鳩の使命に目覚め、脩の父親を刺殺してしまった加奈江は、穢れを排除しようとする漁師たちから逃れ、島からの脱出を目指す。夜見島港の丘の上にあるロープウェイ発着場で脩と合流し、船を求めて波止場へと下りていく加奈江は、夜見島金鉱株式会社のビルの近くを通りかかった。道の先には古い街灯が立つ三叉路があり、そこを左へ曲がって坂を下れば波止場があるのだが――。
「――待って、脩」
街灯が立つ三叉路まで戻ったところで、加奈江は足を止めた。いま、わずかに人の声が聞こえた。近くに誰かいる。加奈江は街灯から離れて暗闇に身をひそめると、幻視で周囲の様子を探った。坂を下った先、金鉱会社のビルの出入口の前に、草刈り用の鎌を持った男の視点を発見した。興奮気味に息をし、「わしの目の黒いうちは騙されんぞ」と、己を鼓舞するように独り言を言っている。その声には覚えがあった。毎晩三上家に怒鳴り込んできて、加奈江を引き渡すよう迫った男。島の漁業を取り仕切る網元・太田常雄だ。今回の漁師たちの襲撃は、間違いなくこの男の指示によるものだ。見つかるわけにはいかない。
太田はその場で周囲を警戒しており、しばらく動きそうにない。迂回したいところだが、ここから波止場へ向かう道は、ビルの出入口前を通るその一本だけだ。何か策を用いるしかない。
加奈江は幻視をやめ、周囲を見回した。ロープウェイの発着場へ続く上り坂は、金鉱会社の二階のそばを通るかたちになっている。かつては道とビルが連絡橋で繋がっており、自由に行き来することができたようだ。その連絡橋を通ってビル内に入れば、さらに隣のビルへ別の連絡橋が通じており、その先には地獄段と呼ばれる急勾配の階段がある。それを下れば目的地の波止場があるので、このルートなら太田に見つからずに移動できる。
しかし、ビルへ入るための連絡橋は、途中から幅一メートルほどが崩れ落ちていた。加奈江なら跳び越えられる幅だが、幼い脩には無理だろう。何か、渡り板になる物でもないだろうか。
「脩、ちょっとここで待ってて。お姉ちゃん、中を探してくるから」
加奈江がそう言うと、脩は途端に表情が強張った。さっきまで一人で発着場に隠れて怖い思いをしていたのだ。無理もないだろう。
「ごめんね、脩」と謝って、加奈江は脩の両肩に手を置いた。「すぐに戻って来るから。それまで、勇気を出して、待ってて」
勇気を出して――加奈江が力強くそう言うと、脩は強張った顔を緩め、「うん。ボク、勇気を出して待ってるよ!」と言って、家から持ってきたお気に入りのロボットのおもちゃを抱きしめた。加奈江は脩の頭を撫でた後、道端の岩陰に隠れさせる。そして、崩れた連絡橋を跳び越え、ビル二階のベランダへ渡った。
ベランダには、発泡スチロールのケースや穴が空いた網などの漁の道具が乱雑に置かれてあった。夜見島港に建ち並ぶビルは、昭和四十年代に金鉱が閉鎖されて以降、ずっと放置されている。所有はいまでも金鉱発掘業を行った夜見島金鉱株式会社のはずだが、本土から遠く離れたこの島までわざわざ様子を見に来るようなことはない。今では、太田家や漁師たちが無断で倉庫やゴミ捨て場代わりに使用していた。
加奈江は、放置された漁具の中に高さ一メートル半ほどの立て看板を見つけた。赤字で大きく『港建設絶対反対!!』と書かれたその看板は、昭和三十年代の金鉱発掘時代のものだ。当時島のいたるところに港や団地などの施設を建設しようとした金鉱会社に対し、島民は太田常雄を中心に大規模な反対運動を行ったのだ。看板はかなり古いもののはずだが、スチール製で充分な強度がある。これを渡り板代わりに使えば、脩もビルへ渡ることができるだろう。加奈江は看板を持って連絡橋へ戻ると、崩れた場所に置き、脩を呼んだ。板はみしみしと音を立ててきしんだものの、思った通り壊れることなく渡ることができた。
