翌日、昨日の雨が嘘のように空はからりと晴れていた。今日はこの町の中での配達だ。地図を確認したところ、複数ある届け先のうちのいくつかは細い路地に入る必要もあるため、配達は歩きで行いバイクは宿においていくことにする。
手早く準備を済ませまだ少し湿気が残る麦わら帽子を片手に部屋を出ると食事を載せたトレーを持ったヴァイオレットさんとロビーで出くわした。
「シルキーさん。おはようございます」
「おはようございます、ヴァイオレットさん。朝食を食堂で食べないんですか?」
「はい。食事中は無防備になってしまいますので、任務中はできる限り一人で食べることにしています」
「無防備って……敵にでも追われているんですか?」
それに任務なんて。まるで軍人のような言い方だ。
そんな感想を抱きながら半分冗談で尋ねてみると「そうではないのですが」と言いおくとヴァイオレットさんは言葉をつづけた。
「率直にいうならば昔の習性が残っているのです。私は昔軍人でしたから」
「……そう、だったんですね」
少女の姿を模したわたしの外見とほとんど変わらない年頃の彼女が、数年前の大戦争に参加していたとなると当時は本当に小さな女の子だったことになる。普通に考えればありえない。だが超然とした雰囲気をまとう彼女を見ていると、彼女の言葉は本当なのだろうと感じられた。
無意識のうちに視線が彼女の両腕を捉える。昨夜、おばあさんに頼まれお茶会の誘いに部屋を訪れたときに見てしまった。黒手袋と袖に隠されていた、人工皮膚で包まれた自分のそれよりずっと機械人形らしい銀の腕。
彼女の両手両腕がそうなってしまった理由も推測できてしまった。そしてその予想はおそらく間違っていない。
かつての仕事で出会った〈将軍閣下〉のことをふと思い出した。戦争で片目と右腕を失ったが大事なものや大切な人を見つけて今は胸を張って戦後を生きている、理知的でチャーミングな彼女は、しかしそうなる前は欠けた体のせいでまともな仕事に就けず、体を売って生きていたという。
死ぬよりはマシなのかもしれないが体を大きく損なうというのはそれだけ大変なことなのだ。閣下のような大人の女性ですらそうなのに、せいぜいハイティーン程度の少女であるはずの彼女が、戦争に参加して両腕を失って、それを何でもないことのように佇んでいる。
そのことに対してわたしは何か言うべきか。彼女に言葉を掛けるべきか。自意識システムのなかにいくつもの言葉が浮き上がるが結局どれも口をついて出ることはなかった。
わたし自身は戦後に製造されたが、戦争のもたらしたものは知っている。メルクリウスの仕事で各地を回ればあの戦争のもたらした傷跡やそれによって人生が変わってしまった人たちを目にする機会はそれこそ山のようにあったからだ。
閣下だけではない。
爆撃で負った大けがを、同じ爆撃でばらばらになった友達の体で補って生き延びた、その罪悪感に苦しむ少女。
自分と仲間たちが生きて帰るためのお守りとして裸の女の人の絵を描き続け、女神描きなんて仇名で呼ばれるようになった春画家。
犯した罪の罰として体を張って地雷を探す特殊な処理部隊に放り込まれ、友人も思い人もみんな死んだのに生き残ってしまった元死刑囚。
そして赴任地の側にあった小学校の子供たちが戦闘機の機銃掃射でなぎ倒されていく瞬間を目にしてしまって、何もできず震えるばかりだった舞台俳優。
わたしが出会ったときにはすでに立ち直っていた人もいる。もう一度立ち上がった瞬間を目撃した人もいる。でもその全員が、立ち直るまでの間に、部外者には想像できないほどたくさん悩んで苦しんだであろうことをわたしは知っていて、同時に他人が軽々しく踏み込んでいいものではないことも知っているのだ。
「……じゃあ、わたしはそろそろ出発します。ヴァイオレットさんも頑張ってください」
「ありがとうございます。シルキーさんもお気をつけて」
迷った挙句強引に話を打ち切ると、わたしは気まずさをごまかすように足早に玄関に向かった。途中気になって振り返ると、ヴァイオレットさんはすでに部屋に入っていて扉がちょうど閉まるところだった。
◇
「本当に……ありがとう」
