彼女はわたしとまるで違いました。
誰の意図もないまま作られたはずの顔立ちは、人の手で作られたわたしより綺麗で。
何があっても崩れない優雅な物腰は、慌てたり声を荒げることも多いわたしよりずっと落ち着いていて。
その在り方はまるで、完全で完璧な機械のようだとさえ思いました。「普通」ではない機械人形のわたしとは大違いです。
機械のような人間の彼女。人間のような機械のわたし。
同じようでいて決定的な違いを持つわたしたちは、でも。
手に入れた心の扱いに戸惑い、感情との付き合い方に四苦八苦する、よく似た女の子どうしでした。
◇
「ああ、もう!ちょっと前までは晴れてたのに!」
なんだか少し雲行きが怪しいと思ったときには手遅れだった。
雨具を取り出すより先に、空模様はがらりと変わり、心地よい午後の日差しとその光を反射してきらきら光る石畳の街道は、真っ黒な雨雲から伸びた分厚い雨のカーテンの向こうにあっという間もなく追いやられてしまった。
自分の声すら満足に聞こえない土砂降りの中、大粒の雨に体を叩かれながら必死でバイクを走らせていると、やがて雨で煙る道の向こうにぼんやりとした光が見えてきた。
それを目印に道行きを急ぐと、やがてぽつぽつと並んだ建物が見えてくる。どうやら町についたようだ。どこか雨宿りのできる場所はないかと走りながら周囲に注意を向けていると一軒の建物が目に入った。そこそこ大きい平屋建て。明かりに照らし出された金属の看板には、図案化されたベッドとジョッキ、そして少しかすれた文字で宿屋と記されている。
助かったと息をつく暇も惜しんで建物の前に速度を加速させたバイクを滑り込ませてあわただしく鍵をかけるとわたしは宿の軒先に駆けこんだ。なおも降り続けている雨をにらみながら、思わぬ災難に見舞われたことに大きくため息をつく。
これが例えば非番の日や仕事帰りならまだいい。びしょ濡れになるのはいい気持ちはしないが、それだけだ。何せこの身は生身ではない。人を模して作られた人のように振舞う機械人形なのだから。
この大陸の北西、その端っこ。技術大国として知られるその国が、先の大戦争の際生み出したものがある。それは人形。人と同じ姿をして人のようにふるまう、精巧な機械人形。戦争で足りなくなった人手を補うため、人の代わりに人の仕事を行う考える機械。
アストロラーブ・メイルサーヴィス社所属、郵便配達用人型自律機械、商品名はメルクリウス。個体名MMF108-41。それが人間にはシルキーの名前で呼ばれているわたしの社での名称だ。
人間の手紙を運ぶためにはできる限り人間に近づけた機械が必要という考えの元開発されたわたし達メルクリウスは極めて人間臭い挙動や性質を持たされている。
状況に合わせて表情は変わるし、体の表面を覆う人工皮膚は柔らかくて、体の中には心臓の位置にあるポンプから贈られる循環液が血液のように流れているから触ってみればあったかい。食事の真似事までできる辺りわたし達を作った技術者の拘りようが見て取れる。体内で分解できるのは液体に限られるため、お茶の誘いぐらいしか受けられないけど。
もちろん、どんなにびしょ濡れになったところで機械が風邪をひくわけもない。せいぜい濡れて不快な気持ちになるだけだ。
でも、仕事中は――水濡れ厳禁の手紙が詰まったメイルバッグを抱えて移動中の身としては突然の大雨は本当にシャレにならない。アストロラーブ・メイルサーヴィス社謹製のメイルバッグは高い耐水性も売りの一つだが、それにだって限度というものがある。
しかも――
「しまったなぁ」
視界の中で、ぽとぽとと落ち続けている水滴の源……かぶったままだった麦わら帽子を脱いでみると、それなりの時間雨に打たれ続けたお気に入りの大事な帽子はまんべんなく水浸しでひどい状態だった。軽く振って水気を飛ばすが、大粒の雨をしこたま浴びた麦わら帽の中の水分をそんなものでどうにかしきれるわけもなく、その無惨な有様に、思わず泣きたくなる。
こういう事態を防ぐため、いつもは空模様が怪しいときに仕事に出る際には寮の自室に置いておくのだが、今回の雨は忌々しいことに完全な不意打ちだったのだ。
出立の前に確認していた気象予報は大外れ。先の戦争が終わって数年。わたしのような機械人形すら作りだせるようになったというのに、人類の天候観測の技術は未だ未発達のようだ。
