「桃ちゃん大丈夫?」
「………え、はい」
「ヒロネ先輩がずっと見てるよ?ヤバイってあれマジなヤツだって」
「……すいません、りえ先輩」
――今日の合奏は本当に駄目だった。その証拠にヒロネ先輩がこちらをジッと見ている。無言の圧力は的確に何かあったの?と訊いているようで申し訳がなかった。
「では40分後にまた合奏の時間を設けます。各自パート練習に入ってください」
「はい!」
「…はい」
・・・・・。
「………」
「ヒロネ先輩、すいません。ちょっと頭を切り替えてきます。教室にはあとで必ず行きますので」
集中できていない。こういう時は基礎練習あるのみだろう。私はお辞儀をしながら音楽室を後にした。
てくてく歩き、人気の無い廊下で一人片手を伸ばす。腹式で息を吸って、吐く。肺の空気が一欠片も無くなるまで吐く。吐き続ける。
「ズウゥェアァァアアァァァァ…」
もっと吐いてーもっと吐いてーもっともっと吐いてー。
習った通りに、身体を使う。
「ァァァアアアァァァアアァァァァ」
すると瞬間横隔膜と肺が0コンマ5秒停まり、自然に息を吸った。
「、フーーーーーー」
吹く。伸ばした片手の更に向こう。壁も何もかもを通り抜けて彼方の果てまで届くように息を吹く。
「……よし」
脳裏に浮かぶあの人の顔がやっと消えた。気が少し落ち着く。二度、三度。駄目だ、もっとやらなきゃ。
「肺活量のトレーニング?桃ちゃん」
「……!葵さん」
「ごめんね。何だか心配になって。 それ、やりすぎると脇を痛めるから程々にね?」
「…いえ」
「何かあったの?」
「………」
今日部活に来てない副部長のあすか先輩が母親にぶっ叩かれてあまつさえ連れて行かれてしまいました。
…そんな事、言えるわけがなかった。
「何でもありません」
「そ?じゃあどうしてここに?」
「基礎は大事にしないといけませんので」
「こんな独りになれるベストポイントで?」
「…はい」
「そっか、分かった。じゃあ桃ちゃんに一言先輩からアドバイス」
「?」
「言いにくい事があったら部長に相談。晴香ならきっと応えてくれるよ?」
葵さんは笑みを浮かべてそう言った。心が少し、軽くなった。
◆
あかね雲が綺麗だなと思う今日この頃。陽が沈むのも、もうめっきり早くなった。凍てつく風も溜め息を白くさせつつあって、そのせいなのか私にはこの部の前途が少し見えなかった。
「今日あすか、来なかったね」
「………」
「晴香は。何か聞いてない?」
「てことは香織も聞いてないんだね。…私の所も何も無し。ラインも既読スルー」
「ただのズル休み、――なわけ無いよね」
「人間だもの。休むくらいするよ」
「あのあすかが部活を?」
「……。あすかだって」
個人練習の最中。隣りに立つ香織は楽観というよりは真剣寄りの静かな眼差しで私を見ていた。
「………今日部活に来る前に噂で聞いたんだけどね?」
「? え?」
「誰かの保護者の人が、今日職員室に来たんだって」
「どういうこと?まさかあすかの?」
「分からない。でも凄い剣幕で先生方と話してたって」
・・・・・。
「――あすか先輩のお母さんです。先輩」
「!?」
「帆高さん…、どうして貴女が?」
「その場にいました」
「何があったか話してくれる?帆高さん」
「晴香そんな矢継ぎ早に」
「今日部活に来てない副部長のあすか先輩が母親にぶっ叩かれてあまつさえ連れて行かれてしまいました」
「………」
スラスラと口にする帆高さんの表情はひどく無表情。でも語勢は彼女の心象を物語るように苛烈だった。対して私は我慢できずに唖然とした。
「あすかのお母さんが…。じゃあ仕方ないかもね…」
「知っているんですか?」
「以前にちょっと話した事があってね。あの人怖かったでしょう? でも本当あすかにそっくり」
「………」
そして同時に沸沸と、腹が立ってきた。
「あすかを殴ったの?その人は」
「はい」
「よりにもよって職員室で。吹部の仲間であるあすかを?」
「はい」
「私達の、友達を?」
「…はい」
瞬間、香織が私の背中をさすった。するりとした感触に目を向けると、そこには笑顔。私は忘れていた我を思い出した。
「帆高」
そして秋風と一緒に。松本先生の声がこの場に流れた。
「練習中にすまないな。今少し話せるか?」
「松本先生。…はい、勿論ですけど」
「ではこっちで話そう」
眼を細め、風が先生の髪と頬を撫でるのが見てとれたその瞬間、私は本能的に口を開いていた。
「待って下さい先生」
「ん?何だ小笠原」
「職員室にあすかのお母さんが来たって。本当ですか」
「…帆高から聞いたのか。その通りだ」
