暴言と共に去った部下の永井頼人を追い、崩谷地区の夜見島金鉱社宅にやってきた三沢岳明は、気分を高揚させる薬を服み、襲ってくる屍人たちを次々と倒していった。敷地内にいた一〇体の屍人をわずか一〇分ほどで始末した三沢は、幻視の能力を使い、他に隠れている屍人がいないか探った。
夜見島金鉱社宅の敷地内には、中央にイ棟、及びロ棟のふたつの団地と、南西部に小さな児童公園がある。幻視でくまなく探ってみたが、屍人の気配は感じなかった。もうこの敷地内には誰もいない。
ただ、北西の方向に、かなり不鮮明ではあるが何者かの視点を見つけた。畳敷きの狭い部屋で、膝を抱き、すすり泣いている。幻視の能力は、対象が近いほど鮮明な映像になり、遠くなればなるほど不鮮明な映像となる。この視点の主は、かなり離れた場所にいるのだろう。
幻視をやめ、気配があった北西の方向に目を凝らす。そこには小高い丘があり、その上に、うっすらともう一棟団地があるのが見えた。夜見島金鉱社宅のハ棟だ。丘の斜面には階段が設けられており、それを使えば行けるようだ。ただ、階段の手前にはフェンス製のゲートがあり、南京錠で鍵がかけられてある。
どうすべきか考える三沢。いまの目的は永井を探すことだ。任務を放棄し逃亡したからといって放っておくわけにはいかない。上官として、本部へ連れ帰り相応の罰を与える義務がある。丘の上の団地にいるのは永井ではない。他にも誰かいるかもしれないが、階段手前の門が閉ざされている以上、永井が丘に上がった可能性は極めて低いだろう。通常ならば行く必要はない。早くこの場を去り、永井を探さなければならない。しかし、三沢は去るのをためらった。丘の上の団地ですすり泣く者の声は、屍人のような呂律の回らない声ではなく、生きている人間の――それも、幼い少女のものだったからだ。もちろん、生存者の少女が一人で泣いているのであれば、なにもためらうことはない。一刻も早く保護すべきだ。それでも三沢がためらってしまうのは、とある少女の言葉が頭をよぎったからだ。
――見ちゃだめ。
二年前からずっと、三沢を苦しめているその言葉。見てはいけない。このまま立ち去った方がいい。本能は、そう警告している。
大きく頭を振り、考えを振り払う三沢。少女が一人で泣いているのだ。そこにどんな危険があろうとも、放置してそのまま去るなど、できるはずがない。三沢は意を決すると、丘の上へ向かうことにした。
階段手前のフェンスゲートは南京錠で閉ざされているが、長年風雨にさらされていたため、蝶番の部分がかなり劣化していた。何度か強い力で蹴ると、簡単に壊すことができた。
だが、ゲートを壊したと同時にびくんと身体が震え、団地の屋上から小銃を構える視点が見えた。次の瞬間、ハ棟の方向から銃声が響き、三沢の左の二の腕から、小さく爆発するように血
――クソッ!!
