ノマルは二部だが愛がある   作:rairaibou(風)

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336 研修

『こんにちは! ラーノノジムのノマルです。

 

 今日から、ワイルドエリアで若手のジムリーダー達との合同研修会です!

 私が講師をすることになったのですが、ちょっと緊張しますね…。

 ですが、未来あるみんなのために、頑張りたいと思います! みんなで一緒に学びましょう!

 ワイルドエリアもすごく良いお天気です!』

 

#ガラルポケモンリーグ

#ジムリーダー研修会

#ラーノノジム

#講師頑張ります

#みんな頑張れ

 

 

 

 

 どこまでも続く緑の平原を、乾いた風が吹き抜けていく。遠くには雪を頂いたガラル山脈の稜線がそびえ、遥か上空をアーマーガアの鳴き声が通り過ぎていった。

 

 ワイルドエリアの一画、見晴らしの良いその平原地帯に、ぽつんと一本の杭が打ち込まれている。それ以外には、人工物らしいものは何もない。

 杭に結び付けられた小さな旗には、リーグの紋章と『研修会・集合場所』という無機質な文字が記されているだけだ。

 

 新体制となったリーグが、次代を担う才能たちの育成と交流を目的として、今年から試験的に始めた新たな試み。

 本日より二日間、この何もない場所が、ガラルの未来を担う若きエリートたちの学び舎となる。

 

 最初にそらとぶタクシーで降り立ったのは、アラベスクジムのビートだった。彼は、何もない平原にただ一本立つ杭を品定めでもするかのように一瞥すると、鼻で笑う。

 

 そのすぐ後を追うように、スパイクタウンのジムリーダー、マリィが姿を現す。二人は軽く視線を交わすが、言葉はない。互いが、この場に集う数少ない同世代のライバルであることを改めて確認するような、静かな緊張感が流れる。

 

 沈黙を破ったのはビートだった。

 

「フン、若手の育成とは言いますが、僕ほどのトレーナーに今更学ぶことなど。まあ、我々のようなエリートの実力を再確認させるための、形式的なものでしょう」

 

 その自信にあふれた言葉に、マリィは小さく肩をすくめる。

 

「講師はノマルさんらしかよ。エキシビションの時は、すごく怖かったけど、基本的には、優しい人だと思うとばい」

 

「ええ、そうですね」と、ビートも頷く。

 

「彼女は、僕の非凡な才能を正しく評価できる、数少ない大人ですから。きっと、有意義な、それでいてシンプルな研修になるはずですよ」

 

 二人はまだ知らない。

 

 この二日間が、彼らのエリートとしての矜持を、根底から覆すことになるということを。

 

 二人が話していると、上空から強い風圧と共に、そらとぶタクシーが降り立った。

 一瞬、二人は驚きと戸惑いの表情を見せる、この研修は新人ジムリーダーのものであるはずだ。自分たちの知る限り、新人ジムリーダーは自分達しかいないはずだ。

 

 アーマーガアが優雅に着地し、開いたドアから姿を現したのは、ナックルジムのジムリーダー、キバナだった。

 

 しかし、その表情は、彼が普段SNSで見せる自信に満ちた笑顔とは程遠い。ハイブランドのアウトドアウェアに身を包んではいるが、その顔には世界の終わりのような憂鬱さが貼り付いていた。

 

「キバナさん!?」マリィが驚きの声を上げる。

 

「なぜあなたが、こんな新人向けの研修に?」

 

 その問いに、キバナは深く、深いため息をついた。

 

「リーグからの業務命令だ。SNSの使いすぎで、少し頭を冷やしてこい、だとさ。強制デジタルデトックスってわけだ」

 

 キバナが忌々しげにそう言うと、横からビートが、待ってましたとばかりに口を挟んだ。

 

「SNSの使いすぎ、と言えば聞こえはいいですがね。あなたの場合は、自業自得でしょう」

「あ?」

 

 キバナが睨むが、ビートは意に介さず、マリィに向かって丁寧に解説し始める。

 

「先週、彼が投稿した写真を見ましたか? ダンデさんとの決戦に備える、とかなんとか言って、極秘のトレーニング風景をアップしていましたが、写真の位置情報設定を切り忘れていたせいで、撮影場所がファンに特定され、ワイルドエリアの一部区画が封鎖されるほどの大騒ぎになったんですよ」

 

 キバナは「ああもう、言わんでいい」と、顔を背ける。

 

 そのあまりにも現代的で、そして情けない理由に、マリィは心底呆れたように、ぽつりと呟いた。

 

「なんばしよっとね」

 

 その憐れむような視線に耐えかねたのだろう。キバナはぐったりと黙り込む。

 マリィは、なんとか場を和ませようと、明るい声で言った。

 

「でも、講師はノマルさんらしかよ? 優しい人やけん、きっと楽しい研修になるばい」

 

 その言葉を聞いた瞬間、キバナは憐れむような目で二人を見た。

 

「お前ら、分かってねえ」

 

 その声は、全てを諦めた者のように、乾いていた。

 

「あの人は、『優しくて、怖い人』なんだぞ」

 

 過去にこの研修を経験したことがあるのだろうか。キバナのその言葉の真意を、ビートとマリィは、まだ知る由もない。

 

 

 

 

 三人のジムリーダーの間に、気まずい沈黙が流れた、その時だった。

 

「皆さん、おはようございます」

 

 穏やかな声と共に、今回の研修会の主役が、二人の助手を伴って姿を現す。

 

 アウトドアウェアに身を包んだラーノノジムリーダー、ノマル。

 その後ろには、同じくジムトレーナーのミスミと、カントーからの研修生であるスロワが続いている。

 彼女は、三人のエリートたちが放つ緊張感を意にも介さず、にこやかに微笑んだ。

 

「さて、早速ですが始めましょうか。まずは、この研修会における、最初のルールです」

 

 彼女は、ミスミが差し出す頑丈なアタッシュケースを指差した。

 

「皆さんには、今お持ちのポケモンを全て、こちらのケースに預けてもらいます」

「なっ!?」

 

 ビートが、絶句したように声を上げる。マリィもまた、驚きに目を見開き、自らのパートナーが入ったボールを、守るように強く握りしめた。

 

 その言葉に、キバナは「ほらな」と、全てを諦めきった顔で天を仰ぐ。

 

 彼は、この研修の非情さを、誰よりもよく知っている。

 抗議が無意味であることを悟っている彼は、三人のうちで最初に、自らのベルトからボールを外し始めた。

 相棒のジュラルドンのボールを、名残惜しそうに一撫でしてから、ケースの中に、ことりと音を立てて落とす。

 

 その諦観に満ちた姿を見て、ビートとマリィも、もはや逆らうことはできなかった。

 

