ブーケトスの魔法   作:Pond e Ring

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二人で過ごした特別な休日。
あの日から二週間経ち、いよいよ一大行事が目前に迫ってきている──。





八束: Just Friends

 

 

 

 校舎の内と外を隔てるスチール扉の目の前、八幡はそこにある三段程度しかない混凝土(コンクリート)の階段の中段に、右側を一人分開けて座り込んでいた。テニスコートからはラケットの快音が届けられ、通路脇の雑草は、この時間になると足繁く通ってくる海風に身を任せて、ゆらゆらと揺れている。そのような穏やかな風も、足音を忍ばせて近づいていくる季節のためか、手の甲にあたると少しだけ肌寒く感じた。

 

 ここのところは、この昼休みの刻限は文化祭準備にあたっていたが、今日は珍しく休暇であった。

 だから八幡は久しぶりにこの場所にいた。

 彼は別段何もしていなかった。いつもならば、片手にパンやらを持って頬張っているのに、今日の彼の両手はすっからかんであった。

 それは、決して断食をしているからという訳ではない。また手持ち銭が底を尽きたからという訳でもなかった。

 

 間もなくして、後ろのスチール扉の戸が、開けられる。そちらに誘われるかのように風が八幡の顔に吹き付けて、つられるように後ろを振り返った。

 そこにいるのは、平塚静だった。一顧傾城(けいせい)の美女とはまさにこの事であり、その(たお)やかであって、凛とした(たたず)まいが(あまね)く人々を魅了することであるのは想像に難くない。何を隠そう八幡もその一人であった。

 黒色のブレザーは、衣替えの時期をいよいよ実感させる。それによって、その透き通るほど美しい素肌は隠されていて、名残惜しさに駆られつつも、隔絶することによる秘匿性がより美しいものであることに拍車を掛けているように思われた。

 一方で、平塚のスカート丈は夏服であった一学期に増して短くなっているように八幡に思えた。そのため、僅かに海風に(なび)いただけでもうっすら見えてしまうようになった影を落とした肌色は凄まじく煽情(せんじょう)的であり、背徳感からすぐに前を向いた。

 そして、いつもの場所──八幡と同じ段の右隣に平塚は腰を下ろした。

 横を向くと両手とも空手(からて)の八幡とは対照的に、平塚の掌の上に緑色のバンダナと桃色のバンダナで包まれた何かが乗せられているのが見えた。

 

「え、何それ。てっきり、パンかと思ったんだが」

 

 今日、平塚に、とっておきのものを持ってくるから購買でパンは買わなくていい、と言われていたのだ。

 しかし、いかにも人の手に作られたようなその包みの風体を見て、八幡はいくら平塚の持ってきたものと言えども勘繰らざるを得なかった。

 

「いや、その、今日はちょっと、君に食べて欲しいものがあってだな……」

「えっ、何を?」

「とりあえず、これを開けてみてくれっ……!」

 

 平塚は二つのうちの一つ──緑色のバンダナの方を、声を上擦らせながら八幡に手渡した。

 受け取ったそれは見た目よりも少し重く、その布越しにプラスチック特有の抵抗もなくするりと滑る感じがした。だが、パックなどと違って、固いのだ。そして、想像したよりも(かさ)があるのであった。

 その手触りから正体を推察していると、平塚が急かしてくるので、丁寧に結ばれた結び目を解くいた。すると花開くように布が四方八方にほろりとはだけて、そこにあったのは──。

 

「え、何これ。弁当ってこと……?」

 

 それは、二段弁当だったのである。手作り料理を作る時に用いるごく一般的な弁当箱の見た目そのままである。

 そして八幡の問いかけに対して、平塚は慌て気味に何度か頷く。

 

「そっ、その……、お弁当作ってみたんだ……」

「……何で、急に」

「いいじゃないか。練習だ、練習!」

「練習……? ますます訳が分からくなってきたが」

「練習っていうのは、えっと……」

 

 平塚は目を散らつかせた後、短くなったせいか捲れたことでちらりと露見している程よく引き締まった(もも)の付け根あたりに視線を落とし始めて、季節外れの蚊の鳴くような声で、

 

「……文化祭で君と二人で回る時、折角だからお弁当作ってこようと思っていてな」

 

 言い終えると周りの木々の葉のように、絹糸(けんし)じみた肌理(きめ)細やかな頬がだんだんと染まっていく一部始終を見て、八幡はまた鏡面に写った自分自身を見ているような気になった。

 

「──っ、なっ、なるほどな。そうなら、前もってそう言ってくれればいいんだが」

「だって、それは……、恥ずかしいじゃないか……」

 

 平塚はその頬に浮かんだ含羞(がんしゅう)の色を隠すようにぷいと顔を逸らしたものの、結局、首の細い筋にまで、その色が浮かんでいたのだから、徒労であったと言えた。

 更に、今、恥ずかしいことになっているのではは元も子もないような気はしたのであるが、当然八幡にとって悪い気分など殊更なかった。

 むしろ、平塚が手作りの弁当を作ってくれたうえに、二人で回ると約束した文化祭に向けて準備してくれていることに、避けようのない面映(おもは)ゆさを感じる一方、男心が揺さぶられないはずがなかった。

 

 八幡は、より一層丁寧に、壊れ物を扱うように、その弁当箱の蓋を開けてみる。まず一段目には日の丸の位置に梅干しが置かれたつややかに光る白飯があった。そして、それを横に置いて、もうひとつの方のゴムのような弾力のある白い蓋も開けてみると、主菜、副菜が彩り鮮やかに並べられていた。

 見栄えに関しては、贔屓(ひいき)目抜きにして完成度が高いものであったが、もう一つ、八幡にとって驚きがあった。

 

「おぉ、俺の好物ばっかだ……」

「そうか、それなら良かった。……じゃあ、早速食べてみてくれないか」

「あぁ、じゃあいただきます」

 

 まずは一口サイズのハンバーグを、一緒にあった割り箸でつまんで、口に入れる。

 そして、咀嚼(そしゃく)する。

 

「ど、どうだろうか……?」

 

 まさしく平塚は固唾を飲んでいる様相で、頬張る八幡の顔色をじぃっと(うかが)っていた。

 

