夜見島へ向かう途中、濁ったサイレンの音と共に出現した赤い海によって船が転覆し、海へ投げ出された三上脩は、夜見島の蒼ノ久漁港で意識を取り戻した。そこは、三上が四歳のころまで暮らしていた集落だ。二十九年前の島民失踪事件以来誰も住んでいないはずのこの集落に、なぜか多くの人の気配がある。不審に思いながら、愛犬のツカサと共にかつて住んでいた家へと戻る三上。その玄関先で、血まみれで倒れている父と、泣いている幼い自分の姿を目撃する。ここが二十九年前の夜見島である可能性に気がついた三上は、曖昧な記憶を頼りに、当時彼が姉のように慕っていた少女・加奈江の部屋へと向かう。部屋には誰もおらず、窓は開け放たれていた。そのそばにある鏡台の鏡は割れている。記憶を探る三上。二十九年前のあの夜、玄関に倒れている父を見つけ、その後、大きな犬を連れた見知らぬ男が現れた。恐ろしくなった三上は、加奈江に助けを求めてこの部屋に駆け込んだ。しかし、部屋には誰もおらず、窓が開け放たれ、鏡が割れていた。恐らく父は、この島の漁業を取り仕切る網元の指示により漁師たちに襲われたのだ。そして、その漁師たちは加奈江も襲おうとしたが、危険を察知した加奈江は窓から逃走。漁師たちは逃げた加奈江を追って外に出た。三上は、そう推理した。
――いや。
それはおかしいことに、三上は気がついた。
何者かに胸を刺された父は、頭を玄関側にし、仰向けで倒れていた。
もし、夜中に来客があり、父が玄関に迎え出て襲われたのなら。
足を玄関側に向け、仰向けに倒れるか。
頭を玄関側にし、うつ伏せに倒れるか。
そのどちらかではないだろうか?
頭を玄関側にし、仰向けに倒れていたのなら。
それは、家にいた者に襲われたことにならないだろうか?
だが――。
あの時間、家にいたのは、自分と加奈江だけなのだ。
当時の記憶はかなりあいまいだが、まだ四歳だった自分が父を殺すことなど、到底考えられない。
ならば、父を殺したのは……。
考えを振り払う三上。あの日、私は八時過ぎに布団に入り、父が襲われる直前まで眠っていた。その間に訪問者があり、父が家の中に招き入れた可能性は充分にある。家の中にいたのが自分と加奈江だけだったとは言い切れない
三上は、これからどうすべきかを考えた。もし本当にここが二十九年前の夜見島ならば、幼い自分と加奈江は、いままさに漁師たちに追われているだろう。なんとかして助けないといけない。三上は加奈江の部屋を後にし、家の外へ出た。
三上の家の前は坂になっている。坂を下ると漁港があり、上がると道はすぐに突き当たって右に折れ、裏口に回ることができる。二十九年前、姉の部屋から逃げ出した自分は、どちらに向かったのだろう? 当時の記憶はほとんど残っていないが、島に上陸して以降、少しずつ思い出している。三上は記憶を探った。
――お姉ちゃん、手、ケガしたの?
記憶がよみがえった。確か、裏口付近で姉に会ったはずだ。その時、姉の手が血で真っ赤だったのを思い出した。三上はツカサの目を頼りに坂を上がり、裏口へと向かう。突き当りを右へ曲がり、さらに進むとまた道は突き当たって右へ曲がっている。その先に三上家の裏口があるのだが。
三上は、突き当りの民家とその隣の家の間にわずかな隙間があることに気がついた。
そして。
――ここを通ると、近道だよ。
また記憶がよみがえった。姉と合流した後、漁師の目を逃れるため、二人でこの隙間を通ったはずだ。この先は確か、丘の上にある社や廃材置き場へ向かうための曲がりくねった坂道がある。確か、九十九折り階段と呼ばれていた。
そのとき、丘の上の方から声が聞こえた。
「いたぞ! 上だ! 社の方へ逃げた!!」
漁師たちだ。やはり、姉と三上は丘の上へ逃げたのだ。丘の上からは、島の北部にある貝追崎という地域へ向かうことができる。幼い三上たちはそちらへ逃げたのかもしれない。後を追わねば。
その隙間は大人になった三上が通り抜けるには狭すぎたので、一旦坂をくだって漁港へ下り、回り道をして九十九折り階段へと向かう。かなり曲がりくねった坂道で、その名の通り途中から階段になっている場所もある。多くの殺気立った漁師が徘徊していたが、三上は幻視とツカサの力を借り、なんとか漁師たちの目をかいくぐって貝追崎方面へ向かうことができた。
しかし。
――下へおりたら、どこか安全な場所に隠れていて。お姉ちゃん、必ず迎えに行くから。
集落を離れようとしたところで、また記憶がよみがえった。
