リヴァースりばーす 作:LUMINA
俺は何も出来なかった。運動も勉強も、ゲームも趣味も全てが全て中途半端。
容姿も最底辺。
唯一の取り柄は、ネット掲示板で鍛えたメンタルの強さだけ。
人様に到底誇れるようなものではなかった。
底辺中の底辺の高校生。
それが客観的な俺の評価であり、主観的な評価でもあった。
◇
けたたましい轟音と共に、俺の身体が跳ね飛ばされる。
凄まじい痛み。急速に暗くなる視界。
脳裏を駆け巡る走馬灯と思わしき映像に、俺は死ぬのだと察した。
別に怖くはなかった。
むしろ安心を覚えた。ようやく死ねるのだと。
意味のない人生に終止符が打てると。
過去に自殺も何度か考えたことがあるが、結局怖くて死にきれなかった俺にとって。
唐突にやってきた死は、ある意味救いだった。
そんな俺の死際に誰かが言った。
来世はどんな風に生きたい? と。
全ての感覚が極限までスローモーションと化している状態で、そんな声が聞こえるはずが無い。おそらくは幻聴だと、考えながらも俺は答えた。
今とは正反対の人生を歩みたい。と。
◇
暗い暗い闇の中だった。
何もできない。喋れない。出来ることは情けなく心の中で喚くことだけ。
これが死後の世界なのかと驚愕した。
俺はここにいつまで居なければならないのか。疑問に思った。
明日? 明後日? それとも永遠に…?
肉体など無いはずなのにゾッと寒気がした。
…どうやら俺は生まれ変わったらしい。その事実に気づいたのは、目を開けれるようになってから二日目のことだった。
◇
時が過ぎるのは早いもので、転生を自覚してから七年の歳月が流れた。
今世の俺の名前は
父親は大企業の社長で母親は世界を股にかける歌姫。
一度見るだけで物事の本質を捉えられる観察眼と、動きの模倣をも可能にする高い運動能力。四桁同士の掛け算をも一瞬で終える演算能力。
デンマーク人の母親の血を強く引き継いだ、プラチナブロンドの髪と空を連想させる綺麗な青眼。整った容姿が加わった俺はまさしく勝ち組だった。
まさに最期に祈った通りで、前世とは正反対の人生を歩める。
とは言え、性別まで前世と正反対だと気づいた時は流石に焦ったが。
まぁ……美少女だから許容範囲だ。これでブスだったら。来世にチャレンジしてたかもしれない。一度あることは二度あるって言うし。
社長と世界的著名人。
故に、両親は多忙で俺が五歳に上がった頃から、家にいることが極端に少なくなった。
一通り育って安心したのだろう。
が、それは俺にとってグッドポイントだった。
ぶっちゃけのところ転生して七年も経っているが、両親との距離感が未だに掴めなかった。俺自身、両親を本当の両親だと思えていない節があるのかも知れない。
差し詰め前世持ちのデメリットといったところか。
両親の代わりに家政婦が幾人かいるが、彼らは積極的に俺に干渉してこない。
時折話しかけようとする様子は見受けられることから彼らも俺との距離感を掴みかねているらしい。
人間関係というのは中々複雑だ。一方が寄り添おうとしても、もう一方が寄り添う気がなければいつまで経っても構築されないのだから。
俺が両親との距離感を掴むのが先か、それとも家政婦達が俺との距離を掴むのが先か。
なんて考えて、苦笑した。
いい加減、気まずい雰囲気の中で仕事をさせるのも可哀想だし。そろそろ俺から歩みよるべきか。
「あ…あの」
「どうなさいました、お嬢様?」
「大事な用では無いんですけど……その少し…お話に付き合ってもらえませんか?」
「ーー!? えぇ、もちろんです」
この日から俺と家政婦との距離は少し縮まった、ような気がした。
尚、両親とはまだちょっと無理だった。
◇
「ごめん、エネ」
「ごめんなさい、エネ」
