「あのぬいぐるみ、いつか欲しいね?」
宮本と由香里は女子トイレの手洗い場にいる。
宮本は、ボブカットの後ろに結んだポニーテールを整えながら声をかける。
「あのぬいぐるみだよね。プリンが逆さになったやつ。高すぎよ、5,500円なんて。大人になっても買えやしない」
「え、そこは自信持とうよ?」
由香里は洗面台の鏡とにらめっこしながら、胸襟の辺りに手を突っ込んで服の乱れを直している。
「佳奈子、ちょっと胸元が出すぎかな。あたし」
「そんなものじゃない?」
「ふーん、そういうもん?」
「ブフッ!」
宮本は噴き出してしまう。
「なにかおかしかった?」
「だってさ? その口癖……そういうもんって……最初は何でもなかったけど、何度も聞いてるうちに……!」
「同意をすると同時に、同意を求めてるんだよ。すごいでしょ」
「へー。それでいつも渉君に同意してもらいたがってるんだ?」
「渉は幼馴染だから……」
自らの手を脇の辺りに近づける形で、宮本が小さく挙手をする。
「渉君に興味がある人、挙手してね? ハーイッ!」
「……」
沈黙を貫いている視線が蛇口に移った。透明な水がじゃぶじゃぶと音を立て、排水溝に吸い込まれていく。
それを見詰めながら、鎖骨に手を当て、自分の中にある草の葉が揺れる音に耳を澄ます――天井に設置してある、まん丸な蛍光灯に目をやった。
「あたしさ、例えば……太陽が照ってるじゃない? 照らしてるんなら、それが中心だって思うよね。でも、あたしには……空に破けた穴に見えるんだ」
宮本の顔を眺める。
「その穴に、大切なものが空に向かって落ちていくのを感じることがある。そんな時、ふとね――」
「詩人なんだね? いいよ。それ以上言わなくても」
「……いいの?」
「いいよ。だって、さっきの挙手、ウソだからね?」
由香里の右腕が、宮本の胸ぐらを掴んだ。ゆっくりと、優しく――宮本を壁に押しやる。
……近づく距離。冷たい
「佳奈子。冗談でそんなこと言っちゃだめだよ?」
「……!」
「じゃないと……」
触れそうなほどに唇が接近している。心音が本人の耳まで届いて、鼓膜を刺激し、目頭を熱くし、口角を歪ませる。
宮本が動いた。人差し指と中指で由香里の唇を塞いだ。
「……謝らないよ?」
「うん。自分で嘘つきだって告白したんなら、嘘つきじゃないわ」
「ブフッ!」
「え? 今なんで噴き出したの?」
「だって、それ……私、もうウソついてるし……ウソついた時点でウソつきだし……由香里、寛容すぎでしょ……?」
「そ、そう?」
一瞬、困った顔になって蛍光灯を見上げた。薄ぼんやりとした光の重なりが二人を照らしている。
* * *
熱せられた鉄板の前にあるカウンターに、八席ほどが並んでいる飲食店。
お好み焼きが焼ける香りが店内に満ちる中、安田は水の入ったグラスが空になりかけているのを認める。
「はい、安田君」
安田が席を立とうとした時、由香里がライトグリーンの水差しを渉越しに手渡した。右隣にいる宮本のグラスもいっぱいになっている。
「ありがとう。由香里ちゃん」
由香里が鉄板の上に視線を戻すと、ほかの三人とは一段厚さが異なったそれが鎮座している。
「ハイ出来上がり! 肉玉そばの、もちチーズねぎベーコン乗せ」
齢にして80歳前後かと思われる老婆がお好み焼きを作っている。髪が抜け落ちて、しみだらけの黒ずんだ肌に笑顔がくっきりと刻まれている。
二本のヘラで、由香里の鉄板の真ん前へと料理を滑り込ませた。
「お嬢ちゃん、皿いる?」
「あ、いえ。あたしもいいです」
老婆から見て、右から肉玉そば、肉玉うどん、一段厚めの肉玉そば、肉玉辛麺の順に並んでいる。
「みんなの分揃ったね。じゃあ、いただきます」
「食べるの遅くなっちゃったね。あたしのせいで」
「好きなもの頼みなよ。せっかく遠くまで来たんだし」
四人が四人とも、慣れないヘラを使って根気よくお好み焼きを切っている間に、老婆は売上伝票をレジの近くに持って行った。総額欄に2,400円と書いてある。
安田が手に力を込めて小突くと、なんとか蕎麦を切ることができたようで、これまた慎重に切れ端を口に運んでいく。
渉は、肉玉うどんを優雅に切り刻んで食べている。後でまとめて生地を食するためか、鉄板の離れた位置にまとめている。
