ブーケトスの魔法   作:Pond e Ring

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九束: Has Completely Melted

 

 

 

 ──背筋をやや曲げて、目を伏せて、廊下を()()で歩く。

 廊下をすれ違う人々は、総武高校の生徒だけではない。ヨチヨチと懸命に一歩ずつ歩く子供から、杖をついてのっそりと確かめるように一歩ずつ歩く老人までいて、かたや見慣れない制服に袖を通している中学生や、白髪(しらが)混じりの中年といったように老若男女が入り乱れていた。

 そう本日は、総武高校文化祭開催日である。

 

「真ん中ぶち抜いてチョー気持ちいいっ……! ストラックアウトどうですかぁ〜」

「気合いだッ……! 気合いだッ……! 気合いだ──ッ……!! 気合いのこもった総武焼きそばァ〜!!」

「舞台の中心で、愛を叫ぶっ! どうか、体育館に見に来てねぇ〜」

 

 それぞれの出し物に沿った衣装に身を包んだ総武高校の生徒たちは、お手製のプラカードを持って、その異邦(いほう)の客を引きつけるために流行(はや)りの言葉を使って、大きな声を出している。

 教室の前の廊下の壁には目を引くような装飾が施され、扉の前に座る受付は(せわ)しなくやってくる客に対して、嫌な顔一つせず、(かえ)って大層充実した様子で応対していた。

 

 ただ、八幡はその様子には目もくれず()()で歩いていた。

 

 

 ──人混みに当てられて参ってしまった彼は、教室がなく人気(ひとけ)のない部活棟の廊下の壁に寄りかかって静静(しずしず)(たたず)んでいた。

 もう(うま)(こく)も終わりに近づいている。

 窓の外を見ると、憎いほどの快晴であった。

 

 思い立ったように八幡は制服のポケットから携帯電話を取り出し、二つ折りのそれを開くと、メールを打ち込む画面であった。

 宛先のメールアドレスの欄には、平塚静のそれが打ち込まれている。

 しかし、本文は一切の空白であった。

 

 ──結局、八幡はまだ平塚と会って、話す事ができていない。小町に激励(げきれい)されたが、やはり負け戦に足を踏み入れるほど勇猛果敢で無鉄砲な性分(しょうぶん)ではなかった。傷を負う(きざ)しが僅かでもあれば石橋の束柱(つかはしら)の一本一本までも何遍(なんべん)も何遍も叩いて渡るような男が、大きな切傷が残ることが目に見えている状況に(おび)えないはずがなかったのであった。

 

 この変え難く、歳を重ねるごとにアイデンティティの核となっていった性分については、生まれてきてからずっと連れ添ってきた自分自身が一番良く()っている。

 だから、逃げ場を無くすために決意の証として、勉強机の抽斗(ひきだし)の奥底にしまった平塚からの贈り物のストラップ──笹を(くわ)えたパンさんのストラップと()()()()()に購入していた赤いリボンで口を結ばれた花柄の入った小さな紙袋を引っ張ってきた。

 しかし取り出したまではいいものの、それを見てしまった時にまた釘を打たれたように胸が鋭く痛むのが怖くなって、直視することは叶わなかった。

 ストラップは手で掴んだまま、制服のポケットの中に押し込むようにして、その紙袋は愛用する紺色のスクールバッグの内ポケットに突っ込んでしまった。

 そして八幡は今日の朝から何度も携帯電話を開いて、平塚宛に電子メールを送ることも試みた。しかし、打ち込もうとすると指が震えて、次第に洋灰(ようかい)で固められたように微動だにしなくなって、結局できずじまいなのであった。

 

 ──決意といっても中途半端であり、覚悟を決めることはできなかった。

 いつまで経っても腑抜(ふぬ)けた臆病者であるのだ。

 

 

 人がいない廊下は思っていたよりもだだっ広く、まるで伽藍堂(がらんどう)のようであった。どこまでも延びていくような壁に寄りかかって、しばらく八幡は空白の画面で独り寂しく点滅するカーソルを見つめて、固まっていた。

 別に恋文など書く必要は無い。奇を(てら)うことも書く必要は無い。『会って話がしたい』という文言さえ(つづ)ればいいのである。

 しかし、それすらも八幡にはできなかった。

 

 そのような中、ひっそり(かん)としていた廊下の端の方からの足音が聞こえきて、八幡はその方へと目を配った。

 そこには、文化祭の案内図を広げて、仲(むつ)まじく八幡の方に向かって歩いている男女の姿があった。

 特にその女子の方は八幡もよく知っていた。何かと平塚と引き合いに出され、可憐で、(いとけな)さすら感じる童顔の美少女であり、学園内屈指の人気者である山王(さんのう)弘子(ひろこ)であった。

 その横の男の方は名前は知らないが、野球部由来と思われる坊主頭すらも瑕疵(かし)にさせないくりっとした目が特徴的である中性的な顔立ちだけは見覚えがあった。

 

「ねぇ、劇が終わったらさ、ハニートースト食べよっ!」

「おう、ヒロがそうしたいなら、そうすっか」

「うんっ……! じゃあ、早く行こっ。劇始まっちゃう!」

 

 そのような()(きた)りな会話を交わしながら、その二人は八幡の目の前を通り過ぎる。

 その時二人は八幡の方を見向きもしなかった。だが、それは意図的に無視したのではないだろう。

 きっと二人だけしかいない世界に入り込んでいるから八幡の姿なぞそもそも視界に入っていないのだ。

 二匹の雌雄(しゆう)鴛鴦(おしどり)が目の前を通り過ぎた後、その背中を自然と追ってしまった。

 付かず離れずの距離感でありながら、心は絶対的に近くにある。そのようなことが赤の他人の八幡にすらも分かるから、余計(たち)が悪く、恨めしいほど羨ましかったのであった。

 窓の外は相変わらず嫌味たらしいほど輝く太陽であった。()が為に差し向けられた光なのかは、考えるまでもなかった。

 その時、(はか)らずもぐるると胃袋が鳴った。

 

「何か、食うか……」

 

 八幡は結局、何も打ち込まず、その携帯電話を閉じて、ポケットにしまいこんで、二匹の鴛鴦から目を(そむ)けるように歩き始めた。

 そして、歩いていると次第に(やまびこ)のように反響して聞こえてくる人々の声。喜楽しかない(かたよ)った音色にイヤフォンでも差し込んで耳を塞ぎたくなるが、彼はそれを了簡(りょうけん)してやり過ごした。

 これも彼の中途半端なりの決意のうちの一つなのであった。

 

 

 ──相変わらず人気の無いベストプレイスで独りで購買で買った弁当を食べていた。脇にはブラックコーヒーの缶を置いている。

 丁度その時間に小町から連絡があり、文化祭には行かないということであった。結びの言葉には、このような(てい)たらくを決め込んでいる八幡の様子を見越したのか、背中を押すような激励の言葉が長々と(つづ)られていた。

 しかし、それを見てもやはり指は動かなかった──。

 

 ベストプレイスを()った後も八幡は根無し草の如くゆくあてもなく彷徨(さまよ)うように廊下を歩いていた。

 次第に焦燥(しょうそう)感に駆られて、立ち止まる回数が増えた。しかし、携帯電話を開いたはいいものの、結局道端の地蔵菩薩(ぼさつ)のように固まって、閉じての繰り返しであった。

 そうこうしている間に文化祭も、刻々と終わりに近づき、昼間の盛況はすっかり消え、まるで門前(もんぜん)雀羅(じゃくら)を張ったようであった。あれだけ飛び交っていた音も隠れん坊で遊んでいるかのように息を潜めている。

 窓の外にいた燦燦(さんさん)とした天道(てんとう)様は、富士の山が奥に(そび)える穏やかな海原(うなばら)へとゆっくりと腰を下ろし始めて、空がそれを迎えるために燈籠(とうろう)を飛ばしたように赤橙(せきとう)色に染まっていく。

 しかしそのような光景を目に()めることもなく、ひたすら背を弓なりに曲げたまま、目を伏せて歩き続けていた。

 

 

 ──突然、「あっ!」という大きな声が目の前でして、すこし顔を上げた。そこには一ヶ月ほど前に幕張で偶然会った平塚の同級生である二人の女子──大磯(おおいそ)(さくら)秦野(はだの)鶴子(つるこ)の姿があった。

 

「ヒッキーくんじゃん、久しぶりーっ!」

「あ〜、ほんとだ〜。久し振り〜」

「どうも」

 

 挨拶を交した後、大磯は手を額に添えて右に左にきょろきょろと見回す。

 

「あれ、静とは一緒にいないの?」

「いや、いないな」

「そっかぁ……。私たち用事あって今来たばっかだから、まだ会えてないんだよねー。なら折角だし……」

 

 大磯は八幡へとぐいっと顔を近づけた。その瞳には興味の二文字がありありと描写されている。

 

「ヒッキー君、最近どうなのっ……?!」

「確かに私も気になる〜」

 

