気を付けて頂きたいのは、原作のキャラクターが三人、命を落とした事になっています。一人は明確に「死」の引き金となる描写があり……と言えば、まぁ誰か分かって頂けるかと。残り二人は台詞の端に上るだけですが、ある程度知識のある方なら(こんな小説読もうって方なら)すぐ分かるはずです。またオリジナルのウマ娘も一人死亡していますので、そういう展開が苦手だという方はブラウザバックをお願い致します。
普段通り、私は宿舎を出た。海外で戦うウマ娘には、専用の宿舎が用意されている。国際交流、それもG1レースとなれば、自然厳格にもなった。国の威信がかかっている、と入れ込んでいる奴もいる。私には理解できないが。
「どうした、リョテイ。元気ねぇじゃん」
不意に、話しかけられた。横を見ると、少し間の抜けた顔がこちらを覗いている。
「……なんだ、ヤマトか」
「なんだは無いだろ、なんだは」
そう言って、そいつは楽しそうに笑った。何が楽しいのか、私には分からない。
「もっとリラックスしなって。お前がそんなんだと、後輩達もかたーくなっちまうぜ?」
「知らん……全く、馴れ馴れしい奴だ」
今日、ここ香港で行われる国際G1レース。その四つのG1全てに、日本勢のウマ娘が出走登録をしていた。メインの香港カップはアグネスデジタル、香港マイルをエイシンプレストン、香港スプリントをダイタクヤマト、メジロダーリング。そして、ヴァーズに登録されているのが、私だ。
「なんだ、緊張してるのか? お前らしくもねぇじゃん」
「お前は、いつも通りだな」
そう言われて、ヤマトはガハハと笑う。以前テイオー先輩が言っていた事を思い出した。ヤマトは、私の良く知るアイツにそっくりだと。バカみたいな走りをして、持たずにズブズブ沈む。しかし周りがそう考えて油断すると、最後まで走りぬいてしまう。勝てると思われない中で勝つ。そんなアイツにそっくりだと。実際、ヤマトもそういう勝ち方をしたことがあった。
「まぁ、お前聞いたところによると、一番人気だそうじゃないか」
「……ああ、まぁな」
「そらそうだよなぁ。何と言っても、お前はあの世界最強、ファンタスティックライトにも勝ったんだ。当然だ」
「……過去の話だ。それに、アイツに勝ったのは私だけじゃない。ジャパンカップじゃオペラオーが勝ってるし、凱旋門じゃあのブロワイエが勝ってる。エルコンドルパサーも先着してるんだし。あの年もあともう一人、確か……ニュートンとか、何とかが勝ったんだろ?」
「でもよ。それでもなお、だぜ。世界最強クラスのウマ娘なのは違いねえんだからさ」
そう言われれば、その通りではある。しかし正直、あの時の事はよく覚えていないのだ。夢中だった。それだけ、必死だった。それだけだ。
「まぁいいや。とにかく! お前、頑張れよ。私達の先鋒なんだからな」
「……ああ。分かってる」
わかっている。普段通り、普段通りと思ってきた。それでも、心の奥底にある思いは消えるどころか激しく燃え上がる。今日だけは、勝ちたかった。
思えば、私は今まで、どれだけ勝ちたいと思ってきただろうか。思ってしまうのだ。私には、才能なんてない。あんな連中の、あんな走りを見せられて、それが嫌でも身に沁みた。どれだけ必死になっても、アイツらに敵う訳なんか無い。そう思ってしまった。
私が出る事さえ敵わなかった、ウマ娘憧れの舞台、ダービー。前走皐月に次いで勝ち、二冠を達成したアイツ。トレーナー連中やメディアの間では「運が良かった」と囁かれて、夜寮のトイレで泣いているところを見てしまった。アイツは二冠を取るだけ取って、ケガでターフを去ってしまった。
そして、ようやく私が掴んだ舞台、菊花賞。そこで、私が八着に終わる中猛烈な勢いで勝ちを捥ぎ取った、占い好きのアイツ。ケガに見舞われて結局G1を勝ったのはその時だけだったが、あの時のアイツは、多分誰が相手でも負けなかったんじゃないかと思う。
