「ふぁあ……」
改札に切符を放り込めばすぐに緑色のゲートが開く。そうして出てきた八幡はよろつきながらも、何とか近くの案内看板に寄りかかって、口をとびきり大きく開けて
ただでさえ
時刻は午前八時三○分を回ろうとしている。
暦の上ではちょうどこの日に秋が立ったようだが、テレビメディアの中ではただ今は夏真っ盛り。全国の強烈な暑さを毎日のように
この
湿った潮風に交えた塩っけは、泣きっ面に蜂だ。
そう、今は夏なのである。つまり高校生にしてみたら夏休み真っ只中なのだ。夏休み中の八幡が高校に足を向けるはずもなく、これは私用なのだった。
そして今、八幡は人を待っている。
集合の三○分前、世間一般からすると早すぎるのだろうが、教訓は教訓だ。
待っている間にも、続々と改札から人の大群が
その手すりの形は、いつもとは違った。キャラクターの形を
こんなところまで凝っている。サラリーマンの汗が染み込んだ現実味のあるの駅前との何の変哲もない手すりを見れば、世界が違うことが分かる。
あの改札は、まるで夢のような運命の国への最初のゲート。
現実の世界からの客はみな、案内板に描かれた竹を
元来リアリスティックでペシミスティックだと自負している比企谷八幡という男は、めったに寄り付こうとしない場所でもあった。単純に性に合わなかったのである。
決して、エンターテインメントが嫌いという訳でもなく、お一人様大歓迎の映画やゲームセンターには足繁く通っている。毎年恒例のアニメ映画シリーズは毎回欠かさず見に行っている程だ。
だが、そんな八幡も運命の国へと招待される運びになった。それは見事あの大会に優勝してしまったからだ。
今までの八幡であれば丁重に断っていただろうが、入園料がタダであるならば、乗り気ではないにしても、断ることもなかった。
ただそれ以上に八幡の中に芽生えた
そこから十五分経ち、さらに客足が増える中、改札の向こう側にこちらに向かって手を振る人が一人居た。
「比企谷ーっ!!」
八幡が手を振り返すと、その声の主──平塚静は小走りで近づいくる。彼女の私服は、あのスポーツウェアを除けば、初めて見たことになるが、少しダボッとした丸ネックのベージュ色の半袖に、少しダメージの入ったジーンズは、ボーイッシュに感じられた。
「おはよう、平塚」
「あぁ、おはよう。早いな比企谷、待たせてしまったか?」
「──そうだな、めっちゃ待ったわ」
「もう、そこは今来たところだろう? ……まぁ、君らしいといえば君らしいか。とにかく、予定より早く集合できたのだから、急いで並びにいくぞっ!」
「えっ、あ、あぁ」
平塚に急かされて予定より早く開園前のエントランス前広場に辿り着くと、思わぬ眼前の光景に八幡は愕然とした。こんな時候だというのに、広場の地面が見えなくなるほど人がみっちりびっちりと芋を洗ったように
「うげっ……、帰りたい……」
思わず本音を漏らしてしまった八幡を平塚は「バカタレ」と言って軽く頭をはたいた。
「まったく今からだと言うのに。そんなことを言ったら士気が下がってしまうではないか」
「でも、こんなクソ暑い中で、こんなクソ混んでるとこ見せられたら、そう思うのもしょうがねぇだろ。逆に平塚は思わねぇのか。しかもお前の嫌いなカップル様がうじゃうじゃといるぞ」
「くっ、ぬぅ……。確かにそうだが、それでも私は思わないな。そんなことよりも私はやっとこうしてこの場に来れたんだ……。あの時の雪辱を……」
平塚はやわっこそうな唇を血が滲んできそうなほど強く噛んで、チケットに大きな折れ目がつくほど手に力を入れていた。
突然地雷を踏んでしまいそうになったのである。これまた触らぬ神に祟りなしということで、八幡は何もその事には触れなかった。
もう暫くして開園時刻になり、ディスティニーランドの園門が開かれた。続々と人が園内へと流れ込んでいく。
その門の先には大きな円形の花壇があり、それを取り囲むように様々なキャラクターがお出迎えしている。
そして、その奥には、西洋風の建物がどっしりと構えていた。久方ぶりのその光景に、八幡も思わず目を奪われていた。
平塚も同じようで、「久しぶりだなぁ……」と心に染み入っているようであった。
しかし、それは僅かばかりの間だけであり、すぐに平塚は目の色を変えていた。
「よしっ、比企谷。早速だがファストパスのために走るぞっ!」
ファストパスというのは、持っていれば長蛇の列を大幅にショートカットして人気アトラクションに早く乗ることができる券のことであるが、当然枚数制限があり早い者勝ちであり、その券のために走るということは良くある事であった。しかし、八幡は乗り気にはなれない。
「え、でも、こんなクソ暑い日に……」
「うだうだ言うな。何時間も暑い中で待ちぼうけ食らうよりはよっぽどマシじゃないかっ!」
「まぁ、確かにそうかもしれないが、って、おい、待てっ……!」
結局八幡は平塚の後を追いかけるように園内を疾走することになった。
そして、無事一番人気アトラクションのファストパスを手に入れたのだった。
しかし、無事ではないのは我が身である。八幡は膝に手をつき、息を荒くしていた。
「ぜぇぜぇ、よし、これで、大丈夫だよな……」
「何を言ってるんだ。次は別のアトラクション乗るために普通に列に並ぶぞ。まだこの時間帯なら空いてるはずだから」
「嘘でしょ……」
「比企谷っ、走るぞっ、ほら早くっ!」
そして、またも全力疾走した。
息も上がって乾き始め、汗も滝のようにダラダラと流れる。とりあえず多めに持ってきたハンディータオルが早速役に立った。
八幡は額や首筋をそれで拭きながら、呼吸を整える。
一方、澄ました顔をしている平塚の無尽蔵っぷりに驚かされるものだった。七夕の時は体力はそこまで変わらないと思っていたが、どうしていまこのような差が生まれているのか八幡には分からなかった。
