月星花伝 gessyo-kaden   作:渡邉 実一

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第11話は12/11(金)に上げます。
以降、最終話まで毎日1話ずつ投稿します。


#10:嘘(3/3)

 退屈な終礼だった。

 小山先生はあまりに適当というか、緩いというか。

 和田先生だったら、「起立、礼」が揃ってなければやり直しをさせるし、それ以前に、「終わりの会を始めます。着席してください」なんて間抜けなことは言わない。

 教室が静まらない時は、ただ、ずっと教壇に立っているのだ。そう、文字どおり、ずっと。そして、みんな気が付くのだ。『このままでは家に帰ることができない』と。

 そうなると、あとは勝手に静まっていく。席を立って騒いでいる者も、気まずくなって自分の席に帰る。

 ……案の定、3年3組は騒然としていた。うるさい。いつもの二倍はうるさい。計器などなくても俺にはわかる。

 

「はい、それでは。連絡事項は以上です。ほかに何かありますか? えー。ないようだったら、これで終わります。日直さん」

 

 和田先生のことが頭を離れない。今はどうしてるんだろうか。病院とか行ってるんだろうか。

 

「起立! ……気をつけ、礼!」

 

 てんで揃っていない。バラバラだ。和田先生なら、やり直しをさせていることだろう。

 そんな、形ばかりの挨拶を済ませると、多くの生徒が一斉に教室を出る。残ってるのは勉強熱心なヤツらだけだ。俺は熱心じゃない。

 由香里に謝ろうと、帰っていく彼女に声をかけようとする――

 近付くことができない。なんだか、遠い存在になってしまった気がして。そんなことはないのに。

 話しかけたい、と思っているのに。体が、心が言うことを聞かない。

 

「……」

 

 こそこそと、追いかける格好になる。廊下を渡って、階段を降りて、下駄箱に向かう。

 ふと、由香里のすぐ傍を、ほかの女子が通った。

 

「バイバイ」

 

 ……無視。当然のごとく、由香里の挨拶は無視されてしまった。

 また別の女子がその近くを通り過ぎようとしている。

 

「バイバイ」

「バイバイ、由香里。今日も元気なんだね? うらやましい。私にもちょっと分けて欲しいな?」

 

 由香里の表情がパッと輝いた。

 

「そ……そんなことないよ! あたし、元気だけが取り得だから。じゃあね! ……ええと」

「宮本……佳奈子だよ?」

 

 宮本さんの膝下に包帯が巻いてある。俺達と一緒に遊びに行った翌週から、あんな痛々しいことになっている。

 

「佳奈子、バイバイ! また遊ぼうね」

「うん……さよなら」

 

 宮……なんとかさんだった。挨拶って、こういう自然にやるもの……だと思う。

 由香里に視線をやる。下駄箱を開けて、茶色い革靴を取り出している。革靴って、そんなにいいのだろうか。ほかの女子は、ほとんどがスニーカーなのに。

 靴を取り出して地面に置く時、左手でスカートの後ろを押さえながら、ひょいとしゃがんだ。股はきれいに閉じている。

 ……柔らかそうな髪の毛。覗いたうなじ、丸まった背中、張り出した尻部に視線をやる。昔から知ってる背中なのに、どうしてか今日は他人みたいな感じがする。

 指を突っ込むようにして器用に革靴を履いたなら、さっと立ち上がって――駆け出した。

 

「……!」

 

 立ち上がった瞬間。

 太股がはっきりと見えた。肌色に近い白。肌色のはずなのに、不思議と白に感じられる。乳白色? というのだろうか。

 もう少し勢いがあったら、下着まで見えたんだろうか。でも、あの真後ろから覗いた太股は……下着よりも興奮すべきものかもしれない。

 いや、この際だからはっきり言おう。下着は見えていた。ベージュの下着だったから見えにくかったのだ。俺の無意識はそれを、『ぎりぎりで見えなかった』と錯覚した。意図は不明だ。

 ……月に三度はあいつの下着を見ている。青色が多い気がする。行動がいちいち大振りなものだから、『ああ、やっぱり』といった場面で見えてしまうことになる。

 乳白色が頭を離れない。離れない――

 

「……ハッ!」

 

 頭をブンブンと振ったなら、自分の下駄箱に向かう。

 ボロボロのスニーカーを地面に投げるように置いた。ざっくばらんに履いて、そそくさと外に出る。

 まだ、なんとか由香里が見える――嬉しそうな気分でいる。

『由香里、ちょっと』

 言えなかった。挨拶を試みるも、言おうとする気があるのに、言えない。

 本当に嬉しそうだった。邪魔をするのが嫌になり、そのまま立ち止まってしまう。

 

「おい、渉!」

「うわっ」

 

 首周りを掴まれた。こんなことをしてくるのは、こいつしかいない。

 

「どうしたんじゃ、渉。今日は由香里と帰らんのか?」

「そんなの滅多にないよ。小学生じゃあるまいし」

「じゃあ、ワシと一緒に帰ろうや! 今日はのう、気が高ぶってしょうがないんよ」

「ヤバイものでも飲んだんじゃ」

「はははっ、ワシら、はす向かいに住んどる仲じゃろうが」

 