無事にビルのベランダへ渡った二人は、二階の事務室へと入る。部屋の反対側にも同じような出入口があり、そこから外に出るとまた連絡橋があって隣のビルへ渡ることができるのだが、その連絡橋には漁師がひとり立っていた。長い棒の先にフック状の刃物が付いた
実内には事務用の机と棚があるだけで、乱雑に物が置かれたベランダと違いがらんとしていた。棚には何も残っていなかったので、加奈江は机の引き出しを開けてみた。いくつもある引き出しを次々と開けると、中のひとつに小型のラジオが入っていた。音を鳴らせば漁師の気を引けるかもしれない。ただ、引き出しに入っていたのは本体のみで、電源コードは無かった。そもそも何年も放置されたこのビルに電気が来ているかも疑問だ。ラジオは乾電池でも動くものだが、電池も無い。これでは使えない。加奈江が困っていると。
「お姉ちゃん、これ、使える?」
加奈江の意図を察したのか、脩がロボットのおもちゃを差し出してきた。そのロボットは、胸にあるボタンを押すと頭が左右に割れ、中からクマが出てきて吠えるというものだ。動力はゼンマイではなく電池だったはずだ。サイズが合えば、ラジオを鳴らすことができる。
「でも、いいの? ロボット、動かなくなっちゃうよ?」
加奈江が訊くと、脩は。
「うん、いいよ! ボク、困ってるお姉ちゃんをお助けしたいもん!」
と、胸を張った。
「ありがとう」
加奈江は脩からロボットを受け取り、背中のフタを外して電池を抜き取った。ロボットは脩に返し、ラジオの裏のフタを開ける。運よくロボットの電池を使用できるものだった。ラジオに電池をセットし、スイッチを入れる。かなりノイズ音が混じっているものの、かろうじてニュースが聞こえてきた。加奈江はラジオを棚に置き、ボリュームを最大まで上げると、脩と共にベランダに出て身を隠した。
「……なんだ?」
連絡橋の漁師がラジオの音に気付いた。警戒しながらドアを開け、事務室に入って来る。
「誰かいるのか? 隠れてないで出てこいよ!」
漁師はどこか怯えた声で威嚇しながら、室内をライト照らした。部屋には誰もおらず、奥の棚でラジオが鳴っているだけだ。
「……ラジオか。驚かせやがって」
漁師は棚の前まで移動し、ラジオに手を伸ばした。だが、途中でその手を止める。ラジオは、三隅郡という地域が局地的な豪雨に襲われているというニュースを報じていた。三隅郡という地域がどこなのかは加奈江には判らないが、もしここからそう遠くない地域だったら、いずれ島にも影響が出るかもしれない。海で仕事をする者は天気の情報に敏感だ。漁師はニュースが気になるのだろう。スイッチを切らず、そのまま聞き続けている。しかし、電波の状況が悪いのか、あるいはそもそも壊れているのか、ニュースは頻繁にノイズで途切れ、ほとんど聞き取れない。時折、サイレンが鳴るようなおかしな音まで聞こえる。
「くそ……おい、しっかりしろよ」
漁師は棚の前でラジオを叩いたり振ったりし始めた。加奈江は脩と共にしゃがみ歩きで事務室内に入ると、音をたてないよう静かに漁師の背後を通り抜け、連絡橋を渡って隣のビルの二階へと入った。
無事漁師をやり過ごした加奈江と脩は、地獄段へ向かうためビルから出ようとした。しかし。
「……ダメだわ。ここも見張られてる」
そのビルの二階から地獄段へ渡るための連絡橋も、別の漁師が見張っていた。加奈江を見つけるためにかなりの数の漁師がこの地域に集まっているのだろう。
さらには。
「……おい、どうかしたか?」
