、広忠殿」

 

「ええ。大叔父上こそ息災のようで」

 

 重臣たちに睨まれているのも気にせず、信定はどっしりと腰を下ろして胡座をかいた。

 

 あまりに不貞不貞しい態度に、大久保忠俊が腰のものに手をやった。何時でも抜刀できる体勢である。

 

 信定はそんな忠俊を憎々しげに睨み付ける。

 

 大久保忠俊が裏切っていなければ、岡崎城はまだ信定のものだった。

 

「小賢しい小娘だ」

 

 信定は忠俊から視線を戻すと、開口一番に悪態を吐いた。

 

 広忠は呆気に取られるが、もとより予想していた一言である。すぐに気を取り直して言葉を返した。

 

「貴方ほどではありませんが」

 

 痛烈な皮肉である。

 

 肌に貼り付くような緊張感の中、会談が始まった。

 

「今川から力を借りたようだな。その意味、わかっておるのか」

 

「大叔父上の方こそ、織田の支援を受けておられるようですが」

 

「織田弾正忠は強い」

 

「今川治部大輔よりもですか?」

 

「織田殿はわしに西三河を任せるおつもりだ」

 

「今川様は私に西三河を任せると仰っております」

 

 意見は交わらなかった。それぞれの思想が正反対なのだ。

 

 これでは議論にもならないだろう。広忠と信定は二人揃って嘆息した。

 

「わしにはわかる。お主では織田弾正忠には勝てまい」

 

「勝敗は兵家の常と言います。大叔父上の言葉は武士にあるまじきものかと」

 

「議論をするつもりはない。ただ、負けると思ったまでよ。故にわしは岡崎城に逃げ込んできたのだ」

 

「織田への降伏の仲介でもしてくれるのですか」

 

「やれと言われればやるが、お主は織田に下るつもりはないのだろう?」

 

 広忠は会話しながら、自分の心が冷えていくのを感じていた。

 

 血縁者なのだから、必ずわかり合える部分はあるだろうと根拠もなく信じていたのだ。なのに実際に顔を合せてみると、嫌悪感しか沸いてこない。

 

 相性が悪いのだろうか。

 それとも、これが信定が嫌われ者たる理由なのだろうか。

 

「お主らが織田に負ければ、今川に援軍を請うのは間違いない。そうなれば今川の大軍が行きがけに桜井城を踏みつぶすのは目に見えておる。そしてわしは、織田との決戦前に血祭りに上げられるだろう」

 

「……まだ私たちが負けると決まったわけではありません」

 

「何度も言わせるな。議論するつもりはない。それに、お主らが勝っても同じなのだ。お主らが織田を倒した勢いのまま、わしの城に攻め寄せるのは目に見えておる。勝っても負けてもわしが助かる道はないのだ」

 

 信定が人を馬鹿にするような顔をした。

 そんなこともわからないのかと言いたげだ。

 

 広忠は感心した。信定の言うことは、まさにその通りだろう。

 理屈では正しいのだ。だが、あまりに小賢しすぎて見苦しく映る。

 

 これでは三河人から嫌われるものよくわかる。

 何度も宗家を奪える機会がありながら、そのすべてを取りこぼしてきたのも、この小賢しさが原因なのだろう。

 

「戦が終わるまで、叔父上には不自由をさせてしまいます。よろしいですね?」

 

「それでよい。手厚く遇されてしまうと、織田殿への言い訳ができなくなるからな」

 

 桜井信定が別室で軟禁され、その配下の兵が桜井城に追い返される。

 

 何にせよ、これで後顧の憂いは無くなった。

 

 今こそ全力で織田家と戦える好機である。

 兵数こそ二千に満たないが、織田軍は烏合の衆。対するこちらは松平家が一つになっている。戦いようはあるだろう。

 

「広忠様」

 

「はい」

 

 大久保忠俊に促され、広忠は頷いた。

 

「皆さん。出陣しましょう!」

 

 おお、と家臣たちが大声で応じた。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 安祥城には松平長家や、松平家の一門五人が入っていた。

 城兵はおよそ千人である。広忠も馬鹿ではないため、織田の来襲と同時に安祥城に兵を入れていた。

 

 安祥城はかつての松平家の本拠地であり、西三河の要の地と言える。

 

 重要拠点である。安祥を落とせなければ、すべてが片手落ちに終わる。

 

「さて、どう攻めたものか」

 