三月の後半。俺は今世の両親から頭を下げられていた。
二人は口を揃えて、続けた。
「入学式に行けそうにない」
いよいよ来週に迫った小学校の入学式の件だった。
話を聞くところによると、初めは二人して参加する気だったものの。
急な仕事関係の話で来れなくなったらしい。
「ううん、大丈夫。問題ないよ」
別に俺としては問題ない。
流石に小学校の入学式くらい一人でもこなせる。
そう意味を込めてハッキリと告げたのだが……。
「ありがとう…エネ」
二人の目には俺が強がって言っているように見えたのかもしれない。
その日はなんだか凄い甘やかされた。
◇
せっかく優れた能力を持った美少女に生まれたんだ。
どうせなら、完璧な美少女を演じてみようと思った。
「はじめまして。私は天海エネ。仲良くしてくれると嬉しいな。よろしくね」
四月一日。記念すべき小学校の入学式。
友達を作る場として設けられた自己紹介の時間。
そこでの主役は俺だった。
自己紹介は苗字の頭文字が若い人からの番号順。
他に『あ』行の人がおらず、トップバッターということもあり、注目が集まりやすい中。
俺は物怖じともせずハキハキとした声で挨拶をして、ニッコリと微笑んだ。
時間があれば鏡の前で練習していただけあって、掴みは完璧だった。
優雅に一通りの流れを終えた俺は、頭を下げながらチラリと辺りを見回した。
顔を赤くして見ている男の子、女の子の姿が何人か見受けられた。
ーーごめんね。この様子だと初恋を奪ってしまったかもしれないね。
なんて内心ほくそ笑みながら、俺は席に座った。
誰かが言った。
お姫様みたいと。
ーー当たり前だろ?
俺は静かに返した、心の中で。
◇
「ねぇエネちゃん! 今日の休み時間遊ぼ!」
「あ、ずるい! 私も遊びたい!」
「俺も遊ぶ!」
「え、ええ、皆で遊びましょうか」
入学して一月。
俺はすっかりクラスの人気者だった。
休み時間の度に男女問わず俺の席に押し寄せてはこうして遊びに誘われる。
ーー小学生って勢いすごいな。
なんて考えつつ誘われるまま校庭に向かう。
どうやら今日はサッカーをするらしい。
「エネちゃんのチームは絶対勝てるから!」
とは、俺の後をよく付いて来る女の子の台詞で。
俺に与えられたチート能力は今日も今日とて発揮していた。
サッカーをするのは前世含めて四回目だ。
素人と言っても過言ではない。
にも関わらず、ボールを足のどこに当てたらいいのかが直感で分かり、その通りの箇所に寸分違わず当たるのだから、本当真面目にやっている人には申し訳ないと思う。
「よっ…と」
味方から貰ったパスをダイレクトでシュートする。ボールは狙った通りバーの角スレスレを行きネットを揺らした。
「すごい! 流石エネちゃん!」
「神コースだ!」
「ありがとう。いいパスだったよ」
「あんなの止めれるわけねー」
「仕方ないよ。ドンマーイ」
「あはは、ごめんね」
見方とハイタッチ。敵には一言謝りを入れてからプレーを再開する。
結局この日もハットトリックを決め、俺のチームは勝利した。
「やっばりすごいね、エネちゃんは」
「たまたまだよ」
当たり前でしょ。なんて思いつつ、教室へ戻ろうとした時だった。
「ぐぇ…」
小さな悲鳴が俺の耳に届いた。
「心晴ちゃん!? 大丈夫!?」
取り巻きの一人が呟いた声に反応して、振り向いた俺の目に映ったのは髪を二つに結んだ女の子の姿だった。
先程まで鉄棒をしていたのか。彼女は鉄棒のすぐ下で大の字に倒れていた。
ーーあの子は…。
「だ、大丈夫…だよ…」
そう返事を返しているものの、その身体はピクリとも動かない。
「…え、エネちゃん!?」
「ど、どうしよう?」
突如起こった光景にパニックになってしまったのか。動揺を隠しきれない取り巻きに俺は、先生を呼んできてとだけ呟いて。
