五月五日。こどもの日、というらしい。
俺と由香里は、ハッピーマウンテン市文化会館に来ていた。
「……でかい」
見上げるほどの大きさの建物がある。高さにして三〇メートル以上はあるだろう。
「でかすぎだろ、これ。市街地の方は違うな」
「あんな山奥と比べてもしょうがないでしょ。こないだも見たじゃない」
「あれは横に広かったんだ。こんなに高くはなかった……はず」
由香里が一歩、前に踏み出す。腕時計を見ている。
「集合時間ぎりぎり。早く中に入ろうよ」
暖色系の煉瓦タイルの上を歩いていく。点字ブロックをなんとなく避けつつ、正面入口へと。
ウイイイイイイ……自動ドアが開いた音だ。
「これがあの……かの有名な……!」
「ちょっと。田舎者だってばれるでしょ」
「もうばれてるぞ」
「……集!」
館内を見渡すと、左斜めの方向に利用者受付があった。五,六人ほどの大人がいて談笑している。その辺りから集が歩いてくる。
「ふたりとも、おはよう。動員協力ありがとな」
「集。あそこにいる人たちは?」
「渉! 挨拶くらいしなさい……」
しまったと思いつつ、軽く会釈をする。すると集は、
「おはよう! 渉。そして、ええと、ゆか……いや、汐町さん。おはようさん」
「……おはようございます」
斜め下へと視線を逸らす。
「はは、冷たいな。あー、それで。あそこの受付にいる人たちはな、うちの職員だ。俺とは違う課で、社会教育課だ。今回のメインスタッフになる。で、渉と汐町さんが学生スタッフで、手紙のとおり風船釣りをやってもらう。ちなみに俺は教育総務課。動員要請に応えてる」
「へえ……」
一階フロアを見渡す。
目前には、階段とエレベーター。右手を向くとガラスケースがある。野球やサッカーなどの記念品が並んでいる。
左側には広大な廊下が広がっていた。色々な部屋に繋がっているようだ。最奥にはトイレがある。
……利用者受付の奥にいくつもの机が置いてある。事務室だろうか?
「珍しいか」
「俺、山の方に住んでるから。こんな建物はぜんぜん」
「渉。ここからだいぶ離れてるけど、ハッピーマウンテン市の中心には十一階建てのお店もあるのよ」
「十一階!?」
「はは、よし。そろそろ準備に入ろうか。こっちだ」
俺達は外に出た。
すぐ脇に立ててある看板には、「親善フットサルフェスタ」という文字が入っている。さらに、「来賓 市議会議員 喬木直利 様」とある。
自動ドアを出てすぐ、正面の奥に自動販売機が見えた。その脇には、しぼんだ丸型の家庭用プールと空気入れ、ホース。それと長机、椅子が二つ、白い手提げカゴが置いてある。「風船釣り 一回200円」と書かれたプラスチック製の縦看板も。
近付いていくと、カゴの中が見えた。空気を入れる前の風船と、注射器みたいな形のなにか、輪ゴム、風船を釣るための針金と糸、プラスチックの極小パーツ、これまたよくわからない形状のプラ製の道具、バインダーに挟まった売上表、手提げ金庫、筆記用具……などなど。
「由香里、これ」
「あたしもわかんないわよ。どうすればいいのか」
「二人とも。まずはプールを膨らませよう。そのあと、このホースがあっちの蛇口と繋がってるから、プールを水で満たそうな。で、プール作りが落ち着いたら、次は風船を作る。しんどい作業だ。九時までにやってもらう」
「よおし!」
プールの空気栓にエアーポンプを繋ぐ。足で踏むタイプだった。踏むと、スコスコと音を立ててプールが膨らんでいく。
「渉。そんな感じだ。ある程度、膨らんだら水を入れていい。さて……」
由香里を見ると、白い手提げカゴから風船を取り出している。説明書らしきものを一瞥したなら、
「三良坂さん、教えてよ。これ、説明書があるけど、あたしだけじゃできそうにない。三良坂さん、できるんでしょ」
