ブーケトスの魔法   作:Pond e Ring

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三束: Sports Festival!!!

 

 

 中間テストもすっかり終わり、若葉が顔を出し始める清々しい季節から、だんだんと鬱屈な雨降りの季節へと向かう頃。

 この総武高校では、蔓延(はびこ)っていた勉強ムードは完全に消え去り、次に訪れるイベントに向けて、着々と盛り上がりを見せている。

 

 だが、その盛り上がりを享受できるのはごく一部の生徒だけである。これを社会、いや、ここではあえて青春の闇だ、とでも言おう。

 

 校舎の内と外を隔てるスチール扉の目の前。そこにある三段程度しかないコンクリートの階段に座り込み、テニスコートから聞こえるラケットの快音を聴き、海風にそよぐ通路脇の草花を眺めている比企谷八幡は、無論その盛況を享受出来ない側の人間だ。

 

「あぁ、涼しい……」

 

 八幡は、この海風が(なび)く、人目のつかないこの場所を好んで利用していた。

 その名も──ベストプレイス。

 八幡が命名した名前からわかるように、彼にとっての数少ない憩いの場のうちの一つである。

 彼にとっての憩いの場はサイゼリヤと、ネットカフェ、それとこのベストプレイスぐらいである。

 だが、この場所は、やはり格別である。美味しい飯が出るわけでも、娯楽がある訳でもない。ただ、わずらわしいものが何も無く、閉塞感もない。ただ独りでいる事が心地いいのだ。よく、「一人きりの世界になったことを想像すると怖い」と言うのを聞くが、むしろ八幡にはそちらの世界の方が性に合っていそうだ。

 

 とにもかくにも、人知れず肩の力を抜いて所在なさげにのんびりしている。することといえば、手元にあるアンパンを一口齧るだけ。そして、咀嚼してそれを飲み込む、ただそれだけ。

 少し耳を澄ますと、風に乗って聞こえてくる人の声。目前にある校庭には人はいないが、バルコニーの方から聞こえているのであろう。

 誰かは分からないが、何をしてる人の声なのかはすぐに検討がついた。しかし、八幡は耳の穴を少し抑えると、また、手元のアンパンを一口齧った。

 

 平穏な時間、サイコーと心の中で呟く。

 

「あっ、比企谷みーっけ!」

 

 

 

 ──平穏な時間は壊れた。

 

 

 その瞬間、撃滅のセカンドブリットなる拳が八幡の鳩尾(みぞおち)を寸分たがわず貫いた。メリメリという鈍く、(はらわた)を抉り取られるような不気味な音を立てて。

 コハッという本来人間が出してはいけないような乾いた息まじりの声を漏らした八幡は、二段下のコンクリートの上へと衝撃で飛ばされたあとのたうち回り、あまりの激痛に鳩尾を抑えて、その場で(うずくま)った。打ちどころが悪ければ確実に彼の魂は遥か彼方の空へ昇っていただろう。

 

「ほら、練習戻るぞ♪」

 

 殴った張本人は屈託がなさすぎて逆に不気味な笑顔で、蹲っている八幡にわざとらしく鼻にかけた声で語り掛ける。

 

「い……や、動け……ない……」

「うっそー、どうして〜?」

 

 その人はあからさまに作った不思議そうな顔で八幡の様子を覗き込む。

 八幡は、今にも消え入りそうな声で振り絞って応えた。

 

「い……や、たった……今誰かさんに……思い切り……殴られたか…………ら……」

 

 ちょうど言い終えたところで本当に魂が抜けたようにパタッと、八幡は力尽きた──。

 

 ──暫くして、意識を取り戻し、ようやく動けるようになった後、鳩尾には未だに拳の形が分かるようなじんわりとした痛みを抱えたまま、何とか這いずって、階段まで戻ってくる。その隣には、先程までの嘘で塗り固められたような笑顔が消え、呆れ顔の平塚がそこに座っていた。赤色のハチマキが額にまかれ、練習のために結われたであろうポニーテールが海風に煽られヒラヒラと揺れている。

 

「──全く比企谷は相変わらずのサボり癖だな。これで何度目だ」

「さ、さぁ、どうだったかな……。お前が気づいてないだけで意外と練習行ってるんじゃないか。ほら、俺、影薄すぎて、割り勘の時払わなくて済むぐらいだし。いや、そもそも割り勘の機会がなかったわ」

 

 こういう時のための自虐ネタだ。まさしく怪我の功名である。

 

 ただ「ふ〜ん」と適当にあしらった平塚は指をおり始めた。「昨日は来たが、一昨日は来なかったよな──」と、一本ずつ指を折る。しかも、正確に。

 さすがにその指折りを見て身の毛もよだたない人間はいない。恐ろしい折檻だ。

 

「──なんだ、二回しか来てないじゃないか。サボってる回数の方がよっぽど多いんだが」

 

 ちらと、目が合う。瞳孔は右往左往だ。日陰のコンクリートが尻づたいに余計身体を冷え上がらせる。

 でなければ殺される。でも練習に出たくはない。わかりやすい葛藤が生まれ、そして勝手に口は動く。

 

「語弊があったな。これはサボってるんじゃなくて、尊い犠牲だ。本番一人いない状況を鑑みての予行練習のための犠牲なんだよ。ほらきちんと体操着も来てるだろ? ポッケには紅のハチマキ。ちゃんと心と心は繋がってるから。だから平塚さんも、もうわざわざここに来なくても──」

 

 ピタリと口が止まった。なぜなら平塚の顔が三度殴られた仏が見せそうな無機質な笑顔に変貌していたからだ。その目は一切笑っているように見えない。平塚の右手の握り拳は、ぶるぶると小刻みに震えている。

 

「──また、変な言い訳つけて。そういう訳の分からん言い訳も相変わらず得意だな。体操着着て、サボってないことを装う魂胆も気に入らない。なぁ、比企谷……?」

 

 平塚はポキリと順番に指を鳴らす。

 小指から順番に。人差し指を鳴らす音は一際大きく聞こえた。

 

「すいませんすいません。今から参加します。だからその抹殺のラストブリットを今にも放ちそうな拳は引っ込めてください」

「なら、よし」

 

 というわけで、八幡は不本意ながらも、その獅子の如き圧力に為す術もなく屈服し、参加することが決定した。

 

 ──遅ればせながらこの学校の体育祭について説明すると、この学校の体育祭は、クラスを半々に紅白に分かれ、全学年の総合得点で競う典型的な紅白戦だ。

 八幡は灼熱豪華の紅組であり、そして、彼にとっては運の悪いことに平塚も紅組なのである。

 本来であれば、誰からも咎められることもなく、悠々自適に日向ぼっこをすることができる。実際、去年の体育祭も同じように過ごしたのだ。

 

 ともあれ練習に参加することが決まってしまった八幡は重い腰を上げようとしたわけだが、どうやら体育祭のクラスの担当が用事で遅れているため、練習開始の時間までにはまだ余裕があるとのことだった。

 

「やっぱ、出たくねぇ……」

 

 八幡はまた往生際悪く乗り気が無いことをアピールし始めた。

 

「まだ言うか」

「だって自主練だろ? おかしくねぇか、俺は自主性なんて欠片もないのに」

「あぁ、あれは()()と書いて()()()()()()()()()()()()()()と読むんだ。つまり、理由が特にない君は強制参加だ」

「うげぇ。なら最初からそうと」

「これがJAPANなんだ、諦めろ。そんなんじゃ、社会人とかになった時、君は苦労するぞ。大人の社会はこんなことのオンパレードだからな」

「いや、俺は専業主夫になるから、別にその心配はないな」

「あぁ、そう言えば、そんな妄言吐いてたな君は」

 

 平塚の顔は分かりやすく苦笑いの表情をした。

 

「なぁ、比企谷。なんで君はそれほどまでに練習出たがらないんだ」

「コミュニケーションが必要になるからだな。腫れ物に触るように接してこられるのは、俺は御免だ。変な気とか使われたら、余計に気分が悪くなる」

 

「確かに一理あるな」と平塚は頷いた。

 

「でも、別に練習にでることぐらいだったら、苦じゃないんじゃないか? 君が苦手だと思っているコミュニケーションだって、今日の練習の大縄なら行わなくて済む。というか君がコミュニケーションが苦手だなんて私はそもそも思わないけどな」

「まぁ、それ以前に体動かすと、疲れるんだよ。それに尽きる」

「根幹はそこか。はぁ、まったく。というか、君、体育祭の実行委員だろ。そんなのでは面目が立たないぞ?」

「別になりたくて、なった訳じゃないからな。委員会決めサボってる間に何故か決まってただけだ」

「ほら、サボるからそんなことになるんじゃないか」

「疲れるからいやなんだよ。俺はたとえ社会的地位が低くなっても、疲れることは絶対しないと心に決めてるんだ。No, hard working」

「でも、体育祭の実行委員はきちんとやってるんだろう?」

「いや、サボってる。そもそも人数が五人って多いから、別に必要とされてないんだ」

「はぁ、そうか……。すごいな君は……」

 