はぁ、と溜息。
倒れた女の子の元へと向かった。
結論から言うと倒れた女の子は無事だった。
話を聞くと逆上がりをしようとして、そのまま落ちたらしい。
その衝撃で動けなくなっていたのだとか。
まぁ、何がともあれ無事で何よりだ。
「あ、天海さん。ありがとう」
「お礼を言われるようなことはしてないから気にしないで」
真っ直ぐな瞳で見つめて来る少女に、俺は目を逸らしながら答えた。
◇
「ぐえ…」
「うぐぅ…」
「あぅ…」
「……」
初めて見たときから鈍臭い娘だと思っていた。
容姿こそは整っているものの、勉強や運動においては点で駄目。
一人では何にも出来ない愚図な娘だと。
彼女を見ていると、まるで過去の自分を見ているような錯覚に陥った。
故に、俺は以来その娘を視界に入らないようにしていた。
していたのに。
「一ノ瀬さん大丈夫?」
今日も今日とて鉄棒から落ちる少女に俺は声をかける。
彼女はあの鉄棒事件以降も毎日のように逆上がりに挑み続けては落下していた。
ーーまたやってるよ…。
毎回助けに行かされる俺の立場にもなってほしい、と常々思った。
それでも何とか笑顔を貼り付け、その手を取る。
「いつもごめんね……天海さん」
「気にしないで」
ーーホント鈍臭い。出来ないなら諦めればいいのに。
しかし彼女は厄介なことに諦めることを知らないようで。
結局、先生に注意されて学校で鉄棒禁止になるまで毎日のように助けに行く羽目ににった。
◇
「ここの問題…エネちゃん分かるかな?」
「はい、17です」
「流石ね、正解よ」
ーー。
「天海さん、見本をやってくれないか?」
「分かりました」
「ありがとう、皆。天海の動きをよく見て参考にするように」
ーー。
二度目の学校生活はまさに順風満帆なものだった。何もかもが上手く行く。たった一度の失敗もしない。全てが思い通りに進む。
「すごい! エネちゃんまたテスト百点なの!?」
「今回のテスト難しかったのによく出来たね!」
「流石エネちゃん!」
ーー当たり前だろ。
「すごい、エネちゃん! またかけっこ一位なんだ!」
「男子より速いって、凄すぎるよ!」
「くそ、また負けたかー」
ーー当たり前だろ。
「エネちゃん! 本当に可愛い!」
「本当にお姫様じゃないの?」
「いいなー…」
ーー当たり前だろ。
ーーなんだこの茶番は…。
「なんかエネちゃんってウザいよね」
「分かる、絶対内心私たちのこと見下してそう」
「
「…わ、私も最近のエネちゃんはあんまり好きじゃないかな。話もあまり聞いてくれなくなったし」
ーー何やってんだろ俺。
◇
馬鹿馬鹿しい。そう思った。
どんなスポーツでも持ち前の観察眼と運動能力で、一度。たった一度行うだけで熟練者をも超えてしまう。
勉強もしかり。一度見れば覚えてしまう。
確かに、何回やっても何一つ習得出来ない前世とは正反対だが、まさかここまでとは思わなかった。
「はぁ…」
小さく溜息。
もう何をやってもやりがいを感じなくなってしまった。
何でも出来てしまう。どうせこれも出来るんでしょ、と手をつけることすらやらなくなった。
順調すぎる、しかし退屈な人生。
全て俺の力ではなく、チートが解決してくれる。
そんな人生に何の価値があるのだと悟った。
出来なかったときの方が楽しかったと考えてしまうのは人間の性なのだろう。
隣の芝生は青く見えるとはよく言ったものだと思う。
贅沢な悩みだとは分かっているものの、やはり苦労せず何かを得ることは楽しいものではなかった。
そもそも小学生の中に混じっている時点で苦痛だった。精神年齢で言うと大の大人が、小学生相手に俺TUEEE? それも自分の力ではなく、授かったチートみたいな能力で?
