それは……
ばあちゃんが救急車で運ばれた。
家から四キロ離れた学校のグラウンドでキャッチボールをしていると、近所のおっちゃんがやってきて教えてくれた。
「え!ばあちゃんが倒れたの?!」
「聞いた限りではのーいっけつとか、のーこーそくじゃないかって話だ。
どこの病院に行ったかわからんが、お前のお母さんがついて行ったから、誰も家に居ないぞ。隣の栗東自工に行けよ」
「え、あ、うん」
「それだけ言いに来たんだ。気をつけて帰れよ」
「う、うん、わかった。おっちゃんありがとー」
俺がお礼を言うのも待たずに、軽トラは走り出して離れて行ってしまった。
「おい、ばあちゃん、倒れたのか?」
「……わかんない」
グローブを外し、心配する友だちの顔も見られなくて、そのままコーチの所へ行き、部活を早退することにした。
「心配だろうが、事故に遭わないように落ち着いて帰れよ」
「はい」
何が起きたのか誰にもわからない状況で、コーチもどう言葉をかけていいのか分からないようだった。
俺はおっちゃんに言われた通りに、隣の家の栗東自工へ向かうことにした。
汚れのないままの練習用ユニフォームを脱ぎ、ジャージに着替えて自転車に乗る。
夏が終わった初秋の夕暮れは、思っているよりも早くやってくる。
俺は茜空に向かって自転車を漕ぎ出した。
「ばあちゃん、死んじゃうのかな」
思わずこぼれた不安は、一昨年に亡くなったじいちゃんの記憶がまだ消えていないから。
俺は息があがるのも気にせずに、自転車をぐんぐんと漕ぎ続けた。
隣の家、といっても、家の玄関と玄関を行き来するだけで、五分かかるくらいに離れている。
一度自宅まで自転車で行くが、明かりはついていない。
母さんの車も父さんの車も、ないままだった。
あるのは、ばあちゃんの軽トラだけ。
ぐっと涙を呑み込み、隣の栗東さんちへ向かう。
変色した「栗東自動車工場」の看板には、灯がともされていた。
「おじちゃん、ばあちゃん、救急車で運ばれたって」
車のボンネットを開けて、中に頭を突っ込んでいる人に俺は声をかける。
顔をあげたおばちゃんは、最初ぼんやりと俺を見ていたが、焦点が定まると、大きく頷いて答えた。
「おー、そうだ。回覧板を持っていったら、急に倒れてなー。
すぐに救急車呼んで、お前のかーちゃんにも連絡したんだ。
大丈夫だろ。まだ帰って来ないんだったら、病院でなんとかなってんだろ」
ざっくりとした大丈夫の基準だが、俺は栗東のおじちゃんがそう言ったのを聞いて安心した。
「おとーさんの方に電話したけど、繋がらないから、とりあえずウチで待ってろ」
「……うん」
「ツヨシはさっき、じいちゃんが迎えに行ったからな。中に入って待ってろ」
俺はうなずいて、おばちゃんに言われた通り、中に入って待つことにした。
父さんと母さんが迎えに来たのは、夜九時を過ぎてからだった。
俺には全部はわからなかったけど、手術をして、なんとかなったらしい。
俺がほっとしていると、弟が、心細い声でつぶやく。
「退院、できるんだよね?」
それを聞いて、俺はまた肩に力が入った。
「退院、は、できると思うけど……まだ目を覚ましてないからなぁ。わからないが、どこか骨を折ったりはしていないから大丈夫だと思うけど」
「そうか……。見舞いは?」
「いや、コロナで面会は出来ない。俺も母さんもじいさんには会ってない」
「……ばあちゃん」
俺たちきょうだいは、両親が共働きのこともあって、ばあちゃんじいちゃんに世話になって大きくなった。
いつでも俺たちの話を聞いてくれるばあちゃんが、家に帰っても居ないというのは、不思議な感じで、現実感がなかった。
それでも、朝起きて、学校に行って、病院のお医者さんから話を聞いた父さんの話を聞いて、なんとなくばあちゃんがいないことに慣れていった。
