ウマ娘短編 少女達の蹄跡   作:篠平才斗

3 / 8
 今回はオフサイドトラップです。ここまで97世代で二人、もとい二頭を取り上げましたが、自分は彼も大好きなのです。自分が競馬にハマる切欠になったのはサイレンススズカでした。今でもスズカは五本の指に入る位好きな馬です。だからこそ、彼の事は忘れてはならないと思っています。あの秋の天皇賞を制したのは、まぎれもなくオフサイドトラップでした。幾度もケガに見舞われ、それでも現役を続けて、最後にG1を勝った彼は、まぎれもなく名馬だったと思っています。
 今回は前々作の『黄金旅程』以上に「死」を描きました。ご注意下さい。


称賛無き王者――オフサイドトラップ――

 アタシは、期待されていない。昔はそうではなかった筈だった。世代でも注目株だと言われ、実際にデビューから三戦目で初勝利を挙げるとそれを含めて三連勝、クラシック有力候補と言われていた。でも、勝てなかった。皐月賞七着、ダービー八着。そしてレベルアップを狙った夏のレースで、足を怪我。菊花賞には参加さえできなかった。今でも思い出す。皐月、そしてダービーの最後の直線。アタシの遥か前で、彼女は誰も見ていなかった。

《完全に抜けた! そして外から、外から来た、外から七番のサクラスーパーオー! 一六番のフジノマッケンオー! 勝ったのはしかし、ナリタブライアン! ナリタブライアン圧勝!》

《先頭はナリタブライアン、ナリタブライアン先頭! そしてエアダブリン、しかしナリタブライアン一人旅、千切った千切った、完勝二冠達成!》

 彼女はあまりにも強かった。あまりにも、眩しかった。勝てる訳がない。そう思い知らされた。そう思ったのは、アタシだけではない筈だ。アタシ達の誰もが、分かっていた。アタシ達の世代で、一番強いのは彼女だと。シャドーロールの怪物、ナリタブライアンだと。

「おめでとう。大したものだ」

「……いや。まだ、これからだ。私は、ルドルフ会長も超えてみせる」

「その前に、まず私を倒してみせるんだな」

 そんな会話を、彼女は一つ上の姉としていた。ビワハヤヒデ。昨年菊花賞を勝ち、そしてその後も天皇賞、宝塚記念制覇と安定した活躍を続けている。彼女もまた超一流のウマ娘だった。今やファンの期待は、最強姉妹の直接対決。アタシなどは、もう相手にもされていない。ケガした足を引きずりながら、そう思った。

 そんな彼女が、気落ちしている所をアタシに見せた事がある。その年の菊花賞が五日後に迫った夜。彼女が、不意にアタシ達の部屋に現れたのだ。

「オフサイドトラップ。済まないが、ちょっと付き合ってくれないか」

「え? ……良いけど。付き合う、ってどこかに行くのかい?」

「別に、外じゃない。食堂でいいんだ。この時間なら、他に誰もいない」

「この部屋じゃダメなの? オフサイド、足が悪いんだから歩くの辛いだろうし。私の事は気にしなくても良いよ」

 アタシと同室の、サムソンビッグがそう言う。ブライアンは首を振って、言葉を返した。

「いや。……オフサイドトラップ、一人に聞いて欲しいんだ。済まないが」

「何、愛の告白でもしようって訳? アタシはそういうの」

 お茶らけてそう言ったが、言葉は最後まで続かなかった。ブライアンの顔が、いつになく真剣――最も、普段から仏頂面ではあるけれど――だったから。

「ま、良いよ。御覧の通り、暇だから」

「……済まないな。サムソン、別にお前に悪意がある訳じゃないんだ」

「そんなの、気にしてないよ」

 そう言って、彼女はにっこりと笑う。彼女は決して、才能に溢れた素晴らしい選手、という訳では無い。皐月賞、ダービーに出はしたが皐月賞はブービー、ダービーは最下位。それに皐月賞で最下位になった娘はレース中に心房細動を起こしてしまっていた。幸い重大な事態にはならず、彼女は復帰している。この前、アタシがケガをしたレースでも一緒に走ったのだが、そういう訳でサムソンビッグは「無事に走り終えた者達」の中では皐月賞でもやはり最下位なのだ。

 それでも、彼女のファンは多かった。アタシも彼女の事は好きだ。素直で明るく、ひたむきで頑張り屋。レースで中々勝てなくても、愛される娘というのはいる。彼女はまさにそれだろう。彼女は一度だけ、重賞と言われる大きなレースを取った事がある。きさらぎ賞というその大会を勝った時は、誰も勝てるとは思っていなかった様で相当驚かれ、そして祝福されていた。

