月星花伝 gessyo-kaden   作:渡邉 実一

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#08:冷たい氷みたいに(前)(3/3)

 カバンを揺らして、下駄箱へと。

 くたくたになったスニーカーに履きかえて、校門に向かう途中――駐輪場が目に入った。アルミベンチがある辺りに視線を移す。

 由香里がいた。いつもは教室に残って、篤や砂羽と一緒に宿題をこなしているはずの。

 一緒に話しているのは――集だった。声をかけようとして、止まる。

 

「やめとこう」

 

 ふたりの顔は見えない。

 なんだか、話しかけるのは間違いだと思った。由香里は……笑っている? 感じだった。

 集と仲良くする気になったんだろうか?

 

「……」

 

 頭を擦りながら歩き出す。校門を越えると、今日で何度目だろうか――逆さまの状態で山岳にめり込んだ文化会館が目に映る。

 

「ニュースにもなってないし……」

 

 三六〇度、周りを見渡してみる。異常などあろうはずもない。

 

「暇だし、跡地にでも行ってみるか……ん?」

 

 誰かに名前を呼ばれた気がした。

 

「……」

 

 気のせいだった。

 

 *  *  *

 

 午後五時ちょうど。

 文化会館、いや文化会館跡は、国府第三中学校から歩いて二十分少々のところにある。

 

「……ひどい。具体的には、アリの巣に大水を流し込んで一昼夜過ぎた後の真っ黒い地面みたいに」

 

 立入禁止の看板が随所に掲げてある。俺は今、その前に居る。

 建物があった場所の淵々は、むき出しの大地になっていた。内側に大穴が空いており、底は不自然なほどの闇に染まっている。

 報道機関と思しき人々が、堂々と敷地内に入って写真を撮っている。

 そんな様子をじっと見ていた。見ていると、ふいに梔子ほのかのことを思い出す。

 

「あんな概念力(ノーション)、反則だろ」

 

 ――いてもたってもいられなくなる。杭に張ってあるロープを潜り抜けて敷地内へと。

 恐る恐る、其処に近付く。

 

「どれどれ」

 

 地層の底にある、岩盤? と思しき、ぐにゃぐにゃとしたカタマリが立ち昇っている。地面からの高さは2メートルほどか。しばらく、それを眺めていた。

 おもむろに、落ちていた石を拾い上げる。記念になると思いポケットに入れた。

 

「ちょっと、そこどいてね」

 

 新聞記者に押されてしまう。

 

「あ! すいません」

 

 大きなカメラを構えていた。その人は、ひたすらにフラッシュを焚き続けている。

 彼に続いて、何人もの記者がこちらに歩いてくる。焦っている様子だ。

 別の方向に目線をやった。すると、『危険! 何人も立ち入りできません』という看板が退かされていた。記者団に視線を移す。

 

「次の記者会見はいつだって?」

「一週間後だってよ。煮え切らないよな、こんな騒ぎ起こしといて」

 

 彼らのうち、カメラを所持していない男がいた。

 

「おかしいと思わないか? 地元紙が一社もいない」

「チーフ。そりゃ、あれですよ。昨日のうちに撮ったんでしょう」

「地元のマスコミは今回の事件を取り上げてすらいないんだぞ? ……もういい。三箇所から撮ったんなら十分だ。帰るぞ」

 

 チーフと呼ばれた男が指示を出す。そんな様子を眺めていると、

 

「……なんだ? これ」

 

 寒気を感じる。

 

「おいおい、なんだこりゃあっ!」

 

 見えない! 見えなくなった。敷地外が暗闇になっている。いつの間に?

 ……暗闇のはずなのに、なぜか明るい。周りが見える。どうやら真上は塞がっていないようだ。

 

「立入禁止の札が見えなかったかしら? あれは私が立てたものよ?」

 

 いつの間にか、女が立っている。

 先日、体育ホールで喬木議員を守っていた人だ。あの時と同じく、紺色調のレディース? スーツを身に付けている。真白のブラウスに、縁のない眼鏡、後ろでひと結びに束ねた髪。

 

「おい、あんた! なんのつもりだ? ここから出せ。そんなんだから、あんたたち使用者(エッセ)は……」

 

 この場にいる記者は、十人少々といったところ。誰に導かれるでもなく集まり始めている。

 

「そうだ! こんな事件を起こしといて、なにが立入禁止だ。ジャーナリストにはな、使命ってもんがある」

「……」

 