「うん、めちゃくちゃ美味しい」

 

 普通に美味しかった。

 美食家などではないから、塩っけが濃いだとか、風味がどうとかの意見具申はできないし、そもそも彼らがふんぞり返って高慢ちきにご高説賜る一糸(いっし)一毫(いちごう)の差分など舌が適度に肥えただけの八幡には分からなかった。

 彼にとっては、ただ純粋に好みに合っていて、非常に美味いと感じたこの料理は、非の打ち所がない完璧な料理なのであった。彼の中の三ツ星だと礼賛(らいさん)する小町の料理ともどちらが優れていると尋ねられても、甲乙つけがたいほどの完成度であった。

 

 そのような八幡の反応を見た平塚は強ばらせていた頬をぱあっと弛緩(しかん)させると、腕の前で小さくガッツポーズをしていた。

 

「ほんとかっ……?!」

「あぁ、このハンバーグめちゃくちゃ美味しいわ。俺が好きな味だ。まぁ、でも、そんな驚くことでもねぇだろ。平塚そもそも料理上手いんだろ?」

「いや、でも……、比企谷に美味しいって言ってもらうのは凄く嬉しくて……」

 

 そう言って、肩の力が抜けたように微笑まれてしまっては、倍美味しく、そして倍愛おしく感じてしまうのが男の(さが)であった。こうも容易く胃袋まで掴まれてしまっては、いよいよ完全に身体の芯から先々まで平塚の(とりこ)になってしまうことは明らかであった。

 

「よしっ、じゃあ、私もっ!」

 

 平塚は、満足した様子で、もう一つのピンクのバンダナの包みを開いた。それは八幡に渡したものと中身は同じである弁当であり、「頂きますっ!」と元気よく言って、食べ始めた。良く言うように同じ釜の飯を食えば、自然と話は盛り上がるものであった。

 

「──そういや最近、気が緩んじまってるのか分かんねぇけど、よく消しゴム無くすんだよなぁ。ノートとかも授業中見当たんねぇなあと思ったら放課後すぐに見つかったり。歳のせいでもあんのかな」

 

 動かしていた箸先を一旦止めて八幡が自分自身の健忘(けんぼう)っぷりを何気なく呟く。きっと、これは気が浮かれているせいだと、自覚はしていたのではあるが。

 すると、やけに年に関する話題は手厳しい態度を取りがちな平塚が、案の定噛み付いてきたのであった。

 

「何が、高校生風情で歳だと言ってるんだ。歳をとるともっと大変なんだぞ。腰とか目とか肩とか、ほんと辛いんだ」

「おいおい、やけに詳しいじゃねぇか」

「あぁ、これは親からの──」

「──受け売りか?」

 

 八幡は、したり顔で、平塚に言って見せた。

 平塚は一瞬戸惑っていたが、すぐに目を細める。

 

「──ふふっ、あぁ、大正解だっ!」

 

 その後も、二人でこのおかずが美味しいとか、平塚がこれは苦労したんだとか、色々言い合ったりして、笑って、(くつろ)げる。そんな何気ないささやかな幸せが、何の変哲もないこの場所で、青々とどこまでも澄んだ秋の晴れの日の午後に、確かにあったのであった。

 今ここに断言しよう。この場所は、文字通り最高の場所(ベスト・プレイス)であったのだった。

 

 ──その日の放課後だった。生徒会へと続く廊下の途中で、平塚が一人で居るのが見えた。どうやら携帯電話に夢中になっているようで、少し猫背になってかぶりつくように画面を見ていた。

 少し驚かせてやろうと柄にもなく思って、横に並んだ。だが、平塚はあまりにも夢中で気づく様子もなく、その横顔はやけに喜色に(まみ)れているように見えた。

 

「何してんだ? そんなまじまじと携帯見つめて」

「ひっ、ひっ、比企谷っ……?!」

 

 腰を抜かしたように教室の外壁に手をついて、大きな声で驚いた平塚は胸元に携帯電話の画面を押し付けて、八幡から隠すようにした。

 

「いやっ、これは、見ないでくれっ……!」

「あっ、いや、すまん。別に全然見てねぇから」

「なら、いいんだ。じゃあ、また後でっ……!」

 

 平塚は、風紀を守るべき生徒会役員とは思えない速さで廊下を駆けていく。不思議には思いつつも、八幡は追いかけることは無かった。

 駆け抜けた平塚を追う風で(なび)いた掲示板に貼られたポスターが目に入る。そこには総武高校文化祭の日付と、スローガンがでかでかと誇張気味に書いてあった。文化祭の開催日は二週間後の日曜日である。

 

「……今日の帰り、買いに行くか」

 

 そう独り()ちて、八幡は仕事場へと向かった。今日の放課後の仕事は、本日届けられたキャンプファイヤー用の物品を校庭の脇にある倉庫にしまうことであった。そこまで手間と時間はかからないらしいということだけは平塚から事前に聞いていた。

 八幡は窓の隙間から流れ込む秋風に乗せるように自然と鼻歌を歌って、廊下を歩いていた。

 

 

 ──それから週を(また)いで、ある日の放課後であった。

 その日は、先日の秋晴れがまるで虚構であったと思わせるほどの秋雨ということだった。校舎の中にいても、その雨音は鮮明に聞こえてくる。ふと廊下から窓の外を眺めると、息苦しくなるほど厚い雲の黒い天井から雨が白いカーテンのようになって、同じ色の屋根が瓦のように敷き詰めて並んだ住宅街に降り注いでいたのだった。

 

 自転車通学一本の八幡も今日は詮方(せんかた)なく、バスを足替わりにして登校した。雨中のバスは、あの雨の日の特有の匂いと、バスの匂い──悪く言えばエアーコンディショナーを久しぶりに稼働させた時に感じるような(かび)の臭いが調合されて、見事に彼が好まない臭いに満ちていた。そのうえ、肩が濡れたクタクタのスーツ姿の社会人が、顔に疲労困憊(こんぱい)の四文字を見事に表現して、吊革に掴まっているのであった。しかも一人ではなく、数人も、(すし)詰め状態で。そんな場所に居合わせたら、ただでさえ雨の日で鬱蒼(うっそう)としているのに、感化されてより気分が落ちて、滅入ってしまう。

