──背筋をやや曲げて、目を伏せて、廊下を
廊下をすれ違う人々は、総武高校の生徒だけではない。ヨチヨチと懸命に一歩ずつ歩く子供から、杖をついてのっそりと確かめるように一歩ずつ歩く老人までいて、かたや見慣れない制服に袖を通している中学生や、
そう本日は、総武高校文化祭開催日である。
「真ん中ぶち抜いてチョー気持ちいいっ……! ストラックアウトどうですかぁ〜」
「気合いだッ……! 気合いだッ……! 気合いだ──ッ……!! 気合いのこもった総武焼きそばァ〜!!」
「舞台の中心で、愛を叫ぶっ! どうか、体育館に見に来てねぇ〜」
それぞれの出し物に沿った衣装に身を包んだ総武高校の生徒たちは、お手製のプラカードを持って、その
教室の前の廊下の壁には目を引くような装飾が施され、扉の前に座る受付は
ただ、八幡はその様子には目もくれず
──人混みに当てられて参ってしまった彼は、教室がなく
もう
窓の外を見ると、憎いほどの快晴であった。
思い立ったように八幡は制服のポケットから携帯電話を取り出し、二つ折りのそれを開くと、メールを打ち込む画面であった。
宛先のメールアドレスの欄には、平塚静のそれが打ち込まれている。
しかし、本文は一切の空白であった。
──結局、八幡はまだ平塚と会って、話す事ができていない。小町に
この変え難く、歳を重ねるごとにアイデンティティの核となっていった性分については、生まれてきてからずっと連れ添ってきた自分自身が一番良く
だから、逃げ場を無くすために決意の証として、勉強机の
しかし取り出したまではいいものの、それを見てしまった時にまた釘を打たれたように胸が鋭く痛むのが怖くなって、直視することは叶わなかった。
ストラップは手で掴んだまま、制服のポケットの中に押し込むようにして、その紙袋は愛用する紺色のスクールバッグの内ポケットに突っ込んでしまった。
そして八幡は今日の朝から何度も携帯電話を開いて、平塚宛に電子メールを送ることも試みた。しかし、打ち込もうとすると指が震えて、次第に
──決意といっても中途半端であり、覚悟を決めることはできなかった。
いつまで経っても
人がいない廊下は思っていたよりもだだっ広く、まるで
別に恋文など書く必要は無い。奇を
しかし、それすらも八幡にはできなかった。
そのような中、ひっそり
そこには、文化祭の案内図を広げて、仲
特にその女子の方は八幡もよく知っていた。何かと平塚と引き合いに出され、可憐で、
その横の男の方は名前は知らないが、野球部由来と思われる坊主頭すらも
「ねぇ、劇が終わったらさ、ハニートースト食べよっ!」
「おう、ヒロがそうしたいなら、そうすっか」
「うんっ……! じゃあ、早く行こっ。劇始まっちゃう!」
そのような
その時二人は八幡の方を見向きもしなかった。だが、それは意図的に無視したのではないだろう。
きっと二人だけしかいない世界に入り込んでいるから八幡の姿なぞそもそも視界に入っていないのだ。
二匹の
付かず離れずの距離感でありながら、心は絶対的に近くにある。そのようなことが赤の他人の八幡にすらも分かるから、余計
窓の外は相変わらず嫌味たらしいほど輝く太陽であった。
その時、
「何か、食うか……」
八幡は結局、何も打ち込まず、その携帯電話を閉じて、ポケットにしまいこんで、二匹の鴛鴦から目を
そして、歩いていると次第に
これも彼の中途半端なりの決意のうちの一つなのであった。
──相変わらず人気の無いベストプレイスで独りで購買で買った弁当を食べていた。脇にはブラックコーヒーの缶を置いている。
丁度その時間に小町から連絡があり、文化祭には行かないということであった。結びの言葉には、このような
しかし、それを見てもやはり指は動かなかった──。
ベストプレイスを
次第に
そうこうしている間に文化祭も、刻々と終わりに近づき、昼間の盛況はすっかり消え、まるで
窓の外にいた
しかしそのような光景を目に
──突然、「あっ!」という大きな声が目の前でして、すこし顔を上げた。そこには一ヶ月ほど前に幕張で偶然会った平塚の同級生である二人の女子──
「ヒッキーくんじゃん、久しぶりーっ!」
「あ〜、ほんとだ〜。久し振り〜」
「どうも」
挨拶を交した後、大磯は手を額に添えて右に左にきょろきょろと見回す。
「あれ、静とは一緒にいないの?」
「いや、いないな」
「そっかぁ……。私たち用事あって今来たばっかだから、まだ会えてないんだよねー。なら折角だし……」
大磯は八幡へとぐいっと顔を近づけた。その瞳には興味の二文字がありありと描写されている。
「ヒッキー君、最近どうなのっ……?!」
「確かに私も気になる〜」
秦野も乗っかっり、二人の女子にぐいと身体を寄せられ、
「どうって」
「もちろん静とのことに決まってんじゃん!」
「それは……、えぇと……、その……」
奥歯に物が挟まったような八幡の口振りに、即座に女の勘が働いたようで、大磯はその