 女は無言のまま、こちらに歩いてくる。彼等の数メートル手前で停止した。

 そして――口を開く。

 

「思い上がった連中。救いようがないわね……子どもまでいるじゃない……喬木様、処理はどうしましょう」

「!?」

 

 身震いを隠せなかった。いつからだろうか、記者たちの背後に――喬木議員の姿があった。

 

「うわぁっ!」

「なんだこのオッサン? これがあの、概念力(ノーション)ってやつなのか?」

 

 ――彼は、以前と変わらない。スラリとした長身に、角刈りが似合っている。男前という言葉がぴったりと似合う、初老ほどの男。

 

「近頃のマスコミは礼儀がなっとらんのう」

 

 今しがた、三人組で話していたうちの一人、カメラマンへと近付いたなら――殴り抜けるようにして首根っこを掴むのだった。

 

「おい! あんた、警察……ぽぎぃッ!」

 

 弾けた。

 その表現が相応しいかはわからない。が、確かに今、この男のアタマが散り散りに弾け飛んでしまったのは確かだ。四方八方に噴き出した鮮血が、喬木の体を染め上げている。

 悲観、憤怒、憎悪、警戒、狼狽――ありとあらゆるマイナスの感情がこの一団を支配した

「高森よ、今ほどの感じでよかったか?」

「はい。喬木様、お手伝いいただきありがとうございます。ですが、この程度の連中でしたら、そうやってアタマを抑えていなくても楽に始末できますわ」

「ははは、そうかそうか。では」

「!?」

 

 ――見えない。俊敏とか、そういうレベルの問題じゃない。

 チーフと呼ばれていた男のネクタイが掴まれている。喬木はそのまま、自分の方へと引っ張り込む。

 彼の正面を、高森と呼ばれた女に向けた。

 

「あああッ! あーーーーーーーっ、あーーーーーーーーーーーーっ、す、すいません、すいあmせんんんtsっ」

「そう喚くな。ところで、君。立入禁止と書いてあったじゃろ。にもかかわらず、写真撮影をしていた理由は? どうせまた、ろくでもない報道でもするつもりだったんじゃろう?」

「あ、あ、市が、市役所が情報を提供しないから。かといって、こんな大事件を取り上げないわけにもいかず……で、でも! ただ、撮ってただけで! そんな、卑しい形での報道なんて、まともな報道しか、考えておりませんッ」

「ほお。例えば、記事タイトル『建物滅失 原因不明』のように、あくまで、謎は謎のままで済ませるつもりだったということじゃな? 間違っても、『完全破壊! 使用者(エッセ)による処刑場と化した備後国府!』のようなタイトルは考えていなかった、ということじゃの?」

「はい、そのとおりですっ!」

「嘘をつくな」

 

 女が指を鳴らした。

 男の身体がビクンッ、と震えるとともに――目と鼻と口から鮮血を噴き出して地面に沈んだ。

 ――狂っていた。二つの意味で。

 一つはもちろん、恐怖に塗れて右往左往している新聞記者であり、もう一つは、この場を処刑場と化しているあの両名である。

 

「さて、ひと段落したの。よし、次は……」

「思い出したぞっ! 市議会議員の、喬木直利だな! ……いいか、おい。こんな暴虐、誰にも知られずに済むはずがない! 後で死ぬような目をみるのはお前らだ! この建物の跡は……使用者(エッセ)、そう、しかも国府(こうふ)の森によるものだろう。あそこは穏健派と聞いている。こんなことが知れたら……!」

「おお、そうじゃの。そのとおり。国府(こうふ)の森は、聚落(じゅらく)の名門中の名門にして、穏健派じゃ。しかし……だ。おい」

 

 喬木の視線が、女へと。

 

「初めまして、皆さん。お会いしたことがある方もおりますね。高森と申します」

「あ、あ……」

 

 誰かが、「人事課の職員だ! 市役所の」と叫んだ。

 

「いいえ、違います。それは第二の身分……それでは、あらためて挨拶をいたします。広島県の聚落(じゅらく)がひとつ、国府(こうふ)の森――初等魔術教育監の高森千尋と申します。緑ノ団の進路指導主事、及び能力開発を担当しております」

「……」

「ああ、勘違いなさらないでください。私は地方公務員ですが、それは第二の身分だと言っています。国民全体の奉仕者であるよりも前に、国府(こうふ)の森に住まう使用者(エッセ)全体のための奉仕者なのです。さて、ここまで言った以上は、あなた方の命がこれから蹂躪されるという事実を当然に導くことができますね?」

