ブーケトスの魔法   作:Pond e Ring

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五束: Milky Way Rhapsody

 

 

 

「ただいまー、八積(やつみ)、八積でございます」

 

 車掌の一本調子のアナウンスが車内に響くと、目の前の自動ドアが開く。

 隣の杖を深く沈ませた白髭をたくわえたお爺さんは座席にどっぷりと座って降りる気配がなく、結局その車両でこの駅で降りたのは八幡だけだった。

 駅のホームに降りると、他の車両から降りてきた人がちらほらいるが、皆揃いに揃ってスポーツウェアなのが、妙なところである。かくいう八幡も胸元にスポーツメーカーのロゴが刻まれている半袖の黒のスポーツウェアを着ているのではあるが。

 そして、まもなく、八幡を運んでいた青と黄色のストライプをベルトのように車体に巻き付けている電車は、重い腰をあげ、ゆっくりと前へと動き始める。

 

 ただいま、八幡がいるのは房総半島の東側を大きく回る外房線にある八積駅。県民でも滅多に訪れることがなさそうな駅ではあるが、電車が過ぎ去ったあとに残されたホームの風景は、コンクリートジャングルと形容される千葉市、もっと言えば京葉線周辺では考えられない長閑(のどか)さがあり、足元の手入れがあまりされてなさそうな黒ずんだ灰色の土瀝青(アスファルト)と、かえって活き活きとした木々の緑と、空の澄み切った青さが絶妙なコントラストを生み出していて、とても目の保養になる。

 

 ──そうだ、写真を撮ろうと、腰ポケットに手を突っ込み、電車に乗ったときに合わせて切っていた黒色のガラケーの電源ボタンを長く押した。

 今思えば迂闊だったのかもしれない。

 携帯が一度ブルルと震え、電源がオンになった瞬間。目が覚めた携帯が何かに怯えるようにさらにブルルと震え出したのだ。それも何度も何度も。

 

 ──いや、まだ集合時間じゃねぇよな……

 

 そう思いながらも、恐る恐る二つ折りの携帯をパカッと開いて見ると、

 

『You got a ma You got a ma You got a ma You got a ma You got a mai You got a mail!!』

 

 八幡は思わずガラケーを投げ出しそうになってしまう。二回目の体験だが、やはり怖いものは怖い。しかも今回に限っては、今日の朝、互いに起きれたかどうかの確認をメールでしているので、メールする要件などないと八幡は思っていたが、それは考えが甘かったことは、肝心のメールを見てひどく思い知らされた。

 

『私は今、着きました。ですが、まだ集合時刻の15分前なので、ぜんぜん急ぐ必要は無いです。私は駅前で待っています。見ていたら返事をください』

『集合時刻10分前になりました。まだ、急ぐ必要はありませんが、見ていたら返事をください。お願いします』

『集合時刻5分前になりました。今どこにいますか? 教えてください。返事をください』

『集合時刻3分前です。本当にこれていますか? 不安です。見ていたら返事をください』

『集合時刻2分前です。大丈夫ですか? それとも、まさか、来ないんですか?』

『集合時刻1分30秒前です。本当に、来ないんですか……?』

 

 ぞっと肝が冷え、初夏はとっくに過ぎたというのに(かじか)んだように指先が震える。

 そしてたった今来た『You got a mail!!』。そこには──

 

『集合時刻1分前です。そういう事ですね。分かりました。

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳後で覚えておけ』

 

 顔面蒼白。腕に巻いたスポーツウォッチを見ると、確かに長針は残り一分ももうないことを伝えている。

 おそらく次のメールが来たらこの携帯を揺らしたらチェックメイト。

 運の悪いことに、このホームから改札を出るには、連絡通路を渡らなければならない。

 それ即ち、走る──。まさか、スポーツウェアであることがここで功を奏すとは八幡も思わなかった。連絡通路にたどり着き、昇り階段をタタターンと飛龍のごとく駆け上がり、下り階段をストトーンと地龍のごとく駆け下りる。そして、駅員に切符を渡して、急いで改札を通り抜け、そのまま駅舎の外に跳び出る。

 確かに、緑色の箱文字でJRとでかく書かれた壁の前に、黒を基調にし白のストライプが入ったスポーツウェアを身にまとい、青色のガラケーの画面を浮かない顔でじっと睨みつける平塚が佇んでいた。

 走ったせいか、全身は異常な熱を帯びていて、今にも汗が吹きでてきそうだった。であるのに、ただただ背筋だけはキーンと寒くなる。

 

「……平塚、悪い待たせたな」

 

 肺は焼けそうになるが息を切らしているのをできる限り誤魔化し、八幡が顔色を伺っておそるおそる話しかけると、平塚は携帯を閉じて、そっとポケットにしまう。

 八幡は少し腹筋に力を入れた。

 そして、たった今、携帯に見せていた顔とは全く別の──満面の笑み。

 

「大丈夫だ! 私は今来たところだからな!」

「………………は?」

 

 平塚は明らかにおかしい常套句を言ってのけた。

 殴られるものだと思っていた八幡は当惑していると、「一度は言ってみたかったんだ、このセリフ!」と嬉しそうに話し、上機嫌のまま「よし、向かうぞ!」と号令をかけた。

 そして、ショルダーバックから地図を取り出した平塚は「こっちだな!」と指を指し、前に進み始める。普段は腰上に下がってる髪の毛が一本に束ねられたポニーテールは、ぴょんぴょこ楽しそうに跳ねる。

 殴られなかった安堵感よりも、八幡はむしろ余計に恐怖を感じることになったのは想像にかたくない。

 ここで得た教訓は一つ。『平塚と集まる時は、彼女より早く集まるべし』ということだ。

 

 

 

 ──日は真昼だから高い位置にあり、暑い日差しが直に降り注がれる中、ギリギリ郊外の町でよく見るような宅地と田畑が交互に訪れる少し大きな道路を三○分ほど歩くと、池のようなものが並走するようになって、それを挟んですぐ隣に目的地の公園があった。この池は湿地だった時の名残だと、平塚は鼻高々に語った。

 入口に辿り着くにはもうしばらく歩いた。その池の向こう側からはドンドンドンと太鼓の音が聞こえてくる。

 

 そして、やけに広々としたエントランスにたどり着くと、ズラっと奥の方まで出店が並んでいるのが見える。かなりの人数がそこにはいるが、その中には先程駅で見かけたようなスポーツウェアを着た人々が(まば)らにいた。

 そして、入口の脇にある大きな立て看板には、長生(ちょうせい)村七夕祭りのポスターが貼られており、その隅には『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト~ 開催』とデカデカとしたフォントで載っていた。

 

 このコンテストは、最強カップルコンテスト。

 実はこの最強とは、()()()な意味で最強ということである。

 カップルで用意された競技に挑戦して、最強を決める。

 (ちまた)でよく見るようなラブラブ度やイケイケ度で優勝を決めるような甘々の甘ったれたものは通用しないのだ。そのためスポーツウェアの着用が主催者側から推奨されていて、駅のホームで見かけた人たちも、きっと参加者達であった。

 だが、だからといってそんなストイックなものではないようだ。所詮カップル競技の大会なのだから、当然といえば当然ではある。あくまで『思い出作り』なのだ。

 

 それ故にこの大会に目をつけたのが平塚であった。

 高校生というフレッシュで基礎体力があり、比較的運動能力の衰えが少ない彼らにとっては有利であることに加え、決して『()()』ではない、あくまで『()()()()()』の雰囲気。この二つの条件から、狙いの二位を獲得しやすいとふんで八幡を誘ったのだった。

 これには八幡も素直に平塚の目敏さに感心してしまう。

 

 そして当然のことではあるが、平塚からはこの大会までの間に自主的に体を動かすことを勧められ、一週間前からは朝かなりの早起きをして毎日一、二キロ走るなどそこそこの努力していた。

 

 一度、たまたま朝早く目が覚めた小町に部屋を出ていくところをみつかり、不審の目を向けられたこともあった──。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

「え、お兄ちゃん、こんな朝早くにその格好って、どっか行くの……」

「いや、ちょっと運動しとこっかなぁ、と思ってな。だから最近は近所をランニングしてるんだ」

 

 どれがあのアホ毛か分からないほど髪をボサボサにして、寝ぼけ眼の目を擦りながら「ふーん」と小町は相槌を打つ。

 

「ま、どうせお兄ちゃんのことだから、急に小説家になるって言い始めて、三日で書くのやめた時みたいに、すぐ止めちゃうでしょ」

「くっ……」

 

 理由を根掘り葉掘り聞かされると面倒くさいことではあったが、さらっと昔の恥ずかしい歴史を掘り返された挙句、そのお陰で別の意味での信頼を得てしまっているのは兄として非常に情けないところがあった。だが、何はともあれ怪我の功名。

 

「……まぁ、せいぜい頑張ってね〜。小町また寝るから〜」

 

 そのまま、「ふぁ〜」と、とびきり大きな欠伸をしたあとドアをバタンと閉めて、小町は部屋の中へ消えた。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 ──と、こんなことがありながらも、なんだかんだで一週間は休むことなく走り続けた。家族公認の三日坊主男八幡にしては大進歩である。

 

「まもなく、受付を開始しま〜す。コンテストに参加を希望するカップルの方々は、こちらにおいて受付を行ってくださーい」

 