「……ねぇ、静と何かあった? まさか喧嘩とか」
「まぁ、喧嘩っていう訳では無いんだが、ちょっと話しづらくてな……」
「ふぅーん、なるほどね」
「で、その状況っていつぐらいからなの〜?」
「……かれこれ二週間は話してねぇな」
「「二週間……!?」」
想像以上に長かったのだろうか、二人は口を揃えて驚嘆の声を上げた。
「それは結構長いね〜……」
「まぁ、そうだろうな」
すると、大磯は「突然だけどさ」と声を上げた。
「ヒッキー君は、静のことどう思ってるの?」
「平塚のこと……」
「私としては静って、人当たりも良くて、自信にも満ち溢れてて、皆を引っ張るリーダー的存在で、おまけにえらい美人で、本当に何でもできる完璧超人だと思ってるんだ。ヒッキー君もそう思うでしょ?」
大磯に同意を求められたが、八幡は顎を引くことができなかった。
確かに高校一年生の時の彼であればパブロフの犬のように頷いていたであろう。平塚静を初めて見た時は、関わることの無い、彼とは一から十まで何もかも違う完璧な人間だと八幡は感じ、勝手に敵意を覚え、敬遠していた。
だが、高校二年生に上がって、平塚と関わるようになった彼は、その彼が彼女に対して
平塚静は、断じて完璧などでは無かった。
人並みに悩む少女であった。
自信が無い少女でもあった。
守りたくなるような弱さもある少女であった。
だから八幡は、
「平塚は完璧な超人ではない、と思う」
「さすがヒッキー君だ。やっぱり君はそう答えるんだね」
その答えを聞いて大磯は大層満足した様子ではにかんだ。しかし、一瞬、それは作り笑いのようにも見えた。
「静は、完璧じゃない。そんな当たり前のことに、私、中学の時に気づけなかったんだ」
「私もそうだな〜」
「今思えば、あの子一人で抱え込むような子だった。何でもできちゃうから基本は困らないんだけど、一回だけ、中学で生徒会長やってた時、一人で何でも
「それに
大磯は深く頷いた。
「多分、私が想像する以上に静ってずっと不器用だし臆病だったんだなって今になって思う。でも、そんな静が急に変わろうとし始めたの。
私は興味無いからいいの一点張りだったお
「そうだね〜、体育祭の時と言い、幕張の時と言いあんなキラッキラな顔見せられたらね〜」
「あんな、本当に心の底から楽しそうに笑ってる静見たこと無かったからさ。幕張の時ちょっかいかけたのは半分それのせい」
一瞬、大磯が切なさが詰まった
「──でもあの時、静に踏み込んで変えられるのは君しかいないんだろうなぁ、って思い知らされちゃったからなぁ」
「──だから、ヒッキー君」と大磯は、八幡の方へと見つめ直していた。出逢い頭で見せたものは違う
「静が悩んで、抱え込んでるのに気付いたら、ヒッキー君が手を差し伸べて、そして引っ張ってあげて欲しい」
「俺が手を差し伸べて、引っ張る……」
「うん、ヒッキー君にして欲しいんだ。何で急にこんな話したのかって言うと、私は静が今凄い一人で悩んでると思うからなんだ」
「私もそう思うな〜。二週間も、ってことはね〜。だから比企谷君がずるずるって静ちゃんのこと引っ張ってあげてね」
「あははっ、何かそれじゃ逆に足引っ張てるみたいじゃん! まぁ、とにかく何で話さなくなっちゃったとかは私たちが深く首突っ込む所じゃないと思うから、早く静と会って話して、仲直りするんだよっ!」
大磯は秦野のボケに軽くツッコミを入れた後、そのように言って励ますように笑って八幡の肩を軽く叩く。
しかし、「あぁ、分かった」という簡単な言葉がまるで彼の口からは出てこなかった。寧ろ胸が
「それって、俺じゃなくてもいいんじゃないか──」
「え?」
「手を差し伸べて、引っ張るのは俺じゃなくてもいいんじゃないか。別にあいつにとって俺は、友達の一人に過ぎないんだし……」
「いやいや、比企谷君は間違いなく静ちゃんにとって
秦野のその何気のない言葉に、
「でも、俺が特別だっていう証拠がないだろ……」
「証拠ならあるじゃん、例えば──」
二人から列挙されたのは、先も述べたようなファッションや、料理や、そして笑顔のことであった。
しかし、ファッションや料理、そしてあの笑顔ですら、八幡もこの二人も知らぬ親しい他人に見せている可能性があるのだ。
極めて
しかし、そのような証拠は無いと、とっくに諦めていた。
だが、その時、その
「──パンさんのストラップ」
「あぁ、確かに。あのパンさんのストラップは静からの誕生日プレゼントなんだってね。静に問い詰めてゲロった時はビックリしちゃった。ヒッキー君は当然知らないだろうけど、静って、人の誕生日にプレゼント渡したことないんだよ。ヒッキー君に渡したのが、初めての他人への誕生日プレゼントだって、本人からも聞いたし」
「静ちゃんに中学の時なんで渡さないの〜、って聞いたら、『他人のためにあれこれ考えるのは面倒くさいだろう! だから渡さない!』って堂々と言ってたもんね〜」