 廊下を歩き、階段を下り、アタシ達は誰もいない食堂の椅子に腰かける。向かい合って、最初に口を開いたのはアタシだった。

「で? 一体どうしたのよ。いつも群れないアンタが、こんな風に声掛けてくるなんて珍しい事もあるじゃない」

 彼女は、ほとんど他の者とは関わろうとしない。大体一人、いるとしたら姉のビワハヤヒデか、やたらと彼女に絡みに行くヒシアマゾンだ。それ以外のウマ娘は、滅多に彼女のそばにはいかない。

「……お前しか、思い浮かばなくてな」

「え?」

「他の奴は、レースを控えている。お前は、その、ケガをしているから」

 言いにくそうに、彼女は言った。アタシは思わず噴き出した。

「アンタね。はっきり言ってくれるじゃん。まぁ、事実そうだけどさ」

「……姉貴が、引退を決めた」

「え……?」

「明日にでも発表になると思う。……あの負けは、やはり足の故障だったんだ」

 今から二日前に行われた大レース、秋の天皇賞。そこに出走したビワハヤヒデは、最も人気を集めながら五着と敗れていた。その負け方は普段の彼女からは考えられない、反応の鈍いものではあった。

「そう、か。……それを、アタシに言ってどうするんだい?」

「どうしようというんじゃない。ただ……聞いて欲しかった。どうしたんだろうな。自分でも、分からない」

 そう言った彼女の声は、確かに震えていた。ショックだったのだろう。目指していた一人が、不意にいなくなってしまった。直接対決の機会は、永遠に失われてしまった。

「……ああ。そうかい。成程ね。確かに、見せたくないわな」

 そう言って、アタシは腕を組む。サムソンには、見せたくないだろう。今度の菊花賞で、共に走るのだ。弱みは見せたくない筈だった。

「まあ、アタシで良ければ付き合うよ。暇だからね」

「……済まない」

 そう言って、彼女は項垂れた。その日から、アタシと彼女は少し、仲良くなった。

 

 その後も、彼女は止まらなかった。菊花賞を勝ち、シンボリルドルフ会長以来の三冠を達成。姉不在の有馬記念でも、ヒシアマゾンを三バ身突き放しての勝利。その時点で、彼女に勝てるウマ娘など誰一人いない。誰もがそう思っていた。しかし。年が明けて最初に走ったGⅡ阪神大賞典を独走勝利した直後に、異常が発生する。疲労が溜まり、股関節に故障を発生。その後半年に渡りレースに出走できなくなったのだ。そして、それはアタシも同じだった。一度はケガも治り、再起を目指しレースにも出走したが、その後しばらくして再びケガが再発。彼女以上に長い休養になってしまった。

「全く……情けない、ったら」

「そう言うな。まだ、私達は復帰を目指せるんだ」

 アタシ達は揃ってリハビリに励みながら、そんな事を言い合っていた。共にリハビリをする中で、彼女の事が少しずつ分かってきた。何時もクールで近寄りがたく見えるが、実際にはそこまで人当たりがキツい訳では無い。付き合ってみると、意外に可愛い所もある。例えば、絵はかなり下手だ。前に見せてくれた絵は、こう言っては何だが酷いものだった。幼稚園児の絵かと笑ったら、ムッとした顔をされた。そんな事を言い合える位には、アタシ達は仲良くなっていた。

「私は、またあの舞台に戻ってみせる」

 ランニングしながら、彼女はそう言う。アタシはその横を走りながら、苦笑して応える。

「まあ、アタシも諦める訳にも行かないからね。アタシには大した実績もないし」

「それでも、まだトレーナー達は期待してくれているのだろう?」

「そりゃ、こんなケガばっかりしてるアタシを見捨てないでいてくれるんだからね」

 実際、見捨てられても不思議ではなかった。この世界は決して甘いものではない。結果を出せない者は見捨てられていく。アタシの様に、それ程実績がある訳でもないのにケガをした娘は、引退勧告をされても不思議はないのだ。

「だから、アタシは絶対に帰ってみせるよ。アンタと戦えるかは知らないけどね」

「何、戦えるさ。きっとな」

 そう言って、彼女は笑った。アタシも、何とかもう一度彼女と一緒に走りたいと思った。勝てなくても、彼女と同じターフに立てるだけで良いと思った。しかし、それは叶わなかった。アタシがケガと復帰を繰り返しながら復帰を目指した頃に、彼女の引退が発表された。アタシは彼女の口から、引退するという事を聞かされた。

