さて、今回はヤマニンゼファーです。私の見たい「夢のVS」の一つが「ヤマニンゼファーVSトウカイテイオー」なんですよね。実際にテイオーは宝塚に間に合わないとなった後、復帰の目標を秋天に定めていた時期もあるという事で、あり得た対戦ではある訳ですが。彼らの父は、それぞれ秋の天皇賞で激突したシンボリルドルフとニホンピロウイナーです、ヤマニンゼファーにとっては父の叶わなかった「秋の盾取り」の仇討に挑む舞台であり、またそのピロウイナーが僅かに届かなかったルドルフの最高傑作であるテイオーと戦うというストーリーは非常に感情に訴えかけてきます。
――十年前。少女の夢は、無残に散った。暗くなる視界。動こうとしない脚。よろめき乍ら必死に進み、何とかゴール板を通過した時には観客のほとんどが彼女の方を見てもいなかった。観客の視線は、一人のスーパースターに注がれていた。ひゅう、ひゅうと喉が鳴る。立っている事さえできず、ターフの上に崩れ落ちた。ソックスが泥水を吸い上げて汚れていく。トレーナーが、駆け寄ってくるのが微かに見えた。
「大丈夫か、ピロウイナー」
「……へい、き。で、も……わ、たし」
何とか、言葉を絞り出した。それ以上は出てこない。言いたい事は、ある筈だった。だが、口が動かない。喉が動かない。そして、頭も動かなかった。
「無理して喋らなくていい。……俺の責任だ。お前のスピードとスタイルは、短距離向きだってのは思っていたのに」
「……わ、たし、は……」
トレーナーに支えられながら、視界の隅に彼女の姿が映った。途轍もない末脚で、他の者達を圧倒して勝った同級生だ。この一年、クラシック級のレースは彼女を中心に展開されるのだろう。そして、自分はその舞台に立つ事も叶わない。そう、少女にははっきりと分かった。手を上げて、長髪を靡かせた彼女は、あまりにも眩しかった。涙が零れた。
「あんな風に……なれないんだ」
それ以上、言葉にはならなかった。ただ声を上げて、泣く事しかできなかった。この時、少女の――ニホンピロウイナーの道は、決まった。華やかな王道路線を外れ、地味な扱いのマイル・短距離路線へ。「王道」から外れるしか、彼女に残された道は無かった。
それから、二年後。少女は再び、あの時と同じ距離のレースを走る事になった。しかし、もうしの立場はあの時とは違う。今の彼女は、“皇帝”だった。
一〇月二七日、秋の天皇賞。注目は史上初の天皇賞春秋連覇を狙うシンボリルドルフだった。宝塚記念直前のケガが無ければ、海外遠征も視野に入れていた程の実力者。“皇帝”の異名で知られ、それまでレースで敗北した事はただの一度のみ。その彼女が圧倒的一番人気に押される中、いよいよレースが始まろうとしていた。観客席では多くの観客が、応援するウマ娘に声援を送る。その中で一人、どこか冷めた視線でそれを見つめる少女がいた。彼女はウマ娘ではあったが、あまりレースに興味を抱けなかった。周りから繰り返し、中長距離のレースは向いていないと言われ続けてきた。それはつまり、例え競争ウマ娘としてデビューできたとしても決して「王道路線」では結果を残せない、と言われている様な物だった。それで、レースに熱意を持てるはずもない。
「ルドルフさーん! 頑張れー!」
そう叫んでいるのは、濃い茶色の髪をポニーテールに束ねた少女だ。彼女はシンボリルドルフの熱心なファンだと言っていた。体の柔らかさと、見事な勝負根性を持っている。スピードも抜群だ。ああいう子が、スターになっていくのだろう、と彼女は冷めた目で見つめる。自分は無理だ。できて、日陰の短距離路線。そこでしか生きられないというのは、余りにも寂しく思えた。
