―――立ち姿とマウスピースのリガチャーと、リードの位置をみて実力を看破する。
「聴いて下さい」
嫌でも聴こえてきたその音色は幼すぎて、稚拙に過ぎた。
これが私と言っている。奏でている。ただそれだけのうるさい音色。全国大会出場の吹奏楽部員の物だとは思えない、まるでゴミの吹き溜まりのような音だった。
――何度も見てきた。
それで?それが一体どうした?と言ってほしいのだろう。
それとも後は腐るだけの生物(ナマモノ)の多様性でも示しているのだろう。
それがこの先何の役に立つ?心底くだらない。
――何度も聴いてきた。
私の音楽の全ては今ここに。そう定めているのだろう。
しかしそれは続くか?これからも。今やってやったとして学生の時分が終わった後には一体何が残る?なんにも残らない。終わったものは続かない。
―――だからこそこの奏者は止まらない。
ここで立ち去っても力づくでも、この音色は止まらない。騒音・迷惑なんていう言葉を脳から無くして奏で続けるだけ。
今だけが永遠。時間が終わるまでそれだけだと示している。信じている。
何故か。
「――見つけたから」
それでいいのか?と訊かれれば、いいと答えられる何かを。だからガキなんだと、言い返される何かを。
「肺活量だけは褒めてあげるわ」
今がこの子の全盛期。
であれば集中している人間を邪魔する必要もないので、音を立てずに私はその場で踵を返した。傷み腐るだけの音など、これ以上聴くだけ時間の無駄だ。
一歩一歩踏みしめて歩く度に楽器の音色のボルテージが上がる。
止まらない。振り返らずに道を進んでいるというのに、時よりこちらの手を引いてきて、こっちを見てほしいと言ってくる。どうだ、と。やり遂げてみせるから、と。気持ちの悪い事この上ない。振り払っても振り払っても何処までも付いてきて離れようとしない。本当に。
―――心底。
「―――、?」
何かの異音と同時にクラリネットの音色がついに止んだ。
ハッとして後ろを振り返ると、そこには子供が倒れていた。楽器と腕を庇った形で。
「…何をやってるんだか」
いつの間にか止めていた足を、過呼吸でぶっ倒れたガキの所まで運ぶ。
見下ろして、膝を折り、気道を確保させる。幸いにも呼吸は安定になりつつある。そのまま近くのベンチまで運んで、楽な寝姿をとらせた。
「過呼吸で倒れる前に自分で律しないと駄目でしょうに。馬鹿なの?貴女」
返事はない。しかしこのまま安静にしていればすぐに目覚めるだろう。
―――何度も味わってきた。何度も倒れては立ち上がってきた。この先にこそ求めるものがあるのだと信じた。その結果が、
「馬鹿よね、貴女」
背中をさする。かつて、自分がそうされたように。
『ずっと応援しているよ。明美』
『…ありがとう』
ふと込み上げてくる、一つの会話。今思えば、それがアイツと会って話した最後の会話だった。
◆
居残りで練習している生徒たちの奏でる音色をBGMにして、校舎を出ると陽はもう陰ろうとしていた。
外に出ても聴こえ続ける音色は綺麗で華麗な十人十色。その音は皆上手く、塩梅よく、何より力に満ちている。あの頃の自分のように。
などという思考を今も持てる程若輩ではないけれど、不思議と今日は自然に笑みが浮かんだ。
「松本先生。さようなら」
「ああ、さようなら。充分気を付けてな」
『美知恵。私、音大に進む事になったよ』
――眼と眼が合うだけで解かる確かな事が当時の私には有った。
コイツは絶対に大丈夫だと。どんな道を選び進んでも、きっとコイツは全うできるという確信が根拠も無くあの頃には。
『あっそ。よかったじゃないか』
『…激励の言葉はくれないの?』
『今更要る?そんな只の言葉』
『要る』
『明美なら大丈夫よ』