 まさしく馬の耳に念仏である。八幡の天邪鬼さ、ある意味では一本筋が通ったその態度に、平塚はもうお手上げなようで、これ以降の説法は止まった。

 いつもは平塚に踊らされる側である八幡は、なんだか平塚を手玉に取ったように思えて、したり顔になった。

 

 一方、八幡には素朴な疑問が浮かび上がっていた。

 

「というか平塚はよく疲れないな。お前働きっぱなしだろ。もう、やりたくねぇな。ってなるだろ、普通」

 

 この状況では、煽りに聞こえるかもしれない。だが、煽りでもなんでもなく八幡は純粋に分からなかった。

 疲弊するまで、やる価値があるものとは到底思えなかったからだ。平塚の立場を鑑みると、行動の原理は巷で言われる()()()()()()()()()()()─貴族の義務、とかいう時代錯誤の精神なのかとさえ八幡は疑ってしまう。

 

「いや、私だってそりゃ疲れはするぞ。朝も昼も体育祭の練習。放課後も生徒会で体育祭の準備だからな。君と比べたら、天と地の差なんてものでも言い表せないくらいの差はあるな」

「それで賃金ゼロだろ? 最近流行りのブラック企業ってやつじゃねぇか。無理だな、俺には」

「馬鹿言え、本物のブラックを知らないくせに。賃金を貰っても、精神が満たされない労働、これが真のブラックだ。まだこっちは精神が充実してるから幾分マシだ」

 

 高校生の言葉であるはずなのに、平塚のその言葉には確かな重みと、説得力がある。口からのでまかせではなく、まるで経験してきたと言わんばかりの雰囲気だ。

 

「……お姉さん、人生何周目?」

「……親からの受け売りだ」

「はっ、すげぇこと子供に教える親だな」

 

 想定外の答えに思わず笑みが零れる。八幡は酷く現実的な平塚家の教育に一驚を喫するが、比企谷家も似たような節はあり、理解できない訳では無い、寧ろかなり共感している。

 

「まぁでも、やはり身体的疲労は残るな。肩こりも以前よりはだいぶマシになったが、やはり凝るには凝るんだ」

 

「ん〜……」とか細く高い声を漏らし、平塚は腕を高く突き上げ伸びをする。すると、薄着の体操着のせいか、ある所が押し出され、平塚のボディラインがくっきりと浮かび上がり、白の布地から下着が若干透けて見えるのだ。そして、一瞬見せる無防備な表情。

 それを見てしまった八幡の鼻の下も思わず伸びてしまっていた。肩凝りというのも、原因を察せてしまうのが、余計にそうさせる。

 これはしょうがないと、八幡は自分に精一杯言い聞かせる。

 伸びをしきった平塚は気持ちよさげに「ふぅ〜……」と息を漏らす。

 

「それでも、皆が楽しんでいる顔を見ることは、やはり私としても嬉しい。達成感があるんだ。結局は、そう、自己満足なんだよ」

「だとしてもできた人間だな。俺とはまるっきり正反対だ」

「ふふっ、まぁ、間違いないな。君は皆を笑顔にしたいというタイプではないからな」

 

 平塚は、少し間を置いた。

 サーと強めの海風が吹く。長い横髪の隙間から見える平塚の瞳は木陰の向こうの、だとしてもここではないどこか遥か遠くを見ているように見えた。そして、寂しそうに呟く。

 

「──正直それ以上に、たくさんの後悔があるんだ。ちっぽけなことから、取り返しのつかないようなことまで、本当にたくさん。私はそんな後悔をできるだけ残さないようにしたいんだ。手遅れになったら何も出来ないし、後で嘆いても、それこそ後の祭りだからな」

「ふぅん、お前にも後悔とかあるんだな。てっきり──」

 

 

 ──無縁だと思ってたわ。そう言おうとしていた。だがその横顔を見て、ふと八幡は思い出した。平塚が同じようにどこか遠くを見て、いつかの屋上で突然涙を流し始めたことを。

 随分前、八幡は平塚のことを青春の嘘で塗り固められた勝者であると思っていた。だからこそ、後悔とは無縁でいられると八幡は決めつけていた。

 だが、最近は違う気がしている。あの涙の理由はまだ分からない。他人を見ることを避けてきた腐りまなこには見抜くことなど出来なかった。

 八幡は口を噤んだ。おもむろに手でコンクリートの感触を撫でる。冷たくてザラついてて優しくない。

 そしてたった今、八幡は当たり前のことに気付かされた。平塚のことをこれっぽっちも知らないのだということを。その事に気づいたからといって、何かが変わる訳でもないが。

 

「これが私の理由だ」

 

 ちょっと口角を上げてはにかんだ平塚は、だから、と続ける。

 

「君も楽しんでくれれば、私はもっと嬉しいんだがな……。練習に参加して欲しいのも、君に楽しんで欲しいからなんだよ……」

 

 わざとらしく潤んだ瞳。見たことのないアヒルみたいな口。今、八幡は、求められている答えに気付かないほど鈍くはない。

 最初から平塚はこれが目的だったかもしれないが、耳を傾けてしまった時点で八幡の負けだ。

 億劫そうに瞼を落とし、右手でもみあげを二三回掻く。

 

「はぁ、あぁ、分かった分かった。ちゃんと行けばいいんだろ、これから練習に」

「そういうことだ!」

「ここで口ごたえしたら、言葉での返答の代わりに拳が返ってくるだろ」

「まぁ、そうかもな、あははは!」

 

 平塚は高らかに笑うが、拳を受ける八幡からしたら冗談の聞かない笑えない話だ。

 これで、八幡がこれから先も練習に参加することが決まった。結局、あっさり流されてしまっているのだが、不思議と悪い気分にはならず、むしろスゥとなにか吹き抜けたような春風に似た清々しさがあった。本当に不思議な話である。

 

「──あっ、そうだった!」

 

 唐突に、平塚は何かを思い出したようで、体操着の短パンのポケットをまさぐり、「後で伝えようと思ってたんだが、せっかくだし」と一片の折りたたんだ紙を取りだした。

 

「なぁ、比企谷!」

「今度は、何だ……」

「七月にはなるんだが、うーんと、この溜まりに溜まったストレスを発散しに行かないか──?!」

「……外に出かけるってことか?」

 

 平塚はこくりと頷く。クリっとした目を真ん丸にしてすごい期待の眼差しを差し向けてくる。だが、残念ながらこれに関しては八幡は平塚の望む答えは出せそうにない。

 

「平塚、申し訳ない、外出するって行為が俺にとっては基本、最大のストレスなんだ。だからその日は家で寝っ転がって──」

「よし、言質は取ったからな!」

「……いや、今取れる言質なんて無かったでしょ」

「喜んでいきます。むしろ行かせてください! お金払ってでも行かせてください! っていう言質だ!」

 

 八幡は、「はぁ……」と諦め混じりのため息をつく。

 

「捏造すぎて清々しいな。どうせ最初から拒否権はないんだろ」

「おお、その通りだ。今日の君はやけに物分りがいいではないか」

「……で、何するんだ?」

 

 八幡が気の無い素振りで尋ねると、待ってましたと言わんばかりに、平塚は「せーの!」と一人で掛け声をして、

 

「じゃじゃーん!! これだぁ!!」

 

 平塚は折りたたんだ紙をバッと四方に広げて、視界を覆うように八幡に見せつけた。八幡は少し身構えていたが、その紙に書かれていた予想外の内容に毒気を抜かれる。既に底をついてる八幡の中のやる気メーターが更に下がった。

 

「七夕祭り……。しかも、長生(ちょうせい)村……? 茂原(もばら)の近くじゃねぇか、なんでまた……」

「ここを見るんだ、ここを!」

 

 そうして指さされた所を見ると、普段は感情の起伏が激しくない八幡が「えぇ?!」と裏返り気味のやや掠れた声を出し、鉛でできたような腰を浮かすほど珍しく吃驚仰天してしまった。

 

『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト~』

 

 確かに平塚が指を指したところにはそう書いてあるのだ。

 

「お、お前、カップルって」

「まぁ、待ちたまえ! それでは甲斐性のない君はどんなに説得しても参加しないことは重々わかってる。それに私も私なりにカップルコンテストに参加する理由があるんだ。さぁ、これを見たまえ!」

 

 そう言って平塚はさらに小さく書かれた大会の賞品。その中の二位の賞品を指し示した。

 

『2位:アニメコレクション詰め合わせ “スクライド” カズマ 劉鳳& “プリキュア ”キュアホワイト&キュアブラック フィギュア ガンダムプラモデル』

 