国外に出て行って、成果を出した奴もいる。日本で選手登録されているウマ娘として初めて海外G1を制したアイツ。その直後に海外G1を制して、国内のマイル戦線では無敵だったアイツ。そんな奴に食らいついて、桜花賞制覇からつい最近まで、長い間ファンを沸かせ続けたアイツ。そいつをオークス、秋華賞で負かして、通算G1五勝を積み重ねたアイツ。乱暴だったが根は優しかったアイツは、ジュニアC組時代にシニアの混合レースの有馬記念で勝ってみせた。そんなアイツにいつもくっついていたひ弱なアイツも、G2を勝っていた。期待が高まる中で、病気で倒れてしまったけれど。会った事は無いが、地方にも同級生で凄い奴がいたそうだ。そいつは史上初めて、地方のトレセン学園から中央シリーズに殴り込み、勝ったと話題になっていた。
皆、俺の前に立ちはだかった、同級生達だった。こんな連中に勝てる訳がねえ、と持った。そして、特にそれを思い知らされた奴が、二人。
一人は、最初私達の中で誰よりも才能を評価されていた。しかし中々結果が出ず、それでも頑張り続けて遂に春の天皇賞で念願のG1を掴んだ。その時、そのすぐ後ろにいたのが、私だった。私自身、これで遂に勝てる、とちらりと思ったのだ。しかし、勝てなかった。
そして、もう一人。最初は、確かに素質はあるが集中力が無いとか、逆に変に集中し過ぎて入れ込んでしまうとか、いろいろ言われていた。結果も出ず、例えばダービーでは結構期待されていたが惨敗、その後はバカみたいな大逃げの走りを繰り返しては、同期や先輩に捕まり沈んでいた。そんなアイツが、翌年不意に変わった。誰も追いつけない。女帝とまで言われていた先輩も、それまで負け知らずだった後輩も、一人を除いてアイツの影さえ踏めなかった。そう、その影を唯一踏んだのが、私だった。
宝塚記念。ファン投票によって選ばれたウマ娘のみが参加できる、まさに「夢のグランプリ」の第一戦。私はそこに、自分でも驚いたが選ばれることができた。あの二着に敗れた春の天皇賞が評価されたのだろうと思った。その中でも特に注目されていたのが、その不意に変わったアイツだった。前走で圧倒的な逃げ切りを見せて優勝。このレースは、アイツが逃げ切るか、それとも昨年の天皇賞・秋でアイツを躱した最強の女帝がここでも抜き去るのか。それが最大の注目点だった。多分私の事など、誰も見ていなかっただろう。それが、悔しかった。初めて悔しいと思ったかもしれない。他の同級生は私よりずっと早くに注目されていたし、評価も高かった。でも、アイツは素質はそれなりに評価されていたが私と同じく勝ちきれない奴だった筈だ。そのアイツが、いつの間にかスターの仲間入りを果たしている。身勝手な話だが、悔しかった。思わずレース前に、面と向かって言ってしまった程だ。
「お前、随分人気じゃないか」
「そうね。良いレースにしましょう、リョテイ」
「……おい、言っておくぞ。サニーやフクキタルはともかく。おめぇにだけはぜってぇ負けねぇ。お前より、先にG1は取ってやる」
そう凄んで見せても、アイツはにこやかに笑うだけだった。
「あなたも、本気で走ればG1でも取れると思うわよ」
「……どういう意味だよ」
「手を抜かないで、って事。じゃあ」
そう言って、アイツはさっさと行ってしまった。腸が煮えくり返る、というのはこういう事かと思った。絶対に追い抜いてやる、と思って臨んだ、2200メートルのレース。最後の直線で、大逃げに逃げるアイツに迫る。単独二番手、勝てると思った。ここまでくれば、差せる。そう思った。あれだけの大逃げをすれば、バテて足が鈍るに決まっているのだ。しかし、アイツは落ちてこなかった。信じられなかった。アイツはバテる事無く、そのままゴールまで行ってしまった。