 織田信秀は安祥城を見上げた。一度、攻略に失敗した城だった。

 森と沼地に囲まれており、土塁が積み上げられ、空堀もあった。台地に築かれた平山城であり、曲輪は三の丸まで造られていた。力攻めが難しいことは以前の失敗で身をもって思い知らされている。

 

「城を取ってから広忠の本隊を迎え撃つか、広忠の本隊を撃破してから城を取るか。どちらも一長一短だな」

 

「後詰の計を取るべきだと思うが」

 

「信光。ここは安全策を取るべきところではないぞ」

 

「む、そうか?」

 

 織田家は安祥城の攻略にこそ失敗していたが、その経験によって攻め方を覚えている。城の構造もある程度は把握しており、兵数もこちらが多い。ここで攻めない理由はない。

 

 無論、危険はある。

 

 松平広忠の本隊が城攻めの途中で襲いかかってくれば、下手を打つと織田軍が総崩れになりかねない。

 

 だが、その程度の危険も犯せないようなら、戦国大名に名乗りを上げるべきではない。

 

 信秀は部隊を二つに分けた。

 

 半分を北側に、残り半分を南側に配置する。

 

 北側は信光に、南側は水野に任せた。

 

 松平側も部隊を分けて応戦し、何度も織田軍を撃退したが、やがて疲労が積み重なって劣勢になっていった。

 

 激戦だった。両軍合わせて千人以上の死者が出た。

 

 最終的に安祥城は陥落。織田家の物となった。

 

 

 

 

 

 

 広忠の本隊が到着した時、すでに安祥城からは煙が上がっていた。

 

「くっ。遅かったようですね!」

 

 広忠が歯がみしている。

 

 直感的に、大久保忠俊は拙いと思った。

 

「撤退するべきです!」

 

「何を言う! 大久保は腰抜けの集まりか!?」

 

 周りから罵声が飛んでくる。本多忠豊だった。

 

 だが、忠俊は意見を翻す気はなかった。

 

「戦には期というものがある。相手は城を落とし、勢い付いている。こちらは城を奪われ、勢いが落ちた。これは百戦して百回負ける状況だぞ!」

 

「臆病風に吹かれたか、大久保忠俊! ええい、黙れ! 貴様の発言が、我らの士気をいたずらに下げているのがわからんのか!」

 

 それもそうだ。

 忠俊もそれは理解していた。その上で諫言したのだ。

 

「広忠様。拙者は決して臆病風に吹かれたわけではございませぬ。ですが、ここで戦端を開けば織田弾正忠の手の上で転がされるだけでしょう。ひとまず後退して安祥城の敗残兵を収容してから迎え撃つべきです」

 

「大久保。あなたの言い分はわかりました」

 

 広忠は納得してくれたらしい。忠俊は安堵した。

 

 その直後だった。

 

 敵陣から縄を打たれた集団が押し出される。

 

 白装束を着せられた男女、およそ十人だった。

 

「……あれは」

 

 松平長家。その他、松平の一門衆だった。

 

 忠俊はゾッとした。無心で叫んでいた。

 

「やめろ、織田弾正忠! それが武士たる者のすることか!」

 

 主君への忠誠心のため、最後まで城を守ろうと戦い続けた武士たちだ。尊敬するべき者どもであり、切腹ぐらい許してやるべきではないか。まさか織田弾正忠にはそれがわからないのか。

 

 松平長家たちは猿ぐつわを噛まされていたが、断末魔を敵軍に聞かせるために猿ぐつわが外された瞬間。

 

「我ら冥府にて織田を呪い続ける所存! 広忠さま! さらばです!」

 

 松平長家が大声を上げる。

 

 織田兵がそれ以上は喋らせるものかと槍を突き出した。

 

「やめろぉ!」

 

 叫んだのは忠俊だけではない。松平の全軍が悲鳴を上げていた。

 

 だが、それもむなしく、織田兵の繰り出した槍が彼らを串刺しにした。

 

 血祭り。

 合戦前に敵の捕虜を処刑して士気を上げる儀式である。

 

 織田軍が鬨の声を上げている。えい、えい、おう。何度も大声が上がり、戦意をこちらに示していた。

 

 松平の兵たちは無言だった。憎悪に燃えていて今にも爆発しそうだった。

 

「忠俊。残念ですが……」

 

「そうですな」

 

 もはや後に引けなくなってしまった。

 