それでも、時々、ばあちゃんに手紙を書いて、父さんに渡したりしていた。
そんな日が続いて、初めて霜が降りた日。
「ばあちゃんが退院してくるぞ」
部活のない日曜日の朝、寝起きのままコタツにもぐっていると、父さんが言った。
「え!ほんと?!」
一番先に反応したのは、弟のツヨシだった。
「ばあちゃん、元気になったの?」
テレビを見ていた俺も、体を起こして父さんに大声で聞いた。
「うん。来週、退院だって。ただなぁ。なんか、医者が一緒に住んでいるご家族に説明があるとか言っててな」
「……ばあちゃん、ボケちゃったの?」
「いや、そうじゃないらしいんだが……わからん。何せ見舞いが出来ないから、会ってないし」
父さんも煮え切らない返事をした。俺たちきょうだいは、顔を見合わせていた。
「これから寒いからな。ばあちゃんが具合悪くならないように、ちゃんと見ていような」
父さんが気を取り直して言ったので、俺と弟は勢いよくうなずいた。
病院に行くと、少し大きな部屋に通された。会議室なのか、椅子はたくさんあったので、適当に座って待った。
しばらくすると、ドアが開き、白衣を着たおじさんに連れられてばあちゃんが入ってきた。
「ばあちゃん!」
ツヨシが嬉しそうに走り出そうとしたので、俺は上着をつかんで止めた。
「ばあちゃん、ゆっくり歩いてるだろ。危ないから待ってろ」
「……うん」
俺はツヨシの腕をとって、ばあちゃんが椅子に座るのを待った。
ばあちゃんの隣に座った白衣の人は、担当医師だそうだ。そのお医者さんが、厳かな声で告げた。
「おばあさんは、今、『ぱんつ』としか話すことができません」
「は?」
「……え?」
父さんと母さんが戸惑った声を上げた。
俺たちきょうだいは、子ども枠だから黙っていた方がいいと思っていたが、つい口から漏れた。
「ぱんつ?」
「ぱんつ?」
広い部屋に、長い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、ばあちゃんだった。
「ぱんつ」
本当にぱんつって言った……!
「あ、あの、すみません、どういうことなんでしょうか?」
「ばあさん、ふざけて……こんなことやる人じゃないもんな」
汗をかきながら説明を求める母さんと、ばあちゃんに話しかける父さん。
こほん、と、わざとらしくお医者さんが咳をひとつすると、説明を始めた。
「大泉さんは話すことは出来ますが、すべて『ぱんつ』という言葉になってしまいます。
ただ、それ以外のことは全く問題ありません。 ちゃんと考えることもできますし、その返事もします。ただ、その答えがすべて『ぱんつ』になってしまうだけなのです」
大真面目な顔で説明をするお医者さん。それがよけいに俺とツヨシの笑いを誘う。
「……だ、だめだ。黙ってろ」
我慢だ、ここで笑っちゃいけない。
そう思って足元の床の色を見つめていたが、ばあちゃんが、「ぱんつ」と、大真面目な顔で重々しく頷いたので、耐えきれなくなって吹き出してしまった。
「ぱんつ……ぶふぅ」
がんばって口元に腕を当ててみたが、全然ダメだった。
「大泉さんはしゃべる時は『ぱんつ』しか出てきませんが、筆談は今まで通りできます。
ただ、お年を召しているので、ずっと書いているというのも難しいようです」
俺たちが笑いをこらえようとして、こらえられないまま、ぐふぐふと笑っている一方で、お医者さんと父さんの質疑応答は続く。
「それじゃ、普段の意思疎通はすべて『ぱんつ』でやって、細かいことは書いて教えてもらうってことか……」
「おばあちゃん、看護師さんたちとも、それで大丈夫だった?」
軽くうなずくばあちゃん。あんな、重大なことを言いそうな顔で……。