ディスティニーランドにまで来てここまで疲れる必要はないじゃないかと四の五の言ってやろうと八幡は思ったが、「なぁ、比企谷、楽しみだな!」と、そう飛び抜けて嬉しそうな顔で言われては、「あぁ」と相槌を返すだけで文句もすっこんでしまった。
──一つ目のアトラクション、目玉の一つである山岳地帯を駆け巡るジェットコースターを乗り終えた後、階段で下へと降りる途中にある店で立ち止まった。そこには遊園地でよく見られるような、ジェットコースターの途中に撮られた写真がずらりと並んでいるコーナーがあった。
「ほら、さっきの写真だ! 私たちは……」
「あれだな」
八幡は右から二番目の写真を指さす。
「お、あれか。どれどれ……、ぷふっ。私たち中々の写りっぷりだな」
「あぁ、平塚にいたっては髪が前にかかって貞子にしか見えねぇぞ。つーか何でそんなことになるんだよ」
「それを言うなら比企谷だって、目が死んでしまっているじゃないか」
「それは元々だ」
どちらからともなく堪えきれずに笑い声が漏れる。最近このようないじり合いも増えていた。だが、もちろん悪い気は一切しなかった。むしろ打ち解けられた証であるような気がして、心地よかった。
ただ写真に関しては、さすがに写りが悪すぎるので、購入しなかったのである。
──どうやら平塚は事前にある程度の計画を立てていたようで、その後も決まった時刻のファストパスを取るために、何度か全力で走った。他の客の視線などお構い無しで、とにかく走った。そして、コースの最後の最後で滝から落ちていくアトラクションなどの人気アトラクションを乗り倒した。ファストパスなしでは
「今回は走らなくていいのか」
「あぁ、休憩だな。私もさすがに疲れた」
最近できた話題のアトラクションを乗り終えた後、その近くの通りの一角にあったちょうど日陰にもなっている木製のベンチに腰を下ろした。
平塚の手には途中のお店で買ったチュロスと、肩にはドリンクホルダーを掛けられていた。八幡の片手にもチュロスはあるが、ドリンクホルダーは高かったので買い渋った。
二人の座るベンチの前を横切る客の顔を見ると、皆幸せそうな顔をしている。これは凄いことだと八幡は感心していた。これが千葉の街中で見られるとは到底思えない。
ただ他の客から見れば、八幡達も幸せそうな顔をしている客の一人なのであろう。
「どうだ、比企谷は楽しいか?」
「うぅん、どうだろうな。まぁ、楽しいんじゃねぇの」
「なんだその言い方は、まったく。私じゃなかったら怒ってるぞ」
「そもそも俺みたいなやつと一緒に来ようとする物好きなんて平塚ぐらいしかいないからな。お前が怒らないなら別にそれでもいいわ」
平塚は「ふふっ、確かにそうかもな、私だけかもな!」とやけに機嫌よく返してきた。
ここでしばらく休憩していると、平塚の目線が隣の売店に注がれていることに気付いた。そこには様々なキャラクターのカチューシャや被り物が売られていて、たくさんの人が立ち止まってそこで被せ合いっこをしている。
「なんだ、平塚、あれに興味あんのか?」
八幡がそう尋ねると、虚をつかれたようで、平塚は身体を仰け反って分かりやすく慌てた。
「えっ、い、いや、ただ目に入っただけだ! そもそも私にああいうのは……」
歯切れの悪い尻切れ
「ま、別に買ってもいいんじゃねぇの。いいじゃねぇか、今日一日ぐらいなら浮かれても。折角来たんだし」
「そうだよな。……うん、そうする!」
吹っ切れた平塚を見て、八幡がここで待ってるからと言おうとした矢先、彼女は「じゃあ、比企谷も買おう!」と提案してきた。
八幡は狛犬の
「は……? 何でそうなる」
「それは、だって、私だけつけてたら、一人だけ浮かれてるみたいじゃないか……」
「えぇ、別にいいだろ。そんなの誰も気にしないって」
「やだぁ、絶対にそう見られる!」
「いや、そんなの気にしねぇって、俺らも別にそんな人いても気づかなかっただろ」
「……お願い、一緒に買って?」
普段は切れ長で二重瞼の頼もしささえ感じる
「……分かった分かった。俺も買うから」
「本当か?! やった!」
そんな訳で駄々を
平塚は取っかえ引っ変えに八幡の頭に商品を付けていって品評会を始めていた。
「これなんか、どうだ。ぷふっ、あははっ……! これは一番傑作だ!」
「……お前、笑っちゃってんじゃん。何それ、そんな似合ってないの」
「今写真撮るから見てみろ! ……あははっ!」
平塚は携帯画面を覗き込むと、より一層大きな笑い声を上げた。確かに写真には、お世辞にも似合ってるとはいえない、というより最早
「次はどうしようかなぁ〜♪ んふふ〜♪」
上機嫌に鼻歌を歌いながら、平塚はベンチに座ってマップを見ている。
その頭には黒い丸耳にリボンがついた愛らしいパンさんのカチューシャがあった。
平塚は、何もついてないパンさんカチューシャとリボンつきのパンさんカチューシャで悩んでいたが、八幡がリボン付きの方が似合っていると言ったら、それからとびきり上機嫌になって、買った後もずっとこんな様子なのだ。
そして、八幡は、さんざん
「なぁ、平塚、次どこにするんだ?」
「私はパンさんのバンブーファイトに行きたいんだけど、比企谷はどう?」
「よし、そうするか。俺も気になってたし」
「やった! じゃあ、そうと決まれば!」
マップを畳んで平塚は立ち上がる。合わせて八幡も立ち上がった──。
△▼△▼△▼△▼
「バンブーファイト楽しかったなぁ、次は……。って、もうこんな時間か」
時刻は六時をとうに過ぎていた。いくら日が長いと言っても、そろそろ日没の時がさし迫っていて、
「確か夜のパレードは、十九時半からだから、次のアトラクション乗ったら見れなくなっちまうな」
「うむむ、これはしょうがないな。断腸の思いで、今は諦めるしかない……」
「じゃあ中途半端に時間も空いてるし、お土産買いに行けばいいんじゃね?」
「おぉ、それは名案だ!」
