「傘木希美さんという人を知っていますか?鎧塚先輩」
「……――え?」
真剣な表情で。1年下の後輩の女の子は朝、開口一番にそう言った。
「………どうして?」
「昨日お逢いしまして。鎧塚先輩に伝えてほしいと、伝言を頼まれました」
「希美………が」
元北宇治高校吹奏楽部。元南中吹奏楽部部長。傘木希美という人間は、一言でいうならヒーローだ。それは主人公と書いてもいいし英傑と書いてもいい。
いつも皆を引っ張り、自己研鑽を惜しまない。…とにかく凄い人。それがかつての南中吹奏楽部部長・傘木希美というヒーローで。
そして何も言わずに私の前から居なくなった、勝手気侭なフルート星人。一年前まで私は、ずっと一緒だと。ずっと友達だと、思っていた。
「―――私のフルートを聴いて貰いたい。だそうです」
「…………」
「近々会いにゆくとも、言っていました。オーボエを吹いて待っていてほしいと」
「………っ」
怖気と真っ黒な感情が私の胃の腑と肺腑を震えさせ、居ても立ってもいられない脚は椅子を突き飛ばして朝の音楽室を後にさせた。
…一年前の春。この部に入部した時、彼女はコンクールで金賞を獲ると宣言し、しかしそれは当時の部の先輩たち全員に無視された。
私は応援したし、自分なりに頑張ると伝えた。この気持ちは中学からずっと変わってないよと。彼女も同じように頑張るのだと思ったし、信じた。
でも希美は部を辞めた。
「……気持ち悪い」
裏切った?違う。彼女は最初から私なんて見ていない。その辺に転がっている石ころと同じ。大勢いるうちの中の一つ。
それが彼女にとっての私で、でも私にとっての宝石が彼女だった。
「……気持ち悪い」
哀しかった。悔しかった。一言も無いなんてあんまりだ。
中学からずっと一緒に吹奏楽をやっている仲だったのに、相談すら無いなんて酷い以外の何があるんだ。
「――気持ち悪い」
いつもいつもいつもそうだった。昔からいつも自分勝手でフルートの事しか頭にないフルート星人。貴女を真似して、好きかどうかも知らないこの楽器を暇さえあれば吹いているのに、一年経ってやっと私の前に現れるのかと思ったらまた楽器の話だ。他人の気も知らないで。
「気持ち、悪い…っ」
他人の気も知らないで。
「―――鎧塚先輩待ってッ!!」
気持ち悪い気持ち悪い。
「だってこんなに気持ち悪い私は。一体どんな顔で、希美に会えばいいの――」
「やっと停まった!大丈夫ですか先輩!? あんな顔色悪い先輩初めて見ましたよ!」
「……放って、おいて」
「そんなの後輩として出来るわけないじゃないですかッ」
「帆高さんが希美に何を聞かされたのかは知らない。けど私は希美に会いたくない、…もう会えない。一年前からずっと」
「…友達じゃ、なかったんですか?」
「思ってた。 でも違った。希美にとっての私は只の石ころだった」
「…石ころ………?」
「私は私が嫌い。只の友達にこんな気持ちの悪い感情を抱いて頭がおかしくなりそうになって、でもそんな私のことを希美は今も憶えててくれたのが嬉しくて、オーボエを吹いていて良かったって思ってる自分が心の底から気持ち悪い。大嫌い」
「………」
・・・・・。
「昔から、私はずっと一人で本を読んでた。他人は怖い。だって何を考えてるのか分からない。でも希美はフルートを持って、私に手を伸ばして、引っ張ってくれた。
……嬉しかった。吹奏楽っていう知らない世界を、希美は私に教えてくれた。オーボエっていう楽器だって知る事ができた。だから私にとって、希美は特別」
「……。凄い人ですね、傘木先輩」