「引退する事に、したよ。もう、私はあの頃の様に走れない」

 確かに、今の彼女は最早かつての力を失っていた。秋の天皇賞を一二着で惨敗すると、ジャパンカップ六着、有馬記念を四着。翌年の阪神大賞典を一着、春の天皇賞を二着で持ち直したかにも思われたが、次走の高松宮記念を四着と敗れる。そして、そのレースから一か月後、ケガが発覚。その後治療に当たっていた。

「色々と焦ったな。……高松宮記念は、ミスだった。一二〇〇メートルで、フラワーパークやビコーペガサス、ヒシアケボノに勝てる訳はなかったな」

「そんなに、悪いのか?」

「まぁ、そうだな。トレーナー達も、私の為に動いてくれたよ。次は、トレーナーとして三冠ウマ娘を育てたいな」

「そいつは良いね。……アンタなら、できるよ。あー、ただ、愛想は良くしないとな。教わろうって娘達がビビっちまう」

「……そうだな、違いない」

 そう言って、彼女は笑った。その後、アタシはもう一度復帰を果たす。体を気遣いつつ、幾つかの重賞レースで二着、三着に入った。勝ち切れないとも言えるが、レースを走れないよりはマシだ。少しずつでも、前進する。焦ってはいけない。そう、思っていた。そう、分かっていた筈だった。しかし。エプソムカップを六着に敗れた時に、嫌な感じがした。もう、二度経験している感覚だ。三度目の、大怪我。流石に、目の前が真っ暗になった。もう、終わりだ。アタシはもう現役五年目になる。この年齢、それも重賞未勝利のウマ娘がこんな負傷ともなれば、見捨てられるのが当たり前だった。しかし、トレーナー達はアタシを見捨てなかった。

「お前はまだやれる。いや、お前の素質はまだこんなもんじゃない」

 そう、言ってくれた。それで、アタシの心も決まった。それにブライアンも、アタシを励ましてくれた。

「お前は、重賞未勝利で終わる様な奴じゃない。もう一度、私に走る所を見せてくれないか」

「気軽に言ってくれるねぇ。ま、良いや。見せてやるよ……だから、アンタも頑張れよ」

 それでなくても、アタシは今の状態で引退すれば誰にも記憶されまい。せめて、重賞を一勝。そうすれば、覚えていてくれるファンは少しはいるだろう。せめて、誰かには覚えていて欲しかった。ブライアンの様な、誰もが知るスーパースターにはなれなくても、時々誰かが思い出してくれるだけでいい。せめて、その位にはなりたかった。

 時間は、どんどん流れ去っていく。気が付けば、アタシは現役組の中でも特に年長の部類に入る様になっていた。サムソンビッグも、引退を決めてトレセン学園を出ていった。彼女はこの世界には残らず、完全に去る事を決めていた。

「そうか、アンタは完全にレースの世界から足を洗うんだ」

「うん。具体的にどうするかは決めてないけど」

「アンタなら、どこ行ってもやっていけるよ。……でも、寂しくなるね。皆いなくなっちまう」

「そうだねぇ。でも、また会えるよ。オフサイドやローレルが引退したらさ、皆で会おうよ」

「……そうだね。会いたいね」

 そんな会話を最後にして、彼女とも別れた。櫛の歯が欠けたように、次第に減っていく現役の同期達。この世界では当然の事だ。力の無い者、衰えた者は去るしかない。ならば、アタシは?

 

 現役六年目。この年も、アタシは勝ち切れなかった。復帰レースから、二着・二着・二着・三着。もちろん上位には食い込んでいるのだから、決して悪くはないのかもしれない。しかし、悪くはない、で満足して良い年齢はとっくに過ぎてしまっている。もう時間はない。いつ、走れなくなってもおかしくないのだ。そこで、思い切って戦法を変える事にした。今まではずっと、レースを通して前の方に位置取る先行策を取ってきたが、それを止めて後ろに控える後方待機策に切り替える。戦法を変えるというのはリスクが伴う。今まで積み上げてきた経験がゼロになる。それでも、やるしかないと思った。そして結果的には、これがハマった。七月一一日の七夕賞、先行し粘るタイキフラッシュを捉え切って重賞初制覇。六年目にして、遂に掴んだ重賞タイトルだった。スタンドを見ると、サムソンビッグが見に来てくれていた。あの笑顔で、はしゃいで手を叩いているのが見える。

