以降、最終話まで毎日1話ずつ投稿します。
退屈な終礼だった。
小山先生はあまりに適当というか、緩いというか。
和田先生だったら、「起立、礼」が揃ってなければやり直しをさせるし、それ以前に、「終わりの会を始めます。着席してください」なんて間抜けなことは言わない。
教室が静まらない時は、ただ、ずっと教壇に立っているのだ。そう、文字どおり、ずっと。そして、みんな気が付くのだ。『このままでは家に帰ることができない』と。
そうなると、あとは勝手に静まっていく。席を立って騒いでいる者も、気まずくなって自分の席に帰る。
……案の定、3年3組は騒然としていた。うるさい。いつもの二倍はうるさい。計器などなくても俺にはわかる。
「はい、それでは。連絡事項は以上です。ほかに何かありますか? えー。ないようだったら、これで終わります。日直さん」
和田先生のことが頭を離れない。今はどうしてるんだろうか。病院とか行ってるんだろうか。
「起立! ……気をつけ、礼!」
てんで揃っていない。バラバラだ。和田先生なら、やり直しをさせていることだろう。
そんな、形ばかりの挨拶を済ませると、多くの生徒が一斉に教室を出る。残ってるのは勉強熱心なヤツらだけだ。俺は熱心じゃない。
由香里に謝ろうと、帰っていく彼女に声をかけようとする――
近付くことができない。なんだか、遠い存在になってしまった気がして。そんなことはないのに。
話しかけたい、と思っているのに。体が、心が言うことを聞かない。
「……」
こそこそと、追いかける格好になる。廊下を渡って、階段を降りて、下駄箱に向かう。
ふと、由香里のすぐ傍を、ほかの女子が通った。
「バイバイ」
……無視。当然のごとく、由香里の挨拶は無視されてしまった。
また別の女子がその近くを通り過ぎようとしている。
「バイバイ」
「バイバイ、由香里。今日も元気なんだね? うらやましい。私にもちょっと分けて欲しいな?」
由香里の表情がパッと輝いた。
「そ……そんなことないよ! あたし、元気だけが取り得だから。じゃあね! ……ええと」
「宮本……佳奈子だよ?」
宮本さんの膝下に包帯が巻いてある。俺達と一緒に遊びに行った翌週から、あんな痛々しいことになっている。
「佳奈子、バイバイ! また遊ぼうね」
「うん……さよなら」
宮……なんとかさんだった。挨拶って、こういう自然にやるもの……だと思う。
由香里に視線をやる。下駄箱を開けて、茶色い革靴を取り出している。革靴って、そんなにいいのだろうか。ほかの女子は、ほとんどがスニーカーなのに。
靴を取り出して地面に置く時、左手でスカートの後ろを押さえながら、ひょいとしゃがんだ。股はきれいに閉じている。
……柔らかそうな髪の毛。覗いたうなじ、丸まった背中、張り出した尻部に視線をやる。昔から知ってる背中なのに、どうしてか今日は他人みたいな感じがする。
指を突っ込むようにして器用に革靴を履いたなら、さっと立ち上がって――駆け出した。
「……!」
立ち上がった瞬間。
太股がはっきりと見えた。肌色に近い白。肌色のはずなのに、不思議と白に感じられる。乳白色? というのだろうか。
もう少し勢いがあったら、下着まで見えたんだろうか。でも、あの真後ろから覗いた太股は……下着よりも興奮すべきものかもしれない。
いや、この際だからはっきり言おう。下着は見えていた。ベージュの下着だったから見えにくかったのだ。俺の無意識はそれを、『ぎりぎりで見えなかった』と錯覚した。意図は不明だ。
……月に三度はあいつの下着を見ている。青色が多い気がする。行動がいちいち大振りなものだから、『ああ、やっぱり』といった場面で見えてしまうことになる。
乳白色が頭を離れない。離れない――
「……ハッ!」
頭をブンブンと振ったなら、自分の下駄箱に向かう。
ボロボロのスニーカーを地面に投げるように置いた。ざっくばらんに履いて、そそくさと外に出る。
まだ、なんとか由香里が見える――嬉しそうな気分でいる。
『由香里、ちょっと』
言えなかった。挨拶を試みるも、言おうとする気があるのに、言えない。
本当に嬉しそうだった。邪魔をするのが嫌になり、そのまま立ち止まってしまう。
「おい、渉!」
「うわっ」
首周りを掴まれた。こんなことをしてくるのは、こいつしかいない。