 どこ吹く風だった。

 

 *  *  *

 

 シャワーを浴びている。

 頭にお湯をかけながら、物思いに耽る。

『どうして? どうして由香里に声をかけられなかった?』

 前髪を、両手でざっくばらんに掻き上げる。ジャブジャブと、頭のてっぺんに振ってくるシャワーの湯。

 

「ねえ、渉……どう?」

 

 栞の声だ。凛々しいような、甘ったるいような。

 聞き慣れているはずが、場所が場所だからだろう。普段と違って聞こえる。

 

「ねえ、聞こえる? 石鹸取ってくれない?」

「……はあ」

 

 立ち上がった。微妙に立ちくらみがする。

 風呂イスの前に置いてある、真新しい石鹸を手に取る。

 

「栞! ほかのお客さんは?」

「いない」

 

 いま俺は、家から歩いてすぐのところにある公衆浴場に来ている。ひとりたったの100円で利用できる。そして、今しがた、栞から石鹸を投げ込むように依頼を受けたところだ。 

 ……視線を天井付近に向ける。

 共同浴場の男女を仕切る壁の上へと、石鹸を振りかぶって――投げた。

 

「あ、きた。ありがと」

「……いい大人が」

 

 またシャワーの雨に浸る。

 いつもより長い時間、風呂に入っている。まあ、特に問題はないだろう。栞はあと三〇分はかかるだろうから。

 

「……どうしてだ? なんで今日は声を掛けられなかった?」

 

 みぞおちを殴られたから? 由香里を嫌いになった? それとも、なんとなく?

 色々な理由を思いつくが、どれも違う。

 

「うーん……」

 

 いま、在ったばかりの光景。石鹸について、思う。

 ――石鹸について。石鹸といえば、さっき、俺があっちの女湯に投げ込んだばかり。

 なぜ投げ込んだかと言えば、女湯に石鹸がなかったから。

 なぜ石鹸がなかったか? こんなにボロくて小さい共同浴場だから。いや、それは大した理由じゃない。

 そもそも、石鹸とは何か? いや、問うべきことじゃない。

 ……なぜ投げ込んだかに戻ろう。そうだ、栞が求めたからだ。そして、俺という存在が物理的に投げ入れることができた。だから、石鹸は今、栞の手元にある。

 誰かが求めて、誰かが可能で、誰かがひた走って、ある目的が成る。

 

「もしかして、概念力(ノーション)による影響を受けていた? 誰かが俺に、概念力(ノーション)を……」

 

 ダイヤル式のつまみを回すと、シャワーが止まって、代わりに蛇口からお湯が溢れてくる。

 サッと顔を洗って、勢いよく風呂イスから立ち上がる。まっすぐに脱衣場へと。

 

 *  *  *

 

 夜の帳。

 通学に使っている里道が真っ黒に染まっている。わずかに備えられた街路灯がポツポツと道行く先を照らしている。

 中学校を見下ろせる地点まで来ていた。山の方に向かって田畑が続いている。

 歩きながら、田植えを終えたばかりの田んぼを眺める。ほの暗いような、明るいような。いや、やっぱり暗い。月明かりが水面を照らしているものの、ほとんど新月のようなものだから。

 

「誰だ? いったい誰が、俺に対して概念力(ノーション)を使った?」

 

 道に目を凝らす。何も転がってはいない。

 

「……!」

 

 身構えつつ、山際に身を隠した。誰かが坂の下から近づいてくる。この暗さでは存在がわからない。

 数秒が経過すると、正体がわかった。

 

「あ……」

 

 今朝、会ったばかりの女子高生だった。

 帰り道だろうか。自転車に乗っている。地理的に考えて、おそらく近所に住んでいる。

 心なしか、焦っているような印象を受ける――通り過ぎた。

 

「!」

 

 ライト。同じ方向から、ゆっくりと自動車が走ってくる。

 車のカラーは、白……? 大きくはない。

 坂道を、ゆっくりと登っているはずのそれ。心なしか速度が上がっている。いや、間違いなく上がっている!

 通り過ぎた。軽トラックが。運転しているのは……?

 

「尚吾!?」

 

 あいつまた、なにやってんだ。採用取り消されても知らないぞ。

 軽トラックはスピードを上げていく。その先にはあの女子高生が。

 ――スピードが、さらに、さらに上がっていく。

 自転車に乗っている影。真後ろを振り向いた。脅威に気が付いて、あるいは気が付いていたのか、立ち漕ぎに切り替える。無駄だった。

 ブイイイイイイイイイ……ガシャ、ガシャァンッ!!