それからエントランスゲートの近くの売店が集まったエリアに行って、お土産物を選んでいた。
八幡に至っては、お土産を買う相手など小町ぐらいしかいなかった。一方平塚はお土産を贈る相手が、一人、二人ではないようで、棚と随分とにらめっこして決めていた。
「すまん、時間かけてしまったな。じゃあ、パレードに行くかっ!」
「ちょっとその前に、トイレ行っていいか?」
「あぁ、もちろん。私はここで待ってるからな」
少し離れた公衆便所へ向かった。そして用を足して、手を洗う。洗面台の鏡を見ると、写真で撮った猫のキャラクターのカチューシャ程ではないにしろ、お世辞にも似合ってるとは言えない被り物を付けた男がそこにはいた。
小町に見られたら最後、彼女の冷笑を買う光景がありありと目に浮かぶ。ただこれも今日一日限りだと言い聞かせて、鏡から目を離した。
公衆便所から出て、小走りで平塚のところへと戻る。
だが様子がおかしかった。平塚は確かにいたのだが、見ず知らずの男三人と話していた。
そして、そこで何が行われているか八幡に分からない訳では無かった。その男たちの顔ははっきりとは見えないが、
昔の八幡だったら、ここで萎縮して夏の虫でも怖がって火からは飛んで逃げていったかもしれない。
だが、今は違った。
八幡は迷うことなく駆け寄る。
「あの、やめてもらって──」
喉元に刃が突き付けられたように言葉が詰まった。
その男達の顔をはっきりと見ると、急に言葉が浮かばなくなったのだ。
代わりに、夏のせいではない冷や汗が額をつたあと流れ始めた。
「あ? ……って、あぁれ、比企谷じゃぁん?!」
一番身長の高い男はそう言って、八幡の顔を舌なめずりしながら
茶髪へと髪色は変わっているが、頬骨が少し浮いているその特徴的な顔を八幡は忘れていなかった。名前を
「マジ、ヒキタニくんじゃん! ウケるわ〜!! しかも、何そのパンさんの帽子!!」
細く鋭い目を開き珍しいものを見るように薄茶色に汚れた歯を見せて笑うのは金髪の男で、ゆこ
「それ似合ってないですから!! 残念っ!!」
「やめたれって〜、事実言っちゃうと、ヒキタニくん可哀想じゃん〜」
そして、手前にいる男はパーマがかった前髪をかきあげて鼻を興味もなさげに鳴らす。八幡に差し向ける目は酷く冷たかった。
その腫れぼったいほど厚い二重瞼で西洋人のように彫りが深く鼻筋が通った男が
「……まさかとは思うけど、君が言ってた連れって?」
平塚は厚木の問いに、「あぁ、そうだが」と間髪入れずに返す。すると、後ろの二人は腹を抑えて、ゲラゲラと
「おいおいマジかよ!! はっはっはっ!! ヒキタニくんとっ?! ムリムリムリムリ、腹痛てぇっしょ〜」
「比企谷お前、金でも払ってんのか?!」
「いやいや、タッつん馬鹿なの〜?! 金払っても、ヒキタニくんなんかとは絶対無理だって〜」
「それな! 確かに無理だわっ!」
酷く馬鹿にされているのは阿呆でも分かる。
だが、八幡は何も言い返せなかった。今でも耳に──鼓膜にこべりついてるその声は、呼吸を不規則に早くし、身体を小刻みに
「……君たちは比企谷のことを知っているようだが、一体どんな繋がりなんだ」
平塚が至極落ち着いた声で問いかけると、伊勢原は相変らずの癖の唾を含んで口を二度鳴らすことをしてから答えた。
「あぁ、盛り上がっちゃってごめん。俺らさ比企谷と同じ中学なんだよねぇ。なぁー、比企谷ー?」
八幡は頷くことすらできなかった。
逃げ出したいと思った。だができなかった。それほど八幡の足までも立つことがやっとのほど震えていたのだ。
「……比企谷と何があった?」
「やめてぇ、そんな怖い顔しないでー。折角の美人が台無しだよー」
「俺たち友達いないヒキタニくんと仲良くしてあげてたぐらいだし〜。ねぇ、アッちゃん?」
厚木は仏頂面のまま、「あぁ」と頷く。
「そうそう比企谷さぁ、高校では上手くやってんのかもしれないけど、中学の時色々凄かったからさぁー!!」
伊勢原が唾を含ませ、にちょにちょと音を立てながら楽しそうに言うと、綾瀬が思い出したように吹き出して続ける。
たった今、
「そうそう〜! まずは、初日になりふり構わず喋りかけてさ。大して喋れもしないのに場を回そうとして、みんなから嫌われてたよねぇ〜! だから、俺らがヒキタニくんと仲良くしてあげたって訳」
──やめてくれ
声は出なかった。その間にも愉快そうに、そして
「学級委員とかも立候補しちゃったり〜」
「メールとかもやばかったよなぁー!」
──やめてくれ
「あと、最っ高にヤバかったのは!」
「あの
──もう、やめてくれ……
「あの雨の日さ、『相合傘行けるんじゃね?』っていうアッちゃんが考えた冗談、真に受けてさぁ〜!」
「『傘持ってるので、一緒に帰りませんか?!』って、昇降口の前で。ぷはっ、今思い出しても傑作だったよなぁ!」
「『比企谷くん、メアド交換しただけじゃん。友達でもないのに』的なこと言われてたよな〜、ヒキタニくんまじ可哀想だったわ〜」
それを聞いて、「なるほど、そういうことだったのか。よく分かった」と平塚は何かを察した様子で言う。
「……まぁ、というわけだ。君が知らないだけで、比企谷はこういうやつなんだよ」
厚木は口角を少しだけ上げて笑った。これは、八幡を
厚木は一歩平塚へと近づき、手を差し伸ばす。
「だからさ、そんなやつより、君みたいな良い子は俺らと──」
言い切る前に、厚木は言葉にならない声を漏らして、
平塚が、
座り込むこともままならず、地べたに転がって苦しそうに唸っている厚木は当然この世界の中ではひどく異質なもので、周り客からの注目を一斉に浴びた。そんなみっともない厚木の姿を見せられた綾瀬と伊勢原は
「きっ、君、何やってんの、正気っ……?」
綾瀬が声を上ずらせながら平塚に問いかける。
「腹が立ったから殴っただけだ。なんだ、女に拳を振るわれるのは初めてか?」
「は、は──?」
