ブーケトスの魔法   作:Pond e Ring

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Epilogue: Toss a Bouquet

 

 

 

 ──壁面が白を基調としているその室内は、窓から差し込む陽の光によって、より一層、白の純度を増していた。

 部屋の中には、絹の手織りだという精緻(せいち)な文様が(あしら)われた格調高いペルシャ絨毯(じゅうたん)が敷かれ、陽光が文様の一つ一つを彫り上げ、その華やかさを際立たせていた。化粧台には、日常生活では滅多にお目にかかることのない奢侈(しゃし)な化粧品が並べられていて、繊細で(ほの)かな香りを漂わせていた。

 その部屋の隅にあり、見るからに値が張りそうな革製の背(もた)れが(ボタン)留めされた白銀のソファに腰を下ろしている純白の衣装を(まと)っている男女は、何やら楽しげに談笑している。日脚(ひあし)は二人の左手の薬指にまで伸びて、その指に()められた銀色の指輪を煌煌(こうこう)と光らせていた。

 

 耳を傾けると、どうやら二人は思い出話に花を咲かせていたようであった──。

 

「……確か、そんな感じだったな、あの時は」

「このフラワーブーケももう一〇年か……」

 

 静は首元のネックレスを(てのひら)の上にのせて、愛おしい目でそれを見ている。その淡く光る花には所々細かな傷みが入ってしまっているが、(かえ)ってその傷の一つ一つが、二人で積み重ねてきた思い出の一(ページ)なのであり、このネックレスは思い出の結晶なのであった。彼女はそこに刻まれた年月に思いを()せているようでもあった。

 

「やはり、文化祭の日のことは昨日のように思い出すな」

「静、それは言い過ぎだ。この一〇年もっと色々あっただろ」

「ふふっ、そうだな。楽しい時も喧嘩した時も、辛い時もたっくさんあったな」

「でも、確かにあの時ほど、辛くなったのは今のところねぇな」

 

 釘で打たれたような鋭く激しい胸の痛みを、八幡は未だに鮮明に覚えていた。生きた心地のしない──死んだような生活を送っていた二週間程の日々のこともだ。

 

「私もだ。もっと素直に言えれば、すぐに解決したんだけどな」

「まぁ、まさか俺が静と仲良くしてたことで嫉妬を買って虐められかけてたとは思わなかったからなぁ。裏サイトに載ってたとか、やっぱ今考えてもゾッとするわ」

「でも、それも交際し始めてから、綺麗さっぱりなくなってめでたしめでたしだったな!」

「それは次の登校日に静が堂々とクラスの中で交際宣言してくれちゃったからだろ。くっそ恥ずかしかったぞ、あれ」

 

 八幡は、若かりし日の一幕を思い出して苦笑する。

 静は文化祭の次の登校日、普通であれば(おくび)にも出さないところを、もはや見せびらかすように一日中八幡の傍にべったりくっ付いて過ごしていたのだ。そして当然、静の変わり様にクラスメイトが気付かぬはずもなく、憶測が飛び交い始めた。その上、折もあろうに二人が優勝した七夕祭りで行われた長生(ちょうせい)村のカップルコンテストについて記された会報が偶然発掘されたようで、より騒ぎに拍車をかけていた。

 ある程度その噂話が人の耳朶(じだ)に触れた後の昼休み。ベストプレイスに向かうために八幡に声をかけて教室を出ようとした静に、同じクラスの女子がまさか付き合っているのかと尋ねてきた時、「あぁ、私は八幡と付き合ってるぞ!」と静は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく即答して見せたのだった。

 静がそう言い放った後の教室の中の異様などよめきは、八幡の耳に今でもこべりついている。

 しかし、静が大っぴらに言ってのけた事で、()()()()()に校内の評判が傾くと思いきやそうでもなかった。八幡に対する静の好意が完璧に露顕(ろけん)してしまったので、諦めざるを得なくなったということに加え、高嶺(たかね)の花を手繰り寄せた地底人とでも言うべき八幡に良い意味で興味を持つ人が増えたことで、八幡が覚悟していた()()()()()の風潮はすっかり薄れていったのだった。

 

「あれは若気の至りってやつだ! しょうがないじゃないか。駄目って分かってても、抑えられないぐらい君と付き合うことが出来たのが嬉しかったんだ」

「まぁ、当然悪い気はしなかったし、結果的にはあれで良い方向に進んだからな。でも、あの時は常に背後を警戒してたからなぁ。数名の男子生徒からの()てつく波動を常に感じてたし、気抜いたら思わぬところからぐさりと刺されるんじゃねぇかって」

「あははっ、確かに修学旅行が終わるまでは良く後ろを見ていたなっ!」

「いや、まじで笑い事じゃねぇから……。でも今となっては良い思い出っちゃ、思い出かもな。まぁ、それはそれとして修学旅行でさ──」

 

 八幡は、丁度静が今言った恋人として迎えた京都の修学旅行の話を切り出した。そして二人は、また、思い出のアルバムを(めく)って、二人の歩んだ足跡を辿(たど)って、長らく追憶を(たの)しんでいた──。

 

 

 ──一〇年分にも及ぶ分厚い頁の束を()じて、二人の思い出話が幕を閉じた。壁にかけられた(おもむき)のある木製の鳩時計が指し示していた時刻からすると、(おおよ)そ五分後に次のプログラムが始まる予定であった。

 

「八幡、次は何話そうか」

「ま、話さなくてもいいんじゃねぇの。もうすぐお呼びもかかるだろ。後はのんびり過ごさねぇか」

「嫌だ、八幡。何か話題出して」

「えぇ……」

 

 気怠(けだる)げな八幡の反応に、静は空木(うつぎ)に咲く()の花のような白さを持った玉の肌をむくりと膨らまして、八幡を睥睨(へいげい)していた。

 

「むぅ、仕事のせいで君と話す時間なかなか作れないことが多いから、沢山喋っておきたいのに……」

 

 確かに静の言うように、付き合い出してから二人は造次(ぞうじ)顚沛(てんぱい)にも離れることはなかったが、第一志望が異なり別々の大学に進学してからはそういう訳にもいかなくなったのである。

 

 ──そのため八幡は相当の努力をしたのだ。(ひとえ)に努力といっても千差万別であるが、彼が特に注力したのは就職活動である。

 高校二年の(うら)らかな春の(ころ)おい。八幡は起伏もなく単調に過ぎ去る日々と、過去の経験と現状に起因する底知れぬ厭世(えんせい)観を抱いていたことから、働くことに意義をつゆも見い出せず、将来志望する職業は専業主夫と(うそぶ)いていた。

 しかし、その桜の花弁(はなびら)吹雪(ふぶ)く春に、一人の少女と出会ってから、八幡の考えが根元から変わった。それ故、働く事の意義──平塚静というこの世で最も愛しい女性を幸せにすること──を彼は明確に見つけ出したのであった。

 静とは別の大学に進学した後、キャンパスライフに(うつつ)を抜かして遊び(ほう)けている同級生を横目に、就職活動をする上で有利に働く資格試験の勉強を行ったり、資格に関するサークルにも出向き、そこで同様の志を持つ友人を作ることが出来た。三年時には粗方(あらかた)志望する企業を絞り、インターンシップにも積極的に参加した。

 結果的にそれらの努力が実って、八幡は高校生の自分には夢にも思わなかった誰もが知る名の通った大企業の内定を獲得する事ができたのであった。

 だが、就職してから静と同棲(どうせい)を始めたものの、短期間ながらも地方への出張なども多くなってしまったのであった。その上、静は国語の教師の道を進んだため、二人の時間が大学生時代以上に見つけられない事が多く、時に擦れ違うことも(まま)あったのだ──。

 