レース後、私は周りからよくやったと褒められた。確かに、アイツ以外のウマ娘には先着したのだ。G1を制したウマ娘達を抑えて、格下レース三勝だけの私が二着。確かによくやった、というレースではあるのだろう。それでも、私には悔しさしか無かった。アイツに、負けた。内心で、自分と似たようなものと思っていた、アイツに。
「お疲れ様。危なかったわ」
汗を拭きながら、アイツはそう言ってきた。
「……嫌味の、つもりか」
絞り出すように、そう言った。それ以上話せば、私はアイツを殴っていたかもしれない。別にアイツが、反則をしたわけじゃない。逆ギレも良い所だが、その時の私は本当にそうしかねなかった。だから、それだけ言ってその場を去った。
最初は、自分の才能に自信があった。私は凄い。本気になれば誰にも負けない。そんな自意識過剰な自信を持って、だから練習なんて真面目にやってこなかった。それで、勝てる訳もない。そうして負けが込むと、今度は自分の才能に見切りをつけてしまった。私はどうせ、勝てやしないと。あんな凄い連中を相手に、勝てる訳がないと。同期も凄い連中だらけだが、上にも下にも、大勢の「怪物」がいた。そうして、ついに勝手に「似たようなもん」と思っていたアイツにも、負けた。もう私は勝てない。私には才能が無い。そういう思いが、どんどん強くなっていった。
そんな私が変わった切欠が、アイツの事故だった。
その時、私はまだ本気では走っていなかった。遥か先頭をいくアイツを追い越すには、ギリギリまで足をためて、最後の直線に賭けるしかない。そうトレーナーに言われて、それに従っていた。しかし同時に、アイツの速過ぎる走りを私は知っている。この秋の天皇賞は二千メートル。この前の、アイツの影を踏んだ宝塚記念は二千二百メートル。二百メートルも短いのに、アイツがバテるとは思えなかった。
「クッソ……!」
やはり、勝てない。アイツには、私は一生勝てない。そう思った、その時だった。
「……え?」
アイツが、止まった。私だけじゃない。他の連中も全員、茫然とした表情だったと思う。バテたとか、そういうのではない。本当に、ガクガクとアイツの体が揺れて、そして一気に失速、そのまま立ち止まってしまった。その横を、私は走り抜ける。その時見えたアイツの顔は、真っ青だった。
「おい! スズ……」
思わず呼びかけそうになる。しかし、今はそれどころではない。レースはまだ続いている。走り抜かねばならない。何が、あっても。
先頭は、私より大分年上のウマ娘に変わっていた。私は必死に走り、何とか彼女を捉えそうなところまでは追い詰めた。しかしそこで、私の足は止まってしまった。あの衝撃のせいだったのかもしれないと思うが、理由は今でも分からない。私は二着。一着は、私達の三歳年上のベテラン選手、オフサイドトラップだった。本来なら、一着から三着に入ったウマ娘は、ウイニングライブというのを行う。その為の準備が必要なのだが、私はそれどころではなかった。救護室に飛んでいき、喚くように訊いた。
「スズカ、おいスズカ! どこだよ、おい!」
「し、静かに! 落ち着いて、彼女はここにはいない」
白衣の男にそう言われて、私はなおも食って掛かった。
「ここにはいないって、どこに!」
「……彼女は、今大学病院に向かっている。足が完全に砕けて、ここじゃどうしようも」
「足……が……って……」
聞いた事がある。ウマ娘は人間と違い、猛烈な速度で走る事ができる。それは強靭な肉体のおかげだが、それでも限度はある。無理をし過ぎれば、負荷に負けて足が砕ける。そうなれば、選手としてはおしまいだ。
「そ……んな……」
「というより……それで、済めばいいが……」
「ど、どういう意味だよ……!」
「……アタシ達は、人間を遥かに超えた速度で走る。それが急に運動を止めたら、心臓にかかる負担も人間の非じゃない。……最悪、心臓や血管がイカれる」