「つまり、裏を返せばあのストラップは、
「私は〜、特別でもない人に贈らないと思うけどな〜。おソロなら尚更〜」
「そうだったのか……」
八幡は彼女達の話を聞くや否や、そのストラップをすぐに確かめたくなり、ズボンのポケットに手を入れて、それを探った。しかし手にはポケットの内側特有の布の滑らかな感触があるだけで、
「──あれ、ストラップがない……」
ポケットに入れていたはずの笹を銜えたパンさんのストラップは消えていたのであった──。
▼△▼△▼△▼△
八幡は、今日一日
『私たちも探すの手伝うよ〜。大切なものだもんね〜。ね〜サクちゃん』
『うん、当然でしょ!』
大磯と秦野は、そう言って嫌な顔一つせず手伝ってくれた。彼女達には文化祭の実行委員に直接落し物が無いかを尋ねに行ってもらっていた。
連絡を取るために、大磯とメールアドレスを交換したが、まだあちらからはメールは届いていないということは、見つかってないということだった。
──校内を一通り探したが、パンさんのストラップは見つかることは無かった。大磯からの連絡もまだない。
八幡は外へと繋がるスチール扉の前に立っていた。この場所が最後であった。
目の前のドアノブに手を掛け、半回転分ほど
しかし、それは
扉の向こうの三段程度しかない
そこにはパンさんが
「あった……」
そして意を決して、その手元のパンさんのストラップを久方ぶりにまじまじと見た。
このストラップ自体は、何の変哲もないよく見かけるようなパンさんのストラップである。
しかし撫でるように触れていると、この無機質の中に、確かな
そこに、彼が酷く
「まずは……」
八幡はこのストラップを共に探してくれている人達に連絡をしなければならない。
携帯電話を取り出してメール画面を開く前に、まずは携帯のストラップホルダーに、そのストラップの紐をきつくきつく結んだ。
『見つかった。探してくれて、ありがとう』
この簡素で当たり
ちょうど同じ時に、学校全体から田舎
それは、文化祭の一般公開の終わりを告げるものであった──。
八幡はそのスチール扉を開いて校舎の中に戻ることはなく、一度この混凝土の階段の中段にどっぷりと腰を下ろす。
そして、携帯電話からぶら下がり、ゆらゆらと揺れるストラップを眺めた。
他人の誕生日にプレゼントを一度も買わなかった平塚が八幡のために買ってくれた人生で初めての誕生日プレゼント──そのような
そうして、八幡は久しぶりに
全てはこの場所から始まった。
本当に何も無い世界であった。
決して暗闇で、閉じ込められているという訳では無い。
しかし、どこまでも果てしなく延びていくような青空の下、季節の移ろいという上辺を
そんな世界をいとも
そこからは、
こんなに世界が色鮮やかであるとは思わなかった。
幻想のようにも思えた。しかし、あれは幻想ではなく
確かに
ただ、
「ははっ、やっぱり、小町の言う通りだな」
そうぼやいて、一人分空くように左側へとずれる。右を向けば、いつか見た
その瞬間に胸の澱みを一切合切吹き飛ばす、何時かの時にも感じた強い強い風が吹き抜ける。
──やはり、比企谷八幡という男は、もうどうしようもないほど平塚静に
改めてこのベストプレイスを
今、八幡は覚悟を決めた。
平塚と今日会って話す。そして一通り事情を説明した後、この想いを伝えるという覚悟を。
盗み聞きをしなければ、今日八幡が伝えていたであろうことである。
これが彼なりのけじめであった。
「──うし。腹
そう顔を上げて呟いた時、手元の携帯電話が震動した。八幡がそれを開くと『you got a mail!!』とものの一度だけ流れるのであった。
受信したメールを開くと、差出人は当然ではあるが大磯からで先程彼が送ったメールへの返信であった。
『見つかってよかった! 今度は失くさないように大切にするんだよ笑。あと、静にもさっき会ったんだけど、キャンプファイヤーやるのに必要な倉庫の鍵無くしちゃったみたいだから探してあげてねー。そしたら静と仲直り出来るきっかけになると思うからさ笑。 静のことよろしく頼んだよ! 最後に、さっき確認し忘れちゃったから、多分ヒッキー君は分かってるとは思うけど一応ね。今日は折角の──』
メールの内容を確認し、大磯のアドバイスを重々承知して、携帯を閉じる。
だが、どうしても
一般公開の文化祭はもう閉幕した。タイムテーブルを
だからそのキャンプファイヤーに用いる丸太から備品までが一緒くたに置かれた倉庫の鍵を紛失をすることは一大事であり、それを発見することが、
何より引き受けた当初は
キャンプファイヤーの物品を搬入する時に倉庫の鍵を用いたから、形はよく覚えていた。だいぶ年季が入っており木目がはっきりとしている大きな木製の札が
「探すか……」
腰を上げると、すぐに左手にある駐輪場の奥の茂みの方へと向かう三人の女生徒の姿が見えた。今日は文化祭であるから自転車による登校が禁じられていて、