「今日の出走メンバー、そんなに凄いって感じじゃねえな」
「二番人気が未G1勝ち、宝塚三着が最高のウインザーノットだもんなぁ。三番人気のニホンピロウイナー、マイル以下ならそれこそ“皇帝”って感じだが、二〇〇〇じゃなぁ……大阪じゃ八着だったし、毎日王冠も四着、ってんじゃなぁ……」
そんな事を、近くの観客が言っていた。それを聞いて、彼女は少し興味を惹かれた。手元にあるパンフレットに視線を落とす。八番、ニホンピロウイナー。主な勝ちレース、マイルチャンピオンシップ、安田記念。典型的な短距離路線のウマ娘という事だ。もし自分がデビューすれば、この人を目標にする事になるのだろうかと思った。「二〇〇〇じゃなぁ」という、先程の観客の声が脳裏を過る。所詮、その程度の扱いなのだ。観客の耳目を集める大レースは、ほとんどが二〇〇〇メートル以上。それ以下の距離のレースにもG1はあるが、その扱いは日本ダービーや有馬記念などと比べて低いと言わざるを得なかった。
「やっぱり、そうなんだよな」
そう、呟いた。どれだけ短距離路線で結果を残そうと、それにどれ程の意味がある。自分はそんな短距離路線でしか生きられないと宣告されて、まともに走る気になどなれなかった。そんな事を思っていると、レースが始まった。圧倒的一番人気のシンボリルドルフは少し出遅れ後ろからのレースになった。しかし流石に力が違う。最後の直線に入る頃にはしっかりと前につけ、そして先頭に出る。これで決まったと誰もが思った。しかし、外にウインザーノットが競り合いに来る。その更に外側に、白と緑、黄色のラインの勝負服が来た。彼女は思わず、目を見開いた。
《ルドルフ先頭だ、ルドルフ先頭であります、その外からウインザーノット、残り二百を切ってニホンピロウイナーも来ているぞ!》
ニホンピロウイナーが、シンボリルドルフに迫っていた。マイラーが、王道の皇帝を追い詰めていた。周りの観客が大声を上げた。
「ルドルフ、ルドルフ粘れ!」
「ウインザーとピロウイナー来てるぞ、おい!」
「……頑張れ」
思わず、呟いた。二番手のウインザーノットの脚が僅かに重くなった。ニホンピロウイナーが並びかけてきた。更にその外、別のウマ娘の影。
《ルドルフ出た、ルドルフ出た、外の方からギャロップダイナ! 外からギャロップ!! あっと驚くギャロップダイナ!!》
レース場は、驚愕に包まれた。勝ったのは、それまで全く無名と言っていいウマ娘、ギャロップダイナだった。会場中が勝ったギャロップダイナと、二着に敗れたシンボリルドルフに視線を注ぐ中、彼女はずっと二ホンピロウイナーを見つめていた。彼女は、ウインザーノットと同着の三着だった。“皇帝”まで、後一歩のところまで迫った。短距離路線のウマ娘が、あわや現役最強の皇帝を喰らいかけた。その走りに、痺れた。思わず、走り出していた。ニホンピロウイナーが、帰って来ていた。その彼女に、声をかける。
「あの!」
「……ん?」
ニホンピロウイナーが、彼女に気が付いた。ゆっくりと、近づいてくる。
「何? 君、ウマ娘か……」
「は、はい! あの、その……私、初めて見て」
言葉が、出てこなかった。言いたい事は沢山あるのに、声にならなかった。
「えっと、あの」
「……君、名前は?」
そう問われ、名前を名乗る。ピロウイナーが、にこりと笑った。
「そうか。君も、トゥインクルを目指すの?」
「あの、私……今まで、興味が持てなくて。でも、今日のニホンピロウイナーさんを見て、その」
「そうか……ありがとう。君、ひょっとして短距離向きだ、って言われたんじゃない? それで、あー、短距離路線なんてたかが知れてるし、そこ目指してもなー、って」