そう、不意に後ろから言われた。振り返ると、栗毛のウマ娘が立っていた。
「オフサイド……トラップ……先輩」
「ウイニングライブは中止、だってさ。それをアンタに伝えに来た。……ま、無理もないね。ああなっちゃ……三年前の宝塚も、そうだったね。アタシはあれは、テレビで見てただけだったけど」
「それ、って、つまり……」
「……ああ、そうさ。アンタだって分かってる筈だよ。これは、そういう事さ」
そう言って、彼女は踵を返す。
「じゃ、そういう事だ。ライブは中止でとっとと帰れ、が上のご命令だよ。表彰式はあるっぽいけどね。まあ二着のアンタには、そんなにだろ。気ぃ付けて帰りな」
そう言った彼女は、しかしすぐに立ち止まる。マスコミが、詰めかけていた。口々に、今日のレースの感想は、サイレンススズカの競争中止の理由はわかるか、などと言っている。
「今、ここでは止めとくれ。表彰の時にそういう席もあるだろ」
そう言って、彼女はマスコミをいなしていく。私も、彼女についていく事にした。後から聞いた話だが、私の顔色は酷いものだったらしい。確かに、表彰式では一応二着のトロフィーを貰ったはずだが、記憶にないのだ。茫然としていたのだろう。覚えているのは、オフサイドトラップがメディアに向かって言った、言葉だ。
「ええ。やっと、ですから。ケガもあって……アイツが、いなくなって。……やっと勝てて。笑いが止まらないですよ」
そう聞いたマスコミの中には、明らかに顔色の変わった者もいた。確かに、ダントツの先頭を走っていたウマ娘が競争中止となり、その容体ははっきりしないが誰もが「最悪の想定」をしている中で言う発言としては、不適切だったかもしれない。その時の私も、思わず立ち上がりそうになった。しかし、彼女はあくまで淡々と言った。
「スズカには、気の毒だと思いますけど。でも、アタシも負けるつもりで走っていませんから。それだけです」
そう言って、彼女は立ち上がった。後日、彼女のこの発言は大きくバッシングの対象になる。そして彼女自身、その後に大きな結果は残せず引退、今は後進を育てているらしいが、評判はあまり聞かない。おそらくファンも、もう彼女の事を忘れている人が大半だろう。あのレースは、サイレンススズカが天国に旅立ってしまった悲劇のレース、「沈黙の日曜日」。でも、今の私には分かる。彼女の、あの時の気持ちが。誰一人、彼女の勝利を祝おうという空気を出していなかった。勝った彼女ではなく、スズカが足を止めた、あの大ケヤキの向こう側を見ていた。それが、たまらなく悔しかったのだろう。彼女はレース場を出た私の前で、こう言っていた。
「笑いなさい。アンタは二着に入った。立派な物よ」
「でも……私は、スズカが」
「……そうね。確かに、そうだわ。でもね」
そう言って、彼女は私をグッと抱きしめてきた。私は驚いたが、抵抗する気にはならなかった。
「それでも、勝ったのはアタシで、そして二着は貴方。スズカじゃないわ。……笑いなさい。……せめて、貴方だけは、そうあって」
そう言った、彼女の声は少し震えていた。彼女は孤独な勝者として、受けるべき称賛も受けずに消えていく。それが分かっていたから、せめて私には覚えていて欲しかったのだろう。秋天覇者、オフサイドトラップの名を。
レースが始まるまで、まだ少しある。選手達はリラックスして、少しずつ気合を高めていくところだ。アグネスデジタルなどは、世界中から強豪ウマ娘達が揃っているという事で大はしゃぎしている。私は、全員と距離を取って、一人でジッと空を見ていた。その時、不意に電話が鳴った。トレーナーかと思い画面を見ると、全く予想していない名前がそこにあった。
「……メジロ、ブライト……?」
