月星花伝 gessyo-kaden   作:渡邉 実一

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#08:冷たい氷みたいに(前)(2/3)

 六時間目。本日最後の授業だ。あくびをしながら聞いている。

 キャンパスノートよりも小さい国語の教科書。その中ほどにある話を小山先生が朗読している。話がようやく完結したところだ。

 その題名は、『ベロ出しチョンマ』。

 

 ……あるところに長松という少年がいた。あだ名はチョンマ。彼の特技は、面白い顔をすること。妹が、あかぎれになった手の包帯を取り替える時に痛がって仕方がないので、眉毛をハの字にして舌を出すという表情をつくって、痛みを紛らわせてやるのだった。

 その年は、飢饉だった。年貢の負担があまりに多く、チョンマの父親が将軍への直訴を試みるが、失敗。一族郎党死罪となった。

 磔にされたチョンマとその家族。迫りくる槍、鋭い切っ先。恐がって泣き叫ぶ妹を、チョンマはいつものように面白い顔であやすのだった。自分が殺されるその時まで。

 その後、直訴が認められ、年貢は減らされた。助かった農民達はチョンマの家族を祭るための神社を建てた。何度も役人に壊されたが、何度でも建てられる。今では、その地で祭りが行われる時には、ベロを出した長松の人形が飾られるのだった。……

 

 

「ああ、つまんねえ。なんだよこれ……面白い顔ってどんなだよ……」

 

 つい、考えが口に出てしまう。

 

「どうでもいい? いや、違う。この感情はなんだ?」

 

 ここで、パン、パン、という手を叩く音がした。小山先生によるもの。

 

「それじゃ、いいかな……今日、この話を読んで、聞いて、どんなことを思った? このお話は、江戸時代を背景にしている。地理歴史の赤木先生から習ったかもしれない。身分制度と差別について。幕府の将軍が豊臣秀吉だった時代に、被差別集落で暮らしていた穢多(えた)や非人と呼ばれていた人たちを最底辺に据えた身分制度が作られた。彼らは、当時は実在を信じられていた『穢れ』なるものを一身に集めることをその生業としていた。幕府は、この身分制度を利用して安定した統治を進めた。農民に対しては、生かさず殺さず。絞れるだけ年貢を絞り取る。困窮した農民は一揆を起こさざるを得なくなるが、その抑止力として、被差別集落に暮らす人々の存在があった。幕府の言い分はこうだ。『農民の暮らしが辛いのはわかる。だが、あの連中を見てみろ。汚物や罪悪に塗れて、あんなに苦しい生活をしている。それに比べて、自分達はまだ幸せな方だ』というのがお決まりの論法だ」

 

 捲し立てる小山先生。気迫に溢れた調子で喋り続ける。

 

「それだけじゃない。その次の時代、徳川政権となって以後は、集落に住んでいる人たちの税金を……」

 

 沈黙――生徒らの様子を伺っている。やはり、一部がお喋りに興じている。

 

「被差別集落に住んでいる人たちの税金を――全額免除したんだ」

『……え?』

 

 どよめきが広がる。え、どうして、といった声がクラス中から聞こえてくる。

 

「税が免除になったことで、集落に住んでいる人達の生活水準は向上した。『穢れ』という重みを除いて……さて、みんな。なんで税を免除したんだろうか」

 

 誰も答えない。答えることはできないだろう。と、ここで――

 

「反乱を防ぐ。そのための保険です」

 

 篤が声を上げる。どういうことだ? 反乱を防ぐって。

 

神部(かんべ)くん。続きを答えてみて」

「統治者にとって、最も避けねばならないのは反乱です。反乱を押さえればよいという問題ではなく、たとえ小規模な反乱であっても、それ自体が統治者への不信となって民衆に伝わります。ここで、集落に住んでいる人間の立場になって考えてみますと、先生のおっしゃるとおり、生活水準が高まったのであれば、穢れをその身に受けても構わないと考える人達もいることでしょう。しかしながら……」