「やったね、おめでとう!」

「……やっと、追い付けたね。アンタに」

 そう言ったアタシの周りに、記者達が押しかけてくる。いつもは横目で見ていた光景の中に、今日はアタシがいる。それが、嬉しかった。

 その次の重賞レースも、アタシはものにした。この戦法は驚く程ハマる。最も、最初からこの戦法を使っていれば大活躍できたか、と言われればそれはまた違うのだろう。何より、戦法でどうにかできるような物ではない力の差を、アタシは見せつけられている。

 レース終了後、アタシはトレーナーに呼ばれた。次走をどこにするか、という相談だった。トレーナーは、秋の天皇賞を目指さないか、と言ってくれた。今のお前なら、勝負になる筈だと。アタシは一瞬迷った。G1レースは、あの惨敗のダービー以来になる。重賞二連勝とはいえ、G3とG1ではモノが違う。しかし。

「……アタシ、出たいです」

 挑戦したかった。もう、現役もそう長くは続けられまい。重賞二勝は、それなりの実績だ。最後にG1レースで、勝てないまでも好走すればそれなりには語って貰える存在にはなれるだろう。戦う。また、あのG1の舞台で。もう、ナリタブライアンもサムソンビッグもいない。その舞台で、いやそんな舞台だからこそ戦いたい。

「出走してきそうな、強豪というと」

「……サイレンススズカ、だな。宝塚でエアグルーヴから完全に逃げ切って一着だ。他にG1勝ちの経験者となると、メジロブライトやシルクジャスティスあたりも出てくるだろう。他には、キンイロリョテイだな。宝塚で二着、スズカには負けたがエアグルーヴには先着している。春の天皇賞でも二着だし、あのエアグルーヴに先着できるんだ、力はあるだろうな。」

 トレーナーがそう言って挙げた名前は、自分より三つ後輩にあたる世代のウマ娘達のものだった。もう、時代は大きく変わっている。後輩でも、引退している娘達は大勢いるのだ。

「成程ね。サイレンススズカって、今物凄いものね。彼女が大本命か」

「今のままだと、そうだろうかな」

 全員、アタシより格上と言っていいウマ娘達だ。アタシはG1レースでは、五着以内にも入った事がないのだから。

「これが最後のG1、かもしれないからね。精一杯やるわ」

 そう言って、アタシはトレーナーと分かれた。サムソンに電話して、その事を伝える。彼女はとても喜んでくれた。

「え、本当!? 今度の天皇賞だよね、凄い!」

「まあ、出られるかは分からないけどね。今の所、出るつもりって事さ」

「楽しみにしてるよ、レース見に行くね。あ、そうだ。皆には言ったの?」

「いや。お前が最初だよ。まぁ、そうだな。ブライアンには、伝えておくかな」

「だね。あー、ブライアンか。また会いたいな……。ローレルやダブリンも引退したし、皆いなくなるね……あ、マッケンオーはまだ走ってるんだっけ……」

 そんな話を、しばらくサムソンとしていた。その後、ブライアンにも電話をした。彼女も、やはり喜んでくれていた。

「そうか、楽しみにしているよ。しかし秋の天皇賞か。少し、嫌な思い出が蘇るな」

「え……あ、あぁー……」

 彼女は秋の天皇賞には一度出場している。しかし、その時の彼女はケガの不安もありハードなトレーニングはできず、結果一二着という大惨敗を喫している。

「秋の天皇賞には魔物が住む、とか言うな。優勝最有力と言われるウマ娘が勝てないジンクスがあると」

「ああ、聞いた事あるわね。ルドルフ会長もそうだっけ、オグリさんも」

「それに、姉貴もな。姉妹揃って、あんな下らないジンクスにやられるとは思わなかった」

「まあ、ある意味大丈夫だよ。アタシが最有力なんてあり得ないしさ。いくら重賞二連勝って言ったって、こんなオバさんが選ばれる事なんてないさ」

「そ、そこまで自分を卑下しなくてもいいだろう」

「いやいや。分かってるつもりだよ。……そういえば、この前急に腸閉塞起こしたとか言ってたけど、あれは大丈夫なの?」

「え? ああ、もう大丈夫だ。一応経過観察中だがな。天皇賞までには、まぁ治すさ」

「気をつけてよ。アンタにも見て貰いたいからね、会場で。一着はともかく、三着までには入りたいねぇ」

 そう言って、アタシは笑った。この時のアタシは、間違いなく幸せだった。全てが順調で、そして楽しかった。調子は上々。誰が来ても、いい勝負はできる。そう思っていた。そんな矢先だった。忘れもしない、九月二七日。その日、アタシはオフだったので自宅でゆっくりしていた。そんな時に、電話が鳴った。そこに表示されていたのは、見た事の無い番号だった。