 ミスミがアタッシュケースの留め金を、パチン、と音を立てて閉じる。その乾いた音が、彼らの抗議が完全に無意味であったことを示していた。

 ノマルが頷くと、それまで黙って控えていたスロワが、三人の前に進み出る。彼が差し出したシンプルなケースの中には、三つのモンスターボールが静かに収められていた。

 

「代わりのパートナーです」

 

 マリィは、おそるおそるそのボールを手に取ると、中身を確認するように、その場でポケモンを繰り出した。

 

 ポン、と軽い音を立てて現れたのは、まだ体も小さく、あどけない顔つきをした一匹のイーブイだった。

 きょとんとした様子で三人のエリートを見上げているその姿は、彼らが普段率いている歴戦のパートナーとはあまりにもかけ離れている。

 

 ノマルは、三人がそれを受け取るのを確認すると、穏やかな、しかし一切の反論を許さない声で告げた。

 

「この研修は、その子たちと乗り越えてもらいます」

 

 ビートは、手のひらの上のボールを、まるで汚物でも見るかのように睨みつけている。

 エリートである自分が、こんな素性も知れぬ低レベルのポケモンと組まされる。その屈辱に、彼の肩はわなわなと震えていた。

 

 マリィは、不安げにボールを握りしめる。相棒のモルペコがいない心細さが、ずしりと肩にのしかかるようだった。

 

 そしてキバナは、ただ、静かに目を閉じた。これから始まる二日間の過酷な運命を、手のひらの上の、その軽すぎるほどの重さから感じ取っているかのように。

 

 ガラルが誇る三人のエリートトレーナーは、こうして、その牙を抜かれた。

 

 ノマルは、彼らに問う。

 

「皆さん、研修を始める前に、一つ質問です。ジムチャレンジを始めたトレーナーのうち、バッジを三つ以上集められるのは、全体の何パーセントだと思いますか?」

 

 その問いに、最初に答えたのはビートだった。彼は、まるで答えを知っていることが当然であるかのように、鼻で笑う。

 

「フン、簡単なことですよ。才能あるエリートならば、当然乗り越えるべき壁です。七割はいるのではありませんか?」

 

 しかし、ノマルは静かに首を横に振った。

 

「正解は、4%です」

 

 その、あまりにも低い数字に、ビートだけでなく、マリィやキバナも、思わず息を呑んだ。

 

 ノマルは、畳み掛けるように続けた。

 

「そして、残りの96%のうち、その後の人生を二匹以上のポケモンと共に過ごすのは、わずか9%程度です。つまり、約87%のトレーナーが、夢破れ、たった一匹のパートナーと共にトレーナーを辞めていくか、あるいは」

 

 彼女は、三人の顔をゆっくりと見渡し、静かに、しかし、はっきりと告げた。

 

「今あなた達は、ガラルのトレーナーの85%以上が体験する『最初の壁』の前に立っているのです」

 

 エリートである彼らが、今まで一度も見たことのない世界の現実。

 その重い事実に、三人は、返す言葉を何一つ持たなかった。

 

 

 

 

 その凍り付いた空気を動かしたのは、再び、ノマルの静かな声だった。

 

「では始めましょう。まずは、今夜あなたたちが眠る場所を作ります」

 

 彼女は、助手であるミスミに目配せをした。

 

「ミスミくん、手本をお願いします」

「はい、リーダー」

 

 ミスミが一歩前に出ると、その場の空気がわずかに変わった。普段の彼が纏う、どこか飄々とした雰囲気は消え去り、今はただ、ノマルの教えを体現する指導者としての、真剣な眼差しだけがそこにあった。

 

「まずは、拠点を作る場所を選びます」

 

 ミスミは手慣れた様子で周囲を見渡し、緩やかな丘の斜面を指差した。

 

「風向きを考え、雨水が溜まらない少し高い場所を選ぶのが基本です。ああやって、大きな岩や倒木があれば、それを天然の壁として利用できます」

 

 しかし、ビートは、そのあまりに基礎的な内容に、退屈そうに腕を組んだ。

 

「フン、そんな初歩的なことからですか。もっと合理的で、高度な内容を期待していたのですが」

 

 その言葉に、それまで黙って後ろで見ていたノマルが、静かに口を開いた。

 

「基本もわからないトレーナーに応用ができるわけがないでしょう」

 

 氷のように冷たいその声に、場の空気が一瞬で張り詰める。

 ビートは顔を真っ赤にして絶句し、そのただならぬ緊張感に、ミスミと、木に寄りかかっていたキバナですら、思わずぎょっとした表情を浮かべた。

 

 その沈黙を破ったのは、マリィの、少しおずおずとした声だった。

 

「あの……葉っぱは、どうやって屋根に乗せると?」

 

 マリィの問いに、ミスミはハッと我に返り、指導者の顔に戻る。彼は、憧れの対象であるはずのマリィに一切の特別扱いを見せず、事務的な口調で答えた。

 

「ああ、それはですね。こうやって下から重ねていくと、雨が降っても水が中に染み込みにくいんです」

 

 ミスミは、近くに生えていた木の葉を数枚刈り取ると、それを下から上へと、瓦のように重ねながら骨組みに巧みに編み込んでいく。

 

 やがて、雨風を十分にしのげそうな、簡素だが頑丈な傾斜小屋が完成する。ミスミは、最後に火起こし器で手早く火を移してみせると「以上です」と一礼した。

 

「では、始めなさい」

 

 ノマルの、有無を言わせぬ声が響いた。

 

「日没まで、あと三時間。今見た手本と、自分の頭の中にある知識、どちらを信じるのも自由です。ですが、結果は、全てあなた自身が引き受けることになる。健闘を祈ります」

 

 その言葉を皮切りに、四人の参加者は、それぞれのやり方で、今夜の寝床を懸けた戦いを始めるのだった。

 

 

 

 

 ノマルの号令から、一時間ほどが経過した。

 

 平原のあちこちで、四人の参加者たちが、それぞれのやり方で拠点づくりに悪戦苦闘している。その中で、ナックルジムのジムリーダー、キバナの作業は、ひときわ手際が良かった。

 

 彼は大きなため息をつきながらも、一切の迷いなく作業を進めている。

 彼のイーブイが、火口用に集めた、ふわふわの綿毛がいたく気に入ったらしい。無邪気にじゃれつくその姿に、キバナは作業の手を止め、思わず本音を漏らした。

 

「ったく、可愛いじゃねえか」

 

 そして、心の底から、しみじみと呟いた。

 

「こういう時に限って、ロトムフォン取り上げられてんだよなあ」

 

 彼はもう一度、今度は空よりも深いのではないかというため息をつくと、その辺の棒きれをイーブイの目の前に転がし、注意が逸れた隙に、再び無表情で作業に戻る。

 

 その時だった。

 

「あんにゃ、手際いいごど」

 