それは姉の声だった。下へおりたら……貝追崎へ向かうには山道を通ることになる。下へおりるとは言い難い。貝追崎へ向かったのではないのだろうか? だが、丘の上に貝追崎以外の場所へ向かう道は無い。他には、小さな社と廃材置き場があるだけだ。社は道端にある簡易的なもので、隠れたりすることはできない。ならば廃材置き場だろうか? 行けば何か思い出すかもしれない。三上は来た道を戻り、再び漁師の目をかいくぐって廃材置き場へと向かった。
廃材置き場は、この集落で最も高い場所にある。ところどころ切り立った崖となっているが柵は立てられておらず、危ないから子供は遊んではいけない、と、大人たちから強く注意されていた。もっとも、資材がたくさん積み上げられたこの場所は秘密基地のような雰囲気があり、子供たちは内緒で出入りしていたのだが。
敷地の奥には古い木材が積み上げられており、雨から守るために屋根が建てられてある。むき出しの地面に柱を立て、その上に梁を渡してトタンを乗せただけの簡素なものだ。長年風雨にさらされていたため柱はかなり傷んでおり、今にも崩れそうだった。その手前には資材運搬用のロープウェイがあった。確か、島の南部にある夜見島港と繋がっていて、港に着いた荷物を手早く運ぶために使われていた物だ。運搬用のゴンドラは無かった。港側にあるのだろう。電源は入っており、ゴンドラを動かすためのモーターも待機状態だった。直前に誰かが使ったようである。それで思い出した。あの夜、三上と加奈江は貝追崎へ向かったのではない。漁師の目を逃れこの資材置き場へやってきた三上は、姉の手でこのロープウェイに乗せられ、夜見島港へ下りたのだ。このロープウェイは資材用だからゴンドラは小さなものだが、四歳の子供を運ぶくらいなら可能だ。ただし、加奈江が乗ることはできないだろう。加奈江自身は自分の足で夜見島港へ向かったはずだ。追わなければ。
三上はツカサへ指示を出した。しかし、ツカサは廃材置き場の屋根の下へと走り、一度吠えると、土を掘り返し始めた。遊んでいる場合ではないのだが……と思ったが、ツカサは賢い犬だ。三上の指示を聞かずに遊ぶとは考えにくい。そこに何かあるのだろうか? 三上も屋根の下に入り、ツカサが土を掘るのを待った。やがて、土の中からクッキー缶が出てきた。子供が宝物を埋めたのだろうか? 開けてみると、中に入っていたのはクレヨンで描かれた少女の絵だった。水色のシャツと紺色のスカート姿の少女。下部には土の地面と草が描かれており、上部には黒い雲がいくつも描かれていた。曇り空の屋外にたたずむ少女――それは、三上の記憶に残っている加奈江の姿だった。
――これは、私が描いたもの。
自分がここに埋めたのだろうか? 判らない。思い出せない。
と、地面が、小さく揺れた。
それは、地震と呼べるほどの揺れではなかった。近くを大型のトラックが通ったと思う程度の、ほんとうに小さな揺れだ。もっとも、この近くに大型のトラックが通れるほどの道は無いから、なんらかの自然現象だったのだろう。後から思えば、この後起こる巨大な津波の前兆現象だったのかもしれない。原因が何であれ、そのほんのわずかな揺れで、資材置き場の屋根を支える柱がきしみ始めた。ツカサが上を向く。ツカサを幻視している三上も天井を見る。パラパラと埃が落ち始めていた。柱がきしむ音が大きくなる。崩れる! そう思った瞬間、ツカサが三上を突き飛ばした。弾かれた三上は屋根の外に出る。
その直後、木が引き裂かれる音と、トタンが割れる音。そして全てが崩れ落ちる音がして。
幻視をしていたツカサの視点は、真っ暗になった。
「――ツカサ!!」
幻視をやめ、ほとんど見えない目で崩れ落ちた屋根に駆け寄り、瓦礫をどかそうとする三上。手に鋭い痛みが走る。折れた柱の先か、むき出しになった釘か、なにかは判らないが手を切ったようだが、構わず瓦礫をどかす。その行為でさらに崩れてしまい、三上も巻き込まれてしまう可能性もあるが、それでも三上瓦礫をどかす、何度もツカサの名を呼ぶ。ツカサは、応えない。
不意に、びくんと身体が震え、瓦礫の前にしゃがんでいる男の背中が、一瞬だけ見えた。
そして、「よわらやっつれよくわる!!」と、呂律の回らない声で叫びながら、何者かが近づいて来る。
漁師か、あるいは屍人か――三上には判らない。
どん、と、強い衝撃があった。体当たりをされたのかもしれない。
その後、奇妙な浮遊感。
崖下へ突き落された――。
そう思った瞬間、強い衝撃と共に、三上は意識を失った。