普通であれば出し物の片付けをしている
それはまさしく、今、平塚が捜している倉庫の鍵であった。
八幡は、迷う
──八幡は三人の近くへと向かった。そして起伏のないのっぺりとした声で、三人に話しかける。その三人はマトリョーシカのように綺麗に背丈が大中小に分かれていた。
「なぁ、お前ら、なにやってんの」
「……いやっ、これはっ……」
分かりやすく肩を
その表情には、「別にそういうつもりでは」と揃いも揃って可哀想な私を演出していたが、その中で、手に倉庫の鍵を握っている一番長身で細身のボブカットの女──
「なぁんだ、比企谷じゃん」
「言わないでおいてやるから、鍵を返せ」
「嫌だ。なんでお前に指図されなきゃいけないの?」
大野は木で鼻をくくったような態度で、すげなく言葉を返す。しかし、八幡も下手に出て、へこへこと食い下がることはしなかった。
「お前ら自分が何やってるのか分かってるのか。別に誰にも言うつもりねぇから早く返せ」
「阿呆だなぁ。一人で来ずに先生でも連れてくればよかったのに。今ならあんたのこと犯人にできるよー。こっちは証人三人もいるんだし、ねぇー」
「うん、阿呆だねっ!」
「まぁ、所詮比企谷だからねー」
そう言って、三人は
ところが彼女達に間抜けな失策を
「──そういや、今日の夕焼けは見事だよなぁ」
「は、急に何言ってんの? まさか、現実逃避ってやつ? あははっ、笑え──」
大野は口を開けたまま、止まっていた。そして、三人揃って血の気が一気に引いていくのが彼にも分かった。
その理由はどこかの御殿様の
「珍しく駐輪場もすっからかんだし、折角だから記念にパシャリと撮ってみたら、なんとまぁ、ビックリ。片手には、行方が分からなくて捜索願の出てる鍵をしっかりと握りしめている者を含めた女子生徒三人衆がいるではないか。こりゃあ
「盗撮しないでよ……、消してよ……」
「盗撮じゃなくて、俺はあくまでこの綺麗な景色を撮っただけだ。だってそもそも、片付けをしてる
八幡は画面の右上の方を指差して、
「……という訳だ。鍵を返してくれ。返してくれたら、目の前でこの画像は消してやるから」
「
「まぁ、目には目を歯には歯を、悪行には悪行で対抗するのがベターだからな」
一方周りの二人は写真を見せつけられてから、最早
しかし、中々大野は鍵を返そうとしなかった。
「ほら、時間がねぇから、早く返せ」
「……あいつが悪いんだよ」
「あいつ……?」
「静が悪いんだよ……! あいつ、私が好きだって知ってた人の事
大野は唾を飛ばす勢いで、語気を荒げる。大野の言う平塚が誑かした相手は、
「前々から気に入らなかった、あぁいうの! なに、なんでも出来るからって、スーパースター気取りのつもり?! ね、二人もそう思うでしょっ……?!」
急に同意を求められて、横の二人は
しかし、その積もり積もった恨みつらみが形を変えた修羅を模した形相は笑い話で済まされるものではなさそうであった。
「別に平塚は誑かしたつもりはねぇだろ。ただ断っただけじゃねぇか。お前のは、世間一般的に八つ当たりって言うんじゃないんですかね」
「は、はぁ?! なんでお前があいつの肩を持つの、お前だってこっち側だろ! ……って、比企谷が知ってるわけないか。じゃあ、教えてあげるよ! お前は、あいつに
「……」
──弄ばれていた。
いくら特別な関係だと納得させて、覚悟を決めても、他人にそのように評されると、多少なりとも響くものであった。
急に押し黙った様子の八幡を見た大野は、薄気味悪く、口角を少しあげる。
「そういや、結構昼休みとか一緒にいたもんね〜。ディスティニーとか幕張にも二人で行ったんでしょ」
「なんで、そのこと……」
「風の噂で聞こえてきちゃったんだよねぇ〜。ま、それでもね、あいつはお前のこと好きじゃないんだって……! あはははっ……! ほんと可哀想! ぷふっ……!」
寝耳に水とでもいうような八幡の面構えを指を差して、吹き出して
「それにお前、この学校の色んな人からも嫌われてたんだよ? あたし聞いちゃったし。例えば、お前の消しゴム消えたり、ノートが授業前に限って失くなったりとかしてたでしょ!」
「何でそれを知ってる……?」
「噂で流れてきたって言ってんじゃん。それで、実はあれはお前のことが嫌いになった奴がしたらしいよ!」
「どういう事だ……?」
「受け入れられないのかなぁ、ほんと可哀想。ま、静がお前のこと好きじゃないって分かったから止めたっぽいらしいじゃん。つまり、全部あいつのせいなんだよ、気づいた?! 私は優しいから教えあげちゃったぁ」
八幡は混乱して、口をあんぐりとさせて、言葉が出てこなかった。なぜ大野がそのことを知っているかだけではなく、あの気の緩みによる
「第一根暗で誰も近づかないようなお前に、なんであいつが近づいたか分かる……? それはね、あいつにとって都合が良かっただけ、ただ、それだけじゃん!