 秦野も乗っかっり、二人の女子にぐいと身体を寄せられ、(いと)わしく思って八幡は露骨に眉を(くも)らせた。しかし、遠慮の二文字はどうやら彼女達の辞書には記載されていないようでお構い無しであった。

 

「どうって」

「もちろん静とのことに決まってんじゃん!」

「それは……、えぇと……、その……」

 

 奥歯に物が挟まったような八幡の口振りに、即座に女の勘が働いたようで、大磯はその理由(わけ)を推察していた。

 

「……ねぇ、静と何かあった? まさか喧嘩とか」

「まぁ、喧嘩っていう訳では無いんだが、ちょっと話しづらくてな……」

「ふぅーん、なるほどね」

「で、その状況っていつぐらいからなの〜?」

「……かれこれ二週間は話してねぇな」

「「二週間……!?」」

 

 想像以上に長かったのだろうか、二人は口を揃えて驚嘆の声を上げた。

 

「それは結構長いね〜……」

「まぁ、そうだろうな」

 

 すると、大磯は「突然だけどさ」と声を上げた。

 

「ヒッキー君は、静のことどう思ってるの?」

「平塚のこと……」

「私としては静って、人当たりも良くて、自信にも満ち溢れてて、皆を引っ張るリーダー的存在で、おまけにえらい美人で、本当に何でもできる完璧超人だと思ってるんだ。ヒッキー君もそう思うでしょ?」

 

 大磯に同意を求められたが、八幡は顎を引くことができなかった。

 確かに高校一年生の時の彼であればパブロフの犬のように頷いていたであろう。平塚静を初めて見た時は、関わることの無い、彼とは一から十まで何もかも違う完璧な人間だと八幡は感じ、勝手に敵意を覚え、敬遠していた。

 だが、高校二年生に上がって、平塚と関わるようになった彼は、その彼が彼女に対して(いだ)いていた固定観念を改めざるを得なくなっていた。

 平塚静は、断じて完璧などでは無かった。

 人並みに悩む少女であった。

 自信が無い少女でもあった。

 守りたくなるような弱さもある少女であった。

 

 だから八幡は、(くび)を横へと振った。

 

「平塚は完璧な超人ではない、と思う」

「さすがヒッキー君だ。やっぱり君はそう答えるんだね」

 

 その答えを聞いて大磯は大層満足した様子ではにかんだ。しかし、一瞬、それは作り笑いのようにも見えた。

 

「静は、完璧じゃない。そんな当たり前のことに、私、中学の時に気づけなかったんだ」

「私もそうだな〜」

「今思えば、あの子一人で抱え込むような子だった。何でもできちゃうから基本は困らないんだけど、一回だけ、中学で生徒会長やってた時、一人で何でも(こな)してたんだけど、倒れちゃった時があったんだ。でも静はそれを乗り越えて、結局最後までやり遂げたから、私たちは勝手にあの時は静の体調が悪かったんだねで納得しちゃって、完璧な静っていう理想像を押し付けたままにしちゃったんだ。でもあれは、間違いなくオーバーワークが原因だったんだと思う」

「それに(しず)ちゃんは〜、他人の背中を押したり、手を引っ張っていったりするのは得意だけど〜、自分のことを変えようっていうのあんまり無かったよね〜。今思えば〜」

 

 大磯は深く頷いた。

 

「多分、私が想像する以上に静ってずっと不器用だし臆病だったんだなって今になって思う。でも、そんな静が急に変わろうとし始めたの。

 私は興味無いからいいの一点張りだったお洒落(しゃれ)とかもするようになったし。服を選ぶ時には、あの一人で何でもしようとする静が私たちに手伝って欲しいとも言った。服を買いに行った時に、絶望的に下手っぴで唯一の弱点だと思ってた料理も、一生懸命頑張り始めたっていうのも静から聞いてたし。それに何より、あの()()かな」

「そうだね〜、体育祭の時と言い、幕張の時と言いあんなキラッキラな顔見せられたらね〜」

「あんな、本当に心の底から楽しそうに笑ってる静見たこと無かったからさ。幕張の時ちょっかいかけたのは半分それのせい」

 

 一瞬、大磯が切なさが詰まった白粉(おしろい)(まぶ)したような顔で窓に顔を向けていた。それは(つぶら)な瞳を細めて、橙色の光を射影機代わりにして、まるで遠き日のフィルムの中の一コマ一コマを窓というスクリーンに映して眺め、感傷に浸っているようであった。

 

「──でもあの時、静に踏み込んで変えられるのは君しかいないんだろうなぁ、って思い知らされちゃったからなぁ」

 

「──だから、ヒッキー君」と大磯は、八幡の方へと見つめ直していた。出逢い頭で見せたものは違う新面目(しんめんぼく)(てい)して、証明写真のようにその表情で固めていた。

 

「静が悩んで、抱え込んでるのに気付いたら、ヒッキー君が手を差し伸べて、そして引っ張ってあげて欲しい」

「俺が手を差し伸べて、引っ張る……」

「うん、ヒッキー君にして欲しいんだ。何で急にこんな話したのかって言うと、私は静が今凄い一人で悩んでると思うからなんだ」

「私もそう思うな〜。二週間も、ってことはね〜。だから比企谷君がずるずるって静ちゃんのこと引っ張ってあげてね」

「あははっ、何かそれじゃ逆に足引っ張てるみたいじゃん! まぁ、とにかく何で話さなくなっちゃったとかは私たちが深く首突っ込む所じゃないと思うから、早く静と会って話して、仲直りするんだよっ!」

 

 大磯は秦野のボケに軽くツッコミを入れた後、そのように言って励ますように笑って八幡の肩を軽く叩く。

 しかし、「あぁ、分かった」という簡単な言葉がまるで彼の口からは出てこなかった。寧ろ胸が()くどころか、余計に泥炭(でいたん)が溜まっていって(よど)んでいくような感覚があった。

 

「それって、俺じゃなくてもいいんじゃないか──」

「え?」

「手を差し伸べて、引っ張るのは俺じゃなくてもいいんじゃないか。別にあいつにとって俺は、友達の一人に過ぎないんだし……」

「いやいや、比企谷君は間違いなく静ちゃんにとって()()だと思うよ〜」

 

 秦野のその何気のない言葉に、(たく)まずして眉間の皺が少し深くなった。

 

「でも、俺が特別だっていう証拠がないだろ……」

「証拠ならあるじゃん、例えば──」

 

 二人から列挙されたのは、先も述べたようなファッションや、料理や、そして笑顔のことであった。

 しかし、ファッションや料理、そしてあの笑顔ですら、八幡もこの二人も知らぬ親しい他人に見せている可能性があるのだ。

 極めて我侭(わがまま)で厚かましいということは重々承知しているが、(なぐさ)めでも(あわ)れみでもなく()()であるというのであれば、八幡が静にとって特別であるという確固たる物質的な、()()()()の証拠を、彼は欲していた。

 しかし、そのような証拠は無いと、とっくに諦めていた。

 

 だが、その時、その(しこり)となった諦念を潰してしまうような八幡が忘れ去っていた証拠が秦野の一言によって再び思い起こされるのであった。

 

「──パンさんのストラップ」

「あぁ、確かに。あのパンさんのストラップは静からの誕生日プレゼントなんだってね。静に問い詰めてゲロった時はビックリしちゃった。ヒッキー君は当然知らないだろうけど、静って、人の誕生日にプレゼント渡したことないんだよ。ヒッキー君に渡したのが、初めての他人への誕生日プレゼントだって、本人からも聞いたし」

「静ちゃんに中学の時なんで渡さないの〜、って聞いたら、『他人のためにあれこれ考えるのは面倒くさいだろう! だから渡さない!』って堂々と言ってたもんね〜」

「つまり、裏を返せばあのストラップは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()買ったストラップなんだよ。まぁ、それでおソロってだいぶ攻めてると思うけどねー」

「私は〜、特別でもない人に贈らないと思うけどな〜。おソロなら尚更〜」

「そうだったのか……」

 

 八幡は彼女達の話を聞くや否や、そのストラップをすぐに確かめたくなり、ズボンのポケットに手を入れて、それを探った。しかし手にはポケットの内側特有の布の滑らかな感触があるだけで、凸凹(おうとつ)のあるものは見つからなかった。他のポケットにも手を突っ込み、(まさぐ)ったものの、空っぽであった。

 

「──あれ、ストラップがない……」

 

 ポケットに入れていたはずの笹を銜えたパンさんのストラップは消えていたのであった──。

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 八幡は、今日一日辿(たど)った足取りをなぞるように、血眼(ちまなこ)になって校舎内を探し回っていた。その唯一無二の繋がりを一刻でも早く感じたかったのだ。

 

『私たちも探すの手伝うよ〜。大切なものだもんね〜。ね〜サクちゃん』

『うん、当然でしょ!』

 

 大磯と秦野は、そう言って嫌な顔一つせず手伝ってくれた。彼女達には文化祭の実行委員に直接落し物が無いかを尋ねに行ってもらっていた。

 連絡を取るために、大磯とメールアドレスを交換したが、まだあちらからはメールは届いていないということは、見つかってないということだった。

 