 ここで広忠が撤退すれば、彼女は家臣たちからの信望を失ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 松平軍が突撃してくる。

 

「若いな、広忠。やはり小娘か」

 

「清康ほどではないようだ。あれは強かった」

 

「お主が寝返るほどだからな」

 

「言ってくれるな。俺はもう二度と兄者を裏切れん。怖すぎるのだ。兄者は」

 

 織田信秀、信光の会話だった。

 

 松平清康は強かった。何せ、織田信光が松平に内通したほどである。信秀はそんな信光を許して、重要な地位に付けて用いている。裏切った親族を重用するなど、並の者に出来ることではない。

 

「無策か。ならば戦いようもあろう」

 

 信秀は敵軍の陣立てを眺め、誰ともなく呟いた。

 

「父上。敵が攻めてきております」

 

 当たり前のことを言うのは、息子の織田信広である。

 

 凛々しい若武者だ。敵軍を間近に見て緊張を浮かべていた。

 

 使えぬ――と内心で思った。

 何もかもが凡庸である。旗本の子息ならこの程度でも構わないが、信広は織田の連枝衆なのだ。信奈のためにもせめて信光程度には育てたいが、実戦で磨いてみなければ玉石は判別できない。まだ見限る時ではないため、信秀は気長に付き合ってやることにした。

 

「どう思う?」

 

「松平勢は士気が高そうです。尾張の弱兵では正攻法では勝てぬでしょう」

 

 たしかに尾張兵は弱兵と言われているが、指揮官は有能を揃えている。信秀が選び抜いて育てた精鋭である。

 

 それを息子が理解していない。信秀は溜息を吐きたくなった。

 

「貴様ならどうする」

 

「後退して松平勢の勢いを受け流す、でしょうか」

 

「うむ、そうだな。だが、それだけでは足りぬ。おい、造酒丞に伝令を」

 

 織田信秀が指示を出した。

 

 織田造酒丞信辰。

 菅屋家の出身でありながら、織田姓を与えられた人物である。その序列は信康や信光などの舎弟たちに次ぐ、連枝衆の一人であった。

 

 信辰は伝令の姿を見るや、内容を聞く前にすべてを理解したらしい。

 

「信辰さま! 本陣からの――」

 

「よかろう。我らこれより伏兵と化す。兄者に伝えてくれ」

 

「え、それは」

 

「急げ! 寸刻たりとも無駄にするでないわ!」

 

「は、はい!?」

 

 伝令は何も言っていないのに返答を受け取らされて信秀のもとに戻らされた。

 

 信辰の返答を受け取った信秀は大声で笑い声を上げた。

 

「ふはははは。流石は造酒丞。よう心得ておるわ」

 

 敵軍と最初に衝突したのは、佐々成吉、成経の兄弟だった。

 二人は馬廻衆であり、今回は最前線で与力衆の指揮を任されている。

 

 松平家の先陣は本多忠豊。

 

 勢いはあったが、足並みは揃っていない。矢を射かけられても怯むどころか直進するのは敵ながら天晴れだったが、勢いだけで突撃したところで長続きするものかと、織田兵たちは嘲笑った。

 

 佐々兄弟は敵軍を受け止めながら後退し始める。

 

「猪のごとき突進だな。矢面に立たされる我らにとってはたまらんわ」

 

「もう暫くの辛抱よ。なに、信秀様もそこのところは考えてくれておるわ」

 

 すぐに家老衆、平手政秀が後詰に入り、前衛の後退を支援してくれた。

 

 入れ替わるようにして佐久間盛重が前に出る。

 佐久間盛重は岡田重善、中野一安などの馬廻衆を引き連れ、本多忠豊の突撃を受け止めた。

 

「平手様。助かり申した」

 

「あいや。そなたたちこそ、ご苦労であったな」

 

「少し休んでから前に出るつもりです」

 

「うむ。お主らの働きは私から殿に伝えておこう」

 

「かたじけない」

 

 佐々成吉が平手政秀と会話している途中に、平手政秀は何かに気付いたように敵陣の後方に目を向けた。

 

「どうやらお主らの活躍の場はなくなってしまったようじゃな」

 

「そのようですね。一番槍だけで満足しておきますか」

 

 茂みから出現した織田の軍勢が、松平軍の南側から襲いかかる。横槍である。

 