 その声が受付の方からかけられると、人混みの中から一斉に人々、もといカップルたちは受付の方へと流れていった。カップルの群れに入っていくというのは、少し気が重くはなるが、ここまで来たからには背に腹はかえられない。

「そろそろ行くか」と平塚に声をかけ、その方を向くと、

 

「く"、ぐや"じぃ"、りあじゅうばぐばづじろ"」

 

 と見たことないほどに顔を崩しながら、見たことの無いほどの涙をボロボロと流し、聞いたことの無い呪詛の言葉を吐いていた。

「りあじゅう」とはよく分からないが、いくらなんでも「爆発しろ」とは、おっかないことを言うなと八幡ですらも思った。この間のキャンプファイヤーの件からも察するに、やはり平塚の中には得体の知れないおぞましいものが、決して覗き込んではいけない深い深い井戸の奥底で(うごめ)き、巣食っているのだろう。

 とはいっても、受付の時間も限りがある。八幡は平塚をなんとか(なだ)めるように問いかけた。

 

「平塚、行けるか?」

「う"ん"、う"ん"」

 

 周りからの目線が集まっているのは気にしなくても分かる。傍から見れば八幡が平塚を泣かせているようにみえてしまった。仕方なく平塚が泣き止むまで待ち、そこから受付へと向かった。

 

「こんにちはぁ。わぁ、とっても若々しいカップルさんですね!」

 

 話しかけてきた受付嬢は綺麗な笑顔を見せる。

「学生さんですか?」と彼女に尋ねられると、打って変わって平塚は本当に生き生きした様子で眉をぴくぴくと動かし、「はい、高校生です!」と即答した。

 一方、単純にカップルと言われたことが照れくさい八幡は、頬を人差し指で二、三度掻いていた。

 受付嬢はその対照的な二人の様子に目を細めながら、慣れた様子で手続きを始めた。最初にこのコンテストの参加費である二千円、つまり一人千円をそれぞれ手渡す。

 

「はい、確かに頂きました。では、まずここにお名前と生年月日と住所、あるのであれば電話番号を書いてください。彼女さんは左側、彼氏さんは右側でお願いします。では彼女さんの方から」

 

 手渡された平塚は、ノートのコピーにあったように、エントリーシートに麗筆(れいひつ)をふるった。続いて八幡も妙な対抗心のせいか気持ち丁寧に書いて、受付のお姉さんへと渡した。

 

「はい、ありがとうございます! ではお二人は、13番ゼッケンです! 本日の競技の際はこちらを着用していてください!」

 

 二人は受付のお姉さんに前後に黒色で『13』と書かれた黄色のゼッケンを手渡され、その場で着た。

 

「わぁ、お似合いですね! では、最強カップル目指して、頑張ってください! いってらっしゃい!」

 

 相変わらずの崩れない笑顔で手を振る受付のお姉さんに軽く会釈し、二人はコンテストの舞台となる陸上競技場に入る。

 

 

 ──受付を抜けるとカップル地獄であった。

 

 

 右を向いても、左を向いても、前を向いてもカップル、後ろを向いても新しいカップルが入ってくる。芝生のグラウンド一面に、(つがい)のゼッケンを着たカップルたちが各々愛の巣を作ってキャッキャウフフと戯れていた。

 なるほど、どうやら上を向いて歩くしかないようだ、と八幡は歯を食いしばって涙が溢れないように上を向く。

 

 一方この状況で、反応を起こさないはずのない隣の平塚は、その光景を見るや否や「なぁ、比企谷」と思いのほか冷静に八幡に語りかける。

 

「ん、なんだ。どうにかして爆発させろって?」

 

 平塚は「いや違う」と首を横に振る。

 

「……私達も今は()()()()なんだよな」

 

 思いがけない平塚の言葉に、八幡の心がざわめく。

 

「あ、あぁ……。周りからは間違いなくそう見られてるだろうな」

 

 今の二人は誰が見ようとカップルなのだ。このゼッケン番号が同じ番号であることが何よりの証拠である。

 

「じゃあ」

 

 突然、平塚は八幡の方へと左手を差し出した。

 

「──手を繋ぐぞ」

「え?」

「手・を・つ・な・ぐ・ぞ!」

「いや、聞こえてない訳じゃなくて。その……、平塚は大丈夫なのか?」

「何がだ。まさか比企谷菌とかの話か……? 私はそんなことは一切気にしないと以前言っただろ」

「いや、そういう心配してるんじゃない。その恥ずかしくないのかな、と思ってだな」

 

 手を繋ぐなど、妹の小町とすらも小っ恥ずかしくてもう随分していない事だった。ましてや、友人とはいえども、一度握手したことがあるといえども、異性の平塚と手を繋ぐことにはさすがに八幡は抵抗を感じた。

 だが、そんな躊躇(ためら)っている八幡に対し、「恥ずかしいわけない!」と、平塚は力強く否定する。

 

「そもそもカップルコンテストに来ているぐらいなのだから、手を繋ぐぐらい当たり前じゃないか。そうしなければ、怪しまれるだろ! ほら、比企谷早く!」

「分かったから、繋ぐから」

 

 やけに圧をかけてくる平塚に根負けして、差し出されている平塚の左手に、八幡はそっと右手を合わせる。

 そして、申し訳程度に手に力を入れた。

 それでもやはり、ほんの少しふわっと反発してくる肌。

 あの時と一緒で、平塚の手は柔らかくて、ほんのりとした全身までも包んでくれるような温もりがあった。

 状況が状況であるとはいえ、こうして手を握り、平塚の肌の感触を直に味わうことは、やはり穴蔵にこもりたくなるほど恥ずかしいものだった。

 急に高まった顔の熱は、照りつける夏の日差しのせいじゃないことは八幡も重々わかっている。もう横の平塚に顔向けすることはできそうになかった。

 

「こっ、これでいいか?」

 

 思わず声が裏返ってしまう。

 

「あぁ、大丈夫だ。全く問題ないぞ」

 

 非常に落ち着いた声音だった。

 八幡はその瞬間(さと)された。平塚はなぜかカップルに強い怨念を抱いているが、明らかにあちら側の世界の人間で、きっとこういうことには慣れっこなはずであるとは理解にたやすいことだ。ボディータッチも男女問わずにしているのを目にしたこともある。

 

 ──いくら何でもテンパリすぎか。

 

 少し(ほとぼり)も冷めて、ちらっと、横を見る。

 八幡が思い描いていた『余裕綽々(しゃくしゃく)で、こちらの爆笑必至の情けない顔を見て、頬を大きくふくらませて笑いを堪えている平塚』──はそこにはいなかった。

 

 俯いていた。目元は濡れ羽色の横髪に隠れて見えないが、ちらりと覗く頬はおそらく八幡以上に赤く、露わになっている耳は、耳(たぶ)から耳先の方まで真っ赤っかに染まり切っている。

 その有り様を見て、顔が尋常ではないほど勢いよく燃え上がるのを感じて、すぐに首を捩って、顔を背けた。

 

 

 ──澄み切った青空の下、手を繋いでいるだけで上のお天道様よりも朱に染まり、動くことなく立ち尽くしている初々しい二人を見て、「あらあら」「若いっていいな」と周囲のカップルが暖かな目を向けている。

 そんな思わずお天道様も(ほころ)んでしまいそうな微笑ましい雰囲気が会場に漂い始めた頃。

 バンッ、という耳を(つんざ)くような爆発音とともに、コンテスト会場中央に設置された立派なステージのスピーカーから、大音量のBGMが会場全体に響き渡る。

 ステージに会場の視線が集まると、今度は舞台から白煙が吹き上がり、それが晴れる頃には、やけに奇抜な格好をした男の人影が浮かび上がってきた。

 英国紳士が好みそうな黒色のシルクハットに、その側面には独楽(こま)みたいな紋様をしたでっかい巻貝がくっっている。デニム生地のオーバーオールの肩紐には無数のトマトらしき赤色のストラップが着いていて、その下のシャツからは大きい『長』の文字が浮かぶ。そして、極めつけは、羽織っているマントが明らかに漁業で見るような網なのだ。

 そして、その男は、握りしめたマイクを口元にちかづけ、「レディィィース、エエエエェンド、ジェントルメェェェェンッ!!!」と声高らかに叫んだ。

 

「これより、長生村主催、『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト』を開催いたします!!! 司会は私、長生き×九十九里の申し子! ミスターナインティナイン!! よろしくぅ、お願いします!!」

 

 ミスターナインティナインの挨拶が始まって、彼が深くお辞儀すると、大きな拍手が沸き起こった。

 爆発音でハッと目が醒めた八幡は、気恥しさからかかえって周りよりも手を強く叩いていた。

 

「本日の参加してくれたカップルは、なぁんと、九十九組?! ほんとですか……? あっ、ほんと! なんと、九十九組、参加いただいているぞぉ!! これは何たるミラクルだァァ!! ミスターナインティナイン感無量ですゥ!!」

 

 涙を拭う素振りを見せるミスターナインティナインに対して、「良かったなぁ!」とどこかのカップルの彼氏が野次を飛ばすと大きな笑い声がどっと生まれ、そこから囃し立てる指笛がピューピューとあちこちから飛び交い始めた。

 

「ありがとう!! ありがとう!! さぁ、ますます盛り上がってきたァ!! では、早速だァが、今回の大会のルール説明だァ!!」

 