 ──校内を一通り探したが、パンさんのストラップは見つかることは無かった。大磯からの連絡もまだない。

 八幡は外へと繋がるスチール扉の前に立っていた。この場所が最後であった。

 

 目の前のドアノブに手を掛け、半回転分ほど(ひね)って、扉を開ける。開けると風が音を引き連れて、道を塞ぐように八幡に襲いかかった。

 しかし、それは(びょう)たる猫騙しに過ぎなかった。とは言っても、昨日の八幡であればこのような虚仮(こけ)(おど)しの風に足元を(すく)われて、すぐに(きびす)を返していたかもしれないが。

 

 扉の向こうの三段程度しかない混凝土(コンクリート)の階段を見る。そして、昼食をとるために座ったその中段に目を凝らす。

 そこにはパンさんが(かか)えている蒼玉(あおだま)を模したような蒼色の添え物と斜陽の相反的な紅色が折り重なるように()()ざって、彼に居場所を示すように光っていた。

 

「あった……」

 

 安堵(あんど)のため息を吐いて、八幡はそこに落ちていたストラップを拾った。

 そして意を決して、その手元のパンさんのストラップを久方ぶりにまじまじと見た。

 このストラップ自体は、何の変哲もないよく見かけるようなパンさんのストラップである。

 しかし撫でるように触れていると、この無機質の中に、確かな(ぬく)もりがそれにはあった。全てが無に消えたと早とちりしていたが、消えている訳では無かった。彼がその温もりを感じない様に閉ざしていただけであったのだ。

 そこに、彼が酷く(おそ)れていたような胸を穿(つらぬ)く鋭い痛みもなかった。

 

「まずは……」

 

 八幡はこのストラップを共に探してくれている人達に連絡をしなければならない。

 携帯電話を取り出してメール画面を開く前に、まずは携帯のストラップホルダーに、そのストラップの紐をきつくきつく結んだ。

 

『見つかった。探してくれて、ありがとう』

 

 この簡素で当たり(さわ)りない文面で大磯へと送信した。

 ちょうど同じ時に、学校全体から田舎風情(ふぜい)を思い起こさせるような情緒(じょうちょ)溢れるメロディーが流れ始め、十数秒後にアナウンスが流れた。

 それは、文化祭の一般公開の終わりを告げるものであった──。

 

 

 八幡はそのスチール扉を開いて校舎の中に戻ることはなく、一度この混凝土の階段の中段にどっぷりと腰を下ろす。

 そして、携帯電話からぶら下がり、ゆらゆらと揺れるストラップを眺めた。

 

 他人の誕生日にプレゼントを一度も買わなかった平塚が八幡のために買ってくれた人生で初めての誕生日プレゼント──そのような枕詞(まくらことば)がつくだけで、彼にはこのストラップはどんな高価な宝玉や金塊よりも価値があったのだ。

 

 そうして、八幡は久しぶりに(おの)ずから思い返していた。

 

 全てはこの場所から始まった。

 本当に何も無い世界であった。

 決して暗闇で、閉じ込められているという訳では無い。

 しかし、どこまでも果てしなく延びていくような青空の下、季節の移ろいという上辺を()ぎ取れば、本質的には何も変わらない光景を永遠に眺めるだけであった。

 そんな世界をいとも容易(たやす)く、一発の拳で粉々に壊されたのだ。新たな世界を見せつけて、怖気(おじけ)()く手を引いて導いてくれた、たった一人の少女によって。

 

 そこからは、驚天(きょうてん)動地(どうち)の日々であった。何もかもが初めての経験であった。

 こんなに世界が色鮮やかであるとは思わなかった。

 幻想のようにも思えた。しかし、あれは幻想ではなく(まご)うことなき現実だったのだ。

 

 確かに(はた)から見れば、その全ての色は真っ当な人間生活を送っていれば通過儀礼のように経験する当たり前のことなのかもしれなかった。だから第三者は平塚の行動を経験の少ない男を騙す手練(てれん)手管(てくだ)看做(みな)すかもしれない。

 ただ、(たと)えそうであったとしても彼にとっては()()で千金万金では計れないかけがえのないものであった。

 

「ははっ、やっぱり、小町の言う通りだな」

 

 そうぼやいて、一人分空くように左側へとずれる。右を向けば、いつか見た燦然(さんぜん)と輝き、目が(くら)むほどの平塚の笑顔がそこにはあった気がした。

 その瞬間に胸の澱みを一切合切吹き飛ばす、何時かの時にも感じた強い強い風が吹き抜ける。

 

 ──やはり、比企谷八幡という男は、もうどうしようもないほど平塚静に心酔(しんすい)しているのであった。

 改めてこのベストプレイスを左顧(さこ)右眄(うべん)して見渡してみると、通路脇の葉を持たない(いたわ)しい木々たちでさえ、夕焼け空を背にして枝の先々から真っ赤な花を()ゆるようであった。校舎のペンキがところどころ剥げているはずの白壁は、圧倒的な赤に染められて、塗りたて(さなが)らの様相であった。

 

 今、八幡は覚悟を決めた。

 平塚と今日会って話す。そして一通り事情を説明した後、この想いを伝えるという覚悟を。

 盗み聞きをしなければ、今日八幡が伝えていたであろうことである。

 これが彼なりのけじめであった。

 

「──うし。腹(くく)るか」

 

 そう顔を上げて呟いた時、手元の携帯電話が震動した。八幡がそれを開くと『you got a mail!!』とものの一度だけ流れるのであった。

 受信したメールを開くと、差出人は当然ではあるが大磯からで先程彼が送ったメールへの返信であった。

 

『見つかってよかった! 今度は失くさないように大切にするんだよ笑。あと、静にもさっき会ったんだけど、キャンプファイヤーやるのに必要な倉庫の鍵無くしちゃったみたいだから探してあげてねー。そしたら静と仲直り出来るきっかけになると思うからさ笑。 静のことよろしく頼んだよ! 最後に、さっき確認し忘れちゃったから、多分ヒッキー君は分かってるとは思うけど一応ね。今日は折角の──』

 

 メールの内容を確認し、大磯のアドバイスを重々承知して、携帯を閉じる。

 だが、どうしても看過(かんか)できない問題もあった。

 一般公開の文化祭はもう閉幕した。タイムテーブルを粗方(あらかた)把握していた八幡は、キャンプファイヤーの準備は閉幕後すぐに行われることは知っていた。

 だからそのキャンプファイヤーに用いる丸太から備品までが一緒くたに置かれた倉庫の鍵を紛失をすることは一大事であり、それを発見することが、火急(かきゅう)の事態であることは認識できた。

 何より引き受けた当初は不倶(ふぐ)戴天(たいてん)の敵とでも言わんばかりの(うら)み節を述べ、愚痴を(こぼ)しながらも、平塚がこの文化祭のために、そして他人が喜んで欲しいという大それた素晴らしい望みのために、貴重な休みを返上して積み重ねてきたものが、この数十分で水の泡となるのは、その姿を隣で見ていた八幡には到底耐え難かった。

 キャンプファイヤーの物品を搬入する時に倉庫の鍵を用いたから、形はよく覚えていた。だいぶ年季が入っており木目がはっきりとしている大きな木製の札が草臥(くたび)れている細い白の組紐で括り付けられており、常に自転車操業の公立高校らしい(さび)かけの鍵であった。

 

「探すか……」

 

 腰を上げると、すぐに左手にある駐輪場の奥の茂みの方へと向かう三人の女生徒の姿が見えた。今日は文化祭であるから自転車による登校が禁じられていて、(さえぎ)る自転車が一台もないから駐輪場の奥までが目に入ったのである。

 普通であれば出し物の片付けをしている(はず)であるから、不審に思って少し近づいてみると、その内の一人の手には、大きな木の札が紐で結び付けられている鍵があった。

 それはまさしく、今、平塚が捜している倉庫の鍵であった。

 八幡は、迷う寸暇(すんか)を惜しんで、鍵を取り返すために動き始めた。

 

 

 ──八幡は三人の近くへと向かった。そして起伏のないのっぺりとした声で、三人に話しかける。その三人はマトリョーシカのように綺麗に背丈が大中小に分かれていた。

 

「なぁ、お前ら、なにやってんの」

「……いやっ、これはっ……」

 

 分かりやすく肩を(すく)ませ、その三人の女生徒は、八幡の方へと振り返る。

 その表情には、「別にそういうつもりでは」と揃いも揃って可哀想な私を演出していたが、その中で、手に倉庫の鍵を握っている一番長身で細身のボブカットの女──大野(おおの)京子(きょうこ)は、八幡と目が合うと百面相の如くすぐに別の仮面を取り出して、すげ替えた。それは、顎を上げて、見下したような仮面であった。

 

「なぁんだ、比企谷じゃん」

「言わないでおいてやるから、鍵を返せ」

「嫌だ。なんでお前に指図されなきゃいけないの?」

 

 大野は木で鼻をくくったような態度で、すげなく言葉を返す。しかし、八幡も下手に出て、へこへこと食い下がることはしなかった。

 

