ブーケトスの魔法   作:Pond e Ring

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七束: for This Day

 

 

 

 公園に敷き詰められるように植えられた柑子(こうじ)色の花を何輪も咲かせている金木犀(きんもくせい)の香りが(ほの)かに漂い、沿道に凛と健気(けなげ)に咲く秋桜(コスモス)が、近々訪れる夜長を伝えている。あれだけ青々と茂っていた緑は、まだ(まだら)模様ではあるが、赤い襦袢(じゅばん)に袖を通し始めていて、しんしんと冷える夜を迎える様相であった。

 そんな草花には朝露が付いて、まだ浅い陽の光に照らされて、その露が宝石のように白く輝き、やがて葉の先から、(なみだ)を流すように落ちていって、斑な薄赤の葉を(かす)かに揺らす。

 そんな季節の移ろいを当たり前の暮らしの中で密かに告げる景色が、自転車を()ぐ彼の横目には映っていた。

 

 

 

 ──駅前のロータリーに隣接している広場の中央には、ぽつんと大きい野球のボールと木製バッドのオブジェがあって、その脇には千葉ロッテマリーンズのマスコットキャラクターが建てられている。この周辺には千葉ロッテマリーンズの本拠地の千葉マリンスタジアムがあって、ここは俗に幕張新都心とも呼ばれる海浜幕張駅の目の前の広場であった。新都心というだけあって、周りは見るからにまだ月日が浅い建物が林立していて、通りには無駄なものがなく理路整然としている。

 

 休日ということもあって興業が盛んなこの街は若者中心に、大勢の人が行き交っている。

 そしてこのオブジェの前にもまだ来ぬ人を待っているであろう人々が、手持ち無沙汰な様子で携帯電話を(いじ)り倒しているのが見受けられた。

 

 その中に、着慣れない七分袖の鼠色を基調としたカーディガンを羽織って、特に顔を強ばらせて、どこか落ち着きの無い様子でやけに開かれてくすんだ瞳孔(どうこう)を右往左往させる一人の男が立っていた。それもそのはずで、本日は初めてこの男──比企谷八幡が、想い人──平塚静を誘ってのお出かけであったのだ。

 平塚と運命の国──ディスティニーランドに行った帰り道に今日この日の約束を取り決めてから、おおよそ一ヶ月と少しが経っていた。その間も八幡は、夏休み中は平塚の文化祭準備の手伝いを積極的に行い、二学期が始まってからは、昼休みや放課後問わずに、暇さえあれば手を貸していた。そんな積み重ねが実って、丸一日の休暇となった本日に映画を見ることが決まったのだった。

 平塚とは常々会っていたし、良く会話をしていたものの、いざ今日という日を迎えると、この緊張感たるや計り知れないものであった。この緊張は前日からのもので、身分は高校生だと言うのに、まるで遠足前の小学生のように夜も寝付けずじまいで、目立たないにしても少しの(くま)が目の下に浮かんでいた。

 例に漏れず八幡も待っている間は手持ち無沙汰であったから高校の入学祝いで貰ったが滅多に付けないが、今日この日に限って付けてきたメタルバンドのアナログの腕時計を先程から、携帯に代わって何度も繰り返し見ていた。短針の動きがあまりに(のろ)まで焦れったいと感じるほど、それを見ていた。

 今見ると、その時刻が指すのは、およそ集合時刻五分前であった。

 いつもなら必ず十五分前には来て、確認の連絡まで寄越すはずの平塚が、遅れていることには一抹の不安が頭を過る。ただその不安も杞憂(きゆう)だったようだ。

 

 布越しに感じる振動。急いでポケットから取り出して、二つ折りのそれを開く。穏やかな浜風に揺られてからりころりと手の甲に点を打つように撫でる一本の竹を(くわ)えたパンさんのキーホルダー、そしてその紐が伸びた先の携帯電話の画面には、『少し遅れます。ごめんなさい』という文字列が並んでいた。

 

 そこから五分ほど、ちょうど集合時刻になって、駅の方から小走りでこちらに向かってくる。

 その姿は、一ヶ月程前にも見たような光景と似ていてオーバーラップしていた。しかし、違和感があるように見えるのは、ディスティニーの時と較べて、どこかぎこちなくてたどたどしいせいであった。近づくにつれてコツコツという地面を叩くような音が目立って聞こえてくるのも余計にたどたどしさを引き立たせていた。

 

「ごめん、比企谷、遅れてしまった、……って、うわぁっ!」

「ちょっ、あぶなっ……!」

 

 平塚は平坦なタイルで(つまず)くと、空足(からあし)を踏んでそのまま前へと八幡の体の方に倒れ込んでしまった。

 八幡は咄嗟(とっさ)に平塚の両肩を手で抑え、彼女も彼の胸板に寄りかかる形になった。華奢(きゃしゃ)ゆえに細く感じる骨と、柔らかくて生温(なまぬる)い肌の織り交ざった感触が八幡の手に直に伝わった。そして、その瞬間、ラベンダーの芳香に近しい甘く、心地よい匂いが鼻腔(びくう)(くすぐ)り、身体の内へと指の先まで染み込んでいく気がした。

 ただ、理性が、平塚の心配へと(かじ)を切った。

 

「お、おい、大丈夫か……。足とか挫いてねぇか?」

「うっ、うん、大丈夫だ……」

 

 平塚が顔を上げた。小刻みな吐息が八幡の鼻先に感じられる程、平塚の顔は近かった。透き通るほどの肌理(きめ)細かい血色の良い肌に、その魅力を引き立てる眉毛は、まさしく美しさの象徴だった。端から綺麗に揃えられた長く細い睫毛(まつげ)に、薄化粧があしらわれているのだろうか、その普段よりも際立つ陰翳(いんえい)はものの見事であり、ほんのりと色付く(つや)のある魅惑的な切れ長の目元に掴んで離さないように見つめられては、目を離すことができなかった。まさしく八幡は見蕩(みと)れてしまっていた。

 

「──あっ、ごっ、ごめんっ」

 

 状況に気付いた平塚が手を離して、一歩分後退(あとずさ)りする。そしてあっという間に彼女の首筋まで紅く染まるのを見て、鏡写しのように八幡も顔が尋常ではなく熱くなるのを感じた。

 

「いっ、いや、大丈夫だ。ヒール履いてきてんだろ? それだったらしょうがねぇって」

「う、うん……」

 

 少しの静寂(しじま)が訪れた。それでは良くないと、頭を巡らして、何とか八幡は話題を探した。そうして見つけた一つを、彼は切り出した。

 

「……その、なんだ。平塚、何かいつもと雰囲気が違うな」

 

 その理由は火を見るより明らかで、平塚の服装にあった。研磨された大理石に見られるような滑らかな乳白色に近い肌が肩から鎖骨にかけて透けるようになっている純白の花柄レースのシースルーブラウスに、白玉のドット柄の紺色のロングスカートを合わせたコンビニの雑誌コーナーのファッション誌の表紙で見かけるような、いかにも女の子らしい服装であったのだ。そして、滝のように流し落とされ、新調したばかりの黒鍵のような色をした髪も、ふわりと波打っていて、毛先にいくにしたがってくるりと巻かれていた。