「ぱんつって……」
「ぶふっ」
俺たちは、いままでと変わらないばあちゃんを見て、安心したのと相まって、ずっとぐふぐふと笑いながら、ばあちゃんとお医者さんと、父さん母さんの話が終わるのを待っていた。
ばあちゃんが、帰ってくる。それだけが、とにかく嬉しかった。
家に帰ってもばあちゃんは、ぱんつとしか言えなかった。リビングのテレビから、野球中継が流れている。
テレビ画面には、またもやホームランを打たれたばあちゃんのひいきチームの選手たちが映っている。今年に入ってからの負け試合数は、二桁どころか三桁の大台に乗りかけていた。
「ばあちゃん、落ち着いて」
ソファの隣に座るばあちゃんは、その小さな声に反応したようにゆっくりと首を傾げた。白髪交じりの頭が揺れる。
「ぱんつ……」
やっぱりそれしか言わない。試合は絶望的な点差。ピッチャーがまたヒットを打たれたところで、ばあちゃんが突然立ち上がった。
「ぱんつ!」
急に大きな声で叫び、リモコンを握りしめてテレビの電源を切る。
「ちょっと、ばあちゃん!まだ試合途中だって!」
ばあちゃんは無視してキッチンの方へ向かった。俺も慌てて後を追う。冷蔵庫を開けて何かを取り出そうとしている背中に話しかけた。
「何してるの?」
「……ぱんつ」
見ると、穏やかな表情で缶ビールを持っている。
まぁ、最初は戸惑ったりしたが、産まれた時からばあちゃんと一緒に暮らしていたからか、俺たちきょうだいはだいたいの意味を読み取れた。
テレビのリモコンをとって、「ぱんつ、ぱんつ」とばあちゃんが言えば、こんな意味だ。
「あ、時代劇見るんだね」
それから、夜の決まった時間にパンツとタオルとパジャマを持ったばあちゃんがそう言うとお風呂だとわかる。
ばあちゃんの生活パターンを熟知している俺たちにとっては何の不都合もなかった。
ただ、朝起きるのが遅くて、遅刻しそうになったり、宿題をしないまま、ノートを広げっぱなしにしていると、
「ぱんつ!」
気合いだけで怒られるので、前よりもばあちゃんが怖くなったくらいだ。
そんな、家族の中では通じるばあちゃんの「ぱんつ」も、外にいけばどうなるのか。
きっと、笑われるだろう。
ばあちゃんが救急車で運ばれたことを知っている人たちも、入院していたことを知っていた人たちも、みんな「ぱんつ」と言うばあちゃんを見たら、なんて思うだろう?
きっと、認知症が、とか、病気になったと思って遠巻きにするだろう。
「退院したんだってね。体の具合はどうだい?」
家に顔を出す近所の人たちが、ばあちゃんに話しかけるたびに、ばあちゃんが、無言でうなずいているだけなのを何度も見て、ようやく気がついた。
ばあちゃんがうなずいたり、首を振ったりするだけなのを見て、俺たちの顔を見て心配そうに言う。
「……おばあちゃん、喋れなくなったの?」
「喋れるけど、ちょっとまだあんまり話せないんだ」
俺が答えた。近所の人たちは、それを聞いて、複雑そうな顔をして帰っていく。
「なんだか大変だったね。歩けるなら、畑にでも遊びにおいで」
その流れを横から見ていて、ばあちゃんは「ぱんつ」とだけしか話せなくなったことが、恥ずかしいことと思っているんだな、と分かった。
救急車に運ばれる前は、毎日のように軽トラに乗って、畑に行っていたのに、「ぱんつ」としか言えなくなってから、ばあちゃんは一切行かなくなってしまった。
俺やツヨシを迎えに来るために、軽トラに乗ることはあっても、決して車から降りようとは、しなかった。
何度か休みの日に、ばあちゃんと一緒に畑に行ったけれど、あまり人がいないようなお昼とか、夕方とか、中途半端な時間ばかりだった。