いつの間にか再生される自分勝手な郷愁という名の感傷。夕暮れは、懐かしむ私の足を急かせていた。
『ご無沙汰。最近音大はどう?』
『え?……どうって?』
『? 久々に会ったのに元気ないな。明美のクラ、また聴いてみたいんだけど?』
『………』
『? どうしたの?』
『実は、さ』
・・・・・。
『…気になる人が出来た』
『へ~、どんな人?』
『ユーフォが凄くてさ。なんか…気になっちゃって』
『今までずっとこっち何の脈もなかった明美に春が来たかあ~。なんだかワクワクする』
『ワクワクって。何でまたアンタが?』
『………』
お前は私にとって特別だから。我が事のように嬉しかったから。そう言えればよかった。あの時も、そして今も。道草が、無言で私の足を撫でていた。
『ずっと応援しているよ。明美』
『…ありがとう』
「………ここは変わらないな」
十年以上経っても変わらないここには、今も私に初心を忘れさせないでいてくれる景色がある。北宇治高校に赴任した日に見つけた、川が見える小高い眺めの良い場所。でもそれは過去を思い返すという事でもあり、言ってしまえば不毛でもあった。
「……老けていたな。あいつ」
―――互いに会って話したあの日から、私達は忙しい日々が続いた。
連絡は日に日に少なくなり、ついには途絶え、気付けば私は大学を卒業し社会人になっていた。
右も左も分からない社会の厳しさという名の現実、社会人同士のやり取りという名のルーチンワークとアドリブ。忘れてました等と言ってはならない立場、生徒達との接し方、一つ一つ覚えていく難しさ、そして楽しさは私の精神を子供から大人に移ろわせた。 その証拠に昔の自分が、もう遠く赤の他人に見えた。
「…お互い様か」
二十年以上前のあの頃と比べ、見る影もないあいつの表情。鋭い瞳。背筋。大人になってからの再会は劇的な物だった。どれ一つとってみても、幼馴染はもう別人になっていた。
「………なのに何故わかったのだろうな」
緩やかに、しかしずっと流れ続ける川を眺める。時々流れに逆らい足を止めてみる。声にならない声が聴こえてくる。すると何処からか、クラリネットの音が響いてきた。
「? この音は――帆高か」
今までのそれとは幾分違う確かな音色。こんな時間に生徒が一人でいると思うと気が気でなかったので、私は足早に音の発生源へと歩き始めた。
…そこには。
「…明美か?」
「――妙な所で会うな。お前とは」
そこには寝ている生徒と、かつての幼馴染が居た。
◆
「――妙な所で会うな。お前とは」
「帆高をどうした」
「早合点するな。勝手に過呼吸で倒れただけだ」
「…そうか」
そう言って、幼馴染はベンチの端に座った。端と端。子供を挟んで。
「…老けたな」
「お前こそだろう」
「過呼吸でとはな。まるで昔のお前だ」
「そうだな」
「あの頃は皆輝いていた。先生にも恵まれ、友にも恵まれ、未来にも恵まれていた」
「嘘を言うな。あの中でお前はただ惰性で続けてただけだろう」
「そうだな。だがそのお陰で眼を離すとそこらでぶっ倒れてしまう誰かさんを、いつも介抱することが出来ていた」
「………」
・・・・・。
「明美。一つだけ答えろ」
「そんな暇はありません、北宇治高校の先生。娘が家で待っていますので失礼します」
「お前。クラリネットはどうした?」
「…………」
・・・・・。
「今はもう。吹いていないのか?」
「捨てた」
「―――は?」
「もう、捨てた」
「それは嘘だ」
眼が合うと、そこには懐かしい顔をした大人がいた。
「とっくの昔に捨てた。今頃はもう海の藻屑だ」
「お前がクラリネットを捨てるなんてありえるわけが無い。だってお前はずっと、」
―――まるで子供だ。
「ずっと、私の特別だったんだ」