チェンソーマンの二次創作です。

血を抜かれるパワーちゃんの話です。
(時系列的にはレゼ編と同時期)

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※本作は『チェンソーマン』の二次創作です。
 日常話で、戦闘シーンはありませんが、流血描写はあります。



『アリス・スウィート・アリス』

【エピローグ】

 

 最初こそはワクワクして楽しかった。

 Tシャツは洗い立てのきれいでシミなんかないやつを着てきたし、靴は走って逃げる時のことも考えて履きなれたやつにしたし、ザックには簡単な食い物とカネを入れた封筒を詰めたし、今度はもらった花じゃなくて、ちゃんと買った花をやるつもりで花屋で花束を用意した。

 二道のいつもの席に腰を押しつけて、あとは待つことにした。

 コーヒーは二人分頼んだ。

 一杯目のコーヒーは少しずつすすっていた。

 相変わらずのドブの味だけど、これで二道のマスターやこのコーヒーともお別れかと思うと美味くなるか、と思ったらやっぱりまずかった。

 いつもの時間になってもこなかったので、頼んでいた二杯目のコーヒーをすすった。ドブの味がさらに苦く感じられた。

 昼になっても来なかったので、カレーとチャーハンを頼んだ。

 少しずつ食おうと思ったけど、いつもの調子で全部すぐに食べてしまった。

 昼から午後になり、日も暮れて、その頃には腹がまた減ってきた。

 

「デンジくん、今日はもう帰ったら?」

 

 マスターが言うのを無視していたら、夜になった。

 

「デンジ君、もう店閉めるよ?」

 

 閉店時間になった。

 空きっ腹に花束を抱えて、昔みたいに心細い気持ちでいた。

 

 そのときだった。

 店のドアが開いて――――

 

 

【1】

 

 パワーは不機嫌だった。

 対面に座っている白衣は、パワーの左腕をとると、腋の下をペンで指しながら言った。

 

「ここを切開して、留置カテーテルを埋め込みます。今回は長期にわたるので、肘の内側に針を刺すより、カテーテルを埋め込んでそこから血を抜いていった方がいいでしょう。寝台から離れる時も、針を抜き差しせずに済みますし、関節の動きを妨げません」

 

 説明はパワーに対してではない。背後にいるマキマに向けたものだ。

 マキマはうなずくと、そっぽを向いたパワーに微笑んだ。

 

「よかったね、パワーちゃん。さっそくやってもらおう」

 

 鋭いメスが皮を裂き、肉を破ると、血管の中に器具が埋め込まれた。縫合しなくても、魔人の回復力によって切開された箇所はすぐに塞がり、器具のみが露出した。

 マキマと一緒に個室へと移動した。いつものとおり、ベッドに寝転がる。

 ベッドのフレームは鋼鉄製でひどく頑丈だ。ワイヤーで織り上げた拘束用の金属ベルトもあるが、今回はマキマは使わないといった。

 

「アキくんたちと暮らすようになってから、パワーちゃんは大人しくなったからね。いつもより時間がかかると思うから、休み休みやっていくよ。タンクがいっぱいになったら起きてご飯を食べたり、テレビを見てもいいからね」

 

 キャスターの車輪が転がる音――個室に巨大なポンプが運ばれてきた。

 その巨大な機械は、黒く重々しく武骨だった。一目で医療のための器具ではないと判る。魔人相手に使うものだから、見た目や静音性は一切考慮されていない。

 白衣とマキマが目顔でやりとりをすると、白衣がポンプとカテーテルを繋いだ。

 

「パワーちゃん、これから血を抜くからガマンしてね」

「…………」

「返事は?」

「…………ハイ」

 

 渋々返事をした。顔を逸らしながら言ったのがせめてもの抵抗だ。

 ポンプが低く唸り、ゆっくりと動き始めた。モーターが加速度を増して高速で回り始めると音はひどく甲高くなり、全身の神経という神経を満遍なく掻き鳴らす。ポンプも動き出す。規則正しくも騒々しい鼓動はひどく耳障りだった。

 騒音に顔をしかめて耐えていると、いつのまにかマキマも白衣も個室から出ていた。個室には時間潰しになるものはない。すぐに気を失ってしまうから必要ない、と思われている。

 パワーは黙って血の走るカテーテルを眺めていた。

 流れる血で赤一色に染まったカテーテルは、まるで真紅の蔓のように見えた――

 

 

【2】

 

「デンジィ~~、餃子じゃ、餃子があるぞ」

「おう」

「からあげじゃ! からあげもあるぞ!」

「おーう」

 

 デンジが押すカートに載せたカゴに、パワーはパック詰めの総菜を放り込んでいった。いかにも油っぽくてギトギトしていて濃い味の料理を狙って入れていく。

 今日は大仕事が終えた日だった。

 ヤクザたちが占拠するビルを、デンジとパワー、公安退魔課のデビルハンターたちで制圧し、パワーは大量のゾンビを倒し、デンジもサムライソードだかを倒した。

 帰宅してから料理するのも面倒ということになり、今日は買ったもので済ませることになった。普段のアキは出来あいのものを買うのが嫌いだ。今日みたいな機会を狙わないと、家では食べられない。商店街に来てから、一時アキと別れて、二人だけでスーパーで買い出しを進めていた。

 

「なあ、チョンマゲはどこまで行ったんじゃ?」

「寿司屋だっつってたな。どこにあるのは知らねえ」

「寿司か! なにを隠そうワシは寿司が好きなんじゃ」

「俺は食ったことねぇーな。ウマいのか?」

「ウマいぞ! ジューシーで肉汁が溢れるんじゃ!」

「…………なんのネタだ、それ」

「ネタとはなんじゃ?」

 