前は、朝ごはんを食べたら、すぐに軽トラに乗って畑に行っていたのに。隣の畑の人たちと、大声で話して、楽しそうにしていたのに。
「ばあちゃん……」
西の空が、濃い紫色とうっすらとした黄色にまじる時間まで、ひとりで黙々と畑仕事をしているばあちゃんを見ていて、俺は悲しくなった。
そんな日々を送っているうちに、冬休みになった。部活で毎日のように学校に行く俺は、時々ばあちゃんに迎えに来てもらったりしていた。
以前は、父さん母さんに運動になるから登下校は自転車で行けと言われていたけど、ばあちゃんを家から出して、外の空気に触れさせるため、あえて迎えをお願いするようになっていた。
父さんも母さんも、家に篭りきりなばあちゃんを心配しているのだ。
「……これは、本人の気持ちが大事だからねぇ」
母さんがため息をつきながら、そう言うと、誰も否定をしなかった。
そして、その日は遠征試合があって、帰りが夕方になった。
冬至を過ぎた夕日はとても早くて、自転車置き場近くに停めているばあちゃんの白い軽トラが、ぼんやりと光っているように見えるくらい、暗くなり始めていた。
部員同士で挨拶をした後、帰るために自転車を軽トラの荷台に乗せてから、ばあちゃんの待つ暖房の効いた車内に入る。
ばあちゃんは無言で、ハンドルを握った。
家以外では、決してばあちゃんは話さない。たとえ、俺しかいない軽トラの中でも。
その沈黙の時間を埋めるために、俺は今日の試合の話をずっと話す。
ばあちゃんがどこまで野球の話を面白がってくれるのかわからない。でも、「ぱんつ」の一言も言わないばあちゃんを少しでも楽しませたかった。
ばあちゃんは、時々うなずきながら、黙って俺の話を聞いていた。
家に着いて、軽トラの荷台から自転車を下ろしていると、珍しく早く帰った母さんに聞かれた。
「おかえり、ツヨシは?」
「え?知らないよ。今、学校から帰ったばかりだよ」
「おばあちゃんは、知らないの?」
ばあちゃんは黙って首を横に振っていた。
「今日はツヨシの誕生日だから、ケーキを取りに行くんだけど、一緒に行くって言ってて……暗くなる前に家に帰って待ってなさいって、言ったんだけど」
俺は自転車を地面に下ろして、そのまま農作業所の前にある自転車置き場まで、引っ張っていった。
いつもなら、ツヨシの自転車があるのに。ない。
「母さん、ツヨシの自転車がないよ」
ツヨシはまだ小学校低学年だから、近所のエリアでしか自転車に乗らないようにしている。
よく行く場所は、栗東自工前の広い砂利のところ。そこまで行って、ぐるっと回って家に帰ってくる。
「……ちょっと、栗東さんちまで、自転車で行ってくる。ツヨシ、もしかしたら、栗東さんちでお茶飲んでるかも」
「……そう、ね。うん、そうかもね」
言いながらも、俺も母さんもその可能性は薄いと思っていた。
栗東のばあちゃんは、夕方の早い時間に風呂に入る。その時間は毎日決まっていて、遊びに行っても風呂の時間だと言って帰されるのが決まりなのだ。
その時間はとっくに過ぎている。
「……ばあちゃん」
怖い顔をして、ばあちゃんが軽トラの横に立っている。
退院してからずっと家にいるばあちゃんは、ツヨシと一番一緒に時間を過ごしている。
日が暮れた今の時間に、ツヨシがいないことの異常さが、誰よりも分かっているようだった。
「……とりあえず、行ってくるから」
「……ぱんつ」
「……うん、気をつけていってくるよ」
俺は自転車に乗って、栗東自動車工場へと向かった。
「ツヨシ?来てないぞ」
夜間灯が看板を照らす栗東自工には、予想通りツヨシの姿はなかった。
「ツヨシ、自転車に乗っていったみたいで。今日はこの辺に来てなかった?」
嫌な予感に、体全体がぴりぴりと電気が走ったような、落ち着かない気持ちになった。