 不意に背後からかけられた声に、キバナは驚いて振り返った。そこに立っていたのは、カントーからの研修生、スロワだった。

 

「あ? なんだお前、人のこと見てる余裕あんのかよ」

 

 スロワは、悪びれもせずに、親指で自分の背後を指す。

 

「わぁのうぢは、もう終わったはんでな」

 

 キバナがそちらを見ると、そこには見栄えは悪いが必要最低限の機能を持つ、既に完成している簡素なシェルターがあった。

 彼が感心と呆れの入り混じった視線を向けていることに気づかず、スロワは続ける。

 

「寝床だば、雨っこ凌げだら、そんでええ」

 

 その言葉と、彼の佇まいを見て、キバナは思わず乾いた笑いを漏らした。

 

「お前みたいなやつが、最後まで生き残るんだよなあ」

 

 キバナは「それに比べて」と、呆れたように、いまだに苦戦を続けるビートの方に視線を移した。

 

 彼の傍らには、防水ノートに描かれた完璧な設計図が広げられている。

 しかし、フィールドに転がる不揃いな枝は、彼の理想通りに組み上がってはくれない。

 おまけに、彼のパートナーであるはずのイーブイが、彼が位置決めに使っていた蔦の蔓にじゃれつき、繊細なバランスを台無しにしていく。

 

「だから、やめなさいと言っているでしょう! この、役立たず!」

 

 そのヒステリックな声を聞き、いち早く作業を終えていたキバナは、見かねてビートに近づいた。

 

「おぉい、エリート。その結び方は違う。風上から力がかかったら、一瞬でほどけるぞ」

 

 その言葉に、ビートは侮辱されたように顔を真っ赤にして言い返す。

 

「あなたに指図される筋合いはありません! これは力学的に計算された、最新の設計です! あなたのような、ただ枝を積んだだけの野蛮な作りとは違うんですよ!」

 

 キバナは、そのあまりの言い草に、怒る気力も失せたように肩をすくめた。

 

「そうかいそうかい。せいぜい、雨漏りしないように祈るんだな」

 

 そう言い残し、キバナがさっさとその場を去ろうとした、その時だった。

 近くで黙々と作業を終えていたスロワが、ビートに向かって、悪気なく、しかし事実として、ぽつりと呟いた。

 

「まあ、わぁじゃねえし、困んのはあんにゃだはんでな」

 

 その言葉に、ビートの怒りの矛先は、完全にスロワへと向いた。

 

「……研修生の分際で、なんて口の利き方です! 僕に意見など、百年早いんですよ!」

 

 その、あまりにも身分を見下した物言いに、去りかけていたキバナが、ピタリと足を止めて振り返った。その瞳には、先程までの呆れとは違う、明確な軽蔑の色が浮かんでいた。

 

「おい、ビート。流石に、それはねえだろ」

 

 ガラル最強のジムリーダーの一人からの、静かだが、重い叱責。

 ビートは、ぐっと言葉に詰まり、反論もできずに、ただキバナを睨みつけることしかできなかった。

 

 その二人のやり取りを、少し離れた場所から、マリィが静かに見ていた。彼女は、エリートたちのプライドのぶつかり合いに、小さくため息をつくと、再び自分の作業に集中する。

 

 彼女は、ビートのように完璧な設計図を描きはしない。ただ、目の前にある資材と、地形を冷静に観察し、今できる最善を尽くしているだけだ。

 大きな岩を風よけに利用した、彼女の小さな拠点は、時間はかかっているものの、着実に形になりつつあった。

 そこへ、彼女のパートナーであるイーブイが、応援のつもりなのか、キラキラと光る石ころをくわえて戻ってくる。

 

「またとね」

 

 マリィは困り顔でため息をつきつつも、その頭を優しく撫でる。

 

「ありがとね。でも、欲しいのはそっちの枝なんよ」

 

 パートナーとの根気強い対話もまた、サバイバルに必要な技術なのかもしれない。彼女は、兄と二人で乗り越えてきた、スパイクタウンでの日々を、少しだけ思い出していた。

 

 

 

 

 日が傾き始め、平原を吹き抜ける風が、肌寒さを帯びてきた。

 参加者たちの作業がおおむね終わったのを見計らい、ノマルが声をかける。

 

「では、次の課題です。それぞれ、火を起こしなさい」

 

 その指示を受け、ビートたちが、支給されたばかりの火起こし器を不器用に弄び始めるのを横目に、スロワは、すでに動いていた。

 彼は、その辺で拾ったただの硬い木の枝を、地面に置いた柔らかい木の板に突き立てると、両手で挟み、驚くべき速さで回転させ始める。

 

 誰もが固唾をのんで見守る中、摩擦で生まれた熱が、乾いた木屑から、か細い一筋の煙を立ち上らせた。スロワは、その小さな火種を手のひらにそっと移すと、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく、しかし的確に息を吹きかける。

 

 やがて、小さな赤い光が、彼の顔をぼんやりと照らし出した。

 

「まぁ、ごんなもんだべな」

 

 あっという間に、彼の足元で、温かい焚火がぱちぱちと音を立て始めた。

 一番乗りだった。それも、まるで呼吸でもするかのように、当たり前に。

 

 そのあまりの簡単さに、ビートは「まぐれだ」とでも言うように、忌々しげに顔を歪めた。

 マリィとキバナは、ただ感嘆の息を漏らす。

 

『寝床だば、雨っこ凌げだら、そんでええ』

 

 彼にとって、サバイバルとは、生きることそのものなのだ。

 

「ちっ、張り切りやがって。オレさまも負けてらんねえよな!」

 

 彼は軽口を叩きつつも、その動きは真剣そのものだ。火起こし器を巧みに操り、数度の挑戦の末、見事に安定した炎を確保する。

 

 彼は、完成した焚火の前にどかりと座り込むと、寒さで震えていた自分のイーブイを、ひょいと膝の上に乗せた。

 

 

 スロワとキバナの温かい炎の向こうで、マリィが苦戦しているのが見えた。彼女は、焦らず、真面目に作業を続けているが、なかなか火種が大きくならない。

 

 キバナはイーブイを抱いたまま立ち上がると、人懐っこい笑みを浮かべてマリィの元へと歩み寄った。

 

「よお、新人ジムリーダー! 苦戦してんな! オレさまが、特別にコツを教えてやるよ!」

 

 彼は、マリィの隣にしゃがみ込むと、彼女の火口を指差す。

 

「惜しいな。火口は、もっとこう、ふわっとさせて空気の通り道を作ってやんだよ」

 

 キバナが、ぶっきらぼうなようでいて的確なアドバイス通りに手助けをすると、今度は見事に火種が生まれ、小さな焚火が完成した。

 

「……ありがと」

 

 はにかみながら礼を言うマリィに、キバナはニカっと笑って親指を立てる。

 