慌てて電話に出る。すると向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。
「やっほー、リョテイ。もうすぐレースでしょ? 激励の電話をしようと思って」
「お、お前」
「皆、あなたの事応援してるのよ? 久しぶりに、同期で集まってね。で、私が代表」
「同期、って……」
「あ、テレビ電話に切り替えよっか」
そう言って、パッと画面が切り替わる。すると、そこには懐かしい顔ぶれが揃っていた。
「元気ー? 期待してるからねー!」
「サニー……久しぶり、だな」
「リョテイさん! 頑張って下さいねー! シラオキ様のお告げでは、青い服のウマ娘に注意との事です!」
「フクキタル……お前、相変わらず占い占いなんだな」
「ヘーイ、頑張ってくだサーイ! パールはアメリカなので来れませんでしたケド、きっと応援してマース!」
「タイキ……そうか、パールの奴はアメリカ、だったな」
「頑張って……って、言っても、あんまり知らないよね、私の事……」
「マーチか……そうでもないぞ。テレビで、良く見てたよ」
「アタシ達の代表なんだから。しっかり頑張って」
「ドーベル……お前、背負わせてくれるな……」
「おい、負けるんじゃねえぞ! 無様な負け晒したらぶん殴ってやる!」
「ジャスティス……お前も相変わらずだな……」
そう言って、不意に彼女の胸にある写真に目を落とす。
「そうか、ダンディーもいるんだな」
「……ああ。だから、負けるんじゃねえぞ」
「それに、ほら」
そう言って、ブライトがもう一つの写真を胸に掲げる。そこには、茶髪の大人しそうな少女の姿。
「スズカ……」
「勝てるか、勝てないかは、時の運もあるわ。でも、悔いのないようにね」
「……ああ。分かってる、ブライト」
あの日。ブライトも、あのレースを走っていた。彼女は五着。思えば、彼女は常に私達を背負って走っていた。最初は世代最強候補として。そして、後輩を迎え撃つ立場になった時には、総大将として。サニーブライアンの引退、シルクジャスティスやマチカネフクキタルの不振、そしてサイレンススズカの事故。私の様な同世代格下組も結果は出ず、彼女は押し出されるように最も激戦区となる中・長距離路線の世代エースとなり、そして後輩に敗れた。私達が、彼女に背負わせてしまったのだ。
「なぁ、ブライト」
「ん?」
「……私、絶対に、勝つから」
「……分かった。頑張ってね!」
そう言って、ブライトが電話を切った。目を閉じて、ふうと息を吐く。勝つ。絶対に、勝つ。
レースの時間が、目前に迫っていた。通路を通り、いよいよコースに出る。皆緊張の面持ちで、ターフへと向かって行った。その中で、私は不思議と落ち着いていた。確かに相手は、名うての強豪ばかり。それは、重々分かっている。それでも、私に気後れは無かった。ターフに出ると、割れんばかりの歓声があたりに響いた。世界中のファンが注目する、大レースだけある。その観客席を見ていると、不意に信じられないものが私の目に飛び込んできた。栗毛の、中年に差し掛かりつつあるウマ娘の姿だ。
「あ、アンタ……オフサイドトラップ……」
「その年まで、よくやったね」
不意に、歓声が小さくなり彼女の声が聞こえた気がした。言葉を交わせる距離ではない。それでも、何となく彼女が何を伝えようとしているかは分かった。おそらく、彼女の側でもそうだった筈だ。
「その年、って。あん時のアンタと同じだぜ」
「まぁ、そうか。……アタシは、現役六年目でやっとG1を取れた。正直、才能が足りないと思ったよ。怪物みたいな同期がいてね」
「……知っている」
「その同期がさ、引退したと思ったらまぁ後輩も強くて強くて。アタシなんてやっぱり駄目だなぁって思った矢先に……あんな事があって」
「……知っている」
「ねぇ、リョテイ。必死に、必死に走って御覧なさい」
