夜中に食べた夜見アケビの実が見事に
阿部は自分が置かれている状況を冷静に分析する。
送風機管理室は、地下の坑道へ空気を送るための機械を管理する部屋だ。室内にはそれらしき機械がたくさん並び、天井には何本ものダクトが通っているが、電気が来ていないのか、機械は動きそうにない。その上、天井のダクトも穴が空いたり外れたりしてボロボロだった。さらに、木の板を打ち付けた壁の一角に大きな穴が空いており、外が丸見えの状態だ。穴の下には壁から剥がれた板と釘が散らばっている。一本一本工具を使って外したようだ。誰かがここから脱出するために空けたのかもしれない。
無論、今の阿部にとってそんなことはどうでも良い。今の彼に必要なのはトイレだけだ。残念ながらここにトイレは無い。だが阿部は、無駄足を踏んだとは思っていない。送風機室にトイレは無いということを確認できただけで、それは一歩前進したことになるのだ。そう自分に言い聞かせ、部屋から出ようとした時、外から犬の鳴き声が聞こえた。
――ん? この鳴き声は?
振り返ると、壁に空いた穴を潜って、見覚えのある大型犬が一匹中に入って来た。
「あ! オメー、作家先生の犬じゃねーか! やっぱ無事だったのか!!」
それは、夜見島へ来る途中の船に乗り合わせ、島でも一時行動を共にした盲目の作家先生が連れていた盲導犬だった。漁港の丘の上にあった資材置き場が倒壊し、先生を助けるために身代わりとなったと聞いていた。先生は諦めていたが、あのとき阿部が話した通り、やはり無事だったのだ。名前は確か、ツカサだったはずだ。
ツカサは部屋に入って来たときはうれしそうな様子だったが、阿部の顔を見た途端、あからさまに落胆した様子でガックリと頭を落とした。ご主人様だと思って来たのに違うヤツだった、といったところだろうか。
「すまねぇな。先生はいま、ちょっと遠いところにいるんだ。連れてってやりてーけど、オレにはどうしてもやらなければならないことがあるんだよ」
阿部はツカサの前にしゃがみ、首から背中の辺りを撫でた。それがいけなかった。がるる、と、獣が唸るような音がする。ツカサではない。音の元は阿部の腹だ。静かだった水面にさざ波が立つかのごとく、再びキリキリと痛み始める。迂闊だった。しゃがむという行為が便意を促す結果となってしまったのだ。こうしてはいられない。早く次の行動に移らねば。
そんな阿部の様子を見ていたツカサが、大きく一声鳴いた。そして、阿部の横をすり抜け、部屋を出ていく。
「おい、どこ行くんだよ?」
なんとか便意を抑えつつ立ち上がり、ツカサを呼ぶ。阿部を振り返ったツカサは、また一声鳴き、鼻をしゃくった。
その姿が、「ついて来な」と言ってるように見えた。
言うまでもないが、犬の嗅覚は非常に優れている。その優れた嗅覚で人間の病を発見する事例が世界各地で報告され、近年研究が進んでいることは阿部も知っていた。ガンやマラリアなど、訓練次第ではかなりの高確率で発見することができるらしい。今のツカサも似たようなものかもしれない。その鋭い嗅覚で阿部の陥った危機的状況を察知し、同時に、トイレの場所も察知している可能性は高い。なんであれ、このままここにじっとしているわけにはいかないのだ。阿部はツカサを追い、送風機管理室を出た。
ツカサは地下の坑道には見向きもせず、インクラインの横を素通りし、S字を描く形の建物の奥へと進んでいく。
「おい。そっちに行くなら、これに乗った方が楽だぞ?」
阿部は、先ほど稼働させたインクラインのトロッコ牽引車を指さした。トロッコの線路は建物の奥、つまりツカサの向かう先へ続いている。これに乗って行けば腹への衝撃を抑えられるため、安全に移動できるはずだ。
だが、ツカサは振り返り、また一声吠えただけで、先へ進んだ。乗るな、ということだろうか。
犬に限らず、動物には不思議な予知能力がある。大きな地震の前日に鳥や猫が姿を消したという話は世界中で報告されているし、沈没する船から直前に大量のネズミが逃げ出したり、カエルが雨の前に鳴き出したり、タコがワールドカップの試合結果を当てるなどもその例だろう。潜在能力限界マックスモードの阿部をもってしても予測不能なことを、動物たちは日常的に予測できているのだ。
「……判った。オメーを信じるぜ」
阿部はトロッコには乗らず、そのまま歩いてツカサの後に続いた。
S字を描く建物はまず緩やかに右へ曲がり、少し進むと左へと曲がっている。阿部は、できる限り腹を刺激しないよう慎重に、それでいて、できる限り早くトイレに到達できるよう急いで、生と死のギリギリのラインを攻めながら進んだ。
S字のゾーンを抜け、建物が再びまっすぐになったところで、ツカサは足を止めた。そこは地下の坑道から運び出した金を選鉱するための場所だった。地面に敷かれた線路はさらに奥へと続いており、その脇にはいくつかトロッコが放置されている。
足を止めたツカサは、建物の奥を見ながら低い唸り声を上げた。おとなしい性格のツカサには不釣り合いな、敵意の宿る声だ。この先に何かいる。阿部は一旦トロッコの陰に隠れ、幻視で様子を伺った。少し進んだ先に、小銃を持った人型の闇人の視点がある。迷彩服を着ているため、恐らく自衛隊員の闇人だろう。闇人は注意深く周囲を警戒しているが、まだ阿部たちには気付いていない。危ないところだった。もし、あのトロッコ牽引車を使って移動していたら、走行音で気付かれ、狙撃されていたかもしれない。やはり、トロッコに乗らなかったのは正解だったのだ。
阿部はそのまま幻視を続ける。周囲を警戒している闇人は、しばらく阿部が隠れている方向を見ていたが、やがて反対側を向いてそちらを警戒し始めた。そして、しばらくしてまたこちらを向く。それを繰り返していた。
「――――っ!!」
その、視界の端に映ったものを見て、阿部は思わず声を上げそうになった。なんとか両手で口を抑えて耐える。危ないところだった。音で敵に見つかるならばまだ良い。気を抜いてケツの力が緩もうものなら、取り返しがつかないところだった。
阿部が闇人の視界の端に見たもの。それは、『休憩室』というプレートが貼られた引き戸だった。幻視を解き、ツカサを見る。ツカサは「そうだ」と言わんばかりに力強く頷いた。阿部は確信する。間違いない。あの部屋の中に、トイレがある。
ならば!