「いいね。積極性マル」
集はそのカゴから風船をひとつ取り出した。
「ああ、そうか。だめなんだ。水がない。おい渉、空気入れるのやめて、向こうにある蛇口をひねってくれ。自動ドアの右手に散水栓があるから。プールの空気は俺が入れとく」
サンスイセン? なんか、以前も聞いたような。とりあえず蛇口があるのだろう、と思う。
「はいよ」
自動ドアの方に走っていく。視線は、その右手側へと。
ええっと、サンスイセン、サンスイセン……。
「……ない!」
「あるって。ほら、今踏んでる!」
「踏んでる?」
真下を見ると――すっかりと銅色に錆びた蓋がある。よく見ると「散水栓」と書いてある。
……蓋をめくる。中に蛇口がある。ひねった。
「そうだ、いいぞ」
集が握っているホースの先から水が噴き出した。足元にあるエアーポンプを踏みながらプールを満たしていく。
俺は走って戻る。
「散水栓……街中には、こんなのがそこら中にあるのか」
水で満たされつつあるプール。俺と由香里は楽しげに見下ろすばかりだった。
家庭用プールなんてものを直接見るのは、今日が初めてだったから。
シュコ、シュコ、シュコ、シュコ……エアーポンプの音が響いている。
集が足を休めた。その場で屈んだなら、カラの水風船をプールに投げ入れる。
「よし、と」
ホースをプールに突っ込んだ。
「うおっ」
中途半端に突っ込んだので、水の勢いでホースが飛び出した。
集の足元が濡れてしまっている。慌てて元に戻す。
「いいか。風船釣りの核である風船を作っていくんだが……まずはこんな感じだ」
その手には、さっきの注射器みたいなやつが握られている。
注射器に水を入れて、今しがたプールに漬けたばかりの水風船を手に取った。そして、
キュ、キュ、キュ……!
ピストンとともに、水風船が水風船になって(?)いく。
十分に水を入れたなら、次は長机の方へと。
「まずは、この水風船の口に輪ゴムを二重にはめる。緩めでいい……さて、次が難関だ。このすごく小さい、口が開いたプラスチックのパーツがあるだろう。これをこの、お手軽パッチン、いや、俺が勝手に名付けたんだが……このセロハンテープの台みたいな器具にだな、こう、置くんだよ。それで……」
説明しながら集は、お手軽パッチン? の上部にプラパーツを置いた。次いで、水風船に巻いた輪ゴムをプラパーツの口に噛ませつつ、ゆっくりと力を入れて、真下へと――パチンッ!
「おおっ!」
「こうやって作るのね」
見事、水風船の口に極小のプラパーツが嵌まり込んだ。プールに投げ込んだところ、一滴の水も漏らさない。
「これを……九時までに五〇個作るんだ。あと四十五分で」
「五〇個!?」
「それで、料金は一回200円。釣れなくても残念賞で一個渡す。営業中に風船が足りなくなったら、追加で生産を行ってくれ。営業時間は午後三時まで。目標売上は……一万円」
「一万円!?」
「そうだ。ちなみに、去年の売上は9,300円。俺がひとりで担当した……どうだ、できるか」
「……」
「やります」
尻込みする俺をよそに、由香里がスマイルで応える。
「由香里、できるのか。一万円だぞ」
「ここで臆しちゃだめよ。成せばなる!」
「汐町さん、男前だね」
……わかる。由香里には計算がある。
俺なんて比べ物にならないほどの頭の回転でもって、『一万円でも大丈夫』という結論を導いたに違いない。
* * *
「ぜんぜん作れないぞ……」
「厳しいわね。あと30分で始まるのに、まだ25個しかできてない……あんた、何個作った?」
「五個」
「……」
きっと呆れてるんだろう。
俺は水を入れたばかりの風船を、お手軽パッチンに置いたプラパーツに挟んだ。真下へと力を込める。
風船の口を縛っている輪ゴムへと、挟まっていくプラパーツ。
……パキッ!