 だから、八幡は基本多少の雨であれば、雨合羽を羽織って自転車で行くことに(こだわ)っていたが、本日の雨はそんな彼をも諦めさせるような、目の前の視界を覆うような大雨であった。

 ただ過去と決定的に違うのは、この雨の中でも学校に向かおうとする気概が八幡に確かにあったことであった。その訳は、言うまでもなく平塚がいるからであった。

 バスに揺られながら、全身を赤く染めていた大通りの脇で連なった街路樹の公孫樹(イチョウ)がこの大雨を受けるのを見て頭を(よぎ)ったのは、この打ち付けるような大雨は、あのベストプレイスに根を下ろしている生命にとって恵みとなるのか、それとも災いとなるのかということだった。それは想像し難く、はてさて過ぎてみなければ分からないものであった。

 

 今日も今日とて昼と放課後の時間は、文化祭の手伝いであった。

 八幡は濃紺の愛用するスクールバッグを肩に()げて、いつも通り平塚の手伝いをするために放課後に生徒会室に向かっている途中である。

 生徒会室のすぐ手前の階段を上っている時、一つ上の階の踊り場から、何やら物物しい声が聞こえてきたのだった。

 初めその声を聞いては分からなかったが、八幡がその様子をちらりと階下から覗いて見えたのは、すらりと伸びた腕足で八頭身は軽くあり、俳優のように小顔で高い鼻梁(びりょう)が際立つ二枚目の()()()()こと清川(きよかわ)(たくみ)の物乞い顔であった。

 今年の体育祭の全員リレーの際の黄色い声援からも分かるように、いわゆるクラスの人気者であり、普段は冷静沈着な振る舞いをしていて、文武に秀でた眉目秀麗(びもくしゅうれい)さ、更に英国紳士のような気品と、性格から女子から好かれていることも多かった。

 そのような男が、このような我を失ったような声を出し、普段は引き締まり、清廉さを漂わせる顔を今のように崩すとは思えず、一度は耳を疑い、目を擦った。

 しかし、論より証拠。その姿はやはりクラスで何度も見たのだから、見間違うはずはなかった。

 

 八幡が生徒会室に最短距離で行くためには、この階段を上らなければならないのである。しかし、友情関係の軋轢(あつれき)が生じたのか、はたまた痴話(ちわ)喧嘩なのか何かは分からぬが、取り敢えず目睫(もくしょう)の間の面倒事に巻き込まれないためには急がば回れ。

 我関せずと見て見ぬふりをして迂回しようとした時であった。

 

「だから、平塚っ……!」

 

 ぴたりと歩みが止まる。

 清川が呼んでいたのは確かに、平塚の名前であった。

 それはまるで爆撃機に襲われたかのような衝撃で、最近は鳴りを潜めていた欲望から生まれた()()()()()がとどろに鳴り響く警報とともに急に膨れ上がってきていた。そして、八幡は咄嗟(とっさ)に階下の影になる(てすり)の壁に(かが)んで身を(ひそ)めながらそば耳を立てていた。

 

 

「俺と、付き合おうよ……。この通りだからさ」

 

 

 

 息が詰まった。瞬きが止んだ。心臓が止まった。

 これは、まさしく今そこにいるであろう平塚に対する告白だったのだ。

 それに、間違いなく二人はお似合いと世間で評されるものであった──。

 

「ごめん、清川。何度も何度も申し訳ないが、私は君と付き合うことはできないんだ」

 

 その瞬間──聞き慣れた心地よい声が聞こえた瞬間、八幡は全てを吐き出すように深い深いため息をついた。

 

「何でかな。そんな俺じゃだめかな? いつも仲良く話してくれてるじゃん」

 

 (すが)り付くように聞こえる声は、普段からは考えられないほど弱々しくて情けなかった。清川のことが好きな女子が見れば、卒倒してしまいそうなほどに。

 

「いやっ……だから、君とは……」

「別に好きな人とかもいないんでしょ? だったらお試しでもいいから付き合ってよ」

 

 その時だった。

 

「私には、他に好きな人がいるんだっ──!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっ……本当に……?」

「あっ、あぁ……」

 

 八幡の心臓の鼓動は、鞭打たれたように早くなって、今にもはち切れそうなほどに脈拍が大きくなった。

 

「それって、もしかして……、()()()ってこと?」

 

 更に予想だにしなかった清川の一言。

 八幡の鼓動は過去に類を見ないほど最高潮に達している。体温が著しく上がり、血は特急列車の如く全身を駆け巡る。

 

 ──今思えばここで引き返せばよかったのかもしれなかった。しかし、八幡の中にあったやけに確信めいてしまった希望、そして自信の存在が、彼をその場に留まらせてしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──違う。比企谷はただの友だちだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭蓋の先から足の爪先まですべての身体の力がすとんと抜け落ちるような感覚があった。

 

 そのあまりの呆気なさに、最初は何が起きたのか分からなかった。

 

 心臓は不気味なほどに早いままでも、(ほとばし)るほどの熱は、高鳴りはすっかり消え去っていた。

 

「じゃあ、私は仕事があるから──」

 

 階段を上がっていく足音が聞こえる。酷く落ち着いた足取りであった。

 八幡はまるで抜け殻のようになっていた。全身に力が入らない。しかし、一刻も早くこの場から離れなければいけない気がした。そうでなければ、比企谷八幡という男が決定的に壊れてしまうと本能的に分かったからだった。

 だが階段の(てすり)を掴もうとする手は突然小刻みに震えはじめ、立ち上がろうにも足も(もつ)れて上手く動かない。

 そして真っ暗になるのではなくて、急にじんわりと、目の前の世界がじんわりと(にじ)み始め、すべてのものが、無際限に裾野(すその)を広げていくと思われた世界が、瞬く間に白くなって、無に帰っていくようだった。

 無に帰るということは、すべてが消えて終わるということであった。

 やがて頬を伝うように何かが一筋垂れたのを皮切りに、とめどなく溢れ始めた。

 

 その時、ようやく気が付いた。

 この一世一代の恋は実らないことに。

 