 

 記者達は、微動だにしない……いや、違う。固まっている。

 喬木が彼らの元に歩いていく。

 

「残念だったの。わしはのう、国府(こうふ)の森の利益代表者(スポンサー)のひとりなんじゃ」

 

 彼らは放心している。そう、まるで、己が死を悟りきったような――

 

「待て! 待ってくれ!」

 

 俺は叫んだ。喬木がこっちを見る。

 

「おお、少年。前にも会ったのう」

 

 凄まじい視線。気圧される――

 ふいに喬木が笑んだ。

 

「心配せんでいい。同じ使用者(エッセ)のよしみじゃ、お前さんは逃がしてやる。興味本位でここに入ってしまったんじゃろ? ええ、ええ。許す」

 

 戦う前から負けてなるものか。なけなしの勇気を振り絞ったなら、

 

「喬木議員。言いたいことがあります……もう、十分だと思います。あの人たちは反省しています。これ以上はいいでしょう」

「……ほお?」

 

 形相が変わる。

 

「どうやら、お前さんにはわしの力が及ばないようじゃ。おかしいのう、使用者(エッセ)にも効果はあるはずなんじゃが。まあ、こんな少年を痛めつけるのも忍びない。では――」

「!?」

 

 おぞましいまでの恐怖感。心の内に広がっていく。心臓の底から立ち昇ってくる真っ黒い感情に、大声を出したくなる。

 

「これで最大出力じゃな。どうじゃ? わしの概念力(ノーション)は」

「……くそ」

 

 自らの顔を殴った。全力で。とともに、喬木に向かって走り出す。

 距離は近い。残り――

 

「!?」

 

 とある方角からの印章(シンボル)を肌で感じる。

 

「ぐぅっ!」

 

 謎の衝撃で吹き飛ばされた。地面から隆起した岩盤に叩きつけられる。

 

「ぐ! あ……くそっ、もうちょっとだったのに……!」

 

 地面に突っ伏した状態から、なんとか起き上がる。

 ……女の方を見た。不敵な笑みを浮かべている。

 

「あら、ごめんなさい。子ども相手につい。もう少しで殺すところだったわ」

 痛みを堪えつつ、喬木に視線をやる。先ほどと変わらず、超然としてこの場に佇んでいる。

「た……喬木議員!」

 

 思い切って喋りかける。

 

「やめにしませんか! あなただって、昨日、危ない目にあったじゃないですか。自分の命と同じように、他人の命も大事にしてください!」

 

 幾秒かをはさんで――喬木の身体に震えが見られた。

 

「ぶふっ! はははは……! い、命……!? はははははっ」

「俺、なにかおかしいこと言いました?」

 

 中腰で立っている俺の、すぐ傍に寄ってくる。

 

「あれか。あれはな、ああいう演出だったんじゃ」

 

 ヌメリとした、しゃがれ声。

 

「……」

「おお、少年。どうした? 別に、意図を理解しろとは言っておらん……それにしても、この状況で……なかなかのタマじゃ。どうだ、中学を出たらわしのところに来んか?」

 

 喬木を見上げた。睨みつける。

 

「なら、問います。いまここにある風景は、わざとですか? 違うでしょう。だから、あなたは今ここにいる。計画していないことが起こったから気が気でない。違いますか」

 

 顔を歪ませる。図星だろうか。

 

「あなたの顔、薄らと隈ができている。肌も黒ずんでる。昨日、大量に質料(ヒュレー)を消費したんじゃないですか……その能力で、人々の認識から文化会館を消すために」

「……はははははっ!」

 

 笑い声を上げる。

 

「そのとおりじゃ。昨日はあれから参ってのう。何十年か振りに過労死すると思ったわ……齢は取るものじゃないのお。いや、まったく! ……高森よ、ここにいる者は全員、始末だ」

「かしこまりました」

 

 悲嘆に満ちた声とともに、記者らが暗闇の方に逃げ出していく。

 

「やめろッ!」

 

 ――血。

 それだけ。それだけしかない。

 悲鳴は、案外ほとんどなかった。あるのはただ、肉が裂け、脳が飛び散っていくだけのシュールな光景。たった、それだけだった。

 意味のある言葉を漏らすでもなく、俺は立ちすくむことしかできない。

 

「あ……あ……」

 