 デンジはあきれて首を振った。

 すでにカゴは総菜と菓子でいっぱいになっている。二人は飲料のコーナーに移動した。パワーは眼を輝かせてコーラのボトルを両脇に抱え込んだ。しかし、デンジが来ない。

 怪訝な顔で振り返ると……デンジが酒のコーナーを見上げていた。

 

「なにをしておるデンジ。ウヌは酒を飲まんじゃろ。コーラはこっちじゃぞ」

「俺は飲まねーけどよー、早川先輩は吞むだろ。姫野先輩ぶっ殺した連中をぶっ殺し返したから、お祝いにただメシ食うだけじゃなくて、酒も飲んだりするし、寿司も食うんだろ」

「酒と寿司で祝うのか……おお、それならデンジ」

「いきなりひっぱんじゃねーよ!」

 

 パワーはデンジはカートを引きずるデンジを引きずりながら、乳製品のあるコーナーへと連れてきた。

 

「牛乳か? 祝いのときは牛乳は飲まねーだろ」

「ちがうぞ! これを見よ」

「あー…………」

 

 パワーの目当ては乳製品のコーナーを超えた先にあった。デザートコーナーだ。

 

「なんだ、菓子か。ポテチならあんぞ。チョコパイも――」

「ちがうぞデンジ。ワシはこれが食いたいんじゃ」

 

 パワーの指した先には、プラ容器に収まったケーキがあった。

 バタークリームにイチゴの乗ったショートケーキ、飴色に焼けてクリーム色の断面を見せているチーズケーキ、チョコクリームで飾られ、飾りのチョコが乗ったチョコレートケーキがある。

 

「ウヌはケーキを食ったことがあるか」

「…………ねーな」

「ワシもじゃ! とにかく美味いらしいのぉ。人間は祝いのときにみんなでこれを食うんじゃろ」

「たしかにそうだな」

「今日はチョンマゲの祝いじゃ! 祝いならケーキを食おうぞ!」

「そーだな。そーっすか!」

「決まりじゃ! ガハハハハハハ!」

 

 二人は馬鹿笑いすると、カゴにケーキを放りこもうとした。

 グイとパワーの襟首が引かれる。

 

「やめろ」

 

 アキだった。大きな寿司桶を片手に提げて、疲れた顔だ。

 

「スーパーでケーキなんか買うな。味が悪いぞ」

「そうか?」と、デンジ。

 

 アキが黙ってショートケーキを指した。よくよく見ればイチゴの表面は濁り、腫瘍のような赤黒い色をしていた。

 

「ワシは食えればなんでもいいぞ」

「……寿司と酒はケーキに合わないんだ。いくぞ」

 

 三人は揃ってレジに向かった。カネを出す気のないパワーは早々とレジ前を抜ける。すると、アキが続いてきたので首を傾げた。

 

「チョンマゲ、カネはチョンマゲが払うんじゃないのか」

「ああ……今日はデンジだ」

「なんでじゃ?」

 

 食費はアキが出すのが通例だ。給料の一部はアキが徴収し、そこから生活費を捻出する――というのが、アキの家で暮らす上でのルールだった。特に余計なものを買わないように、食費は厳重に管理されていた。

 パワーが不思議に思っていると、更に不思議なことが起こった。

 アキが微笑んだ。

 

「……勝負に勝ったからな」

「勝負?」

「玉金のかわりだよ」

 

 パワーには意味が解らなかった。

 そのとき、会計を終えたデンジが、アキに向かって何かを放り、アキが受け取った。

 

「それも玉金のかわりなぁ~」

 

 アキが受け取ったのは、いつもアキが喫んでいる煙草だった。

 それから二人はカゴの品物をビニール袋に移し、二人で並んで話しながら、家へと向かった。帰る道中、アキが何か言うと、なにが面白いのかデンジが大きな声を立てて笑った。

 パワーは唇を尖らせて、アキと話すデンジの背中を睨んでいた。

 

 

【3】

 

 目覚めの瞬間は唐突だった。

 ついさっきまで溺れかけていたのに、急に息が出来たような感覚――息を吸えたことによる安心よりも、呼吸ができていることに戸惑っている。

 パワーは眼を瞬かせると、個室の天井を睨んだ。

 全身がだるい。指の一本一本に鉛が詰められたようだ。

 ポンプは停まっている。血が一定量貯まると、ポンプは自動的に停止するのだ。

 パワーはこの血抜きを何度も受けている。

 悪魔や魔人は血を飲むことで傷を癒し、力が増していく。血そのものが悪魔のエネルギーであり、今のパワーは大量のエネルギーを蓄えた状態にある。

 だが、急速に大量に血を失うことは致命的なダメージとなる。

 そこで考えられたのが、ポンプで一気に大量の血を抜く方法だ。

 人間なら致命的な量の血を抜くことで、蓄えた血を減らすと同時に死にかかった状態からの復活のために血を消費させる。

 マキマ曰く、これが最も効率のいいやり方なのだそうだ。

 しかし、けっしてパワーにとって楽なやり方ではない。

 大量の出血によって意識を失い、貯まっている血を消費して蘇生する。この間は意識が朦朧として、夢を見る。大概がひどい悪夢だったが……今回は違った。

 

(なんじゃ今日の夢は……このあいだのことを夢に見るとは……)

 

 あの晩は楽しかった。

 パワーはゾンビの群れを全滅させ、デンジがサムライソードを倒した日の晩、アキは静かだったが上機嫌だった。吹っ切れたように酒を飲み、デンジやパワーがからかっても、怒らなかった。

 そして寿司は美味かった。

 粒々を噛み潰すのが美味気持ちいいイクラ。甘いタマゴ。そして口の中で脂がとろけるトロ――生肉のようで最高だった。からあげも餃子も腹いっぱい食べた。ゾンビたちを殺しまくって血も吸いまくったので、これ以上ないぐらい満足な晩だった。

 そして夜が明けたら角が伸びておりデンジとアキに取り押さえられて抵抗したがマキマの元に連れてこられてこうやって公安の施設で血抜きを受けるはめになった。

 

(デンジも黙っておればよかろう。バディのワシのことをマキマに差し出しおって……だから人間というのは信用ならんのじゃ……)

 

 だしぬけに個室のドアが開いた。

 

(なんじゃ?)

