夜見島へ向かう船が赤い高波で転覆し、海へ投げ出された一樹守は、運よく夜見島港へ流れ着き、救助を求めて灯台へ向かう。途中、倉庫内に倒れていた少女・岸田百合を保護したが、動く死体の化物に襲われ、夜見島金鉱会社のビルへ逃げ込んだ。外階段を使って三階へ上がったものの、そこは逃げ場も隠れ場所も無く、完全に追い詰められてしまった。ただ、部屋には床が鉄格子状になっている場所があり、そこからは下の階が見えていた。鉄格子を蹴り落とすことができれば二階へ移動できる。一樹は、鉄格子を強く蹴った。
一樹が床の鉄格子を強く蹴ると、留金の一部がバチンと弾けた。鉄格子はいたるところが腐食しているためかなり脆い。これなら壊せる。一樹がさらに蹴ると、鉄格子は派手な音を立てて下の階へ落ちた。
「よし、ここから逃げよう」
まず一樹が飛び下り、続いて飛び下りてきた百合を受け止める。直後に上の階のドアが開く音がした。獣が唸るような声も聞こえる。あのゾンビのような化物が追って来たのだ。一樹は二階のドアを開けて外へ逃げようとしたが。
「――待って」
百合が一樹の手を握って止めた。「じっとしてた方がいいわ」
「でも、あいつはすぐ上に迫ってる。ここは危険だ」
「大丈夫。ここまでは追ってこない。これ以上逃げるより、じっとしてた方が安全よ」
「しかし――」
さらに言おうとした一樹だったが、百合が人差し指を立てて唇に当てたので、言葉を飲み込んだ。三階から、足を引きずって歩く音が聞こえる。化物が室内を探しているのだ。一樹たちが三階へ逃げ込むところは見られたはずだ。三階に隠れる場所は無く、唯一の脱出口は床に空いた穴だけだ。化物も当然それに気づき、追って来るだろう。どう考えても、ここに留まっていては危険だ。
しかし、一樹の思いに反し、上から聞こえる足音は室内をぐるぐる歩き回るだけで、穴から飛び下りてくる気配は無かった。しばらくするとドアが開閉する音がして、足音が消えた。少し経ち、外階段を下りて来る気配がしたが、やがてその気配も地獄段の方へ消えた。どうやら資材倉庫の方へ戻って行ったようだ。
百合が片目を閉じた。「ほら。言ったとおりでしょ? あいつらは知能が低いの。床の穴を通って下の階へ行くなんて、考え付かないのよ。記憶力も低いから、しばらくすれば、自分が何をしていたのかも忘れ、元の場所に戻ると思ったの」
百合が言うには、あの動く死体は屍人という化物で、屍霊という黒い煙のようなものが死体に憑りつくことで動きはじめるそうだ。夜見島に古くから伝わる化物らしい。
オカルト雑誌の記者である一樹は、今回の取材に出る前、インターネットや古い新聞・週刊誌などで夜見島のことを調べた。屍霊に関してはなにかの記事で見た覚えはあるが、あまり詳しくは調べていない。ネットや新聞などで取り上げられていたのは島民失踪や大型客船消失などの大きな事件ばかりで、古い伝承などはなかなか見つけることができなかったのだ。なのに、なぜ百合は詳しく知っているのだろう? その理由を訊いても、百合は曖昧にはぐらかすだけだった。
「それより、ずっとここにいるわけにはいかないわ。早く移動しましょう」
そう言って、百合は屍人に関する話を打ち切った。少し気になったが、確かに百合の言う通りである。一樹は、乗っていた船が高波で転覆し、偶然この島に流れ着いたのだ。船には他にも乗客がいた。彼らの消息も気になる。早く救助を呼ばなければならない。そのためには、資材倉庫の横にあるトンネルを通って夜見島灯台へ向かわなければならない。
しかし、灯台へ向かう道の途中には、さっきの屍人がいるはずだ。問答無用で襲い掛かって来て首筋に喰らいついてきた化物。できれば二度と関わりたくない。幸い、灯台へ向かう道はもうひとつある。一樹が流れ着いたドルフィン桟橋から海沿いに南へ進むルートだ。ただ、この道は堤防の上にあがる必要があるのだが、そのための埋め込み式の梯子が崩れていて上れないのだ。なにか、足場になるようなものがあれば行けるかもしれない。このビル内に梯子か何かないだろうか? 一樹は百合に灯台へ向かう案を説明し、ビル内に使える物がないか探してみることにした。