気が動転して、二人は口元がまごついて、何も話せない様子だった。
「君たちは知らないだろうが、私は
綾瀬と伊勢原は何も返してこなかった。
「それと、ちゃんと比企谷に謝ってくれ」
「はっ、訳わかんねぇし、なんで俺らが──」
「──あやまれっ…………!!」
周りの野次馬も腰を抜かしてしまうほどの、腹の奥底から出たような威厳に満ちたけたたましい声。八幡も初めて聞いた声だった。そして、力が
「ひぃっ……、比企谷、俺らが悪かった。俺らが悪かったから、すまねぇ、許してくれ……」
「……では、もう特に話すことも無いな」
「あと、最後に」と平塚は付け足す。
「君たちよりも、ずっと比企谷の方がカッコイイし魅力的だ。じゃあ、さようなら」
平塚は、まだ震えている八幡の手を力強く、優しく包み込むように掴んだ。そして、野次馬に取り囲まれたこの場から引き剥がすように、八幡の手を引く。
「ほらっ、早く行くぞっ、比企谷っ。早くしないとパレードの良い席埋まっちゃうからな!」
「あ、あぁ……」
しばらく平塚に手を引かれていた。八幡はただそれに身を委ねるだけだった。
彼女は二○○メーターほど走ったところで歩調を変えた。そして、唐突に平塚は笑いだした。
「あはははっ! さっきの顔見たか、傑作だったな! 軽く殴ったぐらいであそこまでになるとは、比企谷はもっと凄いもの喰らっているというのに!」
「……」
「まぁ、中々の賭けでもあったな。もしやり返してきたら、さすがに無理だったろうし、私も気が大きくなったものだ……。きっと恨みも買われてるだろうから、もし次あいつらに出会ってしまった時は、今度は君が助けてくれよな!」
おそらく平塚は冗談を言っている。ただ、八幡は何も言えず、全く笑うことはできなかった。
そして一言、周りの
「……比企谷、気にしなくていいから、全然気にしなくていいからな。それに別に私はあんなことを聞いて君のことを嫌いになったりなんかしない。絶対にならないから」
「あぁ……」
八幡の不安を見透かしたように平塚は子供をあやすような優しい口調で
知られたくないないところを知られるのは、たとえ平塚といえども辛いものがあった。
しかし、八幡の醜いところを見ても、おそらく平塚ならば受け入れてくれるかもしれないと彼は期待していた。そして実際、今、受け入れると平塚は言ってくれているのだ。ただ、それでもなお八幡は辛く感じてしまうのだった。
今は知られたくないことを知られたことも勿論だが、ただそれ以上に、いつも平塚に手を引かれ、背姿を追うだけの自分自身が、惨めで情けなかったのだ。こんな分際で隣にいて欲しいなどと欲に
「ほら、もう少しでパレードも始まる。あっ、あそこらへんがいいんじゃないか?」
「あ、あぁ…………」
「じゃあ、行くぞ!!」
また平塚に強く手を引かれる。まるでこのままだと中に閉じ篭って、自責の念に駆られるだろう八幡を引きずり出すように。
園内の少し大きな通りの歩道で人混みを掻き分けて、そのうち見つけた少し空いたちょうど二人分の隙間。そこに身を寄せるようにして、二人は座った。
まもなく、アナウンスがかかり、エレクトロニカルな耳障りのいいメロディーが園内全体に流れ始めた。
観客も今か今かと待ちわびている頃、道の先の死角からのそっと
やがて、それは大きな帆を掲げて光り輝く巨船となった。
それはまさしく非日常。夢の世界とも思わせるような美しく幻想的な光景だった。
「うわぁ……、綺麗だなぁ……」
平塚は、うっとりとした様子で、それに魅入っている。
たしかに綺麗だった。
ただ八幡には、そんな
だが、綺麗すぎるが故に、隣に座っている八幡は自身の醜さがさらに炙り出されていくように感じた。
だから、パレードも、平塚の横顔も見ずに下を向いていた。
あの男達が言ったように、平塚にはもっと
だから、そんな痛みから解き放たれたい八幡の弱さが、彼の口を動かしていた。
「何で俺なんかと──」
少し顔を上げて放った小さな声は、すぐお祭り騒ぎのパレードだったら掻き消されていたはずだった。
しかし、偶然今は波が過ぎ、ちょうどさかりの谷間であり、平塚の耳元に微かに届いたようだった。
「ん、今なんて……?」
「何で俺なんかと友達でいられるんだ……?」
「……だーかーら、さっきのことは気にしなくてもいいんだぞ。むしろ君の弱点も知れてよかったなぁ。今度からからかいがいがある! 君があの時私に傘を渡してくれたのもそういう事だったのか、ふふっ」
「俺はっ──!」
顔を振り上げ、似つかわしくない張り上げ声を出す八幡の様子に、平塚も目を丸めていた。
「……俺は、平塚と違って、根暗で、空気読めなくて、欲にまみれてて、情けなくて、気持ち悪くて、そして平塚に迷惑かけてばっかで……、なんでそんな俺と……」
また下を向いた八幡は、張り詰めたような震えたような声で絞り出した。それに平塚は呆れたようにため息をつく。
「はぁ、全く君は。さっきも言ったが、私は良い人ではないんだ。苦手な人と一緒に二人っきりで過ごせなんて、まっぴらごめんだ。それに、私たち友達だろ? まさか、私がボランティアで友達してると思ってるのか、君は」
「でも、それぐらい俺は……。よく考えてみりゃ友達になる理由もねぇし……」
「──理由ならある!」
強く芯のある声で言い切った平塚はまた八幡に笑いかける。その声は、強く強く八幡の中で響いた。
「君と一緒にいると本当に楽しい、君と一緒にいたいって私が心の底から思うからなんだよ、比企谷」
何度も見た裏表のない、何の汚れもない、何よりも一等輝いている綺麗な笑顔で。
「ふふっ。そんな簡単な理由では、ダメか?」
その瞬間、胸の中に、強い風が吹いた。そしてそれが黒い
──こんな風は、桜の花がはらはらと舞っている春の日にも吹いていた。
それは、高校二年生の春学期が始まってすぐのことだった。
いつも通り八幡は昼休みにベストプレイスで誰にも邪魔されずのんびりしていた。
