「気をつけ、礼!」
教え子の声が響いた。教壇の前にいる女教師は、不揃いながらも一応全員が頭を下げたことを確かめる。
「……みんな、今日はよくできましたね。次はもっと上手くできるよ」
ニッコリと笑ってから、出席簿と日誌を持ってスライド扉まで歩いていく。足取りは軽い。
がやついた喋り声とともに、鞄やスポーツバッグを提げた生徒らが教室を出て行く。
「汐町さん、ちょっと待ってくれない」
「なに? どうしたの、安田君……」
夕闇の訪れにはまだ早く、西日が教室の半ばまでを照らしている。
時計は四時過ぎを指していた。皆がすっかりと3年3組の教室を出て行ったことを確かめるようにして、安田優一は汐町由香里に声を掛けた。
「ちょっといいかな。こっちに来て」
「ん……?」
由香里は髪の毛を触りながら、安田の方へと。
そんな様子を見守っている者が数人いる。宮本、前田、藤原である。訝しげな視線を二人に送っている。
神部篤と横尾砂羽もそうだった。宿題に励みながらも、その耳は常に由香里の方にあった。
「和田先生、今日は礼のやり直しをしなかったね」
「うん。そうだね」
安田の視線は、由香里の瞳を刺し貫くように――女子も、まっすぐに少年の方を見やりつつ、髪の毛をいじっている。残った左手はスカートの裾へと。
「安田君。あたしにこうやって話しかけるの……初めてだよね」
「そうかな? ま、いいじゃない。それで、単刀直入で何だけど……」
由香里に近付いた。耳元で何かを呟いたなら、身を翻して教室を出ようとする。
去り際に、由香里をチラリと眺めると出て行った。由香里は、そんな安田の後を追うような、追わないような素振りを見せている。
「なあ、俺もちょっといい?」
「え……!?」
振り向くと道ノ上渉がいた。由香里の方を見ながら首元を掻いている。
「あ、な~んだ! 渉、居たんだぁ」
少女の瞳の色が明るくなる。
「あ、いや……違う。由香里じゃないんだ。宮……宮……ええと」
「宮本だよ?」
「そうだ、宮本さん!」
ガンッ! という物音がした。由香里が傍にあった机を蹴飛ばしていた。
顔も向けず、早歩きでスライド扉に向かい、廊下に出てそのまま消えた。
「なんだ? あいつ……」
「道ノ上くんこそどうしたの?」
「宮本さん。俺達日直だろ。和田先生から言われてた例のやつ、宮本さんも待って
るんだよな?」
宮本は、ボブカットを軽く振り回すようにした。
「受験対策プリントのホッチキス留めだっけ?」
「そう、それ」
むず痒い微笑み。宮本の視線が床に落ちる。
「は? ナンだよ、それ……ちょ、宮本さあ……あ、いや。和田センセならしょう
がないね」
藤原が声を上げる。つい言ってしまった、とばかり罰の悪そうな顔つきになる。黒めの肌。歪んだ口角が滲んでいる。
「そーゆーこと! 藤原、今日はオレと帰ろうぜ」
前田が大きな声を響かせると、藤原は顔をブンブンと振った。
「いーよ、一人で帰る! 塾だし!」
安田がくぐったのと同じスライド扉を開けて帰っていった。後を尾いていく前田の姿もある。
宮本と、渉が向き合った。距離にして一メートルほど。
……春の終わりの陽気が教室を照らしていた。光と影との境界線を跨ぐようにして、少女は少年がいる影の方へと入り込む。
「道ノ上くん。行こっか、私たちも」
渉の肉体が寒気に震えた。背後からの視線――篤と砂羽のものを受けて。
「どうしたの? 早く早く。作業場所は理科準備室でしょ」
* * *
バチ、バチッというホッチキスの音が理科準備室に響いている。
二人は樹木の植生についての三枚綴りの資料を綴じていた。渉の視線の先には一枚目の資料がある。
「この写真の樹木の中で……?」
ホッチキスの音が止まった。渉のものだけではない。
「道ノ上くん? さぼっちゃだめだよ」
「悪い」
「……理科、好きなんだ? じゃあ問題。『この写真の樹木の中で、切り株だけになっても再生するのはどれでしょう』だって」
渉は作業をやめて問題用紙を眺める。四種類の樹木――モミジ、ヒノキ、カイズカイブキ、マツが並んでおり、その中から正解の樹種を当てる問題が載っていた。
宮本は悩ましげな視線をプリントに送っている。
「こんな問題が受験に出るのかな? 池上先生はこんなの教えてくれなかったよね」
「わかった。これだ」
渉はモミジの絵を指差した。
「どうしてモミジを?」
「広葉樹だから。ヒノキやイブキ、マツとかの針葉樹は一回切り倒したら死ぬ。でも、広葉樹は再生する」
「なんで?」
「ええと……確か、そう。眠ってるんだよ、広葉樹は。芽が!」
渉が顔を輝かせる。
「大抵の針葉樹って、一年中葉が茂ってる。だから、光合成をするための葉が無くなったら終わりなんだ。またイチから立派な葉を作らないといけないから……でも、広葉樹は咲いて散ってを繰り返すだろ。散ってる間に力を貯めてるんだ。だから、切り株にされても次の年になると枝が生える。それが成長して復活するんだ」