「帆高さんへの話ってその事ですよね。あすかは吹部に戻ってこれるんですか?」
「………小笠原」
「私達は全員で全国の舞台に立てるんですか?教えて下さい」
「………」
お前たち次第だ、とも。大丈夫だとも言わない先生を見て。事態は相当マズい方向に進んでいることを私は確信した。
「先生。あの、先生とあすか先輩のお母さんって。…お知り合い、なんですよね?」
「!」
「それは本当なんですか?」
「――ああ。本当だ」
その瞳は何かを秘めていた。
「元・明静工科の吹奏楽部生。…なんですよね?先生」
「フフ。中世古は物知りだな」
その表情は確かに何かを秘めていた。多分きっと、それは想い出なのだろう。
…何の意味も持たないと解かっている。でもあの頃を、あの日々を忘れる事は決してない。
追憶が、戻るはずもないのだけれど。そんな笑みだった。
「元吹部……?でもじゃあ何であんなに」
「分からん。ただあいつは本当に上手い部員だった。コンマスをも務めていたのだからそれは確実だろう」
「コ、コンマス…?」
「コンサートマスター。ヒロネと同じ立場って事だね」
「すごい…」
「あいつとは小学生からの、所謂幼馴染というやつだった。ずっと楽器一筋で常に自身に言い聞かせていたよ。―――己を証明する。
楽器を吹いて吹き続けて、いつかきっと私は私を証明する。他ならぬ自分に。あの頃の私にとって、あいつは特別だった」
「………」
「音大に進んだんですか?」
「そう聞いた。その後はたびたび会ってはいたが、いつしか疎遠になり行方も分からなくなっていった。まあ、それ自体は珍しくも無い事だが問題は、」
「そんな音楽の大先輩が今ではあすかを私達北宇治から離した事。ですね?」
「そうだ。しかしどうする気だ? 小笠原。お前の顔はいつものそれとは全くの別人だが」
「連れ戻します」
「晴香部長…っ」
「明日の放課後に臨時のパーリー会議を行います。香織、明日はよろしく。帆高さん、大変だけど今は駅ビルコンサートだけを考えて全力を尽くして」
「オッケーだよ」
「分かりましたっ」
「先生。貴重な話をありがとうございました。 さあ練習に戻るよ」
◆
翌日放課後・部活前。北宇治高校吹奏楽部パートリーダー会議用空き教室。
「――今日もあすか部活欠席だって。この時期に来なくなるなんて、何かあったとしか思えないよ…」
「低音パートの子に訊いてみたけど、連絡しても既読スルー。教室に行ってみてものらりくらりかわされるーだって」
「………マジ?」
「なあ。俺バカだから間違ってるかもしんねえんだけどさ、・・・これって一大事だよな?」
「誰がどう見たってヤバイ案件だよ。間違ってねえよナックル」
「やったぜ」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ。あのユーフォ馬鹿のあすかが二日連続で部活に来ないなんて、この中にいるパーリー全員なら解かってる筈でしょ? ありえない事が起きてる。パートが違っても三年間ずっと同じ部活に居たんだから私達」
「香織。あすかは何か伝えてる?」
「…ううん。特になにも」
「香織でもかあ」
「………」
◆
「――少佐!今香織が発言したとこ!」
「ご苦労軍曹。君にはマックの称号を与える」
「え?やだ」
「で何て言ってた?」
「ううん、連絡は特に何も。だって!」
「前言撤回。まだ議論すら始まってないじゃないの!」
「でもでも!まだ部長が何も言ってないんだよ!」
「こういうケースは前にもあったよね?みるみる」
「どうするんですかあ? あの人がいないと。このままじゃ全国で金獲れなくなっちゃいますよ?」
「……信じよう」
・・・・・。
「部長たちを。そしてあすかを」
◆
「………」
「部長。何かない?」
「――皆。駅ビルコンサートには多分副部長は間に合わないと私は思います。なので私達だけで演奏する方向で練習していきましょう。演奏できる場は勿論全部本番だけど、全国大会は絶対に北宇治全員で演奏するように私はこれから動いていこうと思ってます。何か意見はありますか?」
「……」
「………」
「? どうかした?皆」
「ううん。何でもない」
「異議なし。部長」
「でも動いていくって具体的には?」
「あすかを連れ戻すだけだけど?」
「連れ戻すって・・・」
「絶対に、連れ戻す。私達の仲間を。何か問題?」
「――問題なしです」
「了解。部長」
「その言葉が聞きたかった。むしろ」
「では駅ビルコンサートについてですが――――」
必ず皆で全国へ。北宇治高校吹奏楽部部員の思いは一つだった。