「まぁ、確かにそうだけどさ。取り立てて話すこともねぇし、俺は今、この雰囲気を粛々(しゅくしゅく)と味わってたい気分なんだけどなぁ……」

 

 渋り続ける八幡に対して、むくれ続ける静だったが、はっと何かを思い出した様子で口を開いた。

 

「そうだった、そうだった。これは私の我侭(わがまま)だ。君が必ず叶えてくれるという私の我侭だ」

「静の我侭をなんでも聞くって約束したけど、こうもお安く使われるとなぁ……。まぁ、それこそアニメと仕事の話ぐらいしかねぇけどなぁ。アニメの話は長くなるから時間足りねぇし、それに仕事の話つっても、俺は相変わらず(つよし)さんに世話になって、びしばし(しご)かれているだけだしなぁ」

「あっ、そう言えば、挙式に剛さん来てくれていたな! 一〇年前からまさかここまで繋がるとはな」

「言われてみれば、確かに改めて考えるまでもなくすげぇことだよなぁ、この縁って」

 

 ──二人が語る()()()という人物に八幡が会ったのは、内定が決まり、入社前に所属先の部署へ挨拶をしに行った時であった。

 ずらりと並んだデスクを順々に回って挨拶している最中、遠くのデスクの方へと目を向けると、奇妙な既視感を覚えたのだ。目を凝らして見ると、見覚えのある鋭い目を携えた強面(こわもて)の顔に、椅子が(きし)んで悲鳴をあげてしまうほど常人離れしている体格、そして春先であるにも関わらず日焼けしたような肌黒である男が座っていたのだ。

 いよいよ八幡はその男に挨拶をするために彼のデスクに近付いた。その二の腕や胸の辺りが張っていて、盛り上がったスーツ姿はお世辞にも似合っているとは言えないだろうが、来た者の背筋を真っ直ぐに伸ばさせるような(おごそ)かな雰囲気は確かにあった。

 

「初めまして、四月から入社して、こちらの部署で働かせていただくことが決まった比企谷八幡と申します。 一日でも早く戦力となれるよう頑張りますので、御指導、御鞭撻(べんたつ)の程よろしくお願いいたします」

「こりゃ入社前なのに態々(わざわざ)どうも。俺の名前は足柄(あしがら)(つよし)だ。これから、よろしく……って、ん……?」

 

 定型の挨拶をした八幡と目が合うと、剛は顔を近づけて眼光(がんこう)人を射るような目付きのまましげしげと八幡の顔を見詰めて、小首を(かし)げた。そして、ややあって剛は八幡に(たず)ねてきた。

 

「……君って、もしかして、千葉県の長生村の七夕祭りのカップルコンテストに出た経験はあるか?」

「はい、実は何度か出させてもらっていて、六年前は、多分足柄さんと一緒に出場していたと思います」

 

 その返答を受けて、剛は「やっぱりそうか! あの時の君か!」と機嫌よく声を上げて、八幡の肩をやや痛みを伴うほど強く叩いたのだった。

 剛──足柄剛は、その年の六年前、八幡達が初めて出場した長生村の七夕祭りのカップルコンテストで、競技中に常に八幡の横にいたあの黒光りの筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)としていた巨漢であった。その身体能力は参加者の中でも比倫(ひりん)を絶していて、圧倒的な強さで他の追随(ついずい)を許さずに決勝戦まで駒を進め、その決勝戦では大きなハンディキャップを負いながらも最後の最後まで八幡と(しのぎ)を削ったことも到底忘れ得ぬことであった。

 確かに彼の事は良く記憶に残っていたが、八幡達が複数回カップルコンテストに出場した中で彼が参加したのはその一度きりであり、偶然一度同じ祭りに参加して、対決したという袖が触れ合った程度の多少の縁だと思っていた。しかし、実際はその縁は遥かに強固なものであって、まさか同じ会社で、更に直属の上司になろうとは思いもしなかったことであった。

 その後、顔見知りということで、八幡の教育係を剛が担当することとなり、次第に私的な交流も深まっていき、今では結婚式に招待するまでに至っている──。

 

 二人してその一〇年来の不思議な縁故を()()みと感じていると、静は突然気を落として「……本当は陽菜(ひな)さんにも来て欲しかったのだがな」とぼやいた。

 

 陽菜さん──足柄(あしがら)陽菜(ひな)はカップルコンテストで旧姓の松田(まつだ)陽菜として出場していた剛のパートナーであり、大柄で黒光りした筋肉隆々の巨漢の剛とは対照的な羽二重(はぶたえ)肌の痩身(そうしん)麗人(れいじん)であり、美人(びじん)薄命(はくめい)を体現したような(はかな)さと神秘を(まと)った佳人(かじん)であった。

 存命の人に美人薄命と評するのは無礼極まりない話ではあるのだが、後々、彼女は当時重篤(じゅうとく)な病気を抱えていたことが剛から話を聞いて分かった。──先天性の心臓病である。重度な運動は禁じられていたため、二人で負担を分担でき、適度に体を動かすことができるカップルコンテストに参加していたということなのであった。

 そして剛曰く、二人が次の年からカップルコンテストに参加しなくなったのは、陽菜の心臓病に関する手術が本格的に始まったからだそうであった。

 そのような彼女は本日の二人の華燭(かしょく)(てん)には訳あって参加することは叶わなかったのであった──。

 

 ただ静の顔はすぐ(もや)が吹き飛ばされたかのように晴れやかになった。

 

「──だが、めでたい事だからな!」

「あぁ、とてもめでたい。それに、まさか俺らの結婚した日と被ることになるとは思いもよらなかったな」

 

 八幡も、ここまで来ると運命めいたものを足柄夫妻に感じざるを得なかったのであった。

 

 ──それは一昨日(おととい)の金曜日のことであった。この日は、八幡と静にとって一年の中で最も大切な日であった。()()()()()()()()()()()()()()である。

 加えて今年は、交際を始め、そしてあの一生物の約束を交わしてから、丁度一〇年という節目の年であったのだ。

 そして、二人は一〇年目にして、ようやく籍を入れる運びになった。

 長針と短針が揃って真上を向いた午前〇時の市役所に、共に婚姻届を提出した。

 

 二人が晴れて(れき)とした夫婦となった金曜日の午後。普段の日と変わらず出勤し、会社の休憩室でマックスコーヒーをお供に静お手製の弁当を八幡は頬張っていた。静は母校である総武高校で教師として働いているが、有難いことに毎朝早起きをして八幡のために弁当を作ってくれているのである。中身は八幡の好物で固められていて、別に用意されたタッパーの中には可愛らしいうさぎりんごも隅でこちらを見るように置かれていた。

 やはり、今日も今日とて格別に上手い弁当であった。

 頬張る八幡の隣には、コンビニ弁当を食べている上司の剛が居て歓談していた。

 

「そう言えば比企谷もようやく結婚か。おめでとう」

「ありがとうございます。まぁ、今更感もあるかもしれませんが」

「いやいや、めでたい事じゃねぇか!」

「もちろん結婚できて嬉しいです。それに婚姻届出しに行った時は、静は泣き出すほど喜んでくれてました。けど、やっぱ一〇年も一緒だと結婚したからって昨日と今日で特別何か変わったような気はしないですし……。早く結婚すれば、もっと静を喜ばせてあげるようなことできたんじゃないかって」

「まぁ、往々にしてそういうものだろ。俺のところだって長く付き合ってから結婚したし、別に結婚したからって何か大きく変わった訳じゃねぇよ。むしろ大きく変わる方が変だろ。二人で長い時間かけて積み上げてきたものが結婚したってだけで何もかも変わってたまるもんか。……でも、確実に何かは変わってるんだよな。例えば──」