その出入口の前に陣取るあの狙撃手の闇人を倒せば、この人生最大の危機を突破できる! すなわち、これは阿部倉司の人生最大の勝負だ!
はやる気持ちを抑え、阿部は再び幻視をして観察を続ける。周囲を警戒している闇人は、時折阿部が身を隠している側に背を向ける。襲い掛かるならその時がチャンスだが、ここから闇人の場所までは距離がある上、この先に身を隠す物は無い。半分も進まないうちに、ヤツはこちらを振り返るだろう。気付かれないよう忍び足で近づくのは不可能だ。だからと言って走ったら足音で気付かれる可能性が高い。接近戦で倒すのは難しいと言わざるを得ない。
ならば……これを使うしかない!
阿部は、この採掘所内に入り、最初に倒した狙撃手から奪い取った小銃を取り出した。文字通り、これが火を吹く時が来たのだ!
無論、阿部に小銃を撃った経験など無い。無いが、潜在能力限界マックスモードの阿部に不可能はない。
阿部はさらに幻視を続け、闇人がこちらに背を向けた時を狙って物陰から出た。小銃を構え、スコープの覗き込み、照準を合わせる。だが、やや遠い。いかに潜在能力限界マックスモードの阿部とはいえ、この距離では外す可能性がある。瞬時に脳内で計算が行われ、命中率74.348%と出た。四度に一度外す計算になる。勝負に出るには少々心もとない。あせるな、まだその時ではない。少しでも命中率を上げるのだ。阿部は照準を合わせたまましゃがみ歩きで近づく。距離を詰めるにつれ、命中率は上がってゆく76……78……82……まだだ……まだヤツが振り返るには時間がある……。さらに近づく。85……89……90%を超えた。まだイケる。さらに近づく95……98……そして……100!! 今だ!! 阿部は引き金を引いた。心地よい連射音と衝撃と共に、阿部の銃が火を吹いた。そのすべての弾が、闇人の背中を撃ち抜く。闇人は低いうめき声をあげた。少し後ろにのけ反る格好になり、そのまま立ち尽くす。やがて両腕がだらんと下がり、小銃が地面に落ちた。闇人はゆっくりと視線を落とし、自分の腹を見た。背中から撃ちこまれた銃弾は闇人の体を貫通している。迷彩服が大きく破れ、血が噴き出していた。その血を右手で拭い取り、わずかに首を傾げた後、阿部を振り返った。
「……やるじゃない……」
何の感情も宿らないニヤケ顔で(矛盾しているが、闇人はそういう存在だ)阿部を見る闇人。その足が、一歩前に出た。
「……敵が他に気を取られている隙に背後から撃つ……お前にしちゃぁ上出来だ……」
闇人は、その体格からは考えられないほど弱々しく、ゆっくりとした足取りで歩く。左右によろめきながらも視線は真っ直ぐに阿部を捕らえ、近づいて来る。
「……上官として……最期にひとつだけ……アドバイスしてやろう……この島では……何か行動を起こすたびに――」
「うるせえ邪魔だ!」
阿部は武器を小銃から必殺の釘バットに持ち替え、大ぶりのスイングで闇人の頭をかっ飛ばした。なげぇんだよ倒れるならさっさと倒れろ。頭をかっ飛ばされた闇人は倒れて動かなくなる。邪魔者はいなくなった。阿部は休憩室へ向かった。
と、ツカサがまた一声鳴いた。振り返ると、ツカサは倒れた闇人に鼻を寄せている。なんだ? いまの一撃で、ヤツの息の根は完全に止まったはずだ。まあ、元は死体だから最初から息の根は止まっているのだが、周囲に闇霊の姿は無いから、少なくともよみがえるにはまだ時間がかかるはずだ。では、ツカサは何を気にしているのだろう? 阿部が見ていると、ツカサは闇人のポケットを探り、中から何か取り出した。口にくわえて持って来る。それは、炎を模したいかついキャラが書かれたオイルライターだった。見慣れたデザインだ。それもそのはず。そのライターは阿部自身の持ち物だった。夜中にどこかで落とし、おかげで煙草が吸えなくて困っていたのだ。
「……俺んじゃねぇか。あいつがパクりやがったのかよ」
もう一発殴ってやろうかと思ったが、再び猛烈な便意が襲って来たので思いとどまる。くだらない感情に惑わされている場合ではない。今は一刻も早くトイレに到達しなければ。
阿部は、休憩室の扉を開けた。
そこには――。