手紙を読み終えたお客様はそう言って悲し気に笑った。この目元には涙が浮かび感情の激発を堪える体は細かく震えている。その心中は語るまでもなく察せられて、だからわたしも沈痛な面持ちでそっと頭を下げ「お悔やみ申し上げます」とだけつぶやいた。プログラムに従った行動だが自意識システムもこうしたい、するべきだと感じているので抵抗はない。
良ければお茶でもというお誘いをやんわりと断る。不幸な報せに悲しむお客様に寄り添うためというのもわたし達が人を象っている理由の一つで、その役割に従うならば誘いを受けるべきだったのかもしれない。だがお客様を支えて励ます家族や友人たちの姿を見たわたしは、この場にわたしは必要ないと判断した。寄り添ってくれる人たちが側にいるなら、故人を悼む場に部外者はいないほうがいい。
立ち去る前にもう一度投げかけられたお礼に別れの挨拶を返してその場を後にする。
人影のまばらな道を足早に次の目的地に向かいながら、わたしは重いため息が口からこぼれるのを抑えることができなかった。気持ちが落ち込んでいるのを自覚する。体には何の異常も認められないのに気を抜けばその場にへたり込んでしまいそうな錯覚を覚える。
原因は明白。今日配達してきた手紙だ。さっきの手紙――だけではない。それを含めて、今日この街で配達してきた三通の手紙。うち二通は不幸な事故による死亡通知でもう一通は戦争継続を掲げる武装勢力鎮圧に向かった兵士の死亡通知。今日わたしが配達したのは、そんな誰かの不幸を伝え、届けられた相手を悲しませるような内容の手紙ばかりだったのである。
もちろんこれはただの偶然だが、悪意を持った誰かがこうなるように図ったのではないかと邪推したくなる。それほどに短時間に悲劇の知らせだけを届け続けるという作業はわたしの気持ちを激しくかき乱していた。
死亡通知を届けることも、泣き崩れる受取人に寄り添うことも、悲嘆にくれるお客様に挨拶をしてその場を立ち去るのも初めてではない。でもだからなんにも感じないかと言われれば答えはノーだ。何度経験しても悲しみを感じなくなることはないし、いたたまれなさが薄れる気もしない。
正直なところを言うなら、辛いし悲しい。出来る事ならこんな手紙は届けたくないし悲嘆にくれる人を見たくもない。でも逃げ出そうとは思わない。大変だけど大事な役割だ。
人と寄り添い人の気持ちを届けるのがメルクリウスでわたしの役割だ。これを投げ出してしまっては、なんのためのメルクリウスだというのか。そう自分に活を入れ気持ちを切り替える。
「次は明るい手紙だといいな」
そしてできればミルクの一杯でもご馳走になれればいい。美味しいミルクを飲みながら受取人の楽しそうなおしゃべりに相槌をうてれば、この憂鬱な気持ちもどこかに行ってしまうだろう。
そんな楽しい未来を夢想しながら、次の手紙のあて先と地図を見比べながら歩くことしばし。目的の家は町の中心を少し外れた静かな住宅街の一角にあった。そこそこに古いレンガ造りの一軒家。壁には何本もの蔦が這っているが手入れがきちんとされているため荒れた印象はなく、むしろ嫌味にならない程度のささやかな高級感が出ている、気がする。開けっ放しになっていた門をくぐるとお世辞にも広いとはいえない庭には数種類の花が無秩序な感じに咲いていた。わざわざ買ってきて植えたのではなく勝手に生えてきたものを手入れしているだけといった風情だがわたしの目にはとても好ましいものに見えた。
微笑ましい気持ちと、どうかこの家にもたらされるのが凶報ではありませんようにという願いがわたしの中で渦を巻くのを感じながら、備え付けのドアノッカーを叩いて訪問目的を告げる。しばらくの沈黙の後、家の中から「勝手に入ってきて」というくぐもった男性の声が返ってきたのでドアノブに手を掛けてみると、音もなくすんなりとドアは開いた。
「失礼いたします」
大声でそう伝えてから、家の中に足を踏み入れる。
そこそこの広さの玄関からまっすぐ通じる廊下の左右には複数の扉が見えた。突き当りにも扉があるが何か特別な部屋なのだろうか、他の扉よりも少し上等な造りに見える。そして少し開いた扉の隙間から再びさっきと同じ声が投げかけられた。
「悪いけど今手が離せないんだ。奥にいるから手紙なら持ってきてくれ」
「分かりました」