 

 そう言って剛は、机の上に置かれている静お手製の弁当を指差した。

 

「とうとうその弁当も、今日から正真正銘の()()()()になったじゃねぇか」

「……確かに言われてみればそうですね。そっか、これが、俺の初めての愛妻弁当……」

 

 八幡は、思わず口元を(ほころ)ばせた。

 確かに小さいことが変わっているのだ。

「……いいなぁ、俺も早く食いてぇなぁ、陽菜の弁当」と嘆きながら、剛は割り箸で弁当の最後に残った梅干しを摘み上げて、口に運んでいた。

 

「酸っぱ……。あぁ、後、他にもあるぞ。例えば陽菜が電話に出て名前を名乗った時とかな」

「確かに結婚したから、苗字一緒になったんですよね。まだ全然実感無いですね」

「そうか、比企谷はまだか。あの時はすげぇぞ。あぁ、俺らは夫婦になったんだなぁ、ってひしひし感じるんだ。それですっげぇ幸福感に包まれるんだよなぁ」

 

 思い起こして少し口角を上げる剛であったが、その時突然彼の胸ポケットから着信音が鳴り響いた。

 

「おぉ、なんて言うタイミングの電話だ。もしかしたら噂した陽菜からかもな。じゃあ、悪い、比企谷、少し席を外すな」

「分かりました」

 

 剛はポケットからそれを取りだして、休憩室の外に出た。八幡は、とびきりお気に入りの一口サイズのハンバーグを箸で(つま)み上げて、口の中に放り込もうとした時であった。

 

「本当ですかっ……!?」

 

 室内にいても五月蝿(うるさ)いほどの大音声(おんじょう)が扉越しから響き渡っていた。八幡は、一度摘んだハンバーグを弁当の中に戻し、一旦部屋の外へと出た。

 

「はいっ……、はいっ……」

 

 部屋を出たすぐそこに剛は居たが、やけに神妙な面持ちで、スマートフォンを握る熊手(くまで)のようにごつごつとして太い手は似つかわしくないほど震えていた。

 

「はい、分かりました。妻の事をよろしくお願いします」

 

 剛のその様子は携帯を切った後も変わらなかった。

 八幡も話は剛から聞いていたため、何が起きたのか容易に察しはついたのであった。

 

「陽菜さん、いよいよですか……?」

「あぁ……、陣痛(じんつう)が始まったらしい。早ければ今日中の出産だそうだ」

「じゃあ、剛さん、急いで陽菜さんの元に行ってあげてください。部長には俺が連絡しておきます」

 

 だが、剛は顔の面に神妙さを引き()ったまま、まるで独活(うど)の大木にでもなったかのようにでかい図体(ずうたい)を固めて動こうとしなかった。

 

「どうしたんですか、早く行かないと」

「……やっぱり、いざこの時が来ると結構不安でな。しかも予定日より結構早いんだ。陽菜は確かに心臓の移植手術には成功して、医師にも出産は全く問題ないと言われたけどな……」

「──なら、尚更じゃないですか。陽菜さんが一生懸命痛みに闘ってる時に、剛さんまでそんな顔してどうするんですか。陽菜さんが少しでも安心できるように、明るい顔で声枯れるまで励ましてあげるのが夫の務めなんじゃないんですか」

「……あぁ、そうだな。ありがとう、比企谷。じゃあ、行ってくるわ。色々とよろしくな」

「はい、行ってらっしゃい。良い報告待ってます」

 

 八幡は、会社の廊下を駆けていく間もなく父親になるであろうその人一倍大きい背中を見送った。

 その日の、午後二十一時。陽菜が元気な男の子を無事出産した、という連絡が剛から届いた。また健康状態も母子ともに極めて良好だったようであった──。

 

 ──このような訳で、陽菜はまだ産まれたての赤子と一緒に産婦人科に入院している為、出席できないのである。

 

「近々結婚の報告も兼ねて会いに行こうな。それに陽菜さんには返さなければならない恩があるからな」

「陽菜さんがカップルコンテストの時、剛さんを(さと)してくれなきゃ、あのディスティニー行けなかったわけだし、あの世界一大切なパンさんのストラップも静から貰えなかったわけだからな……。うしっ、今度、赤ん坊に必要な育児品とかを持ってくか」

「そうだな。可愛い赤ちゃんに会うのが楽しみだ」

「あぁ、写真で送られてきた赤ん坊、本当に可愛かったからなぁ……」

 

 八幡が昨日送られたまだ目を開けていない産まれたての赤ん坊の写真を思い出して優しそうに呟くと、静はタキシードの袖口を摘んで、物言いたげに軽く引っ張る。

 

「ね、八幡……」

「ん、どうした、静?」

「私達もいつか、な……?」

 

 上目遣いで頬を少し赤く染めて恥じらいを帯びて問い掛ける男心を分かっているとしか思えないいじらしい仕草に、用意できる返答は一択しかない。

 

「──あぁ、もちろんだ」

 

 八幡の迷いのない答えを聞いて、静は破顔して、ぱあっと明るくなる。

 

「できれば、俺は女の子がいいなぁ。静の遺伝子入ってたら絶対可愛いし」

「もうっ、八幡ってば……。でも、私は男の子がいいなぁ」

「それはどうして」

「女の子だと君が溺愛(できあい)してしまいそうだからな……。そしたら私の事よりも子供のこと優先してしまいそうで……」

「ぷふっ、はははっ……!」

 

 意想外の可愛らしい静の理由に、八幡は思わず吹き出して腹を抱えて笑い出す。

 

「なっ、笑うことはないじゃないか……」

「いやいや悪い悪い、子供にまで嫉妬する静が可愛すぎてな。いや、でも、待てよ……、確かに男の子だったら……。──やっぱ、静を取られるの無理だわ。絶対女の子が良い」

「なんだ、結局、君も私と一緒じゃないか」

「あぁ、俺ら似たもの同士みたいだな」

 

 八幡のその言葉を聞くと、静も吹き出して、(おとがい)を解いて、目尻に浮かんだ涙を(ぬぐ)っていた。

 

「そんなゲラゲラ笑うことでもないだろ」

「いやぁ、何か随分前にも似たような会話があったような気がしてなぁ」

「あぁ、言われてみれば、確かに俺もそんな気がしてきたわ」

「ぷふっ、あははっ!」

「くっ、あははっ!」

 

 そして、二人して笑っていた。

 静の言う通りであった。こうして二人で話して、笑い合っている方が幸せであるのだ──。

 

「──まだ時間あるな。そういや、そっちの仕事の方はどうだ。海斗(かいと)の事はまぁ、いいとして、あのなんだっけ、(ゆき)(はま)だっけ……?」

「いや、雪ノ下(ゆきのした)由比ヶ浜(ゆいがはま)だ」

「そうだそうだ。で、その子達とはどうなんだ。静が贔屓(ひいき)にしてるんだろ?」

「あぁ、相変わらずとってもいい子たちだよ。君にも会わせてやりたいぐらいだ。うん、本当にとても……」

 

 静は急に(ろう)が溶けてまもなく消え入ってしまう燐光(りんこう)のように暗く震えた声になって、その美しい瞳がどこでもない虚空(こくう)を捉えているように見えた。静のそのような姿は久しく見ておらず、八幡も異変を直ぐに嗅ぎ取る。

 

「……だから、だからもし一○年前に彼女たちがいたら、私は君に選ばれなかったのかもしれないな」

 

 その静の言葉には最近芽を出していなかった不安の種子が()わっていた。

 

「……静、ちょっとこっちに身体寄せてくれるか」

「え、うっ、うん……」

 

