01 灰被り
途切れ途切れの意識の果てに
最初に思った事は『まだ生きている』だった。次は『どうして?』という疑問。
その次辺りに雨が降っている事に気づき、全身が痛くて冷たい。
ここに至るまでの記憶が殆ど思い出せない。
打撲か骨折か分からないが自由に手足が動かず、僅かばかり這いずる事が出来るだけ。
風前の灯火の様な有様になった自分の目の前に誰かが居た。顔を上げる力も無く無事な右目で見えるのは黒ずんだ緑色の靴。膝丈まで覆っている所からロングブーツであると推察できた。
その
「……貴女は私の知るシル・フローヴァではない。けれども……、同僚のシル・フローヴァだ」
「………」
玲瓏たる声色は何度も聞きなれた高潔なエルフのもの。
無様な姿を晒している彼女の前に現れた意味は――死を告げる使者のよう。
今まで彼女を騙していたのだから断罪に来たのか、と思った。
(この世は偽りで出来ている。真実がどうであれ……。そんなものに意味はない)
かつて瀕死のエルフの手を取ったのは――果たしてどちらのシルだったのか。
倒れ伏す
「神フレイヤが言っていました。貴女はお払い箱だと。もう二度と戻ってくるな、とも」
「………」
小さく息を吐きながら残酷な現実を突きつけられる。
敬愛すべき女神に見限られた。弱々しく鼓動している心臓が今にも止まりそうになる。
言伝を持ってきた者は女神のお気に入りだ。止めを刺す権利がある。
「『ヘルン』の名を返上し、貴女は町娘……。ただの一人の
「………」
女神フレイヤと交換した
夢も希望もなく、愛すらも無い息をするだけの肉の塊に。
今は死を待つゴミ虫か、と。
今まで女神フレイヤの側に仕え、彼女の為に尽くしてきた少女が全てを失い、濁った
それもこれも全て――
憎しみが沸々と湧きたったがすぐに鎮まった。今更言い訳をしても仕方がない。機会を逸した自分がバカだっただけだ。
かつてシルともヘルンとも呼ばれた少女は顔を濡れた地面につける。とても冷たくて、とても情けなくて、もう二度と起き上がりたくない気持ちになってくる。
そもそもどうしてまだ生きているのか。そればかりが気掛かりだった。
側に居るであろう
「……結局のところ私はシルの真意を理解することが出来ませんでした。何がしたかったのか、何をしようとしていたのか……。けれども、私は貴女……貴女達には嘘が無かった。姿を偽る程度私にも覚えがあります。人に言えない事の一つや二つ持っているのが冒険者だ」
(……どちらのシルが真にベルを好いていたのか。二人共ともいえるし、そうではないともいえる)
一人の少年を巡って地に這っている彼女にエルフのリューはまだ手を出さない。
彼女自身も迷っていた。
あの時は神フレイヤだからこそ手を取れたのではないか、と。
このシルも大事な友人だ。だから、手を出してくれればいつでも握ってあげよう。そう思って待っているのだが蹲ったまま大人しくしている。
姿は酒場で働くシル・フローヴァのものなのに。
(姿を変える魔法で今の姿になっていると神フレイヤが説明していた。本来は【フレイヤ・ファミリア】の侍従頭ヘルン……。全く気付かなかったのは『魔法』のせいだと頭では分かっているのに)
種が分かっても見抜くのは容易ではない。ましてシルの魔法は神々でさえ見抜けなかったようだ。何かほかに
(……手を出さないのは諦めているから? 救いを求めないのは神フレイヤの為? ……違う、これは私の願望だ。彼女を助けたい。だから早く手を差し出してほしい、という……)
ここに来たのはシルを見定める、という意味のほかに瀕死に陥っている彼女を助けたいという気持ちがあったからだ。
伝言を伝えた後は始末なさい、とは言われなかった。――ただ、ゴミを片付けておいて頂戴とだけ。
もし、リューが無視すれば他の団員が片付けに来る。現に
「……いつもいつも、いつも……。私に頼み事ばかりして……。言うだけ言って礼の一つも返さない。……シルはいつも我儘です。度し難いほどに……」
倒れ伏している彼女の胸ぐらを掴んで引き起こす。
そこでシルは濁った視界の中で見た。
雨である程度洗い流されていたが血で滲んだ彼女の
特に胸の辺りに激しい出血の痕が窺える。
「………」
「……私は、怒っているんです。いつも感情的になるんです。……だから、いつも私は……」
自分の感情を制御出来ずに暴走してしまう。
思いの丈が強ければ強いほどに。
そんなリューによって無理矢理引き起こされたシルは無感情な顔を湛えたまま口から大量の血を吐いた。
思った以上に重体だった事にシルは我がことながら呆れた。先ほどから空気が抜けるような呼吸ばかりしている。まともに喋る事も出来ないらしい、と。
このまま処置しなければ死ぬ。そんなことをぼんやりと考えた。
(……リューもボロボロ……。私に構っている暇なんて……あるのかしら……)
少年と同じく女神の寵愛を戴いているエルフの事に今更ながら気が向いた。いや、辛うじて動いた。
シルはただひたすらに女神の為に働き、その為だけに生きていたかった。
『
当初はそのつもりがなかったのに深くかかわってしまったばかりに感化されてしまった。
「………」
声が出ない。
首が締まって苦しい。けれど、このままでいたい。そうすれば――
それが貴女が願ったものなの?