反射的に走り、そばにあった樹の陰に身を隠そうとする三沢。もう一度銃声がして、今度は右足のふくらはぎが切り裂かれた。それでも左足で跳ねながら、なんとか樹の陰に身を隠す。幻視をし、銃撃してきた者の視点を探した。丘の上のハ棟の屋上に、小銃を構えた屍人の視点を発見した。三沢が隠れている樹に狙いを定め、顔を出すのを待っているのか、いまのところ撃つ気配はない。三沢は幻視をやめると、今度は撃たれた傷を確認する。二の腕の傷は弾が貫通しており、ふくらはぎは肉をえぐられただけで、どちらも骨に異常は無かった。事前に飲んだ薬の影響で気分が高まっており、痛みもそれほど感じない。これなら大丈夫だ。右腕と左足さえあれば充分狙撃する自信がある。今の状態でも、屍人相手に撃ち負ける気はしなかった。
三沢は樹の陰から出ると、社宅の屋上に向けて銃を構えた。狙いを定め、引き金を引こうとしたが、それよりも先に銃声が響き、左肩に大きな衝撃があった。体勢を崩し、尻餅をついて倒れる三沢。さらに銃声がしたが、とっさに身をひるがえして樹の陰に隠れ、なんとか横腹を掠めただけで済んだ。三沢は小さく笑った。ここまで四発の銃撃。致命傷にはならなかったとはいえ、全て命中させている。屍人のぶんざいでかなりの精度の高い射撃だ。生きていたなら、恐らく三沢に匹敵するほどの腕だろう。それほどの射撃の腕を持つ者は、三沢の所属する隊には一人しかいない。
――沖田か。
沖田宏。三沢の後輩で、彼が一目置くほどの優秀な隊員だった。気分がさらに高揚してくる。遊園地で屍人化した際、沖田は銃弾の装填さえまともに行えないほど無様な姿を晒していた。それがいま、怪我をしているとはいえ三沢が撃ち負けるほどの腕前となっている。それが、なぜだか妙に嬉しかった。
無論、相手が沖田だからといって殺られるわけにはいかない。
どうする? 四発の銃弾を喰らい、かなり分が悪くなった。このまま身をひそめていれば狙撃される可能性は低いが、それでは事態は悪化するだけだ。三沢が敷地内の屍人を全滅させてからすでに五分近く経つ。そろそろ倒した奴らもよみがえる頃だ。そうなったら、もはや逃げ場はない。その前に別の場所に隠れなければ。一か八か、怪我をした足で走るしかないか……そう考えていた時、三沢はふくらはぎの出血がすでに止まっていることに気がついた。驚くべきことに、傷がふさがろうとしている。二の腕の傷と違い比較的軽症ではあったものの、それにしてもあまりにも早い回復だ。何が起こっているのかは判らないが、今さら驚く必要はないかもしれない。ここは死者がよみがえって歩き回る島なのだ。傷が早く治ることもあるだろう。そう考えた三沢は、樹の陰から跳び出し、団地のロ棟へ向かって走った。背後で銃声が響くが、さすがに全力疾走している三沢を捕らえることはできなかった。三沢はどうにかロ棟の東側に回り込み、沖田の銃撃から逃れることができた。
だが、びくんと身体が震える。別の屍人に見つかった。予想した通り、先に倒した屍人がよみがえったのだ。幸い最初に倒した銃剣を持った屍人だったので片手で銃を撃ち撃退することができたが、すぐに機関拳銃や小銃を持った屍人もよみがえるだろう。ここにいてもまだ危険だ。この敷地内の屍人は全て屋外へおびき出した。ならば、団地内はしばらく安全だろう。三沢はロ棟内に入ると、玄関が開いていた101号室に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。
部屋は、台所を抜けた先がリビングで、その奥が寝室だ。三沢は奥の部屋まで移動する。部屋中に光線銃やらロボットやらの子供の玩具が散乱していたので、それらをどかして腰を下ろした。怪我の具合を見る。ふくらはぎの傷はもう完全に塞がっている。二の腕の傷もすでに塞がりかけており、肩と腹の傷も血が止まりかけていた。この様子なら、少し休めば全快するだろう。三沢は幻視で周囲の様子を探りつつ、傷が癒えるのを待つことにした。