 八幡はしなだれるように身を寄せてきた静の頭を覆う純白のヴェールを少し退()かして、頭を優しく撫で始めた。髪型が崩れないように細心の注意を払いながら、軽く手櫛(てぐし)を入れてやったりもした。静は抵抗することなく、途中から猫のように目を細めて、それを心地よさそうに受け入れていた。

 そして、(しばら)くして、その手を止めて、静の見掛け以上に華奢(きゃしゃ)な身体を一度抱き締めた。そして不安を撫で下ろすように背中を(さす)ってから、静の肩をやや強く掴んで、彼女の顔を見た。

 透き通るような血色の良い雪の(はだえ)に、なだらかな丘陵(きゅうりょう)を描く整えられた蛾眉(がび)は殊に彼女の眉目(みめ)麗しい様相を表象していた。端から切り揃えられた長く反り返った睫毛(まつげ)に、ブライダルメイクを(めか)して際立った陰翳(いんえい)はいみじくも(ゆう)なるものであった。

 このように世界中の誰よりも美しいと思える静の容貌(ようぼう)の中でも、とりわけ魅惑的な薄墨(うすずみ)色の虹彩(こうさい)が不安で揺らめく瞳を捉えて、告げる。

 

「──静が急になんの心配してるか分からねぇけど、これだけは断言できる。他の(ひと)を選ぶなんて絶対にない。俺は絶対にお前のことを選んでる。他の誰でもなく静しか俺には考えられねぇんだ」

 

 (いた)く真剣な眼差しを向けて八幡が言うと、静は植わっていた不安の種が取れたように愁眉(しゅうび)を開いて柔らかく笑った。

 

「……ごめん、八幡。君の気持ちを試すようなことをしてしまった。でも、彼女達を見るとどうしても不安になっしまってな……。だから、君がそう言ってくれるのを求めてしまった。やはり私はいつまで経っても(ずる)くて怖がりで、臆病だな」

「全然いい。やっぱそういう狡くて怖がりで臆病っていう静の可愛いところが俺は大好きだからさ」

「私もそういう優しい八幡が大好きだ」

 

 少し目を()らして、八幡は頬を二、三度人差し指で()いていた。

 

「やっぱ、こういう気障(きざ)台詞(セリフ)は性に合わねぇな。照れくせぇ……」

「ふふっ、ねぇ、八幡っ!」

「ん、どうした?」

「私の()()()()()()()()、言ってもいいだろうか?」

「このタイミングでか……? まぁ、別にいいけど。知っときてぇし」

 

 静は深く息を吸って、そして口を開いた。

 

「──私、君に出会う前、長い夢を見てたんだ」

「ん……? それが、どうした」

「その夢は、良い夢だったんだけど、どこか辛くて満たされなかった。だがな、君に会ったことでその夢から()めたんだ。そこからはいつも幸せで、常に満たされてて、私にとって最高の世界だったんだ。まるで()()にかけられたみたいにな」

「……それが、秘密?」

 

 拍子抜けした八幡が怪訝(けげん)そうに問い掛けると、静は急に顔を朗らかに崩して、高らかに言う。

 

「あぁ、これが私の()()()()()()()()だ!」

「全く、この()に及んで言うから、もっととんでもないことだと思ったわ」

「……とんでもないって、例えばどんなことだ?」

「例えば、『私、実は男の()でしたっ!』とか」

「ばっ、馬鹿者っ……。私が男の娘じゃないっていうのは、そ、そ、その、とっくに分かってるでしょ……」

 

 静の頬はみるみるうちに紅潮し、それは耳の先から、首筋までを朱色に染め上げていった。その様子を見て、思わず不敵な笑みが八幡から(こぼ)れ出た。

 

「……ふっ、結婚式のウェディングドレス姿っていう、今日限りの恥じらい顔、まじ最高だわ。よし、ちゃんと焼き付けてるよな俺の目。今のは間違いなく永久保存版だ」

「──っ……! もうっ、八幡の馬鹿っ……!」

 

 刹那、五臓六腑が壊れるような衝撃と共に胴体の内側へと何かが()り込む鈍い音がすると、人から出るはずのない渇いた奇声が、八幡の口から漏れ出た。

 直後に八幡は白銀のソファから崩れ落ち、鳩尾(みぞおち)あたりを抑えて、呼吸も(ろく)にできず、ペルシャ絨毯の上で寝転がって(うな)り声を上げ始めたのであった。

 

 丁度その時、二人がいる控え室の扉を叩く音があって、部屋の中に結婚式場のスタッフが入室してきた。

 

「少々遅れてしまい申し訳ありません、新郎新婦様。まもなく披露宴前の──、……って、新郎様、大丈夫ですかっ……!?」

 

 当然火を見るより明らかな尋常ではない八幡の様子を見て、矢も盾もたまらず駆け寄ってきたスタッフに対して、「あ、あはは……、大丈夫です……」と路肩に転がる今にも死に絶えそうな蝉のような(かす)れ声で言葉を返した。

 

「でっ、ですが、明らかにお腹を手で抑えられていますけど……」

「いえ、全然大丈夫です。私の旦那、しょっちゅう腹痛に襲われるので」

「で、では急いで御手洗の方に──」

「大丈夫です♪ ねっ、八幡?」

 

 八幡は(うずくま)りながらも、小さく頷いていた。

 

「そ、そうですか。ですが、もし新郎様の体調が優れないようでしたら、近くのスタッフに直ぐご連絡下さい」

「分かりました♪」

「でっ、では、まもなくお時間ですので、ご準備の方を……」

「はいっ!」

「は、い……」

 

 スタッフは加えて、披露宴の前に時間を取って、()()()()()()()()()()()をするということと、体調が優れなかったら連絡して欲しいということを再三伝えて、部屋から出ていった──。

 

 

 

 △▼△▼△▼

 

 

「──新郎新婦様、此方(こちら)に。まもなく扉が開きます。開いたらカーペットの上をお進み下さい」

「分かりました」

 

 その指示の元、八幡と静は、二回り以上彼らよりも大きく、均整(きんせい)のとれた鉄の装飾が施された木製のアーチ型の扉の前に立った。

 

「では、開きますっ!」

 

 その掛け声と共に大きな扉が軋むような音を立てて内側に開かれる。その瞬間、流れ込むように入ってきた秋の日の目映(まばゆ)い光が、目眩(めくらま)しをするかの如く全面に燦然(さんぜん)と輝いて、二人を包んだ。

 やがて、その輝きが淡く薄くなると、二人の目に浮かび上がるのは、往く道を示す深紅のカーペットであった。

 そして、その道に沿って、奥までずらりと列席者が並んでいた。

 八幡はその光景を見て、一入(ひとしお)の感慨に()けった。あの時、道を進む決意をしたからこそ、このように道が続いているのだ。割れんばかりに鳴り響く祝福の拍手が、正しい道を選んだ自分のことを褒め称えているようにも感じた。

 ちらりと隣の静を見ると、今の陽射(ひざ)しにでもやられたのだろうか、その(めじり)には光る水粒(みつぼ)があった。八幡は、そんな静に腕を差し出す。

 

「静、行くぞ」

「……うん」

 

 二人は腕を固く組んで、光が照らす深紅のカーペットが敷かれた階段を下りていった。すると、一斉に鮮やかな花弁が宙を舞い始め、百花(ひゃっか)繚乱(りょうらん)と咲き乱れているようであった。これは元々の予定には入ってなかった列席者からのサプライズのフラワーシャワーであった。

 その光景は、幻想的で、心揺さぶり、筆舌(ひつぜつ)に尽くし難い美しいものであった。

 胸に込上げるものを抑えながら、階段を下りると、まず迎えたのは親族である二人の両親であった。簡単に挨拶を終えた後、続くのは妹の小町であった。

 