 ──八幡は走って、階段を駆け下りた。何段も飛ばして、とにかく、走った。動かなかった手も足も勝手に動いた。

 下駄箱に向かって、上履きは脱がず、土足を手に持って、嘲笑うような非情な大雨の中、傘もささずに、早くこの学校の中から逃げ出すように、走って。

 通行人からは白い目で見られていたのだろうが、必死で走って。走って。走って──。

 

 赤信号が男の滑稽(こっけい)な姿を見て嘲笑う。

 しかし、彼にはもうそれすら見えなかった。

 男を怒鳴りつけるような大きなクラクションが鳴った。

 しかし、彼にはもうそれすら届かなかった。

 

 雨の陰鬱な匂いに(ほの)かな金木犀(きんもくせい)の香りは掻き消されて、柑子(こうじ)色の花弁(はなびら)の行方は(よう)として知れない。

 雨に打たれた沿道の秋桜(コスモス)は、力なくかぶりを垂れている。その生命の象徴であり、輝く月にも見えた中央の山吹(やまぶき)色はその花弁に覆われて、姿をすっかり隠していた。

 

 だがこの男は、それにすらも目をくれず、ただひたすらに、走って、走って、どこまでも、走って。

 早く、この世界から、逃げた──。

 

 

 ──家に着いた。全身はずっしりと重くなっている。八幡の足元には、尋常ではない量の雫が、ズボンの裾から(したた)り落ちていて、三和土(たたき)には水たまりを作っていた。髪はあの癖毛がぺたりとくっついて無くなるほど、濡れていた。

 三和土には一つも靴がなかった。幸い小町は、まだ帰っていなかったようだった。今日は塾があり、夜遅くまで帰ってこないのである。

 そして今、小町の存在が不意に浮かび上がった時であった。八幡の中には、すっぽり抜けた穴から噴き出てくるように小町を心配させてはいけないという至上命題が生まれ、それが思考の中核に据えられ、てきぱきと証拠を消すように動き始めた。

 それは別の何かを考えていないと、動いていないと、酷く無情で残酷な現実に(むしば)まれ、壊れてしまいそうだからでもあった。

 八幡はまず、急いで着替えた。雨粒が染み込んだ白い襟シャツは洗濯カゴに入れた。色が変わっているように見えるブレザーは必死にドライヤーを使って乾かして、自室の部屋の窓に吊るして干した。

 知らぬ間に泥濘(ぬかるみ)に足を踏み入れたことで、土がこべりついた上履きは、汚れを(こす)り落とすためのブラシを使って、一心不乱に、まるで靴磨きが生業(なりわい)であるかのように、何度も何度も磨いた。最早、もとの白色に戻った後も、磨き続けていた。

 風呂場には入った。ただ、シャワーを長らく浴びたが、風呂は沸かさずにシャワーだけで上がった。フローリングの床は狭い溝に垂れ落ちた雫が入り込んでいて、それを雑巾で執拗に拭いたりしていた。

 しかし、それも当然程なくして終わった。

 何もすることが無くなった八幡は、逃げるように自室のドアを開き、誘われるように布団へと潜った。

 

 ──潜って、その柔らかさに触れた瞬間。どこからともなくどっと涙が溢れた。

 有り得ないほど溢れ出てきた。

 最初は嗚咽(おえつ)だった。噛み殺そうとしても、漏れ出てきた。門番はもう、いなくなっていたのだった。

 だから次第に、声を引くようになって、しまいにはしゃくり上げるように泣いた。

 過剰な程に優しい羽毛ぶとんの温もりが、途中から余計辛くなって、剥いで床へと投げ捨てた。

 

 一頻(ひとしき)り泣いた。いくら泣いても、胸のつかえはとれず、むしろ時間が経つ度に締め付けられた。枕元の白いカバーを見ると、ぐっちょりと濡れていた。

 鼻を(すす)りながら目尻を赤くして、睨みつけるように天井を見上げた。するとこんな天気であるから、もう夜かと思わせるほどいつもの白天井は、黒で濁っていた。

 そして、ずずっと、一人の影が(うごめ)く。

 影はやがて見覚えのある純白のタキシード姿になった。その顔も同じく乱雑に墨で塗られたようで、見えなかった。

 

 ただそれが、極めて()()()()()()()()()を浮かべているのだけは分かった。

 

「残念だったなぁ……!!」

 

「期待した結果がこれだ……!!」

 

「欲張りなお前が悪いんだよ……!!」

 

「全部、全部お前が悪いんだよぉ……!!」

 

「じゃあ、平塚は俺が───────」

 

 おもむろに枕を掴んで、目先の天井に向かって、思い切り投げつけた。

 ぶつかって、大きな音を鳴らして、枕は落ちてくる。

 八幡の顔を目掛けて落ちてくる。

 だが避けるつもりなど毛頭なかった。

 白いカバーは、だんだん目の前に近づいてきて、大きくなって、やがて黒になって、そして、すべてが消えた。

 

 

 

 

 

 ──八幡は翌日、普通に学校に登校していた。まるで、何事も無かったのかのように。

 しかし露骨に平塚を避けるようになっていた。

 休み時間と昼休みは誰よりも早く教室を出た。ずっとイヤフォンを付け続けた。

 ベストプレイスには出向かずトイレに(こも)った。そして、文化祭の準備を手伝うことは一切無かった。

 携帯電話もマナーモードに設定し、メールは一切を無視した。

 

 

 その二日後の放課後、八幡がいそいそと帰る支度をし、教室を出て、下駄箱に向かっていた時、最近の八幡の様子を(いぶか)しんだのか、先回りして通り道を塞ぐように平塚が声をかけてきたのだった。イヤフォンを耳に付けていたとて、無視できる状況ではない。

 八幡はイヤフォンを耳から外したものの、すぐさま目を遠く、窓の外の方へと逸らした。八幡の胸には釘を打ち込まれたようなずきりとした鋭い痛みがあった。

 目下(もっか)の空は不気味なほど青かったが、そのすぐ奥──東京湾が臨む方角には時化(しけ)を想起させるような暗澹(あんたん)とした雲翳(うんえい)が峰をなしていて、秋の空の表裏を見事に体現していた。(すこぶ)る心地よい秋晴れも陰鬱とした秋雨も、紛うことなき現実なのであった。