笑えてくる。
何もかも馬鹿馬鹿しい。
そんな考えが態度となって漏れ出していたのかもしれない。
演技なんてものは一つ崩れると全て崩れるもので。
自覚はなかったが、以前までの自分を演じきることができていなかったのだろう。
今世初めて失敗をした。
ずっと一緒にいた子からの陰口を聞いてしまった俺は、その日を境に学校へ行くのをやめた。
否、学校へ行けなくなった。
全て前世と正反対。
そのデメリットというべきか。
前世取り柄がメンタルの強さだけだった俺は、今世ではたった一度の失敗で学校に行けなくなるくらい弱くなっていた。
その日から人の目が極端に恐ろしく感じるようになった。
本当に情けない。
思い出すだけで泣き出しそうになる自分が、情けなくて仕方なかった。
「お嬢様? 学校はーー?」
「もういかない」
小学校三年の夏。
俺は不登校になった。
◇
元々俺には学校生活は向いていなかったんだと思う。
無理をしてキャラを作って、頼られるキャラを目指していたが。二年生に上がる頃にはそれすらも苦痛に感じていた。
期待されることが重くのし掛かり、応えることに精神がすり減っていく。
挙句、一度失敗しただけで学校に行けなくなる。
よくもまぁ、こんな雑魚メンタルで三年生の夏まで通えたものだ、と自傷気味に笑う。
不登校になって早二年が過ぎようとしていた。
◇
ミンミンミンとセミがけたたましく鳴り響く夏の早朝。
「今日は暑くなるのでこれを」
「ありがとう、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
俺は、いつものようにジャージ姿で玄関を飛び出した。
不登校になったことは当然親にも伝わっている。
滅多に帰ってこなかった親だが、その時ばかりは流石に帰ってきた。
その際に交わした約束が、不登校になってもいいから偶には外には出る習慣を付けること、だった。
両親はかなりの有名人だ。
故に外聞も気にしないといけないのに、こうして俺の不登校を認めてくれた。本当に頭が上がらない。それどころか不登校になって以来家に帰ってくる頻度も多くなった。
忙しいだろうに、俺が娘でごめんなさいと心底思った。
だからこそ、俺はせめてもの償いとして両親との約束を果たす為に。偶にとは言わず、毎朝必ずランニングをするようにしていた。
「……はぁ」
走りながら俺はジャージのチャックを少し下げた。
かれこれ10分は走り続けているもののチート能力の影響か、疲労はまるでない。
しかし、汗で中のシャツが張り付く。下着が蒸れる。鬱陶しい。
ーーこれだから夏は嫌いなんだ。いっそ汗もかかないようにしてくれたらよかったのに。
そのまま足を止めず、家政婦から渡されたスポーツドリンクを口に含む。
そうこうしているうちに、いつも走っているランニングコースの半分地点である公園に辿り着いた。
あとはUターンして帰るだけ。
帰ったら何して暇を潰そうか、なんて考えて。Uターンを決めようとした時。
「ぐぇ…」
公園の方から懐かしい悲鳴が聞こえた。
ハッとして目をやると、公園にある鉄棒の下で少女が大の字になって仰向けに倒れていた。
なんかデジャヴ。
ーーまさか…
考えて即座に否定する。
彼女に鉄棒禁止令が降ってから四年。
流石に別人だろう、と。
「大丈夫です……か?」
しかし。俺の考えとは裏腹に。
細かな容姿こそは変わっているものの、倒れていたのは間違いなく一ノ瀬心晴だった。
「…うう……あれ…もしかして天海さん?」
俺に気づいたのか。
倒れたまま何事もなかったかのように話しかけてくる一ノ瀬。
「あ、うん……そ、そうだけど…大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。いつものことだから」
「いつも?」
「うん、いつものこと。それよりーー」
そう言うと一ノ瀬は勢いよく起き上がった。
パンパンと服についた土を払い、俺の手をギュッと掴む。
「元気だった? ずっと学校に来てなかってから皆心配してたんだよ」
「え、えーと。ごめん…色々理由があってね」
ーーどうせ口先だけの心配でしょ。
なんて喉まで出かけた言葉を飲み込み、何とか別の言葉を答えると、一ノ瀬は「そうなんだ」と呟いた。
「ところで天海さん、髪型変えたんだね。口調も少し変わってるしイメチェンしたの?」
「え…あ。ま、まぁ…」
指摘されて、小さく頷く。
口調はさておき。
