月星花伝 gessyo-kaden   作:渡邉 実一

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#03:なんの取り柄もない自分にただひとつ(1/3)

「やっと終わった」

 

 午前七時五〇分。

 昨日、組み上げたばかりの型枠の中に、メッシュ筋なるものを固定する作業が終わったところだ。午後からのコンクリート混入の準備として、塗装コンパネにレベルラインを描き入れる。

 メッシュ筋というのは、コンクリートの強度を増すための格子状になった鋼鉄であり、レベルラインというのは、コンクリートの高さを均一に保つために書き入れる印のこと……らしい。

 今日は朝の六時半から作業をしていた。よれよれのくたくたで教室に入る。ほとんど誰も来ていない。

 と思ったら、見知った顔がひとり。黒板になにやら落書きをしている。

 

「おはようさん」

 

 鵜飼尚吾だった。

 

「尚吾、おはよ。朝早いな。不良のくせに」

「家におってもやることがないけえの。テレビもない、携帯もない、風呂もない、水道も――」

「やめてくれ。悲しくなる。俺んちも同じようなもんだ」

「知らんもんに話したらびっくりされるじゃろ?」

「そりゃそうだ。今どきあんな家はない。俺のような貧乏人でもわかる」

 

 尚吾は急にけらけらと笑い出す。すぐ傍にある教壇をバシバシと叩いている。

 

「箸が落ちてもおかしいってやつじゃ……ま、それはそれとして。今日もキツそうじゃったのお」

 

 つい、訝しげな視線を送ってしまう。

 

「あの時、お前が上手くまとめてれば、こんなことにならなかったのに。なあ、うちの学校で一番ケンカが強いんだろ、鵜飼尚吾くんは」

「ワシにも立場ってもんがある。お前らのことを考えて、それでいてあの連中のことも考えるのは無理じゃ」

「ああ、わかる。わかるよ。俺たちのこと考えてくれてたの」

 

 すると、尚吾がこちらに寄ってきて、ガバッと首に手を回してくる。

 

「どしたんだ」

「そりゃそうよ、だってのう」

 

 一瞬の間。

 

「あの時、ワシらのこと殺そうと思ったら殺せたんじゃろ? 神部(かんべ)のやつ」

「!」

「……あんな風に感付かれるまでもなく」

「ちょっと黙れ」

 

 周りの気配を窺う。

 

「……よかった」

 

 わかる。誰にも聞かれていない。

 

「ほかの奴には言うなよ。口が裂けても。じゃないと」

「わかっとる。同じ集落の出身じゃろ、ワシら。仲良くやろうや。山野辺が懐かしいのう」

「……」

 

 人差し指で髪の毛を触り始める。

 ああ、なんでだろう。日常会話の範疇なのに、なぜこんなに落ち着かないんだろう。

 

 *  *  *

 

「ここまで植物について復習をしてきた。植物の種類や作り、生育環境、成長というのは、高校受験での出題確率が高い分野だ」

 

 池上先生による理科の授業――いつものように雑談で騒がしい教室だった。

 が、今の「受験」という言葉に対応してか、少しばかり静かになる。

 

「えー、どんな分野でもそうだが、実際に見て触ってというのが、理科における理解や関心を高めるポイントになる。みんなも、今日のうちに適当な葉っぱを真っ二つにしてみるといい」

 

 お喋りがほとんど止んでいる。静聴モードに入ったようだ。うちのクラスにしては珍しい。

 

「葉っぱの断面に目を凝らしてみよう。今、先生が黒板に書いているとおりのものが見える。すなわち、葉緑体、細胞、葉脈、気孔だ。葉緑体は、目がいい人でも難しいかもしれない。でも、見える。いつもみんなに伝えているけど、理科というのは、ひたすらに現実感だ。無味乾燥な知識はあまり役に立たない。いつかは忘れてしまう言葉の羅列にすぎない」

 

 喋り声がなくなった。

 

「最後に、少しだけ。これは受験とは関係ないが」

 

 池上先生は黒板にグラフを描き始める。

 最初は、数学で習った四象限に分かれたグラフ軸を。次に、Y軸の上半分に『累積量』、X軸の右半分に『時間』、最後に、原点よりもわずかに上の地点から伸びた曲線を描くのだった。Sのような形状に曲がりくねっている。

 

「これがなんだか分かる人」

 

 誰も手を挙げない。

 ……が、ここで「植物の成長?」と誰かが言った。

 

「そのとおり。これは、ロジスティクス曲線という……このグラフの意味を探ってみよう。まずは、時間tがゼロの地点だ。みんな、イメージしてみよう。どこかの原っぱでも、学校のグランドでもいい。ある植物の群れが芽生えを完了させ、これから成長しようとしている。これが「時間tがゼロの地点」。時間の経過とともに、これらの植物がぐいぐいと成長していく。ものすごい勢いで。イメージしてみよう、最初は10本だった草が、次の世代では20本、さらに次の世代では40本、といったように倍々で増えていく感じだ……みんな、どうかな? ここで、グラフのある地点に注目してみよう」

 

 S字になったグラフの転換点のひとつを指し示す。その地点から、累積量Nの伸びが明らかに鈍化している。

 

「ここで問題。なぜ成長が止まったと思う?」

 

 誰かが、「増えすぎ!」と叫んだ。

 