「だからさ、ここはいっその事私たちと手を組んで、お前も、一緒にこれを隠そうよ」
「そんな事絶対に出来るわけないだろ。とにかく鍵を返せ」
「この
そして、大野は一度舌先で唇を湿らせて、言った。
「──だから、私たちと同じような気持ちを味あわせてやろうよ! あの、
その言葉が耳に入った瞬間であった。
今まで何があっても決して切れることがなかった頑丈な有刺鉄線がぶつりと切れる音がした。
そして、その内側から今まで日の目を浴びることのなかった黒褐色の泥泥とした
「………………取り消せよ」
酷く底冷えした声が八幡の口から発された。
「……は?」
「今の言葉、取り消せつってんだよっ……!!」
「「……ひぃっ!」」
「いくら俺のことは悪く言うのは構わないが、平塚を
大野は、
しかし、未だかつてない
「…………ちょ、ちょっと」
「平塚はそんなやつじゃねぇんだよ……!」
他の誰かに見られているなど思考の
大野は八幡の言葉を失っていたようだが、意地が勝ったのか突飛に臀をまくって声を荒らげた。
「……い、いや、あいつはそういうやつでしょ! 優等生気取って、何食わぬ顔で男を誑かすクズじゃん!」
「お前が平塚の何を知ってるんだ……! 何にも知らねぇくせに平塚を
八幡の怒声は、ますます凄みと重みを増していく。
しかし、
「は、はぁ……?! お前だって、なんも知らないでしょ! アイツにちょっと優しくされただけで
「お前よりは、知ってんだよ……!」
喉の内側が擦り切れそうで、今にも
「あいつが強がりなところも、寂しがり屋なところも、人並みに悩みを抱えてることも、楽しい時に本当に楽しそうな顔で笑うこともお前よりは知ってんだよっ……! 俺以上になんも知らねぇお前が、偉そうに平塚の事貶すんじゃねぇ……!」
慣れない怒髪天の如き
大野は、とうとう完全に
「な、何なんだよ、お前……。こっち近づいて来んなよぉ……」
「とにかくもうやめろ、鍵を返してくれ。これ以上、平塚のこと侮辱されたら──」
八幡は、その後の言葉を口にしなかった。
しかし、感情の発露を
「早くしろ……」
「ひぃっ……」
左手の握り拳を
「わ、分かったから。ほ、ほら……これでいいんでしょ」
大野は声を震わせながら、八幡の手の上に倉庫の鍵を置いた。彼女の頬には、
「あぁ」と八幡が
手元を見れば、大野から取り返した少し錆び付いた鍵が、夕陽を浴びて
ふと校舎の窓を見ると、そこにはただでさえ
思わず八幡はそこから目を背け、自らの顔を撫で回す。
再びその窓を見ると、いつもの顔に戻っていた。
そして、大きなため息をついた。
「はぁ……、何やってんだ俺……」
あの窓に現れた我を忘れたような顔は、
もちろん、平塚に対する侮辱は、断固として許容できるものではない。
しかし、窓に映っていた顔は、この二週間程の個人的な鬱憤が含まれた
これを女子に向かって、ただ内にある私的な感情までもぶつけてしまったのだ。結果的には
しかし、自責の念を
──校舎の内と外を
テニスコートは寝静まっていて、風は向きを変えて、元にいた場所へ送り返すように陸風が東京湾の方角へと吹き抜けていく。その風が、昼時であれば舗装された駐輪場から校舎に続く目の前の
だが、その黒い落ち葉のいくつかが八幡の真上に舞い上がった時、三等星の如く
眼前にある校庭の中央へと目を向ける。そこにある
それが、星のない首都近郊の空へ一面の
その周りを囲んで、総武高校の生徒達は群れを
その中でとりわけ生徒が固まっているところでは、たった今どよめきが起きた。
目を
こちらまで届いてくる指笛が、その驚きを伝え、誰かが「最強カップルの誕生だァ!!」と
まだ
その狂乱へと連れ去る
しかし、その輝きは全ての人を等しく照らし貫く輝きであった。たとえそれが死を迎えた、最も
今、八幡の胸元のブレザーは、その光を受けて、
ただ、狂乱へと
そして、その鮮やかな光と
それゆえ皮肉なことに八幡が
しかし、あの火の光をこのようにして浴びることは自身に課せられた使命である気がして、逃げることなく留まっていたのであった。
──八幡は、もう動かなければならなかった。
まだ平塚には会っていなかった。大磯が提案したように、校庭の脇にある倉庫の鍵を用いて口実を作れば、平塚と話す機会を設けることができただろう。
ただ、これを理由に渡すのは恩着せがましい上に、
二つ折りの携帯を開く。そして、メニューボタンからメール機能を起こす。
下書きに文字列を入力する。
覚悟を決めても、やはり今までにないほど指は震えた。何度も打ち間違えをしては打ち直す。
このメールを書いた先の未来は、八幡にとっては辛いものである可能性が高い。
しかし、書かなければモノクロームの無味乾燥な未来が待っていることは間違いなかった。
大磯、秦野に、小町に背中を押された。
先程パンさんのストラップを見た時、少なからず特別な関係であることを信じることができた。
そして、あの
やはり、平塚のことがこの上なく好きであるということを。
小町は認めてくれると言ったものの、別段平塚に言う文句など一つも浮かばない。
──潔く告げて、潔く
震える指で、何とかボタンを押して、一文字ずつ文字を打ち込んでいく。
そして、時間をかけて完成した平塚宛てへの一通のメール。
十字ボタンの真ん中の丸い送信ボタンを、一呼吸置いた後に、押した丁度その時であった。
何の前触れも無く、背にあるスチール扉の戸が、開けられたのであった。向こう側の熱気を多分に含んで薄まった
だが、八幡は振り返らなかった。
そこに彼女はいるはずなどないと思ったからである。
「比企谷……」
しかし、後ろから八幡を呼ぶ声が聞こえたのだった。
都合のいい
だが、それにしては声が生々しかった。