 

「……じ、自分でもこういうの似合わないことは分かってるんだ! 今日はたまたまこういう服しか無かったから、しょうがなくてだな。それと髪は……」

 

 八幡に指摘された平塚は、そう自らを卑下して、両腕でその白のブラウスを自信なさげに隠すようにした。しかし、八幡は平塚の服装を見て、彼女が思っているようなことは一切感じなかった。むしろ、その真逆であった。

 

「──いや、似合ってると思う。服装も髪型もすごく似合ってると思う」

「え……?」

「似合いすぎててこっちが困るっていうか、めちゃくちゃ、その、えっと、可愛いっていうか、だから……、えぇと……」

 

 本当に似合っていたのだ。八幡も驚くほどに似合っていたのだ。そして、驚く程に可愛らしかったのだ。しかし、普段褒め慣れていないのが(たた)って、どうにも上手く形容できず、思うように口が回らなくなり、自分が何を言ってるかわからなくなっていった。次第に照れくさくなってしまって口を閉じて、結局誤魔化すように癖の頬を人差し指で二、三度掻くことをしてしまった。

 しかし、平塚は泡を食ったような顔でこちらを見つめている。

 

「ひっ、ひきがやっ……?!」

「え……、どうした……?」

「か、可愛いって……、今……」

 

 俯いた平塚の裏声まじりの小さな声を聞いて、八幡は思いついた単語をそのまま口に出してしまっていたことに気が付いた。火を噴くほど恥ずかしいうえに、そう言う文言に抵抗のある平塚にそのようなことを口走ってしまったのは迂闊(うかつ)であることこの上ない。綸言(りんげん)汗の如しである。

 

「いやっ、今のは違うんだ! ……いやいや実際似合ってるし可愛いのも嘘じゃねぇんだが。ん……? 待て待て待て、だからとにかく……」

 

 必死に辯解(べんかい)しようとする度に自供していく容疑者の如く八幡はどんどんと墓穴を掘っていく。

 しかし、(かえ)ってそれが信頼に足りえたようだった。八幡が一人喜劇をしている途中で、聞いたこともない鈴を転がすような声で、「えへへ……、そうか、そうか、良かった……」と呟いた。

 

「……比企谷も、その服似合ってるな」

 

 続けざまにちょこんとだけ顔を上げて、すっかり上気した頬を覗かせての上目遣いのその言葉。

 そんな一言に、八幡はたまらなくなって胸をざわつかせてしまう。

 

「……ま、まぁ、小町に身嗜(みだしな)みは最低限気をつけろって言われてな。色々アドバイスしてもらったっつーか」

「だから似合ってるんだな。その、凄くかっこいいと思う、ぞ……」

「ありがとう、嬉しいわ……」

 

 まだ集合して間もないというのに、心臓の鼓動が愛らしさで加速していった。つい先日恋心に気づいた男にとっては、この一幕は恋情が込み上げて(こぼ)れてしまいそうで耐え難いものだった。

 

 何とかその熱情を()き止めて「……よ、よし、じゃあ行くか」と、ぎこちなく切り出すと、平塚もまた「……うん」とぎこちなく相槌を打ち、こうしてぎこちない二人の出歩き、世間一般的に言うのであれば、()()()が幕を開けたのであった。

 

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

 

「しゃあっ! 私の勝ちだぁ!!」

 

 いじらしく女々しかった麗女(れいじょ)は何処へやら。平塚は躊躇(ためら)うことなく拳を高く突き上げる。そして先程の様子からは到底想像できないような猛々(たけだけ)しい雄叫びは、大音量の様々なゲームサウンドが往く道を妨げるようにあちらこちらを飛び交うような中でも、それを真っ直ぐ突き抜けていくような響きがあった。

 

「……何でそんなに上手いんだよ」

「まぁ、これが私の実力だ。踏んできた場数が違う。君には負けるつもりはないからな!」

 

 平塚は横に座って項垂(うなだ)れている八幡に向けて、ふふんと鼻にかけた態度を見せて、その豊かな胸元を前に張って見せた。薄手の服のせいで余計に目立っている。

 ただそれで八幡は鼻の下をのばすようなことはなく、それ以上に目の前の画面に映る『You Lose!!』という橙色のフォントに鼻を折られたような気分になって、ひたすら歯軋(はぎし)りしているのだった。

 場数といっても、ベストプレイス、サイゼリヤ、ネットカフェと同じほど入り浸り、孤独を(かて)として、鍛錬(たんれん)研鑽(けんさん)を積んできたこの対人格闘ゲーム──ストリートファイターでの場数が劣るとは到底思えず、それゆえそんな生活を送ったはずがなかろう平塚に負けるのは、さすがに自己評価の低い八幡といっても、矜恃(きょうじ)がそれを許さなかった。どうしても、この胡座(あぐら)をかいている平塚の鼻を明かしてやりたいのであった。

 

「も、もう一回だ……」

「私は何回でも受けて立つぞ、いくらでもかかってきたまえ!」

 

 

 ──八幡は肩をがくりと落として、大きな溜め息をついていた。結局、数戦して、平塚に一度も勝てなかったのである。それが運が悪かったと言い訳できるならまだしも、横綱相撲を取られたように完膚なきまでに叩きのめされたのだから矜恃とやらはズタボロであった。

 そんな八幡とは対照的に、連戦連勝で(えつ)に入った平塚は上機嫌に鼻歌を歌っていた。

 

「なぁ、比企谷っ! あれをやろうじゃないか!」

 

 平塚が目をつけたのは太鼓が二張並んだ筐体(きょうたい)だった。

 八幡の意気消沈としてより淀んでいた目は息を吹き返したようにぎろりと光る。なぜならゲームセンターを訪れる時、必ずと言っていい程この太鼓のゲームは叩いていたからだ。彼が叩けば、一人、二人は通りすがりの人が立ち止まり、見物していった。それは滅多にない承認欲求を満たす機会でもあったのであった。つまり、アーケードゲームの中では最たる自信がこのゲームにはあったのだった。

 

「あぁ、太鼓の達人か。うし、さすがに今度は勝つぞ」

 

 (ばち)を持って、二人は並ぶ。折角だからと、特捜戦隊デカレンジャーのオープニングテーマを選択し、八幡は難易度選択画面で隠し要素の最高難易度『ドンだフル!』を選択しようとしたのだった。ただ、一方の平塚も踏みとどまる様子はなく『ドンだフル!』を選ぼうとしていた。

 

「平塚もドンダフルやるのか。自分で選んどいてなんだが結構難しいぞ」

「大丈夫だっ! 私は一人の時に死ぬほどやっていたからな、昔取った杵柄(きねづか)ってやつだ」

「何が一人だ。本物の一人の強さ、見せてやるよ──」

 

 啖呵(たんか)をきった八幡は、撥を振り上げて、太鼓の面をどんと勢いよく、威勢よく叩く。ドンちゃんの掛け声で撥をいつものポジションに構える。そして、あのエレキギターが抜群に利いた爽快な前奏が流れ始めた。