背後のビルで太田の声がした。幻視で確認すると、太田が事務室内にやってきて、ラジオを聞いている漁師に声をかけていた。
「あ、おやっさん」太田に気づいた漁師はラジオのスイッチを切った。「今のところ、あの女の姿は見えません」
「油断するな。いま、ともえが来た。少し前、女がこの地域に逃げるのを見たらしい。どこかに隠れているはずだ。草の根分けてでも見つけ出すぞ」
「判りました」
太田は漁師に命令すると、ビル内を探し始めた。そう広いビルではない。すぐに探索を終え、こちらへやって来るだろう。このままでは見つかる。加奈江は脩を連れ階段を上がり、一度三階へ身を隠した。
三階の部屋には、太いロープやオレンジ色のブイ、水銀灯や蛸壺など、様々な漁具が積み上げられていた。他のビルや外への出入口は無い。ここに隠れていてもすぐに見つかってしまう。すでにこの地域には多くの漁師たちの手が回っているようだし、隠れてやり過ごすにも限界があるだろう。いざとなったら戦うしかない。そのためには武器になる物が必要だ。ここなら何かあるかもしれない。加奈江は室内の漁具を探り始めた。
「――あ、脩、どこ行くの?」
漁具を探っていると、脩が部屋の隅の方へ歩いて行ったので、加奈江は呼び止めた。
「ハンドルがあるの」
脩は部屋の隅の壁を指さした。壁には鉄パイプが何本も通っており、片手で捻る大きさのバルブが付いていた。車のハンドルに似ているから興味が湧いたのかもしれない。
「そうね。でも、そっちは危ないから、行っちゃダメよ」
パイプがあるその一角は床が鉄格子状になっていて、下の階が見えている状態だ。あまり錆びてはいないので踏み抜くことはないかもしれないが、脩の小さな足では格子の間に挟まってしまうかもしれない。脩は「はぁい」と残念そうに言って、加奈江のそばに戻った。
「…………」
加奈江は漁具を探るのをやめ、鉄パイプのバルブを見つめる。しばらくそのまま無言で見つめていたが、やがて鉄パイプの前まで移動し、バルブに手を伸ばした。閉じられていたのを全開まで捻ると、パイプがわずかに振動し始める。中の液体が流れ始めようだ。接合部分が腐食しているのか、隙間から液体が漏れ出し、鉄格子状の床にぽたぽたとこぼれ始めた。
「……お姉ちゃん、なにしたの?」後ろから見ていた脩が、不思議そうな顔で訊いた。
「うん? これはね、おまじないみたいなものかな?」
「おまじない?」
「そう。脩が無事でいられますように、っていうおまじない。こうしておくと、いつか脩が危なくなったとき、助かるの」
「――――?」
首を捻る脩に、「ゴメン。脩にはちょっと難しい話だったね」と言ってごまかし、再び室内を調べ始めた。
なぜ、今あのバルブを捻ったのか――実を言うと、加奈江自身にもよく判らない。ただ、ああしておけばいずれ脩が助かるという点に関しては、胸の内に確信めいたものがあった。予知能力と言ってよいかもしれない。加奈江にそのような能力があったとしても、別段不思議なことではないのだ。加奈江は、
「……化物め……逃げられると思うなよ……」
隣のビルから声が聞こえた。幻視で確認すると、太田がドアを開け、連絡橋を渡ってこちらのビルへ来ようとしていた。武器を選んでいる暇はない。加奈江は漁具の中から蛸漁に使う陶器製の壺を取り、窓から顔を出した。そこは連絡橋の真上で、ちょうど、太田が通りかかったところだった。加奈江は蛸壺を振り上げると、太田めがけて勢いよく投げ落とした。壺が割れる音と低いうめき声、やや遅れ、太田が倒れる音がした。
「おやっさん!?」
地獄段を警戒していた漁師がその音に気付き、駆け寄って太田の具合を確認する。