 

 白衣だ。さっきカテーテルを埋め込んだやつとは違う。どうやらポンプが停まったのに気づいて、様子を見に来たようだ。ポンプから血の入ったタンクを外そうとしている。

 タンクがいっぱいになったということは——食事とテレビの時間だ。

 パワーは身を起こそうとした。

 しかし、身体が重くて動かない。意識が戻る程度には回復したが、貧血で動けない。

 

「(おい!)」

 

 パワーは白衣に呼びかけた。しかし掠れた息の音が漏れただけだった。 

 なにも気づかない白衣は、新しく空のタンクを入れた。そして、再びポンプに電源を入れる。低い音を立ててモーターが回り出し、カテーテルが血の色に染まる。

 

「(ウソじゃ、ワシはメシとテレビが——)」

 

 不確かだった意識が根元から崩れて、揺れて、不意に落ちる――また、夢に。

 

 

【4】

 

「デンジは裏切り者じゃあ! サメのヤツとよろしくヤるんじゃあ!」

「テメぇ、そういう言い方はなんかおかしな感じだろ!」

「おい、パワー」

 

 言い合うデンジとパワーの間にアキが割り込むように腕を伸ばす。

 パワ―は横目でアキの持っているモノを見た。————バッグだ。

 

「下着と簡単な着替え、タオルや歯磨きなんかを入れておいた。公安の施設に用意があるか判らないからな」

 

 パワーの異常をマキマに伝えてから、アキはいったん帰宅していた。血抜きを受けることになったパワーのために、必要なものを取りに戻っていたのだ。

 パワーはそっぽを向いた。

 アキも無理強いはしない。パワーの足元にバッグを放りだした。

 デンジはそわそわと落ち着かない。あたりを見渡して、時計を気にしている。パワーはその様子にさらにイラついた。

 

「なにをそわそわしておるんじゃデンジ……そんなに早く帰りたいのか……」

「帰りてえよ。さっさと帰って寝てーんだ」

「まだ日も暮れておらんぞ」

「うるせー! 早く寝たら早く明日んなってマキマさんとデートにいけんだよ!」

「デンジは裏切り者じゃあ! ワシを置いてマキマとよろしくヤるんじゃあ!」

「テメぇ、そういう言い方はなんかおかしな感じだろ!」

「なんだデンジ——」アキが言った。

 

「マキマさんとデートして、おかしな感じになりたくないのか?」

「なりてェ!」

「やっぱりデンジは裏切り者じゃあー!」

「いでええ! いでえ! 持ち上げんな!」

 

 アキは黙って、デンジが持ち上げられて揺さぶられるのを見ていた。

 胸ぐらを掴んで持ち上げられたデンジは、まるで子供におもちゃにされたぬいぐるみのように、パワーに上下左右に揺さぶられた。最初こそ抵抗していたが、次第に四肢が力を失い、本当のぬいぐるみのようにだらりと垂れた。

 アキはやっとパワーの肩を叩き、デンジを下ろさせた。そして、潰れたゴキブリのように床に伏せるデンジを、パワーと二人で冷たい眼で見下ろした。

 

「…………冗談でもマキマさんとよろしくやろうなんて考えるなよ……」

「そうじゃ、チョンマゲの言うとおりじゃ」

 

 倒れたデンジを見下ろしたパワーは鼻息を荒くしていた。

 デンジはまだ動けず、時おり四肢を痙攣させている。

 

「き、きもちワリぃ……立てねえ……」

「ふん、いい気味じゃ」

 

 アキは肩を貸し、助け起こしてやる。デンジは眼を白黒させていたが、なんとか立ち上がった。

 

「いいか、デンジ。デートのときはマキマさんにも俺にも恥をかかせるな」

「わかったよォ」

 

 アキはうなずいた。そして、デンジのシャツのポケットに何かを突っ込んだ。端が覗いているから、パワーからも何を入れたか見える。紙幣を数枚――万札だ。

 

「万が一でもそれだけあれば足りるだろ。マキマさんは上司だから、全部もつっていうかもしれないが……せめてコーヒー代ぐらいは出せ。おごられっぱなしになるなよ」

「おー……先輩らしいところあるじゃねーか」

「先輩なんだよ俺は」

 

 デンジは摘まみ上げた紙幣をひらつかせて、ニヤニヤと笑った。対するアキは不機嫌そうな顔—―しかし、心底不愉快な表情ではない。

 二人を見たパワーは、胸がざわめいた。

 

「それじゃパワー、俺たちは行くぞ」と、アキ。

「待てよ、先輩。俺、帰って寝る前に小便行きてえ」と、デンジ。

「……帰ってから行けよ」

 

 アキはまだ足元がおぼつかないデンジを支えている。二人は肩を組んだ格好で出ていった。パワーは黙ってそれを見送——らなかった。

 二人をそのまま追う。二人の姿は見えないが、場所は判っている。

 出てすぐの場所に黙って入ると、二人はパワーが入ってきたのにも気づかず、熱心に話していた。液体が陶物を叩く音が二重になって響いている。

 

