ブーケトスの魔法   作:Pond e Ring

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十束: the Blooming of the Dreams

 

 

 

 校舎の(あか)りは完全に落とされていて、遠くから眺めれば総武高校はまるで神隠しにあったように夜の(とばり)の中へと姿を消してしまっているであろう。

 あれほど轟轟(ごうごう)と燃え盛っていたキャンプファイヤーの(ともしび)()えて、(のこ)された黒く焦げた丸太の積み木からは名残の灰の芥子(けし)(つぶ)が穏やかな夜風にその身を(ゆだ)ねている。遥か彼方にいる弓張(ゆみはり)月の月影(げつえい)がその灰の一粒一粒を射抜いて、細雪(ささめゆき)のように舞っているのは、誠に壮観(そうかん)であった。後片付けをする中で八幡が見たその光景が、今年の総武高校の文化祭が終わったことを如実(にょじつ)に物語っていた。

 

 ──月の光と、等間隔に置かれた街灯、そして土瀝青(アスファルト)の上に縹渺(ひょうびょう)たる黒の(わだち)を残して通り過ぎていく車のヘッドライトが照らす東京湾沿いの片道三車線の大通りの脇の歩道を、付かず離れずの距離感で、どちらが先導するわけでもなく、八幡と平塚は二人並んで歩いていた。

 物を少々運ぶだけの文化祭当日中に行う簡単な後片付けを終えて、二人は帰路についていたのだ。

 

 東京方面へと進んでいるため左手には、この目からは茫洋(ぼうよう)に見える東京湾の海が広がっていて、耳を()ませば直ぐ隣の海辺にあるテトラポットに打ち寄せているであろう潮騒(しおさい)(かす)かに聞こえてきた。

 目的地の駅までの道は宅地を抜けて海岸から離れていくので、海沿いの道を通ることはない。つまり、二人は最早遠回りどころか、目的地から遠くに離れているのであった。しかし、二人はこの道を自然と選んでいたのだ。

 

 

 ──(しばら)く歩くと、花見(はなみ)川の河口に架かる立派な橋梁(きょうりょう)──美浜(みはま)大橋に差し掛かっていた。

 二人は眺望(ちょうぼう)を楽しむ為に少し柵が彎曲(わんきょく)して突き出している場所で立ち止まる。河口に向かった(さざなみ)は、川の流れに押し返されて、(はかな)い音を立てて消えていく。潮の(にお)いが満ちる世界の中で、海岸線に沿うように電飾(でんしょく)が、ずっと奥まで弧を描いて繋がっているのは、人工物であるというのに(こと)に幻想的であった。

 

「ほれよ」

「おっ、ありがとう、比企谷」

 

 比企谷は途中の自動販売機で買ったマックスコーヒー二本の内一本を平塚に手渡して、手元のもう一本のプルタブに指をかける。

 開けた缶を左右に揺らして香りを立てると、匂いだけで毒されそうな甘さが伝わってくる。

 そして、久しぶりのそれを(すす)ると、──やはり物凄く甘かった。

 

「久しぶりに飲んだが、殺人的に甘い……。でもすごく美味しいな、比企谷」

「あぁ、そうだな」

 

 マックスコーヒーの甘味を存分に(たしな)み、あっとういう間に中身を一滴残らず空にした頃。所々()げ落ちて(さび)を感じる鉄の欄干(らんかん)の真下に置いてあるスクールバッグの横にその空き缶を置いて、房総(ぼうそう)半島の方へと向かう(あか)りもない遥か遠い水平線の先を眺めるように八幡は腕を置いて寄りかかった。間もなく飲み終えた平塚も(なら)うようにして、空き缶を下に置いて八幡の隣に寄りかかっていた。

 

「──文化祭も終わっちまったな」

「あぁ、そうだな。約束をすっかりすっぽかしてくれた誰かさんのせいで、今年は全く楽しめなかったがな。一緒に見たかった劇とかあったのになぁ……」

 

 顔を横に向け、じとっと不満が(あら)わになっている目で(にら)みつける平塚に、八幡は肩を(すぼ)めた。

 

「うっ……」

「必死に練習してきたお弁当も食べる人がいないから、結局作れなかったしなぁ……」

「ゆ、許してくれ……」

「とっくに許してはいるさ。でも、約束は約束だ。しょうがない。だから、後でしっかりと()()()飲んでもらうしかない」

「やっべぇ……、俺死んじゃうじゃん……」

 

 魂が抜けていったように声が(しぼ)んでいく八幡を見て、平塚は声を上げて笑っていた。

 