「脩、今よ!」
加奈江は脩を連れて急いで階段を下りると、地獄段側の出入口から外へ出た。その階段を下れば波止場は目の前だ。船着き場の様子は、この場所から見下ろすことができる。
「……あそこにも、誰かいる」
暗い海に突き出た波止場の桟橋近くには、いくつかの人影が見えた。すでに漁師たちの手が回っているようだ。ここから見る限り船も停泊していない。あそこへ行っても無駄だろう。
「……ヤツはこの上だ! 行け! 捕まえろ!」
ビルの方から太田の声がした。意識を取り戻したようだ。命じられた漁師たちが三階へと上がっていく。今はとにかく逃げなくては。加奈江は波止場へ向かうのを諦め、地獄段を上った。
階段を上った先には細い通路が続いており、さらに進むと、資材倉庫の側に海へ下りるトンネルがある。このトンネルを通った先に、夜見島にある二基の灯台のひとつ、夜見島灯台が建っている。そこなら救命用のボートがあるかもしれない。波止場に船が無い以上、そこへ行くしかない。加奈江たちはトンネル内へ入った。
トンネルは、途中で上り階段と下り階段のふた手に分かれている。灯台へ向かう道は左の上り階段だ。加奈江は階段を上がろうとしたが、脩が立ち止まったまま動かなかった。右の下り階段の方を見つめている。
下り階段の先は、亀穴と呼ばれる天然の洞窟になっている。そこには干潮時のみ波止場方面と行き来できる道があるが、今は満潮の時間だから、道は海に沈んで通ることはできない。波止場にいる漁師がその道を通ってここへ来ることはないだろう。
「どうしたの、脩? そっちから怖いおじさんは来ないから、安心して」
そう言っても、脩は立ち尽くしたままだ。何かあるのだろうか?
「……ボク、行ってくる」
そう言うと、脩は階段を駆け下りた。
「あ、待って、脩。そっちじゃないわ」
加奈江が止めても、脩は走って行った。仕方なく、加奈江も後を追う。聞き分けの良い脩が加奈江の言うことを聞かないのは珍しい。一体どうしたのだろう?
……そう言えば。
亀穴は、三ヶ月前に脩と加奈江が出会った場所だ。あの日、脩は亀穴付近で落とした母親の形見のメダルを探していて、流れ着いた加奈江を見つけたのだ。もしかしたら、今でもあのメダルに未練があるのかもしれない。
階段を下りてしばらく進むと、人口のトンネルからごつごつとした岩肌の天然洞窟となった。洞窟の先は海に沈んでいる。当然、三ヶ月も前に落としたメダルが見つかるはずもない。
「脩、メダルなら、お姉ちゃんが新しいのを買ってあげるから、今は、灯台に行こう?」
脩は波打ち際の少し前に立ち、足元をじっと見つめている。そこには、脩の手のひらほどの小さな海亀が、ひっくり返ってひれをパタパタと振っていた。これを気にしていたのだろうか? 加奈江はフフっと笑うと、「脩、助けてあげなさい」と、背中をさすった。脩は両手で包み込んで海亀の子をすくうと、海へ放した。亀は何度か打ち寄せる波の上でうねっていたが、やがて引き波に乗り、遠ざかって行った。
「……カメさん、おうちに帰れるかな?」
海の闇に消えた亀に向かって、脩は心配そうな声でつぶやく。
「大丈夫よ。脩と同じで、きっと強い子だから」
「……うん」
「さあ、行きましょう」
加奈江は脩の手を引いて来た道を戻り、階段を上がって灯台を目指した。
この直後。
夜見島を赤い津波が襲い、島民は、写し世の世界へ連れ去られた。
加奈江は全ての力を使って脩と共に津波から逃れたが、朝日を浴び、小舟に脩を残して海へ沈んだ。
その、二十九年後。
再び夜見島を訪れ、章子の体内から覚醒した加奈江は、母に囚われた脩を救うために奔走する――。