 今回の大会では、二人一組の競技が三種目行われる。そしてそれらは全て時間を計る競技だ。そのかかった時間の合計が少なければ少ないほど、順位が高くなる。

 第一種目は、『障害物を乗り越えて巡り会え!! 天の川障害物競走』。普通の障害物競走と違うのは、トラック上のコースに男女別の二つのスタートが設置され、彼氏は右回り、彼女は左回りで、いつかは二人が必ずコース上で巡り会うことになる。その巡り会うまでの時間がスコアとなる。

 第二種目は、『息をピッタリ合わせろ!! 二人三脚一○○メートル走』。これは二人三脚そのままであり、いかに早くゴールできるかが勝負となる。

 第三種目は、『協力してお買い物を持ち運べ!! お買い物競走!!』だ。これは、一○キログラムの重りの入ったバッグを一○個、計一○○キログラムを二人で協力して一○○メートル運べというものである。これもいかに早くゴールできるかが勝負となる。

 

「そして、この、三種目の合計タイムが少ないカップル上位五組が決勝戦に進出することができるぅ!!! 参加賞は当然あるが、決勝戦に残ったら、確定でこちらの豪華商品を獲得することができるんだァ!!」

 

 ミスターナインティナインがパチンと指を鳴らすモーションをすると、舞台袖から白い布が敷かれた長机が運びこまれた。そしてその上には、賞品がズラっと並べられている。

 まず端の方に、ちょこんと置かれているのは参加賞で、二千円分の今回の七夕祭りで使用できる券。これで、参加費分の元は取れるということだ。

 そして、決勝進出者にはこの参加賞プラスに、第四、五位のカップルには、商品券五千円と海の幸セット。

 第三位のカップルには商品券一万円と山幸海幸セット

 

「そして、第二位のカップルには、商品券三万円分と山幸海幸セットに加え、子供受け間違いなし! こちらの超人気フィギュアたちをプレゼントだァ!!」

 

 確かに第二位の賞品のところには、フィギュアの箱が積み上がっていた。更によく見ると、スクライドやプリキュアだけじゃない。特捜戦隊デカレンジャーのフィギュアもあったのだ。

 

「なぁ、比企谷!! あれだぞ、あれ!! デカレンジャーもあるぞ! すごいすごいっ!!」

 

 平塚はまるで子供みたいにはしゃいで興奮気味に指を指す。明らかに周りからは浮いていたのだが、そんな平塚を(たしな)める人はこの場にはいなかった。

 

「あぁ、分かってる。絶対手に入れるぞ」

 

 普段は感情の起伏が激しくない八幡ですらも、実物を見せられられると、自然と気持ちが昂ってしまっていた。

 

「そして、最後、見事最強カップルに輝いたカップルには、なんとォ!! 商品券五万円分と、海幸山幸セット。そして、カップルには持ってこいの東京ディスティニーランドワンデイパスペアチケットとオーシャンスパ九十九里への一泊二日のペア宿泊チケットをお送りするぜェ!!!」

 

 第一位に贈呈されると賞品が披露されると、会場がドッと沸いた。周りのカップルは「絶対にあれがいい」と口をそろえる。確かにこれはとびきり豪華ではある。だが、あくまでこの二人が狙うのは二等なのだ。

 

「では、早速第一ラウンドを開始だァ!!! 十一レースに分けて、行われるから、番号を呼ばれたカップルはスタート地点に移動してくれよなァ!! 最初の組は五分後に開始するからな!! それでは発表するぞォ!! 最初は9、18───」

 

 こうして幕開けた最強カップルコンテスト。

 八幡たちの番号はなかなか呼ばれず、近くの芝生の上で入念なストレッチをしながらレースを観ていた。観客席には少しではあるが祭りの客も見に来ていて、中々の賑わいっぷりだ。

 第一種目のコースの外観としては、まずハードルが五○メートルほどあって、設置された麻袋に両足を入れて二○メートルほど飛んでいる。その後は、緑色の網の下を這いずってくぐりぬけ、とびきり小さい三輪車に乗ってハードル走より少し短い距離を漕ぐ。そして、最後の直線で五○メートルほど走ると、異性の方のコースのゴールと合流する。

 ただ、そこで再会できない場合は、異性のコースを逆走し、迎えに行くというなかなか奇想天外なルールではある。

 ルールの特性上、彼氏側の方がゴールに早く着くことが多く、あるカップルは三輪車にのって再会、さらには網の下で這いずくばった状態で再会するなど、様々な彦星と織姫の再会の形が見られて面白いものだった。

 

「ところで、私達が二位になるためには、大前提として決勝戦に残らなければならないな」

「あぁ、だからこの三種目は全力でってことか」

「そういうことになるな!」

 

『とにかく全力で』。このシンプルな言葉が、二人の中に共有された。

 

「次のレースが始まります! 番号を及び致しますので該当する人はスタート地点に集合してください。では参ります! 4、13、22──」

 

 ついに、二人の番号である13が呼ばれた。八幡の拳にも自然とグッと力がこもる。

 

「よし、頑張るぞ、比企谷!」

「うっしゃ」

 

 それぞれのスタートの方へと駆けていった。

 

 八幡がスタートラインに立つと、左どなりのレーンは恰幅(かっぷく)の良い中年男性。「とおちゃーん、おかあちゃーん、がんばれよぉおお!!」と甲高く可愛らしい声で(はた)から叫ばれて、彼はその声のする方へ手を振り、「二等目指してとおちゃん頑張るぞー!」と笑顔で返していた。つまりは、数少ないライバルというわけだ。

 右隣は隆々とした筋肉が溢れんばかりに実っていて、やけに黒光りしているガタイのいい男だった。身長も八幡より定規一本分ぐらい高いほどだ。いかにも足が速そうである。

 だが、誰が速そうだとかは今日の種目では何も関係がないのだ。結局は自分自身の勝負で、いかに一秒でも早く平塚と合流できるかが鍵である。

 それにもし、平塚が先にコースを走り終わり、八幡のコースに入って合流しようものなら、僅かながらの男としての矜恃(きょうじ)が廃ってしまう。

 

 ──()()()()()()()

 

 それはあのリレーの時のように、平塚に背中を押され、周りの景色の色が混ざって、同じ色に染まった時のように、だ。

 

「そろそろレースを開始しま〜す!」

 

 吸う時には腹を膨らませて、吐く時にはへこませて、研ぎ澄ますように整える。

『ハードルは飛ぶのではなく、跳び越える。そして歩幅を一定に』。体育の授業の受け売りだが、今はこれを頭の中で何度も何度も反芻させる。口も自然と、その文字列をなぞるように動いていた。

 

「では、位置についてぇ──」

 

 耳あてをつけたスタッフは、右手を大きく伸ばし、銃口を空に向けた。

 

「よぉい──」

 

 パァンと号砲が鳴る。

 その瞬間、八幡は思いっきり地を踏み込んで走り出した。左隣の中年男性は、すぐに視界から消えたが、気に留めている余裕はない。

 最初のハードルを、跳び越える。そして、一歩、二歩、三歩目で再びハードルを飛び越える。

 後はただひたすら繰り返し。ガタンとハードルが倒れた音が耳に入ってくるが、ただ前だけを見る。

 無我夢中になって走り抜ければあっという間に、ハードル走は終わっていた。

 

 かなり上々な結果ではあるが、八幡は気は(ゆる)めなかった。

 行き着いた先に用意されているこげ茶色の麻袋に両足を突っ込んで、ただひたすら前へ前へと跳ねる。

 一度、重心が前に傾き、転びそうになるが、なんとか堪えて、兎のようにぴょんぴょこと跳ねる。

 気付けば右隣にいた黒光りの筋肉質の男はもう麻袋を脱いでいた。

 だが、追いつく必要はない。ただ、自分のできる限りのことをすればいい、と八幡は心の中で一度だけ言い聞かせ、あとは無心でぴょんぴょこと飛び跳ねた。

 そして、麻袋のコーナーが終わると、緑の網の中へと潜っていく。

 這いつくばって進むのは、かなり体力がいる。しかも、コースはクレイではなく砂であるから、前進する度にやけに土埃が顔にかかり、呼吸をするにもそれらがどっと口の中へと押し寄せてきて、普段なら不快感を催すはずだろう。だが、その感情に支配されることなく、淡々と前に進めるほどに、八幡は集中していた。

 そして、息があがりながらも、途中で止まることなくゴールにたどり着く。最後には、すこぶる小さい三輪車が待ち受けている。

 人によっては最もキツイかもしれない。だが、これは八幡の得意分野だ。

 普段、通学に用いている筋肉をフル活用し、ペダリング──回転の意識を全神経に注ぎ込む。いつかの時の読み物から得た母指球(ぼしきゅう)の話をひたすら通学中に実践していたおかげで、それが非常に役に立った。

 親指の付け根あたりで踏み込み、小さな円をひたすら描き続ける。

 とは言っても、ハンドルのグリップに膝小僧が擦れて、少し痛くもなるが、それで今の八幡は止まらない。

 

 そして、なんとかたどり着き、残り五○メートル。既に疲労は蓄積しているが、ここで遅れをとる訳には行かない。

 三輪車を乗り捨てた勢いで、全力で走る。

 周りの景色が見えなくなるくらい、全力で。

 