 なんだこれは。ピンポイントにもほどがある。金銀財宝──宝の山だ。

 自らの目を疑い、何度も擦り、何度も確認する。

 しかし、書かれている内容が変わることは無い。しかも、画像を見るからに安作りではなく、かなり上等なものだ。

 八幡の意思はここで決した。現金な男と言われても上等である。

 下振れていたはずのやる気メーターはMAXを振り切り、理論値を超えた。

 

「行く。絶対に行く」

 

 鼻息が自然と荒げる。

 

「おぉ、行く気になったか!」

「当然だ。特に欲しいものが揃ってるんだから、これを逃すチャンスはないだろ」

「うむ、やる気満々なのは結構だが、ただし比企谷、この大会に参加するための条件を設けるぞ!」

「え、そっちから誘ってきたのになんか条件あるの」

「あぁ、それはな───!」

 

 

 その日から、体育祭当日まで、八幡は練習に参加し続けた。雨の日も、風の日も、眠くなるようないいお天気の日も。

 平塚から突き出された条件とは「練習全てに参加し、体育祭に出場すること」だった。

 口約束では信頼できないため、釘をさしてきたのだ。

 確かに、平塚は男なんていくらでも用意出来るかもしれないが、八幡は無理だ。妹を彼女扱いさせる方法もなくはないが、小町は嫌がるだろうし、バレた時のリスクが大きい。

 何度か魔が差し、機を見計らって尊い犠牲という体のサボりをみたび敢行しようとしたが、当然平塚の目を誤魔化すなどの手は通じそうになく、律儀に全て参加したのだ。

 

 そして、あっという間に時は経ち体育祭当日。

 もう少しで梅雨が訪れるというのに、憎いほどに晴れ上がる空。

 まだ生徒が集まるには少し陽の位置が低い時間。目の前のグラウンドには、白線で作り出されたトラックが浮かび、その奥には白屋根のテントが窮屈に横並びしている。

 その中、八幡は、気だるそうにしながらも、赤いハチマキを手に握り、しっかりとグラウンドの地を踏んでいた。ただ、慣れない陽光には弱く、目を萎ませている。

 

「ひーきがやっ!」

 

 呼ばれて、萎んだ目がギョロと開く。八幡を呼ぶ女の声がする方へと振り向く。だが、この学校で八幡を呼ぶ女子なんて、一人しかいない。

 

「おはよう!」

 

 平塚は屈託のない笑顔を見せ、明朗快活な挨拶をかけてきた。八幡の重たげだった瞼も、少し軽くなる。

 

「あぁ、おはよう」

 

 八幡が挨拶を返すと、平塚は胸元に手を押し当てて、「よかった」と、安堵のため息を吐く。

 

「比企谷が本当に来てくれるか心配だったんだ」

「まぁ。そりゃ、金銀財宝、宝の山がかかってるからな」

「よし、じゃあ七夕祭りに一緒に出場するぞ!」

 

 とりあえず、これで第一段階はクリアということだ。そして、どこか靄がかっていたものが晴れ、胸がすいたような心地になった。

 その時、「しずかー」と、平塚を呼ぶ女子の声が聞こえた。

 

「もうそろそろだよー。来てー」

 

 呼ばれた平塚は元気よく手を挙げて「はーい」と、意気揚々と返事を返す。

 

「仕事か?」

「あぁ、生徒会のな。他にも今日やることがてんこ盛りにある。競技も大縄、騎馬戦、部活対抗リレー、学年対抗リレー、選抜リレーと沢山でなきゃならないし、競技の合間合間にも仕事が入ってるから、休む暇がないって感じだな」

 

「特にリレーがしんどいんだ」といやいやそうに平塚は愚痴をこぼす。その愚痴を聞いて、持つものの嬉しい悩みじゃないかと嫌味に思うのではなく、八幡は持つものじゃなくて良かったと少し幸福感さえも感じていた。

 

「まぁ、頑張れよ。無理しないほどにな」

「うん、分かった! 比企谷もな!」

「できるだけ頑張るわ」

「できるだけじゃなくて、絶対に、だ! ちゃんと見てるからな。じゃ、私仕事行くから。また後でな、比企谷!」

「あぁ」

 

 そうして、平塚は運営席の方へと行ってしまった。その背姿を見送ると、濡れ羽色のポニーテールが跳ねるように揺れている。

 

「すごい楽しみにしてたしな、あいつ……」

 

 ──頑張るか。

 

 と、浮かんだらしくない言葉は門番が睨みを利かせる声門に引っかかり、結局、それを呑み込んで、言葉に出ることは無かった。

 

 ところで、ここからの八幡は終日暇人なのかと言えば、そうではない。今回の体育祭では、クラスの体育祭実行委員に知らぬ間に任命されており、体育祭の実行委員までサボっていたら最終的には救護係という大層な役を担うことになってしまった。

 あの西欧の怪物のように陽光に弱く、重役出勤の常連である八幡がわざわざ一般の生徒よりも早く学校に来ているのはそのためだ。

 平塚の言う通り、きちんと出ておくべきだったが、これこそ後悔先に立たずだと、辛酸を嘗めて痛感する。

 ただ、彼が担当する朝の仕事は既に終わっているため、今は手持ち無沙汰である。だから、こうしてただ意味もなく校庭に立ち、白線で浮かび上がるトラックを眺めていたのだ。

 

 少し時間が経つと、一般生徒も徐々に集まり、騒々しさと額の紅と白のコントラストが淡白な色の校庭の中で目立っていく。

 そして、その喧騒を貫くアナウンスがかかり、まもなく体育祭が始まるという頃になった。

 

『──これから、第〇〇回総武高校体育祭開会式始めます』

 

 開会のアナウンスが鳴り響くと、「うおおお!」という野郎共の野太い蛮声や指笛の鳥の鳴き声のような甲高い音が響き、会場の熱狂は高まっていく。

 そして、そのままの勢いで、開会宣言を担当した生徒会長がマイクを天に掲げて、声高らかに、叫んだ。

 

「総武高校体育祭、開始でぇぇぇぇす!!!」

「「「いえええええ!!」」」

 

 砂埃が空に舞い上がる。

 

 ──総武高校体育祭は幕を開けた。

 

 次々と種目が行われていく。種目が終わる度にどっと動く人の大群に、せっせと会場を縦に横にと動く体育祭関係者。その様子を日除けの白テントの下で、談笑している大人たち。人それぞれ違う体育祭を送っている。

 そして八幡は観戦──ではなく、ベストプレイスでのんびりしていた。

 そんな八幡が出場した最初の種目は学年対抗の大縄だった。ここでは、八幡と平塚側の赤組は熱戦を繰り広げたものの、僅差で黒星となってしまった。

 結局、最後の最後で引っかかってしまったのは、練習に参加していなかった、というよりもできなかった女子であり、表向きではチームメイトは「ドンマイ!!」と声をかけていた。しかし、大縄が終わったあと、八幡がベストプレイスへと意味もなくひそひそと盗人のような抜き足差し足で帰る途中に、バルコニーの日影の下でチームメイトの女子数人がたむろし、「マジ最悪。あいつのせいだ」という恐ろしい発言と、それに周りの女子が赤べこのように首を縦にふり同調する様子を見てしまったのだ。

 これが、青春の現実だと、教科書に載せたくなるようなものであるが、火の元危険。君子危うきに近寄らず、という訳で飛び火しないように、ささっと足音を立てずに通り抜けた。

 

 これで八幡の出場する種目はもう残り二つである。

 それは男子対抗の棒倒しと、学年対抗全員リレーであるが、午前中にある棒倒しまでにもだいぶ時間があるため、友達のいない八幡には退屈なことこの上ないのだ。

 救護係のシフトに入っていて競技をぼんやり観戦するか、入ってなければ喧騒を避けてベストプレイスでぼんやりすごすかのどちらかだった。

 

 当分の間シフトが入らず、アスファルトの階段に腰を下ろして、イヤフォンを耳にはめながら流れゆく白い雲を見ていると、女子対抗の騎馬戦が始まろうとしている刻限になっていた。

 校庭に戻ると、大縄の時よりも観覧席の親の数もいっそう増え、やはり目玉種目ということもあり、今までの種目より熱量が大きい。

 八幡はこの時間ちょうど救護係のシフトが入り、救護テントの下から観戦することになった。

 

『それでは、騎馬戦に出場する生徒は、入場してください』

 

 アナウンスと共に、いかにもハンドメイドの木製の入場口からは鉄の城門から出てきたようにわらわらと女子の大群が校庭内へと押し寄せる。普段なら嫌がるであろう裸足でグラウンドを駆けるその姿は、可愛く取り繕ったりしようなどという乙女心は消え去り、敵を薙ぎ倒すために、旧き野生の心を取り戻しているように見える。まるで俗に言う、アマゾネスの戦士のように。

 そして、所定の位置に着くと、女子のそれとは思えない胴間声を上げ、激励の言葉が飛び交う校庭で、準備を促すアナウンスと共に、次第に騎馬が組み上がっていく。

 

 

 ──東側が、額に巻いた白のハチマキが鬣のように揺れ、白馬が如く優美さの中に、確かな熱意が感じられる、純白の白軍!! 