ズバリと言われた。ぎくりとして、しかし顔をぶんぶんと横に振る。
「いえ、そんな」
「良いの。気持ち、分かるから。私も、絶望したわ。自分は王道を歩けない。外れた道を進むしかない、って。でも……今は、違う。グレード制が整備されて、短距離やマイル路線にも道が拓けた。もう、短距離路線は落伍者の集まりなんかじゃない。そんな風に、言わせてみせたい」
そういう彼女は、とても凛々しく、美しく見えた。
「私、次のマイルチャンピオンシップで引退するつもりなの。元気なうちに、身を引きたくてね」
「え……そんな! あんなに、凄いレースができるのに」
「私の夢の為よ。……短距離やマイル路線を盛り上げて、中長距離に負けない位の人気を集めたい。その為に、凄いスプリンターやマイラーを育て上げてみたい。それが、今の私の夢。指導するなら、自分が動ける方が良いじゃない」
そう言って、ニホンピロウイナーは笑った。
「良かったら、見に来てよ。次のマイルチャンピオンシップ。後……貴方さえ、良ければ。待ってるからね。ヤマニンゼファーちゃん」
そう言って、彼女は去っていった。そよ風が、ヤマニンゼファーの頬を撫ぜた。この日、この時に、彼女の将来は決まった。ジュニアトレーナーとなったニホンピロウイナーの二期生としてトレセン学園入学、期待されるも入学直後に骨膜円を発症、デビューが遅れてしまう。デビュー戦では調整不足を不安視されたこともあり十二番人気と低評価だったが、短い直線で一気に伸びると一着でゴール。更にその後も条件戦をクリア、重賞クリスタルカップで三着と結果を出した。しかし骨膜炎の再発により再び休養となってしまう。通院していた病院で、偶然あのシンボリルドルフに憧れていた少女に会った。同い年で、同じ学園に通っているのに、ほとんど会話を躱した事は無かった。
「あんた……トウカイテイオーだね。無敗二冠ウマ娘の」
「え……っと。キミは?」
「知らないだろうな。ヤマニンゼファーだよ」
そう言って、ゼファーはテイオーの体を眺める。華奢な見た目だが、驚く程のバネを秘めた体だ。柔らかく、強靭なその体で、彼女は無敗の二冠を達成した。しかし、その代償として、三冠目には挑む事すら叶うまい。脚を骨折し、菊花賞出走は絶望的だと言われていた。
「二冠、凄かったな。見てたよ」
「うん、ありがと。でも、それで終わるつもりはないから」
「え?」
「ボクはカイチョーみたいな、無敗の三冠ウマ娘になる。それが、夢なんだ。だから、菊花賞には必ず間に合わせる」
テイオーは力強く、そう言った。なるほどな、と思う。スター性という奴だ。そう言えば、よく師匠のニホンピロウイナーも言っていた。「人を惹きつける、天性の力を持っている奴ってのがいる」と。
「成程ね。ま、頑張れよ。応援してるから」
「キミは、今はどこを?」
「え? まだメイクデビューと条件戦クリアだけの、しがない短距離ウマ娘。クラシックなんかハナから考えてなかったね。俺にゃ長すぎる」
「短距離……それじゃ、目標はスプリンターズステークス?」
「出られりゃ良いね……ま、あんまり目指しちゃいないよ。今年は地固めって、話してるから」
「ふーん……ねぇ、キミには憧れの人って、いるの? ボクはカイチョーみたいになりたくて、ここまで努力してきた。キミは?」
「聞きたいか? ……あんたの憧れのカイチョーさんに、後一歩届かなかった人さ。ただ、そうだな……俺達の道を拓いてくれた、俺達に輝ける場所をくれた、そんな人さ。お前も見てただろ、あの天皇賞・秋を。無敵の皇帝が不覚を取った、三つのレースの内の一つ。あの秋天で、皇帝の首を後一歩で取り損ねた人さ」