髪型は学校に通っていた当時はロングだったが、洗うのが非常にめんどくさいこともあり。
不登校になってからは肩までかかるくらいの長さにしていた。
「今の髪型の方が似合うよ」
「そ、そう。ありがとう」
目を合わせ真剣な顔でハッキリと告げてくる一ノ瀬に、なんだか気恥ずかしくなった俺は、慌てて話題を変えた。
「そ、そういえばさっきいつも鉄棒をやってるって言ってたけど…実際どのくらいやってるの?」
「いつもだよ?」
「え?」
「天海さんは、私が学校で鉄棒禁止になった日を覚えてる?」
「まぁ、なんとなくだけど…」
一ノ瀬はなんて事ないように言った。
「その日から毎日やってるんだよ」
「は?」
「って言っても朝と夕方だけだけどね。夜は流石にやってないよ?」
平然と言ってのける一ノ瀬に、俺は開いた口が塞がらなかった。
「…ねぇ。なんで……なんで出来ないのに諦めないの?」
四年前から少しも上達してないのに。どうして。
一ノ瀬はクスリと笑みを浮かべた。
「私昔から何やっても駄目なんだ」
知ってる。
「運動も勉強も全部うまくいかない」
知ってる。そんな姿が過去の自分に似ていて、見たくなかった。
「けどさ。そんな私に期待してくれる人がいたんだよ。その人はいつも私を助けてくれた。最後まで付き合ってくれた」
彼女が誰のことを言っているのかすぐわかった。
ーーあぁ。違う、違う。俺はただ自分の立場を守りたかっただけ。
そんなつもりじゃなかった。
やめてしまえとも考えていたんだよ。
「ここで諦めたら、貴女に申し訳ないもん。ありがとう天海さん! ずっと伝えたかったんだ」
「違う!」
花のように笑う少女を見て。
気づけば俺は叫んでいた。
「天海さん?」
「違う……俺は…期待してたんじゃない! むしろ諦めてほしかった…。自分の立場の為だけに一ノ瀬を利用していただけなんだ……」
決壊したように言葉が次々と漏れ出す。もう止まらなかった。
「俺は…一ノ瀬さんが思うようなじゃなーー」
不意に背中に腕を回され、引き寄せられる。
ギュッと巻かれた腕は、強く固く俺を抱きしめた。
「それでも、いつも助けてくれたのは貴女なんだよ。ありがとう天海さん」
「……ごめん…ごめんなさい……」
少女の腕の中、俺は泣き崩れた。
◇
「ごめんなさい。恥ずかしいところを見せちゃって…」
ーーいや…何やってんだ俺。マジで。
いくらメンタルがショボいとはいえ、小学生に抱かれて泣くとか……あり得ないんだけど。本当死にたい…。
改めて、一ノ瀬に謝罪する。
「本当にごめんなさい」
「もういいよ。全然気にしてないから」
健気に笑う一ノ瀬。
しかし、その言葉は嘘だと思った。
気にしていないわけがない。
俺の手前言い出せないだけで、かなりのショックを受けていることくらいは分かっていた。
故に、俺は決意した。
「明日も来るから。同じ時間に」
「え?」
「貴女が逆上がりが出来るようになるまで毎日来るから! 絶対に!」
彼女は俺の無責任な行動のせいで四年も無駄にしたのだ。
罪滅ぼし、と言うわけでもないが、このくらいはやらないとケジメがつかない。
出来るまで何年かかろうと、それこそ一生出来なくてもずっと付き添おう。
そう心に決めた。
「……いいの? 私一生出来ないかもしれないよ?」
「いいよ。もし一生出来なくても、一生見届ける」
「本当に…いいの?」
「うん…。だから…本当に私が言うのもなんだけど……諦めないで」
この日から俺と一ノ瀬の奇妙な関係が始まった。
◇
「一ノ瀬さん、おはよう」
「天海さん、おはよう」
「じゃあ早速だけどやりましょう」
それから俺たちは毎日朝早くに公園に集まっては練習をした。
平日は学校が始まるまでの間と、学校が終わってから六時まで。
来る日も来る日も集まった。
「じゃあ私が手本を見せるから、よく見ててね。よっ、と」
「凄い! 流石天海さん!」
「コツを掴めば誰でもいけるよ。じゃあ一ノ瀬さんもやってみて。…そう。手を離さず、肘を曲げて。お腹を鉄棒に引き寄せ……あぁ、一ノ瀬さん。大丈夫!?」
「だ、大丈夫。大丈夫」
紅葉が散り、秋の終わりが近づく日も。
「そう言えば、天海さんって自分のこと『俺』って言ってたよね。あっちが素なの?」
「出来ればそのことは忘れて貰えると嬉しい……って一ノ瀬さん!? だ、大丈夫!? 凄い落ち方したけど!?」
「うぇ……へ、へーきだよ…」
大雪が積もった翌日も。
「冷た!?