 

「……な、なぁ、比企谷。その……」

「すまん、今日も無理だ」

「え、まだ何も……」

「じゃあ、俺帰るから」

 

 八幡は不自然なほど極めて落ち着いた様子で、平塚に背を向けて、離れるように足早に、歩き出した。

 

「ま、待ってくれ……」

 

 その言葉が耳に入っても、足は止まらなかった。それどころか歩調は早まるばかりであった。

 

「ねぇ、比企谷、私のことを見てく──」

 

 肩を平塚に掴まれる。彼女の温もりが確かに伝わってきた。だからであった。掴まれたすぐ後、八幡は(わずら)わしいものを払い除けるようにその腕を振り払ってしまったのだった。

 

「ひき、が、や……?」

「……わりぃ、最近体調悪くてな。だから、もう当分手伝えそうにねぇわ。じゃあな」

「あっ……、ひき、が……」

 

 その言葉を最後に、もう平塚は八幡の後を追いかけてこなかった。

 遠ざかる身体的な距離が、直接心の距離に繋がっている。そして、遠回りの階段を下りて昇降口に着く。不意に後ろを振り返るが、当然、平塚の姿などあるはずがなかった。

 

 ただ、胸の刺痛(しつう)もすっかり消えていた。

 こうして、また、一つ、自分を嫌いになった。

 

 昇降口を出ると、湾上に(わだかま)っていたはずの黒雲がやれ(たの)しそうに、そして(さげす)むように、地上の八幡を真上から見下ろしていた。だから、彼は背筋を弧を描くように曲げて、いつもと変わらぬ地面にへとその腐りきった眼を向けて、歩き始めた。

 

 ──その日から平塚が八幡に話しかけてくることは無くなった。携帯電話に連絡を寄越すことも無くなった。こうして、また、高校二年生に進級する前の、()()()()()()()()()()が八幡の元に戻ってきた。

 

 休み時間はイヤフォンを付けて眠ったふりをして過ごした。

 音量は以前よりだいぶ上げていた。

 それだけではなく、イヤフォンをより耳の深く差し込むようになった。内耳(ないじ)の敏感なところに触れて軽く痛みが出るほど深く差し込むようになった。

 

 昼になれば足早に教室から出て、ベストプレイスに繰り出す。そこで当たり前だった位置──その混凝土の階段の中段の真ん中にどっぷりと腰を下ろした。

 そこで、独り黙々と購買で買った惣菜パンを口に摘んでいた。味は極めて普通であった。

 あれだけ嗜好(しこう)したMAXコーヒーも飲まなくなっていた。あの甘さが、今の彼には受け入れられなかったのだった。代わりに、慣れないブラックコーヒーを購入し、飲み終わったあとには、長編のピカレスク小説を持ち込み、その世界に逃げ込んで、次第にのめり込むようになった。

 

 風が強い──木枯らしが吹き荒れる日のことだった。本の(ページ)が意志を持って反抗してくるものだから、仕様がなく読むことは諦めて、短冊を模した単色の栞を本ののどに隙間なく収まるように挟んだ。

 その本を八幡の体が丁度風()けになるように置いて、ふと、周りを見る。あのひねもす続いた冷たい雨は、生命の終わりを告げる非情の雨だったようだ。

 今、追い討ちのように吹き(すさ)ぶ木枯らしの音が乾いて鳴る。その余りにも残酷で、平等な風が木々を撫でている。撫でると言っても柔らかく一入(ひとしお)の優しさがあるものではなく、鉄(やすり)で木皮を削っていくようであった。

 それを必死に受け止める身寄りのない残された葉が鳴らす音があり、その二つの音による和音がここにはあった。

 もちろん、その和音に生や希望はなく、ただ寂しく逃れようのない死の音であった。だが、その方がやけに近しい存在の気がして、憐憫(れんびん)と親近感が湧いた。傷を舐めあえる気がしたのだ。

 

 そして、放課後は道草食わず真っ直ぐに家に帰った。

 家に帰ると、何をするでもなく、部屋にこもった。食事はしっかりと摂った。勉強はいつもよりした。

 家では常に普通を装っていた。

 そしてまた、学校に行き、同じことを繰り返した。

 

 

 単調な生活の繰り返し。

 同じことを繰り返すだけ。その様子は、まるで、人間型の()()()()であった。

 ただ、皮肉なことに、お陰で悩みの種であった健忘はめっきり消えていた。

 

 

 代わり映えのないモノクロームの日常。

 

 

 もう彼に()は、戻ってこなかった。

 

 

 

 

 ──一週間程経ち昼食を独りで食べていた時、後ろのスチール扉が突然開いた。

 顔を鷲掴みにするような冷たい風が吹き付け、八幡は反射的に振り返る。

 しかし、そこには、見ず知らずの、おそらく校章から見るに、一年生の男子生徒が一本の棒のように突っ立っていた。彼は、後ろに振り返った八幡と目を合わせると身体を()()らせた。そして、何も言わず、不躾(ぶしつけ)を詫びるように一礼だけすると、そそくさと走り去っていった。

 傍から見れば些事(さじ)ではあるが、彼には大事であった。

 彩り鮮やかな想い出の残滓(ざんし)と似通った光景によって、走馬灯のように蘇ってくるようであった。しかし、必死に思い出すまいと首を振った。

 更に、同時に胸に刺されたような痛みがあった。

 その駆け足で離れていく後ろ姿が妙に目に焼き付き、次第にかけがえのないものを手放したような気になって、ひどく(さいな)まれた。

 しかし、後悔は先に立たずであるとは、この世の(ことわり)であるのだ──。

 

 

 

 ──次の日の放課後、依然として帰宅してからは自室の厚い羽毛布団の中で、八幡は無聊(ぶりょう)をかこっているだけだった。

 この頃、この時間は何も考えないようにすることを、一途に考えていた。そうすれば、時間が早く経って、体感的に早く眠りにつけられるように感じていたからだった。

 その時、一階の小町から呼び声がした。

 