 それと同時に酒井忠尚の軍勢二百が、一戦もせずに後退し始めていた。

 前線が戦っているのに、後衛が逃げ出してしまうことを裏崩れと言う。酒井の離脱によって、松平軍の士気が崩壊してしまったのである。

 

 おそらく信秀が事前に根回しをして酒井忠尚と内通していたのだろう。

 

 やがて松平勢は総崩れになり、凄惨な追撃戦が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦況はあっという間に入れ替わってしまった。

 

 勇猛果敢に槍をぶつけていたはずの松平の兵が、次々に討たれている。

 

「酒井忠尚が返り忠しました! ここは危険です!」

 

 だから酒井は討ってでるべしと抗戦論を述べていたのだろう。

 広忠たちを信秀に献上するために甘言を弄したのだ。

 

「姫さま! 今は何も考えず撤退して下さい! 大将たるもの、まずは生き残ることです! 考えるのは後でいくらでも!」

 

 広忠は小原鎮真――正しくは雪斎の言葉を思い出していた。

 

 一つ。牟呂城と連絡を取るべし。

 二つ。大久保忠俊を信じよ。

 三つ。織田家と独力で戦うべからず。

 

 広忠に味方してくれたのは牟呂城の富永忠安だった。

 

 裏切ったと思った大久保忠俊は、本当は広忠の味方だった。

 

 そして織田に独力で挑んだ広忠は、織田に大敗した。

 

 最前線にいた本多忠豊は討ち死にしたらしい。

 

「……大蔵。私は間違えたのですか」

 

「姫さま。今はそのようなことは」

 

「いいから答えて下さい!」

 

「織田弾正忠がこれほど強いとは思っておりませんでした。それは誰も知りうることではございません。姫さまは何も悪くはございませぬ。すべては至らぬ我らが悪いのです」

 

「……あなたたちに甘えるつもりはありません」

 

 阿部定吉の慰めも耳に入ってこない。

 未来ある将兵を討ち死にさせてしまったのだ。

 

 松平一門を処刑されたという一時の激情にかられ、無策で突撃してしまった。君主たるものの行動ではない。対する織田信秀は何もかもを入念に仕組んでいた。広忠たちの到着前に城を落とし、捕虜を血祭りに上げ、伏兵を使い、酒井を調略した。

 

「今川に、援軍を」

 

 振り絞るような声だった。

 

「……はっ」

 

 阿部定吉の声も震えていた。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

「じゃじゃーん! 見て見てお師匠! 仕留めたばかりの牡丹肉だよ!」

 

 岡部元信が仕留めたばかりの猪を引きずっていた。

 

 何をやっているのかと思えば、こいつは俺が吉田城で内政に明け暮れているのを横目に「鷹狩りに行ってくる」と脱走しやがったのである。

 

「軍法に照らし合わせて、獄門に処すべき」

 

「そんな軍法ないよ! 何なのこの娘! 怖すぎるんだけど!」

 

 俺と一緒に帳簿を付けていた小原鎮真がボソリと呟いた。

 

 前髪で目元まで隠した少女である。黒無地の着物姿で、洒落っ気の一つもない。丑の刻参りでもしてそうな不気味な少女だった。

 

 有能なのだが個性が強すぎて引き取り手に困っていたところを、何かの役に立つだろうと拾ってみたのである。すると計数に強く有能な奉行になれる人材だったため、東三河支配のためのノウハウを叩き込んでいる最中だった。

 

「ねぇお師匠。たしか商人が八丁味噌を献上してたよね」

 

「ああ。だが、それを聞いてどうするつもりだ」

 

「わーい! 今日は牡丹肉の味噌焼きだねっ!」

 

「禅師に肉食を勧めるとは。味噌火あぶりの刑にすべき」

 

「味噌火あぶりの刑とは何だ」

 

 人間の味噌焼きを作るというのか。カニバリズムでもやりたいのか。

 

 内心で戦慄していると、鎮真が書き付けをしていた筆を置いた。

 帳簿の数字を指でなぞり、納得したようにコクコク頷いている。

 

「見付けたか」

 

「相川村、名主が年貢の私曲をしている。速やかに死刑にすべき」

 

「前年のことだ。今はまだ捨て置け」

 

「手ぬるい。死刑にすべき」

 

「我らの支配下でも同様のことをすれば、名主を呼び出して罪に問えばよい。それまでは手出し不要。くれぐれも早まるな」

 