「誰だろ……」

 不思議に思いながらも、電話に出る。電話越しに聞こえてきたのは、思いもかけぬ人の声だった。

「オフサイドトラップ君、か?」

「え……? は、はい」

「そうか……ビワハヤヒデだ」

「え? ビワハヤヒデさん、ですか?」

 どうして、ハヤヒデさんがアタシの電話に。そう思った。彼女はアタシの連絡先など知らないはずだ。

「ど、どうして」

「ブライアン、ブライアンが」

「え? アイツが、どうしたんです」

「ブライアンが……死んだ」

 そう聞いた瞬間、体からフッと力が抜けた。頭がぼうっとして、今聞かされた事実を理解しようとしない。

「え……? 何、を」

「昨日、また酷い疝痛を起こして……な。病院に行ったんだが……もう、手遅れ、だったと」

 嘘だ。腸閉塞は、良くなっていると言っていたのに。

「最初は、我慢していたようだ。頑張ったよ……苦しかった、だろうに。君の連絡先を、教えて。伝えて、欲しい事があると」

 嘘だ。あんなに強かったじゃないか。病気なんかで。

「君の、レースは、見に行けそうに……な、い……って……」

 電話の向こうから、嗚咽が聞こえた。アタシは、もう何も考えられなくなっていた。ただただ、嘘だ、嘘だと呟いていた。

「だから、すまない、と。君の……勝利を……願って……」

 そこまで言って、もう彼女は耐えられなくなったようだった。アタシは、ようやく少しずつ、状況を理解する事ができるようになりつつあった。それでも、信じられなかった。信じたくはなかった。しかし、事実なのだと思った。彼女の嗚咽が、それを残酷にも証明していた。

 三冠ウマ娘、ナリタブライアンが内臓疾患によって急逝した。そのニュースは、瞬く間に日本中に広まった。一〇月二日には、追悼式が行われた。関係者やファン達に交じって、アタシやサムソン達も参列した。久しぶりに会ったアイツに、あの笑顔はなかった。

「久しぶり、だね。……こんな、形で、会うなんて……」

「ああ。……そうだな」

「まだ、信じられないけど……でも、事実、なんだよね」

「ああ、そうだろうよ……アタシだって、信じたくないさ」

 そんな事を、言い合った。会場には多くの先輩や後輩、そして同期達がいる。皆、信じられないという表情だった。あまりにも、早過ぎたのだ。会の途中で、ビワハヤヒデが堪え切れなくなって泣き崩れる。同期のライバルだったウイニングチケットが、肩を貸しながら一度退室していった。それを追って、同じく同期のナリタタイシンも出ていく。彼女は、ブライアンと比較的仲の良かった一人だったと聞いていた。

 式が終わり、アタシが帰り支度を進めていると不意に声がかけられた。声をかけてきたのは、ビワハヤヒデだった。

「オフサイドトラップ君、だね。少し、良いかな」

「は、はい。アタシは、構いませんけど」

 ビワハヤヒデは頷くと、アタシを連れて会場の別室へと連れていく。その部屋に入った時、アタシはハッと目を見開いた。そこには、幾つかの道具が並べられている。アタシ達がレースやその後のウイニングライブで使う、道具の数々。

「これ、ブライアンの」

「ああ。……形見分けだ。前に電話した時、最後まで伝えきれなかったのでな」

「え?」

「……最期の最期に、言っていた事だ。レースを見には行けない。君の勝利を願っている。そして、最後に。これを」

 そう言って、彼女が一つの道具を手に取った。白い毛が、モール状になっている道具。アイツの、代名詞。

「これを……付けて、欲しいと」

「あ……アタシ、に?」

「ああ。それを、どうしても伝えたかったようだ。だから、持って行ってくれ」

 そう言って、彼女はアタシにそれを握らせた。アイツの代名詞、シャドーロール。言葉を、発そうとした。しかし、喉が震えるだけで声は出なかった。視界が歪んだ。がくり、と膝が折れた。声を上げて、泣いた。本当に、いなくなってしまったのだ。それをはっきり認識した。そして、覚悟を決めた。