「あははっ、冗談だ。こうなってしまったのはお互いのせいなのだからな。君も針千本飲むなら私も飲むしか道がなくなってしまう!」

「……いや、でもこのまま許されることになっちまうのは、冗談抜きで俺自身が納得できないな。やっぱり約束を破った大きな原因は二週間お前と目すらも合わせないようにしてた俺にある。何かしらの罰は受けるべきだと思う。……でも針千本飲むようなことはできねぇから、できればもう一度チャンスが欲しい。つまるところ、代わりに別の約束をして欲しいんだ。今度は絶対に守る。破ったらそれ相応の罰を受けるつもりだ」

 

 八幡の角張って語る様子を見て、平塚も(たが)を閉めたようにその声音を低くして、芯が通ったものへと変えた。

 

「そうか、君がそう言うのなら分かった。で、その代わりの約束は何だ?」

 

 その約束の内容は、二人で舞台(ステージ)の上で踊ったあの瞬間に、八幡は熱に(ほだ)されながらも決めていたのだった。

 それを、今、伝える。

 

「──来年の文化祭は二人で楽しもう」

「あぁ、そうだな。来年こそは二人でだな。約束だぞ。今、言質(げんち)取ったからな」

 

 前科一犯の男のことを信用ならないのか、平塚は僅かばかり表情を崩して、「絶対だぞ」と八幡の肩を人差し指で執拗(しつよう)に小突く。

 ──だが、彼がここに結ぼうとしている約束は、それだけでは到底足りなかった。

 

「いや、来年の文化祭だけじゃない。いつもの昼休みも、来年の体育祭も、受験勉強も、映画も。そして、高校卒業した後も二人で色んなところ行きたいし、できる限り一緒にいたいと俺は思ってる。カップルコンテストなんかもどうだ。来年からはディフェンディングチャンピオンじゃねぇか」

 

 八幡は話している途中からさすがに照れくさそうに頬を二、三度掻きながらも、約束という(てい)をとった青写真を描くと、平塚はその切れ長で魅惑的な双眸(そうぼう)を丸めながら彼の顔を見つめて、固まっていた。

 

「……まぁ、とにかく、今日の分をちゃんと埋め合わせるために、これから一年、いや何十年ずっとかけての約束だ。……何十年はさすがに重すぎると思うかもしれねぇが、でも、俺はそうしたい」

「──待って待って。ねぇ、比企谷、それって……」

「正直、キャンプファイヤーの時もう伝えてしまったようなもんなんだが……」

 

 鼓動が五月蝿(うるさ)い。喉から漏れ出てしまっているのではないかと思うほど、和太鼓を打った時のような一打一打に重たく染み入る響きと音がその鼓動にはあった。

 こんな鼓動を人生で味わうことはないと思っていた。

 しかし、今確かにこの胸で鳴っている──。

 

 ──失敗する可能性がある。分岐点が無数に設置されてはいるが引き返しのつかない人生という道において、(かつ)ての彼では、ただその一点で絶対に避けていた諸刃(もろは)の剣と言える道であった。更に、狷介(けんかい)孤高(ここう)を気取っていた彼は、この道を選ぶことは尚更無かったはずである。

 だがある日を境に(つの)りに募って、今では一言や二言では語り尽くせないほどにまでなった彼女への膨れ上がった想いが、為人(ひととなり)や理性を超えて雪解け水と混ざって今にも外へと(あふ)れようとしている。

 更に、この胸にある確かな希望が、この目に映った光彩(こうさい)陸離(りくり)の彼女の笑顔が彼の背中を一押しした。

 生来の性分という赤信号が(とも)っていたとしても、八幡はその道を進むのだ。その上、たとえトラウマという暴風雨が吹き荒れていようとも、悪意という炎が身を焦がしに来ることがあろうとも、もう止まることはしない。

 

 ──覚悟は決まった。ただ一秒でも早く、長く平塚の隣に居るために。

 

 

 八幡は深く深く息を吸った。

 

 

 そして、目を(つむ)ることなく、真っ直ぐ彼女を見て、告げる。

 

 

 

「──平塚静さん、好きです。俺と付き合ってください」

 

 

 

 心臓が()()れになりそうなほど叫んでいる。言い切った後に、目を閉じてしまいそうになるが、固い覚悟で不安や惑いを振り切って、ただ愛しいその人を見つめていた。少しでも多くこの想いが伝わるように。

 しかし、目を(そむ)けたのは平塚の方だった。

 

「──いいのか……?」

「へっ……?」

 

 その予想外の挙措(きょそ)と返答に八幡は、()頓狂(とんきょう)な声を漏らしたが、平塚はいたって真剣で、そしてどこか思い詰めた様子でいた。

 

「…………私なんかでいいのか?」

 