 いつも通り、呼ばれて直ぐに下に行くと、あの日買って渡したミトンを付けたままの小町からプレートほどの大きさがある茶封筒に包まれた郵便物を受け取った。

 どうやら宛先が八幡らしく、それを受け取って、差出人を見れば、何が入っているのかはすぐに要領を得た。

 

「お兄ちゃん、何なのさ、それ。確か、長生(ちょうせい)村って、九十九里の方にある村だよね」

「秘密だ」

「ゔぇー、ケチー」

「お兄ちゃんにも秘密はあるんだ、堪忍しろ」

「まさか、()()()()ですかぁ……?!」

「……ちげぇよ。とにかく秘密だ」

「むぅ、教えてくれたっていいじゃん、お兄ちゃんのケチんぼっ……!」

 

 ぶうたれる小町を横目(よこめ)に、八幡は急いで階段を上った。そして、その郵便物は、日常生活において絶対に視界に入り込まないような場所にしまいこんだ。

 これは他でもない()()のためであった。

 

 しばらくして、また徒然(つれづれ)としてベッドの上でぬぼっと手足を伸ばしてだらけていると、小町がどうやら何度も呼びつけていたようで、催促するように部屋の扉を叩く音が室内に響いた。

 

「ねぇねぇ、お兄ちゃん聞いてる?」

「あぁ、わりいわりい。もう一度頼む」

「もう……。お菓子できたから、下に来てー」

「分かった。今行く」

 

 部屋の扉を開けると目の前には、小町が立っていて、彼女は八幡の顔を見上げて、目を見るのではなく、何かを探っているのか、顔の隅々を隈無く見ていた。

 

「ん、どうした小町、お兄ちゃんの顔に何かついてるか?」

「いや、別にそうじゃないけど……」

「なんだ、じゃあ、小町のお菓子頂くとするか。今日も楽しみだわ」

「ね、お兄ちゃん」

「今度はなんだ、小町?」

「何かあった?」

 

 今度は真っ直ぐ、腐り眼の瞳の奥の方まで見つめていた。それはまるで、そこに埋めた秘密を掘り起こしているようであった。しかし、今、自らの顔がとくに強ばっていたり、眉間(みけん)に皺を寄せるような力を入れていなかった。自然体を装っているはずなのであった。

 

 小町に、心配を負わせている。

 唯一の至上命題ですら遂行できないのか、とそんな自蔑(じべつ)の念が生まれながらも、しらを切って、お(とぼ)け顔を演じて見せた。

 

「ははっ、そう見えるか……? 別になんもねぇけど。それにそもそも何かあったら、真っ先に小町に報告してるわ」

「そっか……、まぁ、何でもいいから相談してね」

「あぁ、分かった」

 

 お菓子冷めちゃうから早く来て、と小町が先に階段を降りていった。八幡はそこで、頬を少し骨身に響く強さで平手で二回叩き、悩み事などない能天気を取り繕うために、飛び跳ねるような軽快な足音と、高らかな唄声までを口ずさんで階段を降りていった。

 

 

 ──文化祭の前日になった。あの日から彼此(かれこれ)二週間ほどが経過したが、(つい)ぞ、八幡の生活は変わることはなかった。

 ()()()()()起きて、()()()()()過ごして、()()()()()帰ってきて、()()()()()飯を食って、()()()()()寝床につくだけだった。

 

 延々と続くモノトーンの単調な生活。

 もう、あのような夢物語の中の彩色に近しい目映(まばゆ)い色は二度と戻ってこず、あの日々も遠い日の幻想へとなりゆくことをいよいよ確信していた。

 そして彼はまたあの誰も寄せ付けぬ厚い氷の壁の中に独り閉じ篭もり、今度は一生開くことはなくなるのであろう。

 ふと左手の小指を見る。この指には二人で出かけた日に交わした大切な約束があるはずだった。しかし、まもなくこれも反故になる。全てが終わる。

 そんな未来への諦観を頭の中で巡らせて、一人枕元に伏していた。

 

 こんこんと誰かが部屋の閉じかけた扉を叩く──。

 

 まもなくして扉を開けたのは小町だった。

 (いた)く真剣な面持ちで、八幡の部屋に入ってきたのだった。

 八幡は慌てて、うつ伏せから座る形に直って、いつものように(にわか)造りの()()()()()をして見せた。

 

「どうした、小町。こんな夜遅くに」

「聞きたいことがあって」

「おうなんだ、なんでも聞いてくれ。あっ、明日の文化祭のことか?」

 

 小町は首を横に振って、八幡が座っている横に腰を下ろす。そして、八幡の方を向いて、こう尋ねる。

 

「お兄ちゃん、何かあった?」

「いや、別になんもねぇよ。何かあったらまず小町に──」

 

 ()()()()()()に普通を装うとした時であった。

 

「嘘だぁ、小町には分かるよー。だって今、明らかに目が死んでるもん。腐ったなんかじゃなくて、死んでる」

「うっせぇ、周期でこういう時が来るの。死目(しめ)期なの」

 

 動揺せずに落ち着いて軽口を返したが、小町は笑う様子はなかった。

 

「誤魔化せてるつもりかもしれないけど、全然できてないよ。最近のお兄ちゃん、すごい不自然だし」

「……いや。そんなことは」

 

 口を真一文字に結んでいて、凛とした真剣な眼差しで、八幡の目を貫いていた。

 そして、小町は、核心に触れるようにその口を開けた。

 

「静さんのことでしょ」

「お前、適当なこと──」

「適当じゃないよ」

 

 きっぱりと小町は断言する。その(おごそ)かな強さに八幡は何も言い返せなかった。

 

「分かるよ、お兄ちゃん。小町、お兄ちゃんのことずーっと見てきたけど、そんな顔初めて見たもん。それに、色々無理してる。無理してるのを隠そうとして、無理してるように見えたよ。しかもここ一週間ぐらいは日増しに酷くなってる」

 

 どうやら最初からは鍍金(メッキ)は剥がれ落ちていたようである。小町の勘が鋭い以前の話であったようだ。十八番(おはこ)であるはずの三味線を弾くために並べる御託すらも今の八幡には思い浮かばなかった。

 