 そして、ドンとカッが右端から流れてくるのであった。

 

 ──数分後。

 

「よしっ、全曲フルコンボだっ!」

「……」

 

 もはや八幡は言葉を失っていた。平塚は、デカレンジャーの曲はおろか、より難しい他の曲も難なくフルコンボし、周りには片手では足りないほどの観客も集まっていてたのだった。そして彼らはみな華麗なる女太鼓奏者の圧巻のパフォーマンスに、目を奪われていたのだった。

 

「……お前、すげぇよ」

「だから言っただろう。私は一人で遊び(ふけ)って、取った杵柄があると」

「それにしても最高級品の杵柄すぎるだろ。俺だって結構やってきたつもりだったんだがな……」

「ふふっ、まぁ、きっと君の想像以上している以上に私は一人でやってるからな!」

 

「でも」と言って、平塚は八幡の目を見て、ほほ笑みかける。それは何の嫌味も感じさせなかった。

 

「やっぱり思ったことは、一人じゃなくて、二人、それも君と二人で一緒にやるとすっごい楽しいってことだっ! ありがとなっ、比企谷っ!」

 

 胸をすくようないつもの調子のその一言と、胸を高鳴らせるようなその笑顔さえあれば、些末なプライドは関係ないように感じた。それに、今までは一人で寂しく、暇な時間を潰すためだけに、通っていたあの淡白でうら(さび)しいゲームセンターが、たった一人隣にいるだけで、こんなにも彩り鮮やかになるものだった。

 

「──あぁ、そうだな。すげぇ楽しいわ」

 

 八幡も思わず笑みをこぼして、そう返した。

 

 ──そこからは、シューティングゲームや、クレーンゲームを周った。ワンコインと言えどもお金は湯水のように溶けていった。だが、それ以上の対価──()()()()()()()()()()()()()を買っているのだとしたら、逆に安すぎるようにすら八幡には感じられた。ただただ幸せだったのだ。

 

 そして骨の髄まで遊び倒していると、まもなく正午を過ぎて三○分を回る頃になっていた。メインディッシュである映画の開演時刻は二時頃であるので余裕はまだあるのだが、昼食を取るにはちょうど良い頃合だった。

 

「じゃあ、そろそろ昼飯食いに行くか。まぁ、いく場所は……」

「ラーメン!」

「だよな。そうなると思って前もって調べてきたんだ。評判いいとこあるんだが、そこ行くか」

「おぉ、準備がいいな。そうしよう!」

「じゃあ行くか」

 

 平塚の賛同も得て、八幡が意気揚々とゲームセンターを後にしようとした時、七分袖のカーディガンの袖口を彼女にちょこっと摘まれ、軽く後ろへと引っ張られた。

 

「ん、どうした平塚?」

「……あの、その比企谷」

「なんだ、何かやり残したことでもあるのか?」

「うん、その、あの、あれ……」

 

 また急にしおらしくなった平塚が指を差した先には、八幡がゲームセンターに来る度にいつも目の(かたき)にしていたあの箱型の機械があった。無駄にでかいと思えるその図体がどっしりと存在感を放ってそこにいくつかあって、その周りではおそらく高校生であろう女子達が輪を作って、楽しそうに話している。

 

「えっ、プリクラ……?」

「……うん」

「撮りたいってこと、か……?」

 

 平塚は黙ってこくりと頷いた。

 

「俺と……?」

 

 また、黙ってこくりと頷く。

 

「……ま、まぁ減るもんでもねぇし、いいんじゃねぇの」

「……ほんとかっ?」

「あぁ、本当だ」

 

 平塚は愁眉(しゅうび)を開いたような顔になって、今度は八幡の袖を前に引っ張って、プリクラ機の方へと向かった。

 そして、八幡はおずおずと幕に仕切られた狭い個室の中へ入っていった。彼には、作法とやらも何一つ分からないので、平塚に任せるしか無かった。続けて平塚も入ってくると、さすがに個室ということもあって、この世界に二人だけしかいないように錯覚させられる感じがして、ひたすら照れくさかった。

 

「……これって、ポーズとかも機械の指示に従えばいいんだよな?」

「あぁ、そうだ」

 

 平塚はアナウンスに従って、目の前の台にある画面を黙々と押している。八幡に何をしているのかがさっぱり分からないが、すぐに設定は終わったようだった。

 

「よし、じゃあ、始めるぞ」

 

『二人の思い出作っちゃいましょー! では、まず早速ピースから!』

 

 そして、五秒前からカウントダウンが始まる。隣の平塚は、指示されたようにレンズに向かって(にわか)造りの笑顔でピースサインをしている。八幡も平塚に合わせて、そこに向かってピースをする。

 

『はいっ、チーズっ!』

 

 すると、フラッシュが()かれて、間もなくして目の前の画面には今撮った写真が映った。相変わらず平塚は撮りなれているのか、それとも単に明眸皓歯(めいぼうこうし)の美形だからなのかは分からないが、大変写りが良かった。一方で八幡も、その隈がめっきり消えるほど加工がかって、もはや自分ではない男が写っているような気さえもした。

 

「うぉ……、こんな感じなのか」

「うん。よく撮れてるじゃないか!」

 

 平塚は画面を二、三度押す。

 そこから、次々と『あさっての方向に向かって!』『変顔!』など、お題が提示された。多かれ少なかれ恥ずかしさはあるものの無理難題を要求されることはなく、八幡も人生初のプリクラもそこそこにこなす事が出来ていた。次第に凝り固まったものが(ほぐ)れてきて、平塚との会話が弾むなど、存外に楽しいものだったのだ。

 

 そして今度は『お気に入りのポーズ!』のお題が出された。

 これには、八幡は仮面ライダー(ブレイド)の変身ポーズで、平塚は特捜戦隊デカレンジャーの変身ポーズで、写真を撮った。画面に映った写真の(まと)まりの悪さに、二人は可笑(おか)しくて声を出して笑っていた。

 

 しかし、最後の最後で、その難題にぶつかってしまったのだ。

 

『じゃあ、最後に──二人で抱き合って!』

 

「こっ、これはさすがに……」

 

 八幡の顔は引き()って、片方の唇の端を釣り上げて、苦笑していた。

 

『5! 4!』

 

 八幡は何もポーズを取れずにいたが、そんなこと知る由もない機械の無情なカウントダウンが始まった時だった。

 何も言わぬまま平塚は急に、八幡の脇腹と腕の間からその華奢な腕を後ろから差し込んだのだった。

 そして、彼のなだらかな肩にしなだれて、もう一方の腕も前からも差し込んで、抱きつくような形で、腕を組んだのだった。

 羽毛布団に包まれたようなあまりにも柔らかい感触の急な来訪は、八幡の身体中に(とどろ)くほどの擦半鐘(すりばんじょう)を胸が打つには余りに事足りすぎていた。

 

『3!』

 

「ひっ、平塚さんっ……?!」

 

 八幡は目を白黒させて、声を裏返させながら呼びかけても、平塚は無言のまま頑固一徹として組んだ腕を離す様子はなかった。それどころかよりぎゅっと強く抱きしめてきたのだったから、八幡の腕の感覚神経は麻痺し始めていた。