「渉、どう?」
「だめだ。とうとうプラパーツが折れてしまった」
風船の口がなかなか挟み込めない。たまには成功するのだが。
「なんでだろうな。由香里、やってみせてくれ」
「はいはい」
軽くかぶりを振ってから俺の前に出る。
真後ろにいることで、髪の香りが漂ってきた。思わず身じろぎをする。
「いい? 水風船の口に輪ゴムを巻いたら、このプラスチックのやつに挟むんだけど」
風船と向き合う。真剣な顔つき。
「この時、輪ゴムに噛ませるのは、ほんのちょっと。ガッツリ噛ませると、さっきみたいになっちゃう。一度失敗すると使い物にならなくなるみたいよ、このプラパーツ」
由香里は屈み込んだ。手元に視線をやる。
「さて、それでは――」
力を入れる。輪ゴムを噛みつつあるプラパーツ。
お手軽パッチンが、プラパーツを水風船の口に嵌め込んでいく――パキンッ!
「できたかしら?」
水風船をプールに漬けてみる。
……ブクブク。風船の口から気泡が出ている。
「だめね。これ、いつかはしぼんじゃう。ごめんね。参考にならなくて」
「十分だ。よーし、やるぞっ」
* * *
時刻は、午前八時五十五分。
「できた!」
最後に巻き返してなんとかなった。ちょうど、集が玄関から出てくる。
「お、できたか」
プールの水面に浮かんだ、色とりどりの水風船。
赤と白、黒と青、橙と緑など、原色の組み合わせが多い。
『……あっ!』
そうだ。公務員になりたいこと、相談したいんだった。
「よしよし、ふたりともよくやった。これやるよ」
ビニール袋が差し出された。缶入りのジュースがたくさん入っている。
「これ、どこで買ったんだ」
「この館内だ。うどんとかフランクフルト、ジュースの販売をするんだ。先に買ってきたってわけ」
「サンキュー! やっぱ炭酸だよな!」
炭酸飲料に目がない。ロクに小遣いもないのに、新しい商品を見るとついつい買ってしまう程度には。コーラを手に取る。
「そーだよな、渉。男だったら炭酸一択だよな! ええと、汐町さんはスポーツドリンクでいい?」
「いらないです」
「なんで? タダなのに」
「三良坂さん、公務員なんでしょ。これも一応、贈収賄に……」
「由香里。本当は好きなんだろ」
俺はビニール袋からスポーツドリンクを取り出した。
「……渉がそういうなら」
由香里が缶を開けた。パキリ、という開缶音とともに、グイッと勢いよく飲み始める。
……横目で、ちらちらと由香里を見ていた。水分を流し込んでいる喉の様子がわかる。喉仏が膨らんで、しぼんで。膨らんで、しぼんで。
ただ、なんとなく。本当になんとなくだった。見ていたくて。ずっと。
「いよっ、飲みっぷりが男前! 女なのに」
集だった。
「ブフッ!」
由香里は煉瓦タイルの上にジュースを吹き出してしまう。
「おい! だ、だいじょう――ぶしえええええええええええええええぇッ!!」
刹那。右ストレートが集の胸部に直撃していた。その一撃は圧縮された空気の炸裂をそのまま体現するかのように、大人の肉体を撥ね飛ばした。
「集、大丈夫か!?」
立ち上がるも、腰を押さえている。
「あ~、痛って……」
集がこっちに戻ってくる。仁王立ちの由香里。
――対峙。
「汐町さん、冗談きついって。俺も悪かったけどさ」
「あなたも
憮然とした様子でこちらを振り向く。
「由香里。そこのベンチで休もう」
俺の手を取った由香里。ベンチまで歩いていく。
途中で振り向いて、口の動きで集に「すまない」を伝えた。