栗東のおじさんは、しばらく天井を見上げていたが、声を漏らすと、俺の方に顔を向けて言った。
「そういえば、三時半ごろに、うちの前の砂利のところをぐるぐる回ってたな。その後、電話が来たから中に入って……」
おじさんの言葉が止まった。
「……いや、まさか、なぁ」
がしがしと頭をかくと、「ちょっと待ってろ」と言って、自宅の勝手口の方へ向かった。
がらん、とした、おじさんのいない工場は、さむざむとして、見慣れない車たちが天井の光を反射して、冷たく見えた。
もぞもぞと足踏みをして、両腕を抱えて待っていると、おじさんが戻ってきた。
手には大きな懐中電灯をいくつも持っていた。
「すまん、そういえば、電話をしていた時に、急ブレーキの音が聞こえたんだ。
気になって砂利道から道路を見たら、アスファルトにタイヤの跡があったけど、車も何もなかったから、そのまま戻っちまったんだ」
「……おじさん、それって」
「わからんが、もう一回ちゃんと見てこようと思う。お前もライトで照らせ」
「……うん」
胃が、嫌な感じになった。でも、断ることは、できなかった。
栗東のおじさんと、県道まで出る。
砂利の広いところから、白線一本越えれば、車道だ。
あぶないから、砂利道までと、俺もツヨシも小学校に入った時に、ばあちゃんじいちゃんに言われていた。
左右を確認してから、おじさんが道路を渡る。そして、ライトでアスファルトの地面を照らす。
何もないと、息を吐いた後すぐ、軽くブレーキを踏んだような痕が、目に入った。
「ここに立って、照らせ」
「うん」
懐中電灯に照らされたおじさんの顔は、こわばって見えた。
俺は立ったまま、おじさんに言われた場所を広く照らした。
おじさんは、懐中電灯をアスファルトの端から、枯れ草の方に向けて、そのまま屈んだ。
「何か、ぶつかったんだな、プラスチックの破片がある」
「それって」
「もしかしたら、ツヨシは車に轢かれたのかもしれん。……家に行って、お母さんに言ってこい」
固い声でおじさんが言った。
俺は「車に気をつけろよ!ライト照らせ!」と、おじさんの怒鳴り声を背に、走り出した。
道路沿いにある街頭をいくつも走り抜けて、見慣れた家の明かりにたどり着く。
走ったせいなのか、緊張のせいなのか、震える手で、玄関を開ける。
ばあちゃんが、上がりかまちに腰掛けて、待っていた。
「ばあちゃん、栗東のおじさんが、ツヨシが、車に轢かれたかもって、県道の横に、ライト照らしてて」
「ぱんつ」
すでに靴まで履いて待っていたのか、ばあちゃんは立ち上がった。
下駄箱の上にある懐中電灯をつかむと、
「ぱんつ!ぱんつ!」
と、家の奥に向かって叫んだ。すると、スマートフォンを耳にあてたまま、母さんが出てきた。
「今、おばあちゃんに呼ばれて……え、おばあちゃん、どこに」
「ぱんつ!」
ばあちゃんは、俺を指差してから、母さんにその指を向けた。
説明しろって、言ってる。
俺は、母さんに言った。
「栗東のおじさんが、三時半ごろにツヨシを見たって。その後、急ブレーキの音が聞こえたって。今、県道の方を見てきたけど、ブレーキ痕と、プラスチックの破片があって、ツヨシが轢かれたかもって」
「……聞こえた?……うん、うん。スマホ持っていくから。うん、わかったら連絡入れておく」
振り返ると、もうばあちゃんの姿はなかった。
母さんの車に乗せられて、栗東自工の方へ向かうと、二台の軽トラと軽自動車の合計三台のライトで、枯れ草の方を照らしていた。
誘導灯を持った栗東のおばさんが、通行車の整理をしていた。
母さんが車を寄せて停めると、栗東のおじさんがやってきた。
「今、警察に電話したから!そっちの斜面に自転車が落ちてた!