あの、芯があって、耳触りが良くて、優しさがあって、愛おしくて、忘却できるはずなどなくて、だから耳を塞いで、思い出すのを長らく
少ししてから手元の携帯を閉じて、八幡は振り返らずに、「どうしてここに居るんだ」とその幻聴に尋ねた。
すると、程なくして答えが返ってきたのだ。
「君のことを捜していたからな……。多分ここにいると思って……」
「
「……その、倉庫の鍵のことの礼をしようと思ったんだ。君が大野から取り返すところ見てたから」
「……そうか、見てたのか。あれはその、気にすんな。大野は嫉妬でおかしくなっただけだ」
そう口にして、自らの言葉にどこか引っ掛かりを覚えた。
嫉妬──どこかで、恋
八幡も同じであったのだ。
しかし、八幡の対象は見えない誰か──純白のタキシード姿を着た黒塗りの顔の男であったのだ。
だから、嫉妬の熱的な感情が外的世界へと発散されることなく、行き場を無くして彼の中で空転し、その炎が彼自身を焦がし尽くした。
それをどうにか味わわないために、拒絶という形をとって関わることをやめたのであった。
このことに今、気付かされた。
あの小説を読んだ時、何も知らなかった八幡は、なんと
酷く愚かであった。しかし、
そして今、愚かしい自分を棚に上げていることに嫌気が差す。だが、この性分はもう仕様がなかった。
まず、すべきことが彼にはあるのだ。
「うん、大丈夫だ。もう気にしていない。だから、その……、ありがとう、比企谷……」
「別に礼をされるようなことはしてねぇよ」
平塚は聞きたいことがあると、続けざまに口を開いた。
「なんだ?」
「……私のこと」
やけに長い間が置かれる。
「私のこと、嫌いに……、なったのか──?」
絞りでたようなその声は、今までにないほど震えていた。ただ、八幡もそれに共鳴したように
「それは……」
「私が何か、君に酷いことをしたのなら教えて欲しい。ちゃんと謝るから……」
「…………………………」
すぐには言葉にはできなかった。
口を開こうにも言葉は出ない。
脳天に浮かんでは、
──やはり怖かった。
彼は
ふと手元の携帯電話が目につく。
相変わらず
もう進むしかないのだ。
恐らく八幡にとっては辛い時間がやってくる。
だが、潔く告げて、潔く散ることを覚悟した。
だから、そのためにまず彼は事の
「──別に嫌いになったわけじゃない」
「じゃあ、なんで……」
「お前が清川に告白されてるところに居合わせたんだ。そして聞き耳立ててたら、お前に好きな人がいるってことを聞いちまった。それからはお前に顔を合わせられなくなった」
「そうだったのか……」
自身の嘆かわしい行動を改めて
「ははっ、ちゃんちゃらおかしいよな。別にただの友達なはずなんだけどな──」
続けて非礼を
「──比企谷、単刀直入に言うと、あれは
「………………え──」
『嘘』
突如放たれたこの一単語に思考回路は混迷を極め、続けるはずだった言葉が宙に舞った。
だが背を向けている八幡の内情を知る由もない平塚は話を続けた。
「実は清川に告白されるのが数回目でな、何回もしつこく迫られたから、つい口を
「……そ、その、言い訳がましい上に、何を言っているんだと思われるかもしれないが、君が傷ついて欲しくなかったからあのように言ったんだ」
「え、ちょっと、待って。じゃあ、他に好きな人がいるって言うのは……?」
「嘘なんだ」
「は、ははっ、はははっ……」
「そのだから、比企谷、私っ……」
「────はぁ、良かったぁ………………」
ここ最近ずっと
「……つまり、比企谷は
「……あぁ、その通りだ。何も言い返せないな。本当に情けない」
「そうか、君が私のことで妬いてくれてたのか……」
安堵の波に飲まれ
八幡は勢いよく腰を上げて、振り向いて、深く頭を下げて謝ろうとした。しかし、それは叶わなかった。
知らぬ間に真後ろにいた平塚は、
その懐かしく
しかし、言葉にしなければならないのは彼の責務であったのだ。
「その、平塚。俺、お前のことすごく傷つけたと思う。本当に申し訳ない」
平塚は何も言わなかった。ただシャツ越しに彼女の吐息が感じられるだけであった。
しかし、程なくして彼女は力ない拳で、八幡の胸板を叩いた。そして、更に押し付けるように胸元に顔を擦り寄せる。その為、額の熱さと、鼻先の冷たさまでもが伝ってくるのであった。
「平塚……」
「……殴る。……もう一発殴る。……いやもう一発殴る──」
声を
しかし、その拳は確かに
「私っ、すっごい心配だったんだからな……」
「本当に申し訳ない」
「君に……、避けられるようになってから、全然楽しくなかった。辛かった。本当に、本当に、辛かった……」
「本当に申し訳ない。俺が悪い」
平塚の声は次第にぶつ切りになり、その
ただ八幡にできることは、誠意を持って謝ることだけであった。
「ほんと、に。ほんとにぃ…………」
「到底許してもらえるとは思ってない。だから、何回も謝らせて欲しい。無視したり、腕を振り払ったり、最低な態度をとって、最低なことをして、本当に申し訳なかった」
「ほんどにっ……ぐすっ、すっごく、すっごく……、わだしぃっ……」
次第に平塚は言葉を出すことも
しかし、段々と八幡のシャツがじわりと濡れていく感触があって、声をしゃくり上げだしたので、平塚が泣いているのが分かった。
彼女の
その後も平塚は泣き続けた。
赤子のように大きな声を上げて、泣き続けた。
八幡は平塚を泣かせてしまったのだ。
実はもっと彼女を泣かせていたに違いなかった。
力が抜け落ちた彼の腕は、彼女を抱き締めることも、そして、彼女の頭に添えることも無かった。
それは性格が異なるだけではない。そのようなことをする資格が今の彼には無いように感じたからだ。