「……はい」

 

 鎮真が肩を落としている。前髪のせいで表情はわからないが悲しそうだった。

 

 現在、俺たちが取りかかっているのは帳簿の洗い直しである。今川家が新たに手に入れたこの領地は、元々は戸田家のものだった。戸田一族が最後まで籠城していた仁連木城や田原城などにある文書は当然のように持ち出されていたが、それ以外の城には帳簿が残っているところもあった。

 

 で、最近になって今川家の支配も安定し始め、俺にも時間的な余裕が出来たので、やっとこさ汚職の洗い出しを始めたのである。

 

 とはいえ俺たちが汚職の捜査をしていることが外部に漏れると、汚職をしていた者たちが出奔したり、罪を隠蔽しようとするだろう。と言うわけで機密性を高めるために小原鎮真と二人きりで罪人をリストアップしているわけだ。

 

 元信はしばらく俺たちの仕事を眺めていたが、途中で飽きて床を転がり始め、何時の間にか姿を消していた。猫のような奴だった。

 

 なお猪の死体は放置されていた。

 

 俺は溜息を吐いて女衆を呼び出した。

 吉田城に詰めている女衆とは駿河出身者の家族が多く、一部東三河衆から預かったお手伝いという名の人質も混じっている。

 

「お呼びでございますですか、ご主人様」

 

「出たな、牛乳女」

 

 別に特定の人物を呼び出したつもりはないが、楯岡道順が侍女の格好で現れた。

 

 小原鎮真が忌々しげに吐き捨てている。この時代は未来のように巨乳がもてはやされているわけではなく、ほどよい大きさが好まれていて、道順のような巨乳はむしろ気味悪がられることもあった。

 

 いや、俺は好きだけどな、巨乳。おっと、煩悩退散。

 

 彼女は大きすぎるおっぱいを揺らし、部屋の隅に鎮座する猪の死骸に目をやった。

 

「最低限の血抜きはしているみたいですが、内臓はそのままでございますですね。と言うか不浄なものを置いていくとは、あれはご主人様を呪殺するつもりでございますですか。ぷんぷん、なのでございますですよ!」

 

 道順は顔をしかめながら、軽々と猪を持ち上げた。

 あの細い身体でどうやって持ち上げたのだろう。忍者だからなのだろうか。こわい。

 

「重くないのか」

 

「はい、忍びの嗜みでございますです」

 

「……流石だな」

 

「うふふ。お褒めにあずかり光栄でございますですよ」

 

「それは夕餉の材料に。残りは家来たちに振る舞ってやれ。ああ、家来というのは伊賀者のことだ」

 

「あ、えっと。あ、あの、ありがとうございますですよ」

 

 道順が頬を染めて去っていく。それを見ていた鎮真が「女を惑わせる仏僧。地獄に落ちるべき」と呟いていた。

 

 それから俺たちは黙々と仕事に取り組んでいたが、昼下がりの陽気のせいか鎮真が何度も欠伸を堪えていたため休憩を取ることにした。

 

「雪斎禅師。お時間よろしいでしょうか」

 

 鉄面皮の小柄な少女、菅沼定盈だった。

 

「ちょうど小休止を取っていたところだ。気にせず入りなさい」

 

「はい。失礼します」

 

 定盈は野田菅沼家から預かっている人質だったが、俺は彼女を武将として育てるべきだと考えていた。野田菅沼家との関係は良好だったし、彼女の真面目な性格にも好感を覚えたからだ。

 

 定盈はいずれ野田菅沼家を継ぐことになる。

 それなら今川家で洗脳もとい教育しておくのは当然だろう。

 

「少しお時間を頂きたいのですが」

 

「構わんが、それは?」

 

 定盈は小脇に巻物を抱えていた。

 

「実家の倉にあったものです。おそらくは田峯からお祖父様が持ってきたものかと」

 

 巻物を受け取ってみると、予想以上に状態が悪いことがわかった。

 

 湿気の多いところで放置されたのだろう。崩れているところがあり、一部の文字が読めなくなっている。

 

「戦国策か。一冊しかないようだが」

 

「それしかございませんでした」

 

「私が所持しているのも五巻ほどだが、建仁寺で修行していた頃に写本したものが駿府にある。こちらに運び込ませておくから、好きな時に読むといい」

 

「有り難き仰せにて。それと、一つご教示願いたいことがあるのです」

 