どこからか聞き覚えのある女神の言葉が耳に届く。
シルが成りたかったのは美しい女神だ。その為なら自分の全てを捧げてもいいと思った。
どこかで傲慢な考えがあった事も今更否定はしない。
(……女神になれなかった私は……、……道端に転がる石ころ……。誰にも見向きもされず、ただひたすらに誰かに蹴られてどこかに転がっていくだけ……。最後は身体が粉々になって……、砂粒一つとなって風に流されていく)
そんな世界からシルは逃げ出したかった。その為なら名前すら他人に差し出せる。
――ああ、だけど出会ってしまった。心の琴線に触れる存在に。
自分が一番欲しかったのは女神の愛だけ。それ以外は何も要らなかった。
(……今でも……思い出すと憎々しい。……敬愛する女神を穢そうとする白い兎が……。……ベル・クラネルが……)
強い思いが呼吸を乱し、口から血を吐き出す。
今の吐血でシルの意識が一気に悪化し、目の前の景色が歪んでまともに把握することが出来なくなる。
雨が上がって陽が差したように。
女神と名前を交換した時の空が確かこんな様子だったかな、とシルは最後の力を振り絞るように顔を上げ――ようとしたが動けなかった。
そして、意識がそこで途切れてしまった。
時計の針が僅かに戻り、瀕死の深手を負ったエルフのリュー・リオンは【フレイヤ・ファミリア】の団員――
胸を切り裂かれ、肺にまで達した刀傷から今も空気が抜けるような音が鳴っている。
傷口を塞がないと窒息死してしまう。だが、大量に空気を失って結構経っている為か、身体が震えて自由が利かない。
助けを呼びたくても迂闊に声を出せばそれだけ死期が縮まる。何より、側に佇む黒いエルフが許さないだろう。
(……荒い呼吸を鎮めなければ……。助けも呼べないし、喋れもしない。……ベルは無事でしょうか……)
突如として発生した少年冒険者と【フレイヤ・ファミリア】の追いかけっこ。字面だけなら微笑ましいが追う側は最強派閥の一角だ。
訳も分からず少年に味方したのは今日彼と『デート』する少女シル・フローヴァの要請があった為だ。
【ファミリア】の抗争は珍しくないが今回は毛色が違っている。何故か【フレイヤ・ファミリア】の団員が暴走し、本気で殺しにかかっていることが不思議でならない。
少なくともリューはベルがかの【ファミリア】の機嫌を損ねるような人物だとは思わなかったので。
この時、あちこちで戦いが始まり、リューは【フレイヤ・ファミリア】の団員に完膚なきまでに敗北し、今に至る。
(……呼吸が安定しない。このままでは……)
死ぬ。少しずつ視界が暗くなっているし、狭まっている気がする。いや、事実視界が縮まっていた。
後何分意識を保っていられるのか。相手の目的は何なのか。
それが分かったところで動けない事には変わらない。
窒息しないように呼吸を少なめにしてみたり、無呼吸がどれだけ続くか試したり――
延命方法を模索した。――全くの無駄骨になるかもしれないと思いつつ生きる事を諦めない。つい先日に自分はベルに救われたばかりだ。恩を返す前に死んでは悔いしか残らない。
荒い息遣いのまま過ごしていると廃屋に何者かが入ってきたようだ。襲撃者である
「……あらあら、酷い姿になったわね」
「!?」
視界が狭まり寝転がった状態だが声の主はすぐに分かった。
女神フレイヤ。彼女でなければ側に居る冒険者が膝をつく事などありえない。
窒息寸前の身の上であるリューは体勢を変える余力がなく、無様に佇む事しかできなかった。
「……ヘグニ。貴方、
「……はっ」
女神の命を受けて同族の冒険者ヘグニ・ラグナールは懐から
驚異的な回復能力を持つアイテムによって傷口が塞がっていくが、頭痛や苦しみがすぐに解消されるわけではない。
穴が塞がって抜け出た空気を改めて補充する。新しい大気が体内を駆け巡る時、言い知れない頭痛を味わった。
「はぁー! はぁー! ごほっ……」
息を吹き返した反動で地面を転がるエルフを女神フレイヤは無表情で眺め、側に控えるヘグニに何もしないように手で制していた。
女神の御前なのに無様な恰好を晒している同族に僅かな殺意を覚えるものの、ヘグニという
「回復したところで申し訳ないのだけれど……。これから私の機嫌を損ねた女を処分しなければならないの。しかもその子は貴女の友人だそうじゃない」
「……う」
(そ、それは……、シルのことか!?)