 境界が曖昧になり、全ての色が同化した。

 

 すると、同化した色の中に前から、迫ってくる違う色の何かが見えてきた。

 そこに意識を向けると、その色は黄色で、ゼッケンには、13番。あれは、平塚だ──。

 

 気付いた次の瞬間、手を挙げて、パチンと相手の手を叩く。中々のいい音が鳴った。

 そして、そのまますぐさま邪魔にならぬようコース外にはけるが、八幡の足がまるで別の生物であるかのようにいうことを聞かず、自然の緑の絨毯(じゅうたん)に誘い込まれるように芝生の上に寝転がってしまった。どうやら平塚も同じようで、気付けば八幡の隣で仰向けに横たわっていた。

 まもなく、ストップウォッチを片手にした、計測係らしきスタッフが寝転んでいる二人の元に駆け寄ってきた。

 

「13番のカップルさん、お疲れ様です! とっても早かったですね! 記録は──」

 

 彼女はストップウォッチを見て、一度「おっ!」と驚きの声を上げる。

 

「二分二九秒ですっ! とっても早いですね! 多分今回のベストタイムだと思いますよ!」

 

 少し早口で捲し立てて興奮気味に伝えると、彼女は「ゆっくり休んでいてくださいね!」と一言告げ、おそらくだが記録を報告するためにその場を去ってしまった。

 その人が去った後も、暫くは起き上がることも、話すこともできず、ただ二人のハァハァと荒れた呼吸音が聞こえるだけだった。

 燦燦(さんさん)と降り注ぐ日差しのせいで、目を開くことはできないが、ただ心地がよかった。

 

 しばらくして息が整ってきたあたりで、八幡が「めっちゃ疲れた」とボソッと独り言ちる。すると即座に、「あぁ、私もだ」と平塚も返した。

 

「この調子だと、運動会の時みたいにぶっ倒れてしまうかもな」

「それは勘弁だな。また、俺が面倒を見る羽目になる」

「なんだ、その言い方は。でも、実を言うと、今回は比企谷の方が体力的には不味いんじゃないか?」

「確かにそうだわ。もし、そうなった時は──」

「断る!」

「ひどくないっ?!」

「当然の報いだ!」

 

「ぷっ!」「ははっ!」と二人は思わず吹き出してしまう。少し息が切れて乾いた笑いにはなるが、それもまた余計に面白かった。

 そして、八幡が横を向くと、平塚もこちらの方を向いていた。

 

「とりあえず、ナイスファイトだ、比企谷!」

 

 平塚は白い歯を見せ、ニカッと笑う。前髪が乱れて、少し汗ばんだ額が印象的に映った。

 八幡もそれに応えるように口元を少し緩ませた。

 

「そちらこそ、ナイスファイト、平塚」

 

 ふと意識を向けると、背中に芝生の柔らかく、でもどこかくすぐったい感触を感じられた。

 こうして寝転んだのは、いつが最後だっただろうかと、思い返してそうとしても、もう遠く色褪せたセピア色の記憶で八幡には思い出せなかった。

 ただ、心地よいものだと、身体には刻み込まれていた。

 そして、きっと、いつかまたこうして青空のもとで寝転んだ時には、今日この日を思い出すのだろうと、いつになるかは分からないが、それだけは確信できていた。

 

 

 ──もうまもなくして、第一種目のレースが全て終わった。大声を出して、せっせと動くスタッフとは対照的に、周りのカップル達は会場の脇にある天然の日傘の下にこぞって集まり、仲睦まじく談笑している様子が見られた。八幡たちもそれにならって、日陰にうつる。

 そして、一○分ほどの休憩を挟んだあと、アナウンスが入る。

 

「大変長らくお待たせしたァ! 続いては第二種目、シンプルだけど、だからこそ奥が深い! 息をピッタリ合わせろ!! 一○○メートル二人三脚ゥ!!」

 

 こうして始まった第二種目の二人三脚はさきほどとは逆順で、つまり、八幡達は比較的早く、レースが始まることとなった。

 

 一種目の時と同じく意気揚々と挑んだ彼らだったが、結果的には失敗してしまった。

 

 ただ一度転んでしまったのだ。

 決して、密着するせいで、八幡の鼻の下が伸びて、気が逸れてしまったからという訳ではない。根本的に息が合わなかったからという訳でもない。

 良いタイムを取らなければならないという焦りが、僅かなタイミングのズレを引き起こし、転倒してしまったのだ。『全力』という言葉が裏目に出てしまっていた。

 その後何とか建て直し、おそらく上位四分の一ぐらいのタイムに持ち堪えていた。一度転んだ割には、良いタイムなのかもしれないが、上位五位に入ることができなければ全ての努力は水の泡。

 ここで大きく上位勢と引き離されるのは彼らにとっては相当な痛手であることは間違いなかった。

 

「平塚、これ」

 

 二人三脚を終えた八幡は、会場の外で買ってきた自販機で買ってきたスポーツドリンクを、日陰になっている芝生の上で涼んでいる平塚に一本投げ渡す。

 祭り気分で出店で買うものかもしれないが、最近財布の中身がひもじくなってしまったせいで、一銭一厘でも切り詰めたい男には、自販機で済ますことが無難だった。

 

「ありがとう、比企谷」

「おう」

 

 八幡は平塚の横の日陰に座ると、白のキャップを回して空け、かぶりつく勢いでそれをぐいぐいと飲み始めた。カラカラに乾いた喉を流れ落ちていくその潤いは、染み入るような筆舌に尽くし難い美味しさがある。

 

 一口飲み、小さく息を漏らす八幡とは対照的に平塚は「ぷわぁっはぁ!!」と隠すつもりもなく豪快に吐き出した。

 

「やっぱり、汗流したあとのスポーツドリンクは最高だな!」

「確かに、なんでこんなに殺人的に美味いんだろうな。アウトドア派の人間の言ってることがほぼ全て空言にしか聞こえない俺でも、これだけは認めざるを得ないな」

 

 そう言って、もう一回かぶりつく。

 二度目も殺人的に美味しく、一度目と負けない勢いでごくごくと飲んでしまった。ボトルを見ると、もう目分量で半分はなくなってしまっている。

 

「その通りだ。後は、やっぱり、ストレスが溜まった時の酒! あれは格別に美味かった!」

「え、お酒飲んでるの? そういや、サイゼリヤの時も……」

「あぁ、いや。これは親の真似事でな。未成年の私が知るはずなかろう」

「まぁ、そうだよな。風紀を質す側の生徒会様がお酒飲んでたら、お終いだ」

 

 平塚の親が、リアリストというよりもただ子供に大人の実情を隠さない人達だということは知っていたうえに、それ以上に彼女がそのような人間ではないと信じていた八幡は特に疑うことも無く納得する。

 

 次第に身体も水分を欲することがなくなって、キャップを閉め、大分軽くなったペットボトルを芝生に転がすと、木漏れ日にあてられて透明なそれは光っている。

 だが現状は幸先が良いとは言えず、お先真っ暗とはいかないまでも、いささか不透明なままだ。

 

「ちょっと、まずいかもな。思いっきり、ミスっちまった」

 

 左手を見れば、転んだ際に擦りむいた傷跡が、親指の付け根あたりに少し痛々しく残っていた。少し力を入れるとじわっと血が滲む。

 

「まぁ、確かに、そうだな。でも今更後悔したところで、後の祭りだ。転んで大きな怪我がなかったことだけでも幸いだ。今は、次の種目の作戦を考えようじゃないか」

 

 八幡も「あぁ、その通りだな」と応えて頷く。

 

「次の種目は、確か、一○○キログラム買い物競走か。しかも一○○メートル。これ字面以上にキツいんじゃねぇか?」

「まぁ、ルール的には五○キロまず運んで、スタートに戻ってきて、もう五○キロ運ぶのもありってことだが、それだとだいぶ時間をロスしてしまうな……」

「まぁ、つまり良いタイムを取るには、なるべく最初の一○○メートルで全部持っていきたいってことか」

「そうなってしまうな。だがそうとなると……」

 

 平塚は真剣な様子で、少し手を顎に添えて考える。

 八幡としても、ここで『俺が八個ぐらい持つわ』ととびっきりキザな事を言えたらいいのだが、結局、足を引っ張り、余計に遅れることになるのは火を見るより明らかだった。八幡にはせいぜい六、七個が限界だろう。

 

 そして、平塚は「比企谷と私で半々というのはどうだ?」と提案した。

 

「いや待て、平塚、お前五○キロ持てんのか? だいぶ重いと思うぞ」

「大丈夫だ。君は私の事をか弱い女の子かと思ってるかもしれないが、私はそんなやわじゃないぞ」

「いやそんな事は一ミリも思ってないが──」

 

「あ?」と平塚は目じりを吊り上げて、八幡を睨みつける。

 

「ま、まぁ、とは言っても、さすがにキツいものはキツイだろ。いくらお前の運動神経が高くても、重さはカバーしきれないんじゃねぇか。絶対的な筋肉量がちげぇし」

「大丈夫だ、任せておけ! 逆に君に手を貸してやる!」

「うわぁ、そうなったらマジで恥ずかしいな……。とりあえず分かった。じゃあ半々だな」

 

 平塚から溢れ出る自信と、八幡の中の彼女に対する信頼もあって、その案が承諾された。

 