 平塚は、まるで黒々とした影の中へと逃げ込むように足元を見下ろして、自分自身で否定するように大きく頭を横に揺さぶる。

 だが、八幡は止まらない。

 

「……あぁ、平塚がいい。平塚じゃなきゃいやだ──」

「……でも、私が臆病すぎるせいで今日まで君を傷つけてしまった。それだけではない。これからも関われば関わるほど、きっと君に私の(みにく)いところを見せてしまう」

「臆病で傷つけたところは俺も一緒だ。ていうか、俺なんて小町にも、大磯にも秦野にも背中押されたのに、結局話しかけられなかったんだぞ。それに俺だってこれからも平塚に醜いところ、情けないところ、見せることになると思う。だから、どんな平塚が醜いと思うところでも俺は笑って受け入れたいし、平塚には俺の醜いところを笑って受け入れて欲しい」

「でも、実際、今まで私の中身を見た人は、遅かれ早かれ皆、私のこと……。だから君も、君ですらもいずれはっ──!」

 

 声を荒らげて、頭を振り上げた平塚の瞳の中に宿(やど)っているのは、不安、不信、諦念(ていねん)であり、きっと彼女が何時(いつ)かの雨降りの日に言った深く深く心の底へと根の張った醜いと自蔑(じべつ)する花々の姿なのであった。

 だが平塚は全く完璧などではないのは、八幡はとうに知っている。人並に悩む癖に一人で抱えてこんでしまう不器用さがあって、他人を簡単に動かす癖に自分を変えられない内弁慶(うちべんけい)で、きっと八幡と同じぐらいの小心者であることを彼は知っている。他にも醜いと彼女が(いや)しむ花を咲かせているのかもしれない。

 でも、だからこそ、平塚が()()()()──。

 

 

 そして、八幡は力強く断言する。

 

 

 

「──それは、他の奴らに見る目がないだけだ」

 

 

 

 ──今こそ、八幡が男らしく、()()()()()()()()に一歩踏み込んで、そこで花々に囲まれて(うずくま)って(おび)えている平塚に手を差し伸べて、外へと引っ張り出す時だ。

 

 そう八幡が断言した時、平塚は一瞬はっとした顔をすると、すぐにその内側に差し伸べられた手を意固地(いこじ)になって払い()けるように(うつむ)いた。しかし、八幡は怯える少女に手を差し伸ばしたまま、一瀉(いっしゃ)千里(せんり)に語り始めた。

 

「平塚は、なにか成し遂げるために超努力するし、でも逆に一人で抱え込みすぎて、ぶっ倒れちまう不器用なところもある」

 

 ──それだけではない。

 

「男気あって格好良いところがあると思えば、ときおり凄く女々しくなるところもあるし」

 

 ──それだけではない。

 

「頼り甲斐があって打たれ強いのかと思えば、守りたくなるような弱いところもあるし」

 

 ──それだけではない。

 

「自分の好きなことをあんな楽しそうに語るし、俺の話を楽しそうに聞いてくれる」

 

 ──それだけではない

 

「面倒見がいいと思えば意外と抜けてるところだったり」

 

 ──それだけではない

 

「背中押して人を変えることができるくせに、すごい自信がなくて臆病な可愛いところだったりもある」

 

 ──それだけではない……

 

「……(きり)がないな。確かに平塚の中にはまだ俺に見せてないことがたくさんあるかもしれない。さすがに平塚のこと全部知ってるなんてこれっぽっちも思ってない。

 でも、今日まで俺は平塚のことを知れば知るほど、好きになっていってるんだ。平塚は醜いと思ってるかもしれないところも俺にとっては所謂(いわゆる)痘痕(あばた)(えくぼ)ってやつで、かけがえのない魅力なんだ。きっと、これからもお前のことを知る度にもっと、もっと好きになると思う。だから他の奴らの見る目が微塵(みじん)もないだけだ。まぁ、俺からしたら逆にありがてぇかもな」

 

 八幡のらしくない気障(きざ)な言葉に(たま)らなくなったのか、顔を()ね上げた平塚の頬は、今日見たあの富士の山の(たもと)へと沈んでいった(あかね)色の夕陽とは比にならないほどの真紅(しんく)に染っている。

 

「わ、分かったから、それ以上はやめてくれっ! 揶揄(からか)うつもりなら、なっ、殴るぞ!」

「そういう案外照れ屋さんなところも追加だな。流石に殴るのだけはだいぶマイナスだが……。それに俺は平塚を揶揄うつもりなんて毛頭ない。本気で俺が思ってる事だ」

「うぅ……」

 

