午前七時五〇分。
国府第三中学校を見下ろせる丘にいる。
左手の方向には、山の斜面に真っ逆さまに突き刺さった文化会館が見える。
「はあ……」
暗い面持ちで丘を降りる。道路に出ると、左に曲がってまた歩き出す。
――蒸し暑い。そろそろ学ランを脱ごうか。
「おーい!」
「!」
背後からだった。俺の首元をガバッと抱いてくる腕が。
「早起きじゃの」
尚吾だった。
不良のくせに朝早く登校するものだから、通学路でよく会う。
「お前こそ」
「んん? ワシが早起きしとる理由を聞きたいんじゃな?」
「違う」
「それはのう……おっ!」
途端、よそよそしく距離をとる。
「なるほど……あれか」
自転車に乗った女子高校生が走ってくる。もうじき、すれ違いそうだ。
……国府高校のセーラー服を着ている。髪は後ろでポニーにしてある。肌の感じが瑞々しい。
思っているうち、すぐ横を通っていった。俺たちと反対の方向に。
「尚吾、ああいうのが好きなのか」
「まあの。あれが見たくって、毎日こうやって早起きしとる」
「ふーん。国府第三中学校最強の男がねー」
「最強はお前らじゃ。奇跡が起きても勝てんわ」
「
「それは……」
尚吾は一瞬、頭を悩ませる。
「それでも勝てん。思い出したわ、昔、お前に骨を折られかけたこと」
「あれは尚吾が悪い。なにがどうして、○○を小屋に××んで△△……」
尚吾がまた、俺の肩に手を回す。
……昔からそうだ。こいつなりの親愛表現というやつ。
「なあ、渉。ぜったい」
「うん。絶対言わない。約束な」
* * *
午前八時三十分。
チャイムが鳴った。朝礼が始まる。
いつもどおりの、変わり映えのしない教室。ざわめきは、大きくなったり、小さくなったり。うるさいはずなのに、教壇にいる和田先生が出席簿をめくる音がはっきりと聞こえてくる。
『……おかしい』
なんでだ? どうして、みんな文化会館のことを気にしないんだ?
あの山に、しっかと逆さまに突き刺さってるじゃないか。それなのに。
「はい、みなさん。静かにしてください」
あまり効果はない。半分以上が無視している。
「……」
和田先生は、何も言わない。
「……」
和田先生は、何も言わない。
「……」
和田先生は、何も言わない。
「……」
……静かになった。
和田先生は教室中をグルリと見渡す。
「はい、静かになりましたね。一分七秒もかかりました。人の時間を奪わないようにしましょう」
どうしてだろう。なんというか、威厳というか。
大人の中には、そんな声色が身に付いている人がたまにいる。和田先生も、そんなひとりだ。
「今日から箱田くんが復帰します」
みんな、どんな顔をしてるんだろうか。
「時間が経って、箱田くんも考えることがたくさんありました。共に学ぶ仲間の復帰をお祝いしましょう」
言い終わると、教室の外に出て箱田を呼んだ。
やがて、先生に導かれ、おずおずと教室内に入ってくる――
「……」
すっかりと自信をなくした様子で、たどたどしい歩き方だった。
微かな調子で、『おはよう』とだけ告げて、自分の机まで歩いていくと、ガタッ! という音がして――
「箱田くん!?」
箱田が尻もちをついていた。
これは、箱田の真後ろにいる席の不良――かつての仲間――が椅子をこっそりと動かし、位置を変えたことによる。
「なにをしているの!? 箱田くん、大丈夫?」
箱田は何も言わない。黙って立ち上がる。和田先生が心配そうに見つめている。
俺はそんな様子を醒めた目で眺めていた。
「和田先生の言うとおりだ! 恥ずかしいと思わないのか」
ここぞとばかり、安田が吼える。
「あ? なんだよ」
「度を越えてるって思わないのか? 病み上がりの人に。自分がそういうことされたらどう思う? 考えて行動しろよ」