 そうして、第三種目が始まった。

 どうやら、今回は総合タイムが遅い順から呼ばれているようだ。

 八幡の左どなりにいて、印象に残っていた子連れの恰幅の良い夫と、その妻の中年カップルは、第二種目でも八幡達のだいぶ後にゴールしていた。

 最初のグループに呼ばれているのは、そういうことだと後から気付いた。

 子供と思われる齢五、六歳ぐらいの男の子がとびきり大声で「とおちゃん、かあちゃん、ぜったい最下位にはなるなよおおお!」となかなかパンチの効いた純粋無垢な(げき)を飛ばし、会場でどっと笑いが起きた。スタート地点で恥ずかしそうにあたふたとする夫婦の姿は、とても微笑ましいものだった。

 何だかんだその夫婦は結局最下位であったものの、順当に往復してゴールした。その他のグループも同様に往復でゴールしているのがほとんどであり、一回で全てを持っていこうとするカップルは皆無だった。

 

 そして、二人の番号である13番は最後まで呼ばれなかった。

 

「つまり、この様子を見ていると、私たちにも可能性は十二分にあるということだな!」

「そうみたいだな」

 

 しかし、それで安堵してはならないというのは八幡も重々承知だ。このグループの中で一秒でも、いや、もっと早くゴールしなければ目当ての決勝戦に進出することは叶わないだろう。

 

「いよいよ、この競技も最終組だァ! 番号は7、13、22、46──」

 

「よし頑張るぞ、比企谷」「おう」と呼びかけあって、再びスタート地点へと向かう。二人は一○個のエコバッグがひとまとまりとなって置かれているブルーシートの、左から二番目に、誘導された。

 

「お待たせしたなァ、では最後のレースの始まりだァ!! スターターの方よろしくゥ!!」

「では、始めます!! よーい──」

 

 パァンと銃声が会場を駆ける。八幡はスタート地点にあるエコバッグをまずできるだけ両肩にかけ、最後の一つは左右の掌の上で抱えるようにして持ち上げた。平塚も同じようにして、五○キログラムを持ち上げた。

 

「大丈夫か、比企谷!」

「あぁ、大丈夫だ」

 

 隣のレーンは、22番。第一種目、第二種目とも隣に居たあの黒光りで筋肉質の男がいるカップルだ。第一種目でも、その実力はまざまざと感じられた。

 このカップルの彼女の方は彼とは対照的に見るからにひ弱そうであった。一方で存命の人に美人薄命と称するのは些か無礼だが、それほどの淑やかさと麗しさが細身の彼女にはあった。そんな彼女はエコバッグを何とか一つ持っている様子で、一方黒光りの筋肉質の彼氏が、エコバッグ四つを両肩にかけ、一○○メートルの直線を疾風迅雷の勢いで駆け抜けて言った。その肩甲骨周りの筋肉が盛り上がった背姿は、紛うことなき化け物であった。

 あの人類最強の範馬家の一族と言っても、信じてしまいそうなほどの化け物っぷりだった。どうやら、この調子で往復して、もう五つを持っていくという作戦らしい。

 周りのカップルを見るとやはりほとんどがそうだった。一度は往復して運び切ろうとしている。

 

 つまり、勝機はあった。

 

 二人はそれぞれ五個のエコバッグを抱えて走り出した。

 勿論、22番の彼氏のように本気で走ることなど到底不可能で、小走り程度の速さだ。だが、このペースで走りきれば、かなり差をつけることはできそうだった。

 

 予想はしていたことだが、これがかなり重い。まだ若干の余裕はあるものの気を抜いたら肩から崩れ落ちてしまいそうな恐怖感もあった。

 そして、異変が起きたのは五○メートル、半分を少し超えた頃だった。

 明らかに平塚の進みが遅くなり、八幡が後ろを振り向くと、見るからに辛そうな顔を浮かべ始めていたのだ。

 

「おい、平塚。大丈夫か」

「あぁ、大丈夫だ……。気にするな。それよりも早く行かなければだな……」

 

 ただそう答える平塚の身体は、足元から手の先まで今にも崩れ落ちてしまいそうな程に震えていた。

 八幡は一度、両肩のエコバッグをレーン上に置き、平塚の元に駆け寄った。

 

「ひっ、比企谷っ、急に何?! 別に私は……」

「……バカ、見たらわかる。この期に及んで強がんなくていい。少し寄越せ」

「でも、ホントにっ……。あっ……」

 

 八幡は平塚を一度座らせて、肩にかかったエコバッグ二つを腕から引き抜いた。そして、それを今度は彼の両肩にかける。

 

「これでも、俺、男の子なんだよ。この前格好つけようとして、失敗したの結構恥ずかしいんだ。だから、ここで挽回させてくれ。お前の前でカッコつけさせてくれよ、な?」

「──っ、うっ、うん……、分かった。でも、もし辛くなったら……」

「そりゃ当然、そん時はすぐ平塚にお返しするわ。流石にそこまでカッコつけ通すのは俺には本当に荷が重いわ」

 

 それを聞いた平塚の申し訳なさそうな顔は解け、そしてぷっと吹き出して、微笑を浮かべた。

 

「あぁ、分かった。()()()()()頼んだぞ、比企谷っ!」

「よしっ、行くか」

 

 八幡は、二つのエコバックを両肩に提げて、レーン上に置いてきた場所に急いで戻った。

 それぞれの肩に三つ目のエコバッグをかけ、一つは抱える。

 そして立ち上がった瞬間、今までとは比べ物にならないほど地面に押し付ける感覚が、一気に八幡に襲いかかった。思わず顔も頬からぐにゃりと歪み、奥歯をぐっと食いしばる。

 エコバッグ五つの時とは違い一切余裕はなかった。というよりも、許容範囲を超えているのは八幡自身すぐに分かった。

 やはり七○キログラムは半端ではない重さだった。八幡の体重よりも重いのだから当然ではあるのだが。

 ただ、平塚に見栄を張った手前、情けない姿は見せられなかった。

 八幡は前までは、大の精神論反対論者だったが、ここ最近は頼っている節がある。そして、今回もそれに頼らざるを得ない。

 

 ──()()()()だ。

 

 そして、一歩。ズシンと全身の骨や五臓六腑に響くようなとても重い一歩を踏み出したのだ。

 

 

 

 

 結局、二着でゴールした。

 一着は隣の怪物くんを率いたカップルだったが、それを考慮しなければ、素晴らしい結果だと言えよう。

 ただ、八幡は見栄を張りきれなかった。

 エコバッグが三つになった平塚は水を得た魚の如きの快走を見せたのだ。一方八幡も善戦はしたものの、やはり七○キロの重さには善戦するのが精一杯で、残り十五メートル付近で、先に運びきって戻ってきた平塚に三つほど持ってもらって、フィニッシュした。

 ただ、見栄は張りきれなかったものの、二着で他の上位勢のカップルと大分タイム的に差をつけている事には間違いなかった。

 

「最後、申し訳ねぇ。あんだけ大見得切ったのに、結局お前のこと頼っちまった」

「いや、いいんだ。気にするな。というか、私の方こそごめんなさいとありがとうだ。あのままだったら、多分肩が壊れてた」

 

「それに」と平塚は一呼吸置く。

 

「あの時の比企谷はすごく格好良かったぞ!!」

「や、やめてくれ……。慰めだとしても、ガチで照れるから」

 

 相変わらずの裏表なく屈託もない笑顔で褒められて、素直に受け取ることが出来ず八幡はむず痒そうに目を逸らして、二、三度頬を人差し指で掻いた。

 

「本当に格好良かったんだから仕方ないじゃないか!」

 

 ──なんで、この娘はこんな恥ずかしいことを、堂々と言えちゃうの。

 

 と、八幡は困りながらも、「あぁ、そうか。そう言って貰えて光栄だ」と今はその褒め言葉を渋々ながらも有難く受け取ることにした。

 

 

 

 ──総合の順位が発表される時間が差し迫っていた。あれだけ元気にしていた日も西の空へと落ちていて、空の色も鮮やかな橙色へと染まる中、先程見られた日陰も消えていて、カップルたちは自然と会場全体にバラけていき、それが影絵のように目に映った。

 それぞれがそれぞれの時間を過ごしていると、突如開会のときのような大音量のBGMが一面へと響き渡り、昼時の開会式にはなかった眩いスポットライトが一斉に点灯し、ステージ上に集められる。

 そして、その光の照らす中にはミスターナインティナインがマイクを口元に構えて立っていた。

 

「大変長らくお待たせ致しましたァ!! まず、最初にお疲れ様でしたァ!! さいっこうに熱い競技を見れて、ミスターナインティナインさいっこうに幸せだったぜェ!!」

 

「ありがとうございます!!」と深々とミスターナインティナインがお辞儀をする。それに拍手が送られ、参加者側のカップル側からは、主催者側に対する労いの言葉が会場全体からステージに向けて飛ばされた。

 

「暖かいメッセージありがとう!! 今年も開催して良かったぜェ!! よし、では早速だが、決勝進出カップルの発表だァ!! スタッフゥゥカモォォン!!」

 

 その大きな呼び声とともに、ミスターナインティナインが中央から()けると、舞台袖からは、プラカードのようなものを持った五人のスタッフが、ステージの真ん中に横一列に並んだ。それぞれのプラカードに決勝進出者の番号が書いてあるということだろう。