「希美は宝石で、私は石ころ。今も昔も。 なにも希美の特別に私もなりたかったわけじゃない………。ただ私は、あの人と一緒に、ずっと音楽をしていたかった」
「………鎧塚先輩」
「他人は何を考えているのか分からない。希美は最期に私にそれを思い知らせてくれた。
私はこれから一生それを心に刻んで生きていく。オーボエを吹いていれば、絶対忘れない」
だから私は楽器を吹く。今も今までも。
「―――石ころのままで、いいんですか?」
「いい。だって昔から、私は石ころだったから」
だから私は。
私が大嫌い。
◆
「傘木先輩。先輩は何故フルートを吹いているんですか?」
「うん? どったの?後輩ちゃん」
「答えて下さい先輩」
「なんでって訊かれてもねー。そうだからとしか」
傘木希美はそう言って、真っ直ぐに前を見た。
他は知らない。知っててもいいけど、迷ってはならない。そう書いてあるだろと帆高に伝えるように。
「鎧塚先輩、泣いてました」
「……。ふーん」
「あんな哀しい顔、今まで生きてきて初めて見ました。傘木先輩、何で――」
「何で辞めずに傍に居てあげなかったのって?」
「………」
帆高の左手が脱力から万力に変わるように、握り拳に変化する。いけしゃあしゃあとしたこの先輩目掛けて、間違っていると伝える為に。
「それだよ」
「は?」
「私が傍に居たら、きっと今よりもあの子は間違ってた。――私の言う事には絶対服従。私の後を付いてきて、進路だって一緒にする。そんなの、演奏家じゃないじゃん」
「演奏家…?」
「私ね、みぞれのオーボエ好きなの。超大好き。感情爆発翼を広げた青い鳥みたいなオーボエの音色が。それを奏でる鎧塚みぞれっていう奏者が」
「………」
「演奏とは。音楽とは。楽器とは? 私が探してる答えを、強さを最初からあの子は持ってた。輝いてた。でもその理由が『傘木希美』だけじゃ演奏家・鎧塚みぞれはすぐに終わってしまう。
……本当なら中学の時点であの子にそれを教えなくちゃいけなかった。それじゃあ後は落ちるだけだよって。だって私、部長だもの。でも出来なかった」
弱かったから。
傘木はそう続けた。
「………自分勝手」
「高校生になったなら、て思った。けどあの子の音色は日に日に良くなっていった。…怖くなったよ。教えたらオーボエ捨てちゃうかもって。それじゃあ駄目。絶対に駄目。私に出来たのはあの子に何も言わずに部を辞める事だけだった」
「………」
「今年、みぞれは下手になってた。だって淡白すぎるでしょ?あの自由曲のオーボエソロ。 その前のトランペットの子のソロが感情的だからコントラストになってるけど、この先の関西・全国じゃあ絶対に勝てない。でも、みぞれが。それでもみぞれが今もオーボエ捨ててないなら良いじゃん」
「捨ててないなら良いじゃんって…ッ!!!!だってそれは――!」
「府大会までは。そう、思ってた」
「………え?」
帆高の眼に傘木の瞳が映りこむ。そこには後悔という名の色の暗月が浮かんでいたが、今の帆高には分からなかった。
「あの大会のオーボエのソロは、輝いてた。少しだけど、中学の頃のみぞれ以上に。あの子は楽器に対して真摯になってた。特別な感情を、みぞれは楽器に向けるようになれたんだ。――だから今度は、私があの子に対して真摯になる番」
これで、と。
傘木は指先で軽く背中のケースカバーを叩いた。中身はフルートだろう。今日も肌身離さずに持っていた。
「正直ね?こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。私とあの子の道は違えたままで、もう交わる事はないって。―――でも違った。私のフルートとあの子のオーボエは、きっと、この日が来るのを待ってたんだ。有り難う、帆高ちゃん」