 定盈は巻物の中程に指を置いた。

 

 戦国策は大陸の春秋戦国時代について書かれた歴史書である。いにしえの名将の事績が書かれているため兵法の教科書にもなる書物だった。

 

「長平の戦いで、白起は趙軍を完全包囲して飢えさせてから決戦で破り、四十万の趙軍を捕虜にしたとあります。しかし孫子には欲擒姑縦(よくきんこしょう)といって、敵軍を窮鼠にしないよう逃げ道を用意しておくよう説いております。これはどちらが正しいのでしょうか」

 

「どちらも正しいと言える。白起の策を関門捉賊(かんもんそくぞく)といい、これは敵軍が弱小であり士気が低い場合、または敵将を取り逃がすと後の禍根になるとわかっている場合に仕様する計である」

 

「それでは、この場合は敵将の捕獲を優先したのでしょうか?」

 

「いや、四十万の趙軍も白起にとっては弱小だったのだろう」

 

「なるほど。白起とはそれほどの将だったのですね」

 

 しばらく定盈と兵略について語り合う。

 

 これほどやる気のある生徒は初めてだった。岡部元信は戦の話を好むが、政治が絡んでくると途端にやる気を失う。氏広は元信ほど極端ではないが、戦は苦手で政治を好む。義元はたまに鋭くなるが普段はポンコツだ。

 

 気付けば夕刻になっていた。

 

 小原鎮真が恨めしげな目を向けている。

 

「すまん」

 

「死刑」

 

 俺が鎮真に何と言い訳するべきか考えあぐねていると、近習がやってきて客人の来訪を伝えた。

 

 俺は腰を上げた。鎮真が涙目になった。

 

 廊下を歩きながら近習から話を聞く。

 どうやら客人は商人らしい。吉田湊から来たのだろうか。

 

 吉田湊は豊川と三河湾を繋ぐ港町である。

 今川家は吉田湊の商人座を支配し、権益を保障すると同時に収入の一部を上納させる仕組みを構築していた。

 

「遅くに申し訳ありません。お久しぶりでございます、雪斎禅師」

 

「友野殿ではないか。三河まで来ていたのか」

 

 友野次郎兵衛宗善。駿府の町年寄で、清水湊を地盤にしている商人だった。

 初老の男で身体は細身だが、肉体的な衰えを感じさせない雰囲気があった。

 

「はい。禅師のお陰様で手広く商売をさせて頂いております」

 

「それは重畳。どうだ。茶室で話さぬか」

 

「ぜひとも。こちらからお願いしたいところでした」

 

 二人で茶室に向かう……ことなく、俺一人で先に茶室に入る。

 

 場所は吉田城の一の丸に作らせた庭園だ。俺の趣味が入っているが、無駄遣いというわけではない。文化を推奨している今川家ならではのものだろう。

 

 庭園には侘び寂びを意識した草庵がある。傍には小さな池があり、水のせせらぎが聞こえてきた。青竹がそよ風に揺れる。

 

 茶室に入ると、中では岡部元信が爆睡していた。

 

「ぐーぐーぐー。ああん、だめだってお師匠。五子まだ心の準備が」

 

「誰か」

 

「はいっ! なのでございますですよ!」

 

 神出鬼没な楯岡道順が岡部元信を引きずっていった。

 

 俺は気を取り直して茶室に入る。壁には水墨画が飾られていたが、今回は主張しすぎているかと思ってそれを仕舞った。

 

 友野宗善は名物好きである。

 俺の持つ酸漿文琳(ほおづきぶんりん)の茶入れなどを見たがっていた。

 

 名物の観賞を楽しむなら、他の要素は邪魔になる。

 

 茶碗は珠光にしておこう。天目や青磁は派手すぎる。

 

 頃合いになり、俺は友野宗善を出迎えた。

 

「お待たせ致した、友野殿」

 

「禅師のお招きに預からせて頂きます。どうぞよしなに」

 

「こちらこそ。では参ろう」

 

 草庵に入る。

 狭い入り口を前屈みになって入るという、本来の利休流ではないが、それでも狭い入り口だった。茶室も書院風の四畳半でこれも狭い。

 

「おお。四畳半茶室ですな。これは狭い。ううむ、よいですな」

 

「お褒めにあずかるほどのものではないが、喜んで頂けたなら何よりだ」

 