 そうしてぬばたまのように鮮やかな黒をした(つや)やかな横髪で顔を隠して()じらう姿も、途方もなく可愛く思えてしまうのは、八幡が罹患(りかん)してしまった恋の病故だろうか。

 その暖かな感情に浸りながら、また八幡は口を開いた。

 

「──平塚、俺はずっと間違えてた。友達も作れなかった。それで馬鹿にされた。他人(ひと)を好きになれなかった。それなのに無理やり他人を好きになろうとして、余計、周りから馬鹿にされて勝手にトラウマ作って、他人が怖くなって、(ふさ)ぎ込んで。

 多分平塚に出会えてなかったら一生このままだったと思う。でも平塚と会ってから変われたんだ。

 俺と友達だって言ってくれて、本当に嬉しかった。

 俺といることが楽しいって言ってくれた時、ずっと胸の中にあった黒い(もや)みたいなもんが消えた。

 俺の醜いところを見ても笑って受け入れてくれた時、本当に救われた。

 他人と喋るのがこんな楽しいとは思わなかった。他人とこんなに一緒にいたいと思えるようにならなかった。この人の為に色んなことをしてあげたいと思えるようにはならなかった。他人のこともっと知りたいと思えるようにはならなかった。

 ……だからその分、平塚が隣からいなくなるって思った時は、すごく辛かった。生きてきた中で一番辛かった。胸が延々と締め付けられて、痛くて、だからロボットみたいに何も考えようとしなくて、何も感じようとしなくて、生きた心地がしなかったんだ。

 俺の人生で多分こんなに隣にいて欲しい、離れないで欲しいと思う人はもう絶対に現れないから──」

 

 想いを()(たけ)言葉で(つむ)いで、ぶつけて、また彼女の双眸を見つめた。

 八幡を見つめ返す淡墨(うすずみ)色の虹彩(こうさい)にはもう花々の姿は無く、どこまでも透き通るように光っていた。()がれた紅玉(べにだま)のように深々たる紅に上気したままの頬は、殊更(ことさら)可愛らしさを胸いっぱいに()たした。

 

 そして、八幡は改めて実感した。

 

 

 

 ──やっぱり、俺はこの人のことが…………

 

 

 

 

 また、もう一度深く深く息を吸った。渺渺(びょうびょう)たるこの想いが全てその短い言葉に乗って、彼女に届くように。

 

 

 

 

「──平塚静さん、好きです。俺と付き合ってください」

 

 

 

 

 鼓動は大波打って、今にも堤防を壊していくように高鳴った。でも目は一瞬たりとも離さなかった。少しでも多くこの想いが伝わるように。

 

 先程とは違い、平塚も八幡の眼を見つめていた。

 だが、待てども返事は返ってこなかった。口を開く様子もない。

 それどころか、八幡が見つめる平塚のその瞳には、確かに彼の姿が映っていたが、それが次第にぼやけていって見えなくなってしまった。

 やがて、平塚は鼻を少し(すす)り出したかと思えば、ほろりとほろりと金剛(こんごう)石の輝きを()びた大粒の涙を落とし始めていた。その二度目の思わぬ反応に、最初は慣れない気障な振る舞いをして最大限格好つけることができた八幡も、いよいよ混乱して瞳孔(どうこう)を右往左往と動かす。

 

「……え、これ、ダメってこと? 泣かせるほど嫌だったのか。うわっ、最悪だ。しにた──」

 

 その瞬間だった。

 

 八幡の肩には、彼女の手が置かれ、目の前には長い睫毛(まつげ)があって、頬には秋宵(しゅうしょう)の寒さで冷えた鼻先が当てられていた。目前の閉ざされた瞳の(まなじり)には金剛石の如く光っているものが見えた。

 そして、彼の唇には、今まで感じたことのない、余りにも柔らかく、()だるほど生温かく、(とろ)けるように甘いものが優しく触れていた。

 

 ──突然、平塚との距離が〇になったのだ。

 

 それはほんの一瞬のことであった。

 すぐに平塚はさっと後退(ずさ)る。

 八幡は目を白黒させて、慌てて口元を手で抑えた。

 

「平塚、今の……」

「なんで、こんな時だけ君は鈍感なんだ。これは嬉し涙というやつに決まってるじゃないか……」

 

「もうっ、馬鹿っ……」と漣と共に消えてしまいそうなしおらしい声で呟いた。

 そして平塚は潤んだ目を細めて、八幡だけに向けて、柔和(にゅうわ)に微笑む。

 

 

 

「私も、比企谷八幡くんが好きです。私でよければ付き合ってください──」

 

 

 

 ──(からだ)が震える。

 ──心が震える。

 ──命が震える。

 