返事を返して奥に進むと、年季の入った板張りの廊下が踏む度にきしきしと音をたてた。意識してみると少し体が沈み込むような感覚さえある。独自の部品や技術を用いたメルクリウスの体は機械仕掛けとは思えないほどに軽いが、それでもうっかり踏み破るようなことにならないかとそんな嫌な予想が湧きあがってきて、わたしはできる限り慎重な足取りで廊下を奥に向かって進んで行く。
分厚い扉を押し開けて入ると、まず目に入ったのは部屋中にあふれた無数の本だった。壁沿いに並べられた天井近くまである本棚は全て限界まで本を詰め込まれているのみならず、そこからあふれた本たちが床のあちこちで大小さまざまな山を形成していた。窓際に置かれた書き物机も同じようなもので最低限のスペースをのぞいてうず高く本が積まれている。
例外は部屋の中央で、そこだけぽかりと開いた空間にまるで書物の海に浮かんだ小島のように、来客用らしい背の低いテーブルとソファがしつらえられている。そしてそこに座っている人影に気づいた瞬間、わたしは書き物机に座っているこの家の主人で手紙の受け取り手と思しき男性への挨拶を一瞬忘れてその人影を茫然と見つめてしまった。
それは見覚えのある相手だったがこんなところで会うとは予想すらしていない相手だったのだ。
「ヴァイオレットさん……?」
「はい」
そう言って頷いたヴァイオレットさんの前には使い込まれたタイプライターが据えつけられ、机の上には彼女がしていた手袋と、今までに打ち出したのであろう用紙がまとめて置かれている。そういえば昨夜、宿のおばあさんに依頼でこの街に来たと話していたことを思い出す。どうやらここがその依頼人の家ということらしい。
代書人と配達屋が同じタイミングで同じ家を訪れるなんて奇妙な偶然もあるものだ。それも一方が人間の真似事をする機械で、もう一方が機械のような印象の人間だなんておまけ付きで。
ああ、閑話休題。
まずは自分の役割を果たさないと。ノートを手にこちらの様子をうかがっている男性に向き直ると、わたしは
「アストロラーブ・メイルサーヴィス社のシルキーと申します。アーベル・ベルウェンさまですね?お手紙をお持ちしました」
「ああ、ご苦労。だが悪いけど少し待ってくれ。あとちょっと、切りがいいところまで終わらせておきたいんだ」
「……はい。分かりました」
どうやらヴァイオレットさんと行っていた作業を邪魔するタイミングで訪ねてしまってきたようだ。現在時刻と残りの配達物の数を確認して問題なしという判断を下してうなずきながら、彼の醸し出す不機嫌な空気を感じて、わたしは反射的に身を縮こまらせた。不可抗力ではあるのだが、彼にしてみれば作業の腰を折られたというのも確かなことで、下手に言い訳などしようものなら余計に相手を怒らせるだけだろう。
邪魔にならないよう口をつぐんで部屋の隅に移動するわたしから視線を逸らすと、アーベルさんは手にしていたノートに目を落とした。
「中断してしまってすまない。さあ、続きをしよう。いいかね、ヴァイオレット」
「はい。こちらはいつでも大丈夫です」
そう答えるヴァイオレットさんの声は相変わらずどこまでも平静で、一瞬漂っていたピリピリした雰囲気など気にもしていないようだ。ピンと背を伸ばした美しい姿勢でタイプライターに指を掛ける。窓から差し込む日の光を受けて光るその指先は鈍色の金属製で、そうと知らなければ本当にできのいい機械人形にしか見えない。
わたしのその感想はアーベルさんのノートの読み上げに合わせて彼女が仕事を再開するとますます確固たるものになった。
まさに機械のように早く正確なブラインドタッチ。いや、もしかすると下手なメルクリウスよりも早いかもしれない。少なくともわたしには無理だ。タイプライターを使ったことはあるにはあるが、あくまで使ったことがあるだけ。彼女のような思わず見とれるような指裁きなんてとてもできそうにない。
それだけじゃない。書いた文章の確認を求められ、ヴァイオレットさんが行った朗読も素晴らしいものだった。余計な感情は一切入らず、それでいて活舌はなめらかで読み上げる速度も速すぎず遅すぎずに、とても聞き取りやすい。まるで雲雀のさえずりを聞いているように心地よく、いつまでだって聞いていられそうだ。
字を読めない人のために配達された手紙を読み上げるのもメルクリウスの仕事の一つだが、彼女以上に古心地よく言葉を話せるメルクリウスが果たしているだろうか?