 そして、その意固地な様子は、まるで七夕の時の意趣(いしゅ)返しのようにも感じられた。

 

『2! 1! はいっ、チーズっ! お疲れ様でしたっ!』

 

 平塚は、すぐにするりと八幡の脇から腕を引き抜く。ただ、二人の間に会話なぞ生まれず、顔も見合せることなどなく、沈黙の高気圧がこの狭い部屋に降ってきていたのだ。

 しかし、目の前の画面には、今撮った写真が躊躇うことなく写し出される。その写真には、人様には見せられないような表情を浮かべた二人の男女が写っていた。

 そして、落書きスペースに移った時には、最後に撮った写真は画面に映し出されていなかった。

 

 

 ──二人は随分と、満足した様子で(ちまた)で有名なラーメン店を後にしていた。

 プリクラを終えた直後はいたたまれなさがあり、完成された写真をまともに見ることはなくそのまま鞄にしまいこんで、ラーメン店に向かった。

 そのような雰囲気をそのまま引き()って、店に入ったものだから、あまり口を交わさず、まるで別々の客のように黙々と食べ始めたが、あまりの美味さに頬が(とろ)け落ちると、その気まずさは次第に霧へと消えたようで、「美味しい」とひっきりなしにその美味さを礼賛(らいさん)していたのだった。

 

 そしてそこから二人は歩いて、少し離れた目的の映画館に向かっている。食後の運動にも程よい距離であった。

 

「映画、楽しみだなっ、比企谷っ!」

「あぁ、もう身震いが止まらねぇわ」

 

 興奮を抑えるのが精一杯な八幡は、体の震えが止まらなかった。一年に一度の楽しみが、もう目の前に迫ってきているのだった。さらに隣には、平塚もいる。今までで一番楽しみであることは、間違いなかった──。

 

「えっと、ここの道を真っ直ぐ行くんだよな……」

 

 途中に海浜幕張地区の案内板があり、念の為に映画館の位置を確認するために、一度立ち止まった。そして八幡は携帯を取り出して映画館の住所を調べようとすると、平塚は驚いた様子で声を上げた。

 

「あっ! 比企谷、それ……」

 

 平塚が指したのは、潮風にあたって振り子のように揺れているパンさんのキーホルダーであった。これは紛うことなくディスティニーで彼女に誕生日プレゼントとして貰った物であった。

 

「まぁ、学校じゃ何言われるか分かんねぇから流石に付けられねぇけど、今日は折角だし付けてみようかなって……」

「実はぁ……、じゃじゃーん!」

 

 平塚は肩にかけた薄桃色のショルダーバッグから、青色の携帯を取り出して、八幡の目の前にそれを突き出した。そして、そこには八幡と同じように、ストラップホルダーから一本の紐が伸びていたのだ。

 

「平塚も付けてたのか」

「私も今日付けてみようかなって思ったんだ」

「偶然だな」

「あぁ、偶然だなっ!」

 

 八幡は単純ながら胸が熱くなるほど嬉しくなった。偶然の産物と分かっていても、考えていることが同じというだけでも、飛び跳ねるほど嬉しいものであった。彼女との心の繋がりが感じられて、安心できるのであった。

 そして目的の映画館に辿り着くと、既に二人が見る回の特撮映画の案内が始まっており、急いでポップコーンとドリンクをカウンターで注文すると、そのままスクリーンの中へと入っていった。

 

 

 ──スクリーンから出ると、平塚はそれは興奮気味で、今にも語り出したいという風に見えた。当然それは八幡も同じであり、この内に(たぎ)る熱を一刻も早く共有したかったのだ。

 

「やはりすごい面白かったな!」

「あぁ、特に──」

 

 その時、後ろの方からどこかで聞いた覚えのある元気溌剌(はつらつ)な幼い少年の声が聞こえてきた。

 

「あっ! あの時のにいちゃんとねぇちゃんだぁっ……!」

 

 後ろを振り返ると、飛びかかるような勢いで小学生低学年ぐらいの背丈の少年が八幡の膝元に腕を回して抱きついてきた。

 

「おおっ……」

 

 彼は加減を知らないタックルに思わずよろけるが、弥次郎兵衛(やじろべえ)のような平衡感覚を発揮して、何とか倒れずに(こら)えた。何の悪気も無い故に悪びれる様子もない少年は、膝に(うず)めた顔をこちらに向けた。

 

「にひひっ! にいちゃん、ねぇちゃん、久しぶりだなっ!」

 

 それはカップルコンテストで会場を和ませる(げき)を飛ばし、決勝前にはこの二人のことを応援してると言ってくれたあの夫妻の長男坊だったのだ。相変わらずの短パン半袖姿で、前と少し違うのは生え変わりのためか所々歯抜けであるところだが、恥ずかしがる様子もなくにっこりと白い歯を見せている。思わず八幡もそれに釣られて口元が(ほが)らかにゆがんだ。

 

「あぁ、久しぶりだな」

「おお、元気にしてたか、少年っ!」

 

「うんっ! 元気にしてたぞっ!」と答えた長男坊に平塚は随分首ったけなようで、しゃがみこんであの日の時のようにスポーツ刈りの黒髪ををわしゃわしゃと猫可愛がりするように撫で始めた。彼も抵抗することなく、気持ちよさそうに目を細めて、それを受け入れていた。

 長男坊の話を聞くと、どうやら彼も同じ映画を見ていたようで、二人ではなく、長男坊を含めた三人で映画に関する立ち話が始まった。

 

「バンがすっげぇかっこよかった!」

「うんうん、君はよく分かってるじゃないか!」

「あぁ、この映画のおかげで伴番(バンバン)のこともっと好きになったな」

「俺、将来バンみたいになりたいんだ!」

「あぁ、なれるさ。ねぇちゃん達がいつかピンチになった時も助けるんだぞ!」

「うん、絶対助ける!」

 

 そんな画面の向こうのヒーローに憧れる長男坊との立ち話は留まることを知らず、他人の目も忘れて話(ほう)けていたところであった。「あっ、いたっ……!」とやけに安堵の混じった女の人の声が聞こえ、その声の主は、まだ小さい女の子を腕に抱えてこちらに向かってくる。その顔は、かなり眉間に(しわ)がよっていて、今にもその安堵が別のものに変わるようであった。

 

「もうカイトったらっ……! トイレの前で待っててって言ったでしょ!」

「でも……、七夕の時のにいちゃんとねぇちゃんが居たから」

「また、そんなこと言って、って、え……? あらっ!」

 

 長男坊──カイトの母は、八幡と平塚の存在に気付くとだいぶ驚いた顔で、挨拶してきた。二人も合わせて挨拶を返す。

 

「ごめんなさいね、うちの子が迷惑かけて」

「いえいえ、そんなことないです。なっ、比企谷?」

「はい、息子さんとお話できて、すっごい楽しかったです」

「それならいいんだけど。でも奇遇ねぇ〜。まさか、こんな所で会うなんて。お二人は映画見終わったところ?」

「はい、実は私たちもちょうど特撮の映画見てて」

 