「お前ら自分が何やってるのか分かってるのか。別に誰にも言うつもりねぇから早く返せ」

「阿呆だなぁ。一人で来ずに先生でも連れてくればよかったのに。今ならあんたのこと犯人にできるよー。こっちは証人三人もいるんだし、ねぇー」

「うん、阿呆だねっ!」

「まぁ、所詮比企谷だからねー」

 

 そう言って、三人は(かえ)って暇潰しの玩具(がんぐ)を見つけたように、いじっては笑いものにし始めた。

 ところが彼女達に間抜けな失策を(ろう)された八幡は、苦虫を噛み潰したよう顔をするかと思えば、そぐわない不敵な笑みを浮かべていた。

 

「──そういや、今日の夕焼けは見事だよなぁ」

「は、急に何言ってんの? まさか、現実逃避ってやつ? あははっ、笑え──」

 

 大野は口を開けたまま、止まっていた。そして、三人揃って血の気が一気に引いていくのが彼にも分かった。

 その理由はどこかの御殿様の紋所(もんどころ)のように見せびらかされた八幡の携帯電話の画面に映った一枚の写真にあった。

 

「珍しく駐輪場もすっからかんだし、折角だから記念にパシャリと撮ってみたら、なんとまぁ、ビックリ。片手には、行方が分からなくて捜索願の出てる鍵をしっかりと握りしめている者を含めた女子生徒三人衆がいるではないか。こりゃあ摩訶(まか)不思議だ。何でこんなとこに探してる鍵があるんですかね」

「盗撮しないでよ……、消してよ……」

「盗撮じゃなくて、俺はあくまでこの綺麗な景色を撮っただけだ。だってそもそも、片付けをしてる()()()()に、生徒が来るはずもない()()()()()に人がいるなんて思うか。俺はそうは思わねぇけど。まぁ、一応、証拠としてここに時刻も載ってるからな」

 

 八幡は画面の右上の方を指差して、(わざ)とらしく指を(つつ)くように動かして、三人に示した。

 

「……という訳だ。鍵を返してくれ。返してくれたら、目の前でこの画像は消してやるから」

(おど)しかよ……」

「まぁ、目には目を歯には歯を、悪行には悪行で対抗するのがベターだからな」

 

 鷹揚(ようよう)自若(じじゃく)に八幡が言葉を返すと、大野は琺瑯(ほうろう)質が悲鳴を上げているかと錯覚するほど鈍く痛々しい音を鳴らして歯(ぎし)りしていた。

 一方周りの二人は写真を見せつけられてから、最早屠所(としょ)(ひつじ)のようであり、おそらく実行犯と思われる大野が白旗を()げることを待つように、彼女に目線を送っていた。

 しかし、中々大野は鍵を返そうとしなかった。

 

「ほら、時間がねぇから、早く返せ」

「……あいつが悪いんだよ」

「あいつ……?」

「静が悪いんだよ……! あいつ、私が好きだって知ってた人の事(たぶら)かして、傷付けやがった!」

 

 大野は唾を飛ばす勢いで、語気を荒げる。大野の言う平塚が誑かした相手は、清川(きよかわ)(たくみ)のことであろうことは彼に対する平素の大野の態度から見ても容易に推測することが出来た。

 

「前々から気に入らなかった、あぁいうの! なに、なんでも出来るからって、スーパースター気取りのつもり?! ね、二人もそう思うでしょっ……?!」

 

 急に同意を求められて、横の二人は狼狽(うろた)えたようで、必要以上に縦に首を振っていた。まるでロックシンガーに指示されて、一心不乱に行うヘッドバンキングじみたその同調圧力は、もはや滑稽(こっけい)の域である。

 しかし、その積もり積もった恨みつらみが形を変えた修羅を模した形相は笑い話で済まされるものではなさそうであった。

 

「別に平塚は誑かしたつもりはねぇだろ。ただ断っただけじゃねぇか。お前のは、世間一般的に八つ当たりって言うんじゃないんですかね」

「は、はぁ?! なんでお前があいつの肩を持つの、お前だってこっち側だろ! ……って、比企谷が知ってるわけないか。じゃあ、教えてあげるよ! お前は、あいつに(もてあそ)ばれてたの!」

「……」

 

 ──弄ばれていた。

 いくら特別な関係だと納得させて、覚悟を決めても、他人にそのように評されると、多少なりとも響くものであった。

 急に押し黙った様子の八幡を見た大野は、薄気味悪く、口角を少しあげる。

 

「そういや、結構昼休みとか一緒にいたもんね〜。ディスティニーとか幕張にも二人で行ったんでしょ」

「なんで、そのこと……」

「風の噂で聞こえてきちゃったんだよねぇ〜。ま、それでもね、あいつはお前のこと好きじゃないんだって……! あはははっ……! ほんと可哀想! ぷふっ……!」

 

 寝耳に水とでもいうような八幡の面構えを指を差して、吹き出して(あざけ)始めた。

 

「それにお前、この学校の色んな人からも嫌われてたんだよ? あたし聞いちゃったし。例えば、お前の消しゴム消えたり、ノートが授業前に限って失くなったりとかしてたでしょ!」 

「何でそれを知ってる……?」

「噂で流れてきたって言ってんじゃん。それで、実はあれはお前のことが嫌いになった奴がしたらしいよ!」

「どういう事だ……?」

「受け入れられないのかなぁ、ほんと可哀想。ま、静がお前のこと好きじゃないって分かったから止めたっぽいらしいじゃん。つまり、全部あいつのせいなんだよ、気づいた?! 私は優しいから教えあげちゃったぁ」

 

 八幡は混乱して、口をあんぐりとさせて、言葉が出てこなかった。なぜ大野がそのことを知っているかだけではなく、あの気の緩みによる健忘(けんぼう)の現れだと思っていたここ最近の()くし癖は、実は八幡のことを嫌っているという目に見えない人の仕業(しわざ)であることに魂飛(こんひ)魄散(はくさん)としていたのであった。

 

「第一根暗で誰も近づかないようなお前に、なんであいつが近づいたか分かる……? それはね、あいつにとって都合が良かっただけ、ただ、それだけじゃん! ()()って言葉ほんっとこういう男を誑かすのに便利だよねぇ。ほんと、同情しちゃうなぁ。あいつには勘違いさせられて、ほかの男子共には勘違いされて、ほんっとに泣いてあげたくなるくらいに可哀想だよねっ、ははっ……!」

 

 (あお)りに煽る大野はここで妙案(みょうあん)を思いついたようで、「あっ、そうだ!」と声を上げて、片手に握った倉庫の鍵を八幡に見せつけて、ほくそ笑んだ。

 

「だからさ、ここはいっその事私たちと手を組んで、お前も、一緒にこれを隠そうよ」

「そんな事絶対に出来るわけないだろ。とにかく鍵を返せ」

「この()に及んでなに善人面してるの。お前も被害者なんだよ?」

 

 そして、大野は一度舌先で唇を湿らせて、言った。

 

「──だから、私たちと同じような気持ちを味あわせてやろうよ! あの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()にさっ……!」

 

 その言葉が耳に入った瞬間であった。

 今まで何があっても決して切れることがなかった頑丈な有刺鉄線がぶつりと切れる音がした。

 そして、その内側から今まで日の目を浴びることのなかった黒褐色の泥泥とした岩漿(がんしょう)が、どっと噴いて出て八幡を瞬く間に覆って()き尽くした。

 

「………………取り消せよ」

 

 酷く底冷えした声が八幡の口から発された。

 

「……は?」

「今の言葉、取り消せつってんだよっ……!!」

「「……ひぃっ!」」

「いくら俺のことは悪く言うのは構わないが、平塚を侮辱(ぶじょく)するのだけは絶対に許さねぇ……!」

 

 大野は、気圧(けお)されて先程までの女豹(めひょう)の如き威勢は(つゆ)と消えて、総毛立たせて縮こまった子猫のように一歩、後退りした。残りの二人は大野を置き去りにして、(しり)()をかけたように一目散に逃げていった。

 しかし、未だかつてない憤然(ふんぜん)に満ちている八幡は、容赦(ようしゃ)なくその猫を追い込むように一歩、また一歩詰めていく。

 

「…………ちょ、ちょっと」

「平塚はそんなやつじゃねぇんだよ……!」

 

 他の誰かに見られているなど思考の(ほか)で、八幡は煮え(たぎ)る腹の奥底から怒号を飛ばしている。

 大野は八幡の言葉を失っていたようだが、意地が勝ったのか突飛に臀をまくって声を荒らげた。

 

「……い、いや、あいつはそういうやつでしょ! 優等生気取って、何食わぬ顔で男を誑かすクズじゃん!」

「お前が平塚の何を知ってるんだ……! 何にも知らねぇくせに平塚を(けな)すんじゃねぇ……!」

 

 八幡の怒声は、ますます凄みと重みを増していく。

 しかし、徳俵(とくだわら)に足がかかっている大野も後には引けまいと、(ひる)まずに言葉を返してきた。

 