室内には机やロッカーなどの事務用品の他に、漁業用の網や釣り針などの漁具も多数置かれていた。このビルは、昭和三十年代から四十年代の金鉱発掘時代、採掘所から運ばれてきた金を本土へ出荷する作業などに使われていたものだ。金鉱閉鎖後はそのまま放置されていたため、恐らくかつての島民が無断で倉庫やゴミ捨て場代わりに使用していたのだろう。これなら梯子や踏み台くらいすぐ見つかるかもしれない。一樹はまずロッカーを調べてみた。残念ながら中にはほうきやデッキブラシなどの掃除用具しか入っていなかったが、奥の方に、金鉱会社の職員が書き記したと思われる日誌があった。堤防を上るには何の役にも立たないが、オカルト雑誌の取材でこの島を訪れた身としては興味をそそられる物だった。一樹は日誌を読んでみることにした。
その日誌は、昭和四十五年の五月から始まっていた。島での金鉱事業がピークに達していた頃である。一樹はパラパラとページをめくりながら流し読みしていく。多くのページは、その日の仕事の内容や、軋轢があった島民たちから受けた妨害行為等について書き記されてあるだけだったが、まれに、二本足で歩行する黒い化け猫の目撃情報や、海から不気味なすすり泣きの声が聞こえた、地面から突然無数の黒い手が伸びてきて足をつかまれた、といった怪現象も書き込まれていた。夜見島には、ヤミピカリャーと呼ばれる未確認生物や、海から来る穢れなどの都市伝説めいた話が多い。島民失踪や大型客船消失事件に比べるとインパクトに欠けるが、一部のオカルトマニアの間では長く話題になっている。記事にするには充分な内容だ。ただ、日誌には発生した出来事が淡々と書かれてあるだけで、真相解明に繋がりそうな情報は無かった。
一樹は日誌をさらに読み進める。後半になるにつれ、金の採掘量に関する書き込みが増えていった。金鉱採掘所が閉鎖され、島から会社が完全撤退するのがこの日誌の三年後だから、この頃から金鉱の枯渇が如実になっていったのだろう。本社から視察が入った、現場監督や島の責任者を交えた会議が行われた、といった書き込みもあった。
そして、日誌の最後のページには、こう記されてあった。
《本社より、鉱量枯渇により近日中の金鉱閉鎖が決定したとの連絡があった。スケジュール調整はこれからだが、本日より少しずつ事業を縮小し、撤収の準備に入るとのこと。
ようやくこの島からおさらばだ! せいせいする! いくら団地を建てて学校や遊園地をつくろうが無駄だ! こんな不気味な島に人が居つくわけがない! 俺は麻衣と一緒に本土へ戻って結婚する! 麻衣と出会えたことだけが唯一この島での良い思い出だ! 麻衣! 愛してるぞ!!》
それまでの丁寧に書かれた文体と文字から一転し、最後の一文だけは乱れた文字で書き殴られていた。それを見て、一樹は息を飲む。見間違いではないかと思い、もう一度読み直した。だが、間違いではなかった。見てはいけないものを見てしまったような気がして、めまいを覚えた。
この日誌を書いた池田という人物は、島で暮らすことに相当な不満を抱えていたようだ。日誌に書かれてある怪現象を本気で信じていたのかもしれない。島からの撤退が決まり、それまでの鬱憤を晴らすため、最後の文を書いたのだろう。それは別段特異なことではない。一樹がめまいを覚えたのはそこに記された名が理由だ。最後に登場する麻衣という人物。内容から察するに、この日誌を書いた池田という職員が島で出会い、将来を約束した女性なのだろう。この後本土へ戻って予定通り結婚したのなら、その名は
――守だけはあたしの味方だと思ってたのに……違ったんだね……。
少女の、最後の言葉がよみがえる。
一樹は、暗い地の底へ引きずり込まれるような錯覚に襲われていた。まるで、地面から無数の黒い手が伸びてきて引きずり込もうとしているかのような――日誌に書いてあることが現実に起こったかのようだった。ここ数年、仕事に集中することで忘れていた罪悪感がよみがえる。なぜ、俺は彼女を最後まで助けてやれなかったのだろう? なぜ、彼女を突き放すようなことを言ってしまったのだろう? 麻衣……君が、俺をこの島へ呼んだのか?