 カイトの母は予想外であったようで、「えっ、そうなのっ?!」と大きな声をあげていた。

 

「じゃあ一緒に見てたのね! でも、こういう言い方はあれだけど、かなり珍しいわよねぇ」

「確かにそうですよね。私も()以外見たことないです。でも、お陰様で共通の趣味ができたというか」

 

 平塚に彼と言われて、おもむろに(まばた)きが増えた。確かに今は、()()を演じる必要があるので、当然の言葉遣いではあるが、今となっては偽りだとしても恋人だと見られているだけで、(すこぶ)る嬉しくなるのが恋する男の純朴な性分(しょうぶん)なのであった。

 

「へぇ、そうなんだ、良いわねぇ……。あっ……! じゃあ、大会の時も、実は二位のフィギュア狙いだったりとか?」

「まぁ、そうでしたね。彼が頑張りすぎちゃって優勝しちゃいましたけど」

「そうだったんだぁ。まぁ、でも彼氏さんすっごいかっこよかったわ!」

 

 急に褒められたものだから、八幡は謙遜で、手を横に振る。

 

「いっ、いやいや、そんな事ないですよ。俺、すっごい必死でしたし」

「必死になってくれるのが何より嬉しいの! すぐ諦めてた情けないうちの主人と比べたら雲泥(うんでい)の差よっ! ねっ、シーちゃん、お兄ちゃんかっこよかったよねー」

 

 カイトの母が腕に抱えられたままの娘──シーちゃんにそう語りかけると、まだ舌足らずながらも、「うんっ、にーちゃ、とってぇも、かっこよかった!」と、(いとけな)い微笑みを浮かべて八幡に言った。

 

「シーちゃん、ありがとなぁ」

 

 八幡もとても綺麗なものに心を(すす)がれた気分になって、平塚のようにまだ小さく、(てのひら)に収まってしまいそうな頭を毛並みに沿うようにして撫でた。シーちゃんはきゃっきゃと嬉しそうに笑ってくれている。なんだかそれは、小さい頃や、つい最近のとある雨の日の時の感触に凄い似ていて、ひたすらに懐かしさと愛おしさが八幡の中を駆け巡っていた。

 

「にぃちゃんとってもタコみたいに顔真っ赤っかだったけど、俺もすっげぇかっこよかったと思ったぁ! ねぇちゃんも抱っこされてる時、最後の方は()()()()()()()()()()()()()()でめっちゃ頑張ってたしなっ!」

「そうだそうだ。って、かっ、カイトっ……?!」

 

 カイトの爆弾とも言える発言が突如襲いかかり、平塚は鳩が豆鉄砲を喰らったように慌てふためいたが、彼女は急に開き直って、

 

「……そ、そりゃ、あんなことされたら、誰だって照れるに決まってるじゃないか!」

 

 照れ隠しかぷいと顔を背けた平塚を見て、あの時の咄嗟の行動がこの期に及んで、その恥ずかしさが蒸し返してきて、八幡は音を立てるように後ろ髪を掻いていた。

 カイトの母は、そんな二人の様子を見てぷふっと吹き出していた。

 

「本当、お似合いのお二人ね。羨ましいわぁ」

 

 カイトの母はそう呟くと、頬に手を置いて、何か自分の身の上を(うれ)いているのか、大きなため息をついていた。

 ちょうどその時、彼女の携帯が鳴ったようで、それを取り出して、電話に出る。何度か「あー、はいはい」と素っ気なく繰り返すと、電話を切った。

 

「主人が待ってるみたいだからそろそろお別れね。二人の時間を邪魔しちゃってごめんなさいねぇ」

「いえ、全然邪魔なんてことはないです! また会って話すことができて良かったです!」

「うふふ、ありがとねぇ。私達もまたお話出来て嬉しかったわ」

 

 そうだ、とカイトの母は何かを思いついた様子で、手元の携帯電話を弄り始めた。

 

「お節介かもしれないけど、二回も巡り合うなんて、何かの縁だから、連絡先交換しない?」

「はいっ、是非っ! じゃあ、私とでいいですか?」

「うんっ、いいわよ。女の子同士、秘密のやり取りしちゃいましょうねぇ」

 

 カイトが「かぁちゃんはもう女の子じゃねぇだろ」とつっこむと、綺麗な瓦割りがカイトの脳天に繰り出されていて、それはだいぶ痛かったようで、しゃがみこんで頭を抱えながら唸っていた。

 

「よし、これで完了っと、ありがとねっ! あっ、そうだ。最後に名前名乗っとかなきゃね。私は二宮(にのみや)基子(もとこ)。そして……、シーちゃん、お名前言うのできる?」

 

 基子に求められて、シーちゃんは、うんとまだ小さく細い首を縦に振って、「わたちのなまえは、にのみやしおりでしゅ。三歳でしゅ」と上手に自己紹介をして、最後にぺこりとお辞儀までして見せた。

 

(しおり)、か。いい名前だ。それときちんと自己紹介できてえらいぞぉ」

「あぁ、本当だ! 大会の時の比企谷とは大違いだっ!」

「よ、余計なこと言うな、平塚」

「だって、あの時の比企谷は、ぷふっ……」

 

 平塚は(こら)えきれず吹き出してしまった。八幡が優勝者インタビューで、観客の面前というあまりにも非日常的で慣れないシチュエーションに立たされて、緊張のあまり壇上で噛み倒した事を引き合いに出されると、さすがに八幡も弱ってしまった。

 カイトの母もその時の様子を覚えていたようで、平塚と同じように思い出してくすくすと笑っていた。

 

「ふふっ、じゃあ、次、カイトも」

「うん、わかってるって! 俺の名前は、二宮海斗(かいと)! 今、小学校二年生で七歳!」

「そうか、海斗は小学生か! もう立派なお兄ちゃんじゃないか!」

「まあな! そして、ねぇちゃんとにぃちゃんの名前は確か……。えぇと……」

 

 決勝に残っていたから何回か苗字は実況されていたものの、一ヶ月以上も前となると、海斗も流石に朧気(おぼろげ)なようで、二人は順に名前を名乗った。

 

「私の名前は平塚静で──」

「俺の名前は比企谷八幡だ」

「じゃあ、しずねぇとはーにぃか、よろしくなっ!」

「しずねぇ、はーにぃ! よろちく!」

「あぁ、よろしくなっ!」

 

 一通り自己紹介を終えたところで、基子が「じゃあ、もう行くわよ」と海斗に声をかけるが、彼は少し浮かない顔を見せた。

 

「どうしたの、海斗?」

「かぁちゃん、またはーにぃとしずねぇに会えるのか?」

「大丈夫、会えるから。アドレスも交換したし」

「はーにぃも、しずねぇもまた会うって約束してくれる?」

「あぁ、当然だっ!」

 

 八幡も平塚に合わせて、頷いた。

 

「でも、やっぱり心配だから、これするぞっ!」

 

 カイトは右手の小指だけを上向きに立てて、二人の前に腕を伸ばした。

 これは幼い頃に良くしたあの(ちぎ)りの構えであった。

 しかし、二人でやるからには一人余る。八幡と平塚は顔を見合わせて困っていると、海斗が鶴の一声を発した。

 