「ううん。やる! ……ぐぇ…! うぅ…手が冷たい…」
「心晴ー!? だから言ったじゃん! 鼻血出てる……ほら、ハンカチ使って」
「え、わ、悪いよ…」
「遠慮しないで。その為だけに持ってきてるんだから。ひとまず今日はもうおしまいだね。自販機行きましょ、コンポタ奢ってあげるわ」
「あ、ありがとうエネちゃん」
桜が咲いた日も。
「そう、その調子! あとは顎を引いて、目線はおへそに……あぁ、心晴!? 大丈夫? 怪我してない?」
「大丈夫。庇ってくれてありがとう、エネちゃん!」
「落ちるタイミングが分かってきたからね。安心して落ちていいよ」
「それはそれでなんか嫌だなぁ…」
◇
「そろそろ行ってくるね」
「お嬢様ここ最近楽しそうですね」
「え、そう?」
「えぇ、気付かれて無いかもしれませんがよく笑うようになりましたよ。旦那様と奥様も喜ばれてました」
「…そ、そうなんだ。じ、じゃあ行ってくるね」
◇
そして。遂にその日はやってきた。
「ーーえ?」
目の前でクルリと一回転を決めた心晴は、実感が湧かない様子で何度も自分と鉄棒を見ていた。
「…で、出来た?」
恐る恐る確認するようにこっちを見る心晴に、俺はゆっくりと深く頷いた。
「で、出来た! 出来たよエネちゃん!」
「うん、見てたよ。おめでとう、心晴」
抱きついてくる心晴を抱きしめ返す。
心晴に付き添い始めて八ヶ月。
遂に、彼女は逆上がりを習得した。
「おめでとう、心晴」
昔、俺は彼女のことを過去の自分と照らし合わせていた。
何もできない子だと。
けど、それは違った。
確かに彼女は、過去の自分と同じくらい運動ができなかった。
だが、彼女は諦めなかった。
そしてついに成し遂げたのだ。
出来る人からしたら鼻で笑ってしまうくらい小さな目標なのかもしれない。
だけど俺の目にはとてつもなく巨大な目標に見えていた。
「本当におめでとう、そしてありがとう」
故に俺は心から彼女を称賛し、尊敬した。
今世で尊敬したのは彼女が初めてだった。
◇
「じゃあそろそろ私は帰るね」
お祝いと称して買ったジュースを飲み、他愛のない雑談を終えた後、俺はそう切り出した。
すっかり夕暮れ時。辺りも暗くなってきており、門限もかなりギリギリだった。
「今までありがとう。結構楽しかったよ」
約一年。
長いようであっという間だった。
少なくても何の目的もなく引きこもっていた期間よりは遥かに充実していて、時間が過ぎ去るのが早かった。
本当に楽しかった。
もう最後かと考えると、目が潤むくらいにはこの時間が好きだった。
「え、エネちゃん!」
「どうしたの、心晴?」
感情に浸っていた俺は、不意に放たれた心晴の言葉で現実に戻された。
心晴は言いづらそうに、口を何度か開けたり閉めたりしていた。
「心晴?」
再度言葉を投げかけると、心晴は覚悟を決めたようにハッキリとした口調で告げた。
「エネちゃん。私と一緒に学校に行って欲しいの!」
虚をつかれた。
この一年、心晴とは多くの会話を交わした。
俺が不登校になった理由を話したこともある。
それ以来、心晴が学校に誘うことはすっかり無くなっていた。
なのに。
「え…それは……」
「分かってる。エネちゃんが行けない理由も知ってる。また失敗するのが怖いんだよね。人に落胆されるのが嫌なんだよね」
俺が口を挟む隙もなく、心晴は言葉を続けた。
「けど。それでも私はエネちゃんと一緒にいたいの。もう終わりだなんて嫌だよ」