身体がまだフラフラして思うように立てず、相手の顔をまともに見られない。けれども、耳だけは無事なようで一言一句逃さないように意識を集中させる。
女神の機嫌をシルが損ねた、という部分が全く理解できない。てっきりベルを追っているものと思っていたので。
「私の
「……【フレイヤ・ファミリア】が敵に回れば……私など歯牙にもかけないだろう。どうしてそんなことを聞く? ……私だって身の程を弁えているつもりだ」
血反吐を吐きながらなんとか喋った。けれども、思いのほか力が入らず、いくつか気の抜けた発音になってしまった。
女神フレイヤはリューの言葉に眉根一つ動かさない。全く何も動じない。いや、つまらない言葉を聞いた、という意味の態度かもしれない。
「……つまり、私が命令した事で友人の女の子が死んでも泣き寝入りするって理解でいいのかしら?」
「……そ、そんなわけがあるものか。……この身に代えても友人を守りたいに決まっている。……今は言葉だけの強がりしか言えなくて悔しい」
傷口に手を当ててまだ少し呼吸が苦しく、今にも倒れそうな思いだった。
起死回生として女神に刃を向けようものなら、側に控えているヘグニが容赦せずに襲い掛かってくるはずだ。
残念ながら彼我の実力差が分からないほどリューは愚かではない。
泰然と構える銀髪の女神はリューをただただ睥睨し、何かを待っているかのようだった。
髪もそうだったが衣類が全体的に濡れていた。そのお陰でエルフに匹敵すると言われる白い肌が透けて見えていた。
まるで長時間雨降りの外で佇んでいたかのように。
それでもフレイヤはそんなことを歯牙にもかけずリューを見ていた。リューしか見ていない。
「……やっぱりただ処分するのは面白くないわね。神は娯楽に飢える者……。どうかしら、死にかけのエルフさん。交渉してみる気はある? 美と豊穣を司る女神として物騒な事に手を染めるのは
今まで無表情だった女神が新しい玩具を見つけた時の無邪気な笑みに容貌を変えた。
その笑顔に思わずリューはたじろぐ。得体の知れない者を前にしているような、真っ黒な不安の塊をフレイヤに感じた。
レベル4に至って大抵の死地を潜り抜けて来た自負のあるリューが今まで感じたことのない恐怖に身体を震わせる。
向かっても逃げても自分に待っているのは死、だけだと。
そして、なんとなく――確信に似た印象を受けるが――フレイヤは今、とても不機嫌である。それは得物を取り逃がしたからか。自分の意に添わぬ事態に陥ったからか。
何にせよ、リューに出来ることは女神の
友人を守る為にリューに出来ことは多くない。まして相手は【フレイヤ・ファミリア】と主神フレイヤだ。一介の冒険者に太刀打ちできる筈がない。
交渉を持ちかけているところから今すぐに暴力でもって解決しようという意図が無い事は理解した。そうでなければ怪我を治す意味が分からない。
「力の差は歴然だ。もはや交渉ではなく命令の間違いではないか? それに私を従わせたいなら……『
「……『
少し寒いわね、と口走るフレイヤに対し、ヘグニは自分がまとっている外套を差し出した。それはもう何の迷いも見せない早業のように。
身にまとっている服の都合から男物でもいいか、とフレイヤは考え受け取る事にした。それと椅子が欲しいわ、ともう一つのお願いを言うと従者のように彼は現場から適切なものを探し始める。
「うちの子供達は私の『
女神の為に尽くす眷族の様子を微笑ましいものを見るような慈愛のこもった目で眺めた。そこには下等生物を卑下するような傲慢さは窺えない。
けれど、それは一瞬で切り替わる。
一度女神がつまらないと判断すればどんなものも無価値に変わる。
リューに向けられた瞳はそんな印象を強くしていた。だが、目の錯覚か、目の前に居た筈の女神が消失した。
「……な、に……!?」
彼女の目の前にはどこから現れたのか、雨に濡れて震える小動物の様な――大切な友人が立っていた。それも傷心によって今にも
【フレイヤ・ファミアリ】総手で探し回っている目的の人物がどうして、と。
「ねえリュー?」
「……シル……」
女神フレイヤではない友人シル・フローヴァの声だった。何度も聞いていた彼女の声を聞き違える筈がない。けれども、今はとても混乱していた。そんなバカな。そんな筈がない、と。