 車体が、回り込むようにして自転車をぶつけ飛ばすと、その娘は泥だらけの地面にバウンドして、水を張った田んぼへと真っ逆さまに落ちていった。水音とともに。

 

「……」

 

 言えない。何も。

 トラックは様子を窺うように停車していた。十秒ほどが経過すると、運転席からがっしりとした体格の男が出てくる――間違いない。鵜飼尚吾だ。

 

「……」

 

 あぜ道をさっさと降りていく。田んぼに足を突っ込んだ音がした。

 バシャ、バシャという、あてどない不規則な水の音が聴こえてくる。

 

「やめてください、いや! いやあぁっ!」

「よいしょっと!」

 

 泣き喚いている。尚吾の肩に抱えられた女は、鈍い音が聴こえるほどの乱暴さで、軽トラックの荷台に積まれてしまった。

 ここからでもわかる。脱兎のごとく運転席に乗り込んで、アクセルを踏み切ったのが。悲鳴のように甲高い排気音。走り去っていく。

 

「……」

 

 唖然、とはこういう状況を指すのだろう。

 傍にあった電柱に手のひらを当てる。額も当てた。頭を引っ掻いてみる。何度も引っ掻いているうち、その手を止めた。

 家のある方を見る。トラックが走り去ったのとは、てんで異なる方向にある。

 

「……」

 

 ため息を吐いて俺は、じわり、じわりと自宅に歩を進めようとする。

 

「……渉? どうしたの、そんなところで。今日はお風呂長かったね。追いついちゃった」

 

 ――動けない。なぜだろう。 

 

「どうしたの? 何かあったの? ああ、さっきの車ね。夜中なのに、あんなにうるさい音を立てて」

 

 俺は首をブンブンと振る。

 走り出した。全力で。

 

「渉! ほんとにどうしたのっ!?」

 

 聞こえない。

 

 *  *  *

 

 息を切らして、家の玄関に辿りつく。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ……あぁ……」

 

 滴り落ちる汗。袖で拭う。

 鍵を持っていない。玄関口に座り込んだ。

 ……動悸が収まらない。天空を見上げる。

 落ち着け、落ち着くんだ。いいか、明日。そうだ、明日。警察に行こう。いや、その前に栞に相談しなければ。でも、なんて言って相談する? いや、待て。待つんだ! 相談した後のことを考えよう。栞が信じてくれれば、警察に連絡がいく。連絡がいけば、捜査が始まる。捜査が始まれば、証拠が見つかるかもしれない。証拠が見つかれば、尚吾は逮捕される。逮捕されれば、

 

「あ……あ……」

 

 声にならない呻き。由香里の名前を呟いた。

 体育座りのまま、頭をひざに埋める。

 

「……できるわけないだろ」

「おい、誰か居るのか?」

「!」

 

 声がした方に意識を向ける。

 

「……」

 

 ……諦めたか? よかった。胸をなでおろす。

 いや、待て。おかしい。声がした方は――汐町家。由香里の家だ。

 こっそりと隣家の庭に近付いた。杉の木に身を隠して、声の主を見やる。

 ……影はふたつ。玄関口にいる。新月に近い月明かりが照らしている。

 ひとりは、由香里だった。扉の前で佇んでいる。

 もうひとりは――集。集だった。由香里と向き合っている。

 

「なんだ、あの二人か」

 

 気が抜けてしまう。視線をふたりにやったまま。

 ……集が一歩を踏み出す。由香里のすぐ前へと。

 手をのばし、人差し指で由香里の顎を持ち上げる。身体を近付けて、その口に――キスをした。

 

「……!」

 

 由香里の唇は、身長差からか上向きだった。唇の位置をずらして、何度も、何度も男のそれに押し当てようとする。

 女の両指が男の胸板をしっかと掴んだ。舌を必死に伸ばし、男の唇をなめずっている。何度も、何度も、何度も。甘い蜜を吸っているかのように。

 やがて、女は両腕を男の首に回す。激しくなる口づけ。舌先と唾液とが絡まっていく卑猥な音がここからでも聴こえる。女の下半身が震えている。

 ……キスの嵐がおさまった。男と女はチロチロと舌先を絡め合いながら、甘い視線を送りあう。

 舌が離れたと思うと、女は真上を向いて大きく口を開ける。

 すると、男は、女の髪を撫で上げて、凄まじい量の唾液を女の口に注ぎ込んだ――

 垂れ切った液体を、噛み締めるようにして頬の内部で転がす。ぐっちゅ、ぐっちゅという、生々しい攪拌の音が響いてきそうなほどに。

 喉の動きでわかった。ゴクリと唾液を飲み干したなら、女の瞼が閉じる。零れた涙が頬を伝った――悲しい方の涙? いや、違う……違う。

 また、女が口を開いた。今度は小さめに。

 男の手が口内に伸びる。指が数本、入っていった。

 指が口内を出入りする度に、女の表情は恍惚感を帯びてゆく。

 口から指が抜かれると、唾液が垂れ下がって糸を引く。零れ落ちようとする唾液の橋――愛おしそうな仕草で、女の口がすくい取った。男の指先にしゃぶりついていく。

 

「んん……」

 

 甘ったるい、由香里の声が聴こえた。

 貪るような愛撫が続いている。手と手を握って。

 

「……だな」

 

 集がなにか言った。

 すると、由香里の肩を抱いて、家の中へと――入り際、由香里が何か言葉を返した気がした。絞り上げるような声で。

 

「……」

 

 股下に視線をやる。弾けていた。


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