笑みを浮かべる眼前の先輩の事が、帆高は理解できなかった。
そんな理由で吹部を辞めて、そんな理由で友達との縁を切る人間がいるなんて欠片も思いもしなかった。
……まるでフルート星人。
この人は徹頭徹尾、音楽しか頭にないんだ。このままじゃ自分の好きなオーボエが消えてしまうからその前に自分がオーボエの前から消えて、その後たまたま聴いたら昔よりも良くなってた。
何故?どうして? 知りたい。そんな演奏家としての性(さが)。
とにかく謝るのが人としての筋だろうに、それ以上に楽器でもって語り合いたいと顔に書いてある。奏者として。他の由はなく、奏者として。
音を聴きたい。聴き比べたい。私と貴女、昔の君。今の私と今の君。
こんなにも違うんだと純正に。こんなにも変わったんだよと純粋に。
思い知りたい。
…彼女が石ころ?とんでもない。
帆高は思う。だって只の石ころがこんなにも他人を突き動かす事など出来ない。そう、彼女達こそ鎧塚みぞれと傘木希美。唯一無二の宝石と宝石。怪物と怪物。特別と特別。
帆高の心臓が一際大きく高鳴った。こんな人間達が、世の中にはひしめいている事実に。
「先輩たちの演奏が聴きたいです」
「こちらこそ。どうか聴いて欲しいな」
見届けたい。
北宇治高校吹奏楽部の1年坊は、人生の先輩達の道を見てみたかった。
◆
いつもの定位置に座り、早朝の音楽室の静寂がオーボエによって打ち砕かれていく中。奏者の鎧塚みぞれは小さなノック音が聞こえた方向に目線をやって、
そして彼女の全てが固まった。
「や。 久しぶり、みぞれ」
「………」
息が止まり、目蓋が凍る。
――彼女と学校内ですれ違う事は数多くあったが。話す事はなくとも、不意にばったり会う事だって今まで数え切れなかったが。
今この時。 いつも彼女を目で追っていたという真実に気付いて。そんな怖気と自己嫌悪を、鎧塚はオーボエを吹いて忘れようとした。
「そっち。行ってもいい?」
手に持つ銀色のフルートの縁を指先で軽く触りながら。
同級生・傘木希美の表情は一欠片の悪びれもない。そう見えるよう練習した。一年にわたる日々は、短いようで長かった。
「………」
傘木が一歩を踏み出したのと同時に鎧塚は立ち上がった。足音を消しながら、おそるおそる、かつての友に近付いてゆく。
―――何故?どうして?今更なにを?
諸々の理由と感情が彼女に罵声を上げよと何度も何度も口を開かせようとしたが、自分でも不可思議な自覚がそれらを遥か彼方の遠い虚空に追いやって。
ふと、自身がオーボエを持っている事を悟った。
「―――吹くの?」
「―――もちろん」
・・・・・。
「…私と?」
「…みぞれと」
・・・・・。
「出来るの?」
「出来た」
互いに近寄る、その一歩に。二人の演奏家達は互いに初めて出逢った日の事を思い出す。
その一歩に旧交を。その一歩に憧憬を。その一歩に悔恨を。その一歩に観念を。そして最後のその一歩に、万感を。
眼と眼が合い、思う。
或いは。もしかしたら。一年前の騒動がなくとも、私達はいずれこうなっていたんじゃないか―――
「元南中吹奏楽部部長・傘木希美として、私は伝えなくちゃいけない。みぞれ、アンタのオーボエ昔の方が上手かった。下手になったね」
「………」
「そして元北宇治高校吹奏楽部部員として、私は貴女に言わなくちゃならない。
みぞれ、黙って部を辞めてごめんなさい。中学からの友達の貴女に、それはちゃんと伝えるべきだった」
「………。いい」
まっすぐに見詰めるその瞳は、彼女がずっと待ちかねていたもの。