目の前の路地に薄べったく拡がり、淡いピンク色へと染めている
その光景をただ何も言わずに眺めているだけだ。校舎の隙間を吹き抜けていく風の音とが揺らされた木々の音が生みだす和音はどこか趣があった。
八幡にとって、自然物を見るのはとても好ましいことだった。それ以上に人が
八幡にとって、周りの物が偶然奏でる音を聞いていることがとても心地よいことだった。それ以上に、人の声を聞くことが嫌だったのだ。
だから、この場所を
そんな
「なんで話しかけてくるんだよ?」
頬に力がこもる。普段から疎まれる目もより一層の剣幕があった。これは侵略者への威嚇みたいなものと相違なかった。
「社会のはぐれ者への同情か? 出席番号で前後になったからって、情けをかけようとしてんのか? やめてくれ、俺は別に一人でも大丈夫な人間なんだ。逆に困るんだ。お前みたいなやつに近付かれると──」
次の瞬間、八幡は衝撃とともに腹が
その侵略者からみぞおち辺りに向かって、拳を放たれていたのだ。
段から転げ落ちて、
しばらくしてなんとか息を整えると、当然突然拳を振るってきた相手へと睨みつけた。
「い、いてぇじゃねぇか……。何すんだよ」
「──だって、話を聞いてくれそうにないから、
なぜか侵略者は得意気に、そして制服からも分かるほどの目立つ胸を大きく前に張っていた。
「ス、スクライド……」
「やっぱり、君は知ってるのか、スクライドを!」
「知ってるからなんなんだ」
「私の見込みが当たったということだ! やっぱり好きなんだな、スクライド。私も好きなんだ!」
「だから何なんだよ。話しかけてくる意味が分からん。あれか、新手の詐欺か。共通の話題で仲良くなってうっかり惚れさせた後に金を
「そんな訳ないだろう」と平塚はきっぱり言う。
「じゃあなんで──」
「君と趣味が合いそうだし、話してて楽しそう。つまり私が君と一緒にいると楽しそうだと思ったからだ! 」
思わず八幡が見とれてしまうほどの笑顔を侵略者──平塚静は見せつけた。
直ぐにいつもの癖でそれに隠された裏の顔を暴こうとしたが、その時は全く見つかりそうにはなかった。
「それでは、ダメか?」
「……俺の都合はどうなるんだよ」
「君の都合なんぞ知るわけなかろう! 私が君と話したいから、君と話す。ただそれだけだ」
そんな有無を言わさぬ暴君まがいの態度に、思わず八幡も苦笑にも似た笑みを
「もちろん君がどうしても、死ぬほど嫌だと言うなら、遠慮はするがな」
「まぁ、今のところ殴ってきたインパクトが強すぎて、印象最悪だけどな」
「はっ?! あわわわ、すまん、許してくれ。この通りだ」
「まぁ、いいわ。一応聞いておくが、死ぬほど嫌だから話しかけてくんなって言ったらどうすんだよ」
「その時は、殴る……?」
「ははっ、もう逃げられねぇじゃねぇか」
本当に無茶苦茶な話である。だが、妙に心地よかった。決して八幡がマゾヒストだからという訳ではない。ただ、八幡が最も嫌う彼に向けてと見せかけての我が身のための嘘が彼女からは一切見られなかったからかもしれない。
その時八幡の頬を叩いた風を──小さな小さな風穴を開けたあの強い風を未だに忘れてはいなかった。
──そう、平塚は出会った最初から言葉にしてくれていたのだった。
八幡のそばにいる理由を、その彼が知る限り最も澄んでいて、一等輝いている笑顔とともに。
そして、平塚のその言葉は嘘偽りない言葉だということを呆れるほど疑り深く、うざったくなるほど怖がりの八幡に対して、見限りもせず行動でいつも示していた。
「それにあいつらの知らない良いところを私はたくさん知ってる。自信を持ちたまえ。君は私から見たらとっても素敵な人だぞっ!」
「……ありがとう、平塚」
普段だったら顔から火が吹きでるほど照れくさく、お世辞だと切り捨てるかもしれない平塚の褒め言葉も、今はただただ身に沁みるほど嬉しかった。
どれだけこの一人の女の子に救われているのだろうと、男としての情けなさに八幡は笑ってしまう。
「……すまん、急に変なこと言い出しちまって。めんどくさいし、困るよな、こういうこと」
「いいんだいいんだ。それに、私、君の面倒くさいところも結構
八幡はぎょろっと目を見張った。
平塚にとっておそらく何気ない些細な一言は、彼には非常に大きく、簡単に心を揺さぶる。
当の平塚は、もうパレードの虜になっていて、今か今かと次の波を待っていた。そして、一際大きな車体が宴の曲の盛り上がりと共に、その姿をゆっくりと現していく。
とうとうパレードの山場が訪れようとしているのだ。
「比企谷っ、ほら、あそこっ!! パンさんが来たぞ、パンさんが!!」
「……本当だ、パンさんがいるな」
空言だった。八幡はパンさんを見ていなかった。
パンさんに釘付けになっている平塚の横顔を再び見ていたのだ。
興奮のせいか少し赤らんでいるようにも見えるその顔は、やはり絢爛豪華なパレードよりも輝いているように八幡の目には映った。今この場所にある何より、今まで見た中で一番美しいもののように見えた。
ただ、だからと言って自分自身に対する醜さは湧き出てこなかった。平塚はこんな自分といることが楽しいと、一緒にいたいと言ってくれるのだから。
その代わりに、拍動が少し早くなるのを感じた。
そして、一つ、また欲がふつふつと湧き出てきた。
──こうして
顔を上げて、パレードを見る。
目の前には、一際大きく、そして輝く乗り物に乗った竹を口に銜えたパンさんがいて、丸っこい肉球をこちらに向けて手を振っている。そして、微笑みかけてくれているような気がしたのだ。
それは、まるで、世界中でたった一人しかいないであろう人物と、
──眠りに落ちゆくように異世界の灯りは消えてゆく。
あれだけ賑わっていたのはまるで夢であったかのように、どこからか