「は、はぁ……?! お前だって、なんも知らないでしょ! アイツにちょっと優しくされただけで(ほだ)された根暗童貞野郎がしゃしゃんじゃねぇよ!」

「お前よりは、知ってんだよ……!」

 

 喉の内側が擦り切れそうで、今にも喀血(かっけつ)する気配すらそこにはあった。それほどの音圧と音量で、怒髪天(どはつてん)()いたような声を張り上げていた。

 

「あいつが強がりなところも、寂しがり屋なところも、人並みに悩みを抱えてることも、楽しい時に本当に楽しそうな顔で笑うこともお前よりは知ってんだよっ……! 俺以上になんも知らねぇお前が、偉そうに平塚の事貶すんじゃねぇ……!」

 

 慣れない怒髪天の如き胴間(どうま)声で言い切ると、息遣いを荒らげながら、また一歩近づいた。

 大野は、とうとう完全に萎縮(いしゅく)してしまったようで、目にはいっぱいの涙を含んで、その細長い身体全体を震慄(しんりつ)させていた。

 

「な、何なんだよ、お前……。こっち近づいて来んなよぉ……」

「とにかくもうやめろ、鍵を返してくれ。これ以上、平塚のこと侮辱されたら──」

 

 八幡は、その後の言葉を口にしなかった。

 しかし、感情の発露を鍔際(つばぎわ)(こら)えていて、その代わりに大きく震えている彼の拳が、暗にその後に続く言葉を示していた。

 

「早くしろ……」

「ひぃっ……」

 

 左手の握り拳を(ほど)いて、拡げ、大野の目の前に差し出す。

 

「わ、分かったから。ほ、ほら……これでいいんでしょ」

 

 大野は声を震わせながら、八幡の手の上に倉庫の鍵を置いた。彼女の頬には、血涙(けつるい)のようにも見える紅染めされた滴が流れていた。

「あぁ」と八幡が相槌(あいづち)を返すと、大野は直ぐに背を向けて駆け出した。だがスチール扉を開けた直後一度立ち止まり、八幡に憎悪に染まった鋭い一瞥(いちべつ)を送り付けて、校舎の中へと姿を(くら)ました。

 

 手元を見れば、大野から取り返した少し錆び付いた鍵が、夕陽を浴びて赤銅(しゃくどう)色の光沢を覗かせていている。

 ふと校舎の窓を見ると、そこにはただでさえ鋭利(えいり)な目を吊り上げて、眉間(みけん)には(しわ)が寄って凄みがかり、その額にはくっきりと青筋を立てていて、鬼気(きき)森然(しんぜん)とした面持ちの男が映っていた。この顔と対峙(たいじ)した大野には一種の殺気も宿っているように見えたかもしれない。

 思わず八幡はそこから目を背け、自らの顔を撫で回す。

 再びその窓を見ると、いつもの顔に戻っていた。

 そして、大きなため息をついた。

 

「はぁ……、何やってんだ俺……」

 

 あの窓に現れた我を忘れたような顔は、()()()()()による産物ではなかった。

 もちろん、平塚に対する侮辱は、断固として許容できるものではない。

 しかし、窓に映っていた顔は、この二週間程の個人的な鬱憤が含まれた()()()()()であった。

 これを女子に向かって、ただ内にある私的な感情までもぶつけてしまったのだ。結果的には威嚇(いかく)になったとは言え、女子相手に拳も震わせてしまった。

 

 しかし、自責の念を(つの)らせるのは、今八幡がすべきことではなかった。まずすべきことは、この手にある鍵を、一刻も早く平塚の元へと返すことであった。

 

 

 

 ──校舎の内と外を(へだ)てるスチール扉の目の前、八幡はそこにある三段程度しかないコンクリートの階段の中段に座り込んでいた。

 テニスコートは寝静まっていて、風は向きを変えて、元にいた場所へ送り返すように陸風が東京湾の方角へと吹き抜けていく。その風が、昼時であれば舗装された駐輪場から校舎に続く目の前の小路(こみち)(あや)なす薄茶色の斑点(はんてん)に見えるが、すっかり宵闇(よいやみ)の中へと飲み込まれてモノトーンの黒へと同化してしまった落ち葉をふわりと巻き上げる。

 だが、その黒い落ち葉のいくつかが八幡の真上に舞い上がった時、三等星の如く(かそけ)く光った。生命(いのち)としての最期の輝きかのように映ったが、それは違ったのであった。

 

 眼前にある校庭の中央へと目を向ける。そこにある篝火(かがりび)は龍のようにその図体を仰々(ぎょうぎょう)しく(うず)巻くようにくねらせて上へと、遥か高い空の先まで昇っていくのであった。

 それが、星のない首都近郊の空へ一面の(あか)りを届けていた。死んだ落ち葉を照らしていたのはまさしくその(ともしび)であった。

 その周りを囲んで、総武高校の生徒達は群れを()している。

 その中でとりわけ生徒が固まっているところでは、たった今どよめきが起きた。

 目を()らすとそこには、学園内の美少女と持て(はや)される山王弘子と、昼間に横に並んで廊下を歩いていた坊主頭の男が抱き合っているのが見えた。

 こちらまで届いてくる指笛が、その驚きを伝え、誰かが「最強カップルの誕生だァ!!」と(うそぶ)いている。

 

 まだ(うたげ)は始まってもないのに、誰もが興奮に包まれ、頭は()だって、狂乱する。

 

 その狂乱へと連れ去る光彩(こうさい)陸離(りくり)の輝きは、去年の彼にはただ(いたずら)に目を焼き焦がすものにしか見えなかった。だから、その姿を須臾(しゅゆ)も見ることはなく、逃げるように去っていったのだった。

 しかし、その輝きは全ての人を等しく照らし貫く輝きであった。たとえそれが死を迎えた、最も(あわ)れむべきものだとしても。

 

 今、八幡の胸元のブレザーは、その光を受けて、(あわ)く、揺らめきにのって切り絵のように陰翳(いんえい)を変えていく。

 ただ、狂乱へと(いざな)うほどの熱は与えてくれていなかった。八幡が冷静に俯瞰(ふかん)して見られるのは、この場所から遠巻きに、独りで見ているからに違いなかった。

 そして、その鮮やかな光と(おびただ)しい熱を受ける向こう側との依怙贔屓(えこひいき)にも似た絶対的なコントラストが(むな)しさと、(こと)に自己憐憫(れんびん)を彼に(もたら)した。

 

 それゆえ皮肉なことに八幡が(まも)ったあの燈は、昨年以上に心を(えぐ)るものになっていた。

 しかし、あの火の光をこのようにして浴びることは自身に課せられた使命である気がして、逃げることなく留まっていたのであった。

 

 ──八幡は、もう動かなければならなかった。

 

 まだ平塚には会っていなかった。大磯が提案したように、校庭の脇にある倉庫の鍵を用いて口実を作れば、平塚と話す機会を設けることができただろう。

 ただ、これを理由に渡すのは恩着せがましい上に、姑息(こそく)だと感じた。だから渡すでもなく、いずれ目が届くであろう場所に、その鍵を置いて去ったのであった。

 

 二つ折りの携帯を開く。そして、メニューボタンからメール機能を起こす。

 下書きに文字列を入力する。この場所(ベストプレイス)に来て欲しいと。

 覚悟を決めても、やはり今までにないほど指は震えた。何度も打ち間違えをしては打ち直す。

 このメールを書いた先の未来は、八幡にとっては辛いものである可能性が高い。

 しかし、書かなければモノクロームの無味乾燥な未来が待っていることは間違いなかった。

 

 逡巡(しゅんじゅん)していては始まらない。

 

 大磯、秦野に、小町に背中を押された。

 先程パンさんのストラップを見た時、少なからず特別な関係であることを信じることができた。

 そして、あの轟々(ごうごう)と燃え盛るあの焚き火より強く耀(かがや)く一等星の如き笑顔が再び(よみがえ)って目に映った時、改めて八幡は自覚したのであった。

 やはり、平塚のことがこの上なく好きであるということを。

 小町は認めてくれると言ったものの、別段平塚に言う文句など一つも浮かばない。

 

 ──潔く告げて、潔く玉砕(ぎょくさい)する、のだと。

 

 震える指で、何とかボタンを押して、一文字ずつ文字を打ち込んでいく。

 そして、時間をかけて完成した平塚宛てへの一通のメール。

 十字ボタンの真ん中の丸い送信ボタンを、一呼吸置いた後に、押した丁度その時であった。

 何の前触れも無く、背にあるスチール扉の戸が、開けられたのであった。向こう側の熱気を多分に含んで薄まった(ぬく)んだ風が吹き付けてきて、八幡の前髪を()き上げるように揺らした。

 だが、八幡は振り返らなかった。

 そこに彼女はいるはずなどないと思ったからである。

 

「比企谷……」

 

 しかし、後ろから八幡を呼ぶ声が聞こえたのだった。

 都合のいい幻聴(げんちょう)でも聞いているのかと思った。

 だが、それにしては声が生々しかった。

 あの、芯があって、耳触りが良くて、優しさがあって、愛おしくて、忘却できるはずなどなくて、だから耳を塞いで、思い出すのを長らく(こば)んで、そして今一番聞きたい声であった。