――――。
一樹は首を振った。急な動きに眼鏡がずれたので、中指で元の場所に戻す。その動作で冷静さを取り戻した。バカバカしい。幼馴染だった池田麻衣は同い年だ。この日誌が書かれたのは昭和四十五年だから、ここに書かれている女性は、現在五十歳を超えているだろう。名前がたまたま幼馴染と一致しただけだ。それを幼馴染の少女と結びつけるなど、どうかしている。
一樹はオカルト雑誌の編集社に勤めているが、幽霊やUFOなどの超常現象には否定的だ。それらの怪現象には、何らかの科学的説明ができると信じている。それらを証明するために今の仕事を選んだと言っていい。この日誌に書かれている怪現象の数々も、島民からの度重なる妨害行為により、職員たちは心理的に圧迫され、幻覚や幻聴に襲われたと考えることができる。今の一樹にも同じことが起こった可能性が高い。ここ数日、麻衣のことを夢で見ることが多くなっていた。仕事が思うようにいかず、心理的に圧迫されているのだろう。
「――守? 使えそうな物は見つかった?」
百合に声を掛けられ、一樹はそれ以上考えるのをやめた。取材も大事だが、今は救助を呼ぶのが先決だと思い直した。一樹は日誌をロッカーへ戻すと、近くに乱雑に置かれた物の中から鉄パイプを一本取った。梯子が崩れ落ちた堤防にはいくつも亀裂が入っていたから、そこにこのパイプを挿し込めば足場になるだろう。
「これでいい。さあ、行こう」
一樹は百合を連れ、金鉱会社のビルを後にした。地獄段をくだり、ドルフィン桟橋から海沿いに進んで、梯子が崩れた場所まで戻る。堤防の比較的大きな亀裂に鉄パイプを深く挿し込むと、しっかりと固定された。それを足場にして上に手を伸ばす。なんとか崩れていない上部の梯子に届いたので、そこから懸垂の要領で堤防の上にあがることができた。
堤防から海を見ると、百メートルほど離れた所にコンクリート製の波止めがあり、灯台はその先に建っていた。足元へ視線を移すと、堤防の反対側にも埋め込み梯子がある。これで岩場へ下り、海沿いに進めば灯台まで行けるはずだ。一樹は堤防の上からライトで岩場を照らした。
岩場に、鬼の顔が浮かんでいた。
はっとなり、一樹はその鬼の顔を凝視する。鬼は、憤怒の表情で一樹を睨み返してきた――ように、一瞬見えた。
次の瞬間、その顔がごそりと動き、海へと向かっていく。
初めは驚いたが、よく見ると、その鬼の顔の周囲にはひれ状の手足と丸い頭が生えていた。海亀のようだ。その甲羅の模様が鬼の顔に見えたのだ。あれは、夜見島の近海にのみ生息する珍しい海亀・夜見亀だ。甲羅の模様はたまたまではなく、全ての夜見亀があのような模様をしているらしい。その模様が憤怒した顔に見えることから、海で死んだ者の怨霊が乗り移ったという伝承があるほどだ。かつて漁で網にかかった際は網を切ってでも逃がしたというから、島民からはかなり
夜見亀はゆっくりとした動作で岩場を進むと、しぶきを上げて海へ落ち、すぐに海の闇にまぎれて見えなくなった。珍しいものを見ることができたが観光に来たわけではない。一樹は改めて堤防の下の岩場を照らした。しかし、そこに道らしきものは無かった。梯子の下に数メートル四方の岩場があり、そこから二十メートルほど離れた場所に洞窟が見えるのだが、岩場と洞窟の間は、堤防に波が繰り返し押し寄せているだけだ。一樹は地図を取り出して確認したが、地図には確かに道が書かれている。どういうことだろう?