 声にもならない叫び声が全身に(とどろ)いた。熱で沸点(ふってん)を越えた血潮が全身を光の速さで(ほとばし)った。

 

 ──刹那(せつな)、本能に突き動かされたように八幡は勢いよく平塚の(からだ)をきつく強く抱きしめていた。彼女の躰はとても柔らかくて暖かくて、でも華奢(きゃしゃ)で、そして少し(ふる)えていた。彼女の(かんば)しい香りが、鼻腔(びくう)(くすぐ)り、より理性を蒸発させていく。

 程なくして平塚もそれに応えるように、八幡の背中にきつく腕を回した。胸元に感じる二つの生命(いのち)の鼓動は、どちらも早鐘(はやがね)を打つように速く、その一拍一拍が幸福感を全身に運んでいた。

 八幡は愛しいこの人をもう二度と、絶対に離さないように、更にきつく抱きしめると、平塚も同じ様にきつく抱き締めてくる。

 

「比企谷、好きっ……。比企谷、好きぃ……。好きぃ……」

 

 確かめるように、届けるように、吐息を多分に含ませた(ねこ)()で声で何度も何度も、平塚は八幡の耳元で愛を(ささや)く。今まで()き止めていた想いを、一気に放流しているようにも聞こえた。

 愛しい人に、このようにされては、当然八幡も(あふ)れる激情を抑えることはできなかった。

 

 

「俺も好きだっ……、平塚っ……!」

 

 きつく回した腕を解いて、平塚の肩を掴んで、少し引き離す。

 二人は幾許(いくばく)か見つめ合った。恍惚(こうこつ)としながら、熱を含んだ目は、月光と街灯の灯りを映して燃えたように(なま)めかしく光る。

 

 言葉もなく、合図もなく、ゆっくりと揃って目を閉じ、顔を寄せた。

 

 そして、二人はまた口付けあった。

 温もりを求め合うように、愛を確かめ合うように、永く永く口付けあった──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

「……夢みたいだ」

「あぁ、俺もだ」

 

 晴れて恋人になった二人は、この橋の下にある検見川(けみがわ)浜の手前にある緑道へと下りていた。そこにあった背(もた)れのある木製のベンチに腰を下ろして、肩を寄せあっている。平塚はしなだれるように八幡の肩に頭を乗せていた。しなやかな女の指と節くれだった男の指を絡めるように固く結んで、二人はひたすら甘い雰囲気に陶然(とうぜん)と酔い()れていた。

 

「あっ、そうだ。ちょっとすまん、平塚」

「えっ……?」

 

 何かを思い出した八幡は突如、固く結ばれた手を(ほど)いてスクールバックの中を漁っていた。そして取り出したのは、今朝パンさんのストラップと共に抽斗(ひきだし)から持ってきた、赤リボンで口を結ばれた花柄の入った小さな紙袋であった。

 突然手が解かれ、良い雰囲気に(おの)ずから水を差してきたことに納得がいかないのか、平塚は可愛らしく頬を(ふく)らませて、むすっとした顔で八幡に(たず)ねた。

 

「むぅ〜、何だそれは?」

 

 八幡は、その紙袋を平塚の目の前に差し出した。

 そして微笑を(たた)えて告げる。

 

「──平塚、()()()()()()()()。受け取ってくれ」

「え……」

 

 突然の祝福に一驚(いっきょう)(きっ)している様子の平塚は、八幡から差し出されたそれをおずおずと受け取って、その紙袋を目を丸めながら眺めていた。

 

「うそ、ありがとう……。でも、なんで私の誕生日……。あっ、ツルと桜か……。いや、でも、ツルと桜に教えられたとしても、今日中に買うのは無理なはず……」

「七夕のカップルコンテストの受付する時、エントリーシートに生年月日書いただろ。あの時見てたから、買ってみたんだ。サプライズにしたくて、ずっと言ってなかった」

「そういう事なのか……。きちんと君は私の誕生日、覚えていてくれたんだな」

「そりゃあ、他の誰でもない平塚の誕生日だし。……その、あんま嬉しくねぇかな。正直迷ったんだ。平塚、誕生日祝われたくないって言ってたから」

 

 平塚は首をとりわけ大きく横に振り、口角を大きくあげた。

 

「ううん、嬉しいっ……! おかしくなっちゃいそうな程凄く嬉しいっ……! 私、こんなの初めてだから知らなかったんだ。好きな人に祝ってもらえるのは、こんなに嬉しいのだなっ……!」

 

 八幡は首をとりわけ大きく縦に振り、口元を(ほが)らかに歪ませる。

 

「その通りだ。好きな人に誕生日を祝ってもらえるのは嬉しいんだ。ようやく平塚も気付いたか」

「うんっ! ……ね、比企谷、早速開けてもいいか?」

「あぁ、勿論だ」

 