「早々に宿が見つかったのが不幸中の幸いかな」
気づけば辺りがさっきより薄暗くなってきている。時計を確認してみると針はもうじき6時を回るところだった。その上にこの悪天候。目的地に着きはしたが配達は明日に回した方がよさそうだ。
色々と人間より頑丈であるこの身ではあるが、それでも疲れを感じないわけはないし休憩が不要なわけでもない。そうと決まれば明日に備えて休み、少しでも疲れを取るべきだろう。
それに帽子も干さないと。
手に持った帽子の惨状にため息を漏らしつつ、手っ取り早く体についた水滴を掃い飛ばし服を絞って水気を追い出すと、わたしは金属製のドアノブに手をかけた。押し開けられたドアに取り付けられていた鐘ががらがらと大きな音を立てる。
「おや。いらっしゃいませ」
暖かな空気と優しげな声に出迎えられながら見まわすと、人気のないそこそこの広さのロビーがまず目に入った。そしてその奥。帳場に腰かけていたのは穏やかな雰囲気の女性だった。年のころは初老と老人の間ぐらい。ほとんど白く染まった頭髪の中にわずかにくすんだ金色が混ざっている。手にしていた読みかけの本をたたんで脇に置くと、にこやかに声をかけてきた。
「あらあら、雨に降られたんですね。少し待ってくださいね、今タオルを持ってきますから」
「すみません。あ、それと泊めていただきたいんですけど部屋はありますか?」
「はいはい、空いていますよ。字は書けますか?でしたら宿帳に記入を済ませておいてくださいな」
そう言うとおばあさんは取り出した宿帳をわたしの前に置くと安楽椅子から立ち上がり、ゆっくりした足取りで奥へと入っていった。
カウンター脇に置かれたペンを手に取り宿帳に名前を書き終えるがおばあさんはまだ戻ってこない。雨の中バイクを走らせてきて疲労した体は休息を要求してくるが濡れネズミよりは少しマシ程度のこんな状態でロビーに置かれた椅子に腰かけるわけにもいかない。仕方なく立ったままで、気を紛らわせようと窓の外に目をやると、暗い空を背景に大粒の雨が降り続いている風景が目に入った。
せめて明日の朝には止んでくれているといいのだけど、どうだろうか。雨への備えはしているが、やはり取り扱うものがものである以上、晴れている方がいろいろと楽だ。
窓の外を見ながらそんなことを考えていると、入り口の鐘が鳴り響き、扉が音を立てて開いた。
この宿の従業員か、それともわたし以外に泊り客が?
何気なく振り向いたわたしは、思わず息をのんだ。
ダークレッドのリボンが結ばれた金糸のような美しい髪にミルクのような純白の肌。瞳は深い青を宿していて、唇には艶やかな口紅がひかれている。
着ている服も派手ではないが丁寧な仕事ぶりが見て取れる上質のもの。スノーホワイトのリボンタイワンピースドレスにシルクのプリーツが入ったスカート。ドレスの上にはプルシアンブルーのジャケットを着込んでいる。
胸元に飾られているのはエメラルドのブローチ。わたしは宝石の良し悪しなんて分からないが、そんなわたしから見ても大きくて綺麗だと感じる品で、彼女の美しさをさらに引き立てている。
片手にぶら下げているのは重たそうな大型のトロリーバッグ。表面にはいろんな国の通行証がぺたぺたと張られ、持ち主と長い旅路を共にしてきたことを無言で主張している。
わたしと同じように雨に降られたのだろう。全身ずぶぬれだがそれでもみすぼらしい印象はなく、ココアブラウンの編み上げブーツで床板を鳴らしながらこちらにやってくる姿は凛としたものだ。
つまり分かりやすい言い方をするなら、入ってきたのは街を歩けば皆が振り返るような絶世の美人だったということだ。
思いがけず見入ってしまったわたしを気にする様子もなく、彼女はかつかつと規則正しい足音を立てながら歩いてくると、誰もいない帳場をざっと見渡し、やおらこちらに話しかけてきた。
「すみません、お聞きしてもよろしいでしょうか。宿の方がどちらにおられるかご存じですか?」
「え、え、あの」
こういうのを玲瓏な声、というのだろうか。外見に違わない美しい声で尋ねられて、とっさに返事ができず口ごもる。こちらを見つめる海の底のような青い目に、あり得ないことと知りながら、左胸にある循環液のポンプが跳ね上がって回転速度を増したような錯覚を覚える。