「あ……」
テイオーが、納得した顔をした。
「それで、短距離なんだ」
「逆さ。短距離しか走れないと言われて、腐ってた俺を救ってくれたのさ」
そう言って、ゼファーはテイオーと別れた。その後、残念ながらテイオーは菊花賞を戦う事は出来ず、復帰はシニア級の大阪杯までずれ込む事になった。一方のゼファーは復帰後条件戦を勝つとスプリンターズステークスに出走、七着に終わった。決して順風満帆とはいかない。それでも、未来は見せた。
翌年、彼女は条件戦を勝利しオープンクラスに上がる。更に京王杯を三着とし、実績を積んだ。次の目標は、決まった。電話で、あの人にその事を伝える。
「次の目標、安田記念に決めました、姐さん」
《そうかい……遂に、だね。前のスプリンターズはお試し……ってなもんだし。また応援しに行くよ。相手は、キツそうだけどね》
「ええ……分かってます。相手の強さは、よく理解してるつもりですから」
力強く、そう言った。そして、本番を迎えた。安田記念。その年の安田記念は、非常に豪華な顔ぶれとなった。“華麗なる令嬢”ダイイチルビー、“笑いながら走るウマ娘”ダイタクヘリオス、“これはびっくり”ダイユウサクといったG1勝利経験のあるウマ娘らが揃い、更にホワイトストーンやカミノクレッセといった力のあるベテランも揃う。その中にあって、未だに重賞勝ち星のないゼファーは十一番人気に過ぎなかった。それでも、心の中には期するものがあった。調子はいい。ここで、勝ってみせる。
「あー! ウイナーパイセンじゃんおつかれっすー!」
「こらァ! 貴方、なんて口の利き方……バカじゃないの!? いや分かってるけど!」
ゼファーの視線の先で、ニホンピロウイナーは出走する面々に囲まれていた。直接教えを受けた事はなくとも、彼女を慕う者は多い。マイル・短距離路線を主戦場にするウマ娘にとっては、彼女は憧れの存在であり、敬愛の対象だった。
「元気が良いね、皆。ヘリオスは元気が良すぎるけど……あ」
彼女が、こちらに気が付いた。ゆっくりと、こちらに近づいてくる。
「元気そうね。まずは良かった。あんまり、固くならずにね」
「はい。……必ず、勝ちます」
「ま、実績で言えばあんたは完全に格下だけど……勝負に絶対は無いよ。一発、かましてやんな」
「はい!」
そう、元気よく答えた。かつて、彼女も戦い、そして勝ったレースだ。これに勝って、“ニホンピロウイナーの後継者”として周囲に認めさせたい。それには、格好の舞台だった。
レースが始まると、ゼファーはしっかりと好位置につけてレースを進める。かなり良いスタートを切れた。余裕をもって位置を少し下げ、そしてじっくりと狙っていく。最後の直線、遮るものは何もない。カミノクレッセやムービースターが追い上げてくる。ダイタクヘリオス、ダイイチルビーは伸びてこない。風が、吹いた。
《カミノクレッセ上がってくる、その真ん中を通ってムービースターも伸びてくる、ムービースターも伸びてくる、カミノクレッセ、しかし、ヤマニンゼファーだ! ヤマニンゼファーだ! 初の重賞は何とG1です!》
「よっしゃァッ!!」
ゴールの瞬間、そう叫んでいた。低評価を覆した、快勝だった。これで、一気に短距離路線の主役になれる。そう思ったのだが、その後は惜しいレースが続き、勝ち切れなかった。マイルチャンピオンシップではダイタクヘリオスのリベンジを許し、去年の雪辱を果たすべく乗り込んだスプリンターズステークスでは、最後の最後でニシノフラワーに差し切られてしまった。そのまま翌年以降も連敗してしまったが、京王杯で久しぶりの勝利を挙げると安田記念を連覇、G1の舞台でニシノフラワーに借りを返した。安田記念の連覇はニホンピロウイナーも達成していない。その意味では、達成感はあった。