 平塚はその口に結ばれた赤リボンを解いて、小さな紙袋から中身を取り出す。

 それは、灰色のケースで、彼女はその蓋をゆっくりと開けて、また目を見張っていた。

 

「え……、これ、ネックレスじゃないか。しかも、これ、()()()のフラワーブーケの……」

 

 八幡は照れくさそうに、襟足(えりあし)の辺りを乱暴に掻いた。フラワーブーケネックレス──これは、二人で幕張へと映画を見に行った時に、アクセサリーショップで平塚が試着したものであった。

 

「……やっぱ、こういうのは少し重かったか。でも、あの時の平塚、すっげぇ綺麗で可愛かったから、また見てぇなって」

 

 また平塚は首を振る。

 

「ううん、すっごく嬉しい! でも、これ高かっただろう。こんな高いもの……。ストラップと比べたら……」

「まぁ、二万ぐらいしたけど、ちょうど二万円分商品券あったし、何より俺が付けて欲しいと思ったから、当然の出費だ。だから別に値段とか気にしてくれなくていい。それに平塚から貰ったパンさんのストラップは、俺にとってはそこら辺の高価な宝石なんかよりもよっぽど価値があるから、これじゃ足りねぇぐらいだ」

「ふふっ、ありがとう。ねぇ、比企谷これ、もうつけてもいい?」

「もちろん、いいぞ」

 

 しかし、平塚はそのネックレスを持ったまま微動だにしなかった。その様子を(いぶか)しんで八幡は声をかける。

 

「ん、どうした?」

「そっ、その、せっかくだから君に付けてもらいたいんだ……」

 

 上目遣いで、そう含羞(がんしゅう)を頬に添えて問掛けるその姿に、思わず八幡は息を()んだ。やがて面映(おもは)ゆさと愛しさが込み上げてくる。

 

「あ、あぁ、分かった。じゃあ灯りのある方へ行くか」

 

 二人は緑道沿いにある丁度並木と背丈が同じぐらいの街灯の下へと移った。八幡はそのネックレスを受け取って平塚の後ろに回る。彼女の(つや)やかで街灯にも()えて紫光りした黒髪を丁重に()き上げて、その細い首に腕を回して、丁度(うなじ)あたりのところでネックレスの留め金具を留める。

 

「よしっ、できた」

「どうだ、似合うだろうか?」

 

 八幡が少し後ろに引いて、彼の方に振り返った平塚を見ると、思わず口元が(ほころ)んでしまった。

 灯りが無ければ闇夜(あんや)に溶け込んでしまいそうな黒色のブレザーが身体を包む中、ハート型の輪の中に一輪の薄桃(うすもも)色の花が(あしら)われた可愛らしいネックレスが、目立ちすぎずも平塚の可憐(かれん)さを十二分に引き立てて、うっすらと覗かせる白皙(はくせき)の首元で淡く輝いていた。

 そして何より、今、平塚が見せている一笑(いっしょう)千金(せんきん)の笑顔に、とても良く似合っていた。

 

「あぁ、やっぱりすっげぇ似合うわ。残念ながら文句なしだ。褒め言葉しか浮かばねぇよ」

「ふふっ、ありがとう。本当に嬉しい。一生大切にする、絶対にする。どんな時も絶対に肌身離さないから」

 

 そのネックレスを(てのひら)にちょこんと乗せて、(いつく)しむような柔らかな眼をそれに向けて、平塚は言った。

 

「え、学校でも付けるの恥ずかしくない? それに色々、探られるの面倒でしょ。あとなるべく風呂場とかでも外してね、それ白金(プラチナ)とかじゃないから、駄目になっちゃうらしいし」

「う、うん……。急にそんな現実的なこと言わなくてもいいじゃないか……」

 

 二人で顔を見合わせる。

 そして、どちらからともなく吹き出した。

 

「ぷふっ……」

「ぷっ、あははっ……!」

 

 暫く笑って、平塚は目じりの涙を(ぬぐ)っていた。

 

「はぁー、笑った笑った。あっ、そうだ、比企谷」

「ん、どうした、平塚?」

「面倒くさいだろうが、私と付き合う上での五箇条いいだろうか?」

「何じゃ、その五箇条の御誓文的な。まぁ別にいいけど。どんと来い」

 

 八幡は平塚の全てを受け止める覚悟ができている。

 平塚は、まず一つと、意気揚々と八幡に見せつけるように左手の人差し指だけを立てる。

 

「私、多分すっごい我侭(わがまま)だぞ。君が想像しているよりもずっとな」

「あぁ、大丈夫だ。お前の我侭片っ端から付き合っていくわ」

 