 血。死んでいる。先ほどまでは心臓が脈を打っていた。

 血。死んでいる。先ほどまでは命乞いをしていた。

 血。死んでいる。先ほどまでは必死に逃げ回っていた。

 うめき、わめき、ざわめき、雄叫び、絶望、怒り――たったこれだけの間に、負の感情が満ち満ちてしまう。

 

「……教えてくれよ、喬木議員。なんでこんなことするんだよ」

「よかろう。冥土の土産に教えてやる。本当なら、あの場でわしを襲った連中を高森が皆殺しにして終わりじゃった。翌日の新聞記事には、『また暴走、特殊概念能力使用者』といった記事が踊っておったじゃろう。民衆は使用者(エッセ)に恐怖する。が、それこそが営業活動のタネになる……そうじゃ、常人が持ちえぬだけの強さ。使用者(エッセ)が一般市民を凌駕しとるのは、このぐらいしかないからのう。しかしだ、聚落(じゅらく)の出身者は相当な数が仕事にあぶれておる……わしはな、今日、色々な資料や証人を引っさげてのう、記者会見を開く予定だったんじゃ。わざわざ何人かの婦女子を助けてな、あの日、文化会館にいたのは正しい志をもった使用者(エッセ)であって、そういう連中だったら世の中の役に立つ、と。そういう思いを世人に持ってほしかった! そして、新たな転職市場を開拓するんじゃ。転職エージェントの連中にも声をかけてあった! それが、こんなつまらんことに……」

「バカも休み休み言ってくれよ」

 

 あまりに馬鹿らしくて声に出てしまった。

 

「いいえ、違いますよ。少年」

 

 右手の関節をパキパキと唸らせながら歩いてくる、女。

 

「喬木様が市議会議員になって二十年以上、多くの聚落(じゅらく)で生活状況が改善しています。国府(こうふ)の森にしても、失業している者の割合は二割を下回っていますし、戦闘による死亡者も近年ありません」

「……難しいことはわからない。でも、これだけはわかる……お前達は悪だ」

「理解を得られず残念です……喬木様、本当によろしいのですね?」

「構わん。すぐに終わらせろ。今日は、これから例の会議があるからの」

「かしこまりました」

 

 高森と呼ばれていた女が構えをとる。

 俺は一歩だけ下がるとともに、学ランのボタンを外した。

 ……捕まえることができたら、こっちのもの。寝技で仕留めてやる。

 互いの距離は3メートルといったところ。相手を見据えた――心臓が高鳴る。

 ガンッ、ガンッ。何かが、何かにぶつかる音が聞こえてくる。

 

「あら、なにかしら?」

 

 チャンスッ! 『いまだ』の『い』で、飛び出すっ! 高森はまだ後ろを見ている――振り向いた。手を振り上げる。

 

「やばい!」

 

 音速の衝撃が襲い来る。

 

「そらよっ!」

 

 秒も耐え切れず、ズタズタになってしまった――俺の学ラン。

 

「うそ、どういうこと……?」

 

 女の斜め後ろに回り込んだ。続いて、投石。さっき拾った石を投げる。

 バチィ、という電気が棚引くような音。石が弾け飛んだ。

『もらったっ』

 心の中で呟くとともに、俺の手は高森が着ているスーツへと――

 

「うぎっ!」

 

 地面に叩きつけられた。距離を取られてしまう。

 

「足が速いのね。でも、まだまだ青い」

「……恐縮です」

 

 すぐに立ち上がる――突進ッ!

 

「これでどうだっ」

「……?」

 

 今、この高森という女をまとっているであろう違和感。それは、触感の喪失だった。衣服を着ていることすら感覚できずにいる。

 距離を詰める――右手で女の横襟を掴んだ。と同時、右足を鎌のように振り上げる。左手でもって女の袖を掴んだなら――大外刈りッ!

 

「……触らないで?」

「がぁッ!?」

 

 吹き飛ばされた。上空に。先ほどとは異なる、やわらかな上昇だった。フワリ、フワリと宙を漂い、そして――

 

「わかってるんでしょう? これからどうなるか」

「……ははっ、まあ一応」

 

 ――身長二つ分の高さから大地にブチ落とされた。右掌で受身を取った。

 体中を痛みがのたうっている。隅々まで伝わる痺れ。苦し紛れに転がるしかない。

 

「なに? そのだらしない姿勢は。戦士の基本がなっていません」

 

 俺は立ち上がった。不敵に笑んで見せる。

 

「まあ、見ててくださいよ……」

 

 必死の強がりを決めつつ、掌に砂利をしのばせる。

 

「いや、でもね。正直、痛いんすよ」

「殺し合いの最中に泣き言ですか?」

「ははは、高森よ。神性変異(スティゾフィニア)は不要かな?」

「喬木様。お気持ちだけ頂戴いたしますわ……ゆっくり、ご覧になっていてください」

 

 あれしかない、という思いがよぎる。同時に、『あれだけはだめだ』という心の声も。

 ガ、ガ、ガ、ガガガガガガッ……!