レース後、ゼファーはトレーナーと次走について相談する。夏を休み、秋の目標をどこにするか。普通ならば、マイルチャンピオンシップかスプリンターズステークスだろう。しかし、ゼファーもトレーナーも、心に決めていたのは別のレースだった。
「ゼファー、予定通り、で良いか?」
「はい。問題ないですよ、俺は大丈夫です」
「……たった四百メートル、と言えなくはないが。ただ、キツいぞ。マイルの様なスピード感覚じゃ潰れる。まずは1800の毎日王冠を目指すぞ。二百伸ばして、二百伸ばす。それで、距離の感覚を掴め」
「はい」
それで、ゼファーの目標が確定した。秋の天皇賞。かつてニホンピロウイナーが、皇帝を後一歩まで追いつめた舞台。安田記念を制した後に、ゼファーが最も勝ちたいと願ったレースだった。
「しかし、お前が天皇賞か。最初に言われた時は、意外と言えば意外だったがな」
「そうですか? 秋の盾は、最高の名誉の一つでしょう」
「だが、お前はマイラーだしな。それに、それに誇りを持ってもいる。そのお前が2000のG1、というのはな」
「ええ。俺はマイルに誇りを持ってます。マイル路線は王道路線を戦えない連中の溜まり場じゃあない。迅さと上手さとスタミナのバランスが取れていて始めて結果を出せる舞台だ」
それは、常々彼女が言っている事だった。マイルにはマイルの誇りがある。そして、状況は変わりつつあった。
「マイル・短距離路線にはスターが大勢出ましたし、未来の芽も出ています。
ニホンピロウイナーによって切り開かれたマイル・短距離路線は、その後多くのスターを生み出した。秋の天皇盾も制した“マイルの帝王”ニッポーテイオー、“私の夢”バンブーメモリー、“華麗なる令嬢”ダイイチルビー、“笑いながら走るウマ娘”ダイタクヘリオス。下の世代でもニシノフラワーやサクラバクシンオーといった面々が育ってきている。それはゼファーにとっても喜ばしい事だったし、自分の道は間違っていなかったという誇りにもなった。
「ただ、やっぱり根本の部分で、まだ変わっていないと思うんです、俺は」
「根本?」
「……俺達は、まだ王道路線の“下”だと思われている。本来なら、王道も、マイル短距離も、ダートも、価値は同じ筈です。もっと言えば、障害も、ばんえいも、繋駕速歩も、騎乗速歩でも。でも実際には、そうじゃない。勿論、ある程度仕方ない部分はあると思います。ただ、それを変えようとしちゃいけないって事は無い」
そう言って、ゼファーは右拳を掌に叩きつけた。
「俺は、天皇賞に出ます。理由は三つ。二つは、個人的な理由で、まず姐さん……ウイナーさんの仇討の為。もう一つは、トウカイテイオー……同い年で、王道路線で結果を出し続けた、あのスーパースターに勝ってやりてぇ。そして、三つ目。俺が、このマイル・短距離でしか生きられなかった俺が、秋の盾を取る事でマイル・短距離のウマ娘の強さを知らしめてやりてぇ。そうすれば、俺達の価値はもっと上がる。上手くすれば、年度代表だって取れるかもしれない。だから……行きます」
「そうか。……トウカイテイオー、秋の天皇賞で復帰予定だったな。それにメジロマックイーンも来るぞ。簡単じゃない」