「結婚おめでとっ、お兄ちゃん、静さんっ!」

 

 そう祝福の言葉を溌剌(はつらつ)と言って、小町は(かご)の中の花弁を二人の頭上へと放った。

 

「ありがとな、小町。今日は受付までやってくれて」

「本当に小町ちゃん、ありがとう」

「いいんです、いいんです。私がお二人に一番近しいんですから、私がするのは当然です。二人のことはいつまでも面倒見てあげますからっ……! あっ、今の小町的にチョーポイント高いっ……!」

 

 決め台詞を言い放った小町は誇らしげに胸を張って、ふふんと鼻を得意げに鳴らした。直ぐに小町は、八幡の方を指差して、

 

「絶対お兄ちゃんは静さんを幸せにすることっ! 分かった!?」

「あぁ、勿論だ」

 

 その即答に納得したように何度か頷くと、今度は静の方を向いて、

 

「静さんは、お兄ちゃんのことで困ったら私に相談してくださいね。私も、静さんと負けないぐらいお兄ちゃんのこと知ってますから!」

「ふふっ、分かった。小町ちゃんにいつでも相談させてもらうからな」

「よしっ、おっけーでーすっ! じゃあ早く行った行ったー! 皆さん待ってるから!」

 

 二人は小町に()かされ、一、二歩前に進んだ。だが八幡には今日、小町に言わなければならない言葉があるのだった。だから、一度立ち止まって、小町の方に振り返ってその言葉を伝える。

 

「──小町、今日は本当にありがとうな。ずっとだめだめなお兄ちゃんだったと思うけど、お前が居てくれたおかげでこんなお兄ちゃんもここまで来れた。小町が俺の妹でいてくれて本当に良かった。本当に今までありがとう。そして、これからもよろしくな、小町」

「──っ……!」

 

 八幡の言葉を聞いて、(うつむ)いた小町は何かを呟いているようであったが、彼の耳には届かなかった。そして暫くして、小町が顔を振り上げて、

 

「……うんっ、私も、お兄ちゃんの妹で良かった! これからもよろしくねっ、お兄ちゃんっ!」

 

 一瞬覗かせた小町の瞳は潤んでいるように見えたが、直ぐにくしゃりと(まなじり)(しわ)を寄せて笑うものだから、はっきりとは分からなかった。

 こうして、かけがえのない血の繋がりを持った妹に祝福された後も、この道は続いていく──。

 

 

 ──次に二人を迎えたのは、静が最も懇意(こんい)にしている友人達であり、何かと八幡とも接点が多い、静の中学生時代の同級生二人組、大磯(おおいそ)(さくら)秦野(はだの)鶴子(つるこ)であった。

 

「結婚おめでとう〜、二人とも」

「結婚おめでとっ! 静とヒッキー……じゃもうダメなのか。じゃあ、ハッチーでいいかっ!」

「おぉ、ここに来て新しい渾名(あだな)がついた。まぁ、二人とも今日はありがとな」

「ツルと桜、今日は来てくれてありがとう。二人には凄い助けられたし、これからも頼ることもあるだろうけど、よろしく頼んだぞ」

「は〜い、私たちに〜任せなさ〜い〜」

「……何か頼りねぇな」

 

 秦野のおっとりした口調で間延びしてしまった宣言に対して思わず漏れ出た八幡の言葉に、四人は揃って笑った。

 

「まぁ、二人に向けて言うべきことっていうのは色々あるんだろうけど、この(よわい)にして独身の上、結婚の目処(めど)がまるで立たない私たちが言うべきことは──」

 

 大磯と秦野は示し合わせたように頷くと、息を合わせて、

 

「「リア充爆発しろーっ!」」

「ツルと桜の馬鹿者っ……! この場でそういうことを言うんじゃないっ!」

 

 静のツッコミに満足したのか、二人は顔を見合わせて悪戯(いたずら)っぽく笑った。

 

「あははっ! とにかく二人とも本当にお似合いだから、末永くお幸せにねっ! 私たちからは以上っ──!」

「末永くお幸せに〜」

 

 その言葉と同時に、締め(くく)るように花の雨が散らされた。

 こうして、静の同級生二人組に祝福されたもとい(いじ)られた後も、この道は続いていく──。

 

 

「おっ、やっと来た! しずねぇ、はーにぃ! 結婚おめでとうっ……!」

 

 無邪気で底抜けに明るいのは昔と変わらないが、声音は低く(たくま)しくなって、背丈も八幡と並ぶほどに随分と大きくなった男子が恥ずかしげもなく白い歯を見せて、二人を祝福する。その男子の格好は、八幡が(かつ)て着ていた総武高校の制服姿であった。

 そして、その隣には、初めて会った時はあれだけ小さく、まだ口も上手く回せていなかったはずであるのに、いつの間にか大きくなって、近い将来とびきりの別嬪(べっぴん)さんになるだろう可愛らしい顔貌(がんぼう)愛嬌(あいきょう)を振り撒いている女子が、その男子に続いて、

 

「しずねぇ、はーにぃ! 結婚おめでとう!」

 

 と、籠の中の花弁をめいいっぱい高く高く撒いて、祝福の言葉を口にした。二宮(にのみや)海斗(かいと)と二宮(しおり)の兄妹の祝福を受けて、二人は以前と変わらず頬を緩ませた。そして随分久しぶりではあるが、自然と静は海斗の頭を、八幡は栞の頭に手を添えて、猫可愛がりするようにわしゃわしゃと撫で始めた。二人は最初は驚きながらも、途中から懐かしいその感触を堪能(たんのう)しているように、目を細めるのであった。

 

「海斗、しーちゃん、ありがとうっ!」

「ありがとな、二人とも」

 

 その様子を微笑ましそうな目で見つめていたのは、二人の母親の二宮基子(もとこ)であった。

 

「結婚おめでとう。静ちゃんと八幡くん」

「基子さん、ありがとうございます」

「ありがとうございます。私、基子さんに凄いお世話になったので、今日来て頂けて本当に嬉しいです」

「静ちゃんは私のもう一人の娘みたいなものだもの。当然参加させてもらわよ。招待されなくても無理やり参加するつもりだったし。そうだ、時に静ちゃん、もし弁当の事以外にも夫婦生活で困ったことあったらなんでも聞いていいからね。まぁ、私のどうしようもない夫と違って、八幡くんだからそんな事ほとんどないと思うけど」

 

 八幡は、謙遜気味に首を横に振った。

 

「いや、買い被りすぎですよ。俺だって静に迷惑かけてばっかりですから」

「そんなことないわよ。だって、八幡くん、まず煙草(たばこ)とか吸わないでしょ」

「煙草は吸わないですね。まぁでも、昔から格好良いなとは思ってて、憧れが無い訳ではないんですよ。けど、やっぱ小っ恥ずかしいですけど、俺は静と過ごせる時間を一秒でも長く延ばしたいので、どうしても敬遠しちゃって」

「はっ、八幡……」

 

 恥ずかしがって(うつむ)く静の様子を見て、殊更恥ずかしくなって、少し伏し目になって八幡は襟足(えりあし)を掻いていた。

 どうやらその言葉は、基子への受けが抜群に良かったようで、興奮気味に「素晴らしい、八幡くん、本当に素晴らしいっ!」と八幡を褒め(そや)し始めたのだ。

 

「──あぁ、もう八幡くん、凄いわっ、本当に。あぁ、もうどうして家の夫はあんななのかしら。静ちゃんが羨ましくて仕方ないわ。そもそもこんな大事な日に出張入れてくるのも意味分からないしっ……!」