 その軍を率いる大将を務めるのは、バスケ部のキャプテンにして、清楚系という相反するステータスが見事に融合した熱血のご令嬢──麗しき白鳥・山王ヒロコだァァァ!! 

 

 

 西側が、赤色のハチマキの如く真っ赤に燃え上がり、猪突猛進、直往邁進にただ相手の騎馬へと挑みかかる真紅の紅軍!! 

 そして、この紅軍を背負って立つのは、その人望と額に宿す熱さを持った天性のリーダー・生徒会の紅一点! ──烈火の獅子・平塚静だァァァ!! 

 

 両軍の騎馬の準備が整い、いよいよ土俵に立ったァ!! 

 

「両軍、位置につきまして、よーい──」

 

 そして今ここに、紅白の雌雄を決する、戦いの火蓋が

 

「始め!!!」

 

 

 切って落とされるゥゥゥゥウ!!』

 

 

 と、いつからか始まっていたとてつもなく熱い放送部の実況が伝えるように、開始の合図と共に、両軍の騎馬は、恐れおののくことなく、敵の騎馬へと突っ込んでいった。

 あちらこちらで足踏みによる土煙が上がる中、かすかに崩れ落ちていく騎馬が見える。雄叫びを上げ、その手には敵の色のハチマキが握りしめられた騎馬も見える。

 敵勢に囲まれ、行き場をなくし為す術なく散りゆくであろう騎馬も見える。

 やはり女子のものとは思えない荒々しい叫び声が戦場に木霊し、周りの歓声と喝采が、より会場の興奮を捲し立てる。

 

「いけぇ! 白軍!」

「負けんじゃねぇぞ、紅ァ!」

 

 手に汗握る戦いは、実力伯仲のまま進み、白の優勢かと思えば、紅がすぐに取り返す。紅が二騎沈めれば、白が三騎沈める。一進一退の攻防が続いていた。

 

『ここで、紅組、騎馬を失ってしまったァァ! おおっと、それをすかさずカバーする紅組ィ! しかし、その猛攻を背中から羽が生えたようなステップで交わしていくゥ、まさしく戦場を舞う白銀のペガサスだァァァ!!』

 

 しかし着実に、それぞれの戦いに決着はつき、敗者は消え、終焉へと近付いていく。

 

 崩れ去った騎馬の夢を抱き、勝敗を決す大一番に残ったのは、

 

 ──紅組、大将平塚静の騎馬、一騎。

 

 ──白組、大将山王ヒロコの騎馬一騎、さらに一騎、合わせ二騎。

 

 

 一対二。紅組の完全な劣勢だ。このまま囲われれてしまえば、為す術なく取られるであろう。まさしく背水の陣だ。

 紅の雌馬は、二騎によってじりじりと戦場の端へ端へと後ずさっていく。

 

『このまま、白の勝ちになってしまうのか…………』

 

 あれほど熱かった実況が冷めてしまうほどの目に見えた盤上の趨勢。しかし、八幡には平塚の騎馬の闘志は消えてないように見えた。なぜなら八幡には見えたのだ。平塚がこの状況にしてニタァと笑ったのを。

 

「──ッ!!!!」

 

 突如、何かを叫んだ平塚に呼応するように、平塚の騎馬は、この終盤の局面にて、動きを一段階いや、二段階加速させたのだ。

 予想外の動き出しに、後手を踏んだ白組の二騎は、一瞬棒立ちとなり、隙が生まれる。

 そこを紅組の平塚の騎馬は見逃さない。

 平塚の騎馬は、大将騎馬ではない騎馬に、全速力で詰め寄り、その勢いに完全に気圧された騎馬は、立ち向かうことなく、翻して背を向けて逃げていく。

 しかし、走力は、紅組の騎馬の方が高かった。

 徐々に、徐々に距離を詰め、騎手の平塚が無理のある前傾姿勢になり、騎馬の背へと右手をぐんと伸ばす。

 

「よしッ──!!!!」

 

 確かに聞こえたその平塚の雄叫び、そしてその右手の中には白のハチマキが握りしめられていた。

 

『おおおおお!! なんとぉぉ、ここで紅組ィ、起死回生の一手に成功したァァ!!』

「おおおおおお、行ける」

「このままだぁあ!!」

 

 再び熱を盛り返した実況の絶叫が、会場を駆け抜け、興奮は瞬く間に伝播する。

 

「おぉ、すげぇ……」

 

 八幡も思わず感嘆の声を漏らし、戦場に立つ二つの騎馬一挙一動から目が離せなくなっていた。

 

 二つの騎馬は互いに睨み合い、距離を詰めては離してを繰り返し動きを牽制する。どちらかが動けば、確実に試合は動く。相手が油断する隙を互いに伺っているようだが、一向にその時は訪れない。

 

 そして二つの騎馬は、八幡のいる救護テントのちょうど目の前で、向かい合い、一度歩を止めた。

 そして、紅組の大将平塚は唐突に口を開いた。

 

「こうなるとはな」

「えぇ、そうね。こうも綺麗に1対1になると思わなかったわ」

 

 白組大将山王ヒロコと紅組大将平塚静、二人の少女は互いに笑う。

 山王と平塚、この二人の少女は何かと引き合いに出されることが多いのは八幡すらも知っていることだった。

 両者ともに容姿端麗かつ学業優秀かつ、強力なキャプテンシーをもつ人望の厚さを備えている。

 しかし、容姿においては、秋桜(コスモス)のように可憐で愛らしい山王と胡蝶蘭のように美くしく凛とした平塚。学業では、理系を得意とする山王に対し、文系を得意とする平塚。課外活動では、運動部に属する山王と生徒会に属する平塚。

 このように対極的であるからこそ、引き合いに出されることも多かったのだ。

 だからこのように対峙するのは運命なのかもしれない。

 ここでどちらが優れているか決することが出来るのだから。

 

「あなたとこうして戦えるのを待ち望んでいたわ!」

「あぁ、私もな! それに君にはだいぶ借りがあるからなぁ!」

「借り、ねぇ。そうね、私も色々あるから、ここできっちり返す!!」

 

 言い終えた二人は、互いの目をじいっと見つめ、そして腕を身体の前へと構えた。

 

 ──張り詰める。

 

 八幡だけでなく観客全員が息を飲んだ。

 

 刹那、二騎がまったく同時に動き始めた。

 二騎とも怯むことなく激しくぶつかる。大将の二人は、見事な身のこなしで騎馬を乗りこなし、山王が手を伸ばせば、平塚がすんでのところで避け、逆に平塚が腕を下からすくい上げるように振り上げ、白のハチマキを正確に捉えると、今度は山王がしなやかな動きで背筋を大きく反らし、その攻撃を華麗に(かわ)す。

 騎馬の下の三人も、上の大将が行動しやすいように見事なほどの安定感を保ちながらも、相手の虚をつけるように、足先の動きを機敏に変更し、距離を離すなどして器用に位置を変えていく。

 

 暫くの間二人の大将による高次元な組み手が続き、大衆は眼前の騎馬戦にまさしく釘付けになっていた。

 

 しかし、互角の勝負が長く続くと、下の騎馬の疲弊が目に見えて明らかになる。足元の動きが鈍くなり、騎馬がよろけはじめているのを、何とか大将が咄嗟の体重移動で安定させているという状態になっていた。

 

 そして、互いにもうほとんど攻撃の猶予しかないだろうということは第三者からも分かるようほどに、両者の馬の疲弊が見えた頃、大将ふたりが騎馬に激励の声を飛ばす。馬は膝が折れそうになりながらも、何とか大将を支え、その言葉に応えている。

 いよいよ勝負の行方は、上の二人に委ねられたという訳だ。

 

「ラストぉ!!」

「最後だァァ!!」

 

 大将の掛け声と共に、両の騎馬が最後の力を振り絞り、全身全霊で相手へと突っ込んでいく。

 

「──おりゃあああっっッ!!!!」

「──はぁああああっっッ!!!!」

 

 互いにめいいっぱい手を伸ばし、相手のハチマキ目掛けて手を伸ばす。なるたけめいいっぱい手を伸ばす。

 そして、互いの手が相手の額に届くか否かの、その瞬間──

 

 

 ──互いの騎馬は、力尽き、崩れ落ちていった。

 

 崩れた衝撃で土埃が高く高く舞う。

 その刹那、時が止まる。

 観客の歓声は止んだ──。

 

 八幡も思わぬ最期に開いた口が塞がらない。

 

 だが、ここで気が付いた。

 

「──ひ、平塚ッ!」

 

 観客も徐々に夢想から解き放たれ、現実を理解する。

 

「やばくねぇか?!」

「おいおい、大丈夫なのかよ、今の!?」

 