 結果を踏まえると十分決勝に行ける可能性があると分かってはいたものの、八幡の手はじんわりと汗で濡れていた。

 隣の平塚も両手を胸の前でギュッと握って祈るようにじっとステージの方を見ている。

 ただ番号を見るだけでこのような感情にされるのは、受験の時以来だ。その時以上に緊張している心地さえしている。

 

「よしっ、では、発表するぞォォ!!!」

 

 ごくりと息を飲んだ。

 

「栄えある決勝進出カップルは、こちらのカップルだァ!!」

 

 それと同時に、五人のスタッフが一斉にプラカードを上げた。

 五つの番号が八幡の目に飛び込む。

 そこには、『13』という数字が──

 

「あ……、あった、あったぞ!! 比企谷あったぞ!! やった、やったぁ……!!」

 

 下手側、つまり左から数えて一番目のプラカードに確かに『13』と記されていた。

 

「おぉ、ホントだ、あるな!」

 

 平塚は強めに八幡の肩を叩きながら、嬉しさを抑えきれずにぴょんぴょんと飛び跳ねている。八幡も彼女ほど表には出さないものの、ホッとしたのと同時に、異様なまでの高揚感と達成感に包まれていて、グッとガッツポーズが出ていた。

 

「やったぞ私たち!! 決勝戦に行けたぞ!!」

「あぁ、まさか、ホントに残れるなんてな。こんなに嬉しいとは思わなかった」

「なぁ、比企谷!」

 

 平塚はそう言って、両腕を肩幅ほど広げた。八幡はそれを見て、少し面倒くさそうにしながらも、嫌がらずに両腕を肩幅ほど広げた。

 

「イェ────イ!!!」

 

 叩きあっても、平塚の手は少し湿っていて、以前のようにパンといった乾いた音は鳴らなかった。彼女もそれ相応に緊張していたようだったことが分かる。

 ただ、平塚は変わらず八幡に向けて、あけすけもなく本当に嬉しそうににっこり笑っていた。

 男は得てしてそういう顔に弱いもので、つられて八幡も思わず顔が綻んでしまっていた。

 

 そんな二人の嬉嬉とした様子を見ていた近くの女の人が「おめでとう」と讃えてくれた。

 そして、それは偶然にもあの中年夫婦の奥さんだった。

 

「最初の種目と二番目の種目の時、私たちの隣にいたわよね?」

 

 平塚と八幡は揃ってこくんと頷く。すると、奥さんはふふっと優しく笑った。

 

「なんかの縁だから、私たちの分まで頑張ってね」

「はいっ、頑張ります!」

 

 平塚は元気に応えた。その時、旦那さんと一緒に五、六歳くらいの短パン半袖の兄がこちらに向かって歩いてきた。あの子は毎レースで熱い檄を飛ばしていた子だ。

 そしておそらく幼稚園にも上がっていないような妹もよちよちと歩いて、父と兄の後ろを一生懸命ついてきている。

 兄は二人の顔を見るなり、目の前にいるというのに大きな声で檄を飛ばした。

 

「カッコ好いおにぃちゃんとおねぇちゃん、頑張れ!! カッコ悪いドベのとおちゃんとかあちゃんの分まで!! 応援してるからね!!」

 

 そして、その兄の様子を真似て「わたちも、にいちゃとねえちゃ、応援ちてる!」と舌っ足らずな妹も二人に声をかけてくれたのだ。

 

 純粋な子供の応援に、思わず愛らしさが芽生えて、元来人見知りで他人の子供は好かない八幡ですらも頬がだらぁんととろけていく。だから平塚の方はもう可愛いことこの上ないというような感じで、子供の身長ぐらいの高さまでしゃがむと「むふふぅ〜、ありがとな〜、お姉ちゃんとお兄ちゃん頑張るからな〜」と二人の綺麗な黒の髪の毛をわしゃわしゃと撫でていた。

 一方、引き合いに出されてばつが悪いお父さんは、子供二人に向かって、「余計なこと言うんじゃないよぉ……」と面目なさげに投げかけたが、威厳はなく平塚に頭を撫でられて心地よさそうにしている兄妹にはその言葉は届かなかった。

 

 まもなく「ステージ前に集合してください」というアナウンスが入り、名残惜しくも中年夫婦とその兄妹に別れを告げ、ステージの前に集まった。

 

 ステージ前に集まった人の中には、勿論、あのゼッケン番号22番のカップルもいた。他のカップルも、ここまで来たからには、という面持ちで、先程までとは打って変わってピリリとした雰囲気があった。

 

「というわけで決勝進出おめでとうございます! 決勝戦は女子の個人種目と、男子の個人種目に分けられます。詳細は決勝戦開始前にて説明しますので、まずは着替えてもらいます!」

 

 八幡は首をきょとんと傾げた。スタッフの言う()()()の意味が分からなかったのだ。

 そしてまもなく、男と女に分かれ、スタッフに導かれるがままにしばらく歩くと、最初は、運動場に併設されたシャワールームに連れてかれていた。

 そこで一通り汗を流した後、再び別の場所へと連れていかれた。

 そして、先程の()()()がどういう意味かは、次にスタッフに連れられた場所の光景を見て、すぐ気付いた。

 

「……なるほど、そういうことか」

 

 シャワー上がりの八幡が連れられた待合室のような部屋には、フィッティングルームのようなカーテンで仕切られた小部屋が五つ用意されており、そしてその部屋の中心には眩いばかりの白銀のタキシードのジャケットとパンツが計一○着ほど、ハンガーラックに掛けられていた。そして、周りにはネクタイのハンガーラック、ベストのハンガーラック、そしてシューズボックスもある。

 

 タキシードの尺などが分かるはずもない八幡は、取り敢えずピタリと合うサイズのものを選んで一通り着替えた。

 スタッフの「お似合いですね!」という分かりやすいお世辞とともに、次はメイク室のような所へ連れていかれ、鏡台の前に座らされると、スタッフによってアホ毛混じりの癖の強い黒髪は、前髪がぐるりとかきあげられ、髪はワックスで固められ、みるみると見たことの無い髪型へとセッティングされた。

 鏡写しの八幡の姿はもはや別人ではあるが、相変わらずの目つきの悪さが哀しくも彼であることを証明している。

 そして、そんなことをしている間に時間はとっくに日没を回っていたようで、外に出て、ステージ脇の白テントの仮設の控え室まで連れていかれた頃には、会場周りの大きな電灯は光を放ち、会場を照らしていた。

 控え室では、決勝戦のオープニングに関する指示をスタッフから受けた。その指示は呑み込むことができたが、いかんせん慣れないタキシードで、未だに非常に心が落ち着かなかった。(しわ)の一本もつけてはいけない気がして、自然と座り方もいつもの猫背から、真っ直ぐな背筋になっていた。

 ただ、心が落ち着かないのは、それだけのせいではない。八幡が白のタキシードということは、つまりだ。

 まもなくして、舞台の方から、再び大音量のBGMが流れ始めた。

 

「レディィィィィィース、エエェェェエンド、ジェントルメェェェエン!! いよいよお待ちかねェ!! 七夕最強カップルコンテストの決勝戦の始まりだァ!!!!! 私は、予選においても司会を担当させていただいた、長生きと九十九里の申し子ミスターナインティナインだぁ!! よろしくゥ!!!」

 

 ミスターナインティナインの挨拶だけが聞こえるが、その後に、予選の時とは明らかに違う量の拍手と声援が聞こえてきた。きっと、祭りの観客も(こぞ)って決勝戦を見に来ているということだろう。

 八幡は明らかに瞬きの回数が増えていた。周りのタキシード姿の男たちも、その歓声が聞こえると明らかに動揺していた。ただ、22番だけは顔色一つ変えずに、泰然自若(たいぜんじじゃく)としていた。

 

「ありがとうございまァす!! それでは、早速、最強に相応しい決勝進出カップル五組を紹介していくぜェ!! まずは一組目だァ!! カモオオォン!!!」

 

 スタッフが「足柄(あしがら)さん」と呼ぶと、件の22番の黒光りのがたいのいい超人男──足柄は、(まさかり)担いだ金太郎でさえも腰を抜かしてしまいそうな貫禄そのままにゆっくりと椅子から立ち上がった。まじまじと改めて見ると、身長が一八五センチは軽く超えてそうなほどかなり高く、目尻につれて釣り上がるその細長く鋭い切れ目は、見下ろされるだけで腰が抜けてしまいそうなほどの威圧感があった。

 そして、彼が控え室を出ると、「圧倒的強さで、ぶっちぎりトップで予選通過した大本命、足柄・松田(まつだ)カップルだァ!!」というミスターナインティナインの紹介とともに、会場は再び歓声に包まれていた。

 その後も次々と呼ばれ、いよいよ最後となった。そして、八幡は一人控え室に残っていた。

 

「そして、最後はァ!! おっ、今回のコンテスト最年少カップルが、決勝に駒を進めたァ!! では五組目、カモオオォン!!」

 

 八幡がスタッフに「比企谷さん」と呼ばれる。

 いよいよ出番が来た。椅子から立ち上がる。

 控え室から出て、舞台袖から舞台へと続く階段に臨む。そして階段を一段ずつ上がると、ステージには、先に呼ばれた四組のカップルが並んでいるのが見えた。

 そして、反対の舞台袖から上がってくる人影を見て、思わず息を飲んだ。

 