「母ちゃん、やめろよ。二人の前でさ」

「本当にみっともないよ……」

「だって、あの人。結婚記念日も忘れてるのよ?! 普通に飲んで、ベロベロに酔って帰ってきて、何なのっ?!」

「母ちゃんさぁ、今結婚式なんだから、もう少し場を(わきま)えろよ……」

 

 夫の(つとむ)への愚痴が止まらなくなった基子を子供たちが必死に(たしな)めている。それを見て、八幡と静は微苦笑を浮かべた。しかし、これがこの一家の日常茶飯事であるし、二人が二宮家を尋ねた時も、努の前で普通に言っていたことであって、夫婦仲が特別冷えている訳でもない。それどころか、努が(まれ)に魅せる漢気に基子は滅法弱く、だらしないほど頬を緩める姿を知っているから、微笑(ほほえ)ましさの方が勝るのだ。このような夫婦が偕老(かいろう)同穴(どうけつ)の夫婦なのだと八幡は常々感じていた。

 

「二人とも、いつでもいいから、昔みたいに家に遊びに来いよっ!」

「私たちいつでも大歓迎だからっ!」

「あぁ、分かった。暇な時出来たら行くから。あ、それと、次行く時は、もう一人客が増えてるかもしれないから、ちゃんと用意しておいてくれよ。な、静……?」

 

 静の方を向くと、彼女は微笑を(たた)えて大きく頷いた。

 

「──あぁ、八幡の言う通りだっ!」

「おうよっ、一人増えようが二人増えようが、どうってことないぜ、しずねぇ、はーにぃっ!」

 

 心強い言葉を返した海斗は「だから!」と言って右手の小指を立てて、腕を二人の前に差し出した。それに倣って、栞も右手の小指を差し出す。

 

「絶対にまた遊びに来いよっ、約束だっ!」

「うし、じゃあ静も」

「勿論だ!」

 

 一旦組んだ腕を(ほど)いて、二人も右手の小指を立てて、海斗と栞の小指と固く結ぶ。そして、「せーのっ!」と海斗が声がけをして、

 

「「「「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーますっ、指切った──!」」」」

 

 こうして、一〇年来の交流が続く親しい二宮一家と再び約束を交わした後も、この道は続いてく──。

 

 

 ──次に迎えたのは、黒のジャケットが案の定はち切れそうになってしまっている八幡の上司──足柄剛であった。

 

「あっ、剛さん。来てくれてありがとうございます。そして、ご出産──」

「比企谷、その言葉は今言わなくていい」

「え……?」

「勿論ありがたいんだが、今日一日は比企谷と静ちゃんは祝う側じゃなくて、祝われる側だろ? それを言うなら、また後日にして欲しい。とにかく、今日はここにいる人達の祝福をめいいっぱい受けるんだ」

 

 そして、剛は、その口元を朗らかに歪めて二人に向けて一言。

 

「結婚おめでとう。比企谷に静ちゃん。末永く幸せにな」

「はいっ、ありがとうございますっ──!」

 

 ──その後も深紅の道は続いた。

 高校時代に静と良く引き合いに出されていた山王(さんのう)弘子(ひろこ)を初めとした総武高校の同級生。二人のそれぞれの大学生時代の友人。八幡の会社の同僚。静の学校の同僚。──関わった全ての人々によって、道は作られていく。そして絶え間なく舞い続ける花弁と、贈られる祝福の声。

 天涯(てんがい)孤独の道を歩んでいたら、このような人々の温かさと幸せに(あふ)れた道を歩くはずもなかった。

 やはり、全て、腕を組んで八幡の隣で並んで歩いている静のおかげなのであった──。

 

 

 

 △▼△▼△▼△▼

 

 

 

 ──この道の終着点は、中央に噴水があり、周りが建物に囲まれたパティオと呼ばれる様式の薄緑の芝生が生い茂る中庭であった。そこの一角にあるこじんまりとした乳白色の大理石の舞台(ステージ)の上に、二人は導かれたのだ。

 

「私、重くない──?」

 

 静は周りに聞かれないような小さな声で(ささや)く。八幡の首周りには静のしなやかな腕が回されていて、彼は彼女の背中と足に腕を回して抱き上げていた。それはまさしくお姫様抱っこというものであった。

 たった今、写真撮影ということで、このポーズを取っているのだった。

 

「あぁ、めっちゃ重いわ」

「はぁっ……?! デリカシーがないっ! もう一度殴るっ……!」

「最初から一択じゃねぇか。さすがにギャラリーの前ではシャレにならねぇから勘弁してくれ。って言うか今も現在進行形で撮られてるんだし」

()()()()()だ」

「愛ってつければ、なんでもオーケーにはならないからね……?!」

 

 写真で撮られていることを忘れて、静は柳眉(りゅうび)を逆立てて、八幡を()め付けている。しかし、八幡は気にもせず飄々(ひょうひょう)とした様子で口を開いた。

 

「──はっ、そりゃ重いに決まってるだろ。だって、静の愛も将来も人生も全部背負ってるからな。これは()()()()()()だ」

 

 八幡による思いもよらぬ美言(びげん)に大層感心したように頷くと、静は少し微笑んで、今度は濡れ石のように(つや)やかで柔らかな眼差しを向けた。

 

「──ふふっ、あぁ、そうだな。私の全部八幡に預けたからな!」

 

 静は、より身体を預けるように、その回す腕の力を強めて、顔を寄せて、八幡の頬に優しく暖かな口付けをした。

 彼の身には、頬の一点から、そして、柔らかく華奢な身体全身から感じる温もりが滞ることなく伝わっている。そして、それが彼に途轍もない幸福を与え続けるのだ。この幸福の伸び代は広大(こうだい)無辺(むへん)としていて、まるで終わりが見えない。

 だから八幡は、静が絶えず与えてくれるその気持ちのお返しとして、途切れることなく、日に日に強く大きくなってい彼女に対する確かな想いを、この一言に込めて、伝えるのであった。

 

「──静、愛してる。これから先、絶対に幸せにするから、末永くよろしく頼む」

「──うんっ! 私も八幡のこと、愛してるっ! ずっと、ずっとよろしく頼んだぞっ……!」

 

 静は一呼吸置いて、八幡に向かって、告げる。

 

「──ねっ、八幡!」

「なんだ、静?」

「生きてきた中で、今が一番、──幸せだっ……!」

 

 満開に咲き誇った静の笑顔は、裏表もなくて、何の(けが)れも汚れなくて、何よりも輝いていて、何よりも澄んでいて、何よりも可愛らしくて、何よりも美しくて、何よりも愛しくて、そして、何よりも()()()()()()()()()()()()であった。

 

 だが、まだこれが終わりではない。これから先も、世界で一番愛しいこの人を幸せにし、一番の笑顔を隣で見続けることこそが、八幡の生きる意味なのだから──。

 

 

 ──程なくして抱えていた静を丁寧に下ろした時であった。

 

「さぁすがだぁ最強カップルゥゥ! お姫様抱っこも、最高だったぜッ──! では早速……、レデイィースエェンドジェェントルメェェン──! お待ちたせしたッッッ──! 私の名前は、長生きと九十九里の申し子っ、ミスターナインティナインだッ──!」

 

 舞台の脇から何の前触れも無く登場して高らかに叫び出したので、二人揃って腰を抜かすほど喫驚(びっくり)仰天(ぎょうてん)したが、見覚えのある奇抜な格好を一目見て、聞き覚えのある声を耳にすると、すぐに(うたぐ)るように互いの顔を見合った。

 

「え、何だこれは……。八幡が呼んだのか……?」

「いや、俺も知らん。静が呼んだんじゃねぇのか、どういうことだ」

「二人とも驚いてくれているなッッッ──!! これはッ、何度もカップルコンテストで優勝し、更にカップルコンテストでプロポーズして、永遠の愛を誓った正真正銘の最強カップルへの長生村からの(ささ)やかなサプライズだッ──!!」