こうやってずっとオーボエを吹いていたいと思っていた。彼女と共に。ずっと。しかし、
「メトロノームを鳴らします。合図は――」
「もう、いい。要らない」
「…え?」
「要らない」
「観客は、帆高ちゃん」
「自由曲のオーボエソロ。吹くから聴いてほしい」
「みぞれと一緒に私も吹くから、公平な審判をお願いね」
北宇治高校吹奏楽部・今年度自由曲オーボエソロパート。三日月を模るこのパートは、百人が百人、吹奏楽器はオーボエ以外ありえないと首肯したとしても。――私のフルートはそれら下馬評を遠い彼方に置き去って、響かせる。
奏でる。手にもつフルートの銀光よりも冴え渡る笑みで、傘木はそう示していた。
「分かりました」
わけが分からない。楽器が違ければ勝敗などつけようもない。
そんな帆高を余所に。肩を並べた鎧塚と傘木はゆっくりと対面に座って、静かに笑いあった。
―――それは奏演の化身者だけが放ち得るもの。
音を奉じ、奏鳴を生とし、楽器を己の意味とする者、特有の芳香。純正の響気。心を震わす猛毒を浴びせあい、しかし彼女達が怯え竦むことはない。
貴女が三千世界の五線譜を征覇する畏怖すべき笛聖(フラウトトラヴェルソ)であろうとも、貴女こそはその線上の常軌を逸して羽撃たく
優劣勝敗は世人ではなく音楽の神のみが知る処。
彼女は吹き込む。
彼女は吹き出す。
交響はほんの、刹那の未来。
奏でるべし。
楽器があるなら始まりはいつも。
二人の始まりは、ここにある。
◇
構えたオーボエに息を吹き込む。
鎧塚が過去何千何万と繰り返したその工程の完了は、時間にして0.3秒を切る。対して傘木のフルートの一連の動作はこの上なく流麗且つ緩やかに行われたよう鎧塚と帆高は感じたが、
否。
依然自然体で楽器を構えてすらもいなかった筈の傘木が音を楽器から出した事実は、鎧塚が既に口にくわえているリードに息を吹き込み音が出るその刹那にすべてが為された事に疑いの余地はなく。
それは唯一の観客の帆高と、奏者である鎧塚が己の体感時間を限りなく圧縮し自らの時を止めるに等しい状態に置く事でしか、傘木の動きを目で追えなかった事に起因する。
つまり真相は。
不可避の、速攻である。
◆
―――あの日。彼女と初めて出逢って楽器に触れた日。それは私の全てが始まった日だった。
人は二度生まれる。ルソーの言葉。私にとって、二度目は正に今日この日。
中学1年の、今日この日。
『おはよー!鎧塚さん! オーボエ、そろそろ好きになった?』
『…ぼちぼち』
『…………そっかー』
『…? どうしたの、傘木さん』
『え?あ、いやー上手いね!鎧塚さん! やっぱりオーボエ好きでしょ?』
『ぼち…ぼち』
『そっかー』
・・・・・。
『…。傘木さん、は』
『え?なになに?』
『フルート、好きなの?』
『好きだよ?勿論』
…これが夢だと夢の中で気付けたなら、それはきっと明晰夢。
ぱちりと起きれば全部忘れるのが夢だけど、怖がらず己を律してこのままぐっすり眠りこければ、ずっと夢の中にいられるらしい。
夢は第二の人生と申します。
『………』
『みぞれは?』
『―――え?』
なので少し驚く。夢の中の人物が私に。今の鎧塚みぞれに話しかけてきた。
『オーボエ、好き?』
奏でるフルートの音色と笑顔は至高天に輝き昇る星のように。
いつまでも変わらず昇りつめているように。私は今も今までもそれを追いかけていて。
……眼を開ける。私にとって待ちかねていた夢が、合奏の時間がついに終わる。そこには現実という名前の景色があって、でも私の瞳を心配そうに見詰めながら声をかけてきた。
―――どう?みぞれ。
好きだと、今度こそ言えた気がした。