彼女は、確かに私にそう呼びかけた。
「そうしたらね……天国に、届くかもしれないわ」
「天国……?」
その意味は、分からない。オフサイドトラップが、目を閉じる。もう話は終わったと言わんばかりに。彼女の声は聞こえなくなり、観客の歓声が戻ってくる。大勢のファンが、私の名前を呼んでくれていた。人間もいる。ウマ娘もいる。国内から、応援に来てくれたらしい。
「頑張って下さい!」
そう叫んでいるのは、栗毛のウマ娘だった。見た事の無い顔だ。後輩だろうとは思うが、知らないという事はそんなに有力視されているウマ娘ではないのだろう。軽く手を振って応えてやると、彼女は嬉しそうに笑った。
誘導され、大外の14番ゲートに入る。全員が、ジッと前を見つめる中、ゲートが、空いた。
実績で考えれば、私は他の奴よりは上だ。日本でG2を一つ、そしてドバイの国際G2を一つ取っている。私の不振で、それまでのトレーナーが交代させられた。それが悔しくて、結果を出したいと思った。ドバイでは、世界王者だとかいう奴の鼻を明かしてやりたかった。それで、全力以上のものが出せた気がする。今回は、どうだろう。私はこれが引退レースでもある。最後の最後、G1タイトルを掴めるかのチャンスという訳だ。
会場には日本人らしきファンも多くいた。最大の目当ては私なのか、他の子なのかは分からないが。そんな日本からのファン達は、今はもちろん私に声援を送ってくれている。ただ、同時に諦めているようにも見えた。最後だ、悔い無く走れ。ここで二着に入れば、ある意味おいしいじゃないか。私の「勝ち」を本気で信じている人が、どれだけいるだろう。仕方のない事でもある。私はそれだけ、不甲斐ないレースをしてきたのだ。しかし。今日は、もう今までとは違う。今日だけは、是が非でも勝ちたい。そう思った。
中段に着けて、きっちりとレースを展開する。私自身は、ここまで問題のないレース運びをしている、と思った。しかし、レースは相手がいるものだ。私がどれだけ完璧でも、相手がそれを上回れば負ける。今日は、そういう日かもしれないと思った。
私は後ろから五・六番目を追走していた。まだ、私は仕掛けない。勝負をかけるのは最後の直線だ。レース中盤、ドバイのエクラールが一気に先頭に出ると、スパートをかける。グイグイと距離が開き、気が付けばかなりの開きになっていた。皆慌ててペースを上げたけれど、届きそうに無いほどの距離が開いてしまっている。青い服のエクラールが、最後の直線に差し掛かる。あの世界王者を思い出させる青だ。
「クソ……」
ダメなのか。やっぱり、私には無理だったのか。そういう感情が過る。私も最後の直線に入るが、エクラールとの距離は絶望的なまでに開いていた。終わりだ。いくら何でも、ここから追いつける訳はない。セーフティリードだ。必死に走って、二着は確保できそう、といったところか。やはり、私には二着がお似合いという事か。そう思って、一瞬力が抜けた。その時、不意にブライト達の顔が見えた気がした。
「うー、ダメですかねぇ……やっぱり青い服に注意って……」
心配そうな顔のフクキタルが。
「いや、アイツは追い込み型だ、ここから」
そう言って、ダンディーの写真をグッと抱きしめるジャスティスが。
「ここで勝てば、日本生まれ日本育ちのウマ娘、初のG1デス。何とか……!」
食い入るような視線のタイキが。
「先頭は、ちょっとバテは来てるけど」
「でも、この距離を詰めるのは……」
そう言い合うマーチとサニーが。
「でも、諦めて欲しくはないわね……頑張って」
そう祈るドーベルが。そして。
「……大丈夫。信じましょう、リョテイを」
そう言って、ジッとレースを見つめるブライトの姿が。見える、気がした。
「うわあああああああああ!!」