「そのとおり! イメージしてみよう、学校のグランドにたくさんの植物が生えているとする。そうなると、草一本あたりが受け取ることができる太陽光や、水分が減ってしまうよな? ということは、淘汰されて死んでしまう植物が出てくるということだ。それでも植物は絶えず増えていくから、植物全体の総量、つまり累積量Nだな、これは増加を続ける……でも、いつかは限界に達してしまう。それ以降は、この曲線の頭打ちになっているラインでNは動かなくなる。これが均衡状態」

 

 教壇から身を乗り出して反応をうかがっている。

 

「さて。これは植物の場合だ。自然の作用によって最終的には総数が安定する……ところが、人間は違う」

 

 再び、反応をうかがう。そして、

 

「私や君たちの先祖、だいたい百年ほど前かな。当時は、「間引き」という習慣があった。間引きとは、つまり……自分の子どもを親が殺してしまうんだ」

 

 教室がわずかにざわめく。

 

「習ったことがあるかもしれない。昔は、親が子どもを育てられないと判断した場合、赤ん坊だったら生まれた時に殺してしまっていた。ある程度、育っている場合は人買いに売ったりする。子どもじゃないけど、老人、例えば自分の親だったら、こっそりと山に連れ出して捨ててくる……悲しいけど、これが私たち人間の歴史だ。人間は弱い。誰だって妥協をするし、嫌なこと、辛いことから逃げ出したりする。みんなは、小さいうちからお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんが偉いといって育てられてきたよな。でも、そんなことはない。誰かが誰かに対して偉いだなんて、そんな馬鹿なことはない。みんな、同じ人間なんだ。弱い存在なんだよ。自分は、教師としていつも考えていることがある。教え子には、不当な権力、不当な権威に屈することのない、そんな立派な大人になって欲しい、っていう思いだ」

 

 ガタタ、という、机と椅子がずれる音がした。尚吾が椅子の上で膝を組んだから。

 

「だったら池上先生が実行してみせてや。世の中には偉い奴がたくさんおるじゃろ。例えば、ほら、校長や教頭には頭が上がらんじゃろ」

 

 堂々と横槍を入れる。

 俺にはどうでもいい話題だったが、池上先生が尚吾にどう反応するかは、さすがに気になる。

 

「……鵜飼君。疑問をもってくれてありがとう。でも、先生たちは、ちゃんと有言実行しているよ。例えば、公立学校の教職員は地方公務員だから、憲法の理念に従って行動する責任と義務がある。でもね。文部省……藤坂校長先生なんかよりもずっと強い権力をもっている人達は、それを許さない。入学式や卒業式などを行うにあたり、国旗を掲げたり国歌を歌わなければならないという強制を行っている。もちろん、そんなことを書いてある法律は今のところ存在していないから、学校に従う義務はない。ないんだけど、強制される……ひどい目に遭うぞって、懲戒処分をちらつかせてね。いいか、みんな。これが権力の恐ろしさだ。国家の前には、個人の良心や思想の自由が有名無実になってしまう。私たち先生は、今までそういう連中と戦ってきた! 戦いたくはなかったよ。平和でいたかった。しかし、そうでもしないと、今度は君たち生徒が国家権力の違法かつ不当な行使に苦しむことになる」

 

 そして、ひと呼吸おいてから、

 

「私たち広島県労働者連合会は、国旗掲揚・国家斉唱の強要に対して、断固反対する! 個人の思想・信条の自由への侵入をわずかでも許したら最後、権力者は国民を餌とみなすからだ!」

 

 3年3組は厳粛なムードになっている。と、ここでまた尚吾が、

 

「池上センセー! でも、こないだ和田が教頭相手にヘコヘコしとったで」

 

「和田先生は、教師として適格な方ではないよ。失格とまでは言わないけど。権威や権力に対して従順すぎるよ、彼女は。同じ理科教師として恥ずかしい。かくいう私は、教頭や校長なんぞにヘコヘコしたことはないよ。それどころか、広島県労働者連合会ハッピーマウンテン支部執行委員のひとりとして、校長に対し、『学校活動の自由と自立を確保し、不当労働行為を一切行わないものとする』という旨の確認書を書かせたよ」

 

 一部の生徒から、「すごい」という声が上がる。

 「え、なんでなんで?」との声も。

 

「『教務主任』、という教師の取りまとめ役があるんだけど、それをなんと、教員全員の総意ではなく、校長が独断で決めるなんて言い出したんだ! まったくふざけている。いいか、みんな。この社会にはたくさんの矛盾が存在するし、これからも新しく生まれてくる。そういう矛盾というのは、自分の権利をはっきりと確かめたうえで、主張して、打破、打ち砕くしかないんだ。だから先生、言ったんだ。みんなには権威や権力に屈することがない、立派な大人になってほしいって」

「へえ、そんじゃあ」

「なんだい、鵜飼くん」

「おい、池上!」

 

 空気が凍りつくのを感じる。おいおい、いったいどうなるんだ?

 

「……どうしたんだい? 鵜飼くん。なにかあるなら言ってみないと。なんにも解決しないよ」

 

 何事もなかった――そんな感じだ。先生の方が一枚上手だった。

 

「ち、つまらん」

 

 広げていないノートに視線を落とした尚吾。いつものように、何人かがお喋りを始める。

 

「ふあ~あ……」

 

 あくびが出る。眠い。早朝から働いていたから。

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