 即答する八幡を見て、立て続けに中指を上げてピースサインを作って、二つと声高に言う。

 

「記念日とか沢山作るし、一緒に祝ってくれなきゃすぐ()ねるからな」

「そりゃあ、大変かもな。とりあえず今日は平塚の誕生日兼交際初日で一年で一番の記念日決定だな。忘れた日にはとんでもない折檻(せっかん)だな、こりゃ」

 

「あぁ、その通りだ」と言って、即座に薬指をあげる。

 

「三つ! 他の女の子と仲良くしてたら()くからな」

 

「おぉ、束縛……」と八幡は思わず声を漏らした。

 

「とは言っても、俺だってお前が他の男子と仲良くしてたら妬く。っていうか、俺の方が恥ずかしいぐらい今日まで嫉妬しまくってたわけだしな。だから、むしろ心配なのは俺の方だ。正直言えば、あんまり他の男と二人きりとかで喋って欲しくないし、体育祭の時みたいにツーショット写真を撮っても欲しくないし、ボディータッチとかもできればして欲しくない。でも、平塚の都合もあるのは知ってるし、きっとこんな束縛されたら嫌な気持ちになるだろうから、強制はしたいとかは全然思ってないんだが……」

「──いやっ、もうしないっ!」

 

 平塚は(あたか)宣誓(せんせい)するかのように、断言する。

 

「事務連絡とかでどうしてもせざるを得ない事はあるかもしれないが、それ以外はしないっ!」

「……そうきっぱり言ってくれるのはすげぇ嬉しいんだけど、さすがに付き合いとかもあるんだから厳しいだろ。別に無理してほしい訳じゃないし、足枷(あしかせ)にもなりたい訳じゃないんだ」

「いいんだ、私は比企谷さえ傍にいてくれればいいから。もう恋人の君が少しでも嫌がることはしたくない。たとえ他の人達に嫌われたとしても、そっちの方が断然私にとっては嫌だから」

「そうか……。うわぁ、めっちゃ照れくせぇな……」

 

 慣れ親しんだ歯に(きぬ)着せぬ物言いで恥ずかしげもなく平塚に言われ、機嫌斜めならずであるのと同時に顔が勢いよく火照(ほて)ってゆくのを感じて、八幡は思わず空を見上げた。

 

「……ま、まぁ、だから、これは必然的に異性の知り合いが多い平塚を縛る俺のための決まりみたいになっちまうよな」

「ううん、そんな事ない。そ、その私だって、今日、桜が比企谷のメアド持ってただけで、すごい怖い顔になってしまっていたから……。私だってこれからはできればそういうことして欲しくないと思ってる……」

「ははっ、俺ら似たもん同士みたいだな」

「……うんっ、どうやらそうみたいだなっ!」

 

 次に小指もあげて、四つ。

 

「二人で色んな所に行って、思い出いっぱい作ろうな!」

「当然だ。色んな所行って、楽しい思い出沢山作るぞ」

 

 そして、最後に親指を立てて五つ。

 

「この先、ずっーと私の隣にいるんだぞ……」

「あぁ、勿論だ。他の奴らに(ねた)まれようとも(そね)まれようとも、極論平塚に嫌だって言われても我が物顔で居座ってやる」

 

 八幡の答えに平塚は満足した様子で相好(そうごう)を崩すと、今度は小指だけを立てて、彼の前に差し出した。これが何を意味するかは言葉にせずとも彼にはすぐ分かった。

 

「さっきしてなかったからな」

「そういやそうだった。完全にこのこと頭から飛んでたわ」

 

 八幡はそれに応えるように、小指を立てて、差し出された平塚の小指と絡ませて、ぎゅっと結んだ。八幡のよりも随分と小さくて弾力のあるもので、絡めている内ににじわりと温かみが伝わってくる。

 

「「指切りげんまん嘘ついたら、針千本のーますっ!」」

「ゆび…………、ってあれ……?」

 

 最後の掛け声の前で平塚は口を(つぐ)んでいた。

 

「どうした、平塚?」

「最後の確認だ。これは一生物の約束だからな。ぜーったいに破るんじゃないぞ? 破ったら、今回は千本増量で二千本だからな」

 

 平塚は悪戯っぽく笑う。

 それに八幡は深く頷く。その腐り眼に覚悟を据えて。

 反故(ほご)にしてしまった約束を結んだ左手の小指。

 ──この指に今、新しく果てのない海誓(かいせん)山盟(さんめい)の約束をここで結ぶ。

 

 

「あぁ、今回は絶対に破らない。一生かけて守り通すわ──」

「よしっ……! じゃあ、行くかっ! せーのっ!」

 