 掘削音? が響いてくる。さっき聞こえたのと同じような。ただし、音程が異なるのと――大きくなっている?

 

「あんた。高森さんだっけ? なんか聞こえないか? さっきから」

「戦いに集中しなさい? これから、あなたは――」

 

 女は、指先をこちらに向けて横に移動している――俺から見て真東の方向に移った。

 ……いつの間にやったのだろう、スカートを引き裂いて動きやすくしている。

 

「なあ、お姉さん。なんでそんなことしてんの? 変態なの?」

「あなた。戦いになると性格が変わるタイプね」

「ところで、そういう高森さんは、概念力(ノーション)を使うとき、いろいろナントカ叫ばなくてもいいタイプなんですかね?」

「まあ、そういうことです……さようなら」

 

 見えなかった。見えたのは、彼女が小刻みにジャンプをしたところまで。

 ――吹っ飛んでいた。胸部が凄まじい力で殴られて、ただただ真後ろの方向へと、抉られるように、俺の体が。

 

「ぐぼっ!」

 

 暗闇の壁に突き刺さった体。

 

「あら? 馬鹿正直に当たってくれるなんて。お姉さんに優しいのね」

「……ごぼっ、げ、げほっ」

 

 俺の背中。闇にくっついて取れない。どういう原理で張り付いてるんだろう? 思いを馳せる。

 

「残念ですね。その壁に触れたが最後、抜け出せないの」

 

 まだだ。まだ負けてない。女に視線を向ける。

 だめだ、目が霞んできた。もう、あれをやるしかない。

 ――深呼吸。

 

「なあ。死ぬ前に教えてくれよ。今の、どうやったんだ?」

「……例えばもし、私が一瞬だけ地面から離れるとしますよね? その間、地球は自転を続けていますよね? ……でも、私の身体が地球に置いていかれることはない。ですが、もし、地球から置いていかれるとしたら……あなたは、どう思われます?」

「はは、そんなことできんの?」

国府(こうふ)の森の使用者(エッセ)が使うのは、魔導ではなく魔術。魔導は、科学的な知識がなければ本領を発揮できませんが、魔術は違います。想像力、すなわちイメージがものを言うのです」

 

 ……すぐ間際に女がいる。俺の心臓めがけて腕を出す。

 小さく、小さく、深呼吸をした。

 

 ――《幻想変換(デモンズトレード)》――

 

「手に入れるのは……自由ッ!」

「!?」

 

 暗闇の壁が弾け飛んだ。肉体が自由になる。殴り抜けるようにして女のブラウスの襟ぐりを掴んだ。

 刹那、俺の右足が女の足首にしっかと掛けられる。流れるような手さばきで、女の袖口を――掴んだッ!

 

「そらよ!」

 

 大外刈りッ!

 

「ああっ!」

 

 頭の後ろを打つようにして、女が成す術もなく倒れた。

 

「とどめだ!」

 

 左手で、女の右手首を捕まえるやいなや、右手を下から差し込んで――腕がらみ(アームロック)――極まったっ!

 

「折れろっ!」

「あ、ああああぁっ……!」

「どうだっ!」

「……冗談です」

「え?」

 

 突き上げるような衝撃とともに、上空に跳ね飛ばされた。

 肺のあたりに凄まじい痛みが襲ってくる。喉元には血の感触が。

 ……落下が始まる。

 

「ああ、この痛み。これが今回の代償か……」

 

 落下している。

 

「ごめんな、こんなに馬鹿で」

 

 落下している。

 

「……さよなら」

 

 落下――していた。

 

「!?」

 

 二本の腕が俺の肉体をしっかと受け止めている。

 

「馬鹿野郎。なんで一人で行くんだよ。学校で声を掛けただろ?」

「集……!」

 

 すでに暗闇はなかった。おぞましい呻き声とともに、そこら中に闇のかけらを撒き散らしていく黒い霧――消え去った。

 今はただ、地平線に広がる赤と紫色とが折り重なったような――春の夕暮れがあるだけ。

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