「気を付け、礼!」
今日一日が終わる。これでもかというほどに早く。
由香里は学校を休んでいた。それが寂しいやら、嬉しいやら、安心したやら、自分でもわからない。
篤も砂羽も、そそくさとした様子で教室を出て行った。いつもなら、ここに残って宿題を片付けてるんだろうけど。
「よ、渉ッ!」
「!」
尚吾だった。
今日は一度も会話をしていない。
「どうしたんじゃ? ぜんぜん元気がないけえ、話しかけるのに勇気が要ったじゃろうが」
「ああ、うん。ちょっと……昼飯がさ、あんまり好きなもの入ってなかったんだ」
「はははは! わしなんか毎日握り飯じゃぞ! 冷凍してある米じゃけえ、これがまた固くって」
肩口に手を回してくる。その手を払いのけようとして――やめた。
「……ごめんな。今日はちょっと」
「まあまあ聞いていけ。お前にな、わしのな、彼女を紹介しようと思ってな」
「へ、へえ。彼女って、どんな?」
「驚くなよ。年上なんじゃ」
吐き気が込み上げる。
「へえ、年上なのか」
「渉は知っとろう。朝、たまに――あ、おいっ!」
走り出した。ゴ、ガガッ! 痛い。教室を出る際に肩をぶつけてしまう。
「はっ、はっ、はっ、はっ……!」
ひたすら走った。廊下を渡って、三段飛ばしで階段を降りていく。
下駄箱に駆け込んで、スニーカーを放り投げた。考えうる限り最速で履いたなら、西側の校門に続いている石畳を駆け抜ける。
あとは、ひたすらに続く坂道を登り続けるだけだ。
「はあ、はあ、はあ、はぁ……くそっ! もっと早く動けっ!」
走り続ける。呪詛の言葉を吐きながら。
……我が家の入口が見えてくる。車一台分がなんとか入る程度の、木でできた古風な門だ。
敷地に駆け込んだと同時――由香里の家が目に映った。
「この、世界から仲間はずれにされたような感覚!」
涙が零れそうになる。零れた。
俺は今、玄関口にいる。
「ハア、ハア……!」
汗で髪の毛がべたつく。
「風呂まで待てん」
前を向いた。玄関扉の各所に穴が開きつつある。背負っているカバンを降ろして、手をかけようとする。
「この声……」
耳を澄ます。
「親父が……いる?」
扉に耳をくっつける。
「……だろう!」
やっぱりだ。ついてない。
口調が荒い。何の話をしてるんだろう。
「こないだ来たばっかりなのに」
ドアノブに触れる。ガチャリと回して引こうとする。
「どうしてあの子の言うことを聞いてやらないんですか!」
「公務員になんか、あいつがなれるわけないだろう!」
舌打ちした。集の真似だ。その場で立ちつくす。
「不採用になる可能性が高いのはわかってます! でも、あの子が決めた、あの子の進路でしょう」
「それで進学も就職もできなかったら、いったいどうするんだ。誰があの子の将来に責任を取るんだ。あの年代にとっての一年が、いったいどんなに」
「失敗してもいいじゃない。挫折しても、立ち上がる手助けをするのがわたしたちの役目でしょう」
「だめだ、認めない。渉は進学させる。いったい、なんのために此処に逃げてきたんだ?」
「逃げてきたなんて言わないで!」
「逃げてきたんだろう! 俺たちは! ああ、そうだよ。俺がみんなを導いたんだ。喬木の奴に唆されて! いや、言い訳はしない。俺が導いた! 成功だったか失敗だったか、まだわからないけれども……責任を取ることはできるつもりだ。今だって、片親の汐町さん家と鵜飼さん家は金銭的に面倒をみているし、俺が殺されたら保険金がおりる。みんなで分けたらいい」
「そんな話しないで! 今は渉の将来のことでしょう?」
「わかってるさ」
どうでもいいし、興味がなかった。歯軋りをする。わずかに空いたドアの隙間に呪いの言葉を吹き込むかのように。
早く、早く終わってくれ。このままじゃ家に入れないだろ。
「ねえ、どうして? あなた。どうして、そんなにあの子の道に反対をするの。あの子には
「それが恐いんだ。ざっくり言うとだな、あいつ、この間の文化会館まつりに動員されてたんだ。あんなに反対したのに。でも、それだけじゃない。ああもう、事実を言うとだな。俺はあいつと戦ったんだ。喬木を襲ったんだが、凄腕の護衛がいて。十中八九逃げられそうだった。ここの連中だけでも皆殺しにしてから脱出しようか、そう思っていた。すると、だ。下の階から渉と、汐町さん家の子が昇ってきた。それで、止むに止まれず戦うことになった」
「バカッ、あの子が死んだらどうするのよっ!」
「手加減はしたさ。不自然なくらいに。そうだよ、死ぬほど手加減した! とにかく、殺さずに済んでよかった……だがな。魔導技術職として採用されたら、俺以上に強い奴と戦うことになるだろう……5月5日の文化会館。あの日、あの時、喬木の周りには屍体になった連中がいて、まともに武器を振るっていた。しかも遠隔操作で。あんな神業ができるのは、
「やってみなくちゃわからないじゃない!」
「わかるだろ! 栞だったらわかるはずだ。あの連中がどれだけの化け物か」
「わかるわ。だけど、わたしは信じる。たった一人の息子だから。信じる」
「それは……ばかばかしい、なんてことはないが……とにかく、まずは公務員になれなかった時の保険を――そこにいるのは誰だ!」
ショックのあまり、カバンを落としていた……と思う。走り去ろうとする時、無意識にカバンを持ってしまう。こんなもの要らないのに。
なんの舗装もされていない、いつもの里道に出たところで西日が射した。地平線は薄い紫色の雲に覆われている。その雲にぼんやりとかかった、沈みつつある太陽。気持ち悪い。
遮るために
「ああ、見えない。何も。久しぶりだな……」
そういうわけで、この俺こそが、世界に生み落とされた最初の『人間』なんだと言い聞かせ、疾走を始める。いざ、夕闇へと。
意外に転倒しないものだ。見えてないのに、見えている。自分の能力だもんな。当たり前か。
ただ、ずっと、ずっと。自分が作った暗闇を走り続けている。何もかも忘れてしまいたい。でも忘れられない。夢に出てくる悪趣味な妄想ばかりが思い浮かんでくる。でも、それが楽しい。
舞い散る汗。坂道を上って、下って、上って、下って、やがて地面がアスファルトになっていることに気が付いた。
直後、フェンスにぶつかりそうになる。サッと向きを変えたなら、公園の入口に設置してある車止めを飛び越えた。
夕焼けの生温さを肌に確かめながら、背後に迫った夜の帳にこんばんはを呼びかける。