 

 サプライズゲストの登場に今日一番の盛り上がりを見せる会場。どうやら列席者はこの事を事前に知っていたらしいのだ。ところが二人は本当に突然のことであったので、ミスターナインティナインに説明を受けても言葉を失ったままであった。

 そこから幾許(いくばく)もなく、呆然としている二人の元にスタッフが静に忍び足で近寄って、ある物を手渡した。

 

 静はそれを受け取ると、途端、実に感慨深そうに目を細めた。

 

 

 それは、真紅と深青の薔薇の花束──()()()であったのだ──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 

 

 

 

 

 

 清々しいほど晴れ渡り雲ひとつ無い快晴の昼下がり、二人の女子高校生たちは、黒のブレザーとスカートの制服姿で、歩道を慣れない革靴で走っていた。周りは田圃(たんぼ)と宅地が交互に訪れるような場所で、人も車の通りも少なく、いかにも郊外と田舎の狭間(はざま)の町であった。

 途中交差点に差し掛かり、数少ない赤信号に(さまた)げられ、致し方なく止まっている。

 一人の少女は、今この場所がどこかであるか、そして、目的地にはどのように行けば着くかということを、スマートフォンのマップアプリを開いて、その玲瓏(れいろう)とした双眸で睨みを利かせて確認していた。

 もう一人の少女もスマートフォンを見ていたが、彼女は画面を見つめながら「うわぁ、最悪だぁ」と分かりやすく落ち込んだ様子で嘆いていた。

 

「ねぇ、ゆきのん、もう先生の挙式終わっちゃったって。先に行ってるニノっちがメールで教えてくれた……」

 

 眉をしゅんと下げ、その大きく(つぶ)らな瞳を落胆の色に染めた少女──由比ヶ浜(ゆいがはま)結衣(ゆい)は、スマートフォンの画面を、もう一人の麗しき少女──雪ノ下(ゆきのした)雪乃(ゆきの)に見せつけていた。

 

「まぁ、講習があったのだし、先生にも招待する代わりに、必ず講習の方を優先して欲しいと頼まれたのだから仕方ないわ。それに披露宴に出席すれば、先生の晴れ姿を見ることはできるのだから」

 

 雪乃は冷静沈着に結衣を諭すように告げる。

 二人は総武高校の生徒であり、静が顧問をする部活──奉仕部の部員であり、今日挙行されている静の結婚式に招待されていた。

 

「そうだけどさぁー、式見てみたかったなぁー。それに誓いのキ、キキキスとかも! きゃあ〜っ! 想像するだけで熱出てきそうっ!」

「……出席しなくて正解だったわね。あなたが出席したら一生に一度の神聖な式が一週間に一度のコンパニオン程度の安っぽい式になってしまっていたわ……」

「うんうん、だよねっ! ……って、何、ゆきのん、今バカにしてなかった?!」

「あら、逆にしてない訳ないじゃない」

 

 雪乃に鼻であしらわれた結衣は、その柔らかそうな餅肌の頬を破裂しそうなほどぱんぱんに膨らませる。

 

「も〜! ゆきのんのすけこましぃ!」

「はぁ、完全に間違っている気がするのだけれど。今は訂正する時間が惜しいわ。とりあえず早く行きましょう、会場はもうそう遠くはないわ」

「あぁ、待ってよ! ゆきの〜ん!」

 

 二人は青信号になった横断歩道を走って渡る。

 その後、結衣は小走りをしながらも、いつも通り犬が飼い主に甘えるような調子で雪乃に喋りかけていた。

 

「ねぇねぇ〜、ゆきのーん」

「……どうしたの?」

「ニノっち以外にも総武高の生徒いるかなー?」

「他の生徒は居ないはずよ。生徒を呼ぶのは公私混同だと(おっしゃっ)っていたもの。とりわけ交流の深い二宮くんと部活動で深く関わってきた私たちが特例なのよ」

「あ、そうだったっけ! そっか、私たち特別なんだっ! ……でも、皆来たかっただろうなぁ。先生って、面白いし、カッコイイし可愛いし、オシャレだし。まさしく憧れの大人って感じで、そんな先生の結婚式、皆も見たいよね」

「えぇ、そうね。(した)われている先生だものね」

 

 結衣は「いいなぁ」「私もあぁなりたいなぁ」とぶつぶつ独り言を呟いていた。そして暫くすると、また何か話題が浮かび上がってきたようで、突拍子もなく雪乃に話しかけ始めた。

 

「そうだ、ゆきのん。クラス違うしニノっちのことよく知らないでしょ? せっかく今日会うんだから、どんな人か教えてあげるよ!」

 

 そう言って、結衣は海斗に関することを機嫌よく話し始めた。

 

「──学校でもよく先生のことしずねぇって言ってゲンコツくらってたり、先生と彼氏さんのラブラブっぷりを皆に披露してゲンコツくらってたりしたんだぁ。平塚先生のガラケーのバッテリーの蓋の裏に、初々しいプリクラが貼ってあったとか暴露してたなー!」

「へぇ……」

 

 さらに、数分間喋り続けた後、ようやく紹介が終わった。

 

「──こんな人なんだー、ニノっちって」

「……ふーん」

 

 先程から感情が爪の(あか)ほども籠ってない雪乃の冷めた反応に、結衣も目を見開いて、「ゆきのん、反応薄すぎっ!」と(なじ)った。

 

「二宮くんとは別のクラスなのだし、別に仲良くもないし、特別、興味があるわけでもないのだから、いくら詳しく教えられてもこのような反応に落ち着くのは当然でしょ?」 

「それ、酷くないっ?! ニノっち可哀想……」

「そうかしら、由比ヶ浜さんだって私の貴重な時間を()いて勉強を教えてる時、いくら丁寧に説明しても、反応が大層薄いのと同じよ。貴方にとっての勉強が、私にとっては仲良くない同級生なだけだわ」

「う"っ……、それは……」

 

 物の見事に急所を突かれた結衣は、そこからは電源が切られた人形のように黙りこくってしまい、ただ目的地へと向かって両脚を必死に動かしていた。

 

 ──雪乃と結衣は、豪勢な門が構える結婚式場に辿り着いた。その奥にはまるで雪で(よそお)ったかのような真っ白な建造物も見えた。そこから、二人は近くにいた式場のスタッフに話しかけて、事情を説明し、招待状を見せると、式場の中へと案内された。

 

「どうぞ、こちらです」

「ありがとうございますっ……!」

「ありがとうございます」

 

 案内されたのは、中央に噴水があり、芝生や背丈の低い木が生い茂る広々とした中庭であった。そこには既に参列者による人(だか)りができていて、やはり婚礼(こんれい)用の正装を着ている参列者の中で、彼女達の制服姿は中々に浮いていた。

 二人の目の前の人集りは、やけに若い女性が多いように見えた。辺りを見回すと、年配の女性や男性は脇の方に()けているのが分かった。

 

「今から何始めるんだろう。大丈夫かなぁ、披露宴に間に合ったのかなぁ……」

「これは恐らく……」

 

 雪乃が大方の検討をつけて、気遣わしそうにしている結衣に伝えようとした。しかし何かに気が付いた結衣は「あっ!」と大きな声を出して、その人集りの向こう側を興奮気味に指差し、すっかり気遣わしさは彼女の顔から消散していた。

 

「ゆきのん見てっ! 先生だ!! しかも喋ってるよ! 新郎さんも隣にいるっ! 後っ……、何あれ……」

 