――それとも今までの全てが――嘘偽りだったのか。リューの脳内に様々な憧憬が流れては消えていく。
最後に止まった景色は路地裏で力尽きるところに手を差し伸べてきた可愛らしい
あれは果たして――
(……ああ、そうか。
「私のお願いを聞いてくれないかしら?」
「……ううっ、うー……。うあ……」
「……現場にある椅子はこちらになります。申し訳ありません、御身をおいて外に出る事が叶わず……」
「ええ、充分よ。貴方は見張りを続けて」
シルの姿で。シルの言葉でヘグニに愛想笑いを向けて椅子に座る姿は正しく女王の貫録。
見た目はただの町娘にすぎない彼女こそ女神フレイヤと同等の存在であると認める以外なかった。
同等というよりどちらもフレイヤである。
何らかの力でシル・フローヴァに成りすましていると見て間違いない。
「勘違いしてほしくないのだけれど……。この姿になったのは
(……ああ、今日は随分と饒舌ね、私……。それだけ傷ついたからかしら? いつも酒場ではこれくらい喋っていたし……。というより私の子達が寡黙過ぎるのがいけないのではなくて?)
ふと横に控えるヘグニに顔を向けるシル。表情が少し不満そうになっていた事にヘグニは激しく動揺した。
自分の何が至らなかったのか僅かばかり取り乱す眷族の様子にシルは軽くため息を零す。
「……色々と混乱しているが……。その上で問う。貴女が処分すると言った私の友人とは誰だ?」
「決まっているじゃない。シル・フローヴァ、と名乗る女の子」
「……ん?」
「どこから説明したものか……。あまり呑気に話している時間も無いのよね」
そう愚痴のようなものを零すのは
姿形はおろか声と気配が全く変わってしまった事に。
その後、フレイヤは簡単ながらシルの事を伝えた。変身についてはそういうものだと理解させて。
「どちらの
「……しかし。ですが、どうして処分という話しになっているのですか」
「……お遊びの時間が終わってしまったからよ。もうシルになる必要は無いし、あの子もシルでいる理由を無くしたわ。私と『約定』を交わしているから、それを守ってもらわないと」
その上で交渉しようと持ち掛けられている。
リューは怒涛の勢いで真実を告げられ、どれを優先すべきか迷った。もちろん、友人を救う方法を考えなければならないし、現場から逃走する方法も見つけなければならない。
何にも代えて友人を守る。それがエルフとしての矜持である。
――その守るべき相手がどちらのシルか分からないというのが一番の問題であり、混乱の元凶であった。
「……一体、何が目的なのだ? 何を交渉材料にしている」
「……それはもちろん、リュー。貴女よ」
唐突な言葉にリューは思わず気の抜けた言葉を発した。
差し迫った状況の中で想像の埒外の言葉が出てきて驚いた。
「私はね。欲しいものの為なら手間を惜しまないの。それで……、
「……冗談……ではないのだな?」
雨にずぶ濡れで寒さに震えている女神が廃屋の中で冗談を言う、訳が無い。
女神フレイヤは真剣にリューと相対している。かつて同僚だった
「はっきり言うわ。私の【ファミリア】に
「……話しが見えないが……、断れば友人が処分されるのだな?」
「そうよ。理解が早くて助かるわ。それに悪い話しではないでしょう? 【ステイタス】もろくに更新できないまま貴女はこれからも友人を守ろうとする。……正直、それはもう限界ではなくて? 私の子達に負けるような弱者がこれからも友人を守り続けられると本気で思っていて?」
リューが入っていた【アストレア・ファミリア】は壊滅した。けれども主神は未だに健在である。その証拠に背中に刻まれた【ステイタス】が封印されていない。
もし、かの主神を召喚し、手続きを踏めばまた【ステイタス】を更新できるようになる。今よりもっと強くなる可能性が出てくる。
「……その言い方では脅迫と変わらない、神フレイヤ」
「それは申し訳ないわね。気分的に荒んでいるからかしら? ……で、この交渉に乗る気はあるかしら? 受けてくれたら私の子供達に