役目を終えたエントランスゲートは客人を見送ると、段々と閉じてゆき、錠をかけてゆく。そんな哀愁がある門を背にして二人は駅の方へと向かって歩いていた。
結局、閉園時間の二十二時になるまで、アトラクションを貪り尽くすほど楽しんでいたことになる。
閉園時間までいても普通に帰れるという千葉市民である事の利点を余すことなく享受した。
「楽しかったなぁー。比企谷はどうだ?」
頭からはすっかりカチューシャが取れた平塚は腰を前に曲げて、下から八幡の顔を覗き込むような格好で尋ねてくる。
「楽しかったな」
「おぉ、珍しく素直じゃないか」
八幡の口元は少し
そして、たった今浮かんできた言葉も、今日以前の八幡であれば常駐していた喉元の番人が胃袋の方へとすげなく突き返して、溶かしてしまって無かったことにしていただろうが、その番人とやらも八幡の中からお役目を終えて、姿を消した。
だから、その言葉が、八幡の口から紡がれた。
「──あぁ、平塚と二人で来れて良かったわ。本当に良かった」
「ふぅん。そうか、って──」
一瞬驚きで目をかっと開いて八幡の方を見た平塚は、目が合うとすぐに八幡にも分かるほどぼっと顔を赤く染めた。そして、顔を隠すように手をあたふたさせる。
「なっ、なっ、なっ、何を言うんだ君はっ?!」
「いつものお返しだ。言うなれば、ちょっとした
八幡のかましたカウンターパンチはささやかながらも平塚に効果
その様子を見て、可愛らしさとおかしさが同時に込み上げてくる。
「ははっ、平塚は人にはそういうこと言えるくせに、言われるのには慣れてねぇのか」
「う、うるさいっ! ばかっ、なぐるぞっ!」
「流石に、勘弁だ……」
そこからは照れているのかはたまた機嫌を損ねたのか、顔を逸らした平塚はうんともすんとも言わなくなった。
やっと口を開いたのは駅のホームで帰りの列車を待っていた時で、平塚は突然何かを思い出したようで「あっ、そうだった」と声を上げる。
「比企谷、手を開いてくれ」
「あ、あぁ、分かった」
不思議に思いながらも八幡が言わたれた通りに、手を開くと、平塚はたくさんのお土産の入った袋を漁り始め、何かを手に取ると、その手に取ったものを八幡の開いた手の上に置いた。
そこには、お土産屋さんに並んでいたパンさんのストラップがちょこんとあった。パンさんが腕に抱えている宝石の型をした添え物がきらりと輝いている。
「これ、パンさんのストラップ……。なんで俺に?」
「せっかく今日来たんだ、記念にな。それと一、二時間程早いが、誕生日プレゼントも兼ねてだ」
「ま、まじで……?」
八幡は目を白黒させながら、その愛らしいストラップをまじまじと見る。
今日の日付けは立秋の八月七日。明日の八月八日は、確かに八幡の誕生日であるのだ。
「あぁ、大マジだ! 正直、コンテストで貰った商品券も親に渡してしまったし、最近財布の中身がひもじいから、このぐらいの物しか買えなかったが、その、どうだろうか……?」
少し不安げに八幡の様子を
「──嬉しい。すげぇ、嬉しい」
「そ、そうか! なら、良かった……。君が喜んでくれればそれが一番だからな」
すると、平塚は再びお土産の入ったビニール袋を漁り出して、彩色だけが微妙に違うストラップを取り出したのだ。
「そして、これは私の分」
「え、ペアってこと?」
「べっ、別にいいじゃないか。これが二人でディスティニーで行った思い出の証に、な……?」
「あ、あぁ、お前がいいなら、別に何も問題はねぇわ」
改めて八幡は手にしたパンさんのストラップを見た。
これは正真正銘、平塚が八幡のために、八幡の誕生日を祝って買ってくれたものだった。その嘘偽りない事実にまた彼の胸が熱くなる。
「……本当にありがとな、平塚。でも俺の誕生日をどこで……」
「あぁ、それはな、秘密の集まりがあってだな。生徒会っていうんだが」
「……なるほど、ただの職権乱用じゃねーか」
「まぁ、そういうことだ。でも、ちっちゃいことは気にするな、ってやつだ」
ワカチコワカチコという変てこな言葉を急に口にした平塚に八幡は困惑して、眉根に寄せた。しらけた空気を察したのか一度咳払いをした後、「これも言わなければ」と続けて話した。
「お返しとかいいからな、別に。私の誕生日なんて気にするんじゃないぞ」
「なんでだよ」
「誕生日は年が増えるだけだ、これっぽっちもめでたくない。むしろ来ないで欲しい。減っていくのなら喜べるんだがな……」
その憂いはやけに感情のこもっているものに聞こえた。
「それ、もう二回りぐらい上の人の発言じゃねーの」
「そんなこと言ってたら、絶対いつか後悔するぞ」
「そういうもんなのか?」
「あぁ、そういうものだ!」
「……そうなのか」
八幡が、勢いに負かされて口を閉じる。
そして、おかしくて二人して笑った。周りにいくらか人がいることも忘れて、かなり大きな声で笑っていた。
そんな二人の横に、重く鈍い警笛を鳴らして、二本の赤いストライプが入った長い電車が入線してきた。
時間ももう夜が更け始めている。通勤客のラッシュもとうに過ぎていて、車内は疎らに席が空いているほどだった。
二人はパレードの時よりかはいくらか楽に、空いてる座席を見つけ、そこに座った。
肩が触れそうなほど近い距離。
ちらりと横目で見れば、長い
ほんの少し前であったら、『パーソナルスペース』だとかいう流行りの言葉を使って、八幡は逃げるように離れていた。
ただ、今はそんな事は微塵も思わなかった。むしろ、もっと近づいて欲しいとまでさえ思ってしまっている。さすがに身体をくっつけるほど身を寄せることは勇気もないし、気恥しさが勝ってできないのであったが。
そんな八幡が故に、らしくない、本当にらしくない考えが頭を過ぎる。ただ、それをバグとして免疫が
でも悪い気はさらさら無かった。それは変革を恐れ動くことを止めた
この考えは賭けみたいなものであった。だが、だからこそ八幡はなけなしの勇気を振り絞ってそれをその女の子ににぶつけてみるのだ。