 観客が放つ言葉は、もはや歓声ではなく、阿鼻叫喚。

 状況を理解したものの悲鳴が、他人へと伝播し、誰もが最悪の事態を案じて手を覆う。

 騎馬は間違いなく崩れ落ちたのだ。重大な事故につながっているかもしれない。

 

 誰もが固唾を飲んで、土埃の中へと視線を向ける。

 八幡も、周りにあった救急箱を急いで手元に手繰り寄せる。

 

 ──だが、その不安は土埃と共に晴れていく。

 

 土埃が次第に晴れていくと、まず目に入ってきたのは、その場で毅然と立ち上がっている人影とその人影から空へ向かって突き出された一本の拳だった。

 

 そして、その拳には白の布地のハチマキがしっかりと握りしめられていた。

 

 そう、そこに立っていたのは。

 

 ニイッと少年のように無邪気に笑い、少し砂で汚れた深紅のハチマキを額に巻いた平塚静だったのだ。

 

『…………し、勝者、紅組ィぃいいいい!!!!! この歴史に残る大接戦を制したのは、紅組だァァァアア!!!』

 

 実況が伝えると、会場中に怒号のような歓声が響き渡る。この大熱戦を制したのは平塚率いる紅組だった。

 

 尋常ではない疲労により崩れ落ちた騎馬の面々も、幸いにも大きな怪我はなく、かすり傷程度で済んだようだ。

 

 そして、結果発表の後、白組大将と紅組大将が歩み寄り、互いの健闘を称える握手をすると、

 

『──魂が震える大激戦を演じてくれた、この両軍に惜しみない拍手を!!!』

 

 その実況の呼び掛けに応じ、観客席から拍手と、選手に向けた労いの声が飛び交った。八幡の手も自然と動いていた。

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

 その白熱した騎馬戦が終わると、次の目玉はいよいよ男子対抗の棒倒しなのだが、今年の棒倒しは例年と比べて異質だった。

 結果から言おう。全く盛り上がらなかったのだ。

 総武高校の体育祭では競技は基本的に一本勝負。一回で勝敗が決するため、先程の騎馬戦のように尋常じゃないほどの盛り上がりを見せるのだが、今年は誰も気づかない内に、棒が倒れてしまったのだ。

 倒した側も、倒された側も、何が起きたかを把握出来ずに、棒立ちになって呆然としているだけ。

 

『……こ、これにて、棒倒しは終了です。紅組の勝利となります』

 

 腑に落ちないような様子で実況が宣言すると、観客も先程の騎馬戦と比べたのか、

 

「全然面白くねぇじゃねぇかよぉ!」

「何やってんだよ、白組! 棒が勝手に倒れてったじゃねぇか!」

 

 と、ありとあらゆるところから非難轟々、バッシングの嵐が巻き起こる。

 そして、『棒倒しに出場とした選手は退場してください。部活対抗リレーに出場する選手は指定場所に──』と、退場のアナウンスがかけられ、不完全燃焼の男子たちはあっさりと撤収して行くことになった。健闘を称える拍手はなく閑古鳥が鳴くような物寂しい退場だ。

 そんな中、八幡も素知らぬ顔で、退場口をくぐり抜けようとしたが、「比企谷」、と退場口のゲートを背もたれに寄りかかっていた平塚に呼び止められる。

 

「なんだよ」

「ちょっと見せてみろ」

「え、ちょっ──」

 

 そう言って平塚は比企谷の唐突に前髪をかきあげて額を覗き込むと、途端に吹き出し、八幡の肩を強く叩き始めた。

 

「あははっ! 馬鹿だ、君は馬鹿だ、本当に馬鹿だ。あははは!」

 

 女子に触れられたことのない前髪をかきあげられて照れくさい八幡をよそに、平塚は笑いが止まらず、目には涙を浮かべている。

 笑いが止まらない理由は、八幡の額にあった。

 それは、八幡が額に巻き付けたやけに網目が目立つ白いハチマキだ。

 

「紅組で入場した出場者が、退場の時は白組と一緒に出てくることなんてあるかぁ!」

 

 平塚が涙を拭いながら言うように、確かに、八幡は紅組として入場した。しかし、試合途中に白組へと鞍替えしたのだ。救護係の時に、こっそり救急箱から調達した白色のガーゼを使って。

 そして、屈強な男子があちらこちらでぶつかり合う中、端の方で誰にもバレずに白組へと変貌した八幡は、そのまま誰にも気づかれることなく白組の陣地へと近づき、太くでかい木の棒を倒してしまったのだ。

 

「職権乱用と同士討ち。誰もなんで倒れたか分かってなかったのは、滑稽だった! まるでコントを見てるみたいだ。一緒に見てた中学の同級生とずぅっと笑いっぱなしだったよ」

「自分でもここまであっさりと上手くいくなんて思ってなかった。影の薄いのがこんなに役立つ日が来るとはな。まぁ、勝てば官軍だろ」

 

 八幡は額にある急造の白ハチマキの包帯止めを外し、少し巻いてからポケットにしまう。そして、額の下にはやはり、網目のない紅い色のハチマキが結ばれている。

 

「ふふっ、憎たらしいが、その通りだ。いやぁ、確かにあの子達に聞いてはいたが、ここまで滑稽だったとはなぁ〜」

「あの子達に聞いてた、ってどういう事だ……?」

「えっ、あっ、い、いたらしいんだよ。私の中学の友達の同級生に君みたいな戦い方をする人がな」

「へぇ……、そんなやついるのか」

 

 世界は広しと言えども、こんなキテレツというよりも、おそらく根本的なルールを無視した卑怯極まりない戦法を遂行してるやつが他にもいるということに、素直に感心する。そして、同時にその人の身の丈の狭さについても身に染みて同情せざるを得ず、胸が苦しくなった。

 ここで、平塚は「そうだ」と何かを思い出したように声を上げた。

 

「比企谷、私の騎馬戦観ててくれたか?! 結構凄かったと思うぞ!」

「……いいや、見てないな。仕事で席を外してたからな」

 

「格好よかった」と一言いえばいいのだが、素直に言うことが何だか気恥ずかしくて、誤魔化しの空言を吐いてしまった。それを真に受けた平塚は吊り上がり気味だった眉も下がり「えぇ」としょげてしまった。

 

「ちゃんと見ててくれよー。私結構活躍したんだぞー」

 

 ぺったりした頬をむくぅと膨らまして、「このばか」と文句を呟きながら、ちょんちょんと人差し指で八幡の肩を小突く。

 

 ──いや、何この可愛い生物。愛でたい

 

 露骨に不貞腐れる姿なんて初めて見るものだから、つい頬が緩んでしまう八幡だが、ふとアナウンスで平塚が出場する部活対抗リレーの召集がかかっていたことを思い出した。

 

「ていうか、そろそろ部対抗のリレーじゃねぇのか? もう、呼びかけ始まってるだろ」

「あぁ、まだ生徒会の仕事があってな、その後すぐに向かうんだ」

 

 すると朝、話した時と同じように、「大変すぎる」と愚痴をこぼし、朝と違って、駄々をこねる子供のように、この場を離れようとせず、愚痴を次から次へと八幡にぶつけてきた。

 

「第一、体育祭実行委員会に生徒会に仕事を回しすぎなんだ! なぁ、比企谷もそう思うだろ?!」

 

 訴えかけるような目で問うてくる平塚に、八幡は一言、返した。

 

「おう、頑張れ」

「ふんっ、言われなくとも、頑張るもん! べぇー、だ」

 

 余計拗ねてしまった平塚は言葉通り、べぇと舌を出す。

 これまた可愛らしい。

 疲れると幼児退行するタイプがいるというのは、よく聞く話ではあるが、平塚もどうやらそのタイプらしい。

 

「今度はちゃんと見ておくんだぞ」

「……あぁ、善処する」

「むぅ、善処じゃなくて──」

 

 平塚は、最後に八幡の眉間を人差し指で一突きする。

 

「──絶対だからな」

 

 ──可愛い。

 

 八幡は、平塚のお嬢ちゃんが安心できるよう「分かった」と言葉にして答えた。

 

 その後、八幡は青春の喧騒というただのバカ騒ぎにあてられて、ベストプレイスに引きこもりたい気持ちが沸騰寸前になるが、どうしてもあのいじらしかった平塚との約束は無碍にできず、律儀にクラスの観覧席の後ろに邪魔にならない程度に、座り込んだ。

 昼休み前最後の競技『男子・女子部活動対抗リレー』は、その名の通り男女に別れて、部活動の選抜メンバーで対決するリレーであり。紅白戦の結果には関係ない余興の競技である。そして、この競技には平塚の所属する生徒会も参加するため、平塚は女子生徒会の方で参加することになっている。

 

