午後六時十五分。日はほとんど落ちている。夜の学校は初めてのはずなのに、不思議と慣れている感じがする。
ひたすらに廊下を進んでいく。職員室に辿り着いた。
……部屋の中から抑揚をつけて話す声が聞こえる。
「おいおい! 三川課長の挨拶、もうとっくに終わってるじゃねーか……」
コン、コン、コン。
三回ノックの後、「はい、どうぞ」という声があった。
集は扉を閉じる際、少し開きっぱなしにしてくれた。
「失礼します。遅れて申し訳ありません」
「三良坂。遅いじゃないか、先生方を待たせて」
俺は壁に身をもたせている。
「すいません! 遅れてしまいました」
くっきりとした声だった。「まあいいですよ」「座ってください」といった声が聞こえてくる。
「みなさん、よろしいでしょうか? それでは改めまして。全員が揃いましたので……」
「ん? この声は」
和田先生だ。ズイッと、スライド扉に身を寄せる。
「それでは、この度の同和教育の推進に係る校内研修会、一人目の赤木先生による発表が終了いたしました。それでは、次は……えー、はい、挙手は待ってください。質疑応答は後でまとめて行いますので」
どうやら司会役のようだ。
「二人目は、小山先生にお願いします……はい、小山先生。マイク、よろしいでしょうか。お願いします」
「はい。それでは……僭越ながらまいります」
国語の小山先生であることを察する。
「えー、皆さま。本日はこのような場を設けてくださり、ありがとうございます。特に、喬木議員のご協力なくしては、このような会を催すことはできません。えー、私、国語科を教えている小山、コ・ヤ・マと申します。私たち広島県労働者連合会におきましては、道徳の時間ではなく、かといって人権教育のコマでもない、一般の授業時間中にあって、広く人権意識を子どもたちに涵養するための取り組みを進めているところであります。さっきの赤木先生ほどの情熱は、私にはツユホドモございません! しかしながら……はは、まあ、そうお笑いにならずに……身内同士の席ですので……」
会議中の冗談はOKなんだろうか。話が進んでいく。
小山先生の話は、とにかく退屈だった。ベロ出しチョンマの話は耳にタコができるほど聞かされている。声も小さくて聞き取りにくい。
次は、池上先生。とにかくうるさかった。理科を教えるにあたって、自分がいかに人権のテーマと結び付けた話をしているか熱心に話していた。
その次は、技術の沖浦先生だった。案の上、あの時の授業の話をしていた。合同班を作った話。
「ハア……沖浦先生、こんな下心があったのか」
発表が終わると、盛大な拍手が。ダントツでウケている。
「えー、皆さん……ゴホン、今の話を聞いておりましたでしょうか」
喬木議員だ。
「一般児童と
「喬木議員! まだ選挙期間じゃないですよ!」
笑いが起きる。
「おお、これはいけない。まだ捕まるわけにはいきませんからな」
……その後も、何人かの先生が発表を行った。聞いたような話ばかりで、正直つまらない。眠くなってきた。
「それでは……最後は、わたしですね」
和田先生の番が回ってきた。目が覚める。
「えー、先日のことですが、箱田君という生徒がケンカによる怪我が原因で学校を休んでいました。それが、先日復帰したんですね……」
思いを巡らせる。制服の着こなしのことか。
「ええ、それはもう、言うことを聞かない子で。他の生徒を恐喝していたということで、今回は厳しく指導を行いました。ただ、復帰直後に、かつて仲がよかった子たちから、今度は彼が嫌がらせを受けてしまい……」
自業自得、だと思う。
前々からああいう奴だった。俺がやらなくてもいつかは天誅が下ったはず。
「箱田君には、いいところがありました。制服です。彼、制服を完璧に着るんです。それはもう、教科書どおりに。そういうところが素敵なんだよって、クラスのみんなの前で褒めました。そうしたら、みんなわかってくれたみたいです。彼、以前と同じように友達と話すようになりました」
そうなのか? よくわからない。
「ですから、生徒のいいところを認めることが大事なんです。あの子たちはそういう感情に飢えています」
「いや、でもね。その子だけを褒めたら、生徒を