ツヨシ、探してるから!」
母さんの体が固まった。俺は助手席から下りると、さっき栗東のおじさんに渡された懐中電灯を持って、車のライトで照らされたところへ向かった。
「ツヨシくーん!」
「どこにいるのー!」
栗東のおばあちゃんとじいちゃんが、ダウンを着こんだもこもこした姿で、懐中電灯で枯れ草の下の斜面を照らしていた。
懐中電灯の光が動くたびに、真っ暗な中で、苦悩するように枝を伸ばした木が、あちこちで出現する。
その横で、ばあちゃんが斜面を降りようとしていた。
「ばあちゃん!あぶないよ!」
俺がばあちゃんを追って、斜面に足をかけると、ばあちゃんは無言で首を振った。
「ばあちゃん……」
ばあちゃんは、ツヨシの名前を呼べない。叫べないから、足でツヨシを探そうとしている。
「でも、ばあちゃん!あぶないから!」
退院してから、それなりに体が戻ったとはいえ、入院前よりは足元が弱くなっている。
そんな状態で、雑木林の中の斜面を降りるなんて、無理だ。
「ばあちゃん!戻って!ばあちゃん!」
叫びながら、ばあちゃんの腕をつかむ。
はっ、と、した。
冬のジャンパーごしとはいえ、ばあちゃんの腕は、とても細く思えた。
こんなに、ばあちゃんの腕は、細かっただろうか。
きりっ、と、胸が痛んだ。
腕をつかむ手に、力を入れる。
「……ばあちゃん!戻って!あぶないから、もどってぇ!!」
ずっと当たり前にいた人たちが、急にいなくなってしまう恐怖。
棺に入ったじいちゃんと、そのそばに夜遅くまで座っていたお通夜の記憶が、頭をよぎる。
「ばあちゃん!」
力をこめて、引き戻す。ばあちゃんの体が止まった。
俺の腕の力と、ばあちゃんの体の引き合いが始まった。
けれど、あっけなくばあちゃんの体は、俺の方に傾いた。
「ばあちゃん、上で待ってて……」
ばあちゃんの体をさらに引き寄せようとした時、ばあちゃんが叫んだ。
それは真っ暗な雑木林に、響き渡った。
「ぱんつ〜!ぱんつ〜!」
ばあちゃんは、ツヨシの名前を叫んでいる。全然、ツヨシの名前は言えていないけれど、それは、誰か大事な人を、懸命に呼ぶ声だった。
「ぱんつ〜!ぱんつ〜!」
俺に腕をつかまれたまま、ばあちゃんは叫び続けた。
そのうち、上の方から別の懐中電灯の明かりがゆらゆらと、近づいてきた。
栗東のおばあちゃんじいちゃんが、ばあちゃんの声を聞いて、来ているのだろう。
ばあちゃんにも、その明かりは見えているはずだ。
それでもばあちゃんは、叫ぶのをやめなかった。
「ぱんつ〜!ぱんつ〜!」
「ばあちゃん……」
ぐうっと、喉の奥が詰まった。
暗闇を照らす懐中電灯の明かりが、急に歪み出した。泣くな。代わりに、声を出せ!
「……ツヨシ、ツヨシ!どこだぁー!」
ばあちゃんの腕をつかみながら、俺も叫んだ。
何度、ツヨシの名前を読んだだろうか。
急にばあちゃんが、俺の手をつかんで、黙った。ざざっと、下の方から風が雑木林を揺らす音が聞こえた。その暗い雑木林の方から、かすかに聞こえた。
「……ば、ちゃ……」
「ツヨシ!どこだ!」
ばあちゃんの腕を離して、雑木林の斜面を降りようとすると、服がひっぱられた。
振り向くと、ばあちゃんが俺の手に、ロープを渡してきた。軽トラに乗せてある、荷台に使う頑丈なロープだ。
逆光を浴びたばあちゃんの顔は見えない。
さらに顔を上げると、栗東のおじさんっぽいシルエットが、見えた。たぶん、上から渡してきたんだろう。
俺は急に落ち着いた気持ちになり、ロープを握りしめ、ゆっくりと斜面を降りていった。
ほぼ同時に、警察の人たちがやってきた。
俺はすぐに道路まで戻され、ばあちゃんと一緒に軽トラに乗って、栗東自工の砂利のところへと移動した。
ばあちゃんは、軽トラを邪魔にならないところへ停めてから車を降りると、じっとパトカーの停まっている方向を見つめて、立っていた。
しばらくすると、救急車がやってきた。くるくると回る赤色灯を見ながら、ばあちゃんは隣に立つ俺の背中を二回叩いた。