「おうよ! ま、オレさまにかかればこんなもんだ!」

 

 キバナとマリィの間に流れる和やかな空気を、ビートは忌々しげに睨みつけていた。

 その二人だけでなく、研修生であるスロワも、とうに自分の焚火を完成させて暖を取っている。この場で、まだ火を起こせていないのは自分だけ。その事実が、彼のプライドを焦げ付かせる。

 

 焦りが、彼の動きから冷静さを奪っていく。火起こし器を回す腕に力が入りすぎ、弦が軋む音を立てた。

 

 その、彼の苛立ちを嘲笑うかのように、平原に、ひときわ強い風が吹き抜けた。

 スロワ、キバナ、そしてマリィの拠点は、その風にびくともしない。

 しかし、ビートのシェルターだけが、キバナの予言通り、きしむような音を立てると、ガシャリと、無様に崩壊した。

 

 理論だけで組み上げられた、脆いプライドの残骸。

 ビートは、その光景を前に、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

 日が沈み、あたりが薄暗くなるにつれて、平原の気温は急激に下がっていった。

 

 マリィとキバナ、そしてスロワの拠点からは、それぞれが起こした焚火の温かい光が漏れ、パチパチと薪がはぜる音が聞こえてくる。

 

 しかし、ビートの前には、シェルターの残骸と、いまだ火の気のない焚火跡だけが、彼の失敗を証明するかのように広がっていた。

 

 その、途方に暮れる彼の元に、ノマルが静かに歩み寄る。彼女は崩壊したシェルターを一瞥すると、感情の読めない声で言った。

 

「残念でしたね」

 

 その平坦な声が、逆にビートのプライドを刺激した。彼は、八つ当たりするように、悪態をつく。

 

「だから何だと言うのですか! こんな原始的な技術、今の時代に必要ありません! いざとなれば、そらとぶタクシーを呼べばいいだけだ!」

 

 しかし、ノマルは表情を変えずに諭す。

 

「残念ながら、ロトムフォンは最初から紛失した想定です。もしそれを持っているのならば、あなたの言うとおり、すぐにタクシーを呼べばよろしい、しかし今のあなたは連絡手段を持たない」

 

 彼女は、寒さに震え始めたビートのイーブイに視線を落とした。

 

「このままでは、あなたも、その子も、夜を越せずに凍えてしまうでしょう。……これは、もう訓練ではありません。リタイアしますか?」

 

「リタイア」という言葉が、ビートの胸に突き刺さる。

 

 屈辱に、彼の顔が歪んだ。ここで諦めることは、自らのエリートとしての存在意義を、全て否定することに等しい。

 彼は、震える唇を強く噛みしめ、か細い、しかし、確かな拒絶の声を絞り出した。

 

「しません」

 

 ノマルは、そのか細い返事を聞くと、それ以上は何も言わず、静かにビートに背を向けた。

 

 一人、暗闇と寒さの中に取り残されたビートの足元で、パートナーのイーブイが、ぶるぶると小刻みに震えた。

 

 その頼りない姿に、ビートはハッとする。ノマルの言葉が、彼の脳裏に蘇る——『パートナーを寒さで震えさせることこそ、トレーナーの最大の失敗です』。

 

 彼は、ためらうことなく、自分が着ていたエリートらしいデザインの上質なジャケットを脱ぐと、それでイーブイの小さな体をそっと包み込んだ。

 

「……少し、我慢していてください」

 

 ジャケットにくるまったイーブイが、驚いたように、そして、少し嬉しそうに彼を見上げる。

 薄いシャツ一枚になったビートの体を、容赦なく冷たい風が叩く。彼は寒さに奥歯を鳴らしながらも、崩壊したシェルターの残骸に向き直り、再び、その不格好な骨組みを、一つ、また一つと組み直し始めた。

 

 そのやり取りを、自分の焚火にあたりながら静かに見ていたスロワが、無言で立ち上がった。

 彼はビートに近づくと、懐から取り出した木の皮を差し出す。その声には、同情も嘲笑もない。ただ、事実を告げるだけの声だった。

 

「……これ、使え。火ぃ、つきやすいはんで」

 

 ビートは、自分が内心見下していた研修生からの、純粋な善意に言葉を失う。

 彼は、しばしの葛藤の後、震える手でその木の皮を受け取り、絞り出す。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 夜の闇が、平原を完全に包み込む直前。ビートの足元で、不格好ながらも、温かい小さな火種が、ようやく産声を上げた。

 

 火が安定したのを見届けると、スロワは、今度はビートのシェルターの残骸を一瞥した。

 

「わぁは、バトルは苦手だ。頭も、あんにゃみでぐ、良ぐねぇ。んだども、こういうのは得意だ。人には、向き不向きがあっからな」

 

 ビートは、その朴訥な言葉に、何も言い返せなかった。スロワは続ける。

 

「……手伝う。こごさ、ちゃんとした屋根、作っぺ」

 

 ビートは、スロワの顔と、自分の足元で暖を取るイーブイを交互に見つめ、そして、小さく、ほとんど聞こえないほどの声で、「……お願いします」と呟いた。

 

 その後、二人は黙々と作業を続けた。スロワが、無駄のない動きで骨組みの急所を補強し、ビートが、彼の指示通りに葉を重ねて屋根を葺いていく。

 

 やがて、そこには、小さいながらも、二人のトレーナーとそのパートナーが、確かに夜を越せるだけの、頑丈なシェルターが完成していた。

 

 

 夜の闇が、ワイルドエリアを完全に支配していた。

 平原の中央に、四人がそれぞれ起こした、不揃いな焚火が集められている。パチパチと薪がはぜる音だけが響く中、四人の参加者たちは、疲労困憊の体を引きずりながらも、どこか達成感のある表情で、その温かい光を囲んでいた。

 

 沈黙を破ったのは、マリィだった。彼女は、静かに炎を見つめるキバナに、からかうように尋ねる。

 

「キバナさんは、デジタルはデトックスできたと?」

 

 その問いに、キバナは「んー……まあ、それなりに、な」と、曖昧に答え、格好をつけた。

 しかし、その直後。彼は、同じく火を囲むビート、マリィ、スロワという、二度と揃うことのないであろう珍しい面子をぐるりと見渡し、心の底からの本音を漏らした。

 

「あーあ……この面子で集合写真でも撮れたら、絶対バズるんだけどなあ……」

 

 その言葉に、それまで黙っていたビートが、心底呆れたように、冷たく言い放つ。

 

「……何にも成長していない」

 

 その完璧なツッコミに、マリィが思わず吹き出し、スロワも静かに肩を揺らした。キバナが「んだとゴラァ!」と軽口で応酬しようとした、その時だった。

 

「——今夜は、月がきれいですね」

 