「――故に、この学説の信ぴょう性には疑問符をつけざるを得ず、同時にこれを根拠とするフェルセン教授の研究についても再研究の必要性があると私は断じるものである……っと。とりあえずここまでか」
圧倒されているうちにどうやら作業はひと段落ついたらしい。アーベルさんの朗読が止みほぼ同時にタイプライターの音も聞こえなくなる。
ふう、と息をつくとアーベルさんはノートを机に置くと、わたしの方に向き直った。
「とりあえずここまででいいか。郵便屋、受け取りを書くから手紙を渡してくれ」
「あ、はい。どうぞ、こちらです」
メイルバッグから取り出した封筒に制服の胸ポケットに差していたペンを添えて、差し出す。どうにか配達を終えれたと内心胸をなでおろして――
「……なんだ、マルディンからか」
「え」
その次に起きたことに、声を漏らさずにはいられなかった。
サインを記した受け取りをペンと共にこちらに返した彼は、つまらなさそうに鼻を鳴らすと受け取った封筒の封を開けようともせず、書き物机の上に放り出したのだ。
「どうせまたくだらん近況報告だの世間話だろう。全く筆まめなのも良し悪しだな。せっかくのやる気に水を差された」
ぶつぶつとぼやきながらアーベルさんは席を立った。積み上げられた本の間を抜け、本棚と本棚の間に隠れるように設置されていた扉の前までいくと顔だけをこちらに向け、いかにも面倒くさそうに口を開く。
「仕方がないから少し休憩だ。ヴァイオレットも適当に休んでくれ。30分……いや、20分後に再開する。もし起きてこないようなら、構わんからたたき起こしてくれ」
「20分後、ですね。承知いたしました」
「頼んだ……と、聞いていただろう?私は忙しいんだ、ドールの契約期間中に全て片付けないといけないからね。ほかに用がないのならもう帰ってくれ」
視線だけをわたしに向けてそれだけ言いおくと、アーベルさんはさっさと扉の向こうに消えてしまった。ねぎらいの言葉も楽しい茶飲み話も美味しい飲み物も何もなし。あとには茫然と佇むわたしと机の上を整理するヴァイオレットさんだけが残される。
――ああ。
今のわたしのこの気持ち。これはどう表現すればいいのだろうか。
邪魔だといわれた腹立ち?そっけなくされた悲しみ?勝手な期待が外れた失望?それもあるけどそれだけじゃない。そんなことは、もう何度も経験している。嬉しい思い出ではないけれど。
――ああ。
確かにわたしは、次に配達するのが悲しい手紙ではないようにとそんなことを願った。
でもこれはそれ以前の問題だ。受け取り拒否をされたことなら何度もある。でもせっかく届けた手紙が目を通そうともされず放り出されるなんてことは、今まで経験したことはなかった。予想もしていなかった。だから、それがこんなにも辛いことだなんて思いつきもしなかったのだ。
手紙を配達し、それを読んだ人の気持ちに寄り添って、嬉しさも悲しみも共有する。それがメルクリウスの仕事で作られた目的で――存在意義だ。届けるのがどんな報せであってもそれは変わらない。それをよしと思うようにわたし達は作られている。
だから、受け取った手紙を読もうともせずどうでもいいものとして扱うアーベルさんの態度はわたしの心に大きな傷をつけた。
分かっている。彼に悪意なんてなかったことも、こんなにわたしが傷つくなんて思いもしなかったことも。
加えてタイミングも悪かった。普段のわたしなら同じ目にあってもここまでショックを受けることはなかっただろう。悲しい手紙を立て続けに配達して、気持ちが落ち込んでいたからこそ普段なら受け流せるようなことにひっかかってしまったのだ。
――でも、一番の原因は別にあるのではないか?