意味もなく手をわたわたと動かしながら、それでも何とか言葉を返すことができたのは、職務に忠実で融通の利かない行動プログラムのおかげだ。会社に損害を与えるような場合を除いて、人間に対しては親切に接するべしという、
「奥、です。わたしが濡れていたからタオルをとりに行ってくれました。そろそろ戻ってくるかと――」
「あらあら。また鈴の音がしたと思ったのは聞き違いじゃなかったのね。よかったわ」
鈴の音が聞こえて改めて用意したのだろう。戻ってきた受付のおばあさんは、折りたたまれたバスタオルを二枚抱えていた。
一枚ずつ差し出されたタオルをありがたく受け取り、念入りに体を拭いていく。ふと横を見ると、金髪の麗人も渡されたタオルで体を拭いていたのだが――なんだろう。ただそれだけなのに、なんとも言えない色っぽさのようなものを感じるというか神秘的な美しさを感じるというか。絵になる、というのはこういう物を指して言うのだろう。
ロビーに男性の目があったら、鼻の下を伸ばして食い入るように眺めていただろう。あるいは息を呑んで目を皿のようにして見つめたか。
しかし当の本人はそんな可能性など思いつきもしないといった様子で、使い終えたタオルをおばあさんに手渡した。
「ありがとうございます、奥様」
「あら、奥様だなんて、なんだか照れくさいわね。それで貴女も宿泊でいいのかしら?」
「はい。依頼を受けてしばらくこの町に滞在することになりまして。料金は払うから契約期間のあいだはこちらでお世話になるようにと依頼人の方に」
「あら、そうなの?こんな寂れた町にわざわざくるなんて何の仕事をしているの?」
何故かその時、わたしはその場を離れることができなかった。体は拭いたし宿帳への記入も済ませたのだから、おばあさんに声を掛けて部屋に案内してもらえばいいのに、宿帳を返してくれるよう求められるまで、あとから来た彼女をぼーっと突っ立って眺めていたのだ。
うん、何故かというのは誤りだ。わたしは、明確に彼女の事が気になって仕方なかったのだと自覚する。
メルクリウスの声には人間の耳には聞こえない超音波成分が混じるためメルクリウス同士が出会えばすぐにそうだと分かるが、目の前で楽しそうなおばあさんの話に相槌をうっている彼女の声にはそれがない。つまり彼女は正真正銘人間のはずだ。なのに――
(まるで本当の機械みたい)
その事が。たったそれだけの事が、わたしの目を彼女に釘付けにする。
整った顔立ちに均整の取れた体。そして仮面のような無表情。わたしは芸術に詳しくはないけど、超一流の職人が丹精を込めて作り上げた人形とはきっとこういうものなのだろう。実際、自然にこんなに人が生まれたと言われるより、実は魂が宿って動き出した人形だと言われた方が信じられそうだ。
「私になにか、ご用でしょうか?」
じろじろと見つめるわたしの不躾な視線に気づいたのだろう。怪訝な様子で彼女が振り向いた。磨き上げたガラス玉のような青い目が、まるで咎めるようにわたしを静かに見つめている。
その顔からは何の感情も伺えないがこちらが失礼なふるまいをしたことは確かだ。
「ごめんなさい、少し見惚れてしまって。……あの、よろしければお名前を聞かせていただいてもいいですか?わたしはシルキーといいます。アストロラーブ・メイルサーヴィス所属のメルクリウス……郵便配達人です」
「そうですか。ご丁寧な挨拶をありがとうございます。お客様がお望みならどこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
わたしの言葉を受け、彼女は人形のような顔のままこちらに向き直ると、腰を落としスカートのすそをつまんで会釈をした。確かカーテシーとか言ったっけ?そのまま礼儀作法の教本に載せられそうなほどに優雅な挨拶だ。
その拍子にかしゃりと。金属同士がこすれ合うような音を彼女の腕が鳴らしたのを、わたしの聴覚センサーが拾い上げる。よく見ると彼女は手袋で腕を覆っていて音はそこから聞こえたようだった。おそらく義手なのを隠しているのだろう。それもただの義手ではない。メルクリウスと同じ技術の流れから生みだされたのであろう、本物の腕のように動かすことのできる精巧な機械仕掛けの腕を。
ますます完璧な機械のようという彼女への印象がさらに強まる。胸の奥が少しざわつく気がする。でも、それがなぜなのか、その時のわたしには分からなくて。ただ彼女の姿から目を離せずにいた。