「はーにぃとしずねぇ、どっちも一緒にやるんだ!」

 

 子供の奇想天外な発想力には、八幡も恐れ入った次第であった。八幡も、平塚も右手の小指を上向きに立てると、三人であの形に結ぶ。とびきり小さい海斗の小指を、二人で包み込むように。そして、海斗が「せーの」と声を掛けて、

 

「「「指切りげんまん嘘ついたら、針千本のーます、指切った!」」」

 

 約束の呪文を揃って、声高らかに言い切って、三人は小指を離した。海斗は大層満足した様子で、また、歯抜けの白い歯をにいっと見せた。そして、基子に連れられて、栞と海斗は映画館を去っていった。

 

「しーちゃんと海斗。嵐のような二人だったな、比企谷」

「あぁ、でも可愛いもんだな」

「その通りだ。とっても可愛かったなぁ……」

 

 平塚はしみじみと言った。八幡と違って人付き合いが良好に見える平塚だが、特に子供に関しては、格別に好きだと言うのは、今までの態度からもだいぶ(うかが)い知れた。

 

「子供かぁ、いいなぁ。私もいつか子供を連れて一緒に特撮の映画見に行けたらなぁ……」

 

 平塚はそう何気なくボヤくが、二人きりでなおかつ異性の八幡からしたら反応しづらいことこの上なく、「そっ、それは良さそうだな」と(ども)ったように答えてしまった。

 

「……いっ、いや、比企谷っ、これには別に深い意味はないからな、ナイナイアリエナイザーだからなっ!」

「あっ、あぁ、大丈夫だ。さすがに分かってる」

 

 そんな時、偶然にも、二人の目の前を親子連れが通って行った。父と母の間に、小さな子供がそれぞれの片手を繋いで、仲睦(なかむつ)まじそうに歩いている。街中にいればよく見かける光景だが、それが八幡には途方もなく羨ましくなってしまう。

 そして、深い意味が無いことは分かっているとは言いつつも、その背姿を羨望(せんぼう)の眼差しを見送って、ただ胸の内にある理想像をその光景に重ね合わせていた。

 

 

 

 ──映画も見終わった事で、本日の主な予定は終わったことになるが、丁度二人揃って見ておきたいものがあるということで、つい二、三年ほど前に開いたばかりの、アウトレットモールに足を運んでいた。

 

 夏休みの中頃から、小町は料理、特に弁当を作ることが受験の合間の息抜きのようなものになっていた。

 それは講習会で昼食を自弁(じべん)する必要があったことが切っ掛けであり、そこからはどうやら(はま)っていったようで腕に(より)をかけて弁当を作るようになっていった。それゆえ、夏休み中は八幡が文化祭準備の手伝いのために午前中から出かける時は、朝早く起きて小町が昼食用の弁当を(こしら)えてくれていた。

 しかし、二学期からは学校が始まり、料理と勉学の二足の草鞋(わらじ)はさすがに厳しかったようで、弁当は作ることは無くなったが代わりにたまに手軽なお菓子を作って、振舞ってくれたりしていたのだ。

 八幡は、受験の合間の息抜きとは言っても朝早く起きて、時間を削ってまで弁当を作ってくれた小町にお礼として、加えて相談に乗ってくれたお礼として、何かお菓子を作るために必要な調理器具を買ってあげたかったのだった。

 そして、平塚も丁度調理器具を見たかったようなので、まず調理器具が取り揃えられた店へと向かった。

 

 八幡はそこで値札を見るが、小物でも想像していた以上に値が張るものが多く、最近出費が(かさ)んでいて、節制をモットーにしている男子高校生の財布に払える余裕は無かった。しかし、八幡には使うタイミングが無く、財布の札入れでひっそりと息を潜めているもの──七夕祭りの優勝賞品として贈呈された商品券二五〇〇〇円があった。どうやら使い時らしい。

 一方、平塚も真剣な様子で、並べられている調理器具を手に取っては、フライパンの表面を少し撫でていたり、底が浅い所謂浅型の土鍋と、底が深い所謂深型の土鍋を手に取って見比べてたりしていて、じっくりと品定めをしているように素人目からも見えた。

 

「平塚も、やっぱ料理とかするのか?」

「まぁ、たまにだがするかな」

「ふーん、そうか。まぁ、お前のことだからきっと料理上手いんだろうな」

「いや、そんなことは無い。小町ちゃんの方が全然上手だし。夏休みの時に君が持ってきていた弁当を見ていたら私にも分かるよ」

 

 八幡はふっと、鼻で笑った。

 

「なぁに言ってんだ。もとより小町より上手いってなんて思ってねぇって。小町は()()()であり、()()()であり、()()()であり、()()()()()()でもあるんだ。まぁ、今は勉学に(はげ)むってことで、料理の仕事は休職中なのが残念だが」

「……全く、相変わらず君は小町ちゃんのことになると、本当に兄馬鹿になるのだな」

「兄馬鹿じゃねぇ、事実だ」

「そういうのを兄馬鹿というんだ、バカタレ。まぁ、そこまで仲がいいのも羨ましい限りだ。一人っ子の私としては本当に羨ましい」

「まぁな、小町は最高の妹だ」

 

 八幡のおさまらない兄馬鹿っぷりに平塚は呆れるように笑うと、手に取ったステンレスのお玉を元々吊るされていたフックに掛け戻した。

 結局、八幡は、オーブンでお菓子を焼いた後、プレートを取り出す時に、小町が少し熱がっていたのを思い出して、厚手の可愛らしさに意匠(いしょう)を凝らしたミトンを一(そう)、持ち腐れていた商品券を用いて購入することにした。

 

 その後は色々な商品を見て回った。

 八幡には敷居が高いアパレルショップに行くと、平塚によるささやかなファッションショーが行われた。彼女はボーイッシュなものからガーリッシュなものまで毛色の違うものを淡々と着こなして、八幡に披露していた。しかし、ファッションに関して門外漢である彼には詳しいことはどうしても分からず、やはり率直な感想しか述べられなかった。

 しかし平塚にとってはそれが良かったようで、特に八幡が良いと反応したものを一着購入していた。

 

 そして次に向かったのはこれまた八幡には敷居が高いアクセサリーショップで、そこでは千紫万紅(せんしばんこう)の宝石がショーケースの中に陳列しており、立てられた値札の中には八幡が思わず息を呑むほどの桁数の品物があった。

 そのような見るからに場違いの若齢(じゃくれい)の二人の懐事情を考慮したであろう店員に勧められたものは、この店の中では最も安い部類に入るものだが、最低限五桁は必要であった。当然購入は不可能であった。

 しかし、試着は可能であり、是非どうぞということで、平塚が勧められたアクセサリーを試着していた。

 

「どうだろうか。私に似合ってるだろうか……?」

 

 少し眉を曇らせている平塚の首元には、ハート型の輪の中に一輪の花があしらわれた可愛らしいネックレスが、目立ちすぎずも可憐さを引き立てるように淡く輝いていた。

 それを見て八幡は思わず顔を綻ばせて、ぱっと思い浮かんだ感想をそのまま告げる。

 