「……いつもの日常……。貴女の言い分だとシルが救われた事にならないのでは? 女神の指示で『豊穣の女主人』に働きに来ていたのではないのか? その命令が無くなるという事は……」
シルは元々【フレイヤ・ファミリア】の団員だった。それがどういうわけか女神に反抗して追われる身となってしまった。
もし、フレイヤの交渉を受け入れれば処分、というか殺される事は避けられる。けれども、その後の安全は保障されていない。
団員が女神に見限られたのだ。穏便に済むとは思えない。元よりもう一人のシルの気持ちがどういうものか知らない。
「私に出来ることは多くないわ。処分を撤回する。私が出せる譲歩はこれだけよ。……その後の処遇は
(怪我の治療とその後の配慮とかはミアの顔を立てる意味で交渉条件とは別物だけど)
交渉を破断にすればもう一人のシルは完全に殺される。
リューからしてみれば自分を騙していた相手でもある。今までの全てが嘘だったのか、と思い返してみれば――果たして本当に全部が全部嘘だったとは言い切れないのではないか。
そもそも彼女が常に本心を語っていた善良な市民だったことなど――
正体が【フレイヤ・ファミリア】の侍従頭『ヘルン』であったとしても一人の女性の命がかかっている。
――大切な友人であるベル・クラネルと共に【フレイヤ・ファミリア】から逃げ回っている最中だった。少なくとも彼の目の届くところで殺されるのだけは避けなければ。
彼ならばシルの正体を見抜いても見捨てたりしない気がした。そういう誰とでも心通わせる彼の事をリューとても好いていたし、尊敬もしている。
これは交渉などではない。女神フレイヤは手に入れる事に手段を選ばなかっただけだ。
そして、約束は必ず守る。強い決意というか神意のようなものを感じた。
絶対女王たる女神が一人の女としてリューに真っ向から交渉を持ちかけているのだから。
「これが交渉ならば、こちらの要求も聞いてくれるのだな?」
「それは駄目。既に私は譲歩を提示した。追加は許さない」
(……あ、そういえばそうだった。……それでは話し合いにならないではないか)
「……やはりこれは交渉ではなく、一方的な要求というのではないのか?」
「あら……? そうね。どうも調子が悪いみたい。では、言い直しましょうか?」
悪戯っ子のような無邪気で邪悪な笑みを浮かべるフレイヤにリューは呆れた。
言い直したところですでに聞いてしまった後だ。今更である。
申し出を断れば大切なものを
(……私の復讐は終わった。このまま腐るより大切な者のために力を使う方がいいのではないか? ……正直、ベルの成長が早くて戸惑ったけれど……)
僅かな葛藤の後、リューは決断を下す。どの道、悠長に時間を稼ぐことは出来ない。相手は都市最強派閥の【フレイヤ・ファミリア】なのだから一〇分も経たないうちに全てが終わってしまう。
リューとの交渉の為におそらく眷族達は追撃の手を止めている。決裂すれば当然の事ながら容赦のない事態が起きる。
友人を守る為にリューは女神の要求を呑む。元よりそれ以外に選択肢が無い。
逃げても女神を人質にとっても――最悪の結果にしかならない。それに【フレイヤ・ファミリア】に対抗できるのは現時点で【ロキ・ファミリア】くらいだ。
今のオラリオにおいて二大派閥の衝突は起きてはならない。それくらいリューにでも分かる。
それと懇意にしている【ヘスティア・ファミリア】も守れる。
今や彼らはオラリオにおいて無くてはならない存在だ。人々に愛される【ファミリア】を守る事もまた正義ではないか。とうに捨て去った筈の信念を思い出して苦笑を滲ませる。
「交渉成立と思っていいのかしら?」
「……ああ。そちらに約束を守る気がある限り……」
「もちろんよ。
挑戦的な物言いにリューは毅然と言い返した。愚問だ、と。
書面による契約ではないもののフレイヤは即座に――ヘグニしか居なくて不安を覚えたが――追撃の手を止めるように指示を出し、彼はすぐ駆け出した。
女二人だけになった後、シルになっていた時の事や酒場での日常についてとりとめのない会話を始めることにした。それとフレイヤが追っているシル・フローヴァという女の子について改めて話し始める。
最後に傷心の女神は傷だらけのエルフに問うた。
そして、時計の針が元に戻っていく。