由香里は苦戦していた。ガシガシとヘラを叩きつけるも、トッピング入りの生地を断ち切れずにいる。口を強引に近づけて大きな破片を掻き込むと、熱さと戦いながら平らげる。
「由香里。口に付いてるよ? タレ」
「ん~、ん、あい……がと……」
宮本は、由香里の口元をおしぼりで拭いている。
ヘラではなく割り箸を使っている宮本に隙はなく、順調なペースで真っ赤に染まった辛麺を食べ進める。
会話はほとんどないまま、鉄板上の広島風お好み焼きが全員の腹の中に収まった。
「あ~、美味しかった。時間もあるし、なんか話そうよ」
「安田。ここ初めてか?」
「いや。下見した所なんだ。まぁ、その……本当は違う店に行こうと思ったんだけどね」
予算のメモをこっそりと渉に示す。
「あー、そっか……ありがとう」
宮本は、最後の一口を食べ終えたなら、水をグイと飲み干した。
「安田くん? 何の話題があるの。この四人に共通って……」
「ええと、それはだね。例えば……最初に『し』がついて、最後に『ろ』がつくもの。ヒントは三文字」
宮本はムッと頬を膨らませた。渉が片目を閉じて安田を一瞥する。
「進路かぁ。安田君は国府高校だよね? 佳奈子は旭学園」
「なんで知ってるの?」
「こないだ教室で話してたよね」
「うわ、由香里。『千里眼』なんだね?」
「そうなの。『千里眼』なの」
誰もが反応にあぐねる間隙を縫って、安田が声をかける。
「渉くんと由香里ちゃんは?」
渉はヘラで鉄板をグリグリとやっている。考えあぐねている様子だったが、おもむろに口を開こうとする。
「俺の進路は……」
唇をすぼめて眉をひそめた。
「……決めてない」
「うーん、あたしもかな」
由香里が元気なく返事をすると、宮本がその指先を小突いた。
「わかんないよ? 由香里って、たぶん私より成績いいよね。こないだ、ちらっとテストの点数を覗いたの。六教科くらい見たけど、ぜんぶ80点越えてたよ?」
「卒業したら、とりあえず親の手伝いでもしようかな……」
「由香里? なんでそんなにヒクツなの。わかんないよ」
渉は鉄板をヘラで突いている。
「例えば、五年後に生きてるかどうかもわからないから。俺達は」
二人とも言葉を失った。安田は難しい顔をして水を飲み干す。
一方、宮本は、
「それこそわからないよ。一般の仕事に就いたらいいんじゃない? なにも、人をこ」
言いかけて留まる。店内の空気を察すると、安田と同じく水を飲んで場を濁すのだった。
* * *
四人はゲームセンターに戻っていた。
階下に降りた時よりも足取りは重たい。由香里が肩に掛けていた鞄を反対に持ち換えると、宮本が真似をする。
「あれ、面白そうじゃない?」
安田の視線の先にはクレーンゲームがある。二段階操作でぬいぐるみを取るタイプの機種だった。
「宮本ちゃん! これ、好きなやつだよね? たくさんあるよ。挑戦してみたら?」
「え~、Rebirthed-Pudding(リバースドプリン)、確かに好きだけどね? これ、ちょっと難しいよ?」
ゲーム筐体のガラス面に、キャラクター紹介文が刻まれている。
『チョコの部分から、逆さに落とされたプリンの恨みが表現されたキャラクター! 俺を助けてくれ!』
「難しいよね。ボクもやったことあるけど、全然だめだった」
「どうしようかな。んん~!」
瞼をしぱしぱと閉じて、開いて。閉じて、開いて。
宮本は筐体に向かった。200円を投入し、一段階目の横ボタンを押そうとしている。真剣な面持ちで、逆さまになったプリンの人形を見詰めていた。うっすらと涙を浮かべている。
ボタンが押された。宮本の瞳はクレーンの軌跡を観ている――やがて、目標物に対して垂直な位置で止まった。
渉は様子を見守っている。
『いいコースだ。間違いない』
今度は縦方向を見極めるため、宮本はガラスに張り付くようにしてリバースドプリンを捉えようとする。
二段階目のボタンが押されると、クレーンは着々と目標物に近づいていく。口が開いたなら、逆さプリンを掴み上げて、取出口へと……
「あっ!」
プリンは仲間のところに帰った。クレーンの挟み込む力が足りず、取出口の手前で落下した。
「もう一回……今度こそやるよ?」