「どうしたんじゃ、渉。今日は由香里と帰らんのか?」
「そんなの滅多にないよ。小学生じゃあるまいし」
「じゃあ、ワシと一緒に帰ろうや! 今日はのう、気が高ぶってしょうがないんよ」
「ヤバイものでも飲んだんじゃ」
「はははっ、ワシら、はす向かいに住んどる仲じゃろうが」
どこ吹く風だった。
* * *
シャワーを浴びている。
頭にお湯をかけながら、物思いに耽る。
『どうして? どうして由香里に声をかけられなかった?』
前髪を、両手でざっくばらんに掻き上げる。ジャブジャブと、頭のてっぺんに振ってくるシャワーの湯。
「ねえ、渉……どう?」
栞の声だ。凛々しいような、甘ったるいような。
聞き慣れているはずが、場所が場所だからだろう。普段と違って聞こえる。
「ねえ、聞こえる? 石鹸取ってくれない?」
「……はあ」
立ち上がった。微妙に立ちくらみがする。
風呂イスの前に置いてある、真新しい石鹸を手に取る。
「栞! ほかのお客さんは?」
「いない」
いま俺は、家から歩いてすぐのところにある公衆浴場に来ている。ひとりたったの100円で利用できる。そして、今しがた、栞から石鹸を投げ込むように依頼を受けたところだ。
……視線を天井付近に向ける。
共同浴場の男女を仕切る壁の上へと、石鹸を振りかぶって――投げた。
「あ、きた。ありがと」
「……いい大人が」
またシャワーの雨に浸る。
いつもより長い時間、風呂に入っている。まあ、特に問題はないだろう。栞はあと三〇分はかかるだろうから。
「……どうしてだ? なんで今日は声を掛けられなかった?」
みぞおちを殴られたから? 由香里を嫌いになった? それとも、なんとなく?
色々な理由を思いつくが、どれも違う。
「うーん……」
いま、在ったばかりの光景。石鹸について、思う。
――石鹸について。石鹸といえば、さっき、俺があっちの女湯に投げ込んだばかり。
なぜ投げ込んだかと言えば、女湯に石鹸がなかったから。
なぜ石鹸がなかったか? こんなにボロくて小さい共同浴場だから。いや、それは大した理由じゃない。
そもそも、石鹸とは何か? いや、問うべきことじゃない。
……なぜ投げ込んだかに戻ろう。そうだ、栞が求めたからだ。そして、俺という存在が物理的に投げ入れることができた。だから、石鹸は今、栞の手元にある。
誰かが求めて、誰かが可能で、誰かがひた走って、ある目的が成る。
「もしかして、
ダイヤル式のつまみを回すと、シャワーが止まって、代わりに蛇口からお湯が溢れてくる。
サッと顔を洗って、勢いよく風呂イスから立ち上がる。まっすぐに脱衣場へと。
* * *
夜の帳。
通学に使っている里道が真っ黒に染まっている。わずかに備えられた街路灯がポツポツと道行く先を照らしている。
中学校を見下ろせる地点まで来ていた。山の方に向かって田畑が続いている。
歩きながら、田植えを終えたばかりの田んぼを眺める。ほの暗いような、明るいような。いや、やっぱり暗い。月明かりが水面を照らしているものの、ほとんど新月のようなものだから。
「誰だ? いったい誰が、俺に対して
道に目を凝らす。何も転がってはいない。
「……!」
身構えつつ、山際に身を隠した。誰かが坂の下から近づいてくる。この暗さでは存在がわからない。
数秒が経過すると、正体がわかった。
「あ……」
今朝、会ったばかりの女子高生だった。
帰り道だろうか。自転車に乗っている。地理的に考えて、おそらく近所に住んでいる。
心なしか、焦っているような印象を受ける――通り過ぎた。
「!」
ライト。同じ方向から、ゆっくりと自動車が走ってくる。
車のカラーは、白……? 大きくはない。
坂道を、ゆっくりと登っているはずのそれ。心なしか速度が上がっている。いや、間違いなく上がっている!
通り過ぎた。軽トラックが。運転しているのは……?
「尚吾!?」
あいつまた、なにやってんだ。採用取り消されても知らないぞ。
軽トラックはスピードを上げていく。その先にはあの女子高生が。
――スピードが、さらに、さらに上がっていく。
自転車に乗っている影。真後ろを振り向いた。脅威に気が付いて、あるいは気が付いていたのか、立ち漕ぎに切り替える。無駄だった。
ブイイイイイイイイイ……ガシャ、ガシャァンッ!!