「心晴…」
「エネちゃんが怖がるのは分かるよ。けど、お願い。私を信じてほしい。私は絶対にエネちゃんを見限ったりしないから」
「なんでそこまで…」
「そんなのエネちゃんのことが大好きだからに決まってるじゃん。だからずっと側にいたいの……駄目かな?」
確かに学校に行くのはまだ少し怖い。
しかし、ここまで情熱的に誘われて、ごめんなさいは言えないだろ…。
少なくとも俺には無理だった。
暫しの葛藤の末に、俺は大きく溜息を吐いて苦笑した。
「うん、心晴が信じてって言うなら信じるよ。とりあえず親にも一度話さないと行けないからすぐには行けないと思うけどいい?」
「え、本当にいいの…?」
「まぁ、いつまでも怖がってちゃいられないし。それに、心晴が側にいてくれるんでしょ? なら頑張れるわ」
断られることを覚悟していたのだろう。
未だキョトンとしている心晴に俺は笑いかけた。
以前は何もかもつまらなくなって学校へ行く意味を見失った。
良い人を演じようとして失敗した。
けど今回は少し違う。
他の誰かにどう思われようと、心晴が側にいてくれればそれでいい。
心晴の為だけに学校へ行くのだ。
そう考えると、少し行きたくない気持ちが減った気がした。
それから俺たちは少し先の未来のことを話し合った。
「え、あのデッカいお屋敷ってエネちゃんの家なんだ……。もしかしてエネちゃんって、お嬢様?」
「まぁ、一応。パパは社長だけど。聞いたことない? ーーって名前の会社」
「ええ!? その会社聞いたことあるよ!? 有名な所だよね!? 凄い凄い!」
少々白熱しすぎて帰る頃には門限を超えていたが、何故か家政婦に叱られることはなかった。
◇
「本当に、もう大丈夫なのか?」
「無理してない?」
「うん、大丈夫。今まで心配かけてごめんね」
帰宅後、家政婦に学校に行く趣旨について話したのが原因となったのだろう。
その日の夜。
だいぶ早く帰ってきた両親と向かい合って今後の話をした。
両親には全て告げた。
不登校になった理由も、心晴のことも。
「エネが良いなら、僕は何も言わないさ」
「私もエネが行きたいなら…応援する」
二人は俺の話を真剣に聞いた上で、何も言わずにただ頷いてくれた。
「ありがとうパパ、ママ」
「うん、もう今日は遅いから早く寝なさい」
「おやすみなさいエネ」
「うん、おやすみ」
◆
「しかしどうしましょう。聞いた話だとエネは、コハルに惚れているみたいですけど」
「うーん。相手が男の子だったら言うことも無かったんだけどなぁ……まぁ、それも多様性か」
◆
「ええ!? じゃあ来週から来れるんだ!」
「うん。一応学校にも話は通して貰ったから、来週の月曜からは普通に登校する予定だよ」
明くる日の早朝。
特に待ち合わせはしていなかったものの、いつものように自然と公園に集まった俺たちは、ベンチに座りながら雑談に花を咲かせていた。
「ーーうん、決めた。私、毎朝迎えに行くね!」
「え、何どうしたの? 突然…」
「私から誘っておいて、何もしないのはおかしな話でしょ? それに登校時間もエネちゃんと一緒にいたいから…ダメかな?」
「ダメじゃないけど……私寝起きあんまり良くないから待たせちゃうかも知らないよ」
「全然平気!」
「うーん……まぁいっか……じゃあお願いしても良い?」
「任せて!」
腰に手を当て起伏のない胸を張る心晴は、無邪気な笑顔でそう言った。
◇
「ーーお嬢様、お嬢様」