「俺、女と遊ぶの初めてなんだけど……何したらいいんだ?」

「…………大事なのは何をするか、じゃなくて、何をしないか、だ。とにかく失礼な真似や馬鹿な真似はするなよ。変にはしゃぐな」

「……おー……大人しくしてりゃいいのか?」

「ずっと黙ってるのもダメだ。マキマさんの言ってることをちゃんと聞いて、ちゃんと考えて返事をしろ。パワー相手のときみたいに、話半分で聞き流すなよ」

「おー…………おう。あ、カッコは? なに着てきゃいいんだ」

「気取った格好すると笑われるぞ。マキマさん相手だったら普段着でいいから清潔なヤツにしろ。ちゃんとアイロンも当てとけよ」

「あ、アイロン? なんか、すげえ難し……ん?」

 

 二人が振り返る――タイル張りの床にしゃがみこんで、下から恨めしげな眼で見上げているパワーに気づいた。

 陶物を叩く水音が一瞬止まる――

 

「パワー、おまえ――」

「テメぇ、なんで男子便所に入ってきてんだよ!」

「お前らは裏切り者じゃあ……ワシをおいて楽しくやっておる」

「おいデンジ、さっさとパワーを連れ出せ」

「や、ヤダ……」

「なにがやだだ」

「だってよ、まだションベンの途中だし、出てるときに止めるとなんか管のところが痛くなるからイヤだ!」

「お前のバディだろ!」

「バディよりションベンだろ!」

「デンジもチョンマゲも裏切り者じゃああ~~~~~~~ッ」

 

 パワーが大声を張り上げる。小便が便器を叩く音を掻き消す大音声に、ビリビリと窓が震えた。そして、バタバタと男子便所の外から走り寄ってくる音がして――――

 

 

【5】

 

 ————意識はまた唐突によみがえった。

 

 瞼がひどく重い。それでも眼輪筋に力を込めて、薄目を開けた。

 狭い視界に映ったのは、頭上に輝く輪を浮かべた整った顔だった。

 天使——天使の悪魔だ。丸のままのリンゴにかじりつきながら、パワーの顔を覗きこんでいる。パワーが眼を覚ましたのには気づいていない。

 

「ねえ、起こさないの?」天使が言った。

「ああ」聞き覚えのある声が応えた。

 

「気を失っている間は、回復の途中だからな。そのうち起きる」

 

 アキだ。身体が動かせないので眼だけ動かして見ると、停止したポンプの端に尻を乗せて、ナイフでリンゴの皮を剥いている。

 

「血抜きの時に差し入れは余計じゃない?」と、天使。

「マキマさんは果物なら血が増えないからいいと言っていた」

 

 よく見ると、ポンプの上には果物が詰まった籠が載っていた。

 しかし、籠いっぱいのはずの果物は半ば空になっており、オレンジの皮やバナナの皮だけが残っている。

 

「だから少しは残しておけよ」

「ん」

 

 天使はアキの言葉を無視して、今度は籠からナシをとった。

 

「血を抜き始めてもう一週間ぐらいだけど、まだ終わらないの?」

「らしいな。フロアがいっぱいになる数のゾンビをほとんど一人で始末して食ったからな」

 

 パワーは耳を疑った。

 一週間? その間、パワーは一度も食事を摂っていない。テレビもだ! マキマは嘘をついたのか?

 

「ここに来るまでも大変だったんだって? 確か男子トイレが半壊したとか」

「…………あのあと、俺が何枚始末書を書いたと思う」

 

 アキは肩をすくめた。

 

「しかし、いいかげんコイツには戻ってきてほしい」

(なんじゃと?)

 

 アキらしからぬ言葉に、パワーは耳を疑った。天使も同じようだ。

 

「きみは寂しがるタイプに見えなかったな」

「寂しいのは俺じゃない……デンジだ。最近のデンジはやる気がない。マキマさんとデートの翌日はやたらはしゃいでたが、次の日から気が抜けて、悪魔狩りの件数も落ちてる。サメの魔人は俺とは話もしないから、事情もわからん」

 

 アキは皮を剥いたリンゴを切り分けて、皿に並べていく。

 

「デンジがやる気をなくしたのは、パワーがいないからだ。パワーが一緒のときがデンジは一番仕事をする」

(………………)

 

 アキはタンクから立ち上がった。リンゴを並べた皿をポンプの上に置くと、切り分けたリンゴを一つ口の中に放りこむ。すばやく噛み砕きながら、個室の戸を開いた。

 

「ポンプも停まったし、そろそろ眼を覚ます。起きたら食べるだろ」

 

 アキに促されて、天使は先に個室から出ていった。

 

「じゃあな、パワー。早く戻ってこい」

 

 アキは最後に一言言い添えると、個室から出ていった————と思った時だった。

 

「ごめん。忘れもの」

 

 個室の戸が開かれ、天使が再び入ってきた。

 そして、ポンプの上の切り身のリンゴいくつか掴むと、そのまま口に放りこんだ。

 

(て、天使ィィィ————ッ)

 

「おい! 早くしろ!」

「果物って繊維が多いから消化にエネルギー使うんだよ。今日はもう終わりにしよう……」

 

 頬張ったリンゴを吞みこみながら、天使の悪魔は出ていった。

 個室は静かになった。

 騒がしい二人ではないが、いなくなるとひどく寂しい——

 

 

(—―――ワケがあるかァァァ~~~~~ッ)

 

 

 パワーはカッと眼を見開いた。

 憤怒が四肢に力を与える。上体を跳ね起こすと、ポンプの上にあるリンゴを鷲掴みにする。しばらく動かしていないせいで、顎すらも強張ったようにまともに動かない。それでも残ったリンゴに一気に食べる。