 少ししてから手元の携帯を閉じて、八幡は振り返らずに、「どうしてここに居るんだ」とその幻聴に尋ねた。

 すると、程なくして答えが返ってきたのだ。

 

「君のことを捜していたからな……。多分ここにいると思って……」

()()()()()()()()()

「……その、倉庫の鍵のことの礼をしようと思ったんだ。君が大野から取り返すところ見てたから」

「……そうか、見てたのか。あれはその、気にすんな。大野は嫉妬でおかしくなっただけだ」

 

 そう口にして、自らの言葉にどこか引っ掛かりを覚えた。

 嫉妬──どこかで、恋(がたき)になりつつある友人に嫉妬する男の話を読んだ。その男は、嫉妬の矛先を当然その友人に向けていた。つまり、嫉妬を他人に当て付けることで、痛みを発散させ、自我を保っていたと、彼は解釈した。

 八幡も同じであったのだ。

 しかし、八幡の対象は見えない誰か──純白のタキシード姿を着た黒塗りの顔の男であったのだ。

 だから、嫉妬の熱的な感情が外的世界へと発散されることなく、行き場を無くして彼の中で空転し、その炎が彼自身を焦がし尽くした。

 それをどうにか味わわないために、拒絶という形をとって関わることをやめたのであった。

 

 このことに今、気付かされた。

 

 あの小説を読んだ時、何も知らなかった八幡は、なんと(おろ)かな男だろうと理解できずに苦笑したが、今、その嫉妬に狂った男──先生に「君も同じですよ」と後ろ指差されているようであった。

 酷く愚かであった。しかし、覆水(ふくすい)盆に返らずという。

 そして今、愚かしい自分を棚に上げていることに嫌気が差す。だが、この性分はもう仕様がなかった。

 まず、すべきことが彼にはあるのだ。

 

「うん、大丈夫だ。もう気にしていない。だから、その……、ありがとう、比企谷……」

「別に礼をされるようなことはしてねぇよ」

 

 平塚は聞きたいことがあると、続けざまに口を開いた。

 

「なんだ?」

「……私のこと」

 

 やけに長い間が置かれる。

 

「私のこと、嫌いに……、なったのか──?」

 

 絞りでたようなその声は、今までにないほど震えていた。ただ、八幡もそれに共鳴したように聳動(しょうどう)が止まらなかった。

 

「それは……」

「私が何か、君に酷いことをしたのなら教えて欲しい。ちゃんと謝るから……」

「…………………………」

 

 すぐには言葉にはできなかった。

 口を開こうにも言葉は出ない。

 脳天に浮かんでは、(あぶく)のように一瞬で破裂して、波紋(はもん)だけ残して消える。

 

 ──やはり怖かった。

 

 彼は(しばら)く押し黙っていた。

 

 ふと手元の携帯電話が目につく。

 相変わらず()()は落ち葉を巻き上げた風に(なび)いて、健気(けなげ)に揺れていた

 

 もう進むしかないのだ。

 恐らく八幡にとっては辛い時間がやってくる。

 だが、潔く告げて、潔く散ることを覚悟した。

 だから、そのためにまず彼は事の顛末(てんまつ)を伝える。

 

 

「──別に嫌いになったわけじゃない」

「じゃあ、なんで……」

「お前が清川に告白されてるところに居合わせたんだ。そして聞き耳立ててたら、お前に好きな人がいるってことを聞いちまった。それからはお前に顔を合わせられなくなった」

「そうだったのか……」

 

 自身の嘆かわしい行動を改めて(うれ)い、思わず鼻で笑う。

 

「ははっ、ちゃんちゃらおかしいよな。別にただの友達なはずなんだけどな──」

 

 続けて非礼を()びて、想いを伝えようと段取りを決めた時、平塚が割り込むように口を挟んだ。

 

「──比企谷、単刀直入に言うと、あれは()なんだ……」

「………………え──」

 

『嘘』

 突如放たれたこの一単語に思考回路は混迷を極め、続けるはずだった言葉が宙に舞った。

 だが背を向けている八幡の内情を知る由もない平塚は話を続けた。

 

「実は清川に告白されるのが数回目でな、何回もしつこく迫られたから、つい口を(すべ)らせてしまったんだ。自分でも咄嗟(とっさ)のことでどうしようもなくなって、あの場を取り(つくろ)うのと……」

 

 躊躇(ためら)うように、言葉に詰まらせた。

 

「……そ、その、言い訳がましい上に、何を言っているんだと思われるかもしれないが、君が傷ついて欲しくなかったからあのように言ったんだ」

「え、ちょっと、待って。じゃあ、他に好きな人がいるって言うのは……?」

「嘘なんだ」

「は、ははっ、はははっ……」

「そのだから、比企谷、私っ……」

「────はぁ、良かったぁ………………」

 

 ここ最近ずっと蟠踞(ばんきょ)していた力みが物の見事に灰燼(かいじん)と帰して、全身を空っぽにする程、深い安堵のため息を吐いていた。思わず漏れ出た言葉は、心の底からの言葉であった。

 

「……つまり、比企谷は()いていたということか」

「……あぁ、その通りだ。何も言い返せないな。本当に情けない」

「そうか、君が私のことで妬いてくれてたのか……」

 

 安堵の波に飲まれ愁眉(しゅうび)を開いた八幡であったが、(たちま)ちその波が引くと、そこにあったのは目の前の平塚に対する慙悔(ざんかい)の念であった。あの邪険(じゃけん)な態度が、いかに平塚を傷つけたのかは今の彼には想像に容易い。

 八幡は勢いよく腰を上げて、振り向いて、深く頭を下げて謝ろうとした。しかし、それは叶わなかった。

 知らぬ間に真後ろにいた平塚は、(あたか)も八幡に見せまいと突如顔を(うつむ)かせて、彼の胸にしなだれるように身体を預けてきたからだ。

 その懐かしく懐炉(カイロ)のように身体に染み入る温もりは、言葉にせずとも全てを(ゆる)してくれそうであった。

 しかし、言葉にしなければならないのは彼の責務であったのだ。

 

「その、平塚。俺、お前のことすごく傷つけたと思う。本当に申し訳ない」

 

 平塚は何も言わなかった。ただシャツ越しに彼女の吐息が感じられるだけであった。

 しかし、程なくして彼女は力ない拳で、八幡の胸板を叩いた。そして、更に押し付けるように胸元に顔を擦り寄せる。その為、額の熱さと、鼻先の冷たさまでもが伝ってくるのであった。

 

「平塚……」

「……殴る。……もう一発殴る。……いやもう一発殴る──」

 

 声を(すぼ)めながら、何度も何度も力ない拳で叩いた。

 しかし、その拳は確かに(あばら)から全身の骨の(ずい)にまで響き渡り、今まで平塚から受けた拳の中で、もっとも()()ものだった。

 

「私っ、すっごい心配だったんだからな……」

「本当に申し訳ない」

「君に……、避けられるようになってから、全然楽しくなかった。辛かった。本当に、本当に、辛かった……」

「本当に申し訳ない。俺が悪い」

 

 平塚の声は次第にぶつ切りになり、その華奢(きゃしゃ)な身体も小刻みに震えていた。

 ただ八幡にできることは、誠意を持って謝ることだけであった。

 

「ほんと、に。ほんとにぃ…………」

「到底許してもらえるとは思ってない。だから、何回も謝らせて欲しい。無視したり、腕を振り払ったり、最低な態度をとって、最低なことをして、本当に申し訳なかった」

「ほんどにっ……ぐすっ、すっごく、すっごく……、わだしぃっ……」

 

 次第に平塚は言葉を出すことも(まま)ならなくなっていった。何かを堪えるかのように、八幡の胸倉を皺になりそうな程強く掴んでいた。

 しかし、段々と八幡のシャツがじわりと濡れていく感触があって、声をしゃくり上げだしたので、平塚が泣いているのが分かった。

 

 彼女の慟哭(どうこく)を見るのは当然初めてであった。

 その後も平塚は泣き続けた。

 赤子のように大きな声を上げて、泣き続けた。

 

 八幡は平塚を泣かせてしまったのだ。

 実はもっと彼女を泣かせていたに違いなかった。

 力が抜け落ちた彼の腕は、彼女を抱き締めることも、そして、彼女の頭に添えることも無かった。

 気障(きざ)な男であればやってのけたであろうが、彼には無理であった。

 それは性格が異なるだけではない。そのようなことをする資格が今の彼には無いように感じたからだ。

 彼はただ黙って、平塚が(さら)け出している彼女が味わった哀しみに身を()まされているだけであった。

 

「──あはは、泣かないつもりだったんだがな」

 

 数分経って、八幡から身体を離した平塚は鼻を(すす)り上げて、何度も目尻を(こす)っている。その跡は蚯蚓(みみず)()れのように赤くなっているのが、暗がりの中でも分かった。