赤木先生の声がする。歴史の授業の時みたいに、『主張せよ』とでも言わんばかりの声だった。
「そのとおりです! 褒めるんなら全員を褒めないと。全員が無理なら、褒めるだけの客観的な理由が必要です。制服の着方なんて、そんなことで褒めるのは……差別とは言いませんが、ちょっとねえ……」
小山先生だ。いつもは大人しいくせに。やっぱりこいつ、二重人格だ。
「待ってください。そんな意図はありません。ただ……」
「いやいや、皆さん。ほんとにそうですよ。待ってください」
喬木議員だ。こんなに重々しい声を聞き違えるはずがない。
「和田先生はですね、このままだと復帰が難しいと判断したから、みんなの前で褒めたのです。和田先生なりの愛情の示し方ではないですか。そんなにカリカリしなくても」
「そうですよ! 褒めるっていうのはね、生徒のモチベーションを保つために必要なことなんです」
「和田先生、わかりました。私の誤解でした。でも、今後は言い方に気をつけてくださいね」
池上先生がフォローすると、便乗して小山先生が手のひらを返した。はらわたが煮えくり返りそうだ。
「……それでは、わたしの発表も終わりましたので、これでこの会はお開きとさせていただきますが……皆さん、なにか意見がおありでしたらどうぞ」
沈黙。誰も手を挙げない。
と、ここで、
「はい、教育委員会教育総務課長、三川様どうぞ」
「えー、本日は、国府第三中学校の教頭先生、教務主任、進路指導主任、生徒指導主任、学年主任などの皆さまにお集まりくださり、大変よい会を開くことができました。私、この春に異動してきたばかりで、右も左も、上も下もわかりませんが……」
どっと笑いが起きる。何が面白いんだ?
「これからも、どうぞ宜しくお願いいたします。さて次は、教育総務課主事の三良坂から一言があります」
「ええ、俺ですか!?」
また、笑いが起きる――止んだ。
「えー、皆さま、初めましての方もいれば、そうでない方もおられますね。私、少しだけ自己紹介をいたしますと、魔導技術職として五年前に採用されました。今年の七月で二十四才になります」
静穏な空間が広がっている。
「えー、私も、
――静寂。そして拍手が。
低空飛行な拍手だったと思う。みんな眠たいのだろう。
「三良坂、ありがとう。それでは、これでお開きと……あ、違いますね、ごめんなさい。和田先生から最後にお話があるとか」
三川、と呼ばれていたソーム課長? が和田先生に話を振る。
ん? この感じは……。
「……えー、心苦しいのですが、提案があります。この会合、同和教育推進勉強会をはじめとして、教職員が夜の時間帯に勤務するような地域学習活動があります……こうした活動が教職員の負担になっているという意見が現場から上がっておりまして、それだけでなく、国の方針としても、教職員の勤務時間を縮減する方向で議論が進みつつあります。そこでですが、まずは
空気が変わった。一切を視認していない俺でもわかる。
「できるわけないでしょう!」
誰の声だ? 怒りで声がひっくり返っている。
「できます。というのも、地域学習会というのは、条例や規則、要綱等で定めのない、形式的に非公式の活動だからです。実施主体も、学校というよりは水平委員会が主になっています。ですから、これは任意の活動なんです」
……時間が過ぎていく。十数秒ほどか。
「ほう、なるほど」
喬木の声だ。
「いやなるほど、そういうわけですか」
「はい。おそれいりますが、教育委員会からも時間外勤務を減らすための改善案を練るよう、指示・指導を受けております」
……わかる。今、和田先生は三川に視線を送っている。三川も視線を返した? もしやあれか、ネマワシズミというやつだろうか。
「ご存知のとおり、学校教員には時間外勤務手当がありません。その代わり、代替措置として、給料の4パーセント分の教職調整額が支給されます。教委から出ている指示というのはつまり、残業代の削減というよりは、教員の負担を軽減するのが目的です。であれば、まずは法律などに根拠をもたない地域学習会から減らしていくべきかと」
……だんまりだった。誰も何も言わない。
あくびが出てくる。あぁもう、さっさと終わってくれよ!