「若さは、最強にふさわしい特権だァ!! 青春の嵐を巻き起こせェェ!! 比企谷・平塚カップルだァァァァ!!!」

 

 その人影が(あらわ)になるにつれて、鼓動が早くなる。

 ぼやけた黒い影は、やがて透き通るほどの白へと変わる。

 八幡がステージ上に完全に立った頃にははっきり見えていた。

 

 あまりの美しさに見とれてしまっていた。

 あまりの可憐さにそれは絵画であるように見えた。

 あまりの麗しさに本物の一国の姫君であるように思えた。

 

 純白のウェディングドレスを(まと)った平塚静──がそこにいたのだ。

 

 八幡はスタッフの指示通り、一歩ずつセンターステージに歩み寄る。それは当然平塚もそうで、一歩ずつ近づく度に、八幡の心臓の鼓動が早く、強くなっていった。

 たとえ、面前に下ろされたきめ細かい白のヴェール越しからだとしても、普段ですら油断すれば不意に見とれてしまう端麗な顔立ちが、いわゆるブライダルメイクによって盈盈(えいえい)としてより一層際立っていて、瞬きするのも惜しくなるほど目を奪われてしまう。

 そして、ふくよかな胸元が露になっていて、(あで)やかでありつつも、肩や腰回りは華奢なその身体は、見事にウエディングドレスに調和して、引き立てられている。

 まさしく、羞花閉月(しゅうかへいげつ)の美人とはこのことであった。

 

 そして、数歩歩いて、目の前に、立った。

 指示通り、二人は腕と腕を絡める。手を握る時とは違う感触が八幡に伝わる。スタッフの指示が無かったら、とんでもないことになっていたかもしれない。それほど美しかった。

 そして、スポットライトがあてられているステージの前方へと、揃えて足を踏み出した。

 

 そして五組がセンターステージに揃った。

 

「では、この五組で決勝を行うぜェ!! 気になる最初の種目は、五人のシンデレラ達による、『ガラスの靴を蹴っ飛ばせ!! シンデレラ靴飛ばし!』だァ!!」

 

 ルールは非常にシンプルだった。

 ガラスの靴に見立てたプラスチック製の靴を思いっきり遠くに飛ばすだけ。

 

 まもなく、それは始まった。

 ハンマー投げや、やり投げで使うような簡素なサークルの中に、ウエディングドレスの衣装は、異様でしかなかった。ただ、そのサークルにスポットライトは照らされ、周りには老若男女の観客に囲まれ、今そこは舞踏会のステージよりも華々しい場所なのである。

 

 

 

 

 ──そして、平塚はぶっちぎりの一位で帰ってきたのだ。

 

「……やっぱ、すげぇわ平塚」

「だろぉ! もっと褒めてくれてもいいんだぞ!!」

 

 ふふんと鼻にかける平塚は、結局プラスチックの靴を二○メートルも飛ばしたのだった。観客も花嫁姿の人が見せることはないであろう豪快なキックモーションに、言葉を失い、天高く放物線を描く靴は、一瞬夜の空に溶け込んで見失ってしまうほどだった。

 勿論八幡にとってはありがたいことこの上なかった。今回は、この靴飛ばしの結果によって、男子個人戦に影響があるとの事だったのだ。つまり、ここで一位を取ることは、他と比べてだいぶアドバンテージを稼げたことになる。

 

「あぁ、お陰で、何とかいけそうだ」

「私の頑張りの分まで頼んだぞ、比企谷っ!」

「うわっ、凄いプレッシャー……」

「二位だからな、絶対に二位だからな!」

「うげぇ……」

 

 胃がきりりと軋む音がして、八幡は苦い顔になる。

 すると、突然平塚はしげしげと八幡のタキシードを見つめ始めた。

 

「……なっ、なんだ、やっぱ似合ってないか?」

「いやぁ、そういう訳じゃなくてだな。こんな早く比企谷のタキシード姿を見ることになるとは思ってなくてなぁ」

「こんな早く? 俺は、一生着ることはないと思ってたが……」

 

 お返しにじろじろと見てやろうと一瞬八幡は考えたが、そのウェディングドレスを一度見れば、理性が蒸発してしまいそうな気がしてやめた。

 ふと耳元を見てみると、ある事に気がついた。

 

「というか、今更だが平塚はアクセサリーとか付けないのな、イアリングとか。見た感じ他のカップルの人はみんな付けてるっぽいが」

 

 他のカップルの彼女達は、それぞれ予選の時には身につけていなかったイアリングや、ティアラ、胸元にはペンダントを附けていた。ただ、平塚はそういう類のものは一切つけていなかった。それに、今日だけではなく、平塚と話すようになってから今までの間も彼女がアクセサリーをつけたことは無かったと記憶していたのだ。

 ただ、何気なく放ったその一言で、平塚の表情は明らかに曇った。

 

「…………いいんだ、私にそんな大層なものは。そういうのは彼女たちみたいな女の子らしい人の方が似合う。私みたいなのに女物は似合わないんだよ。正直、このウェディングドレスだって、私には全く似合ってないしな……」

 

 いつもは大層な自信家の平塚らしからぬ言葉は酷く自虐的に聞こえた。

 そして、彼女はどこか遠くを見ていた。

 何かを捉えているわけではなく、ただ遠くの暗闇を見ていた。その瞳は、吸い込まれてしまいそうな儚さだけでなく、(きら)びやかな月光を映さず、どんよりと(よど)んでいるようにも見られた。

 八幡も流石に平塚の変わり様に気付き、咄嗟に「いや、そんなことは……」と言葉を繕おうとしたが、平塚は「別に無理に気を使ってくれなくていい」とすげなく返された。

 

「私は可愛くなりたいとは思ってる訳ではないし、こっちの方が性に合ってるしな。……私は生まれつきお姫様にはなれないんだ」

 

 目を閉じて諦めたように言う平塚の言葉は、どこか嘆きにも憂いにも聞こえた。その言葉は一朝一夕のものではなかった。重たく固く、そして、深く深く根が張っている言葉だった。

 八幡は頭を回して何かを伝えようと、平塚が彼にいつも与えてくれているように何かを伝えようとしたが、下手な慰めでは意味が無いどころか却ってその綺麗な薄墨(うすずみ)色の瞳を余計に澱ませるような気がした。八幡は無力さと歯がゆさを感じ、唇を少し強く噛む。

 

「おまたせしましたァ!! ではァ!! まもなく、最強カップルが決まる最終競技を開催するゥゥ!! カップルといえば当然あれだァ! そう、『お姫様抱っこ』対決だァァァ!!!」

 

 そのアナウンスが流れると、それに呼び戻されたかのように平塚の面持ちは元に戻った。

 

「ごめん比企谷、こんなタイミングで、なんか変なことを言ってしまったな」

 

「君にだから言ってしまうのかもな」と平塚は笑う。まるで今のは内に秘めた醜い花だと自ら蔑むように。その笑顔はひどく不自然で、下手だった。

 

「……まぁ、忘れてくれ! よしっ、比企谷、最終決戦、頼んだぞ!」

 

 八幡はこくりと頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 ──まもなく五組のカップルがステージに出揃った。さんざめくスポットライトは全て彼らに向かって浴びせられている。

 カップルの前には、おもりが続々と運ばれてくる。

 ただ、八幡達の前には置かれなかった。

 

「先程の靴飛ばしの結果が反映されるぜェ!! 一メートルにつき二キロのおもりを背負ってもらうゥ!!」

 

 他のカップルの彼氏は、それぞれ腰や肩におもりを巻き付けた。背番号22──足柄に関しては、おそらく四○キロほどのおもりを付けている。

 そしてしゃがみこみウェディングドレス姿の彼女の腰と背中に腕を回す。

 八幡も、平塚に腕を回した。平塚の身体は想像したよりも遥かに華奢で、異性なのだと改めて認識させられる。平塚も、その細く(しな)やか腕を八幡の首周りに回した。

 そして、いよいよ始まる。

 

「ではァ! 最終決戦!! お姫様抱っこ対決開始だァ!! 泣いても笑ってもこれが最後ォ!! 会場の皆さん、カウントダウンをご唱和してくれェ! まずは三からだァ! 行くぞォ!! せぇの──!!」

 

「「三──っ!!」」

 

 

「「二──っ!!」」

 

 

「「一──っ!!」」

 

 

「すたぁぁとぉぉおおお!!!!!」

 

 五組が一斉に立ち上がる。

 大きな声援がそれぞれのカップルに向けられる。

 

 ──一分、二分と、時間が経っていく。

 すると、次第に脱落者が現れた。

 ドタンという音が鳴り、その振動は足元に僅かながらも伝わってきた。

 

「おおっと、ここで、寒川(さむかわ)ペアは脱落だァ!!!!」

 

 

 

 ──そして、気付くと残り三組になっていた。

 

 八幡もかなり満身創痍であった。だが、目標の二位になるまでは、絶対にこの腕を解くわけにはいかなかった。

 また一分と時が経つが、その時横にいるカップルが力尽きたように崩れ落ちた。

 

「くぅぅぅゥ!! ここで、大磯(おおいそ)二宮(にのみや)ペアの脱落だァァァ!! だが、三位!! 是非惜しみない拍手を!!」

 