 久しぶりに見た平塚の顔は、やはり娟麗(けんれい)としていた美しかった。しかし、その顔に(なみだ)の跡は似合っていなかった。それは、他の誰でもなく八幡が付けてしまったものであった。

 

「本当に申し訳ない。平塚」

 

 もう一度謝った。今度は深く、深く頭を下げる。

 

「もう大丈夫だから、顔を上げてくれ。そもそも私が許すも何も、君が謝ることなんてない」

「いや、俺が」

「──ううん、私が悪いんだ」

 

 そう言って、あの嘘に至るまでの経緯(いきさつ)を話し始めた。

 平塚の話は(はな)から信じられない話であった。

 それは、総武高校裏サイトと呼ばれる、匿名(とくめい)掲示板がインターネット上にあって、そこにあるスレッドの一つに八幡に対する悪口が書かれており、それから嫌がらせの話が持ち上がっていた、という話であった。

 (さかのぼ)ると、もう五月、つまり体育祭より前から、そのような悪口は始まっていたそうなのだ。

 平塚の話通りに、携帯を開いて、検索をかけると、そこには確かに裏サイトと呼ばれる掲示板があって、悪意には慣れていた八幡が言葉を失うほどの、罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)──つまり、一人の人間に向けられた不特定の人々による可視化された敵意と悪意があった。

 理由は至極単純で、()えない根暗男である癖に、高嶺の花である平塚と仲良さげに(そば)にいるからムカつくというよくある(たぐ)いのものであった。

 その中には、ディスティニーや幕張に行ったこともそこには記されていた。

 そして、可視化した悪意が八幡に嫌がらせとなって実体化したのは、九月の下旬以降であり、それは丁度消しゴムが紛失するようになり、ノートが授業前に消え始めた時期と重なる。しかし、それらはまだいい方で、実行はされていないが身の毛もよだつような嫌がらせ──もはや(いじ)めを提案しているような書き込みもあった。

 

 つまり消しゴムを紛失したり、ノートが授業前に限って行方知らずになっていたのは決して浮かれ気分であるという訳ではなかった。全部八幡からは見えない悪意によるものだったというのだ。

 

「……まじか、消しゴムとかノートが消えてたのはそういうことだったのか」

 

 流石(さすが)(おぞ)ましく鳥肌が止まらなかった。 しかし、それで清川が八幡の名前を即座に挙げたことや、大野が(つまび)らかな情報を知っていたことにも合点(がてん)がいく。

 

「私がその事を知ったのは、クラスの女子が影でその話をしているのを偶然耳にした時だった。まさかと思って検索して覗いて見たら、もう書き込みが凄いことになっていたんだ。そして、色々一人で考え込んでしまった。

 もし私が声を上げたり、学校に報告したら、君が余計嫌がらせの対象になるかもしれない。もし私が君にその事を相談してもそうだ。

 どちらにせよ、きっと君は優しいから、私が迷惑(こうむ)らないようにと、自分を傷つけて解決してしまう。それか私から離れていってしまうんじゃないかって……。

 考えすぎだって分かってはいたんだ。でも、数パーセントでも、そういう可能性があると思うと、言えなかった。君に傷ついて欲しくなかった。君と一緒に居られなくなるなんて絶対に嫌だった……」

 

 平塚はわなわなと震えて、それを必死で抑えるように普段は瑞瑞(みずみず)しい桃色の唇が赤く(にじ)むほど強く噛んでいるのが、不意に(あか)りが口元を照らしたとき気付いた。

 

「だからあの時、清川に他に好きな人がいるって思わず言ってしまった時に、咄嗟に比企谷はただの友達に過ぎないんだって一言言ってしまえば、君への嫌がらせは終わるかもしれないと考えてしまったんだ」

 

 確かに平塚の考えは、見事に功を奏していたのであった。あの忘れもしない雨降りの日の夜を境に、平塚は八幡ではない他の人の事が好きという話がその掲示板へ流れ込むと、途端に見えない悪意は八幡への興味関心をなくし、ぱたりとその手の書き込みは消えて、別の話題へと移っていたのであった。だから、当然その日を境に、八幡が消しゴムを紛失することはめっきり無くなったのである。

 

「──でもそれは酷く短絡(たんらく)的だった。君の耳にもし入ってしまったら、など至極簡単なことを想像することが出来なかった」

 

 濡れ()色の後ろ髪が前方へと垂れ下がるような勢いで、平塚は頭を深く深く下げた。

 

「ごめんなさい比企谷、私が悪いんだ。私が……」

「顔を上げてくれ、悪いのは俺だ。俺が()ねずに聞けばよかっただけの話だ。平塚は俺を守るために嘘ついてくれたんだろ。だから平塚が謝る必要は何も無い」

「うぅん、だとしても私が悪いんだ。私がもし、君と同じ立場だったらすごい不愉快、いや、そんな言葉じゃ言い表せないほど嫌な気持ちになると思う」

 

 顔を上げて「それに」と平塚は、付け足す。

 

「私から事情を説明すれば解決できたことなんだ。でも、怖かったんだ……。

 もし、ただの私の思い違いで、もっと別のことで傷つけていたとしたら、君は私に失望するのではないかとすごい不安になったんだ。

 たとえ、思い違いでなくても、もしかしたら、こんな嘘をついたことを知ったら、君は私のことを嫌いになるかもしれないって、君のこと傷つけたらもう私のこと見向きもしてくれなくなるだろうって、本当にすごい怖くなった」

 

 少し背筋は曲がり、肩は震えている。

 

「──また君に、あのように手を振り払われたら、もう私の心は粉々になってしまいそうな気がしたんだ。だから私はできなかった。

 私が言っていたことは綺麗事だったのだな……。本当に大切だと、傷つけてしまうのは、こんなにも、こんなにも、恐ろしくて怖いものなんだな……」

 

 滔々(とうとう)とまるで自白でもするかのように語った平塚は、「でも」と続けた。

 

「今日会った桜とツルに背中を押されて、そして君が鍵を取り返してくれた時、私のことあんなに知ってくれてる、思ってくれてるって知って、ようやく君に話しかける勇気を持てたんだ。本当に私は臆病者で、すごい(ずる)い女だ…………」

 

 平塚は暗い顔を(おもて)に残したまま、目線を落として、そう自らを(いや)しんだ。

 ここまで平塚の謝る理由を口を挟まずに聞いていた八幡は、彼女の様子を見て、あろう事か一つ同意の相槌を打った。

 

「──確かにすごい狡いな」

「だ、だよな……、こんな私」

 

 八幡の言葉を聞いて、より一層声を(しぼ)ませる。腰周りのスカートの布地を強く握っていて、自らを責めるような大きな黒い徒波(あだなみ)が裾に向かって放射状に刻まれていた。

 

「だって、そんな臆病で狡いところですら阿呆(あほ)みたいに可愛いと思えるんだからな。本当に巫山戯(ふざけ)てる。マジで不条理だ」

「え……?」

 

 平塚は八幡の言葉に青天の霹靂(へきれき)とでもいった表情を見せる。しかし、男心というものを考えれば当然の話であった。

 

 ──だって、そんなに俺の事を考えてくれてるなんて知ったら、飛び跳ねるほど嬉しいに決まってるじゃないか。

 

「平塚は狡いんだよ、本当に。一人の根暗で冴えない男の純情散々掻き乱しやがって。人生一八○度変わったぞ。相当高値がつくからな、これ」

「そう言われても、困る……」

「まぁ、取り敢えず、当然だが俺は平塚のことを許す。それで、これ以上はいくら言ってもキリがねぇから、今回はお互いのせい、お互い反省ってことでいいよな。これでおあいこだ」

「うん、うん……、うん…………。よかった、本当によかった」

 

 平塚は胸に手をあてて、撫で下ろす。そして、ようやくどっと大きく色々なものが詰め込まれたたような息を吐いていた。

 

「こんな事もう無いようにしなきゃいけねぇな」

「うん、私もそう思う」

「じゃあ、()()()()()()を徹底しよう。ほうれんそうっつーのは、何かあったらすぐ報告する。連絡する。相談するっていう」

「それって……」

「あぁ、俺の()()()()()()()()だ」

 

 とっておきの平塚の台詞(セリフ)を八幡が堂々と盗んでの所得顔(ところえがお)を見せつけると、平塚の顔が(ほが)らかに崩れた。

 

「ぷふっ……、あははっ!」

 

 笑っている。平塚が笑っている

 また屈託(くったく)なく笑ってくれている。

 昨日まで金輪際見ることができないと思っていた眩しい笑顔が確かにあった。

 その顔を見て胸が(まき)()べられた(かまど)のように奥底からじんと熱くなり、自然と八幡も頬を緩ませて、笑っていた。

 

 二人して二週間分の笑みを取り戻すかのように笑っていると、唐突に校庭の方から、マイクを通した声が響いてきた。

 

『名残惜しいですが、キャンプファイヤー残り五分です!! じゃんじゃん楽しみましょう!』

 