三沢が倒したイ棟・ロ棟周辺の屍人が続々とよみがえっていた。もっとも、奴らは大した脅威ではない。問題は、やはり丘の上のハ棟の屋上にいる沖田だろう。幻視でハ棟方面の様子を探る。距離があるためかなり不鮮明な映像だったが、なんとか沖田の視点を見つけ出した。三沢が隠れているロ棟を見下ろす位置で銃を構え、周囲を警戒している。この様子なら、注意が逸れた隙に狙撃する――例えば、ロ棟の北側を警戒している時に反対の南側から狙撃する――ことができそうだ。いかに相手が沖田とはいえ所詮は屍人。傷さえ癒えれば敵ではない。
だが、しばらく様子を見ていると、沖田は銃口を上げ、屋上の奥へ下がり始めた。映像がさらに不鮮明になる。やがて完全に奥へ引っ込むと、映像はノイズだけになった。
幻視をやめる三沢。これでは沖田の様子が判らないし、奥に引っ込まれては丘の下から狙うこともできない。しかし、近づけば向こうからの狙撃を許してしまう。なんとかおびき出すことはできないだろうか。奴の注意を引くものがあれば。三沢は部屋内を見回した。散乱する玩具にまぎれて、リール式の電気コードがあった。屋外で使うもので、長さは十メートルほどあるだろう。
「…………」
三沢はコードを持って台所へ行くと、ガスコンロの栓をひねった。夜見島のガスはプロパンだから恐らく使えるだろう。点火スイッチを回すと、思った通り火が点いた。これは利用できそうだ。一度火を止めた三沢は、ナイフを取り出し、ガスのホースを切断した。しゅうしゅうと音を立ててガスが漏れ出す。三沢は電気コードを持って外に出ると、玄関を閉めた。そして、ナイフで電気コードのプラグ部分を切断して銅線をむき出し、ドアの新聞受けから挿し込んだ。リールを伸ばし、周囲を警戒しながら団地の外へ出て安全な場所まで移動する。そして、コードの反対側も切断して銅線を出すと、夜見島遊園で見つけた起爆装置を取り出し、コードを取り付けた。そのまま部屋内にガスが充満するのを待つ。何度か屍人に見つかり襲われたが、所詮雑魚だ。小銃で簡単に迎撃する。
そして、部屋内にガスが充満し、傷も癒えたところで、三沢は起爆装置のスイッチを捻った。地面がかすかに揺れるほどの爆発音。同時に、窓ガラスが割れ、玄関のドアが吹き飛ぶ音もする。団地全体が揺れ、パラパラとコンクリートの欠片が落ちて来た。三沢は幻視で屍人たちの様子を探る。敷地内にいた屍人たちは皆、101号室があるロ棟南側に様子を見に来ている。沖田はどうだ? ハ棟屋上に意識を飛ばした。しばらくはノイズだらけで何も見えなかったが、やがて不鮮明な映像が浮かび上がってきた。徐々に鮮明な映像になり、窓から黒煙が上がるロ棟101号室を見下ろす映像がはっきりと見えた。今がチャンスだ。三沢は101号室とは反対側のロ棟北側へ回り込み、ハ棟屋上に向けて銃を構えた。沖田の注意は完全に101号室に向けられている。引き金を引いた。三沢の放った弾丸は、一発で沖田の頭部を撃ち抜いた。
ふう、と、大きく息を吐き、銃口を下ろす三沢。これで邪魔者はいなくなった。三沢はフェンスゲートを抜けると、階段を上がって社宅ハ棟へ向かった。
幻視でハ棟内を探ると、少女は先ほどと同じく畳張りの部屋で膝を抱えて泣いていた。映像からはどこの部屋にいるのかは判らないが、意識を向けている方向からある程度の位置は絞り込むことができる。少女の視点は一階の中央部付近だ。恐らく102号室か103号室だろう。まずは102号室へ向かう。部屋は先ほどのロ棟101号室とほとんど同じ間取りだ。玄関から台所を抜けるとリビングで、その奥が寝室。奥まで行くと、少女は三沢に背を向ける格好で泣いていた。泥まみれのシャツを着たおさげ髪の少女だった。三沢は声を掛けようとしたが、気配に驚いたのか、少女は押し入れの中に入り、ぴしゃりとふすまを閉めて隠れてしまった。
「――大丈夫だよ」
三沢は、隊の仲間たちには絶対にしない優しい声で言い、笑顔さえ浮かべ、少女に呼びかけた。「おじさん、君を助けに来たんだ。怖がらなくていいから、出ておいで」
その瞬間。
――大丈夫だよ。おじさん、みんなを助けに来たんだ。怖がらなくていいから、出ておいで。