「なぁ、平塚、急な話なんだが」
「ん、どうした……?」
鼓動は早くなる。なるたけ落ち着かせるように、一息整える。
「──九月に一緒に映画見に行かないか? 特撮の映画見に行こうかなと思ってて」
「あぁ、そういうことか。……って、えっ?!」
その誘いに、声をひっくり返して、平塚は八幡の顔を凝視する。車内でそんな声を出したものだから、少ない乗客の注目がこちらに集まり、平塚は慌てて口を両手で塞いだ。
「い、いや、無理そうなら全然断ってくれても良いんだが……」
「うぅん、行く。私も一緒に見に行きたいっ!」
「ホ、ホントか……?」
「うんっ!」
八幡の目に映る平塚の顔は口角を上げた嬉しそうな顔だった。もうその顔の裏に隠された真実を探そうなどという野暮で
ただこの目に映されたその顔が、胸を熱くさせ、気を抜けば顔が不細工に緩んでしまいそうなほど八幡にとってこの上なく嬉しいものであったのだ。そしてあわよくば、彼と一緒に行くことがその顔を見せるほんの一因でもあったのならば、と願うばかりであった。
しかし突然「あっ、でも……」と、平塚は打って変わって声をすぼめた。
「私、これから文化祭準備もあるし、生徒会でイベントを開催するからとても忙しいんだ……」
「じゃあ、俺が合わせりゃいいだけだろ。スケジュール的なの決まったら暇な日教えてくれ、俺はおそらく、いや絶対、いや一二○パーセント合わせられるから」
「うん、そうだな、ありがとう。でも、中々暇な時間は作れないと思うんだ……」
「そうか……」
「まぁ、早く切り詰めたら余裕はできるかもしれないんだが、どうしても人手がな……」
そんな時、八幡の中に一つの案が浮かんだ。
これもまた、今までの彼なら絶対に浮かばなかった一つの案が。
「──じゃあ、俺が手伝えばいいんじゃねぇの。自分で言うのもなんだが結構デキる方だとは思うぞ」
その提案に、また平塚は
「いや、別に君に催促したい訳じゃないんだ。これは私の仕事だし、そもそも君のポリシーは面倒なことはしない主義だろ?」
「まぁ、確かにそうなんだけど、今は俺が手伝いたいんだよ。……なんでだろうな。自分でも良く分からん。まぁ、早く行くのに越したことはないっていうのもあるんだろうけど、でも、多分一番の理由は
予想外の追撃に平塚は、また顔を赤く染めた。
「────っ……! なっ、なんなんだ、今日の君は、本当に。そんなこと言って私をからかってるのか?!」
「本当のことだから仕方ねぇだろ。っていうか、これまたお前がよくっつーか、今日も言ってくれてた事じゃねぇか」
「そ、そうだけど、言うのと言われるのは違うというか……」
「俺の気持ち分かったか? お前はいっつも俺の事こういう気持ちにさせてんだよ」
「……う、うん。分かった」
平塚は顔を染めたままこくりと頷く。その後は、一日中遊び倒した疲れのせいか、それとも二人に押し寄せた羞恥心の波のせいか特に二人は会話せず、ただ揺られるがままに、時折肩に触れながらも、夢から持ち込んだ甘い残り香を味わっていた。
夜もすがら明るい市街地の狭間を駆け抜ける赤ベルトの電車は、ガタンゴトンと小気味よい音を奏でながら、まもなく八幡の住む町の最寄り駅へと近づいていた。
平塚はちょうど一つ先の駅であるため、ここで別れることになる。
そして、ゆっくりと減速するとともに、八幡にとっては見慣れた相対式のホームが彼らを出迎える。
「というわけだ平塚、仕事必要ならいつでも呼んでくれ」
「本当にいつでも頼るから覚悟しておくんだぞ、比企谷っ!」
「ははっ、まぁ、程々にな」
八幡は苦笑いでそう言い残すと、一歩、ホームへと踏み出した。
後ろを振り返ると、平塚は扉の前で立って見送ってくれていた。
「またな、比企谷」
「あぁ、じゃあな、平塚」
八幡が言い終えた丁度その時、赤いランプが点滅する。それとともに二人の目の前に本日の話を締め
電車はまたゆっくりとその丸い足を回し始める。
閉まった扉の向こうから手を振る平塚に向かって、二、三回ほど左右に振り返す。そしてすぐに電車はまるで平塚を連れ去るようにあっという間にホームを去っていった。
それが遠く遠く点になって消えゆくまで見送った。同時に電車の後を追う強い風が、運命の国から八幡を引きづり戻すように吹き付け、夢の残り香を吹き飛ばす。
確かにもう夢想からは完全に醒めた。
しかし心の中には暖かな余韻がまだ残っていた。
その余韻をホームの黄色い点字ブロックの手前で長らく味わっていた。
その時ズボン越しに感じるバイブレーション。そしてもはや聞き慣れた『you got a mail!!』の音。
ゆっくり二つ折りの携帯を開いてみると、一通の写メールが届いていた。
それは、閉館間際にパンさんと一緒に撮ってもらった二人の写真だった。平塚の笑顔は相変わらずとびきり眩しかったが、八幡も緊張で凝り固まった七夕祭りの時とは違って及第点の表情を見せられているように感じた。
そして、『今日はとても楽しかったです』と短いながらも全てが詰まっている一文が添えられていた。
保存のボタンをクリックし、同じく一文短いメールを返信した後、携帯を閉じる。
やっとホームから立ち去ると、既に誰もいない駅の階段を一段ずつ、物思いに
七夕の夜に写真を見てから湧き出た欲望。いやそれは姿を現さないだけで元からあったのかもしれない。
とかく八幡はその欲望に名前をつけることが出来ず、醜いものだと決めつけ苦心した。
しかし、思い返してみれば、その欲望の名前は今までの読み物の中や映像媒体の作品の中にも必ずと言っていいほど表現されていた。
ただ、その欲望を今まで感じたことがなかったから本当の意味が分からなかっただけだった。
中学の
そして、次第に
ただ結局は、
今日、その醜い欲望は、平塚の隣にいるだけで満たされた。ただ、隣にいるだけでひたすら嬉しくて楽しくて幸せだった。