「……ビワハヤヒデさん」

「なんだ……?」

「アタシ……勝ちます。絶対に、勝ちます……!」

 絞り出すように、そう言った。良いレースを、なんて甘い事は言わない。勝つ。勝つ。絶対に。

 

 一一月、一日。その日、レース場には大勢の客が詰め掛けていた。ファン達の期待は何と言っても「影無き逃亡者」サイレンススズカだったろう。トライアルの毎日王冠で、それまで無敗だった「ターフを舞う怪鳥」エルコンドルパサーと、朝日杯王者の「未知なる栗毛」グラスワンダーを一蹴。余りにも強い彼女の逃げは、多くのファンを魅了した。そして彼女の同期で、かつては彼女に先着した事もあるメジロブライトやシルクジャスティス、そして宝塚ではスズカには敗れるも「女帝」エアグルーヴを上回ったキンイロリョテイ。こういった面々が有力視されていた。アタシの注目度は、さして高いとは言えない。それでも、良いと思った。そんな事はどうでも良かった。首に掛けたシャドーロールを、そっと撫でる。アタシは、ただ勝つだけだ。アイツの強さを、もう一度証明する為に。

 全員がゲートに収まり、発走を待つ。観客の歓声が一瞬静まり、そしてゲートが、開いた。誰よりも早く、一気に先頭に立ったのは。

《さあサイレンススズカが、期待に応えて早くも先頭!》

 そのスズカの背をジッと見ながら、アタシは三番手に付ける。形の上では、これはかつてのアタシの戦法である先行の位置だ。二連勝している後方待機ではない。しかし、これで良い。アイツの逃げは余りにも先へ行く。下手に後方待機を選べば、どう頑張っても追いつけなくなる。しかし、それにしてもアイツは早過ぎる。あり得ないほどのハイペースだ。逃げ・先行策を取るウマ娘は、基本的に途中でペースを落とす。そうでないと潰れてしまうからだ。アイツ自身、これ程勝てるという事は抑えてはいるはずだ。それなのに、この早さは何だ。

「クソ……出鱈目やりやがる」

 マズい、と思った。このままでは、アタシも潰されかねない。三・四番手をキープする為に、かなり無理をしている。離され過ぎず、しかし飛ばし過ぎず。難しい局面になった。そもそも、アイツはバテるのか。アイツが夏に勝った宝塚記念は、今日のレースより二〇〇メートル長いのだ。その距離を、アイツは逃げ切っているのだ。

 無理だ、という思いが脳裏をかすめた。アタシ如きが勝てる筈がない。アイツは、アタシの様な奴とは住む世界が違う。そうじゃないか、何を調子に乗っていたんだ。アタシは、今までG1レースで一度も、五着以内にさえ入った事の無い、三流じゃないか。そんな風に思った、その時。首元で、ふわりとシャドーロールが揺れた。

「……ブライアン」

 そうだ。何を考えているんだ、アタシは。勝つんじゃないのか。証明するんじゃないのか。アタシが勝って、もう一度。ナリタブライアンの、シャドーロールの怪物の、強さを。

 足に力を籠める。もうレースは半分を過ぎている。スズカは既に第三コーナーを曲がり終えようとしていた。その時だった。彼女の体が、がくんと揺れた。

「え?」

 サイレンススズカが、止まった。バテた、という様なものではない。抑えるというものでもない。本当に、止まった。足が何度がパタパタと前に送られ、しかしそれも惰性で動いている様に見えた。そして、彼女はコースの外側にふらふらと離れていった。故障だ。アタシにはすぐに分かる。彼女の足が壊れたのだ。何度も見てきた。アタシ自身も、そして同期達を、先輩達を、後輩達を。そして、だからこそ分かってしまった。彼女のケガは、アタシやブライアン達がしたケガより、更に酷い。あれより酷いものは、アタシの記憶には一つだけだ。その一つ、三年前の宝塚記念、そのケガをしてしまった先輩は。

「考えるな!」

 叫んだ。叫んで、言い聞かせた。考えるな。考えるな。今はレース中だ。何があっても、どんな事があっても、走り抜かなければならないんだ。アタシはコースの内側を通り、最後の直線で一気に先頭に立った。スズカの体を避ける為に二番目の娘が外に動き、他の娘達も半ば茫然としながら外側に回る者が多かった。アタシは一気にゴールを目指し加速する。他の娘達も、気を取り直したか追い上げてくるのが分かる。しかし、抜かせない。抜かせられない。アタシは勝つ。それが、アタシがアイツにしてやれる、唯一の事だから。