トウカイテイオー。あのシンボリルドルフに憧れた少女は、今は三度目のケガによってリハビリ中だった。宝塚記念での復帰を目指したが、それには間に合わず。今は秋の天皇賞を目標にしている、と聞いていた。そしてもう一人の大本命がメジロマックイーン。一昨年、去年の天皇賞・春を連覇、前回の天皇賞・春こそライスシャワーに躱されたが二着、その後宝塚を制覇とその実力は現役でも最強の一角だと言われている。そしてこの二人は、それぞれ天皇賞・秋には苦い思い出があった。トウカイテイオーは昨年の天皇賞・秋に出走するもメジロパーマー、ダイタクヘリオスの逃げに翻弄され七着惨敗。メジロマックイーンはその前年、二年前の天皇賞・秋に出走し一着でゴールするもレース中の斜行(他のウマ娘の走行進路を著しく妨害する事)により失格。去年はケガにより出てもいない。それだけに、この最強の二人による昨年の天皇賞・春以来の激突が見られると盛り上がるファンは多かった。その中に、ゼファーは殴り込もうとしていた。
トレーナーとの打ち合わせ後、ゼファーはニホンピロウイナーに電話をかけた。彼女も、ゼファーの決断には驚いたようだった。
《あんた、天皇賞って。随分思いきったなぁ……なんで、また》
「俺は……あの光景が、ずっと忘れられないんです。貴方が皇帝を追い詰めた、あの光景を」
あのレースは、二つの点で未だに語り草となっている。それはまだオープンクラスにすら上がっていなかったギャロップダイナが衝撃のG1初勝利を挙げたレースとして。そして、“皇帝”シンボリルドルフが二度目の敗北を喫したレースとして。しかしゼファーにとっては違う。マイル・短距離路線を走るウマ娘達には違う。
「貴方は、俺達に夢を見せてくれたんです。皐月賞で惨敗した貴方が、同じ距離で皇帝を追い詰めてみせた。王道を走る事を一度は諦めた貴方が、王道で最強の“皇帝”を追い詰めた。それが、俺にとってどれだけ大きな事だったか」
《皐月で惨敗って、嫌な事思い出させんじゃないよ》
ニホンピロウイナーの苦笑する声がする。その声を聴くだけで、勇気が出る気がした。
「俺は……貴方の仇を討ちます。次の天皇賞、トウカイテイオーが出てくる。シンボリルドルフに憧れ、彼女の域に後一歩と迫ったスーパースターが。……彼女に勝って。そして、秋の盾を取る。それが、俺の今の夢です」
《そんなん言ってると、掬われるよ。天皇賞ウマ娘のマックイーンにライスも出てくるだろうしね。まぁ、でも……期待してるよ》
そう言って、彼女は電話を切った。ゼファーは大きく息を吐き、そして気合を入れなおす。勝つ。必ず、勝つ。
それから、少し時が経った。秋の天皇賞、その出走メンバーが確定する。そこに、トウカイテイオーの名前は無かった。彼女の復帰は、結局間に合わなかった。そして彼女と並ぶ本命、メジロマックイーンもケガで引退を発表している。大本命不在のレースは、既に波乱の予感となっていた。一番人気はメンバーで最も実績を残し天皇賞春秋連覇の偉業がかかるライスシャワー。しかし彼女は典型的なステイヤーであり、2000メートルの秋天は短いという見方が強かった。二番人気は有馬記念三着などの実績があるナイスネイチャ、しかしG1は未勝利である。三番人気はツインターボ、ここ最近二連勝と波に乗っている事が評価されてだろうが、彼女もG1での実績はない。その中で、G1二勝を挙げているにも拘らずヤマニンゼファーの評価は五番人気にとどまった。マイルでは強いが所詮はマイルまでのウマ娘、現に直前の1800m毎日王冠では六着、掲示板すら確保できなかったではないか。そんな声が聞こえていたが、ゼファーは気にも留めなかった。肝心なのは本番だ。中距離の走り方が、少し分かった気がしていた。
レース当日。多くのファンがレース場に押し掛ける中、二人のウマ娘が観客席に立っていた。一人はニホンピロウイナー、そしてもう一人は、黒い長髪を靡かせたウマ娘である。