二回目もあえなく失敗する。さっき落としたものを再び拾おうとした結果、今度はクレーンが挟まることすらなかった。
三回目も、四回目も。
「ああ、私のお小遣い……横方向は一回も失敗してないのに……こんなのおかしいよ?」
筐体の中を見渡すことで、最適な角度にあるリバースドプリンを探そうとする宮本。鬼気迫った顔つきで、とある一体を睨んだ。
「最後の……200円……!」
ボタンを押した。横移動が終わると、ぴたりと正面につけていた。
宮本の吐息がガラスに吹きかかる。上下の歯を食いしばった。
「……」
そのまま、宮本佳奈子は動かなかった。微動だにしない間にも、クレーンの残り時間表示はゼロに近づいている。
宮本の瞳は、ますます高まるような強さを秘めて、そして――
「……やめた」
その場で筐体に手をついた。
「こんなの手に入れてもしょうがないよ? 多分。あ、でも欲しかったかも……」
その時だった。宮本が、渉の存在に気が付いたのは。
「渉君。恥ずかしいとこ見せちゃったね? あれ、あの二人はどこに行ったの? ま、いいや。私、ちょっと休んで――えぇっ!?」
宮本は驚きの声を上げる。
渉が斜め後ろに立って、うなじの後ろから両手を差し込んでいた。右腕に男のそれが乗ったのを認めた時、乳房の端が男の腕に触れる。
恥じらい。ただでさえ小さな身体を縮こめる宮本を、渉が見下ろしている。
「渉君、なにしてるの。セクハラやめてよ……?」
涙声で訴える。
「いいんだよ」
「え?」
「失敗してもいい。本気でやれたならそれでいいじゃん……宮本さん、頑張ったんだから」
「あ……!」
渉が残り時間のタイマーに目をやる。
「二十四秒か。ま、なんとかなるだろ。うーん……ん!?」
右手は変わらず宮本のそれに乗っている。はらりと揺れた髪の匂いを感じて鼻息が荒くなる。
「ひぅっ!」
男の吐息が頭頂部にかかると、女は身体をもじもじさせる。熱さ。鼓動。頬に滲んだ汗。クレーンが動き出す。
女の口角が歪んだ。みぞおちの辺りを左手で押さえて目を閉じるも、おそるおそる見開いて、またクレーンを見始める。
「……」
クレーンが、とあるリバースドプリンに辿り着いた、渉の掌がスイッチから離れて、二秒にも満たない時間。
小刻みに、揺れながら開いたアームが真下へと降りていく――掴んだ。目標物を。
逆三角錐の、かなり下の方にアームが引っ掛かり、その体を持ち上げている。危なげな動きでリバースドプリンは宙を舞っている。
取出口まであと二〇センチというところで、クレーンに挟まれた物体がカタカタと振動する。挟み込んだ箇所がずり落ちている。歪みは少しずつ大きくなる。
そして、ぬいぐるみは、ズルリという触感を伴って、クレーンから――ずり落ちなかった。
「よっしゃっ!!」
右手を取出口に突っ込んで獲物を取り上げる。プリンが逆さまになった不思議な形状のぬいぐるみを。
「やったぁ! 渉君すごい」
「ほ、ほら……やるよ。別に宮本さんのためじゃない。俺がやりたかっただけ」
宮本は、渉を見上げるようにして両手を延ばす。俯くようにしてぬいぐるみを手に取った。互いの指の付け根が接触する。
渉が、目をすぼめるようにして宮本に視線をやると、いつもとはうって変わって自信なさげな瞳と、パクパクと動く口元があった。
「ありがとうございます……!」
「可愛くない笑顔」
渉が笑う。
「なんでよ? ひどい」
「だって、嘘ついて帰ったでしょ。和田先生の仕事を手伝ってる時」
宮本は口をあんぐりと開ける。
「え、なんでわかったの……?」
女の両手を取って持ち上げる。恥ずかしげに視線を逸らすのを尻目に、掌を観察している。
「やっぱり。自転車ダコがない。毎日なにかしら棒を握ってると、指の付け根にタコができるのに」
「……うぅ~! 騙されたフリするのもマナーなんだよ?」
膨れ面になる宮本。
「ほら、やっぱり可愛くない」
宮本がその右腕にパンチを打った。
「痛っ!」
男の顔を見詰める。
「渉君のこと、嫌い」
言われてすぐ、渉は少女の手首を握った。
「……嫌いって言ったよね?」
「そうは言っても、二人を探しに行かないと。さあ」
二人はゆっくりと歩き出した。体を引かれ、緊張した面持ちで付き従う宮本を気遣うように、渉は歩幅を小さくする。
宮本は渉の背中を見ていた。
「嫌い……」