絶好調だ。相手が答えに窮している。そして、ひと呼吸おいたなら、
「……冗談だよ。わかってる。あとで箱田くんと仲良くするためにわざとやったんだよね?」
「ん……まあ、そうだよ」
ここで助け船を出すとは。あいつはいろいろと次元が違う。良い意味でも悪い意味でも。
「失礼しました。和田先生、朝礼の続きをお願いします」
和田先生は安田を一瞥すると、いま座ったばかりの箱田に視線をやった。
教室内は、いまだ静寂に包まれている。
あれ? おかしいぞ。普段だったら、もうとっくに喧騒が支配しているはずなのに。
「みんな、ちょっと聞いて。いい? ……それじゃ、言います。人間はね、失敗する生き物なの」
今の俺は、むず痒い顔になっている……と思う。
「どんな風に生きようと過ちを冒します。けど、一度も失敗を冒さないで幸せになることはできません。だから、時には道を誤ることがあっても、必要なことなんだって自分に言い聞かせてほしいの」
生徒一人ひとりの顔を見ながら、
「でも……悪いことをすると、必ず見つかります――どんなに隠しても。どうしてだと思う?」
静寂。
「神様が見ているから。だから、どんなことだって隠すことはできません。そして、罰が当たる」
悲しげな視線を箱田に送るとともに――近付いてゆく。
「でもね。失敗を犯した人を攻めても、自分が偉くなるわけじゃない。それどころか、他人を貶めることでしか自分を満たすことのできない惨めな人間が誕生する」
小さな声で、箱田に声をかけると――席を立った。
視線が集まる。
「みんな、見て。箱田くんの制服を」
箱田に視線をやる。
……学ランのボタン。すべて留まっている。さりげなく主張した、首筋からサッと覗いた襟のカラー。ズボンには丁寧にアイロンされた痕が見える。縦のラインがすらりと通っている。
まさに、ピタッとした着こなしだ。黒というスマートな一色を体現している。
「見てのとおり……完璧な着こなしです。箱田くんは、一年生の時から毎日こうやって、正しい制服の着こなしを実践しています」
おお、という大らかなざわめきが教室内にこだまする。
「いい? みんな。どんな人にでも良いところがあるの。そういう、人の素晴らしいところを見つけることができる。そういう人が、本当に良い人なの――みんなは、どうかな? ほかの人のいいところ、見つけられるかな?」
箱田の顔は、先ほどとはうってかわって朗らかだ。てれくさい笑みが覗いている。
「……」
俺は後ろを向いた。
「なに、渉? どしたの」
今、生まれたての言葉を並べてみる。
「よく見たら可愛いよな。今日」
――呆気にとられた面持ちとともに、その顔を真下に向ける。
『いや、よく見たらじゃなくて、昔から……』と言いかけたところで、
「えっ、あ……も、もしかして、渉。わかるの? あたし、今日は、ほら」
ウインクを繰り返した。目の下がほんのりと赤い。
「それって……」
「こ……これ? チークよ、チーク」
よく聞き取れない。
「チンコ?」
「そうそう、チンコ! それをね、目の下にね、こうやって当てて擦って……」
ガッ、ゴッゴゴゴアkガガガガガガガqgッ ゴンッ!!
凄まじい威力の蹴りだった。俺の体が、机ごと黒板まで蹴っ飛ばされてしまうほどの。
騒然となる教室。悲鳴まで上がっている。
ゆらゆらと立ち上がって、由香里の顔を――
頬に涙が伝っている。でも、おかしい。悲しみの色が伝わってこない。そう、まるで、
「これ……誰の涙?」
由香里が呟いた。本人にも涙の意味がわかっていない。
「あ、な、た、た、ち……」
声でわかる。憤怒に染まった和田先生の顔つきが。
全身に打ち広がる痛みと対面しながら、呟く。
「……え? なんだこれ……これでいいの?」
いいわけねーだろ。