そして同時に、この先もずっと隣にいて欲しいとさらに願った。もっとその綺麗な笑顔を見せて欲しいと思った。
欲望はより大きく膨れ上がったのだ。きっと平塚といる限り、この欲望は際限なく膨張していくのだろう。
そして今日、この欲望と感情こそが、ありとあらゆる世の人々が
どうやら、この欲望の名前は──、
「……俺、平塚のことが好きなんだな」
▼△▼△▼△
「ふわぁ……」
眠気の
街灯が照らす街並みには見慣れた看板、見慣れた表札、見慣れた全てのものがぼやけた瞳に映る。これらは閉じこもっていた八幡の全てであり、箱庭の中で暮らしていたようなものだった。しかし、今はこれが世界のほんの一部でしか無いことに気づき始めている。
そして、この見慣れた白色の外壁も、この見慣れた玄関も。
鍵穴に差し込んで、扉を開ける。
「ただいま」
反響もしないような小さな声で言った。すると、廊下の奥の部屋──リビングの扉が勢いよく開いたかと思えば、そこから飛び出すように妹の小町が出てきて、大層な悪人面を隠しきれないまま駆け寄ってきた。
「おかえりっ! 今日は楽しかった?!」
「あぁ、まぁな」
小町は今日平塚と二人でディスティニーランドに行ったことを知っていたのである。この腹立たしいニヤケ顔もそのせいであった。
七夕の時は気付かれなかったが、今回はこの娘の目を欺くことはできなかったのだ。普段は夏休みで絶賛引きこもり御礼室内冷房の生活をしている男が、急に朝早く、そして彼の中ではまともな格好をして出かける瞬間を見たらば、小町が違和感を感じないはずがなかったのである。
そして八幡としてもいち早く出たかったものだから、だる絡みをされる前に直ぐに事情を伝えたわけである。
「それと、ほらこれ土産だ」
「わぁ〜、ありがと〜♪ って、うげっ……」
小町に渡したのは、ディスティニーのキャラクター柄のシャープペンシルセットだった。しかし、小町は露骨に苦虫を噛み潰したような顔を見せる。
「あれ、嬉しくないのか?」
「いや、嬉しいけどさ。小町受験生なんだぁって、現実に引き戻されちゃった」
「そのためのお土産だからな。勉強しろっていう、兄からの金言だ」
「言われなくても、するもん! ふんっ! お兄ちゃんなんか嫌いっ!」
「冗談だ、小町。まぁ、あとこれもあるから」
「わぁ〜、ありがとっ! 小町嬉しいっ! 大切に使うねっ! お兄ちゃん、大好きっ!」
「ははっ、相変わらず現金なやつだな、小町は。じゃあ、もう疲れたし俺部屋に行くから」
「今日は寝かせないよ〜、静さんとのディスティニーデートの中身たっぷり聞かせてもらうんだから!」
「……はぁ、めんどくせぇ、それにデートじゃねぇって。平塚がたまたま当たったペアカップルチケットで誘う奴いなかったから、俺に来ただけで」
さすがにカップルコンテスト云々の話を切り出すと面倒になるのは分かっていたので、この部分は口からのでまかせを伝えていた。
「だとしても、そもそもお兄ちゃんに白羽の矢が立つこと自体が凄いんだよ! 日本ドラフト会議でこれっぽっちも注目されなかった選手が、メジャーリーグの超有名チームにスカウトされる的な!」
「俺に対する評価低くない? と、突っ込みたいところだが、確かにその通りだな。平塚超人気者だし」
妙に納得して、感心してしまった。それほど普通に考えれば交わることはないような二人なのである。改めて同じ学校で、同じクラスになって、出席番号が前後になって、そして同じ趣味があった偶然に感謝してもしきれない。そんな奇跡を噛み締めて、訪れた感傷に浸りかけている八幡のことなど知ったこっちゃない小町は待ちきれない様子で急かしてきた。
八幡は一旦荷物を自室に置いて、リビングに戻ると、椅子に座った小町が机を叩いて、ここに座れとジェスチャーしてきた。そして小町に尋問されるような形で今日起こったことを話した。同じ中学の
「──まぁ、こんな所だな」
「いいなぁ、すっごい満喫してるじゃん!」
「あぁ、楽しかったな。久しぶりだったが、こんなに楽しいもんだとは思わなかったな」
「小町も終わったら絶対に行こっ! あっ、そうだ。お兄ちゃんさ、貰ったの?」
「何を?」
「何って、誕生日プレゼントに決まってるじゃん! まぁ、さすがに、いくら静さんでもそれはないか。お兄ちゃんの誕生日なんて覚えてるの小町ぐらいだしっ! 可哀想だから、私が静さんの分まで精一杯祝ってあげる! あっ、今の小町的にっ──」
「いや、一応貰ったぞ。これ」
小町の憎たらしい決め
小町は吊るされてゆらゆら揺れているパンさんのストラップを呆気に取られた様子で見ている。
「……え、本当に貰ったの?」
「わざわざそんな寂しい嘘つくわけないだろ。本当に平塚から貰ったんだ」
「そうなんだ。へぇ……、ぐすっ……、よ"かったね"ぇ、おに"い"ち"ゃん……」
「……泣き真似すんな。でもまぁ、嬉しいわな。家族以外からまともに祝ってもらうなんて初めてだし」
改めてそのパンさんのストラップを見つめて、小町の前で顔がだらしなく緩んでしまいそうになると、小町が聞き取れないほどの小声でぽしょりと何か呟いた。
「……ん? どうした小町」
「ううん、何でもない。その誕生日プレゼント大切にしなきゃダメだよ? 落としたりしたら最悪だからね」
「言われなくても分かってる。それと、小町、ちょっと相談事があるんだが」
「しょうがないなぁ」と呆れるように言いつつも、小町はどこか嬉しそうに唇の端を吊り上げて、可愛らしい八重歯を覗かせていた。
「で、相談って、どんなこと?」
「えっとな──」
こうして比企谷兄妹の
拙文を読んでいただきありがとうございます。
お楽しみに待っていただいている中、何週間も遅れてしまい申し訳ありません。次回はなるべく早く投稿します。
暖かい感想、沢山のお気に入り登録、高評価ありがとうございます。これからも応援のほどよろしくお願いいたします。