自衛隊員の三沢岳明は、島北部にある要塞跡の丘の上で大の字になって横たわっていた。空を眺めていると、時おり雲が途切れ、その向こうに逆さまに浮かぶ夜見島が見える。あれこそが現実の夜見島であり、今いる場所は偽りの世界であることに、三沢は早くから気がついていた。四鳴山の頂上に建つ鉄塔を登れば、現実世界に戻れる可能性が高い。逃亡した部下の永井を探し、一刻も早くこの島から脱出しなければならない。それが判っていても、どうにも動く気になれない。三沢が何か行動を起こすたび、事態はどんどん悪い方へ向かっているように思う。このまま何もせずじっとしていた方がよいのではないか――そんな気さえしていた。
「……いや……いやあ!!」
悲鳴が聞こえ、三沢は反射的に身を起こした。すぐ側に置いてある小銃を取り、周囲を確認する。見える範囲には誰の姿もない。悲鳴は若い女のもので、丘の南側から聞こえた。三沢は周囲を警戒しつつしゃがみ走りで移動する。丘の南側は三メートルほどの高さの擁壁となっており、東西へ伸びる道を見下ろすことができた。
「助けて……誰か……誰か!!」
道の西側、電灯所がある方向から、セーラー服を着た少女が走って来た。その後ろからは、全身に黒い布を巻きつけた人型の化物が追いかけてくる。屍人ではない。少し前から、あの化物をよく見かけるようになった。闇人、と、三沢は呼んでいる。
少女の足は速く、闇人に追いつかれることはなさそうだった。だが、道は、途中で瓦礫を積み上げて作ったバリケードに塞がれていた。他に逃げ場はない。追い詰められた少女に、闇人が迫る。三沢は擁壁の上から銃を構え、闇人に照準を合わせた。距離は二十メートルもない。三沢の腕ならば外すことはないが、三沢は引き金から指を外し、銃口を上げた。追われている少女は、見たところ十代前半で、恐らく中学生だ。いかに化物が相手とはいえ、子供の前で銃殺するのは控えた方がよいだろう。幸い、闇人が持っているのは刃渡りが十センチほどの刃物だ。三沢は擁壁の上から「おい!」と、低い声で叫んだ。闇人の注意がこちらに向く。三沢は擁壁から跳び降りた。
「こっちだ、化物!」
挑発すると、闇人は刃物を振り上げ三沢に襲い掛かって来た。屍人よりも格段に素早い動きだが、所詮はリーチの短い武器である。三沢は闇人が刃物を振り下ろすよりも早く、あごに向けて小銃のグリップを打ち込んだ。大きくのけ反って後ずさりしたところへ、さらに殴りつける。闇人は甲高い悲鳴を上げて倒れた。
闇人が完全に動かなくなったのを確認し、三沢は少女を見た。
少女は「良かった……」と、大きく息をついた。「あたし、ずっと一人で、怖かったんです」
「…………」
三沢は無言で少女を見つめる。その姿に、小さな違和感を覚えた。少女の服には、首から腹にかけて血の染みが広がっているが、見たところ怪我はしていない。この島では謎の力により傷の治りが早いが、その血は少女自身のものではないように見えた。他の者の血――返り血を浴びたような広がり方なのだ。無論、この島では死体がよみがえり襲って来るから、それを撃退すれば返り血を浴びることもあるだろう。幼い少女が化物と戦うのは望ましくない行為だが、この状況でそれをとがめる気は無い。だが、その血の跡と、少女の顔を見ていると、なぜだろう? 少女が、笑いながら何者かを襲う姿が思い浮かぶのだ。それは、理屈ではない。三沢が持つ鋭い勘――二年前の悪夢の出来事以降、異常に鋭くなった勘が、そう告げているのだ。おとなしそうな見た目に惑わされてはいけない。この少女は、あの光を嫌う女と同じ……。
「あの……助けてくれるんですよね……」少女は、不安そうな表情で三沢の顔を見ていた。
小さくため息をつく三沢。気は進まないが、このまま放っておくわけにはいかない。ひとまず、この要塞跡から脱出しよう。