「守? どう? イケそう?」
陸側の堤防下から百合が見上げている。一樹は、海側の状況を説明した。
「道が無いんだったら、そこは潮が引いた時しか通れないのかもしれないわね」
そう言われ、一樹はいま満潮であることに気がついた。百合の言う通りなら、この時間、道は海に沈んでいることになる。
「様子を見てくる。少し待っててくれ」
そう告げると、一樹は百合をその場に残し、梯子を使って岩場へおりた。
下へおりた一樹は、岩場と洞窟の間をライトで照らす。海がそう深くなければ、多少の無理を覚悟で渡ってみようかと考えていたのだが、海はかなり深いようで、ライトで照らしただけでは底は見えなかった。波も高く、ここを通って行くのは危険だ。やはり、地獄段を通る迂回ルートを使うしかないのだろうか。そうなると、あの屍人とかいう化物をどう回避するかが問題になるが……。
――うん?
ライトで周囲を照らしながら考えていると、波打ち際で何かが反射した。さきほど夜見亀がいた場所だ。近づいて調べてみると、岩のくぼみにコインのようなものが落ちていた。キーホルダー状になっており、表面には『土器と平和 EXPO’70』と記されている。何かの国際博覧会の記念メダルだろう。あの夜見亀が置いて行ったのだろうか? いや、まさかな……と、一樹は考え直す。一九七〇年開催なら三十五年も前の物だが、メダルは光を反射するほど綺麗な状態だった。長い期間海の中にあったとは思えない。最近誰かがここに来て落としたと考えるべきだろう。可能性が高いのは、一樹と同じ船に乗り合わせた三上脩たちだ。彼らも一樹同様この島に流れ着いた可能性は充分考えられる。だとしたら、近くにいるかもしれない。
一樹はメダルをポケットにしまうと、他にも何か痕跡がないか探した。岩場にやや高い波が押し寄せ、そして引いていく。すると、少し盛り上がった岩の突起に白いものが引っ掛かっていた。拾ってみると、それは街の掲示板で見かけるような張り紙だった。別段珍しいものではなく、普通ならただゴミが流れ着いたと思うところだが、どういう訳か、その張り紙は全く濡れていなかった。波に打ち寄せられたと思ったのは見間違いだったのだろうか。そこに書かれた内容も目を引いた。それは尋ね人の張り紙なのだが、その名前が『岸田百合』となっていたのだ。ついさっき出会い、堤防の向こう側で待たせている少女と同じ名前だ。詳しく読んでみると、張り紙にある岸田百合という人物は、今から二年前の昭和七十八年八月十日、三逗港付近で目撃されたのを最後に行方が判らなくなっているという。失踪当時の服装も書かれている。赤いキャミソールにカーディガン――百合の服装と一致する。しかし、そこに掲載されている写真は、おっとりした丸顔に丸眼鏡をかけたショートヘアーの女性だった。百合とは似ても似つかない。偶然島で出会った少女が、偶然二年前に失踪した少女と同じ名前で、偶然同じ服装をしていた? そんなことがあるだろうか? それは奇跡に近い確率だ。これを偶然と考えるのではなく、必然と考えた場合、あの
不意に。
一樹の背後から真っ白な手が伸びてきて、張り紙を取り上げた。
振り返ると、いつの間に来たのか、すぐ後ろに岸田百合が立っていた。堤防の反対側で待たせていたはずだが、一樹が力任せに上ったあの堤防を、百合の細い手で上ったのだろうか? そして、考え事に集中していたとはいえ、一樹に気配すら感じさせず背後に立つ――人間業とは思えない。
百合は、一樹から取り上げた張り紙を、冬海のごとく冷たい目で見つめる。
「――こんなゴミに構ってる暇はないの。早くしてちょうだい」
どこか苛立たしげな口調でそう言うと、張り紙を丸め、海へ投げ捨てた。
「あ……ああ。すまない」
一樹は、百合に対し、得体の知れない恐怖を覚えた。この少女は、何か危険なにおいがする。今は緊急事態だが、一緒にいない方がいいかもしれない。一瞬、そう考えた。
しかし。
そのとき、上空を、大型のヘリが通過する音がした。
救助のヘリが来た――そう思った一樹は、百合と共に、ヘリが着陸したと思われる島の北部へ向かった。助かるかもしれないという期待が、百合に対する得体の知れない恐怖を打ち消し、すぐに警戒心を無くしてしまったのだ。
その結果。
この直後、写し世の夜見島へ飲み込まれた一樹は、百合の企みにより、闇の住人を解き放つことになる――。