「あぁ、よく似合ってんじゃねぇか。いちゃもんつけられるなら色々言ってやりたいところだが、残念ながらいちゃもんはつけれそうにねぇな」

「ふふっ、ありがとっ……!」

 

 平塚は可愛らしくはにかんで、それを丁重に外すと、店員に愛想良くお礼を告げていた。

 八幡はその様子を見て、無性に嬉しくなっていた。

 それは、あの七夕の夜に見た平塚の顔を未だにはっきりと覚えていたからだった。あの重たく固く根が深く張った、底冷えした自虐は耳に残っていた。

 あの顔をした理由は未だに分からない。ただ、あの顔をした平塚が、可愛らしく、そして似合わないと彼女が諦めていた装いを、こうして自信を持って、褒め言葉を素直に受け止めて、宝石のように玲瓏(れいろう)とした双眸(そうぼう)を輝かせて、一等輝いている笑顔を浮かべている。そして、その克服の一翼を八幡が少なからずも担うことができたのではないかと僭越(せんえつ)ながらも確かに感じるから、喜ばしくなるのであった。

 

 

 ──相も変わらず盛況を呈するモール内を、二人が談笑しながら並んで歩いている時であった。目と鼻の先に、彼らの身長ぐらいの大きさの看板が出てきて、それが何か認識すると、二人とも興奮した様子で擦り寄っていった。

 

「比企谷っ、剣とデカレッドだっ!」

「おぉ、本当に何でまたこんなとこにあるんだろうな」

 

 そこには仮面ライダー剣と特捜戦隊デカレンジャーデカレッドの等身大パネルであったのだった。どうやら近くが子供の天国こと玩具(がんぐ)コーナーであるから置いてあるようなのであった。二人して携帯を構えてそのパネルの写真を撮り、折角ということで平塚の携帯で通りがかった人に頼んで二人が写った写真を撮ってもらった。こうして思い出の(ページ)は確かに、一頁ずつ刻まれていくのであった。

 

 その場を離れたあと、休憩スペースのようなところで、先程の写真をメールで送るという話になって、二人が携帯を取り出して操作していた時。

 少し遠くの店が並んだ通りのから「あれっ、静じゃん!」と通りの良い女の声が聞こえてきた。今日はどうやら知り合いに良く会う日らしいのだ。

 八幡がその声のほうのする方へ顔を向けると、おそらく同世代の女子二人がこちらの方を見ていた。

 その二人はそろそろとこちらに近づいてきていた。だんだんと容貌がはっきりしてくるが、どうにも学校内で見た覚えはなかった。

 

「え、しかも男の子と一緒にいない?!」

「うっそ〜、そんなこと〜。……ってほんとだぁ〜!」

 

 その二人の言い(ぐさ)からすると平塚の知り合いらしいが、当の平塚は二人の存在に気付いた時、歓迎している様子はなく、むしろ露骨に眉の形をぐにゃりと歪めていた。

 

「げっ、桜とツル……」

 

 平塚が呟くその名前は、八幡は今までで一度も聞いたことがなかった。

 

「はろー、静っ! 何してるのさ、しかも男の子と二人で。 ……っていうか、君っ、あの棒倒しくんじゃない?!」

「あっ、本当だ〜! すっごい面白かったよ〜、あれ」

「えっ、あぁ、そりゃどうもです……」

 

 どうやら二人は八幡のことは体育祭の時から知っているようであった。確かに平塚は中学の同級生と一緒に見ていたとは言っていたが、彼女達の事だったようだ。

 今までの人生において、知っているけど知られていないことはあったが、知らないけど知られていることはなかった八幡にとっては何とも不思議な感覚であって、反応に困ってしまった。

 

「なるほどなぁ、体育祭の時、静がたいそう気に入ってるなと思ったがそういう事かー」

「ちょっ、桜っ!」

「ね〜」

「あははっ! それでさぁ、ツルがさっきね──」

 

 その様子から見て、この三人が仲がいいというのは八幡にも分かり、だからそのやり取りに入るのは億劫(おっくう)に感じられた。

 すると、ただ(かたわ)らでじっとしている八幡の様子を見かねた一人が、話しかけてきた。

 

「あっ、ごめんごめん、棒倒しくんは私たちのこと分からないよね。どうも、私、静の中学の頃の同級生、大磯(おおいそ)(さくら)! よろしくっ!」

 

 活気横溢(かっきおういつ)として気さくな笑顔で八幡に名乗る大磯は、平塚のように人当たりの良いのであろうことが伝わってきた。そして、黒と茶色の間の色合いで染められたさっぱりしたミディアムカットで、ほんのりと日に焼けた感じであり、すらっとした体格は、その内面と見事に一致しているようにも思えた。

 

「は〜い、どうも〜。同じく、(しず)ちゃんの同級生の〜、秦野(はだの)鶴子(つるこ)で〜す」

 

 すごくおっとりとして余裕があるそのしゃべり方は、大磯とは対照的であり、どこか箱入り娘のような気品すらも感じた。そして、その肌は本当に箱の中に閉じ(こも)って暮らしていたのかと思うほど透き通るほど白くて、ベージュ色の髪も相俟(あいま)って、日本人らしくない西欧風なようであった。ただ身長は飛び抜けて低く、その丸っぽい顔もあってか、小町と同じほどの年齢かと錯覚するほど、幼く見えた。

 

「平塚の高校の同級生の比企谷八幡……、です」

「おぉ〜、比企谷八幡くん。珍しい名前だね〜、よろしくね〜」

「よろしくねっ!」

「……よろしくお願いします」

「比企谷くん、全然タメ口でいいよ!」

「あっ、あぁ、わかった」

 

 それで良しと大磯はにこやかに八幡に微笑みかけると「よしっ、では早速」とこの場の指揮を()り始めた。

 

「静の雰囲気がいつもと違う件について」

「静ちゃんの髪の毛、そんなくるくるだったっけ〜」

「いやっ、これはだな……」

 

 取り(つくろ)おうとする平塚を横目に、大磯は何かに気づいた様子で口を開いた。

 

「──っていうか、良く見たらその服、最近、静が珍しく私達を呼びつけて選んで欲しいっていったやつじゃん!!」

「あっ、ほんとだ〜。私、そういうのに疎いからって〜」

「え、マジで……?」

 

 八幡も思わず声が漏れてしまった。するとその反応を面白がって、大磯が乗っかるように「比企谷くんマジだよ! マジ!」と言った。

 

「ち、違うんだ、これは、そっ、その…………」

「静ちゃん、理由すっごい誤魔化してたけど〜、こういう事だったのか〜」

「あわわわわわわ……」

 

 平塚は金魚を模したように口を開けたり閉めたりしていた。見るからに動揺しているのだった。

 

「じゃあ、次に、一気に切り込んじゃうけど、二人はどんな関係なの?」

「ま、まぁ、仲のいい友達だ。なっ、比企谷?!」

 

 平塚が、『余計なことを言うんじゃないぞ』と目伝いで訴えてくるのであった。ただ、友達であることは嘘でもなんでもなく事実であるのだから、八幡も「そうだな」と普通の調子で答えた。