 続けて籠を漁った。天使が片端から食べてしまったと思っていたが、オレンジとバナナの皮の陰に隠れて、小ぶりなオレンジが一個だけ残っていた。

 皮のまま齧りつくと、甘酸っぱい果汁で口の中にいっぱいになった。

 喉が痙攣したように動く。その動きで、初めて喉が渇いていることに気づいた。

 パワーは果物が好きではない。食感が野菜のようで気に入らないからだ。それでも一週間ぶりに味わう食事は凄まじい快感だった。舌先に感じる甘味と酸味は電流のように脳天まで走りぬけ、食道から胃に落ちていく感覚まで快感だった。

 口元の果汁を拭い、その拭った果汁も舌先で舐める。

 

「ふゥゥ——…………」

 

 パワーはぎらつく眼であたりを見渡した。

 

「チョンマゲも、天使も、マキマも……みんな裏切り者じゃあ……ワシにメシもテレビもよこさんとは……」

 

 寝台から降りると、個室の引き戸を音を立てないように開いた。

 そっと顔を出して、通りがかる職員がいないか確かめた。

 

「……チョンマゲが言っておったな。デンジが寂しがっておると……仕方ないから会いに行ってやるぞ。これはデンジのためじゃからな……」

 

 すばやく着替えを済ませると、個室から出るタイミングをうかがった――

 

 陽炎の揺れる街路を、パワーは足を引きずるようにして歩いていた。

 脱出は思いのほか簡単だった。

 廊下を突っ切ってトイレに入り、トイレの窓から木に飛び移ると、あっさり外に出れた。

 だが、外に出ると思わぬ敵が襲ってきた。

 

「暑いのう……」

 

 眩い夏の陽射しは、公安の制服の天敵だ。

 対悪魔仕様のジャケットとパンツは悪魔の爪や歯を通さない代わりに、通気性に難がある。 

 

(デンジのヤツは変身するからの……上着も着ておらんかったな……)

 

 パワーもいっそ真似をしようかと思ったが、今日に限っては公安らしい黒いジャケットのほうが、周囲の目がうるさくない。

 パワーは汗に濡れた顎の下をジャケットの袖で拭い、指先で眼元の汗を拭った。

 いま思えば個室が快適だったことに気づいた。冷房が効いていて、少なくとも汗まみれになることはなかった。

 財布を忘れたのも失敗だ。アキの用意した日用品を入れたバッグのなかにしまったままだった。果物を食べた直後は気にならなかったが、まだ喉が渇いている。自販機を壊すことも考えたが、騒ぎを起こすと、マキマにあとで怒られるかもしれない。

 汗が出ているから身体が軽くなってもおかしくないのに、むしろ重い。足を持ち上げるだけで大儀だ。

 パワーはデンジと回るいつもの巡回路に入ると、鼻を利かせた。

 雑多な臭いが混じっており、すぐには嗅ぎとれない。

 しかし、不意に鼻腔に覚えのある体臭が感じとれた。アキと同じシャンプーと石鹸——朝食のジャム(今日はイチゴか?)——悪魔と人間の混じった独特の匂い――デンジの匂いだ。疲れた顔が安堵に緩み、それからふてぶてしい笑みが浮かぶ。

 臭跡をたどって進んだ。だんだんとデンジの匂いが強くなってきた。

 微かだった匂いが、だんだんと新鮮なものになってくる。同時にそれ以外の悪魔の匂いも感じる……覚えのない匂いだ。

 

「むう……これはサメのやつの匂いか?」

 

 喉も渇く、腹も空くで、感覚がひどく鈍っている。判別がつかない。

 重い身体と動きの鈍い脚を引きずって、パワーは歩きつづけた。

 路地裏を抜けて、石造りの階段を昇り、通りがかりにあった自販機の返却口を漁り、地面と自販機の間に手を突っ込んで小銭を探してから諦めて思い切り自販機に蹴りを入れてから……路地裏を抜けた。

 路地裏の先には建物がいくつか並んでいた。その中でも背の低い一軒の建物――コーヒーの匂いが漂う店――からデンジの匂いがした。

 

「喫茶店か。フン、たまにはドブ汁でも飲むか」

 

 パワーは一歩踏み出す。デンジの寂しがっている顔を想像してニヤリと笑った。

 

「もちろん冷たいヤツをな!」

 

 陽炎の揺らめく道路を突っ切り、一気に店へと駆け寄った。

 即座に中に飛び込——まずに、身を伏せた。

 どうせなら驚かせてやろう、という算段だ。

 先にデンジの姿を見つけて、こっそり店内に入り込んでビックリさせてやろう……そう考えた。地面に伏せて、道路に面した大きな窓の下に隠れて、そっと顔を出した。

 

「デンジのヤツ、どこに――」

 

 すぐに見えた――特徴ある髪色。デンジだ。

 窓際のテーブルにつき、パワーに背を向けている。片肘をついて何もないテーブルに視線を落としている。どうやら注文した品を待っているようだ。

 

(フン、それはワシのじゃ……)

 

 パワーは注文した品が来るのを待ち構えた。

 カウンターから女性の店員がやってくる。

 両手に背の高い涼しげなガラスの器を持って、デンジへと近づいていく。

 

(な、なんじゃあ、アレは――)

 

 パワーの眼はガラスの器に釘付けだった。

 ガラスの器にはプリンとアイスが一緒に盛られて、そこに所せましとカットされた色とりどりのフルーツが添えられて、生クリームの化粧が施されている。シロップ漬けのチェリーと、新鮮なイチゴが、ルビーの輝きのようにパワーの眼を射抜いた。