吠えた。もう、どうにでもなれと思った。どうせ最後だ。これが最後だ。本気の本気で、走ってやろうと思った。走るのが大好きで、大好きで。そのままいってしまった、アイツの様に。
その時だった。青い服に、緑色が重なって見えた。濃い茶髪に、栗色の長髪が重なって見えた。目を見開き、呟く。
「お前」
あの時。宝塚記念、2200メートル。アイツの影を踏んだ、あのレース。今日より、200メートル短い。
「お前!」
あの日、秋の天皇賞。永遠にアイツに追いつけなくなった、あの2000メートル。今日より、400m短い。
「お前に!!」
影を踏んだだけだった。捕まえる事は叶わなかった。しかし、今日は違う。200メートル、ある。400メートルも、長い。
「お前に、私は!!」
気が付くと、アイツの顔が目前にあった。あのすました様な顔。走る事だけを考えていた、あの顔。今やっと分かった気がした。スカした気持ちの内側に秘めた、思いを。宝塚の時、なぜあんなに悔しかったのか。身勝手な怒りだけじゃない。純粋に、アイツと戦い負けた悔しさだ。アイツに、私は。
「勝ちたかったんだァッ!!」
アイツが、笑った。そして、私は我に返った。
「……え」
レースは、終わっていた。ゴール板は、ずっと後方にある。地鳴りの様な歓声に、ようやく気が付いた。
「私は」
慌てて、電光掲示板の方を見た。一着は、まだ出ていない。
「写真……判定……?」
そんな馬鹿な。あれだけの差があった。一着は、エクラールに決まって。
「あ……」
ビジョンに、ゴールの瞬間が大写しになる。そして、結果が出た。最後の最後。エクラールを交わして、ほんの僅かな差で。一着、14番。
「わ……たし……?」
茫然と、呟いた。何の感情も、沸いてこなかった。理解が追いついていなかったと言っても良いかもしれない。トレーナー達が大声で叫んでいた。やった。やったぞと。
「やったぞリョテイ! 凄いじゃないか、羽が生えたようだったぞ!」
「わ、私……」
勝ったのか。私は、勝ったのか。信じられなかった。それでも、確かに掲示板には、ビジョンには、私の番号。私の名前。
「あ……あ……」
膝が折れた。立ち上がれなかった。ぼうっと、ターフの芝を眺める。その肩を、誰かがぽんと叩いた気がした。栗毛の髪が、視界をかすめた。ハッとして顔を上げる。そこにはトレーナーや、会場のスタッフ達がいた。表彰と、インタビューの時間だ。その為に、来たのだろう。当然そこに、栗色の長髪を靡かせる、儚げな顔の少女などいる筈はなかった。それでも、いたのだと思った。アイツが、いてくれたのだと思った。
「……なぁ、トレーナー」
「ん?」
「……前にさ。あの、99年の天皇賞さ。あの時、トレーナー言ってたよな。スぺシャルウィークの背を、スズカが押してくれたって」
「ああ」
「……私には、アイツ厳しいんだなぁ。それとも、分かってたのかな」
そう言って、立ち上がる。体中の力は抜けていた。気持ちのいい、疲労感だった。
「私には、そうだよな。背中を押したら蹴っ飛ばす奴だ、私は。前に立てば、私が噛みつきに来るって分かってたんだな」
「どうしたんだ、さっきから」
「いや……こっちの話さ」
そう言って、ニヤッと笑う。そして心の中で呟いた。私は、お前の分まで走ったぞ。
正直何のプランニングも無いんですが。ただ最近、何となくあの香港ヴァーズを見返していて、モリモリ書きたい欲が出てきて書きました。元々ウマ娘にするつもりもなく、『優駿劇場』の様な形式で書くつもりだったんですが、アニメ二期も決まった事もありますし、アプリはよ来いって祈願で一つ。
シリーズとして続けるかは未定ですが、ただ一番好きなサニーを書きたい欲はあるので……続けるかも。
ちなみにトレーナー交代でにおわせた程度の熊沢ジョッキーですが、彼を下手に出すと優駿劇場の丸パクリになりそうだったのでこの程度の描写となってしまいました。