「届けぇーーーーッ!!」

 ゴールが、近づく。歓声が、小さく聞こえた。目の前に、ゴールがあった。やっと掴んだ。これが、念願の。

《先頭はオフサイド、オフサイドトラップ先頭、内の方からキンイロリョテイ、内の方からキンイロリョテイ、しかし何と、勝ったのは、オフサイドトラップ! 驚きましたオフサイドトラップ!》

 ゴール板を駆け抜けたアタシに、しかしどれだけの人が歓声を送ってくれただろうか。ほとんどの人は、アタシの事など見ていなかった。皆、四コーナーの手前を見ていた。救急車に乗せられて、サイレンススズカはターフを去っていく。掲示板を見ると、二着に入ったのはキンイロリョテイ、三着にはサンライズフラッグ。どちらも、スズカと同じ世代。心配になった。同じ世代のウマ娘があんな事になってしまっては、平静でいられる筈はない。そんな事を考えているアタシは、自分でも驚く程冷静だった。

 控室に戻る途中、係員が申し訳なさそうな顔で近づいてきた。

「オフサイドトラップ選手。申し訳ないのですが、今日のウイニングライブは……」

「中止、でしょう。分かってます。……ライスシャワー先輩の時も、そうだったって聞いてるんで」

「ええ、そうです。……せっかく、悲願の初制覇なのに……申し訳ありません。ですが、表彰式は、ありますから」

「仕方ないですよ。貴方が意地悪で、そう言ってる訳じゃないって分かってますから」

 そう言いながら、廊下を歩いていると叫び声が聞こえた。声のした方へ向かうと、黒髪のウマ娘が半狂乱で叫び続けていた。

「スズカ、おいスズカ! どこだよ、おい!」

「……やっぱり、ね」

 そうならない方が、おかしいと思う。もし、アタシが彼女の立場だったら。それこそ、一緒に走っているレースで、ブライアンがああなったら。それでも、いや、だからこそ、落ち着かせないといけない、と思った。丁度、その黒髪のウマ娘は、医療スタッフから最悪の事態もあり得る、と聞かされて茫然としていた。

「ど、どういう意味だよ……!」

「……アタシ達は、人間を遥かに超えた速度で走る。それが急に運動を止めたら、心臓にかかる負担も人間の非じゃない。……最悪、心臓や血管がイカれる」

 そう、声を掛けた。彼女が振り返る。二着に入った、キンイロリョテイだった。気の強そうな瞳が、潤んでいた。顔も青ざめて、とても二着に入ったウマ娘とは思えない顔色だった。

「オフサイド……トラップ……先輩」

「ウイニングライブは中止、だってさ。それをアンタに伝えに来た。……ま、無理もないね。ああなっちゃ……三年前の宝塚も、そうだったね。アタシはあれは、テレビで見てただけだったけど」

「それ、って、つまり……」

「……ああ、そうさ。アンタだって分かってる筈だよ。これは、そういう事さ」

 そう言って、アタシは踵を返す。

「じゃ、そういう事だ。ライブは中止でとっとと帰れ、が上のご命令だよ。表彰式はあるっぽいけどね。まあ二着のアンタには、そんなにだろ。気ぃ付けて帰りな」

 しかし、アタシの足はすぐに止まる。マスコミが、押しかけてきていた。これ自体はいつも通りだ。優勝したウマ娘は、いつもカメラとマイクに囲まれる。

「ここでは止めとくれ。表彰の時にそういう席もあるだろ」

 そう言って、アタシはマスコミをいなしていく。キンイロリョテイが、後ろからついてきていた。フラフラとして、足取りが覚束ない。三着のサンライズフラッグを探すと、彼女もやはり真っ青な顔をしていた。おいで、と言って手招きすると、彼女もふらつきながら近づいてくる。

「大丈夫かい?」

「は、はい……あの、あの。スズカは、どうなって」

「……公式な発表は知らないね。予想は出来るけど……でも、アンタには聞かせられないよ」

 そう言って、アタシはまた歩き出す。表彰の場では、キンイロリョテイもサンライズフラッグも、ぼんやりとした感じでトロフィーを受け取っていた。アタシだけが、堂々とトロフィーを受け取った。笑顔は流石に作れなかったが、堂々と掲げてみせる。