 パワーは確信した――あれは、ケーキだ。

 アキがやめろと言ったのも解る。スーパーのは偽物のケーキだったに違いない。本物はあんなに豪華なモノなのだ。

 しかも、女の持っているケーキは一つではない。

 ガラスの器に盛られたケーキを両手に持って、デンジの元へと運んでいる。

 

(デンジめ、ひとりでケーキを二つを独り占めとはなんと欲張りな――)

 

 しかし、真の驚きはそのあとにやってきた。

 女性店員がするりとデンジの横に座った。

 デンジが顔を上げると、女性店員は鮮やかな笑みを浮かべた。

 デンジの前にケーキを置くと、自分の手前にも置く。そして、細身のスプーンをデンジに手渡すと、二人一緒に食べ始めた――――

 

 二道のマスターは眼を疑った。

 

「………………」

「へいへい、マスタ~~~~ッ。どうしたんですか。悪魔でも見たみたいな顔して」

「…………いや。見間違いかな。すごい美人が今ゆっくり店の前を横切って」

「美人?」

「あはは、デンジくん釣られてる~」

「美人ならだれでも見るだろ! どんな美人だったんだ、マスター」

 

 マスターは曖昧に笑ってごまかした。

 角が四本ある美人が通り過ぎた……なんて、本当に悪魔みたいだったからだ。

 

 

【6】

 

 パワーは呆然としていた。

 虚ろな表情、幽鬼のような足取り。燦々と照りつける陽が頭を茹だらせる。ただでさえ栄養が足りていないし、喉も渇いている。

 通りがかる人々は魔人の姿に気づき、血相を変えて逃げ出した。遠くから響くパトカーのサイレン――だが、パワーの耳には届いていない。

 

「デンジも裏切り者じゃ……みんな裏切り者じゃあ……」

 

 ブツブツと呟いていると、鼻先に衝撃が走った。

 

「ぬううッ! なんじゃ!」

 

 眼の前にあったのは、バスの停留所の標識だった。

 バスの発着の時間が金属板に記されて、その上にガラスの覆いが被されている。痛みと熱で眩んだ眼で、ガラスの覆いを睨むと――一瞬、デンジのニヤケ面が映り込んだ。

 反射的に拳を振るった。

 ガラスの砕け散る音が響いた。時刻表が記された金属板がべっこりとへこみ、そのまま倒れた。路面に砕けたガラスの破片がバラバラと飛び散っている――その破片ひとつひとつに、またデンジの顔が浮かんだ。

 

「デンジめ、デンジのヤツめ……」

 

 パワーは路面ごと踏み砕く勢いでガラスの破片を踏み砕き、踏みにじった。

 顎の汗を拭い、まだ収まらぬ怒りで足元を睨んでいると、あることに気づいた。

 標識はコンクリートの土台で支えられており、動かせるようになっていた。

 

「……………………」

 

 パワーは標識を掴み、持ち上げた。コンクリートの土台ごと持ち上がり、ハンマーのように軽々と振り回す。

 

「デンジィィィィ~~~~~~~ッ」

 

 標識をハンマーのように担ぐと、パワーは来た道を戻った。

 

「バディのワシを除け者にしおって! ぜったいに許さんッ」

 

 角が生えた少女が荒々しく突っ走る姿は、悪魔そのものだ。遮るものはない。見かけた者は怯えて、すぐに姿を隠す。パワーはさらに加速した。

 カフェが見えてきた。横断歩道を渡ればすぐそこだ。

 獰悪な笑みを浮かべて、横断歩道へと一歩踏み出した――――その瞬間。

 唸るエンジンの音。

 横合いから割り込むように、巨大なモノがパワーめがけて突っ込んできた。

 

「へ?」

 

 強烈な衝撃!

 パワーは軽々と空中に吹っ飛んだ。車道に落下したあともボーリングのピンのように跳ね転がる。ガードレールに衝突してやっと停止した。

 

「う……うぅ……」

 

 全身を激痛が襲っている。車に撥ねられたのだと、やっと気づいた。

 視界が眼に入り込んだ血で濁っている。グラグラと揺れる視界は、壊れかけのカメラの映像のようだ。焦点が定まらない眼が、車から降りてきた黒いスーツの姿を捉えた。

 見覚えのある――――女だ。

 

「パワーちゃん、たまたま見かけてよかったよ。間に合ったね」

 

 マキマ——パワーが理解した瞬間、恐怖が意識が吹っ飛ばした。

 

 

 

「――――ハッ」

 

 またも意識の目覚めは唐突だった。

 かすかな律動を感じる。血抜き用のポンプの不快なリズムではなく、快い振動だった。

 眼を瞬かせると、視界がハッキリとしてきた。窓が見える――窓の外の光景は流れている。

 車の中——そう気づいた瞬間に、パワーは上体を跳ね上げた。

 あたりを見渡す。後部座席に寝かされていたらしい。

 

「目が覚めた?」

 

 マキマだ。

 バックミラー越しにパワーを見ている。視線は外しているが、車の運転はおろそかにしていない。滑らかなハンドルさばきで車をカーブさせ、曲がり角を抜ける。

 

「先に謝っておくね」

 

 マキマが――謝る? パワーは耳を疑った。

 

「どうも私の話がちゃんと伝わってなかったみたいで、今回の血抜きは休み休みやるっていうのが医療班の人はわかってなかったんだ」

「………………」

「だから、今度はちゃんとテレビとご飯もあるよ。休みながらゆっくり血を抜こうね」

「………………」

「パワーちゃん?」

「………………………………」

「返事をしなさい」

 

 パワーはピシリと背筋を伸ばした。正座までしてしまう。

 

「は、ハイ」

 

 バックミラー越しにマキマはうなずいた。

 ひとけのない、空いている道をマキマは選んで車を走らせた。

 迂回の多いルートだったが、ようやく公安の施設が見えてきた。

 職員用の駐車場に入ると、マキマが車を駐めた。

 