 いつの間にか、彼らの背後に、ノマルとミスミが立っていた。

 ノマルの、あまりにも場違いで詩的な言葉に、四人がきょとんとする。

 しかし、それは合図だった。

 

 彼女の言葉が終わるや否や、隣に控えていたミスミが、手にしていたバケツと柄杓で、驚くべき速さと正確さで、四つの焚火に次々と水をかけていく。

 ジュッ! という音と共に、彼らが苦労して起こした温かい光は、一瞬にして暗闇に飲み込まれた。

 

「なっ……!? 何をするんですか! 僕が、あれほど苦労して起こした火を!」

 

 ビートが、裏返った声で抗議の声を上げる。マリィも「ひゃっ!?」と、小さく悲鳴を上げて、突然の暗闇と寒さに肩をすくめた。

 

 しかし、キバナだけは、どこか懐かしむような、そして全てを諦めたような声で呟いた。

 

「あー……そうだった。こういう研修だったわ、これ……」

 

 スロワは、動じない。ただ静かに立ち上がり、月明かりに目を慣らしながら、次の指示を待っている。

 

 そんな四人の反応を意にも介さず、ノマルは、月明かりに照らされながら、最後の講習を発表した。

 

「最終講習は、二人一組での夜間採集訓練——ナイト・オリエンテーリングです」

 

 彼女は、淡々とチーム分けを告げる。

 

「キバナくんとマリィさん。ビートくんとスロワくん」

 

 その組み合わせに、ビートはあからさまに顔をしかめた。マリィは少し驚いたようにキバナを見やる。その視線に気づいたキバナは、片手を軽く上げて「よろしくぅ」と、陽気に笑いかけた。

 

 ノマルが頷くと、控えていたミスミが、各チームに一枚の地図と、心許ないほどに小さなライトを二つずつ手渡した。

 

「この地図と、ガラルの星座だけを頼りに、目的地まで移動しなさい。目的地には、貴重な『オボンのみ』と『ラムのみ』が自生している谷間があるはずです。それを、チームでそれぞれ一つずつ、採取してくること」

 

 そして、彼女は最後に付け加えた。

 

「ルートの選択は、あなた達の自由です。ですが」

 

 ノマルは、一度言葉を切り、暗闇の中にいる四人の顔をゆっくりと見渡した。

 

「この研修で学んだことを、忘れないように」

 

 

 キバナとマリィのチームは、順調だった。

 キバナが、経験と持ち前の明るさでチームをリードし、マリィが、彼の少し大雑把なところを、堅実さでサポートする。二人は、ノマルの教えを忠実に守り、危険な獣道を避け、決して草むらには入らない。月明かりと、手渡された小さなライトだけを頼りに、彼らは危なげなく目的地へと進んでいく。

 

 しばらく続いた沈黙を、マリィが破った。

 

「……なあ、キバナさん。この研修……やっぱり、ただのサバイバル訓練なんかな?」

 

 先頭を歩き、ガラルの星座を頼りに方角を確認していたキバナは、その問いに、ふっと笑った。

 

「サバイバル訓練? ま、違っちゃいねえが、本質じゃねえな」

 

 マリィが、その言葉の意味を掴みかねて首を傾げる。キバナは、真剣な眼差しで、前方の暗闇を見据えながら続けた。

 

「あの人はな、俺たちに知ってほしいんだよ。『何にもできねえトレーナー』ってやつをさ」

「何も……できん?」

「そ」

 

 キバナは、一度言葉を切ると、どこか遠い目をして呟いた。

 

「……あの人ほど、トレーナーのこと本気で考えてるやつはいねーよ。マジで」

 

 その言葉の真意を、マリィはまだ、完全には理解できなかった。

 

 

 キバナとマリィのチームが、和やかとは言えないまでも、どこか信頼感のある雰囲気で出発していくのを、ビートは忌々しげに見送った。

 残されたのは、カントーから来た、何を考えているのか分からない研修生。ビートは、一度だけ咳払いをすると、スロワから僅かに視線を逸らしながら言った。

 

「……先程は、どうも。ですが、このワイルドエリアの散策なら、あなたより僕の方が経験豊富です。ここは、僕の指示に従ってください」

 

 その、どこかぎこちないながらもリーダーシップを取ろうとする言葉に、スロワは表情一つ変えず、ただ「うす」とだけ短く答えた。

 手応えのないその返事に、ビートはわずかに眉をひそめる。

 

 ビートは、支給された小さなライトで地図を照らし、神経質そうに目を凝らした。一方、スロワはライトを使おうともせず、ただ月明かりだけを頼りに、まるで昼間の新聞でも読むかのように、こともなげに地図を眺めている。

 その、あまりにも対照的な姿に、ビートは更に苛立ちを募らせた。

 

 先に口を開いたのは、スロワだった。彼は、遠回りだが、開けていて見通しの良い尾根筋を指差す。

 

「あっちの尾根沿いが、安全だべ。風も通るし、見通しもええ」

 

 しかし、ビートはその提案を鼻で笑った。

 

「遠回りする気ですか? 時間の無駄です」

 

 彼が指差したのは、最短距離だが、木々が鬱蒼と茂り、獣道すらない暗闇の谷間だった。スロワは、その暗闇の奥から、何か危険な気配を感じ取っていたが、ビートは続ける。

 

「野生のポケモンなど向こうから道を空けるものです。この道が危険だとは思えませんね」

 

「ですから、僕の判断に従いなさい。あなたは、ただの研修生なのですから」

 

 ビートは、スロワの懸念を「素人の臆病風」と一蹴した。

 そのあまりに危険な判断に、スロワは思わず声を上げる。

 

「いや、そっぢは……」

 

 しかし、ビートはその言葉を最後まで聞くこともなく、強引に谷間のルートへと足を踏み入れてしまう。

 残されたスロワは、やれやれと首を振りながら、その後を追う。パートナーを見捨てるという選択肢は、彼にはなかった。

 

 

 ビートが選んだ谷のルートは、彼の想像以上に険しい道だった。

 湿った土がブーツにまとわりつき、張り出した木の根が何度も足を取る。頭上は木々の葉が月明かりを遮り、手元の小さなライトだけが、頼りない光で前方の闇をわずかに照らしていた。

 

「フン……不快な道ですが、最短ルートであることに変わりはありません」

 

 強がるように呟くビートの後ろを、スロワは音もなくついてくる。彼の静かさが、今は何よりもビートのプライドを刺激した。

 

 その時だった。

 耳ではなく、胸に響くような、重く低い唸り声が、前方の闇から反響した。足元の地面が、その音に共鳴するように、わずかに震えている。

 その振動と共に、闇の中から、巨大な影が姿を現した。岩と土でできた巨体、鋭い眼光。縄張り意識の非常に強い、野生のイワークだった。

 

「……まずいな。動ぐな」

 

 スロワが、息を殺して警告する。

 