「……ここであんたに会うなんてね」
「おかしい? 今日はセキテイリュウオーちゃんの応援」
「ああ……そういや、あの子もトウショウボーイ門下生だっけ」
「そうそう。あの子張り切ってたからね……お師匠に勝ちを届けるんだって。あの子、懐いてたからね……生きてるうちに、勝ったところ見せたかったって言ってたから」
そう言いながら、彼女はふふ、と笑みを浮かべる。
「でも、ゼファーちゃんにも期待してるよ。あの子の脚は魅力だよねぇ」
「単純な早さなら、間違いなく一番だと思っているよ。問題はペース配分」
「懐かしいなぁ。秋の天皇賞か……私が、最後に勝ったレースだ」
「そう言えば、そうなるんだね」
「ニッポーテイオーちゃんが前に勝ってたし、もう少しゼファーちゃん、人気出ても良い気がするけどねぇ」
ニッポーテイオー。ニホンピロウイナーの引退後、空位となったマイル路線王者の座に就いたウマ娘。そして宝塚二着、天皇賞秋で一着と王道距離でも結果を出した。
「ただ、あの娘はそれ以前にも中距離の経験がある中での勝利だった。ゼファーは2000m自体が初めて……そこは、不安だけど」
「でも、だからこそ価値がある。距離以外の実力は完全に上位だと思うし……楽しみね」
そう彼女が言った時、ファンファーレが鳴った。十七人がゲートに入り、そして、ゲートが開いた。その瞬間、一人のウマ娘が待ち切れないとばかりに駆け抜けていく。ツインターボがいつも通りの大逃げを見せ、それをロンシャンボーイが追う。ゼファーは三番手に付け、じっくりとレースの様子を見守った。いつもに比べれば速度はセーブしている。落ち着いて、じっくりと。そう自分に言い聞かせながら、ゼファーは少しずつ速度を上げていった。二番手のロンシャンボーイを躱し、そしてじりじりと先頭を走るツインターボに迫っていく。しかし、他のウマ娘達が後ろから迫って来ていた。そして最後の直線に入ろうと言う所で、遂にツインターボが失速する。それを躱してヤマニンゼファーは先頭に立った。ナイスネイチャが、ライスシャワーがやってくる。そして。
「勝つのは、私だァーッ!!」
突っ込んできた、ダークブラウンの髪色のウマ娘。セキテイリュウオー。今年、全てのレースで掲示板内を確保している成長株。人気は、六番人気。
「……本当に、思い出すね」
黒髪のウマ娘が、そう呟いた。
「あの時も、勝ったのは人気薄、実績薄の子だったね。セキテイリュウオーちゃんは、あの子よりは実績あるけど」
「……ギャロップ、か。そうなると?」
「さあね。ただ、こうなると有利なのは後ろの子でしょ。もう、ゼファーちゃんにはスタミナが残ってない」
ゼファーの息が、上がって来た。既に彼女にとっては長い距離に差し掛かっている。いつもなら終わっている筈のレースが、終わらない。当然だ。四百メートルも長いのだ。
「クソ……!!」
「勝つのは私だ……私だ!!」
セキテイリュウオーが走る。必死に走る。彼女にはG1勝ちの経験がない。初の栄冠を掴む為に、必死に速度を上げていく。その体が、僅かにゼファーの前に行く。
「お師匠に、勝ちを……勝ちを!!」
《ここでセキテイか! セキテイリュウオー来ている、セキテイリュウオー先頭に立った!》
アナウンサーが叫ぶ。ゼファーの視界が次第に暗くなっていく。息が続かない。脚が動かない。王道とは、これ程のものなのかと思った。だが。
「俺だって……負けられねぇ、負けられねぇんだ! ここで、勝たなきゃ……ここで勝って、俺は、証明してみせる!!」
喉が張り裂けそうだった。体中の感覚はもう失われていた。ただ、訳も分からず前へ、前へとだけ思った。