「ん…」
身体を揺すられ、ぼんやりと目を開ける。
目を擦り、改めて見れば見慣れた家政婦のオバさんが俺の顔を覗き込むようにして立っていた。
俺自身、特に寝起きが悪いわけでもなく。いつも目覚ましの音で起きることが出来る為、こうして家政婦が起こしに来るのは初めてのことだった。
ましてや最近は学校にも行っていないというのに。この人は何で起こしに来たのだろう。
「何…どうしたの?」
「お嬢様、お友達が来られてますよ」
家政婦はそう言うと、失礼しますと言葉を挟んでからカーテンを開けた。
差し込む日射しに目を細めつつ。
窓から玄関口を覗き込むと、そこには心晴がランドセルを背負って立っていた。
「あ…」
思い出した。そういえば、先週そんな約束をしたような。
「どうなさいますか?」
「とりあえずリビングに上がってもらって。すぐに準備する」
「かしこまりました」
すぐに部屋から出て行ったので、あまり見れなかったが。家政婦の表情はなんだか穏やかだった。
「あ、おはようエネちゃん!」
「おはよう。ごめん待たせたよね」
「ううん。大丈夫だよ。ほら、これ貰っちゃったし」
ネグリジェからパーカーへと着替え、リビングに着くと心晴がソファーの上に座っていた。
気遣った家政婦が持ってきたのだろう。その手には苺ミルクの紙パックが握られていた。
「そう。良かったね」
幸せそうに満面の笑みを浮かべる心晴に俺は自分の頬が緩むのを感じた。
心晴が嬉しいと俺も嬉しい。
うーん、これが父性か。
娘を持った父親の気分はこんな感じなのかと身をもって実感した。
同時に今度父親に思いっきり甘えてみようかなとか考えたりした。
久々の登校だった。
「え…あの子って……」
「不登校だった…」
やはりこの容姿は人目を惹きつけるのか。すれ違う学生皆が振り返り、俺に視線を浴びせる。
コソコソと小声で何かを話す人もチラホラ見受けられた。
「すごい見られてるね、エネちゃん」
必然的に隣にいる心晴にも多くの視線が集まっているせいか、どこか居心地が悪そうにしていた。
「気にしないで…って言っても無理よね…」
俺は心晴に気づかれないよう隙を見つけて、周りを睨み付ける。
俺だけならいい。
だが、心晴に迷惑をかけるなら話は別だ。
動揺した声が周囲から聞こえて来るが無視。
以前までの俺は周囲の目にすら怯えていたが、心晴が隣にいるだけで恐怖心はすっかり無くなっていた。
むしろ、心晴の害になるというならば反撃出来るまであった。
ーートラウマさえ退ける。これが親心ってやつなのかな…。だとしたらやっぱり親は偉大だ。
何がともあれ。心晴の為ならメンタルの弱さも補えることが分かった。
「エネちゃん? どうしたの? なんかピリピリしてるよ?」
「ううん、何でもない。ほら行こ、心晴。職員室ってどこだったっけ?」
「えと…こっちだよ! ついてきて!」
「うん」
自信満々に前を歩く心晴に、ふと俺は訊ねた。
「ねぇ、心晴。私といて楽しい?」
「うん、楽しいよ。エネちゃんは?」
そう言って振り返った心晴の表情は見慣れた笑顔で。
「私も楽しいよ」
俺は微笑みを返しながら改めて決意した。
この笑顔を守ろうと。
その為なら俺は何だってしよう。
「どんなことをしても守ってあげるからね、心晴」
「? 何か言った、エネちゃん?」
「気にしないで。独り言だから」
薄らと窓ガラスに反射した俺の瞳は、深い海中のような色をしていた。