「……」

「最近のお兄ちゃん、おかしかったんだよね」

 

「あっ、もちろんいい意味でね!」と小町は少し茶化して言った。そして、小町は八幡の最近の様子を一つ一つなぞるようにつらつらと話し始めた。

 

「……あんだけ捻くれてたのに、かなり素直になったし、学校行くのも楽しそうだったし、今まで見た中で一番活き活きしてた。これっぽっちも関心がなかった身(だしな)みも気にし始めてたし、この前の相談事だってあるし、それにディスティニーにも映画にも二人で行ってるじゃん。それに、ドケチのお兄ちゃんが小町にミトンまで買ってくれたし」

 

 そして、小町は、こう結論づけた。

 

「それもこれも全部、静さんのおかげでしょ?」

 

 ──まさしくその通りであった。

 

「……だから、すごく辛いんだよね?」

 

 ──まさしくその通りであった。

 妹に物の見事に見透かされているさまに思わず自嘲気味た薄ら笑いが零れる。

 これはもう馬脚(ばきゃく)(あら)わにせざるを得ないようであった。

 

「ははっ、小町には完全にお見通しってわけか」

「お兄ちゃんの事だったら、静さんにはまだ負けてないからね! 生まれてからずっと隣にいて、お兄ちゃんのことずっと見てきたんだから!」

 

 えっへんと、小町は小ぶりな胸を手で二、三度軽く叩いて、鼻高々などやり顔を見せつけた。

 八幡にとっては、普段であれば少し苛立ちそうな小町のその態度も、意外なことに今は安堵でしか無かった。

 彼は独りではないのだ。何ものにも変え難い、絶対の繋がりを持った小町がいる。小町であれば初めから、心配するだけでなく、真摯に相談に応じてくれていたはずだ。そんなことを彼は失念していたのであった。

 小町を心配させまいと無理に動かしていた非常用電源をそっと切る。

 

「小町、聞いてくれるか……」

「うん、いいよ」

 

 八幡は一度目を閉じて、一息、吸った。

 

「──平塚のことは好きだ。多分……、いや本当にどうしようもねぇくらい好きだ」

「……うん、知ってる。それで何があったのさ」

「……最近平塚に好きな人がいるって聞いちまってな」

「静さんに……?」

 

 深深と頷くと、八幡は滔々(とうとう)と語り始めた。

 

「あぁ、平塚の口からしっかり聞いたんだ。誰のことかも分からねぇし、俺が平塚から直接聞いた訳じゃねぇが、あいつが他の同級生と会話してる時、聞き耳立ててたら聞こえちまったんだ」

「でも、それって冗談抜きでお兄ちゃんの事じゃ……」

「俺じゃないっていうのもはっきり聞いた。比企谷はただの友達だとさ。流石に比企谷を聞き間違えはしないわ、ははっ。盗み聞きした天罰かなこりゃ……」

「そんな……」

「そっからもう話せてねぇんだ。もう、怖くて仕方なくて……」

 

 八幡は、言葉に詰まりかけても、横にいる小町がしっかりと見つめてくれているのを感じて、滔々と話を続けた。

 

「──正直、自惚(うぬぼ)れてた。平塚と一緒にいる時間も増えて、あいつと喋る時間も増えて、色んな顔を見せてくれて。誕生日プレゼントだって買ってくれて……」

 

 (かんぬき)で閉じ込めていた平塚との思い出を一度引き摺り出すと、続けざまにずるずるとかけがえのない彼女との想い出が溢れ出てきた。

 そのどれもが光輝燦然(こうきさんぜん)としていて、今の彼には明るすぎたのであった。

 胸が締め付けられて、今にも愍然(びんぜん)な弱音を吐きそうであった。だが、何とか歯を食いしばって、一言、もう一言紡いでいく。

 

「……映画一緒に見に行った時は、また二人で出かけようって言ってくれたし、見たことないようなとびきり可愛い服を着てくれたりもしたんだ。しかもその日のためにわざわざ新調してくれたって。そしてこの間は弁当も作ったくれた」

「え、お弁当?」

「……あぁ、だから、恥ずかしい話だが、あいつも俺の事好きでいてくれてるんじゃねぇか、って思ってた」

「……うん」

「……でも、よく考えりゃ、それは勝手な俺の思い込みだ。こんなこと今まで無かったから、勝手に勘違いしてたが、()()なら有り得るものなんだろうな、きっと。だから、友達で満足できない欲深くて傲慢(ごうまん)な俺が悪いんだ。俺が……」

「お兄ちゃん……」

「俺はずっと平塚が隣にいて欲しいって思っちまった。でも、平塚は別にそんなこと思ってないんだって……」

 

 その歴然たる事実を改めて痛感して、余計に胸が苦しくなった。やはり釘を金槌で打ち込まれたような痛みがあり、思わず胸を手で抑えた。

 

「だからって、自分が苦しいからって、現実を思い知らされるのが怖いからって、俺は、平塚を遠ざけて、邪険な態度とって……。でも……本当はっ、俺はっ……」

「お兄ちゃん……」

 

 小町のその声は、包み込むような優しい声だった。

 

「……ごめんな、小町。こんな情けない姿見せて。自分のことで精一杯なはずなのにこんな余計な心配かけさせちまって」

「ううん、そんな事ない。そんな事ないよ」

「……俺、お、れ……………………」

 

 とうとう言葉が出なくなった。妹の前だと言うのに、心の奥底から今にも、溢れ出てしまいそうになっていた。

 

「お兄ちゃん頑張ったね。すっごい辛かったでしょ」

「お、れ、本当に……………………」

「うん、本当に頑張ったね」

 

 小町に、優しく頭を撫でられる。その小さくも、優しく慈愛に満ちた手で、ただ、優しく、そっと。

「頑張ったね」と母性を感じるような優しい声で何度も口ずさんで。

 

 八幡は、(たま)らずはらりはらりと涙を流した。

 

 

 

 ──(しばら)くして、八幡が落ち着いたあと「私が思ったこと、正直に言うね」と小町はまた真剣な様子で切り出した。

 