「そん、な……」

 

 ビートは、その圧倒的な威圧感を前に、完全に足を止めてしまった。

 イワークの圧倒的な威圧感を前に、ビートのイーブイは情けない悲鳴を上げてその場にへたり込み、スロワのイーブイは、主人の足の影に完全に隠れてしまった。

 

「僕の……僕のブリムオンがいれば、こんな……!」

「あんにゃのポケモンは、今こごにはいねぇべ」

 

 スロワの鋭い声が、ビートの希望的観測を断ち切る。そして、静かに、しかし、責めるような響きを込めて付け加えた。

 

「……んだがら、言ったのに」

 

 イワークは、侵入者である二人を前に、敵意をむき出しにして威嚇の咆哮を上げた。その声は、狭い谷間に反響し、凄まじい圧となって二人を襲う。

 今のパートナーは、戦闘能力の低い、低レベルのイーブイのみ。  彼は、初めて本当の「詰み」の状況を理解した。

 

 イワークの咆哮が止み、一瞬の静寂が訪れる。それは、次なる破壊のための、短い予備動作だった。

 巨体が軋む音を立て、岩の尾が大地を打ち据える。イワークは、その巨体に似合わぬ速度で、二人に向かって突進を開始した。

 

 絶体絶命。ビートの思考は、恐怖で完全に停止していた。

 その、全てが終わるかと思われた瞬間だった。

 

 彼の足元でへたり込んでいたイーブイ達が、甲高く、全てを振り絞るような悲鳴を上げた。恐怖が、その小さな体に宿る本能のスイッチを入れる。

 

 特性『にげあし』。

 

 イーブイは、脱兎のごとく、驚くべき速さで背後の暗闇へと駆け出した。

 

「あっ、待て!」

 

 ビートが思わず叫んだ、その時だった。

 

「違う!」

 

 スロワの鋭い声が、ビートの動揺を断ち切る。

 

「あれを追うんだ! 『にげあし』だ!」

 

 イーブイは、獣道ですらない、岩の僅かな隙間を、まるで熟知しているかのようにすり抜けていく。

 背後には、巨大な岩の津波が迫っている。

 選択肢など、一つしかなかった。

 

 二人は、無我夢中でその小さな背中を追う。

 狭い岩の隙間に体をねじ込み、苔に滑り、鋭い岩肌で服を裂きながら、ただひたすらに走り続けた。

 背後で響いていたイワークの怒りの咆哮が、少しずつ遠のいていく。

 

 

 どれくらい走り続けたのだろうか。

 やがて、狭い岩の隙間を抜けた先で、二人は月明かりに照らされた、開けた場所へと転がり出た。背後からは、もうイワークの咆哮は聞こえない。

 

 ビートは、荒い息を繰り返しながら、地面に膝をつく。アドレナリンが切れ、全身を襲う疲労と、先程までの恐怖が、一気に彼を現実に引き戻した。

 助けてくれたイーブイは、少し離れた場所で、同じく息を切らしながら、心配そうにこちらを見ている。

 

 彼の「効率」を重視した判断は、間違いだった。

 彼の「エリート」としての知識は、何の役にも立たなかった。

 そして、自分が「役立たず」と罵ったパートナーの、その「臆病さ」に救われた。

 

 ノマルの教えの意味を、彼は、知識ではなく、命の危険という実感をもって、初めて理解した。

 ビートは、ゆっくりとイーブイに近づくと、その前に膝をつき、優しく、その頭を撫でた。

 

「僕の、間違いだった」

 

 言葉を、絞り出すように、静かに呟いた。

 

「ありがとう。本当に、助かりましたよ」

 

 その声は、まだ少し震えていたが、間違いなく、心の底からの感謝と、自らの未熟さを認める、痛切な響きを帯びていた。

 

 彼の隣で、スロワは、何も言わずに、ただ静かにその光景を見守っていた。

 やがて、彼は立ち上がると、鼻をくんと鳴らし、周囲の空気の匂いを確かめるように、夜空を見上げた。

 

「こっちだ」

 

 ビートが顔を上げると、スロワは確信に満ちた足取りで、森の奥へと歩き始めていた。ビートは、何も言わずに、彼と、イーブイの後を追う。

 しばらく進むと、小さな谷間の奥に、月明かりを浴びて、二種類の果実が静かに実っているのが見えた。

 

「あった。オボンど、ラムだ」

 

 スロワが指差した先には、まさしく、彼らが探していた『オボンのみ』と『ラムのみ』の木があった。

 ビートは、地図をライトで照らし、自分たちの現在地を確認する。スロワは、星と、風と、土地の気配だけで、正確に目的地へとたどり着いていたのだ。

 彼らはもう何も言わなかった。ただ、静かにその木に近づき、課題の達成を告げる木の実を、そっと摘み取った。

 

 

 キャンプ地では、先に課題を終えたキバナとマリィが、それぞれの焚火の前で休息を取っていた。

 キバナは、膝の上に乗せたイーブイの腹をくすぐりながら、上機嫌に笑っている。

 

「おうおう、お前、意外と根性あんな!」

 

 マリィもまた、自分のイーブイに木の実を分け与えながら、その日の緊張が解けたように、穏やかな表情をしていた。

 

 その、和やかな空気を破るように、暗闇の中から、二つの人影が転がり込むようにして現れた。

 ビートとスロワ。彼らは泥だらけで、息も絶え絶えだった。

 彼らが課題のオボンのみとラムのみを差し出すと、待っていたキバナとマリィは、そのボロボロの姿に驚きの表情を浮かべる。

 

「うおっ、マジか! お前ら、何があったんだよ!?」

「怪我は……しとらんね?」

 

 マリィが、心配そうに二人の様子を伺う。

 

 全員の視線が、ノマルに集まった。彼女は静かに「報告を」とだけ促す。

 スロワが、時折ビートに助けられながら、谷で巨大なイワークに遭遇したこと、そして、ビートのイーブイの『にげあし』によって九死に一生を得たことを、正直に報告した。

 

 ノマルは、その報告を最後まで黙って聞いている。

 全てを聞き終えると、彼女は、初めて穏やかな、労うような表情を見せた。

 

「ええ。……よく、頑張りましたね。ビートくん、スロワくん。そして、イーブイたちも」

 

 彼女は、困難を乗り越えた二人と、そのパートナーを、静かに、しかし心から称賛した。ビートとスロワは、その言葉に、安堵の表情を浮かべる。

 

 しかし、その直後だった。静かな羽音が夜の空気を揺らし、一体のヨルノズクが、音もなく、焚火の光の外縁に佇むノマルの肩にふわりと舞い降りた。

 ヨルノズクは、長時間の偵察を終えたかのように、一度だけノマルの頬にすり寄ると、満足げに目を閉じる。

 その光景に、ビートとスロワは息を呑んだ。キバナも、マリィも、全てを悟る。

 