ん? 喬木議員が喋り始めている。
「さてさて。おっしゃりたいことはわかりました。和田先生はもしや、人権教育には関心がおありでない?」
「人権学習は必要です。でも、基本的には授業中に行うべきものです」
「なるほど……ところで、明らかに貧しい子どもだっておるでしょう。例えば、先ほどの三良坂君。彼が小学生の頃から知っておりますが、それはもう、ひどい暮らしをしていましたよ。しかし、地域学習会があったからこそ、
「……はい。わたしの考えを述べさせていただきます。そのような子どもには近付きたくありません」
「!?」
ざわめき? どよめき? いや、違う! そんなもんじゃない。
……もっとだ。もっと。ずっと醜悪なナニカを感じる。
「というのも、貧乏な家庭というのは、やはり遺伝子が劣悪というか。わかるんです。わたしのクラスにもいますよ。県営住宅に住んでるわ、就学援助は受けてるわ、自分の部屋はないわ、友だちはいないわ、成績は悪いわ……卑しい連中です。穢れているとはまさにこのこと」
様子がおかしい。それはわかる。
……でも、なんだ? この感じは。
「和田先生。ユニークなお考えだ。ところで、貧しい子どもといえば、片親の家庭に多いですな。それについては?」
「わたしの息子の結婚相手が片親だったとしたら、結婚を許しません。だって、そうでしょう? 子どもがいるのに離婚するなんて。その程度の親には、ロクでもない教育しかできないというのが私の持論です。なんというか、この一言に尽きますよ。そう……『片親の子どもは信用すべきでない』とでも言いましょうか。特にひどいのが母子家庭です。うちのクラスにもいますよ、汐町由香里さんという子が。育ちの悪さが、そのまま素行に表れているんです。怒ったら、すぐにどこそこを蹴っ飛ばしますし、こないだなんか、職員室で堂々と暴力を振るったんですよ。しかも、男子に対して。男に対して手を上げるだなんて、女子としての正しい教育を受けた者にはありえないことです!」
やめてくれ。もうやめてくれ。くそ、くそ! こういう会を開いて、そういうことになるって、どうして言ってくれなかったんだよ、集!
「ほほう! しかしながらですよ……ちょっと、和田先生、どうしました? 冷や汗が出ていますよ。まあいい、続けましょう。ところで、片親家庭の子に問題が起こりやすいというのは、よくありがちな、因果関係を見誤っているといいますか。認知的不協和ですよ! 『片親』だから子どもがおかしくなるんじゃなくて、『貧困』が原因でおかしくなるんじゃないですかね。片親というのは、離婚から生じる単なる事実であって、実際には、生活が貧しくなるから精神的余裕がなくなって、まともな子育てができなくなるんですよ。恒産なき者に恒心なしです」
「いいえ! 断じて違います。若くして結婚し、あっという間に離婚し、なんの考えもなく毎日をただなんとなく生きているだけの、自堕落で弱い人間。そんな人間、いいえ、動物から生まれてきた子どもは問題行動を起こすに決まっています! 歴史は繰り返すんです」
会議は紛糾している。誰彼が何を話しているのかわからないほどに。かろうじて、この二人の声は聞こえている。
「では最後に、障がい者については? 障がい者も地域学習会の参加対象ですよ」
「全員死ねばいいと考えています。社会にとっての害悪です。あの連中、こちらが何を言っても変わろうとせず、謝ることもせず、それでいて、のうのうと息を吸っていられる。わたしたち健常者が必死に築いてきたものを平気な顔でたいらげるんです。障害者って、どうして生きてるんですか? 生まれた瞬間に、助産婦さんが首をキュッとやって、間引いてしまえばいいんです! それが社会全体のためです。だって、もしあいつらが私の家族に危害を加えても、あいつらは裁かれないんですよ!? そんなのおかしい。もし、わたしやわたしの家族が被害を受けたら……その時は、裁判所が許してもわたしが許しません――自力救済! 加害者を叩き殺します……ああ、そうです、ところで、障害者の中でも一番気に入らないのは、チック症やトゥレット症候群の連中です。あいつらときたら、年がら年中ビックビック震えて、気持ちが悪いったらありません! ほかの障害者と同じく、殺処分が妥当でしょう」