彼はただ黙って、平塚が
「──あはは、泣かないつもりだったんだがな」
数分経って、八幡から身体を離した平塚は鼻を
久しぶりに見た平塚の顔は、やはり
「本当に申し訳ない。平塚」
もう一度謝った。今度は深く、深く頭を下げる。
「もう大丈夫だから、顔を上げてくれ。そもそも私が許すも何も、君が謝ることなんてない」
「いや、俺が」
「──ううん、私が悪いんだ」
そう言って、あの嘘に至るまでの
平塚の話は
それは、総武高校裏サイトと呼ばれる、
平塚の話通りに、携帯を開いて、検索をかけると、そこには確かに裏サイトと呼ばれる掲示板があって、悪意には慣れていた八幡が言葉を失うほどの、
理由は至極単純で、
その中には、ディスティニーや幕張に行ったこともそこには記されていた。
そして、可視化した悪意が八幡に嫌がらせとなって実体化したのは、九月の下旬以降であり、それは丁度消しゴムが紛失するようになり、ノートが授業前に消え始めた時期と重なる。しかし、それらはまだいい方で、実行はされていないが身の毛もよだつような嫌がらせ──もはや
つまり消しゴムを紛失したり、ノートが授業前に限って行方知らずになっていたのは決して浮かれ気分であるという訳ではなかった。全部八幡からは見えない悪意によるものだったというのだ。
「……まじか、消しゴムとかノートが消えてたのはそういうことだったのか」
「私がその事を知ったのは、クラスの女子が影でその話をしているのを偶然耳にした時だった。まさかと思って検索して覗いて見たら、もう書き込みが凄いことになっていたんだ。そして、色々一人で考え込んでしまった。
もし私が声を上げたり、学校に報告したら、君が余計嫌がらせの対象になるかもしれない。もし私が君にその事を相談してもそうだ。
どちらにせよ、きっと君は優しいから、私が迷惑
考えすぎだって分かってはいたんだ。でも、数パーセントでも、そういう可能性があると思うと、言えなかった。君に傷ついて欲しくなかった。君と一緒に居られなくなるなんて絶対に嫌だった……」
平塚はわなわなと震えて、それを必死で抑えるように普段は
「だからあの時、清川に他に好きな人がいるって思わず言ってしまった時に、咄嗟に比企谷はただの友達に過ぎないんだって一言言ってしまえば、君への嫌がらせは終わるかもしれないと考えてしまったんだ」
確かに平塚の考えは、見事に功を奏していたのであった。あの忘れもしない雨降りの日の夜を境に、平塚は八幡ではない他の人の事が好きという話がその掲示板へ流れ込むと、途端に見えない悪意は八幡への興味関心をなくし、ぱたりとその手の書き込みは消えて、別の話題へと移っていたのであった。だから、当然その日を境に、八幡が消しゴムを紛失することはめっきり無くなったのである。
「──でもそれは酷く
濡れ
「ごめんなさい比企谷、私が悪いんだ。私が……」
「顔を上げてくれ、悪いのは俺だ。俺が
「うぅん、だとしても私が悪いんだ。私がもし、君と同じ立場だったらすごい不愉快、いや、そんな言葉じゃ言い表せないほど嫌な気持ちになると思う」
顔を上げて「それに」と平塚は、付け足す。
「私から事情を説明すれば解決できたことなんだ。でも、怖かったんだ……。
もし、ただの私の思い違いで、もっと別のことで傷つけていたとしたら、君は私に失望するのではないかとすごい不安になったんだ。
たとえ、思い違いでなくても、もしかしたら、こんな嘘をついたことを知ったら、君は私のことを嫌いになるかもしれないって、君のこと傷つけたらもう私のこと見向きもしてくれなくなるだろうって、本当にすごい怖くなった」
少し背筋は曲がり、肩は震えている。
「──また君に、あのように手を振り払われたら、もう私の心は粉々になってしまいそうな気がしたんだ。だから私はできなかった。
私が言っていたことは綺麗事だったのだな……。本当に大切だと、傷つけてしまうのは、こんなにも、こんなにも、恐ろしくて怖いものなんだな……」
「今日会った桜とツルに背中を押されて、そして君が鍵を取り返してくれた時、私のことあんなに知ってくれてる、思ってくれてるって知って、ようやく君に話しかける勇気を持てたんだ。本当に私は臆病者で、すごい
平塚は暗い顔を
ここまで平塚の謝る理由を口を挟まずに聞いていた八幡は、彼女の様子を見て、あろう事か一つ同意の相槌を打った。
「──確かにすごい狡いな」
「だ、だよな……、こんな私」
八幡の言葉を聞いて、より一層声を
「だって、そんな臆病で狡いところですら
「え……?」
平塚は八幡の言葉に青天の
──だって、そんなに俺の事を考えてくれてるなんて知ったら、飛び跳ねるほど嬉しいに決まってるじゃないか。
「平塚は狡いんだよ、本当に。一人の根暗で冴えない男の純情散々掻き乱しやがって。人生一八○度変わったぞ。相当高値がつくからな、これ」
「そう言われても、困る……」
「まぁ、取り敢えず、当然だが俺は平塚のことを許す。それで、これ以上はいくら言ってもキリがねぇから、今回はお互いのせい、お互い反省ってことでいいよな。これでおあいこだ」
「うん、うん……、うん…………。よかった、本当によかった」
平塚は胸に手をあてて、撫で下ろす。そして、ようやくどっと大きく色々なものが詰め込まれたたような息を吐いていた。
「こんな事もう無いようにしなきゃいけねぇな」
「うん、私もそう思う」
「じゃあ、
「それって……」
「あぁ、俺の
とっておきの平塚の
「ぷふっ……、あははっ!」
笑っている。平塚が笑っている
また
昨日まで金輪際見ることができないと思っていた眩しい笑顔が確かにあった。
その顔を見て胸が
二人して二週間分の笑みを取り戻すかのように笑っていると、唐突に校庭の方から、マイクを通した声が響いてきた。