三沢は頭の中で状況を整理する。この要塞跡から脱出する道はふたつ。この場所から東へ行ったところにある崖をよじ登り、遊園地がある碑足地域へ向かうか、西へ向かう道を通り、蒼ノ久という集落へ向かうかだ。近いのは遊園地がある碑足方面だが、あの場所からは、早朝にサイレンが鳴って以降、尋常ではない邪悪な気配が漂って来ている。絶対に近づいてはいけないと、本能が警告している。西の蒼ノ久という集落へ向かうしかない。
だが、西へ向かう道は、何者かが作ったバリケードによって塞がれている。三沢はバリケードを確認する。瓦礫をでたらめに積み上げ、黒い布をかぶせただけの簡易的なものだが、その分、下手に取り除こうとすれば簡単に崩壊してしまう危険性がある。隅の方には、体格の小さな者なら通り抜けられそうな隙間があるが、三沢の体格では無理そうだ。バリケードの向こう側にも敵はいるので、少女を一人で向かわせるわけにもいかない。この道を通るのはあきらめた方が良さそうだ。幸い、要塞跡の地下を通れば、バリケードの向こう側に行くことは可能だ。地下へおりる階段は、ここから少し東に向かったところにある。ただ、恐らく地下には闇人がいるだろう。幻視で確認すると、思った通り多数の闇人の気配があった。地下は明かりが消されて真っ暗だ。闇人は光を極端に嫌う。奴らが明かりを消したのだろう。
幻視をやめる三沢。地下は完全な闇だ。そのうえ通路は迷路のように入り組んでおり、どこから襲われるか判らない。ライト一本で下りていくのはかなり危険だろう。まずは地下の明かりを確保した方がいい。東に行けば電灯所跡がある。少女と会う前に探索した際には、そこの明かりは点いていた。恐らく地下の電気設備も生きているはずだ。
「……ついて来い」
三沢は短くそう告げると、少女を連れて東の電灯所跡へ向かった。
電灯所は、赤煉瓦でできた平屋の建物だ。室内を探すと、地下へ電気を供給するブレーカーは「切」になっていた。スイッチを「入」にし、再び幻視で地下の様子を伺う。突然明かりが点き、悲鳴を上げて悶える闇人の視点がいくつも見えた。逃げ場がなくそのまま倒れる闇人がほとんどだが、何体かは明かりから逃れ、光が届かない場所へ移動していた。長年使われていない施設だから、場所によっては電球が切れているのだろう。この場からはこれ以上どうすることもできない。三沢は少女を連れ電灯所から出ると、来た道を戻り、擁壁そばの階段を下りた。
この要塞は日露戦争前に作られたもので、地下は敵の侵攻に備えて迷路のように入り組んだつくりになっている。しかし、太平洋戦争終結後、島民に公園として利用され始めたのをきっかけに、余計な通路は木の板で塞がれ、一本道で迷わないように整備されていた。その分、地下施設を全て巡る設計になっているのが難点だ。観光用の案内板通りに進むと、地下一階の東部兵舎跡を通り、地下二階に下りて弾薬庫跡、もう一度地下一階に上がって西部兵舎跡、と、順に巡ることになる。ただ通り抜けたいだけの三沢にとっては、無駄に回り道させられているだけだ。もちろん、律儀に案内板に従う必要はない。兵舎跡前まで移動した三沢は周囲を調べた。西へ続く道が板で塞がれているが、何年も手入れされていないため、かなり劣化している。試しに小銃のグリップを打ち付けると、簡単に崩れた。三沢はさらに銃を打ち付け、板を崩して通れるようにすると、現れた通路を進んだ。
しばらく進むと広い部屋に出た。ドーム状の天井を中央の太い柱で支えた円形の部屋だ。電気は点いているため、闇人の姿は無い。道は西に続いている。進めばすぐに地上へ出る階段があるが、その通路は小銃を持った屍人が見張っていた。明かりは点いておらず、通路は真っ暗だ。距離もあり、三沢のいる場所からライトで照らしても奥までは届かない。これでは目くらましにならないだろう。それでも、相手が屍人ならば撃ち勝つ自信があるが、闇人は屍人よりも頭が良く動きも機敏だ。三沢の腕をもってしても、闇の中で撃ち合うのは分が悪い。なんとかして光を確保しなければならない。