これが、わたしと彼女の。
◇
最低限の明かりだけで照らされた薄暗い宿のロビーに、小さな雨音が響いている。窓の外を見るまでもなく空模様は相変わらず。朝になっても止まないようなら、明日の配達の時には帽子は宿に置いていった方がいいだろう。
両手で包み込むように持ったコップをゆらゆらと傾けながら部屋で洗濯紐に揺られている麦わら帽子のことをぼんやりと考えていると、テーブルを挟んで向かいに座るヴァイオレットさんが口を開いた。人形のように無機質な声だ。
「メルクリウス……郵便配達用の機械人形、ですか。話に聞いたことはありましたがお会いしたのは初めてです。本当に人間にしか見えないのですね。驚きました」
優雅な手つきで紅茶を口に運ぶその表情は相変わらず人形のようで一見ちっとも驚いているようには見えないが、瞬きもせず興味深げにこちらを見つめているところを見ると嘘ではないだろう。
「わたしもですよ。
それは音声入力型の自動筆記機械の名称であり、依頼があれば世界のどこにでも訪れて、あらゆる代筆をこなすという職業婦人の名称でもある。
わたしのデータベースにはそんな事典的な内容が入力されてこそいるが、わたし自身は自動筆記機械としてのほうではない、職業婦人としての自動手記人形と会ったことは一度もなかった。わたしが住んでいた地域では彼女たちは一般的なものではないからだ。つまりヴァイオレットさんがわたしが初めて出会った自動手記人形ということになるわけだが、それでも彼女がいろいろと普通ではないことは何となくわかった。
まるで一流の芸術品のように整った姿と一切の感情がないかのような人形めいた顔だち。そしてプログラミングされた機械仕掛けのような優美で完璧な身のこなし。工場で大量生産が可能な道具でもあるまいに、一目で規格外と分かるこんな人間がそこらにごろごろいるわけがない。
まあ、工場製のわたし達もいわゆる普通の範疇からは外れた存在ではあるけれど。
「自分でいうにはあれですけどわたし達は結構な貴重品ですからね。あまり遠くにやって壊れでもしたら会社的には大損だから規則であまり遠出ができないようになっているんです」
わたし達を所有するアストロラーブ・メイルサーヴィスはこの国周辺では知らぬ者のいない大企業でその備品であるわたし達にうかつな真似をした者がどうなるかという『噂』もこの辺りの人間なら一度は聞いたことがあるはずだ。メルクリウスが着用を義務付けられている制服は、アストロラーブの所有物という証拠であり手を出せば痛い目を見るぞという意図が込められた警戒色なのだ。これがあるからわたし達は治安が悪いといわれる場所に赴くときも自衛用に殺傷性の低い電気弾拳銃を持つだけで済んでいる。
しかし強者の力で担保されている安全は当然その強者の力が及ばないところでは何の意味もない。よってわたし達が仕事をするのはアストロラーブの威光が通じる範囲内。それに対して、彼女のから聞いた話によるとヴァイオレットさんが普段仕事をしているのは大陸の反対側、ライデンシャフトリヒという国らしい。普段の活動範囲がこれだけ離れているのだ。これでは彼女がメルクリウスを見かけたことがないというのもむしろ当たり前のことだろう。
そんなことを考えながらコップの中のミルクを一口飲み干した。口の中に広がる優しい甘みとその余韻を存分に楽しむ。
久しぶりにきたお客にはしゃぐおばあさんの頼みでわたし達が夜のお茶会に招待されてから小一時間。時計の針はすでに10時を回り、主催者であるおばあさんもだいぶ前に用があれば声をかけてと言い残して自室に引っ込んでしまったのだが、ミルクを飲み終えていなかったわたしは、まだロビーに居座っている。
ヴァイオレットさんが席を立たない理由は分からない。あまり無意味な時間の潰し方を好ましく思うような人には見えないのだが何故か出された紅茶を口に運ぶとき以外は身じろぎもせず美しい姿勢でソファに座っている。
その様子はまるで上等の展示品のようだ。あるいはショーウィンドウの中に飾られた、等身大の人形か。
そんなことを思いながらミルクをもう一口。濃厚な甘みに自然と顔がほころんでくる。こんなに美味しいミルクはなんだか久しぶりで一息に飲み干してしまうのはもったいない。
「シルキーさんは本当にミルクがお好きなのですね」