「……まさか、あなた……ずっと、見ていたのですか」

 

 ビートが、信じられない、という表情で呟く。

 ノマルは、それに答えない。ただ、ヨルノズクの頭を優しく撫でながら、かすかに微笑むだけだった。

 

 彼女は、若者たちを危険な状況に置いた。しかし、決して見捨ててはいなかった。常に、その大きな翼の影から、彼らのことを見守っていたのだ。

 

 

 長く、過酷だった一日が終わり、研修キャンプ地には静かな夜が訪れていた。

 あれほど勢いよく燃えていた焚火も、今では穏やかな熾火となり、参加者たちの疲れた顔を優しく照らしている。パートナーのイーブイたちは、とっくに主人の足元で丸くなって、健やかな寝息を立てていた。

 あとは、このまま眠りにつくだけ。誰もがそう思っていた、その時だった。

 

 静寂を破ったのは、ポケモンの、苦しそうな、か細い鳴き声だった。

 

「なんだべ?」

 

 最初に異変に気づいたスロワが、寝袋から転がり出るように飛び出す。他の三人も、慌ててそれぞれの拠点から顔を出した。

 声の主は、スロワのイーブイだった。

 彼は、地面の上で小刻みに痙攣している。

 

「どうしたんだ!? しっかりしろ!」

 

 スロワの声に、キバナ、マリィ、そしてミスミが駆け寄る。ノマルも、少し離れた場所から、静かにその様子を見ていた。

 

「おい、どうした! 何かに噛まれたのか!?」

 

 キバナが、トレーナーとしての冷静さを保ちながら、まず外傷の確認を促す。

 

「わがんね! 何もねぇ!」

 

 スロワが必死にイーブイの体を確認するが、傷らしきものは見当たらない。

 

「毒のある木の実でも食べたのかも……」

 

 マリィの不安げな声を受け、ミスミが「どくけしです!」と、常備していた薬をイーブイに与える。

 

 しかし、症状は一向に改善しない。それどころか、イーブイの体毛から、淡く、しかし不気味な赤いエネルギーがオーラのように漏れ出し始めた。

 

 その、明らかに異常な光景に、彼らの間に焦りが広がる。

 キバナは、その不気味なオーラを、眉間にしわを寄せて見つめた。

 

「……なんだ、これ……」彼は、必死に記憶の引き出しを探る。

 

「この症状……どこかで……見たことがあるような……」

 

 だが、その正体までは、どうしても思い出すことができない。もどかしさに、彼は舌打ちをした。

 

 しかし、ノマルだけは、一切の動揺を見せなかった。

 彼女は、パニックに陥りかけている若者たちと、苦しむイーブイを、ただじっと見つめていた。

 

 なすすべなく時間が過ぎていく。スロワのイーブイの呼吸は、ますます浅くなっていくようだった。

 その状況に、最初に動いたのはキバナだった。彼は、静観を続けるノマルに、冷静に、しかし、有無を言わせぬ強い口調で交渉を始めた。

 

「ノマルさん。要請があります。これは、明らかに異常な状態異常です。最も迅速かつ正確に症状を特定するには、リーグのグローバルデータベースとの照合が不可欠。俺のロトムフォンを返却してください。これは、研修のルールよりも、ポケモンの安全を優先すべき案件です」

 

 それは、現代のトップトレーナーとして、最も合理的で、最速の解決策のはずだった。

 しかし、ノマルは、その要求を、静かに首を横に振って拒否する。

 

「いえ、許可できません」

「なっ……!?」

 

 ノマルの視線は、苦しむイーブイと、その症状に眉をひそめるキバナたち、そして、輪から少し外れた場所で、一点を凝視し、必死に何かを思い出そうとしているビートの姿を、順番に捉えていた。

 

 彼女は、すでにこの症状の正体にあたりをつけている。

 そして、このエリートたちの中に、必ず正解にたどり着ける者がいるはずだと、信じていた。

 

 彼女は、試すように、もう一度、若者たちに問いかけた。

 

「あなた達は、ガラルが誇るジムリーダーです。テクノロジーに頼らずとも、自らの知識と観察眼で、この状況を打開できるはず。私は、そう信じています」

 

 その、あまりにも悠長な言葉に、キバナが「ですが!」と反論しようとした、その時だった。

 一触即発の空気を遮るように、不意に、静かな声が響いた。

 

「……静かに。集中できません」

 

 声の主は、ビートだった。

 彼は、誰よりも冷静に、そして、誰よりも真剣な眼差しで、苦しむイーブイの症状を観察していた。

 

 

 全員の視線が、ビートに集まった。

 彼は、周囲の喧騒など耳に入っていないかのように、ただ一点、苦しむイーブイの症状に集中している。やがて、彼は確信を得たように顔を上げると、鋭い声でスロワに問うた。

 

「このイーブイが、課題の途中で何か口にしなかったか、詳しく教えてください。木の実、木の皮、きのこ、全てです」

 

 そのただならぬ気迫に、スロワは言われた通り、訓練の道中でイーブイが口にしたものを報告する。

 

「んだな……木の皮さ少しかじって、あとは……渦巻き模様のあるキノコだ。イーブイが食う前に、わぁが毒見してる」

 

 その言葉に、ビートはハッとした顔になった。

 

「渦巻き模様」。

 

 彼は、脳内のデータベースを、驚異的な速さで検索し始める。

 

「渦巻き模様……ヨロイ島……特殊なエネルギー……」

 

 ぶつぶつと呟きながら、彼は記憶の糸をたぐりよせる。

 

「思い出しました……! 『ダイキノコ』。主にヨロイ島に生息する希少種……なぜ、こんな場所に……。症状も一致します。これは、毒じゃない!」

 

 ビートは、顔を上げる。その瞳には、もはや焦りの色はない。エリートとしての、絶対的な自信と知識の輝きが宿っていた。

 

「エネルギーの過剰摂取です! 普通の解毒剤は効きません! エネルギーを中和する効果のある『ネコブのみ』をすり潰し、『ひかりごけ』の胞子と混ぜ合わせる必要があります!」

 

 その、誰も知らない治療法に、一同は息を呑む。

 ビートは、今度はスロワに向き直り、初めて、心の底からの信頼を込めて、叫んだ。

 

「スロワさん! あなたなら、この近くでネコブのみとひかりごけを見つけられるはずだ! 僕の知識と、あなたの経験があれば、この子は助かる! 今すぐ探してきてください! あなたならできるはずです!」

 

 その言葉に、スロワは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに力強く頷き、夜の闇へと駆け出そうとする。

 その背中に、ビートはさらに声をかけた。

 

「待ちなさい!」

 

 彼は、自分のパートナーであるイーブイに向き直る。

 

「君も行きなさい! スロワさんのサポートをするんだ!」

 