 すっかり失念していたが、今はキャンプファイヤーの時間であった。宴はいつの間にか始まって、向こう側にいる生徒は、激しく燃え盛るようでありながら、哀愁(あいしゅう)を漂わせる名の知らぬ円舞曲(ワルツ)に合わせて踊り狂っていた。更に残り時間も五分と僅かであるという。

 もちろん八幡に踊る相手がいるとするなら、目の前の平塚だ。

 だが、考えてみると、あの発言が嘘だからと言って、八幡の恋路(こいじ)成就(じょうじゅ)する訳ではない。むしろ、言い(ぐさ)()れば彼女に好きな人はいないということになる。

 キャンプファイヤーの学校の伝説は当然平塚も知るところであるから、ここで誘えば言外に好意を伝えることになるのだ。

 

「そっ、そういや平塚は踊る相手はいる、……のか?」

「いる」

 

 その探り探りの問い掛けに対する即答に思わず八幡は戸惑い顔を浮かべ、咄嗟に勘繰りを働かせた。

 すると平塚は竹篦(しっぺい)返しとでも言わんばかりに悪戯(いたずら)っぽく笑って、

 

「──目の前に、な……」

 

 と囁いて、八幡を見つめる。

 心臓がその瞳に操られたように高鳴る。

 彼は今にも欣喜(きんき)雀躍(じゃくやく)として一人でに踊り出してしまいそうな我が身を必死に抑えた。

 

「……ははっ、してやられたな、こりゃ。……よしっ」

 

 一、二歩後退(ずさ)って、階段を下りる。

 膝をつかずとも生まれた高低差は、まるで御伽(おとぎ)(ばなし)でよく見るあの光景であった。

 すぐそこにいるのは八幡にとってまさしく世界でたった一人の()()だった。

 彼は、その姫君に向かって、手を差し伸ばす。

 

「──平塚静さん、俺と一緒に踊ってくれませんか?」

「…………はいっ、よろこんでっ!」

 

 八幡が差し出した手に、細く小さな手が乗せられた。

 その女性らしさを感じるしなやなか指の間に節くれだった指を差し込んで、ぎゅっと結んで、固く繋いだ。

 不思議と、顔から火が出るほどの恥ずかしさは無かった。

 

 平塚もその混凝土の階段を降りて、校庭の方へと、少しでも灯りがある方へと二人並んで、固く手を結んで、歩いていく。

 誰もいない、誰も見ていない(にび)色の混凝土で舗装された(こみち)──ここが今、魔法にかけられたように舞踏会の舞台(ステージ)へと変貌する。

 

 

 二人はぎこちないステップを踏み始める。

 作法などは分からなかった。

 しかし、気の向くまま、その円舞曲(ワルツ)に合わせて、踊った。

 

 

 ──踊った。

 

 

 今、狂乱に誘い、没入感を味合わせるほどの(ほとばし)る熱を確かに感じた。それは、あの篝火(かがりび)の熱もそうであったが、それより遥かに彼女の熱が伝ってきたからであった。その熱は全身に染み渡るように伝って、心地良さで溢れる。

 やがて、さらに奥の、奥の方へと染み渡っていく──。

 

 それは、彼の内にあった氷をいとも容易く溶かしていった。

 奥底にあった──決して解けることのなかった残り雪も、とうとうその熱に当てられて、じわりと溶けだした。

 そして、その下に隠れていた新芽が顔を出している。

 

 今、その新芽──夢の芽は、消えたと思われていた()()という名の肥料が()かれたことで、瞬く間に育ち、夢の(つぼみ)と成って、活き活きとしていた。

 それはまもなく清らかに澄んでいて風光(ふうこう)明媚(めいび)な花を咲かせようとしているのであった。

 まさしく、()()()であった。

 

 

 ──二人は踊り飽かす。

 

 

 不意に平塚の顔が、燈に照らされて闇夜に明るく浮かんだ時であった。

 もう何度目か分からない。だが、やはり何時とも変わらない。

 (まなじり)の方に向かって(なだ)らかな丘陵(きゅうりょう)を描き、細く整えられた眉毛と、鼻梁(びりょう)高く、切れ長な双眸(そうぼう)は中性的な魅力を漂わせる。一方、はっきりとした二重(まぶた)の真下で、遠くの(とも)し火が揺れる瞳はどこまでも澄み切っていて、朗らかに形を変える瑞瑞しい桃色の唇は、(あまね)く人々を魅了するような可憐さを(かも)し出していた。そして、それらが同居して生ずる沈魚(ちんぎょ)落雁(らくがん)の美しさに八幡は見惚(みと)れてしまったのであった。

 

「うおっ──?!」

 

 余りにも美しすぎる平塚に目を奪われた八幡がステップを踏み外し、足を(から)ませてよろけてしまったがために、平塚も釣られる形でバランスを崩して、両者とも舞台上で倒れてしまった。

 八幡は後ろから倒れて、固い混凝土に背中を打ち付けたものだから、それ相応の痛みがあったはずだった。

 しかし、その痛覚は鈍って表に出なかった。八幡は別のことに気を取られていたのだ。

 

 八幡の目と鼻の先には平塚の顔があった。瞳は潤み、頬はあの篝火よりも明るく上気していて、婀娜(あだ)っぽかった。そして彼女の濡れ羽色の長く(つや)やかな髪が、八幡の頬を(かす)めるように流し落ちている。その少し荒い吐息は、ただならぬ熱を含んでいた。

 混凝土を背にして仰向けの八幡に対し、それに覆い被さるように、平塚が四つん()いになっていたのだ。

 

「す、すまねぇ。怪我ないか?」

 

 平塚は何も言わず、首を横に小さく振る。

 

「それは良かった。平塚、今、起きるから」

 

 しかし、平塚は一向に起き上がろうとはしなかった。

 それどころか、八幡の顔に、ゆっくりと近寄ってくるのであった。

 

「──ひきがやぁ……」

 

 そう嬌声(きょうせい)に近しい鼻にかかった声で八幡を呼びかけると、その流し落とされた黒髪を、耳裏へとかきあげた。

 彼女の潤んだ瞳がそっと閉じられ、(あや)しげに光る桃色の唇が、八幡の口許(くちもと)へと迫ってきていた。

 その姿があまりにも可愛くて、(なま)めかしくて、愛おしくて、そんな彼女から(たん)を発した情は奔流(ほんりゅう)となって彼をも()み込んだ。

 

 そして、八幡も目を閉じた時であった。

 

『終了でぇ──────す!!』

 

 

 司会の快活な終了のアナウンスが、この舞台の二人の元にも届いた。

 二人は揃って、足元から鳥が飛び立ったように飛び起きて、互いに目を()らす。

 

「────」

 

 甘美な雰囲気が一変して、気恥しさが、二重にも三重にもなって二人の身にのしかかって、箝口(かんこう)令が()かれたかのような静寂が訪れていた。

 暫くして、八幡が(ようや)くその重たい口を開く。

 

「な、なぁ、平塚」

「……なっ、なんだ。比企谷……?」

「その、えぇと……」

 

 いつものように襟足(えりあし)を二、三度掻いた後、口を開く。

 

「平塚、今日駅まで一緒に帰らねぇか。せっかく歩きだし」

「……うんっ、分かった! あっ、……でも、私、キャンプファイヤーの後片付けが……」

「それは、俺も手伝うからさ」

 

 平塚はその言葉を聞いて、くすりと微笑んだ。

 

「そうだな。ここ最近君は連絡も寄越さずにサボっていたのだから、その分ここで取り返してもらなければならないな」

「あぁ、だいぶ負債(ふさい)溜まってるから、なるべく早く返済するわ」

「となると、明後日の片付けもびしばし働いてもらうからな!」

「あぁ、覚悟しておく」

 

 アナウンスが入る。今度は先程の祭りの時とは違って、一本調子な業務連絡が入った。

 

『キャンプファイヤー担当の生徒は至急集まってください──』

 

「よしっ、いこうか、比企谷っ!」

「おう。行くか、平塚」

 

 互いに顔を見合わせる。そして、示し合わせたように二人は並んで歩き出した。

 

 

 

 雪解けとは無縁の、緑が抜け()ちて土に(かえ)る哀しい肌寒い季節かもしれない。

 しかし、どんなに暑い季節を経てきても解けなかった()は今日この日をもって完全に解けて消えた。

 

 

 

 後は、この夢の蕾が花開くのを、今暫し待つだけだ──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











拙文を読んで頂きありがとうございます。
素晴らしい感想、沢山のお気に入り登録、そして高評価、本当にありがとうございます。
非常に長かったと思いますが、これにて文化祭編終了です。この話が目標点であったので、よくここまで来たなという感慨に耽っております。改めてここまで付き合ってくださった読者の皆様、本当にありがとうございます。

補足になりますが、裏サイトを使うのはわりととんでも展開だったかもしれませんが、二〇〇四年に時代設定したのは、ここに持っていくためだったので、最初からこうする予定だったとこの場で言い訳させて頂きます汗

引き続き感想をお待ちしております。どのようなものでも良いので叱咤激励の感想を一文認めて頂けたらと思います。今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。

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