三沢はポケットを探り、自衛隊支給の発煙筒を取り出した。先端のキャップを外し、マッチのように擦って火を点けるものだ。ところが、何度擦っても火が点かなかった。どうやら長く雨に打たれていたせいで、先端の擦り薬が濡れてしまったようだ。幸い内部に水は浸透していないようなので、少し細工すれば、ライターなどで直接火を点けることはできる。三沢は煙草を吸わないが、いざという時に備え、火を点けるものは常に持ち歩いている。三沢はライターを取り出そうとしたが、どのポケットを探っても見つからなかった。どうやら落としてしまったようだ。この要塞跡に来る前、崩谷にある社宅で屍人共と長く戦っていたから、あのとき落としたのかもしれない。
「あの……」少女が、恐る恐る声をかけてきた。「それ、壊れてるんですか……?」
発煙筒を見る少女。三沢は、ああ、と、そっけなく応えた。
「これ、使えませんか?」
そう言って少女が取り出したのはオイルライターだった。三沢は無言で少女を見つめた。その表情に誤解したのか、少女は、「違います」と首を振った。「あたしの物じゃなくて、たまたま拾ったんです」
ライターは炎を模したいかついキャラクターが描かれた物で、どちらかと言えば不良少年が持ち歩く物だろう。確かに少女の持ち物ではなさそうだ。それに、今の状況では誰の物だろうと構わない。三沢はライターを受け取ると、発煙筒の先端を少し細工し、ライターで火を点けた。バチバチと花火のような眩しい炎が燃え上がる。三沢は通路の先へ向かって投げた。通路が眩しく照らされ、闇人が悲鳴を上げた。すぐに小銃を構え、スコープを覗き込む。通路が煙で覆われるよりも早く狙いを定め、闇人の頭に銃弾を撃ち込んだ。甲高い悲鳴を上げて倒れる闇人。光さえあれば、三沢の敵ではない。
闇人を始末した三沢は通路を進む。すぐに地上へと続く階段が見えたので、それを登り、バリケードの反対側に出ることができた。周囲に敵の気配はない。三沢は擁壁沿いの道を西へ向かう。しばらく進むとトンネルが見えた。その先は、蒼ノ久集落へと通じているはずだ。
「やった。これで、もう安心ですね」
少女は安堵の声で言った。
「…………」
三沢は応えず、無言で少女を振り返った。鋭い目で睨む。少女は武器を持っていないが、ポケットなどに忍ばせている可能性もある。もし襲われてもすぐに反撃できるよう、充分に距離を取る。
「えっと……どうしたんですか……?」怯えた声になる少女。
三沢は、自衛隊内では多くの部下から恐れられている上官だ。三沢がひと睨みしただけで、大の男が震えあがるほどである。さまざまな訓練を受けた隊員でさえそうなのだから、女子供ならなおさらだろう。もちろん、三沢には誰彼構わず脅して悦に浸るような趣味は無い。必要だから、やるだけだ。
「……お前は何者だ?」
三沢は、敵を尋問するときの声で訊いた。
「え……?」
言葉に詰まる少女。何を訊かれているのか判らない、そんな表情だ。しばらく戸惑っていたが、やがて、「えっと……あたしは、亀石野中学二年の矢倉市子で、テニス部の大会に参加して、その帰りにフェリーに乗って――」と、この島に来た経緯を話し始めた。
「お前は臭う」三沢は少女の話を遮り、続けた。「あの、光を嫌う女と同じ臭い――いや、違うな。お前は光を嫌わないようだが、その分、あの女よりもさらに臭う。あの女からは木が腐った臭いがしたが、お前は魚が腐った臭いだ」
「……ごめんなさい、なにを言ってるのか、判らないです。それより、あいつらが来るかもしれないから、早くここから逃げないと……」
先へ進もうとする少女に、三沢は、銃口を向けた。
短い悲鳴を上げ、後退りする少女。
少女の見た目や行動に不審な点は無い。闇人に追われて逃げている時の恐怖の表情も、助けた時の安堵の表情も、脅すように質問した時の戸惑いの表情も、銃を向けられて怯えている時の表情も、全て、十代前半の少女そのものだ。
それでも、三沢の勘が告げている。この女はまともな人間ではない、と。
そして、この島に上陸して以降、その勘が外れたことはない。
「……言え。お前は――お前らは、何者だ?」
三沢は、小銃の引き金に指を掛けた。