ばあちゃんは、何も言わなかったけれど、俺はなんとなく大丈夫だと思った。
栗東自工の前にある防犯カメラに、事故の様子が一部だけ撮影されていた。
車は砂利のところを走るツヨシの自転車にぶつかったまま、まっすぐに進んで、カメラの画面から消えていった。
ツヨシはそのまま斜面下の雑木林まで飛ばされたようだった。
ヘルメットをかぶっていたことと、冬の枯れ草が溜まっていて、クッションになったことが、幸運にも重なって、打ち身と足の骨を折るだけで済んだ。
その夜の内に、破損したまま走行していた事故車が見つかり、犯人は逮捕された。
そして、栗東のおじさんが、翌日謝りに来ていた。
ツヨシを見た後に、ブレーキ音が聞こえたのに見に行かなかったことを、悔やんでいるようだった。
「ぱんつ」
ばあちゃんは、首を振った。 謝るなと、言っているんだと、栗東のおじさんはすぐに理解した。
そして、申し訳なさそうに、頭を下げながら、ばあちゃんに聞いた。
「それと、なんで、ぱんつしか言えなくなったんでしょうかね……」
入院したツヨシは、だんだんと病院にいることに飽きてきていた。
家に帰りたいとまでは言わなかったが、ホームシックも混ざり始めていた。
そこで、ばあちゃんと携帯電話でやり取りするようになった。
スマートフォンは壊すからダメだと、父さんと母さんに止められ、携帯電話をツヨシのために、用意した。
そしてばあちゃんは、父さんと一緒に店に行って契約してきた携帯電話をいじくっては、カメラ機能と画像を送ることを覚えた。
病院にいるツヨシが文章を送り、ばあちゃんはそれに応えるように、カメラで撮った画像を送った。
外の風景を撮るために、ばあちゃんはひとりで出かけるようになった。それから、ばあちゃんはだんだんと、隣の栗東さんの家へ遊びに行くようになっていった。携帯の使い方を教わりに行っているらしい。
そして、気がつけば栗東自工の人たちはみんな、ばあちゃんが「ぱんつ」しか言わないのに、意思の疎通ができるようになった。
「時々、携帯に文字を打ってもらったりするけどなぁ。
だいたいは顔見て喋れば分かるもんだしなぁ
のんびりと栗東のおじさんが、休憩のお茶を飲みながら答える。
今日は、ツヨシが退院してくる日だ。
「それにしても、一年で二人も救急車に運ばれて大変だったなぁ」
「ぱんつ、ぱんつ」
「まぁ、退院して元気になってるからいいのか」
「ぱんつ」
ばあちゃんが頷く。お昼が近くなったので、ばあちゃんと二人で、歩いて家に帰る。
父さんと母さんは、ツヨシを迎えに病院へ行き、ツヨシは、ファストフード店におもちゃ付きのハンバーガーセットを買いに行っている。
「そういえば、ツヨシの誕生日のケーキ、買わないままだった」
「ぱんつ?」
「食べたいけど……ツヨシが帰ってくるし」
「ぱんつ」
ばあちゃんがハンドルを握って回すジェスチャーをする。
「今から?」
「ぱんつ」
「お金ないよ」
ばあちゃんが自分の胸をぱん、と叩く。
「ばあちゃん、お金あるの?」
「ぱんつ、ぱんつ」
そう言いながら、両手を大きく広げる。
「嘘だぁ〜」
俺がくすくす笑うと、ばあちゃんも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、退院祝いに、コンビニのシュークリーム買いに行こうよ」
「ぱんつ!」
ばあちゃんは満面の笑みを浮かべて、ポケットから軽トラの鍵を出した。
ラジオをつけて、軽トラは走り出す。ばあちゃんは、「ぱんつ〜」と、お気に入りの演歌に合わせて歌う。
俺はそれを聞きながら、無性に楽しくなってしまい、笑った。
ばあちゃんは、「ぱんつ」しか言えなくなってしまったけれど、話さなくても、そこにばあちゃんがいるだけで雄弁に語っている。
隣に座るばあちゃんの歌声を聴きながら、俺は薄い水色の春の空を眺めた。
いかがだったでしょうか。