 

 ひと呼吸おく。

 

「一般民衆はどうでしょう。自分達は税金を納めているのに、あいつらだけは免除されている。そんなのはずるい。お前たちはそのままずっと穢れを背負っていろ、と思うようになります。そして、ここからが肝心なのですが……統治者が為政者として相応しくない行動を取り続けた場合、当然に革命的運動、一揆が起こらなければならないところ、民衆と集落民が反目しあっている状況では、民衆側が一枚岩になることができないのです! ……革命的運動を企てるのは、人格・見識ともに優れた人間であるはずです。彼らは考えます。『民衆側が一枚岩になることができない状況で蜂起してもよいのだろうか?』と。これは、政治的に有効な戦略です。同じ身分の者同士で優劣をつけて扱うことにより、その集団間の団結を防いでいるのです」

 

 雑談に興じる者はいなくなった。本当にゼロだ。

 小山先生は涙目だった。感動に打ち震えている――

 

「神部……そんなに人権教育に熱心だったなんて……先生、嬉しいよ。君のような生徒が、人権感覚に溢れた社会を作っていくんだ!」

 

 先生の心が乗っている。今までに感じたことのない、体の底から込み上げてくる力によってその身を支えているようで。

 

「さあ、それでは授業の続きといこう。時間が少ないから、巻いていく……さて、こうして差別を受けた人々は、江戸時代という近世を超えて、明治時代になっても救われることはなかった! 『四民平等』という形だけの近代化とともに、皇族や貴族が一定以上の収入を保証されたのに比べ、彼らには何も与えられなかった。ただそこには、名前だけの『平民』という肩書きがあるに過ぎなかった。いや、もっとひどい。というのも、江戸時代には、被差別集落に住んでいる人々が生業としていた――食肉業や皮革業、刑務官、葬儀業といった、法や慣習に確証づけられた専門の仕事があった。しかしながら、明治時代になると、これらの仕事が近代企業や公務員に奪われてしまう。そして、免税権も失われたことで本格的に困窮してくる……でも、これで終わりじゃないッ!」

 

 黒板を叩いた。凄まじい気迫だ。

 

「集落に住んでいた人たちが『平民』となることを、民衆がどう感じたかというと……自分達が低い身分の者と一緒になると考えたんだ。そして、怒りの矛先は明治政府ではなく、集落に住んでいる人々に向けられた……これが今でも尾を引いている。そういう、差別を受けた人々が集まり住んでいたところ……みんなも知っているだろう、それが被差別集落なんだ。ここに住んでいる人たちと、私たちの間には壁がある。差別という名の、歴史の壁がある! この際だからはっきり言おう、私達の先人は誤った道を歩んできた。だから、今のような状況になっている……同じ人間であるはずなのに……。先生、思うんだ。みんなには、自分から喜んで差別をするような人間になってほしくない。周りの大人が、どんなことを思っていようと関係ない。いや、それどころか、家に帰ったら、おとうさんやおかあさん、おじいさんやおばあさんと、このことについて話し合ってください。そのなかで、もし差別を肯定するような発言があったら、勇気を持って断じてください。『ねえ、それは間違っとるよ。いけんよ』って……小山先生は、思います。みんなには、『差別』と戦うことができる勇気のある、そういう人間になってほしいと願っています……はい、今日の授業はこれで終わりです」

 

 チャイムが鳴った。すべてを出し尽くしたような雰囲気の小山先生。手早く教材を片付けて、教室を出て行った――

 

「なあなあ、篤」

 

 前の席にいる篤に話しかける。

 

「渉。訊ねたいことはわかってるよ。ほら」

 

 篤は、机の中から文庫本をチラリと出してみせる。

 どれどれ……『○×差別の構造とその思想』? よく読めない。難しいことが書いてあるんだな、ということをタイトルから察する。

 

「うーん、俺には真似できないな。篤って、やっぱりすごいよ。冗談抜きで」

 

 今ので最後の授業だ。今日という日がようやく終わる。

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