 会場からは溢れんばかりの拍手と労いの言葉がかけられる。

 いよいよ残り二組。

 

「ねぇ、比企谷、もう」

 

 首に回されている平塚の腕が少し緩んだ。下ろせの合図だ。ここで、下ろせばあれほどまで望んでいた二等が確定なのだ。

 

 だが、下ろさなかった。

 なぜか今、ここで八幡は平塚を抱く腕を解き、下ろそうという気にはなれなかった。

 そして、その理由にはすぐ気がついた。

 

『このウェディングドレスだって、私には似合ってないしな……』

『……私は生まれつきお姫様にはなれないんだ』

 

 八幡は平塚に認めさせたかったのだ、気づいて欲しかったのだ。そして、観客に見せつけたかったのだ。平塚のウェディングドレスが最高に似合っていることを、女の子らしい可憐なこの姿が最高に似合っていることを。

 

 正直、どうして平塚がそう思うに至ったか八幡には全くわからなかった。それはきっと八幡が彼女と関わる前に深く深く根を張ったものだ。

 だから、八幡が全て解決しようなど、烏滸(おこ)がましいことこの上ないのかもしれない。でも見てしまったからには、知ってしまったからには八幡は、彼女が醜いと思っているその花は、醜くないと伝えたかった。そして、笑顔でそれを受け入れたかった。

 それは、まさに平塚が裏表のない笑顔で友達であることを教えてくれたように。

 

 口では照れくさくて素直に言えなくても、言葉では思いが上手く伝わらなくて曲解されるようなことがあっても、今の八幡には、たとえ一夜限りだとしても平塚を()()()にしてあげることができた。

 

 ──絶対に勝つ……

 

 そう固く心に決めて八幡はグイッとテグスに上から引っ張りあげられたように平塚をさらに持ち上げた。

 当然平塚は突飛な行動に困り顔になって、彼の純白のタキシードの襟元を何度か引っ張った。

 だが、八幡は頑なに下ろそうとはしなかった。その時は未だかつてないほど意固地だった。

 平塚もとうとう襟元を引っ張るのをやめ、腕をギュッと回し、より八幡の方へと身体を預けていた。

 

 足柄と八幡の一騎打ちになった。最強カップル誕生を目前に会場のボルテージはマックスになり、二人に向けての声援が送られた。

 平塚の身体を少しでも下げたら、そのままずるずると下ろしてしまいそうだから、グイグイと上へ上へと意識を向ける。

 

 だが、それから三○秒たってもまだ終わりのゴングは鳴らなかった。八幡もそろそろ腕が悲鳴をあげていて、足が膝の方からがくがくと震え始めていた。だが、今、直に感じている平塚のまろやかな体温が、まるで痛みを中和するかのように彼を奮い立たせていたのだった。

 

 さらに三○秒たった。しかし、まだ鳴らない。あまりのしぶとさに八幡は思わず相手の方を少し横目で見やると、全身おもりで巻かれているにも関わらず足柄は依然として悠然としていて余裕の表情であった。その上、足柄は抱えている松田と何か会話しているようにも見えた。

 その姿を見せつけられて、少しも動揺がないというのは八幡には無理だった。途端にぷつりと支えていたテグスが切れたように腕が下りてしまい、土台となっている大腿筋と支えている二の腕の筋肉が張り裂けそうな感覚に襲われた。

 

 ──俺にはそんなこと、さすがに無理か……

 

 そう諦めた、次の瞬間だった。

 足柄は突然腰を下ろして、松田を抱えている腕を解いたのだった。

 会場の人々はその意外な結末に、目を見張った。

 

「──お……、これはっ……!! 足柄・松田ペア、リタイア……。『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト』優勝はァ……、最年少カップル比企谷・平塚ペアだァァァァア!!!」

 

 ミスターナインティナインが背中を大きく反らし、高らかに叫ぶと、ステージの下の装置から大量の銀テープが月が照らす暗夜に向けて発射された。

 そして、空中をうねるように舞い始めた勝利の狼煙(のろし)ともとれるテープをその目に捉えた八幡はできる限りに丁寧に最後の力を振り絞って、平塚を下ろした。

 祭りの客で埋め尽くされた観客席からは、甲高い指笛が鳴る。そして今まで一番の拍手が二人に向けて送られていた。

 

 

 ──見事、優勝してしまったのだった。

 

 

 その後すぐに表彰式があった。

 村内会報に掲載する記事のためのインタビューがあり、ステージの上での記念撮影もあった。

 それらが一通り終わると、もうだいぶ夜も更けはじめていて、明日学校もあり、電車の時間もある二人は、祭りの出店を回ることはできず、そのまま帰らなければならなかった。

 八幡の行動は突飛なもので、二等を何よりも望んでいた平塚から糾弾されるのも至極当然なことではあった。

 だが彼女はそのようなことをしなかった。

 むしろ彼女は優勝したことを素直に喜んでくれているようにすら見えた。帰り道では大会の総括や賞品の使い道を二人で話し合ったりしただけで、結局八幡の真意を探られるようなことはなく、そのまま最寄り駅で別れることになった。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△▼△

 

 

 家に帰って、階段を一段飛ばして駆け上がり、部屋に戻ると、何よりもまず先に、記念品として手渡された紙袋の中から衣装に似たレース柄の白いリボンで丁寧に梱包された純白の包みを取り出して、机の上に置き、はやる気持ちを抑えて、慎重に開封していく。

 そして、純白の包み紙の中に入っていた純白の箱を、なるべく傷つけないように、そっと開けた。そこには裏っ返しの木製の写真立てが収められている。石橋を叩いて渡るようにそれを取り出し、脚の部分を広げて、机の上に立てかけた。

 そして、それを裏返す、つまり、写真が入っている方をこちらに向けた。

 

 そこには、ステージを背にタキシード姿の八幡と、純白のドレスに身を包んだ花嫁姿の平塚が写っていた。

 

 これは優勝した後に撮ってもらった二人の写真だ。

 ポラロイドカメラだから、すぐに現像して貰えたのである。また後日、フィルムで現像したものを郵送して貰えるという話だった。

 

 だが、にわか作りのポラロイドの写真だけでも、思わず頬がだらしなく緩む。緊張しすぎて表情筋がカチコチに固まっている八幡に関してはもはや滑稽であるが、隣にいる平塚がみせているとびきりの笑顔が、心をじんわりと暖かくさせた。

 やはり、平塚のウェディングドレスは最高に似合っていることがこの写真の中に確かに証明されている。それが嬉しくてたまらなかった。

 

 そして改めて実感する。本当に友達になることが出来たのだ、と。この写真は二人の確かな繋がりを示し、それが元来心配性の八幡には何より嬉しいものだったのだ。

 こんなに良い友達を持てるなぞ、高校二年に上がりたての一人ぼっちの自分に教えてもこれっぽっちも信じていないだろうと八幡は思わず笑ってしまう。

 

 

 ──だが、ふと、本当にふと考えてしまった。

 もし写真の中のこのタキシード姿の八幡が、見ず知らずの男にそっくりそのまま変わっていたら。そして同じように、平塚がこんな笑顔をしていたら───。

 

 その瞬間、どっと黒いものが濁流になって押し寄せた。

 

 黒いものは、積み上げられ心いっぱいに満たしていた多幸感をいとも容易く飲み込み、ただただ真っ黒に染め上げた。

 

 氷の厚い壁が溶けてしまったからこそ、入ってきた異物。

 咄嗟に八幡は、その写真立ての足を畳み、梱包されていた箱に強く()じ込む。そして、それを机の引き出しの中に仕舞うと、自分の身を布団に投げ、足と手をだらんと流して白い壁紙の天井を見つめた。しかし、その天井が真ん中からだんだん黒ずんでいくように見えた。

 

 そして、その天井の黒ずみから、ぬるると、人影が現れる。それは、背格好は八幡と似ていて、さらにタキシード姿であるのに顔は真っ黒に塗りつぶされていた。

 ただ、その人影が不敵な笑みを浮かべたのはなぜかわかった。そして八幡に向けて問いかけてきた。

 

「今が不満なのか?」

 

 

 ──不満はない。

 

 

「十分幸せじゃないか」

 

 

 ──確かにそうだ。

 

 

「なら別に()でもいいじゃないか」

 

 

 ──────────…………いやだ。

 

 

「……ふっ、お前は呆れるほど欲張りで、どうしようもなく醜いな」

 

 そう吐き捨てた人影は、天井の黒ずみに吸い込まれていく。

 気付けば、元の白い壁紙の天井に戻っていた。

 

 ──八幡はまだ自分を知らなかった。

 このようなひどく醜く傲慢な欲望が自分の中にあるなど思いもしなかった。

 まだこの欲望に、名前を付けられなかった。

 

 

 

 

 そして、酷く、自分自身が、嫌になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









拙文を読んでいただきありがとうございます。
そして更新が一週間遅れたことお詫び申し上げます。

今回の舞台の長生村の七夕祭りに関しては完全にフィクションですが、長生村はとても素晴らしい場所なので、ぜひ訪れて頂ければ幸いです。

前回に引き続きですが、たくさんのお気に入り登録とご感想ありがとうございます。作者の励みになりますので、叱咤激励の感想を是非一文したためていただけたらと思います。今後ともよろしくお願い致します。

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