 二人で声を揃えて、

 

「「指切りげんまん嘘ついたら、()()()()飲ーますっ! 指切った……!」」

 

 そして、二人は絡めた指を離した──。

 

 

 

 ──指切りを交わした後、二人は目と鼻の先の砂浜──検見川浜へ足を運んでいた。見渡す限り二人だけしかいない砂浜は、まるでこの世界にこの二人だけしかいないと錯覚させた。

 浜辺に寄せては消える白波。絶えることなくやって来てはまた消えていく。しかし、波打ち際に消えていった波の跡が確かに残っていた。後ろを振り返れば、二人の足跡が克明(こくめい)に砂浜に刻まれている。

 そして、打ち寄せる波が靴に被らない砂の色の境目に二人横に並んで立っていた。

 

「綺麗な場所だよな」

「あぁ、俺もそう思う」

「……ねぇ、比企谷、早速、最初の我侭言っていいだろうか──?」

「何なりと。ま、俺ができる限りのことだけだけどな」

 

 勿体(もったい)ぶるように少し間を置いて、平塚はその我侭を口にした。

 

「名前で呼んで…………」

「え、そんなんでいいのか」

「そんなので良い。いや、そんなのが良い。……というか、これから先ずーっと、ず────っと我侭言い放題なんだろ?」

「ははっ、そうだな。今度からずっと(しずか)の我侭聞いていかなきゃいけないな」

「そうだそうだっ! これから、──って、今、静って」

「そりゃ、名前で呼べ、って言うから」

「むぅ、私はもっとロマンチックにだなぁ」

「ははっ、さすがに俺には難しかったな。じゃあやり直すわ」

 

 八幡は、こほんと咳払いをして、口元を(ほころ)ばせる。

 

 そして、とびきりの想いと愛を言霊(ことだま)に込めて──。

 

 

 

「──静、大好きだ」

「うんっ、私も八幡が大好きっ……!」

 

 

 

 両手を(ひろ)げて抱きついてくる()を、八幡は包み込むように抱き()めて、かけがえのない温もりを確かめ合って、また耳元で何度も何度も愛を口吟(くちずさ)み合う。

 

 間違いなく今、二人の夢の(はな)(きら)びやかに咲き誇っていた。彩り鮮やかな千紫(せんし)万紅(ばんこう)花弁(はなびら)が二人を祝福して、それを支える立派で屈強な金剛(こんごう)不壊(ふえ)の茎根が二人を(たた)えるようにあった。

 そして、永遠(とわ)に枯れることのない、悠久の幸せを約した夢の華は、二人の中に更に深く深く根を下ろしていくのであった──。

 

 

 

「ね、八幡っ……!」

「どした、静?」

「生きてきた中で、今が一番、──幸せだっ……!」

 

 

 

 純白で覆われた稜線(りょうせん)のように白波が何処までも連なる茫洋とした海と、(かそけ)く照らす下弦の弓張月。弓なりを描く湾岸の電飾が果てなく延びる幻想的な光景を背にして、咲き誇った静の笑顔は、裏表もなくて、何の(けが)れも汚れなくて、何よりも輝いていて、何よりも澄んでいて、何よりも可愛らしくて、何よりも美しくて、何よりも愛しくて、そして、何よりも()()()()()()()()()()()()であった。

 

 

 

 ──たった今、八幡は()()()()を見つけた。

 

 

 

 この世界で一番愛しい人を、今以上に幸せにするという終わりなき夢を──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──Continue to the Epilogue……

 

 

 

 

 

 

 

 














拙文を読んで頂きありがとうございます。
毎度の事ながらも素晴らしい感想と、沢山のお気に入り登録、そして高評価、ありがとうございます。本当に励みになっております。

今回は文化祭は終わっても、二人の後夜祭はまだ終わってないぜ!!ということでこのお話をお届けしました。
そして、無事二人は幸せを掴むことが出来ました!本当に良かったです!笑
この話に辿り着くために今まで試行錯誤して執筆してきたので、本当に感慨深いです……。前回も似たようなこと言ってましたが、前の話とこの話は元々同じ話にする予定だったので、ということです汗
なので、とても名残惜しいのですがこの話が事実上の最終回になります。
改めてここまで付き合ってくださった読者の皆様、本当に本当にありがとうございます。

そして、色々考えましたが、当初の予定通り次回のエピローグを以てこの物語の幕は閉じさせて頂きます。
何か思うことがあれば是非気軽に感想をいただければと思います。
長々と後書きを書かせて頂きましたが、最後に、読者の皆様、最後まで応援のほどよろしくお願いいたします!


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