「パワーちゃん、先に降りて」

 

 シートベルトを外したマキマが、車のキーを抜く。

 パワーは動かなかった。鏡越しに見ていたマキマが、怪訝な顔をした。

 

「…………」

「パワーちゃん?」

「ち、血抜きは受ける。じゃが、ワシは血抜きが終わったら……」

「うん」

「デンジとのバディをやめる」

「……どうしたの。パワーちゃんはデンジくんが好きだよね」

「き、キライじゃあ~~~~ッ! チョンマゲもデンジもマキマもワシを裏切りおった!」

「私も?」

「は? そんなことは言っておらん。チョンマゲとデンジがワシを裏切ったんじゃ」

「ふーん。どんなふうに?」

 

 パワーはマキマに、事細かにアキとデンジの悪行を伝えた。

 

「へえ……それはアキくんが悪いね」

「そうじゃ……ワシは悪くないのに……」

 

 マキマは深くうなずいた。

 

「サムライソードを捕まえた晩に、パワーちゃんにお祝いのご飯も食べさせないで押し入れの座敷牢に入れて、デンジくんと二人でイチャイチャしてて、パワーちゃんをここに連れてきたときもトイレでデンジくんとよろしくやってたんだね」

「うむ。そのうえデンジは……」

「女の子をはべらしてガラスの皿にフルーツを山盛りにしたケーキを食べて、パワーちゃんが呼んでも無視したんだ」

「そうじゃ。デンジは最悪の悪魔みたいなヤツじゃ」

 

 マキマはパワーの言葉に眼を丸くすると、ハンドルに顔を伏せた。

 運転席のヘッドレスト越しに、肩を震わせているのが見える。

 

「パワーちゃん、おもしろいことを言うね」

「そうか?」

「いまのは最高だったよ」

 

 マキマは身体をねじって、パワーに向き合った

 

「もういっかい教えてほしいんだけど、デンジくんはどんなものを女の子と食べてたの?」

「ケーキじゃ」

「どんなケーキだった?」

「ガラスの皿に載っておった。クリームやアイスやプリンまで載ってフルーツもたくさん盛られておってな……ワシはあんな豪華なケーキをみたことがない。それをデンジは独り占めにしおったのじゃ……ワシが何も食べずに血抜きを受けていたのに、祝いの時に食うケーキを! バディのワシを忘れて――」

 

 パワーはうつむいた。

 

「ワシはデンジがキライじゃ……」

「パワーちゃん、それケーキじゃないよ」

「は? ケーキじゃが?」

「ちがうよ。サンデーか……パフェじゃないかな」

 

 パワーは首を傾げた。

 

「ケーキだから、クリームやフルーツでいっぱいじゃったぞ」

「だけど、アイスやプリンも盛られてたんだよね。ケーキには普通、アイスやプリンは載せないよ。ガラスの器だっていうし、たぶんパフェだよ」

「…………そう、なのか?」

 

 マキマがそっとパワーの肩に手を置く。

 

「デンジくんはお祝いしてたり、約束破ったわけじゃなくて、ただパフェを食べてただけだよ」

「…………本当か?」

「そうだよ。女の子と一緒だったのは、きっとパワーちゃんがいなくて寂しいから代用品にしてたんじゃないかな」

「…………デンジは寂しいのか?」

「パワーちゃんみたいに元気な子がいないとみんな寂しいよ。アキくんもきっと寂しいと思ってる」

「……………………」

「パワーちゃん、早く帰ってあげないと、みんな寂しいし、困るんじゃないかな」

「…………そうなのか?」

 

 マキマは薄く笑うと、車から降りた。後部座席のドアを開くと、パワーへと手を差し伸べた。

 

「じゃあ、早く終わらせようか」

「仕方ないのう……デンジとチョンマゲのためじゃからな!」

 

 パワーは笑みを浮かべた。ふてぶてしい、性格の悪い猫のような笑み。

 手を引かれて、施設に入る。入口でたむろっていた白服たちが、二人に気づくと慌しく駆け寄ってくる。

 

「終わったら、ご飯とテレビを用意しておくね」

 

 白衣たちにパワーを受け渡しながら、マキマが言った。

 

「何でも好きなものを食べていいよ。そうだね……デンジくんみたいに、パフェが食べたい? それともケーキ?」

「……………………」

 

 パワーはしばらく考えていたが……思いきって言った。

 

 

「ワシは――――」

 

 

【エピローグ】

 

 

 初めて買った花束はいい香りがして、歯触りがよく、そして苦かった。

 花びらを噛み千切るたびに、痺れるような苦みでむせそうになる。だが、構わずデンジは花を食らっていった。

 

「盗人! 盗人! デンジがワシの花を食いおった~!」

「うるせェーなァー! テメぇの花じゃねえよ」

「誰の花なんじゃ!」

「う……」

 

 パワーの問いはボディブローのように突き刺さり、デンジの身体を二つに折った。テーブルの上に突っ伏してしまう。

 

「デンジくんは彼女に逃げられたんだ」

「…………余計なこと言うなよ、マスター」

 

 結局、レゼは来ず、何故かパワーが来た。

 

「ウワハハハハハ! ワシを忘れて見舞いにも来なかった罰じゃ!」

「…………そーかもなー……」

 

 花束に顔を埋めたまま、花びらを咀嚼する。

 

「ウヌはワシがおらんとダメなんじゃろ!」

「…………かもなー……」

「じゃからワシが帰ってきてやったぞ! 嬉しいじゃろ!」

「…………うれしー…………くは、ねえ……」

 