『名残惜しいですが、キャンプファイヤー残り五分です!! じゃんじゃん楽しみましょう!』
すっかり失念していたが、今はキャンプファイヤーの時間であった。宴はいつの間にか始まって、向こう側にいる生徒は、激しく燃え盛るようでありながら、
もちろん八幡に踊る相手がいるとするなら、目の前の平塚だ。
だが、考えてみると、あの発言が嘘だからと言って、八幡の
キャンプファイヤーの学校の伝説は当然平塚も知るところであるから、ここで誘えば言外に好意を伝えることになるのだ。
「そっ、そういや平塚は踊る相手はいる、……のか?」
「いる」
その探り探りの問い掛けに対する即答に思わず八幡は戸惑い顔を浮かべ、咄嗟に勘繰りを働かせた。
すると平塚は
「──目の前に、な……」
と囁いて、八幡を見つめる。
心臓がその瞳に操られたように高鳴る。
彼は今にも
「……ははっ、してやられたな、こりゃ。……よしっ」
一、二歩後
膝をつかずとも生まれた高低差は、まるで
すぐそこにいるのは八幡にとってまさしく世界でたった一人の
彼は、その姫君に向かって、手を差し伸ばす。
「──平塚静さん、俺と一緒に踊ってくれませんか?」
「…………はいっ、よろこんでっ!」
八幡が差し出した手に、細く小さな手が乗せられた。
その女性らしさを感じるしなやなか指の間に節くれだった指を差し込んで、ぎゅっと結んで、固く繋いだ。
不思議と、顔から火が出るほどの恥ずかしさは無かった。
平塚もその混凝土の階段を降りて、校庭の方へと、少しでも灯りがある方へと二人並んで、固く手を結んで、歩いていく。
誰もいない、誰も見ていない
二人はぎこちないステップを踏み始める。
作法などは分からなかった。
しかし、気の向くまま、その
──踊った。
今、狂乱に誘い、没入感を味合わせるほどの
やがて、さらに奥の、奥の方へと染み渡っていく──。
それは、彼の内にあった氷をいとも容易く溶かしていった。
奥底にあった──決して解けることのなかった残り雪も、とうとうその熱に当てられて、じわりと溶けだした。
そして、その下に隠れていた新芽が顔を出している。
今、その新芽──夢の芽は、消えたと思われていた
それはまもなく清らかに澄んでいて
まさしく、
──二人は踊り飽かす。
不意に平塚の顔が、燈に照らされて闇夜に明るく浮かんだ時であった。
もう何度目か分からない。だが、やはり何時とも変わらない。
「うおっ──?!」
余りにも美しすぎる平塚に目を奪われた八幡がステップを踏み外し、足を
八幡は後ろから倒れて、固い混凝土に背中を打ち付けたものだから、それ相応の痛みがあったはずだった。
しかし、その痛覚は鈍って表に出なかった。八幡は別のことに気を取られていたのだ。
八幡の目と鼻の先には平塚の顔があった。瞳は潤み、頬はあの篝火よりも明るく上気していて、
混凝土を背にして仰向けの八幡に対し、それに覆い被さるように、平塚が四つん
「す、すまねぇ。怪我ないか?」
平塚は何も言わず、首を横に小さく振る。
「それは良かった。平塚、今、起きるから」
しかし、平塚は一向に起き上がろうとはしなかった。
それどころか、八幡の顔に、ゆっくりと近寄ってくるのであった。
「──ひきがやぁ……」
そう
彼女の潤んだ瞳がそっと閉じられ、
その姿があまりにも可愛くて、
そして、八幡も目を閉じた時であった。
『終了でぇ──────す!!』
司会の快活な終了のアナウンスが、この舞台の二人の元にも届いた。
二人は揃って、足元から鳥が飛び立ったように飛び起きて、互いに目を
「────」
甘美な雰囲気が一変して、気恥しさが、二重にも三重にもなって二人の身にのしかかって、
暫くして、八幡が
「な、なぁ、平塚」
「……なっ、なんだ。比企谷……?」
「その、えぇと……」
いつものように
「平塚、今日駅まで一緒に帰らねぇか。せっかく歩きだし」
「……うんっ、分かった! あっ、……でも、私、キャンプファイヤーの後片付けが……」
「それは、俺も手伝うからさ」
平塚はその言葉を聞いて、くすりと微笑んだ。
「そうだな。ここ最近君は連絡も寄越さずにサボっていたのだから、その分ここで取り返してもらなければならないな」
「あぁ、だいぶ
「となると、明後日の片付けもびしばし働いてもらうからな!」
「あぁ、覚悟しておく」
アナウンスが入る。今度は先程の祭りの時とは違って、一本調子な業務連絡が入った。
『キャンプファイヤー担当の生徒は至急集まってください──』
「よしっ、いこうか、比企谷っ!」
「おう。行くか、平塚」
互いに顔を見合わせる。そして、示し合わせたように二人は並んで歩き出した。
雪解けとは無縁の、緑が抜け
しかし、どんなに暑い季節を経てきても解けなかった
後は、この夢の蕾が花開くのを、今暫し待つだけだ──。
拙文を読んで頂きありがとうございます。
素晴らしい感想、沢山のお気に入り登録、そして高評価、本当にありがとうございます。
非常に長かったと思いますが、これにて文化祭編終了です。この話が目標点であったので、よくここまで来たなという感慨に耽っております。改めてここまで付き合ってくださった読者の皆様、本当にありがとうございます。
補足になりますが、裏サイトを使うのはわりととんでも展開だったかもしれませんが、二〇〇四年に時代設定したのは、ここに持っていくためだったので、最初からこうする予定だったとこの場で言い訳させて頂きます汗
引き続き感想をお待ちしております。どのようなものでも良いので叱咤激励の感想を一文認めて頂けたらと思います。今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。