再び、二年前の記憶がよみがえる。
二年前、山間のとある村で起こった土砂災害。救助活動のために出動した三沢は、災害発生から約七十七時間後、一人の少女を保護した。
そう言えば、いま隠れた少女の背格好は、あのとき救出した少女とまったく同じだ。
三沢の汗が急激に冷えていった。あのときの少女が――二年もの間三沢に悪夢を見せ続けるあの少女が、いま、押し入れのふすま一枚隔てた向こう側にいる。
いや、そんなはずはない。考えを振り払う。あの村と夜見島は一〇〇キロ以上離れている。少女は今もあの村で暮らしているはずだ。なんらかの理由でこの島に訪れていた――その可能性は極めてゼロに近いが、絶対に無いとも言い切れない――としても、三沢が少女を救出したのは二年前の話だ。成長期の少女が、二年も前と同じ背格好であるはずがない。
――大丈夫だ。あの少女が、ここにいるはずがない。俺の勘違いだ。
そう、自分に言い聞かせ。
三沢は、押し入れの前にしゃがむと。
「開けるよ?」
静かに、ふすまを開けた。
押し入れの中には、果てしない闇が広がっていた。
部屋の明かりも、三沢のライトも、なにをもってしても、決して照らすことができない闇が、どこまでも続いていた。
そして。
「……だから、見ちゃだめって、言ってるでしょ?」
不意に、耳元でささやかれた。
その瞬間。
闇から、黒い手が伸びてくる。
三沢の首を掴み、闇の中へ引きずり込もうとする。
もう一本手が伸びてきて、足を掴んだ。さらにもう一本伸びてきて、腕を掴んだ。さらにもう一本、さらにもう一本……闇の中から伸び出てきた無数の手が三沢を掴み、引きずり込もうとする。
「……ぁぁああ!!」
言葉にならない悲鳴を上げ、三沢は、小銃を乱射した。狙いを定めることもせず、ただ引き金を引き続けた。押し入れの闇だけでなく、ふすまも、天井も、窓も、壁も、畳も、全てに銃弾を撃ち込んだ。小銃の弾が切れたら、拳銃を取り出して撃った。拳銃が弾切れになったら、次はナイフを取り出して振り回した。ただがむしゃらに振り回した。
どれくらい、そうしていたのか。
三沢は、一人で部屋にいた。
天井、壁、窓、床、いたるところに銃弾が撃ち込まれて穴があき、あるいはナイフで斬り裂かれている。少女の姿など、どこにも無い。押し入れの中の闇も存在しない。部屋の明かりが押し入れの中まで入り、銃弾の跡を照らし出している。もちろん、闇の中から伸びてきた無数の手も、無い。
全ては、幻影だったのだろうか。
胸の奥から笑いが込み上げてきた。耐え切れず、三沢は笑った。声を上げて笑い続けた。二年前のあの日から、毎日のように夢に現れる少女。三沢を苦しめる悪夢。ついには、起きているときにも見るようになった。三沢の心はどんどん浸食されている。この悪夢はいつまで続くのだろう? 逃れる術は無いのだろうか?
この苦しみを、誰かに聞いて欲しかった。打ち明けたかった。理解してほしかった。だが、子供じゃあるまいし、怖い夢を見る、などと、話せるわけがない。その葛藤が、さらに三沢を苦しめた。
だから。
――自分、いまだに信じられないんです……もう、なにがなんだかわからなくて、全部夢なんじゃないかって気もします。
森の中の座礁船で、あまりにあっけらかんと胸の内の不安を吐露する永井を疎ましく思い、思わず銃口を向けてしまった。忌々しかった。自分は胸の内の恐怖を誰にも相談できないのに、永井はそれをあっさりと――それも、今までほとんど口を利いたことのない男に――話したのだ。憎しみさえ抱くほどだった。
だが、同時に。
あのとき三沢は、永井をうらやましくも思ったのだ。
ああやって誰かに胸の内の不安を吐露すれば、自分も楽になれるのだろうか? 恥を捨て誰かに恐怖を語れば、この悪夢から逃れられるのだろうか? だが、誰に話す? こんな話を真剣に聞いてくれる者がいるだろうか? この不安と恐怖を取り除いてくれる者がいるだろうか?
「――いないよ。だって、たった一人のお友達は、おじさんが自分で撃ち殺しちゃったじゃん」
耳元で、少女にささやかれた。
三沢の絶叫が、社宅内に響き渡った。