 もはや動く気力も湧かない。ぎゃあぎゃあと騒ぐパワーはデンジの肩を掴んで揺さぶってくる。仕方なく、デンジは顔を上げた。

 

「ワシは昼メシも食わんでここに来たんじゃ! メシが食えなかったのはデンジのせいじゃ!」

「わかったよ……ハラへってんだな。マスター、なんか簡単なヤツ——」

「デンジくん、もう店を閉め――」

「ワシは複雑なヤツがいいぞ! カンタンなのはイヤじゃ!」

 

 バンバンとパワーがテーブルを叩く。

 魔人の怪力で天板が軋み、今にもひびが入りそうだ。店長は慌ててカウンターに身をひっこめた。

 デンジはメニューを眺めていたが、なにかに気づいた顔でパワーに差し出す。

 

「おい、パワ子。ケーキ食いたがってたよな」

 

 デンジがメニューを指先で叩いて示す。

 

「ケーキあるぞ……おごってやる。今日はカネならあるからよォ」

 

 がっついたパワーはすぐに飛びついてくる。デンジはそう予想していた。 しかし、パワーはデンジの顔をまじまじと見ていた。珍しい……本当に珍しい、真面目な表情だった。そして、不敵に笑った。

 

「ケーキはいらん」

「はァ~? 前と言ってることが違うじゃねーか」

「今日はケーキの日ではない。ワシが今欲しいのは……パフェじゃ!」

 

 

 

 パフェは銀の盆で運ばれてきた。

 冷ややかなガラスの器にはカットされた色とりどりのフルーツ、プリンにアイスクリームが盛られて、生クリームで飾られている。

 パワーは眼を輝かせて、細身の銀色のスプーンを手に取った。

 まずはプリンと決めたようだ。固めで弾力のあるクリーム色の塊にそっとスプーンを差し入れると,カラメルと生クリームを合わせて、そっと口に運ぶ。

 

「おい、ウマいぞ、デンジ!」

「おー……」

「甘いだけではないな! ニガいのに甘い!」

「…………そーだな……」

 

 カラメルのほろ苦く甘い味わいを、デンジは知っている。

 

 

「プリン、おいしいでしょ。それ私が作ってるんだから」

 

「あー、信じてないな。プリンの仕込みはマスターに教えてもらってるからできるんだからね」

 

「苦いヤツ? ……ああ、カラメルのこと? そんな難しくなくて――」

 

 

 

 

「それ、カラメルってんだってさ」

 

 デンジが言った。

 

「砂糖を水に溶かして、火にかけて煮詰めるとできるんだぜ」

「は? 知っているが?」

「…………そーかよ……」

 

 デンジは舌打ちした。

 

「マスター、コーヒーくれよ」

「なんじゃ、ウヌはドブ汁を飲むのか?」

「飲めるようになったんだよ」

「裏切り者じゃあ……」

「なんでだよ」

 

 あきらめ顔のマスターが、コーヒーを運んでくる。

 香ばしい香りが鼻先をくすぐる。その香りがレゼの顔を思い出させた。

 一口すすると、夏の陽の下の眩い笑顔が浮かんでくる。

 浮かんだ顔を掻き消すように飲み下したが、もう一口すすると、また別のレゼの顔が浮かび――飲むたびに、くるくると変わるレゼの表情が思い出された。

 

 コーヒーに、カラメルのような甘やかさはない。

 ただひたすらに苦く、燃える火のように熱い――

 

「おい、デンジ!」

「ああ…………あ、がッ⁈」

 

 デンジの口に、冷たい塊が押しこまれた。

 アイスだ。冷たく甘い味が、コーヒーに焼け焦げた舌に鮮烈だった。口に入れた食べ物なので反射的に飲み下してしまう。冷たい塊がのどに詰まりかかって息が出来ず、追撃のように頭痛が襲ってきた。

 

「パ、パワ子! テメぇ、なにすんだ!」

「ウヌがドブ汁なんか飲んで、辛気臭い顔をしておるからじゃ。ほら、デンジもパフェを食え。ワシはこれが食いたくてガマンしたんじゃからな」

「俺はいいよ。もうパフェは食わねー」

「ふん、意気地のないやつじゃ」

 

 ガツガツとパワーはパフェをかっ込んでいく。見栄えよく作られたパフェがどんぶり飯のようだ。

 

「きたねえ食い方すんなよ」

「このパフェはワシのじゃ! ワシが好きなように食う!」

「……勝手にしろ」

 

 デンジは背もたれに深く身体を預け、店の天井を見上げた。

 くるくると回るシーリングファンは眼で追っていると、自分の頭の中をかき回してくれる。アイスのせいで覚えた頭痛も、次第に収まってくる。

 

「おい、デンジ」

「なんだ」

「次こそは祝いの日にケーキを食うぞ」

「そうだな、そーっすか……」

「ウヌの祝いの日はいつだ」

「…………誕生日か? だいぶ先だぞ」

 

 パワーはにんまりと、満面の笑みを浮かべた。

 

「そのときはワシがケーキをおごってやるぞ! カネはお前が出せ!」

「…………それはオゴリって言わねえよ」

 

 パワーはデンジを無視して、またパフェに取っ組んだ。

 デンジは何も言わず、コーヒーに焦げていた舌を動かした。

 パワーがアイスを押し込んだ口の中にはもう、苦みも熱さは消え去っていた。舌先は冷感に癒されて、バニラの香りだけが残っていた。

 だしぬけにパワーが振り返り、にんまりと笑う。

 溶けたアイスとクリームでベタベタにしたパワーの顔は、はしゃぐ子供そのままだった。

 

 

 デンジは一瞬——ほんの一瞬、花の味も、カラメルの味も、コーヒーの味も、胸の痛みも忘れて……すこし、笑った。 

 



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