「最近は派手な茶室が好まれるようになっていると聞きますが、元々は派手な茶をやめて侘びを追求しようとしていたはず。しかし豪商たちはそれを忘れて豪華な飾りに走っている。困ったものだ。おお、これが噂に聞く酸漿文琳ですか。それにこれはいい色合いの珠光茶碗ですな。丸く切り抜かれた窓も風流だ。おっと、失礼」

 

 言っていることとやっていることがまるで逆だ。

 

 友野宗善の名物好きに苦笑させられる。

 

 俺が茶碗に茶を点てて差し出すと、友野宗善はそれを受け取って一口。

 

 じっくりと味わってから溜息を吐き、茶器を俺に返す際に小さく呟いた。

 

「織田弾正忠が軍を起こしたそうですな」

 

 いきなり核心に切り込んできたのである。

 

 俺は内心で身構えた。これは話術だ。

 

 大げさに長話をして、意識の空白を狙って本題を切り出す。友野宗善はこうして主導権を握り、商売を拡大してきたのだろう。味方の俺にまで仕掛けなくてもいいのにと思うが、長年の癖か、それとも俺を試してのことか。

 

「耳がいいな。それがどうした?」

 

「同時に、関東がきな臭くなっておるのですよ。駿府のお屋形さまだけで乗り切れるとはとても思えぬので」

 

「武田かな?」

 

「いかにも」

 

 予想できる話だった。

 

 さて、武田が攻めてくるか、それとも――。

 

「攻めてくるのではなく、逆でして。どうも和を請うておるようですな」

 

 武田家の方針転換か。あり得るだろう。

 

 甲斐統一を遂げた武田信虎だが、対外作戦には失敗し続けている。諏訪と組んで大井を潰し、次は小笠原と組んで諏訪を潰そうとしているのだが、昨年の秋から冬にかけての遠征に失敗して甲斐に撤退していた。

 

 武田信虎は次の収穫が終わる秋まで出陣できず、手が空いたため外交を行う気になったらしい。信濃攻めに本腰を入れるために、背後の安全が欲しい。そこで宿敵関係にある今川家と今更になって和睦するということだ。

 

「となると、北条が許さぬか」

 

 武田との同盟を蹴り飛ばせば武田が攻め込んできて、武田と同盟を結べば北条が怒り狂って攻め込んでくる。これが三国間外交の厄介なところだった。まぁ、何時も通りのことなのだが。

 

「間違いないのか」

 

「違っていたら私の立場がございませんよ。今川家で商売ができなくなってしまう」

 

「この話、他にも持って行ったか」

 

「雪斎禅師だけでございますよ」

 

「なぜ、拙僧の耳に入れた?」

 

「禅師が一番高く買ってくれそうなので」

 

 友野宗善は微笑んだ。流石は商人。情報すら売り物なのだろう。

 

 今、伊賀衆の諜報網はほとんどを三河に投入している。

 情報面では関東が手薄になっていた。距離の問題もあって俺のところに情報が入ってこないのも仕方がないところがあった。

 

 しかし困ったな。

 下手をすれば東西二つに戦線を抱えることになる。三河戦線は俺と東三河衆だけでも対応できるが、関東戦線には人材がいない。岡部や朝比奈が無能というわけではない。しかし北条氏綱や武田信虎と対等に渡り合えるとは思えなかった。

 

 俺が三河切り取りに夢中になっている間に駿河が落ちたとなれば洒落にならない。今川家が滅亡する。

 

 そして、あのお姫さまが独力でこの危機を乗り越えられるかというと。

 

 ……激しく不安だった。

 

 松平広忠は未だに援軍を頼んでこない。おそらく織田信秀と決戦するつもりだろう。勝つ見込みはまったくないと言うのに強情を張るものだ。

 

「友野殿」

 

「何でしょうか」

 

「その珠光は持って帰ってくれ。それと駿府の主に伝言を頼めるだろうか」

 

「おお、この珠光を私に! して、内容は?」

 

「一ヶ月で戻る」

 

「他には?」

 

「それだけだ」

 

 俺は腰を上げた。

 

 問題は時間だ。

 

 短期的に西三河の戦闘を終わらせる。

 そして駿府に戻って武田か北条と一戦する。

 

 松平を見殺しにすれば天下が遠のく。ならば、救うしかない。

 

 織田と戦う、か。

 

 尾張の虎、織田信秀と雌雄を決する時が近付いてきていた。

 

 

 

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