 そして、『まもなく、女子部活動対抗リレーが始まります。選手の方々は入場してください』と、アナウンスがかかると、八幡のいる観覧席には、雲散霧消していた男子が一斉に集まり、観覧席の前を独占してしまった。

 

「うおおお、バスケ部のユニフォームやべぇ、山王なんか特に。俺どうにかなっちまうよ」

「やっぱ、水泳部は最高だ……。一枚羽織ってはいるが、中身はスク水なんで。想像するだけでグハッ」

「陸上部の太もも、えろすぎるだろぉ……」

 

 普段見ない部活着姿の女生徒達を見て、発情した猿の如く鼻息を荒らげ、リビドーを爆発させている男子たちに視界を遮られる。このままだとよく見えないのだが、だからと言って、この群れを掻き分けてまで、観ようとするほどの気力は生まれなかった。

 

「おっ、あそこ、平塚が来た! やっぱ、可愛いなぁ」

 

 一人の男が発した言葉に、思わず目は動き、その男が指さす方を、群れの間を縫って、目をこらす。確かにそこに平塚はいた。

 

「やっぱ、平塚いいよなぁ。彼女にしてぇなぁ〜。そしてあのおっ、ゴホン。あの山脈を踏破したいなぁ〜」

「無理無理、お前みたいな変態ポンコツ相手にしないだろ」

「何〜?! この間だってな〜、──」

 

 ざわつく中から、平塚の話をする男たちの話し声はやけにクリアに聞こえる。そして、少し胸焼けときのように胸が少しヒリッとする。この慣れない痛みは最近感じ始めていた。休み時間、教室にいて机に臥せる時、他人の話し声が聞こえてきてしまうことはよくあったが、最近では平塚の話ばかりよく聞こえるようになった。そして、やはり胸がヒリッとする。それが嫌で、教室から抜け出すこともしばしばあった。

 

「肩を叩いてくれたなんて、そんなの平塚は誰にでもするだろ。それなら平塚は俺の話よく笑ってくれるし、なんならこの前、大野が俺の事平塚に勧めてたしな!」

「なっ?!」

「ずりぃぞ、それ!」

 

 ──ヒリヒリが続く。正体は分からない。

 

「……とは言ったものの、平塚は別になんとも思ってないんだろうな」

「確かに、フラットだよなぁ。男に興味あんのかなぁ」

 

 ──ヒリヒリが続く。正体は分からない。

 だが、フラットと耳にして、ふと目に浮かぶ。屋上にいる時、涙を浮かべていたあの顔。あの時向けられた、1度限りの平塚の上気した顔。あれ以来、一切見ていないそれぞれの顔を思い出すと、ヒリつきとは別の得体の知れない感覚が八幡の身体を風が吹いたように駆け巡るのだ。

 

「結局、友達止まりというか──」

 

 そんな中、『まもなく、女子部活対抗リレーを開始します。最初のランナーの方々はスタート地点に移動してください』と競技開始のアナウンスが届けられる。

 

「まぁ、良い。それより今は」

「そうだな、乳揺れを拝むぞぉ!!」

「「おぉ!!」」

 

 野郎共の最低な掛け声に、後ろの女子が「きもいし、最低」と至極ご最もな蔑みの言葉を彼等に向かって吐き捨てた。不幸中の幸いにも彼等には届いていないようだが、グラウンドに熱視線を送るる男子と、観客席に冷えた視線を送る女子という地獄絵図は変わらない。そして、その狭間にいる八幡であるが、その熱量の差に気づかず、少し上の空になっていた。

 

 絶対に聞き流せない、やけに引っかかる言葉があったのだ。

 ──勘違いしてはいけない。この言葉は、いまも胸の誰にも踏み入れないような奥底で、大きな図体でずしんと鎮座している。

 だが、いつからかふと考えるようになっていたのだ。

 

 ──平塚と八幡の関係は一体何なのだろうか。

 

 そう問うと、あっという間に答えが出る。というよりも、前からずっとそう自認していたからだ。

 

 ──やはり、単なる都合のいい話し相手なのだ。

 

 やけに気にかけてくるところも、結局は平塚の自己満足だ。カップルコンテストなる縁遠い大会に一緒に出かけるところも都合がいいからだ。

 すると、即座に次の問いが生まれる。

 

 ──では、そうとなるとそれこそロボットのように上位種たる存在が現れたら、簡単に気兼ねなく億劫もなく交換できるものなのだろうか。

 

 八幡の中にこの問いが湧いてくるたび、それこそ少し前までは答えが出ていたはずなのに、今では答えを紡ごうとすると、今ではヒリとしたこそばゆい痛みが襲ってくる。

 

()()()()()

 

 パーマ男は確かに言った。引っかかった言葉だ。その男と平塚は、『友達』ということらしいのは認識できた。まるで、悪いことのようにパーマ男は語っているが、そこには確かな繋がりがあるという事を示しているのだ。

 

 それに比べると──。

 

 そうして放心していた八幡の目を覚まさせたのは、野郎共の下卑た歓声とゴールの号砲だった。

 

「平塚も、凄かったなぁ!」

「まじで、バインバインだった。やべぇよ」

 

 おしくらまんじゅうとでも言わんばかりに男達でぎゅうぎゅうに詰まっていた観客席は既に開けており、懇談会を開かれていている。白線のレーンの内側に目を凝らして見ると、平塚が他の生徒会のメンバーと談笑しているであろう様子も見える。

 部活対抗リレーが終わったことは、火を見るより明らかだ。

 これはあれだけ見て欲しいと言っていたので、どやされると、数時間後の未来の様子を案じた。

 ──しかし、途端その未来も真っ暗に移る。

 

 

「そうだ、昼休み入ったら平塚に写真撮ってもらおうぜ!」

「うわぁ、お前下心見え見えだぞ」

「べっ、別にいいだろ。それに下心じゃねぇ。騎馬戦の感想を言うついでに、撮ってもらうだけだ」

「かかっ……! ほんとに、そっちがついでか?」

「うっせ!」

 

 

 そんな近くにいた男たちの会話を聞くと、八幡はおもむろに立ち上がり、その場を立ち去った。

 少し、耳の穴に人差し指を添えて。

 そのまま、昼休み明けの次の競技の開始まで、八幡はグラウンドに戻ることは無かった。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△▼△

 

 

 昼休みが開け、スピーカーを通した声と、歓声が混ざりあった喧喧囂囂とした音が、静寂な校舎の中にまで響くようになる。だが、音は聞こえても声は聞こえない巨大な防音室のようなこの空間が妙に心地よく感じていた。

 八幡は校舎を彷徨(うろつ)いていた。そして人気のない階段の踊り場で腰を下ろし、菓子パンひとつの食事を済ませ、ただ出場する種目の呼び出しがかかるのをキリンとまでは言わないが首を長くして待つ。

 

 ──時計を見れば、もうまもなく、学年対抗リレーの呼び出しがかかる時間だ。重い腰を上げてその場を離れると、靴を履いて、昇降口から外に出る。

 集合場所に来て、自分の順番の位置に座る。奇数番組と偶数番組で分かれていて、八幡は後者だった。座ったその周りは、何々君早かったよね。だとか、何何ちゃんと写真撮れた。とかを恥ずかしげもなく和気藹々(わきあいあい)と話している。

 全くの無縁であるし、聞きたくもなかった八幡は、体育座りをし、膝に顔を埋めた。

 そして、係の人による声がけに合わせて立ち上がって、入場する。

 

『まもなく、2年生による学年対抗全員リレーが始まります』

 

 そのアナウンスと共に、第一走者が所定位置について、スタンバイした。学年リレーは紅組、白組をそれぞれ三クラスずつの三チームに分け、先着順で競う。つまり六レーン使うのだ。A・B・C、 D・E・F、G・H・I。そしてJをそれぞれのクラスに三等分に分配し、それぞれを前から1、2、3と振り分けている。つまり、八幡達のチームは白1だ。

 突然の余談だが、大抵第一走者は人気者であることが多い。運動できることとコミュニュケーション能力が高いことは正の相関関係がある事はまことしやかに伝えられているし、それは現実味がある。

 だから、クラスメイトたちは、人気者の彼らに向かって精一杯の声援を投げかける。第1走者も満更でも無い様子で、手を振って応える。

 はてさてこれが動物園のそれと何が違うのか、と思っていたこともあったが、さすがに自重するようになった。

 

『位置について、よーい』

 

 ドンっという号砲の合図で走り出す。

 八幡の順番は前から一五番目、この列にすると手前から八番目。真ん中というのは基本最も盛り上がりのない区間だ。つまり、八幡のような人物が割り当てられるのだ。

 リレーのバトン練習も幾度かしたが、特別問題などもなく、前後の人とそれぞれ一言二言交わして終わっただけだ。

 

 二番手に渡っても、声援は止まない。

 特に後ろの女子達が騒ぎ始めた。すぐ後ろは、教室で良く平塚と仲良くしている背が高く、少し痩せ気味で、ボブカットの女子だ。

 