「……詳しいんだね? 正解。でも、理由がちょっと違うみたい」
宮本はプリントの三枚目に書かれた正解を渉に見せた。それをひらひらと前後に振りながら、
「渉君、賢いんだね」
「まぁ……その。昔、生活するのに……」
「? 今なんて言ったの」
「なんでもないよ」
むず痒そうな面持ちになった渉は、ホッチキスを再び手に取る。
それから十数分、ひたすらに紙を綴じる音が理科準備室に鳴っていた。
さらに時間が経って、すべてのプリントが綴じられた。
「よし終わった!」
「まだだよ?」
「え? 全部綴じたよな」
「今度はクラス単位で分類しないと。そしたら、次はこのゴム印『問題用紙』『解答』をプリントの右肩に押すんだよ? って私は和田先生から聞いてる」
窓の外を見た。太陽は夕暮れの色を帯び始めている。
「じゃ、渉くん……悪いけど、私帰らないと」
「なん……だと……」
クスリと笑って渉を見た。目が合うと、何秒かの間――微笑とともに顔を眺める。
「自転車がパンクしちゃってね? 近所の自転車屋さんがすごく安くしてくれるんだけど、もうお店が閉まっちゃうから」
渉はそのまま宮本の瞳を見ていた。宮本もそうだった。が、最後に視線を斜め下へと逸らす。
「ならしょうがない。宮本さん帰りなよ。後はやっとくから」
「え、本当に? ありがと~」
指定鞄を足早に拾い上げて宮本は、そそくさと準備室から出て行こうとする。
「ねえ、なんで土下座したの?」
渉の面持ちが強張った。唇を尖らせて眉間に皺を寄せる。
「それは――」
「また明日ね?」
去り際、バイバイを告げる宮本に対し、渉は小さく手を振った。
準備室を出た途端にステップで駆け出した宮本。鞄の中からシルバーの携帯電話を取り出すと、トイレに入っていった。
* * *
「土曜日、みんなで遊びに行かない? グランカワノベに」
そう言って声をかけた安田。由香里を除く三人は難色を示している。
3年3組の教室。時計の針は十三時二〇分を指していた。教壇から見て右側、窓際の列に、砂羽、篤、渉、由香里の順で座っている。鬱々とした表情の宮本が、安田のすぐ後ろに佇んでいる。
渉が席を立った。
「安田。今、教室の空気がちょっと変わったぞ」
「みたいだね」
暗い笑みを浮かべた。
「宮本ちゃんは予定ないんだって。藤原さんと前田は埋まってるみたいだ」
四人は顔を見合わせる。しばしの沈黙が支配した。
「ちなみに、どうして僕たちなんかを?」
篤が質問を投げた。安田が体の向きを変える。
「遊びたいだけだよ」
篤は机に肘をついた。
……おもむろに砂羽を見る。震えた手で机を握り締めていた。
安田の方に視線を戻す。
「やめた方がいい。僕はオススメしない。安田君だけじゃなく、後ろにいる宮本さんもそうだけど」
一瞬の間があった。
「……襲われたら死んじゃうよ。二人とも。わたし達は生き残るけど」
砂羽の声が響いた。低く、重く、しなるように。
宮本の顔つきが変わった。口角を歪めている。
「うん! そ、そ……そうだよ!?」
宮本は、安田の少し前に進み出る。
「そうだよね? 行くべきじゃないよね。やめと」
「行こうぜ」
渉だった。軽快な調子で言ってのける。そのまま、ズイと宮本の前へと。
「……!」
身長差からか、宮本は見上げるように渉を見ることになる。
「宮本さんって、優しいよな」
「……どういう意味?」
「ここに居るってことは、俺達と遊びに行くつもりがちょっとでもあったんだよな?
「そんなこと……ないよ? 私」
視線を逸らす。
「大人だよ。俺なんかとは全然違う。羨ましいな、宮本さんみたいに優しい人間になりたい」
「ほ、褒めたって何にも出ないんだからね?」
「いらないよ。あ、でもノートは見せてほしいかも。成績いいし、字が綺麗なノートだから」
「えー。渉君、わざとらしいよ。そういうのやめなよ? フツーに寒いから……」
渉君、という発音に残りの三人は何かを感じ取った。
由香里は足先を椅子に絡め、篤は頬杖を深くした。砂羽の眉間に皺が寄っている。
「みんなはどうする? 由香里は行くよな」
「うん……行く」
「篤と砂羽は?」
「僕は勉強があるから無理だ。塾の体験講習があって」
「わたしは……家事がけっこうある」
渉は片目を閉じた。顔を傾けて二人の顔を眺める。
「そっか。じゃあ、俺と由香里と、安田と……」
宮本に視線をやった渉。
「その三人で行こう」
「なんでよ!?」
ツッコミが入る。
「私も行くよ?」
「危ないから止めといた方がいいんじゃない?」
「私、安田君と一緒に学級委員してるんだから! クラスのみんなのこと、考えないといけないんだからね?」
「ははっ、じゃあ宮本ちゃんも決定ということで」
渉は、由香里の顔を見た。はにかむように唇を結んでいる。足の甲をしきりと椅子にこすり付け、引っ掻いている。