《この二人の叩きあいだ! この二人の叩き合い!》
限界は、とうに超えていた。最後は気力だけだった。二人のウマ娘が、ほとんど並んでゴール板に迫る。
「持ち直した、ね。普通なら、あそこで後ろに躱されたら終わりなのに」
「……あの子はね。体は弱かったし、前面に闘志を押し出すタイプでも無いけど。あんな根性のある子、そうはいないよ」
「そっくりね、ピロちゃんに」
「……そうかもね、シービー」
《セキテイリュウオーか、ヤマニンゼファーか!! セキテイリュウオーかヤマニンか!!》
アナウンサーがそう叫んだ瞬間、二人の体はゴール板を通過した。その差はほとんどない。勝ったのは。
《インコース、僅かにヤマニンか!? セキテイリュウオーか、ヤマニンゼファーか、二人並んでゴール板前!!》
掲示板、一着に示された番号は、八番。勝者、ヤマニンゼファー。二着セキテイリュウオーは、ハナ差で敗れる形となった。
「勝……った……」
それだけ呟いて、ゼファーはフラフラとターフに倒れた。芝が顔をくすぐる。体に力が入らなかった。
「勝った……んだ……俺が……2000mを、天皇賞を……!」
そう呟いた横で、悲痛な泣き声が聞こえてきた。セキテイリュウオーが、内ラチに縋りついて泣き崩れていた。声は、掛けなかった。掛けられなかった。二人の差は、本当に僅かだった。しかし、それが全てだ。一着と二着には、決定的な差がある。勝者か、敗者か。
ゼファーは何とか体に力を入れて、立ち上がる。次第に、勝った実感が湧いてきた。歓声が、空気を震わしていた。トレーナーが、おめでとうと言ってくれた。そして。
「おめでとう、ゼファー」
「あ……」
ニホンピロウイナーが、下りてきていた。にっこりと笑って、そして抱きしめてくれた。
「姐さん、俺……!」
「やったね……勝てたじゃない、王道を。見せて貰ったよ、ありがとう」
「やりました……俺、やれましたよ!」
「最後、ヘロヘロだったのにね。よく頑張ったよ。次はどうすんだい? ジャパンカップ?」
「まさか。マイル……いや、スプリンターズステークスかな。去年はニシノフラワーにやられましたし、ここを勝てれば、俺は三階級制覇って事になる」
これで、マイルと中距離のG1を制覇。短距離のスプリンターズステークスを取り、三路線のG1覇者となれば、これはニッポーテイオーも成し遂げていない大記録となる。
「そいつは、ちょっと魅力的でしょ? 一丁頑張ってみますよ」
そう言って、ゼファーは改めて観客席を見た。一人の幼いウマ娘が、小さな手を夢中で叩いているのが見えた。
「あの子は……?」
「今、目をかけてる子でね。あんたの走りをみせてやりたかったんだ」
「へえ……そいつは、楽しみっすね」
「きっと、デカい事をしてくれる。まぁ、まずはあんただね。パッとやろう、今日は」
「ええ。……そうですね」
そう呟いて、ゼファーはもう一度掲示板を見た。確かに一着の所に輝いている、自分の番号。それが誇らしかった。不意に、突風が吹いた。芝が揺れ、大ケヤキがさざめいた。その風が、疲れ切った体に心地よかった。
ウマ娘が想像以上に盛り上がっておりまして、これによって競馬人気が向上すればいいなと思っています。ただその一方で、このコンテンツの危うさも感じています。結局のところ、このコンテンツは多くの競馬関係者の方々の善意の上で成立しています。どれだけ人気が集まろうが、関係者の方々の反発が強まればすぐにでも消し飛ぶでしょう。私自身この様な作品を投稿していますが、やっている事が完全なグレーゾーンであることは認識しています。改めて、少しでも問題があると判断すれば、ただちに作品を削除するつもりでいます。