ぐちゃぐちゃになった感情の大渦の中から一つの疑念が浮かんでくるのを感じる。それは駄目だと。そんなことはないと。自分に言い聞かせて沈めようとしても叶わずに思考がそれで埋め尽くされる。
「……シルキーさん?大丈夫ですか?」
「――はい。大丈夫です」
嘘だ。本当は大丈夫じゃない。この胸の中で渦巻いているドロドロしたものをぶちまけてしまいたくて仕方ない。
でも、人に好かれることを良しとする自意識システムがヴァイオレットさんの前で見苦しい本音を吐き出すことを許さない。どんなに機械のように見えていても彼女は人間だとシステムは正しく認識している。
でも。あるいは、だから。わたしはこの思考を制御できずにいた。彼女が普通の人間であったなら。もしくは本当の機械であったならきっと考えもしなかった。
機械のようにきれいで、人間だから人間に寄り添った仕事ができる自動手記人形。それに比べてわたしはどうだ?まともなメルクリウスとしてふるまうことができない、バグもちでままならない感情なんてものに振り回される不完全な機械人形。
そのことがこんなにつらいなんて。こんな思いをするなら心なんてない方がいいなんて。考えたのはいつ以来だろうか。
ぐるぐると、ぐちゃぐちゃと。渦巻く濁った感情が、口をついて飛び出てきそうになるのを抑え込む。それは行動プログラムが機能した結果だがわたしが望んだことでもあった。昨日偶然知り合っただけの人に、なんで貴方はそうあるのだなんて。わたしは貴方のようじゃなかったなんて。そんなみっともない八つ当たり、できるわけがないではないか!
でもその決定のせいでわたしの中の激情はまた行き場をなくしてしまっていて、わたしは一刻も早くここを立ち去ることにした。ぼんやりしているとバグが行動プログラムに穴を開けて、そこからこのぐちゃぐちゃした気持ちが溢れ出してしまうかもしれない。
持ちっぱなしにしていた受け取りをメイルバッグに大事にしまうと、わたしはアーベルさんが姿を消したドアのほうに向け頭を下げた。
「では、わたしはこれで失礼いたします。作業中にお邪魔してしまい申し訳ありませんでした」
そう告げた声は特に大きいものではなく、もしかしたら聞こえなかったかもしれないが、大声を出すとまたアーベルさんの邪魔になるかもしれない。帰っていいとは言われているのだし、一言もなく帰っても文句は言われないかもしれないが、そこは最低限のマナーという奴だ。
「……シルキー様」
「ヴァイオレットさんも、邪魔してしまってごめんなさい。お仕事、頑張ってくださいね」
ヴァイオレットさんにも頭を下げると、わたしは足早に部屋を出る。入り口まで戻ったところで視線を感じた気がして振り返ると、閉め忘れた扉の隙間からこちらを見つめる青い瞳と目が合った。何か言いたいようにも見えたが、わたしは気づかない振りをして前を向く。逃げるように立ち去るわたしを彼女はどんな顔で見送っているのだろう。そんな疑問が一瞬頭をよぎるが玄関の扉が閉まる音で消え失せた。
仕事はまだ残っているのだ。無理やり気持ちを切り替えてわたしは歩き出した。