「これはさすがに、静さんが酷いと思う。勿論お兄ちゃんも大概だけど、それはいくら何でも思わせぶりすぎるもん。静さんから話を聞いてないから、決めつけることはできないけど、好きでもない男の子にそんな思わせぶりなことは普通絶対にしない。そんなことしたら最低だし、いくら静さんでも私は軽蔑する」

 

「──でも」と一息置いて、小町は続けた。

 

「でもね、お兄ちゃん。私、静さんがそんな事する人だとは思えないんだ。正直、静さんとほとんど会ったことはないけど、それでもそう思えたんだ、小町は。静さんが看病しに来た時あったでしょ? そもそも看病に来ること自体もそうだし、あの時、お兄ちゃんのことすごくすごく心配してたんだよ。それに、静さん、実は料理すごい下手だったの、お兄ちゃん知ってた?」

 

 小町の言葉に八幡は瞠目(どうもく)する。そのような心当たりはなく、むしろ贔屓目抜きにしても、確かに美味しかったあのお弁当が記憶にあったのだった。

 

「いや、全然。むしろ上手いんじゃねぇのか。実際貰った弁当はめちゃくちゃ美味かったし……」

「お兄ちゃんさ、静さんがお見舞いに来た後のリンゴの中に皮付きのやつあったの覚えてる?」

 

 八幡はよく覚えていた。あの雨の日、平塚が帰った直後に一番に手に取った一切れの林檎が、それだったからである。

 

「あぁ、覚えてるけど……。え、あれは小町が……」

「うぅん、違う違う。絶対私あんなことしないもん。静さんに()いてもらったほうがお兄ちゃん嬉しいかなって思って、それで、包丁渡したら、危なっかしいし表面に皮だらけになっちゃって。それで聞いたら、中学の家庭科で黒焦げの料理作っちゃったぐらい料理下手なんだって言ってた。その後私がほとんどやったけど、一個ぐらいは静さんが剥いた皮付きのやつ残してあげてもいいかなって」

「……そうだったのか」

「そんな静さんが、料理作ってくれるなんて、お兄ちゃんのために見えないところで相当努力したんだと思う。しかもお兄ちゃんに悟られないぐらい、ちゃんと美味しい料理を作って。だから一日とかじゃなくて、あの日から相当努力してたんだと思う。それに、多分なんだけど、やけにお兄ちゃんの好きなおかず入ってたと思うし味付けもお兄ちゃん好みだったでしょ?」

「確かに入ってた……」

「やっぱり。実はそれ小町が教えたの。この前たまたまスーパーで会ってさ。その時、お兄ちゃんの好きな料理とか味付けのこと伝えてたから。後、静さんからお兄ちゃんの話色々聞いたよ。その時の静さんの顔見てたんだ。本当に楽しそうな顔してたんだよ。小町もびっくりしちゃうぐらい。そんな人が、お兄ちゃんを(もてあそ)ぶようなことしないと思うんだ」

 

「だから、小町から提案があるの」と言う。

 

「お兄ちゃん、もう一回だけ静さんと、今度は面と向かって話してみようよ。私が明日文化祭に行って聞くこともできるけど、今回は絶対にお兄ちゃんから聞いた方がいいと思うんだ」

「でも……」

「怖いのは分かる。女の私でもお兄ちゃんの気持ち痛いほど分かる。でもこのままだったら、絶対にお兄ちゃん一生傷を残したまま、引き()っちゃうと思う。ここ最近のお兄ちゃんの様子を見てたら尚更」

 

 小町は、怖気付く八幡を励ますように彼の肩を二、三回叩いた。

 

「ちゃんと話そう。そして、ちゃんと納得するまで話し合おうよ。思い違いだったらラッキーじゃん! まぁ、もし、残念なことに静さんに他に好きな人がいるってなっちゃったら、文句沢山言っちゃっていいよ。お兄ちゃんがスッキリするまで死ぬほど文句言っていいよ。文句言うのは一級品でしょ? 今回は小町が特別に認めるからっ! まぁ、でも、静さんに他に好きな人がいるって多分諦められないでしょ。別にいいじゃん、好きになることに罪はないんだから」

 

「それにっ……!」と、今日一番の声を上げた。

 

「私は、私だけは絶対にお兄ちゃんの味方で、ぜーったいにそばに居てあげるから。お兄ちゃんがさっきみたいに泣いて帰ってきたら、小町の抱擁力で癒してあげるからさ! あっ、今の小町的にポイント超たっ───!!」

 

 小町の決め台詞(ぜりふ)を遮るように、八幡は小町のその一回りも二回りも小さく細い身体を抱き締めていた。

 恥ずかしさ以上に、その八幡を慈しんでくれる絶対的な温もりが愛おしくて、有難くて、大切なものに、感じられた。

 

「なっ、なに、急にっ、お兄ちゃん!? ま、ま、ま、ま、まさか、本命は私っ──!?」

「──小町本当に、本当にありがとう、勇気貰えた。俺、ダメな兄ちゃんだけど、精一杯頑張るからさ。応援しててくれ」

 

 すると、小町もすっと全てを受け入れるように、八幡の背中にその細くしなやかな腕を回した。

 

「……うん、頑張ってきてね。小町は、いつでもいつまでもずっとずうっとお兄ちゃんの妹だから」

 

 

 勉強机の上に置かれたアナログ時計も、机の抽斗(ひきだし)にしまっている滅多に付けない(くだん)の入学祝いのメタルバンドの腕時計も、たった今、人知れず長針は〇を、短針も〇を指していた。

 

 ──本日は文化祭当日午前〇時である。

 

 こうして小町に背中を何度も張り手されたからには、()()()()も、そして()()()()も腹を決めるしかないのであった。

 平塚と話し合って、どのように転んだとしても鮮やかに後腐れもない結末を迎えていこう、と八幡はそう誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









拙文を読んでいただきありがとうございます。
そして毎度素晴らしい感想と、沢山のお気に入り登録、高評価ありがとうございます。お気に入り登録に至っては2000を超えました。もう、言葉にならないぐらい嬉しいです。

長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。
その上今回の話は、辛いものがあるかもしれません。ですがこの先も読んでいただけたら幸いですね。

次回は文化祭編です。
なるべく早く投稿いたしますので、今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。


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