「京ちゃん、京ちゃん! たっくんの番来たよ!」

 

 別の女子が長身の女子──京ちゃんを煽る。たっくんとは、このクラスで人気者のサッカー部の男子の事だ。

 

「ばっ、ばか! 余計なこと言うな! もう、そんなんじゃないし」

 

 すると、顔が見えない八幡にも分かるほど、照れているのが伝わる。その後も軽口を叩き合っている。肝心のたっくんのことは見ていないような気がするのだが、突っ込むことなど当然しない。

 その思いを寄せられているたっくんもミスすることなく、現状維持の順位でバトンを渡した。

 

 そして、そうこうしてるうちにいよいよ八幡の番が来る。

 一列の人達が全員走り出していくと、列先頭の八幡にお呼びがかかる。八幡の組の順位は現在四位である。

 隣の人は頬を何度か叩いて深呼吸をし、別の人は友達に「やばい緊張してきた〜」と不安を吐露する。何を勘違いしているのだろうかと思わず八幡は心のうちで嘲てしまう。この順目の走者は別に期待されていないのだ。ただトラックを走り、失敗しさえしなければそれでいいという簡単な役割だ。盛り上がるはずも無いから、緊張などする必要無いのである。つまり八幡含めこの順目の人達は受け取った時の順位をキープすれば良い。

 

 しかし、その八幡の中の常識に反し、この順目で、観客の歓声はドドッとあがった。

 その歓声の行先はこちらに向かってくる偶数番目のランナー。グングンとスピードをあげ、外回りで、一人、二人と抜き去っていく。その綺麗な漆黒のポニーテールは、淡白な色の景色の中で優雅にたなびいている。

 

「白1の方、準備してください!!」

 

 係の人に指示されたとおりにレーンの一番内側で、構えの姿勢をする。まもなく一番手に来るのは白1チーム。だが、走っているのは、いつもリレーの練習相手をしていた女子ではない。

 

「比企谷っ、ゴーッ!!!」

 

 聞き馴染みのある声に背中を押され、右手を後ろに構えて、走り出す。

 まだ距離はだいぶあったように思えた。

 リレーの練習相手とは、テイクオーバーゾーンだけは超えることだけはないようにと確認し合い、できるだけ手前で受け取るように決めていた。

 このままだと、出てしまうかもしれない。だが、身体は意に反して動いていた。

 

『頑張るんだぞ!』

『できればじゃない。絶対に、だ!』

 

 テイクオーバーゾーンのラインから出かかった時、差し出した右手に寸分違わずバトンが差し出された。それをギュッと強く握る。そして、そのままの勢いで走り出した。

 

「行けっ、比企谷っ! 全力だぁ!」

 

 また、グッと背中を押される。

『倒れなければいい。バトンを繋ぐだけでいい』という思考が回らなくなっていた。

 ただ、全力で、足を回して走る。

 コースの内側を抉りに抉るように。

 

 ──走る。

 ──走る。

 

 いつもリレーで走る時はハッキリしていた視界が、この時は、霞んで見えなかった。ただ、コースの茶色と端を踏んでいる一番内側の白線だけがぼんやりと見える。歓声は何も聞こえなかった。まるで自分一人だけの世界を、ひたすら何も無い場所を駆け抜けていくような感覚。

 

 気付けば数十メートルの距離があっという間に終わりを迎える。

 テイクオーバーゾーンがまもなく迫る。バトンの持ち手を変え、「行けっ!」と、息切れがかった乾いた声を張り上げた。

 

「行けっ! 比企谷ーっ!!」

 

 何も聞こえないはずの世界で、その声はここまで聞こえてきた。

 最後まで。走る。

 そして、次の走者の右手へと、バトンを差し出した。

 

 差し出した瞬間、周りの景色が急に現れ、軽い目眩で、足元が掬われるような感覚に襲われた。

 だが、そこで息つく暇もなく係員に白線の内側へと掃き出される。前方に目をやると、前のランナーは一位で走っていた。

 心臓の鼓動が速い。緊張というよりも、息が荒いがゆえの鼓動の速さだ。膝に手を付き、前かがみになってゆっくり呼吸を整える。

 そのまま、走り終わった列の最後尾で尻を地面につけた。息を深く吸う度、急激にかわいた喉元にそれが擦れて、ヒリヒリする。

 一番で受け取ったバトンを、一番で繋いだだけ。確かに、当たり前のことではあるのだが、鉄とプラスチックの合の子のような少しずしりとしてひんやりとしたバトンの感触はまだ手に残っていた。

 

 その後も、リレーは進み、お役を全うしたこの列の人たちも、緊張からの解放もあってか、自分の番を待っていた時以上に盛り上がりを見せていた。

 自分たちのクラスはいまだに一位をキープしている。一位でバトンを繋いでいることも、この盛り上がりを助長させているに違いない。

 

 レースも終盤へと差し掛かりボケーッと、行く末を眺めていたが、前の男たちが、「また、平塚が来る」と叫んだのを聞いて、目がまたおもむろに動いてしまう。反対側の、つまり奇数番目のランナーが今、全員出ていくと、その次に平塚がトラックの中へと足を踏み入れていた。

 

 奇数番目のランナーが、偶数番目のランナーに渡し、そのランナーが、平塚に渡す。

 その瞬間、

 

「すっげぇ、揺れてる!」

「静ファイト!」

「やばすぎる!」

「静、頑張れ!」

 

 純粋な欲望と純粋な声援が織り交じった。

 男たちの言うように確かに揺れていた。平塚の豊かな胸部は走る度に、縦に揺れる。それに魅了された男子たちは、悦びの声を狂ったようにあげるが、八幡は思わず息を飲んだ。揺れる胸だけじゃない、たなびくその漆黒の後ろ髪に、端正だが、少し歪むその横顔、そして懸命に腕を振り、必死に足を動かすその姿に、八幡は目を奪われていた。

 

 そして、平塚は周りの期待を裏切ることなく、バトンを一番手のままで渡した。走り終えた平塚はさすがに疲れた様子で、列の最後尾に座る。

 すると、すぐ後ろにいて大きな声援をかけていた長身の女子はいつの間にかいなくなり、ほか数名の女子と共に、さすがにくたびれた様子の平塚の元へと駆け寄っていた。「よかったよ!」「めっちゃ速かった!」と定型句みたいな言葉を投げかけ、平塚はそれに笑顔を返していた。

 

 特に波乱もなく、そのまま学年対抗リレーが終わった。

 八幡のクラスは、一着でゴールしていて、失格など特にしていなければ、一位となるわけだ。チームメイト達は、「凄い凄い!」「練習頑張って良かった」と輪を作って喜びを共有しあっている。

 練習の時は散々文句を垂れ、大縄の時には世にもおぞましい陰口を叩いていた人達が、「みんな最高のチームメイトだ!」だとお通夜のような雰囲気のチームにも聞こえるように大声で称えあっている。八幡以上に練習に来なかったサボり魔君も、「あそこのお前、めっちゃ速かったな!」とレースの様子を友人と興奮気味に語っている。

 結局、『勝てば官軍』なのだ。

 

 そんなクラスメイトの様子を見つめることもなく、八幡はどこか遠くを見ていた。共有できないのも慣れっこだ。輪に入れないのも慣れっこだ。でも、どこか──

 そんな時、バッと視界が変わった。

 でも、そのシルエットは今度ははっきり見える。

 

「やったな比企谷!」

「お、おう」

「いい走りだったぞ!」

「そりゃ、どうも。まぁ、別に俺は繋ぐだけだったからな」

「そうだ、私が一番になったんだからな、もしミスしてたら今頃どついてるだろうな」

 

 あはははと女子らしくない高笑いをかまし、どつきとは程遠い正拳突きのジェスチャーをする。

 

「っていうか、なんで突然平塚に変わってたんだよ」

「あぁ、それはだな──」

 

 平塚いわく、八幡の一個前を走る予定だった人は体調不良により、代走したということだった。つまり、平塚は二度走ったということだ。

 

「昼休み中に君に伝えようと思ったんだが、どこにもいなかったから伝えられなかったんだ」

「なるほどな」

「まぁ、何はともあれだ!」

 

 平塚はバッと両手を肩幅程度開き、前に構えた。

 八幡はその突飛な行動に瞠目(どうもく)する。

 

「その構えは何……? パントマイム?」

「何って、ハイタッチに決まってるじゃないか、このタイミングでパントマイムなどする訳なかろう? ほれ」

「……俺はやらん。触ったら比企谷菌に感染したとかいわれるぞ」

「そんな幼稚なことするわけないだろ……。全く」

 

 平塚は、ハイタッチ分の幅で掲げられた両手から、更に幅を広げた。

 

「じゃあ、ギュッて今から抱きしめられるのと、ハイタッチ、どっちがいい?」

 

 突然の二択に八幡は当然、動揺する。

 