 その指の先には、純白のウェディングドレス姿の静がいたのだ。隣に並んでいるのは、タキシード姿の新郎であろう。そして静にマイクを向けるのは、英国紳士がいかにも好みそうな黒のシルクハットを被って、その側面には巻貝らしきものが両側面に付けられていて、マントではなく地引(じび)き網を体に羽織っている──明らかに場違いな奇天烈(きてれつ)な格好をしている男であった。

 信じ難いが、どうやら得体の知れないあの男が司会者であるらしかった。

 

『確かこれは、新婦が熱望したんだよなァ?!』

『はい、そうなんです』

 

「おぉ、先生が喋ってる! ゆきのん、やっぱすっごい綺麗だよ、先生! ウェディングドレスめっちゃ似合ってるし!」

「えぇ、そうね、たしかに綺麗だわ。それと、やはりこれから、ブーケトスが始まるのね」

「あぁ、あの掴んだら幸せになれるってやつ? あっ、ホントだ、先生ブーケ持ってる! しかもちょっと青いの混ざってるじゃん。なんか珍しそうっ!」

青い(ブルー)薔薇(ローズ)、確か、花言葉は……」

 

 青い薔薇──ブルーローズは昔、自然界には存在しなかった。だから、青い薔薇は()()()()()()()の象徴とされていたが、一〇年程前、人々の努力によって人工的に生み出され、この世に生命の根を下ろすことになったのだ。──という話を雪乃は聞いたことがあった。

 そして、その時新しく付けられた花言葉があるのは覚えていたが、()び起してみるも肝心(かなめ)のその言葉がどうにも朧気(おぼろげ)になって、思い出せなかった。

 

『──私と同じような幸せを掴んでいただけたらと』

『素晴らしいっ、アメイジングッッッ!!』

 

 雪乃が思い出そうと躍起(やっき)になっている内に、新郎新婦と司会者のやり取りは(つつが)()く進んでいたようで、まもなくブーケトスが行われるようであった。

 

「由比ヶ浜さん、近寄ってみる?」

「ふぅ〜ん……」

 

 雪乃がそう提案すると、結衣は腹立たしいにやけ面になって、雪乃の顔をじぃっと見つめ始めた。

 

「な、何かしら……」

「ゆきのん、そういうの興味無いと思ってたけど、ちゃんとあるんだ〜、と思って!」

「ちっ、違うわ。先生の姿をもう少し近くで見たいだけよ。別に私は、そんな迷信、信じていないし、第一まだ年齢的にも──」

 

 雪乃が御託(ごたく)を並べ切る前に聞く耳を持とうとしない結衣は、彼女の手を強引に握ってしまった。

 

「うんうん、分かった分かった! 早く行こっ! 始まっちゃうよ!」

「本当に分かってるのかしら……」

 

 雪乃は結衣にぐいぐいと手を引かれて、若い女の人達が集まっている輪の中に入っていった。

 

『──まぁ、俺はやめたほうがいいって言ったんですけどね。だって、完全に煽りじゃないですか、これ』

『オーマイガッッッ! 何て事を言うんだい、新郎ッ!』

『こら、八幡っ! 余計なこと言うんじゃない!』

 

 十中八九相応(ふさわ)しくない言葉を発した新郎に静は眉を(しか)めて御冠(おかんむり)を曲げていた。当然、会場全体から総好かんを食らい、結衣もぐにゃりと眉を曲げて難色を示していた。

 

「うげっ……、なんか旦那さん(ひね)くれてない……?」

「確かに場にそぐわないとんでもない失言ね。でも──」

 

 雪乃は(こら)えきれずに失笑してしまった。

 

「ふふっ、少し面白いわ」

「えぇ、そうかなぁ……」

 

『冗談だ。冗談。ごめん静、愛してるぞー』

『かっ、軽々しく……。もうっ、八幡の馬鹿っ、私も愛してるっ!』

 

 静はその手に持った深紅の薔薇と同じように(すこぶ)る頬を赤らめて、ぷいと顔を背ける。微笑ましい二人の姿に会場からは大きな笑い声が生まれ、茶化すような野次が飛びかっていた。

 

「うっわ、すっごい惚気(のろけ)。あんな顔するんだね、先生って」

「えぇ、普段の姿からは想像できないわね、本当に」

「でもやっぱ、間近で見るとほんとに先生綺麗! いいなぁ! いいなぁ……! 旦那さんもちゃんとしてるとかっこいいし〜。いかにもラブラブな夫婦って感じ! 憧れるー!」

「由比ヶ浜さん興奮しすぎよ」

 

 雪乃はそう結衣を(いさ)めるが、思っていることは結衣と同じであった。彼女の目に映る二人の姿は、正しく比翼(ひよく)連理(れんり)(たた)えられる夫婦そのものであった。

 

「──えぇ、でも、そうね、とても綺麗だわ」

 

 近付いて改めて見ると、ウェディングドレスは、どこまでも透き通るほど真っ白であった。そして、そのドレスに身を包む静は、盈盈(えいえい)としていて、憧憬(しょうけい)に値するほど綺麗であった。その姿は(さなが)御伽(おとぎ)(ばなし)の中の姫君のようで、そこから飛び出してきたような非現実さすらさえもあった。明眸(めいぼう)皓歯(こうし)羞月(しゅうげつ)閉花(へいか)の美人とは、誠にこの事を言うのだろう、と雪乃はつくづく思った。

 

『では、新郎新婦の微笑ましいやり取りも見れたところで、お待ちかねッッ──! ブーケトスを行うぞォォ!』

 

 そのように司会者が宣言した瞬間、歓声が響き、指笛が鳴り、拍手が沸き起こる。

 

『三から始めるから、皆も合わせてくれッ! では、カウントダウンッ! せーのッ──!』

 

「「「三っ……!」」」

 

 会場の全員が一斉に、声高に数字を叫ぶ。

 隣の結衣も微笑みを浮かべて、腹の底からのめいいっぱいの声で叫んでいた。

 しかし、雪乃は声高に叫ぶことなく、ただ静の方を見ていた。そして、容易く掻き消されてしまう(かす)かな声で独り()ちる。

 

「それに」

 

 ──私も……

 

 

 

「「「二っ……!」」」

 

 

 

「とても」

 

 ──私も、いつか……

 

 

 

「「「一っ……!」」」

 

 

 

「とても、幸せそうね……」

 

 ──あんな風に笑える日が来るのかしら……

 

 

 

「「「〇っ…………!」」」

 

 

 世界中の誰から見ても分かるほど、眩しく幸せに満ち満ちた笑みを咲かせている静は、くるりと背中を向けて、その綺麗な薔薇のブーケを青々と、どこまでも澄み渡った空に向けて、放った──。

 

 

 

 

 

 

花束が宙を舞う。

 

 

 

 

 

 高く高くあがったそれを、周りの人はみな見ている。

 

 

 

 

 

 透き通るほどの淡い青色を背にした、赤はやけに映えている。そして、その中でより濃い青色は消えゆくことなく鮮明にその姿を映し出していた。

 

 

 

 

 

 そして、その綺麗な放物線は、今確かに誰かの元へと迫ってきている。

 

 

 

 

 

 さて、誰の元に届いて、幸せをもたらすのでしょうか────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──Fin──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 















拙文を読んで頂きありがとうございます。
静のブーケトスの話を以て拙作『ブーケトスの魔法』は完結致しました。
ここまで来れたのは、読者の皆様がいたからこそです。
暖かい感想、沢山のお気に入り登録、身に余る程の高評価。本当に、本当にありがとうございました。

伝えたいことや裏話は沢山あるのですが、長くなってしまうのでそれはぼちぼちと活動報告にて記していきたいと思います。興味があれば是非覗いてやってください。

最後になりましたが、約半年間、本当にありがとうございました。今後ともこの作品のことを忘れずに頂けたら幸いです。



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