そうしてちびちびと舐めるようにミルクの味を楽しんでいると、突然抑揚のない玲瓏な声がわたしの名前を呼んだ。びっくりして顔を上げると、ヴァイオレットさんが人形のような顔のままこちらを見つめている。
「えへへ。メルクリウスらしくないとは思うんですけどね」
機械人形であるメルクリウスには本来食べ物の好みどころか飲食の必要すらない。その気になれば飲料を摂取することもできるがそれはあくまで人間らしい振りをすることで配達先でのコミュニケーションを円滑に行えるようにするための擬態でしかない。好きな飲み物があってそれにこだわるなんてのはメルクリウスとしては“おかしい”話だ。わたしのような自意識システムにバグを飼っているメルクリウスでないとあり得ない話。
でもわたしは自分がそんな“おかしい”メルクリウスで構わないと思っている。だから、ミルクが好きだということを隠すことはないし飲むのを遠慮したりもしない。……意地汚いと思われるのは嫌なので、節度はわきまえるが。
そんなことを少し冗談めかしながら話すと、「そうなのですか」とヴァイオレットさんは興味深そうにつぶやいた。
「……少し驚きました。メルクリウスが人間らしくあることを目指して作られた機械だということは私も存しております。なのでシルキーさんのミルク好きも元々そのように作られた、いわゆる仕様の一部かと思っていたのですが、違ったのですね」
「ええ、まあ。一般的なメルクリウスはこうじゃないです。わたしがミルクを好きになったのも初めての配達先でいただいたことがきっかけですし。ただきっかけがあればすべてのメルクリウスがこうなるのか、元々そうなる素質のようなものがあるのかは分かりません」
というかたぶんこれからも判明することはないだろう。少なくともメルクリウスがアストロラーブ・メイルサーヴィスが全ての権利を握っている〈商品〉である限り。メルクリウスのバグが社に大きな影響を与えるようなことがない限り、彼らはわざわざ安くないコストを掛けて研究しようとはしないだろう。
とはいえ社がそういう姿勢だからこそわたしのようなバグもちが何事もなく過ごせているのだから、こちらとしては不満なんてないのだが。
「今の言葉から推察すると、ほかにもシルキーさんのようなメルクリウスの方がいるのですか?」
「ええ。わたしが知っているのは片手の指で数えられる程度ですけど」
そう言いながら思い浮かべたのは、少年の似姿をした弟のようなメルクリウス。出張に出てだいぶ経つからしばらく会えていないが、陶芸好きな彼のことだ、彼は今も休日には土いじりに精を出しているだろう。いくつもの試作品の経験を糧に大分マシな形になってきた、自作の宝物を得意げにかざす姿を思い返しながらミルクをもう一口。口元がほころんでいるのは口の中に広がる甘味だけが理由ではないだろう。
「好きなものを持った、人間らしくなった機械、ですか」
ポツリと彼女が漏らした声はわたしに向けてというよりも思わず零れ落ちたようにわたしには聞こえた。その表情も声色もぱっと見には何の変化もないため、彼女が何を考えているかわたしには分からない。
彼女が黙り再び静寂がロビーを包む。窓を叩く雨音がやけに大きく聞こえる。
結局時計の針が11時を回るより早くわたし達はどちらからともなく部屋に戻った。
ポストガール未読の方用原作設定など。
※ポストガール舞台設定
人命も含んだ、人類のあらゆる資源を消費し尽くした戦争が自然終結してから三年後の近未来が舞台。人間と変わらないようなAIや宇宙戦闘機なども開発され、人工衛星を使った的中率ほぼ百パーセントの天気予報なども一般的だったが、それらの最先端技術も戦争であらかた消費され尽くしており、作中で登場するのはシルキーのようなAI及びそれを搭載した機械人形のみである。
※メルクリウス
終戦後、ズタズタになった通信インフラの代わりとなった郵便事業の人手不足を補うため、アストロラーブ産業統合体が製造し、グループ企業であるアストロラーブ・メイルサーヴィス社が運用する郵便配達用の人形機械人形。必要とあれば手紙の朗読や翻訳、返事の代筆なども行なう。外見のみならず搭載された高度な自意識システムにより人間そっくりに振る舞える。
これは主に配達業務を担当する辺境地域の住人に他人とのコミュニケーションを求める者が多いことを鑑み、円滑に業務を行うため。