「はっ?! わ、訳わかんねぇし」

 

 瞬きの回数が露骨に増え、眉も合わせてぴくぴく動いてしまう。

 

「ほれほれ、どっちだ」

「わ、分かったよ。ハイタッチすりゃいいんだろ」

「別に私はハグでもいいんだがな」

「からかうな」

 

 八幡も嫌々とハイタッチの構えをとる。

 

「イェーイ!!」

 

 互いに土にまみれてるものだから、叩き合うとパンと、乾いたが音が鳴った。だがそれでも平塚の掌は、想像以上に小さく、やわっこく感じられた。

 そして、八幡に向けて、平塚はあけすけもなくにっこり笑っていた。

 そういう笑顔に、男は弱い。冷静な自分は誰にでも向けられると知っているはずなのに、ジンジンと内側から暖まっていくのを感じた。

 

「比企谷はこれで終わり?」

「そうだな。最後に救護係のシフトは残っているが。お前は選抜リレーか?」

「あぁ、そうだな」

 

「頑張るぞ〜」と意気込んだ平塚は拳を握りしめて、ガッツポーズを見せつけた。

 だが今、思えばこれは空元気だったのだ。

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

 ──八幡は、保健室にいる。当然、サボりではなく、救護係として、だ。保健室の棚を上から下まで満遍なく確認し、今、ベッドで寝込んで休養している人の具合に適切なものがあるかどうかを品定めしているところだ。

 最初は、その人が倒れた時、騎馬戦の時と同様にとても心配されたが、十分に対話できるほどの意識があったことと、痛みを伴っていなかったことから、重篤な病気ではないと判断され、保健室での療養となっていた。

 

「……無理しすぎなんだよ」

 

 独り言が漏れ出る。正直、八幡は心配する必要は無いだろうと思っていた。だが、それは八幡の思い込みに過ぎなかったのだ。

 八幡が、ガーゼなどが入っているもう一つの棚を漁っていると、ギシッとカーテンで仕切られたベッドから、それが軋む音が聞こえた。その音を聞くと、すぐに棚から手を離し、カーテンを開け、目の前のベッドを覗く。

 そこには、やや青い顔で、はぁはぁと落ち着かない呼吸をして、布団をまくりベッドから腰を上げている姿が見えた。そして、目がやや虚ろになりながらも、こちらの方に視線を向け、いつもよりだいぶか弱い声音で、「比企谷……?」と確かめてくる。そうだと返すと、続いて、場所はどこと、やはりか弱い声で尋ねてきた。

 

「保健室だ」

「ほけんしつ……? 比企谷、具合でも悪いの……?」

「まぁ、通年悪いみたいなもんだが、いつも通りの具合だ、こっちは。今回、具合が悪いのは、お前の方だよ……」

「わ、わたし……、だって、わたしは……」

 

 続きを言おうとした平塚だったが、唐突に汗ばんだ額に手を当てて、呼吸音が大きくなり、辛そうに呼吸をしていた。八幡は、再び平塚を寝かせて、そっと布団を被せた。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 目を瞑って、辛そうに呻く。顔にはうっすらと汗が浮かび、その綺麗な黒髪に滴っている。状況が状況であればひどくなまめかしいのだろうが、とてもそのよう情は湧かない。八幡は、棚から引っ張り出した、新品の白のタオルを冷水に濡らし、それを平塚のいかにも熱くなっていそうな赤いおでこにそっと乗せた。

 

「体育祭は……」

「もうそろそろで終わりだ」

「え、でも……」

「学年対抗リレー走り終わった後、お前、パタッと倒れたんだよ。ほんとに電池の切れた機械みたいにさ」

「……そうだっ、け。でも生徒会の仕事……」

 

 平塚は震える手で布団を握り、なんとか上体を起こそうとする。水に濡れたタオルもポロリと布団の上に落ちた。

 

「無理だ。やめとけ」

「怒ってる……?」

「あぁ、そうだ、少し怒ってるな。お前みたいなやつが働きすぎるから長時間労働がデフォみたいになって、俺みたいなやつがこき下ろされるんだよ」

 

 平塚を再び横たわらせて、また額にタオルをのせる。

 

「第一、騎馬戦も出て、リレー三種類も出たらこうなるに決まってる。いくらなんでもオーバーワークなんだよ」

 

 彼女を見て心に募ってたものが少し口から漏れ出ていた。

 

「特に騎馬戦なんか、最後まで残って、あんな滅茶苦茶な戦いして、別に倒れるまでしなくても──」

「比企谷、やっぱり、ちゃんと見てて……くれたんだ……」

「ち、違う、人間観察が得意なだけだ。たまたま校庭覗いたらたまたまやってただけだ」

「見ててくれて、嬉しいな……」

「──っ」

 

 そうやって弱々しくも、笑みを向ける平塚の姿を見て、もうかける言葉をなくしてしまった。

 

「喉乾いた……水……」

 

 そう言って再び起き上がろうとする。それを八幡は再び静止した。

 

「俺が取りに行くから、少し待っとけ」

 

 カーテンを開けて、すぐそこに生徒用として置いてあるペットボトルの経口補水液一本取りだして、それのキャップを緩めて平塚に差しだした。

 

「水よりもこっちの方がいいだろ。ほれ」

「ん、ありがとう……」

 

 平塚は口元を飲み口につけると、少しだけ傾けた。

 喉を鳴らす音がすこし聞こえる。それは、どこか妖艶で、少し、八幡にとっては耐え難いものがあった。

 

「じゃあこいつはここに置いとくから、好きな時に飲んでくれ。そろそろ保健の先生も来るし、お前の友達も見舞いに来ると思うから。安静にしとけよ」

 

 席から立ち上がり、逃げるように、離れようとした時、長袖ジャージの裾をキュッと力なく掴まれた。

 

「いっちゃうの……?」

「まぁ、そうだが」

 

 そう答えると、掴まれた袖が、少し平塚の方へと引っ張られる。

 

「待って──……」

 

 また少し引っ張られる。

 

「一人にしないで…………。もう少しだけそばにいて…………」

 

 ストン。八幡は席に座った。「ありがとう」の言葉には、素直にどういたしましてとは返せなかった。

 

「ねぇ、比企谷……」

「なんだ、また飲み物か?」

 

 平塚は一回横に首を振る。

 

「──楽しかった……?」

「……去年よりはな」

「よかった……、比企谷が楽しんでくれて……」

 

 その答えを聞くと、愁眉(しゅうび)を開き、平塚はすっと目を閉じ、穏やかな顔で、赤子のように寝息を立て始める。しかし、未だに袖を摘んだままだ。

 

 いつもは年不相応な出で立ちと振る舞いを見せる平塚の今の弱々しい、逆の意味で年不相応な幼さは、八幡にとっては驚くものと同時に、気持ちの悪い高揚感をもたらしていた。窓越しの夕日に照らされながら、安らかに眠るオレンジ色のその顔を見ていると、不意に八幡は手を伸ばしていた。

 

「んっ……」

 

 その時、少し平塚の寝相が崩れた。

 伸びた手がピタリと止まる。

 

 思いもよらない自らの行動に口元が大きく歪んだ。

 怖くなった。不安になった。制御装置が壊れてしまったのかと思った。

 

 が、今回はすぐに答えが出た。

 

 感じたことのない電流がビリリと走る。そして、将棋倒しのごとく得体の知れない感情の正体に気付く。

 

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 目の前の平塚の姿を見て、今までの平塚の姿を見て、平塚の手の温もりを知って、そしてもっと、知りたくなったのだ。ポカンと口を開け、天井を仰ぐ。ヒリヒリとした胸の痛みも、きっとこれが根っこだった。

 

 だが、八幡は都合のいいロボットでなければならない。

 私的な感情は一切ない、ただ相手の望むことを、考えて行動するロボットなのであり、それをするだけでいいという簡単な仕事なのだ。

 期待はしない。勘違いもしない。だから、知ろうとしない。関わろうともしない。もししたら、ただ傷つくことを知っているから。

 だが、今、制御のプログラムが必死に押さえつけているが、ショートしかけている。

 端的にいえば、このロボットは壊れかけている。

 

 

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 とても簡単な話である。

 

 その結末を、浮かべることが酷く恐ろしくて、八幡は考えることをやめた。

 

 そして、力ない握り拳で、意味もなく自分の頬をこれまた力なく殴っていた。頬骨から出る鈍い音は、カーテンに遮られ、その個室に虚しく響いていた。全て見ていた夕陽は、まるで嘲笑うかのようにカーテンの隙間から八幡の顔を明るく照らしていた。

 

 

 

 

 






今回も拙文をお読みになっていただきありがとうございます。非常に長くなってしまいましたが、体育祭編をまとめて書かせて頂きました。
毎週更新と言っていたのに、随分週が経ってしまいました。申し訳ありません。
ここからは毎週更新目指して投稿するので、よろしくお願いします。

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