 その後、インタビューの時間が始まった。しかしやはり、二人は受け答えができる状態ではなかった。アタシも、当然質問が飛んでくる。

「おめでとうございました。レースの感想を伺いたいのですが」

「ええ、まぁ。アタシ自身は、気分良く走れましたよ」

「ご自身は、これで悲願の初G1制覇、という事ですが」

「ええ。やっと、ですから。ケガもあって……アイツが、いなくなって。……やっと勝てて。笑いが止まらないですよ」

 そう聞いたマスコミの中には、明らかに顔色の変わった者もいた。確かに、ダントツの先頭を走っていたウマ娘が競争中止となり、その容体ははっきりしないが誰もが「最悪の想定」をしている中で言う発言としては、不適切だったかもしれない。両脇の二人の顔色が、また変わるのを感じた。それでも、アタシは止めなかった。

「スズカには、気の毒だと思いますけど。でも、アタシも負けるつもりで走っていませんから。それだけです」

 そう言って、アタシは立ち上がった。これで、アタシは悪役一直線だろう。今日のレースは、間違いなく歴史には残る。オフサイドトラップの勝ったレースとしてではなく、サイレンススズカが天国に旅立ってしまった悲劇のレースとして。

 それが、悔しかった。もしスズカが無事だったなら、アタシが勝てたかと言われれば否だろう、と思う。それでも、勝ったのはアタシだ。勝者として刻まれるのはアタシの名前だ。やっと、掴んだG1だった。誰にも望まれない、誰にも祝福されない勝利だとしても。

 寮に戻る為のバスに向かう。いつもなら、ファンが大勢待っている場所だ。しかし、今日はほとんど誰もいない。たった一人。たった一人だけが、アタシの事を待っていた。

「サムソン……」

「オフサイド……やったね、って……ちょっと、言いにくいけど」

 そう言って、彼女は笑う。あの、笑顔だ。

「でも、確かに勝ったんだよ。オフサイドは」

「……ああ」

「きっと、ブライアンも……ブライアンも、喜んでくれる」

「そう、かな」

 そう言って、無理に笑おうとした。でも、ダメだった。顔が引きつって、上手く笑えない。笑いが止まらない、という訳にはいかなかった。勝ちたかった。真っ向から、彼女を抜き去りたかった。勿論、そういう思いはある。しかし、こうなってしまった。アタシが彼女を壊した訳じゃない。そう叫びたかった。

「あ、あの娘」

 サムソンが、そう言った。振り返ると、そこにはキンイロリョテイが立っていた。視線がぶつかる。まだ、彼女の眼は弱かった。近づいて、話しかける。

「笑いなさい。アンタは二着に入った。立派な物よ」

「でも……私は、スズカが」

「……そうね。確かに、そうだわ。でもね」

 そう言って、彼女をグッと抱きしめた。彼女は一瞬身を固くしたが、抵抗はしなかった。

「それでも、勝ったのはアタシで、そして二着は貴方。スズカじゃないわ。……笑いなさい。……せめて、貴方だけは、そうあって」

 アタシは、誰にも称賛されずに歴史に埋もれていく。こうなってしまった以上、仕方ないとも思った。それでも、分かって欲しかった。これからも走り続けるだろう彼女には、伝わって欲しかった。

 不意に、ぽん、と肩を叩かれたような気がした。ハッとして振り返る。そこには、誰もいない。

「どうしたの、オフサイド」

 サムソンが訊いてくる。アタシは、そっと鞄の中に手を入れた。勝負服から着替えて、それは今鞄の一番上に置かれている。

「……ねぇ、ブライアン」

 静かにそう呟いて、そっとシャドーロールを撫でる。サムソンが、リョテイが不思議そうにアタシを見ていた。

「アタシ、頑張ったよね」

 そう言って、目を閉じた。風が、頬をかすめていった。

 

 




 ウマ娘のアプリ配信日が決まったりツインターボちゃん達の実装が発表されたりウマ娘まとめのカンリニンチャンが復活したりと色々嬉しいニュースが続きました。
 今作では、「死」というものをより鮮明に取り上げました。オフサイドトラップを取り上げたウマ娘二次創作は幾つか見ていますが、それらは当然というべきかナリタブライアンの死、サイレンススズカの死については触れていません。ウマ娘というコンテンツの性質を考えれば当然で、そちらが正しいと思います。ですが、この作品ではあえてそのタブーに触れました。競馬を楽しむ上で、このような事故は起こり得る、という事から目を背けてはいけない、と思うからです。御不快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。御批判は、甘んじで受け入れます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。