「はははは! 和田先生。なかなか、チック症ならぬ、畜生でいらっしゃる。おや、どうしました? 和田先生、感極まって泣いておられるのですか……ところで近年では、精神的な意味での、そうそう、発達障害なんかも注目されていますね。和田先生は適応指導教室の経験もお持ちだ。ご意見をうかがいたい」
やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。ろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。
「発達障害? ああ、あれがある意味、一番人間でない代物ですね。知的障害だったら、まだ許せますよ? 動物の仲間だと思えばいいから。でも、発達障害! あの連中ときたら、社会不適合者のくせに自分に人権があると思っているんです。社会のお荷物のくせに、漫画に、小説に、ドラマに取り上げられる本物の天才と自分たちを重ね合わせているんです。本当は、みんなから『死んで欲しい』って思われているとも知らずに。しかも、空気を読めなかったり、盆暗なミスを冒しても、自分に非がないという態度をとり、反省の色、悪いことをしましたという精神的姿勢がまるでない。そのくせ、自己主張だけは強いんだから。世間がどれだけ持て囃そうと、あの子たちは単なる無能なんです。特別な才能なんてない。『特別な才能がある』というのを口実にして、自分たちが社会から排除されつつあることに、いつになったら気が付くんでしょう、あの子たちは」
「……和田先生。あなたが教職員として問題のある方だというのはわかりました。さ、これでお開きにしましょう。どなたか、意見のある方はおられますか」
「社会の害悪はお前だ!」
「絶対にこの学校から追い出してやるからな、見ておけよ」
「あんな先生に教えられる子がかわいそう……」
なんだ? なんなんだよ、これ。
なんで、どうして、あの、喬木って人は……
「……ははっ、いや。ずるいって意味じゃ、俺も同類か」
涙が溢れてきた。
職員室に耳を澄ます。
「えー、ほかに意見のある人はいないようですね。それでは……教頭先生」
「はいぃっ!」
びくついた声。
「普段、どのような指導をされている? こんなひどい教師はないですよ」
「真に失礼いたしました! 綱紀粛正、徹底指導してまいります!」
「頼みましたよ。今後の対応について校長先生と協議してください。さて、三良坂君。あとは、なにかあるかの?」
「ありません。もう七時が近いです、さっさと切り上げましょう」
冷たく言い放った。
「えー、それでは、これにて解散とします。最後に、皆さん。この喬木直利からのお願いがございます……今日、ここであったことはご内密に願います」
場が凍りつくとは、こういうことを指すのだろう。
「社会規範の礎ともいうべき教職にある者が、かような発言をしたとあっては市民に不安が拡がる一方です。まずは、学校内で話し合い、妥当な結論を導くべきかと。皆さん、いかがですか」
沈黙。
「いいですな。それでは、他言無用ということで。ここにおられる方々は、約束を守る方であると信じています。万が一、どなたかが外に漏らした場合は……わが身命を賭して、粛清します」
誰も、何も喋らない。
「それでは皆さん、長らくお付き合いくださりありがとうございました。これにて、本当に解散です……和田先生、どうしました?。自分の考えが受け入れられなかったからといって、そう落ち込まないでくださいね。あなたはまだ若い。チャンスはいくらでもありますよ」
胸が苦しくなった。和田先生が号泣する声が聞こえてきたから。