 主人の真剣な眼差しを理解したのだろう。ビートのイーブイは、力強く一声鳴くと、スロワの後を追って、闇の中へと消えていった。

 

 

 ビートの知識と、スロワの経験。そして、キバナとマリィの的確なサポート。四人の協力によって、イーブイは、無事に回復した。

 スロワは、元気になったイーブイを抱きしめながら、ビートに向き直り、深く、深く頭を下げた。

 

「あんにゃ……すげぇな。わぁには、わがんねがった。助かった」

 

 その素直な感謝と尊敬の念に、ビートは少し照れくさそうに、そっぽを向く。

 

「フン、当然です。僕はエリートですからね」

 

 しかし、その声には、以前のような傲慢な響きは、もうなかった。

 

 

 夜が明け、研修の最終日の朝が訪れた。

 どこか一体感の生まれた四人を前に、ノマルは、静かに一度だけ頷いた。

 

「皆さん、お疲れ様でした。これをもって、合同研修会を終了とします」

 

 その言葉を合図に、ミスミが、預かっていたアタッシュケースを彼らの前に開く。中には、彼らが三日間手放していた、それぞれのパートナーのモンスターボールと、ロトムフォンが収められていた。

 

 キバナは、まるで餓えたように自らのロトムフォンを掴み取ると、天に掲げて復活の雄叫びを上げた。

 マリィは、そっとモルペコのボールを手に取り、愛おしそうに胸に抱きしめる。

 そしてビートは、自らのエースであるブリムオンのボールと、三日間を共にしたイーブイのボールを、しばらく無言で見比べていた。

 

 彼らは、それぞれの「日常」を取り戻した。

 しかし、その瞳に宿る光は、三日前とは、確かに違って見えた。

 

 

 研修の全日程が終了し、解散の時を迎えた。

 ビートとマリィが、どこか晴れやかな、それでいて複雑な表情でノマルに深々と頭を下げる。「ありがとうございました」。その表情には、来る前にはなかった、素直な尊敬の念が浮かんでいる。

 

 彼らがそれぞれのそらとぶタクシーに乗り込んでいくのを横目に、キバナは、返却されたロトムフォンを天に掲げ、満面の笑みでSNSへの復活を遂げようとしていた。

 

「よっしゃー! 帰るぜ! オレさまのファンが待ってるからな!」

 

 彼がタクシーに乗り込もうとした、その時。ノマルが、静かに声をかける。

 

「キバナくん、あなたは居残りです」

 

 その言葉に、キバナは思わず叫んだ。

 

「はぁ!? 居残り!? なんでオレさまだけ!」

 

 彼の喜びは、一瞬にして絶望に変わる。

 だがノマルは、わずかに微笑んでそれに返した。

 

「あなたのSNSデトックス期間は、今日の午後三時まで。まだ三時間ほど残っていますので」

 

 ノマルは、手元のスケジュールを確認しながら、事務的に告げる。

 

「追加のフィールドワークで、きっちり補習します」

 

 そのあまりにも無慈悲な宣告に、キバナは崩れ落ちた。

 

 

 場面は変わり、昨夜スロワのイーブイが倒れた場所の付近へ。

 先程までのやる気のなさが嘘のように、キバナの表情は、ナックルジムリーダーとしての真剣なものに変わっていた。彼は、プロのトレーナーとして、この異常事態の調査に臨んでいる。

 

「原因となったキノコを探します。皆さん、注意深く周囲を観察してください」

 

 ノマルの指示を受け、四人は散開する。キバナとミスミが、ライトを片手に湿った茂みや木の根元を系統的に調べていく中、スロワは、何かに導かれるように、少し離れた倒木の影へと進んでいった。

 

「リーダー……こっちだ。これ、昨日の、あのキノコだべ」

 

 彼の声に、全員がその場所に集まる。

 そこには、倒木の湿った根本に、渦巻き模様の傘を持つ、淡く光るキノコが数本、不気味に自生していた。

 

 ノマルは、スロワが示したキノコを注意深く観察すると、静かに頷いた。

 

「ええ。……確かにこれはダイキノコですね。ですが、本来はヨロイ島にしか自生しないはず……」

 

 彼女は説明する。

 

「公式のバトルで使われるダイキノコは、全て登録され、リーグを介して厳重に管理・流通しているはずです。ですが、ここのキノコは、明らかにそのルートを通っていない」

 

 ノマルは、キノコを慎重にサンプルケースに収めると、仮説を語った。

 

「おそらく、どこかの熱心な『バトル愛好家』が、非公式に持ち込んだのでしょう。自分だけの『キョダイマックスの修行場』を作るためにね」

 

 その皮肉に満ちた言葉に、キバナは深く頷く。

 

「ありえるな。手段を選ばねえヤツは、どこにでもいる」

 

 ノマルは、キバナに向き直ると、まず自らの計画を告げた。

 

「この件、わたくしの方で『ガラル遺族協会』を通じて、このエリア一帯の調査と、自生しているキノコの駆除活動を行います」

 

 そして、一人の「同僚」として、深々と頭を下げてお願いする。

 

「キバナさん。あなたには、リーグ側への報告と、ナックルユニバーシティへの協力要請をお願いしたいのです」

 

 キバナは、その真摯な態度と、事の重大さを理解した。彼は、真剣な眼差しでノマルを見据え、はっきりと答える。

 

「分かった。あんたの言う『バトル愛好家』の行き着く先がこれじゃ、笑えねえからな。これは、個人の問題じゃない。リーグ全体で取り組むべき課題だ。委員長には、オレさまから直接話を通す」

 

 こうして、立場も、思想も、そして世代も違う二人の間に、ガラルを蝕む新たな脅威へ共に立ち向かうための、確かな協力関係が芽生えるのだった。

 

 

『皆さん、こんにちは。ラーノノジムのノマルです。

今日は、皆さんに知っていただきたいことと、ご協力をお願いしたいことがあります。

 

先日、ワイルドエリアで、写真1枚目の『ダイキノコ』という、珍しいキノコが見つかりました。このキノコは、本来ヨロイ島にしか生えない外来種で、まだよく分かっていないポケモンが食べてしまうと、大変なことになる可能性があります。

 

そこで、皆さんにお願いです! もしワイルドエリアでこのキノコを見つけたら、絶対にポケモンが食べないようにして、写真2枚目の、腕に黒いリボンをつけた『ガラル遺族協会』の職員さんに渡してください! 大きなリュックサックが目印です!

 

ガラルの豊かな自然と、トレーナーたちの未来を守るため、皆さんのご協力を、よろしくお願いします。みんなで安全なワイルドエリアにしましょう!

 

#ダイキノコ

#ワイルドエリアの安全のために

#ガラル遺族協会

#黒いリボンが目印です

#ご協力よろしくお願いします』




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