車体が、回り込むようにして自転車をぶつけ飛ばすと、その娘は泥だらけの地面にバウンドして、水を張った田んぼへと真っ逆さまに落ちていった。水音とともに。
「……」
言えない。何も。
トラックは様子を窺うように停車していた。十秒ほどが経過すると、運転席からがっしりとした体格の男が出てくる――間違いない。鵜飼尚吾だ。
「……」
あぜ道をさっさと降りていく。田んぼに足を突っ込んだ音がした。
バシャ、バシャという、あてどない不規則な水の音が聴こえてくる。
「やめてください、いや! いやあぁっ!」
「よいしょっと!」
泣き喚いている。尚吾の肩に抱えられた女は、鈍い音が聴こえるほどの乱暴さで、軽トラックの荷台に積まれてしまった。
ここからでもわかる。脱兎のごとく運転席に乗り込んで、アクセルを踏み切ったのが。悲鳴のように甲高い排気音。走り去っていく。
「……」
唖然、とはこういう状況を指すのだろう。
傍にあった電柱に手のひらを当てる。額も当てた。頭を引っ掻いてみる。何度も引っ掻いているうち、その手を止めた。
家のある方を見る。トラックが走り去ったのとは、てんで異なる方向にある。
「……」
ため息を吐いて俺は、じわり、じわりと自宅に歩を進めようとする。
「……渉? どうしたの、そんなところで。今日はお風呂長かったね。追いついちゃった」
――動けない。なぜだろう。
「どうしたの? 何かあったの? ああ、さっきの車ね。夜中なのに、あんなにうるさい音を立てて」
俺は首をブンブンと振る。
走り出した。全力で。
「渉! ほんとにどうしたのっ!?」
聞こえない。
* * *
息を切らして、家の玄関に辿りつく。
「はあ、はあ、はあ、はあ……あぁ……」
滴り落ちる汗。袖で拭う。
鍵を持っていない。玄関口に座り込んだ。
……動悸が収まらない。天空を見上げる。
落ち着け、落ち着くんだ。いいか、明日。そうだ、明日。警察に行こう。いや、その前に栞に相談しなければ。でも、なんて言って相談する? いや、待て。待つんだ! 相談した後のことを考えよう。栞が信じてくれれば、警察に連絡がいく。連絡がいけば、捜査が始まる。捜査が始まれば、証拠が見つかるかもしれない。証拠が見つかれば、尚吾は逮捕される。逮捕されれば、
「あ……あ……」
声にならない呻き。由香里の名前を呟いた。
体育座りのまま、頭をひざに埋める。
「……できるわけないだろ」
「おい、誰か居るのか?」
「!」
声がした方に意識を向ける。
「……」
……諦めたか? よかった。胸をなでおろす。
いや、待て。おかしい。声がした方は――汐町家。由香里の家だ。
こっそりと隣家の庭に近付いた。杉の木に身を隠して、声の主を見やる。
……影はふたつ。玄関口にいる。新月に近い月明かりが照らしている。
ひとりは、由香里だった。扉の前で佇んでいる。
もうひとりは――集。集だった。由香里と向き合っている。
「なんだ、あの二人か」
気が抜けてしまう。視線をふたりにやったまま。
……集が一歩を踏み出す。由香里のすぐ前へと。
手をのばし、人差し指で由香里の顎を持ち上げる。身体を近付けて、その口に――キスをした。
「……!」
由香里の唇は、身長差からか上向きだった。唇の位置をずらして、何度も、何度も男のそれに押し当てようとする。
女の両指が男の胸板をしっかと掴んだ。舌を必死に伸ばし、男の唇をなめずっている。何度も、何度も、何度も。甘い蜜を吸っているかのように。
やがて、女は両腕を男の首に回す。激しくなる口づけ。舌先と唾液とが絡まっていく卑猥な音がここからでも聴こえる。女の下半身が震えている。
……キスの嵐がおさまった。男と女はチロチロと舌先を絡め合いながら、甘い視線を送りあう。
舌が離れたと思うと、女は真上を向いて大きく口を開ける。
すると、男は、女の髪を撫で上げて、凄まじい量の唾液を女の口に注ぎ込んだ――
垂れ切った液体を、噛み締めるようにして頬の内部で転がす。ぐっちゅ、ぐっちゅという、生々しい攪拌の音が響いてきそうなほどに。
喉の動きでわかった。ゴクリと唾液を飲み干したなら、女の瞼が閉じる。零れた涙が頬を伝った――悲しい方の涙? いや、違う……違う。
また、女が口を開いた。今度は小さめに。
男の手が口内に伸びる。指が数本、入っていった。
指が口内を出入りする度に、女の表情は恍惚感を帯びてゆく。
口から指が抜かれると、唾液が垂れ下がって糸を引く。零れ落ちようとする唾液の橋――愛おしそうな仕草で、女の口がすくい取った。男の指先にしゃぶりついていく。
「んん……」
甘ったるい、由香里の声が聴こえた。
貪るような愛撫が続いている。手と手を握って。
「……だな」
集がなにか言った。
すると、由香里の肩を抱いて、家の中へと――入り際、由香里が何か言葉を返した気がした。絞り上げるような声で。
「……」
股下に視線をやる。弾けていた。