 

 それを聞いて「ふーん」と大磯は至極つまらなそうな顔をしていたが、秦野は二人が写真を交換するために握っていた携帯の方をまじまじと見始めて、にやりとしてひと言。

 

「じゃあ〜、質問だけどそのお二人の携帯にぶら下がってる、その見るからにおソロのパンさんストラップは何かな〜? 普通の友達が、見せつけるように()()()()()()()()()なんて付けるのかな〜」

「おっ、さすがツル探偵、目の付け所が鋭い!」

「えっへん〜、どんなもんですか〜」

「い、いやツルと桜。これは、比企谷とディスティニー行った時にだな。……って、ハッ?!」

 

 平塚は慌てて両手で口を塞いだ。しかし、これこそ綸言汗の如し。大磯と秦野は平塚のあまりの間抜けなとんまに、探偵ごっこの手応えがないのかもはや呆れたような顔になっていた。

 

「うわぁ〜……、お手本通りの墓穴〜」

「というか、二人でデステニーまで行ったのか……。あのお土産もそういうことか……。くっ、幸せ者め……」

「いや、説明したら色々ややこしくなるから。とにかくそういうのではなくてだな……」

 

 平塚が言い訳探しに口元をまごつかせていると、まるで住宅街の正午の貴婦人たちの井戸端会議のようなノリでひそひそ話を始める。

 

「──これじゃあ、邪魔しちゃいけないですね〜、桜さん〜」

「えぇ、そうね。これは邪魔しちゃいけないやつですよ。ツルさん」

 

 二人は、示し合わせたようにほくそ笑んだ。

 

「というわけで、じゃあね〜、静ちゃん楽しんで〜。文化祭の時また会いに行くからね〜」

「ていうわけで、ひきが……、えーと、言いやすく。そうだ、ヒッキー君!」

「ヒッキーって、それ女性歌手か引きこもりじゃなぁい〜?」

「いいのいいのっ! じゃあヒッキー君、静のこと頼んだよ!」

「あ、あぁ、分かった」

 

「お二人共、お幸せに!」と去り際に揶揄(からか)い言葉を置き土産にして、大磯と秦野はその場から逃げ去るように、まさしく嵐のように消えていった。嵐の後の静けさというのだろうか、二人はしばらくの間、貝のようになって、その場に立ち尽くしていた。

 

「……平塚、また嵐が来たな」

「う、うん。そうだな、とんでもない嵐だったな。……ちなみにだが、比企谷。あの二人が言ってたことだがな……」

「まぁ、違うよな。さすがに分かってるわ」

「……あ、あぁ、そうだ。たまたま秋服を切らしてて、買っただけなんだ」

「なるほどな」

 

 八幡はほっと胸を撫で下ろしていた。もし、先の大磯と秦野の言っていることが本当だとしたら、思い違いも甚だしい有り得ぬ希望があると思い込んでしまうかもしれなかったからだ。

 

 それからは、ウィンドウショッピングを続け、一通りモール内を回ったところで、夜までには帰るという話であったので、このタイミングで帰ることに決めた。

 海浜幕張駅へと向かう。街ゆく人達も、多くは駅の方へと向かっている。途中で八幡が停めていた自転車を拾い、それを手で押しながら自転車を挟んで二人並んで歩いていた。

 駅前広場の前のタイルは街灯と建物からの白っぽい人工的な灯りで照らされている。そして、広場の野球の像の色が、周りを覆い始めた薄々とした黒と混じって、ぼんやりと浮かび上がるのを見ると、この一日があっという間に終わってしまったことを実感できた。

 

「今日も楽しかったなっ!」

「あぁ、すげぇ楽しかったわ。ありがとな。じゃ、俺帰るわ。またな、平塚」

 

 自転車を押してそのまま帰路に着こうとした時だった。「ひっ、比企谷っ……!」と平塚に呼び止められて、八幡は動きを止める。

 

「ちょっと、待って……」

「ん、どうした。また何かやり残したことでもあるのか?」

 

 平塚は首を横に振って、小さく口を開く。

 

「……ごめん、今日一個だけ、君に嘘をついたんだ。さっきの秋服を切らしてたっていうのは嘘……」

「え……?」

「本当は、ツルと桜が言ってたように()()()()()()()()に、二人に頼んで服を選んでもらったんだ……」

 

 平塚は、顔を下に向けた。

 

「私、今日、比企谷と出かけるの凄い楽しみだったから……。ちょっと頑張って、その、お洒落(しゃれ)してみようかなって……」

「───っ!!」

「こんなの……、引くよな…………?」

 

 頬を赤らめ、目をうるませた平塚は上目遣いで、遠くで鳴く蟋蟀(こおろぎ)のようなか細い声で、八幡に尋ねてきた。

 

「いやいや、引かない引かない。俺だってめっちゃ楽しみだったから。誘った側だし。この服もこの日のために新調したやつだし。むしろ楽しみにしすぎてて引かれないか心配だったわ」

「ふふっ、そっか、比企谷もなんだ……、すごく……、すごく嬉しいな……」

 

 言葉通り、そしてそれゆえ形容しがたいほどの本当にとびきり嬉しそうな顔を平塚は見せていた。

 この時、八幡の何かが、完全に崩れ落ちる音がした。

 

「その、また、二人でこうやって出かけてくれるか……?」

「……あぁ、そうだな。また二人でどっか行くか」

「あと、それと、その、文化祭も二人で回ってくれるか……?」

「……分かった、二人で回るか」

「じゃあ、私たち二人だけの──、な……?」

 

 平塚は、もう既に大事な約束がある右手とは逆の左手の小指を立てて、ゆっくりと左腕を伸ばして、それを八幡の胸の前に差し出す。

 八幡もそれに応えるように、左手の小指を立てて、平塚の指とぎゅっと絡めた。その指は外にいるせいか先程よりも少し寒く感じた、ただ八幡のよりも随分と小さくて弾力のあるもので、絡めている内ににじわりと温かみが伝わってくる。

 

「「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本のーます。指切った」」

 

 絡めた指をどちらからともなく離すと、平塚は熱を含んでいそうな目を潤ませて、優しく微笑んで、顔を八幡の耳元に近づける。彼女の甘美な匂いがまた擽るように、入り込んできた。

 そして、普通なら周りの足音や、自動ドアの音、微かな(わだち)を残していく車の音に呑まれそうなほどの(かす)れた声で、

 

「──約束だぞ」

 

 そう耳元で囁くと、そのまま駅の構内へと入っていった。八幡は呆然と立ち尽くし、その姿を自然と目で追っていた。

 階段を登る手前。

 平塚は立ち尽くしていた八幡の方へと振り返り、口を縦に、そして口を横にと動かした。何かを伝えようとしているのだろうが、読唇(どくしん)術など持ち合わせない八幡には、人混みが時折遮る中ではさっぱり伝わらなかった。そして、何かを言い終えた彼女は手を小さく振ると直後、階段の向こうへと妖精のようにひらりと姿を消してしまった。

 

 ──平塚の姿が見えなくなった瞬間、八幡は自転車を走って押して、近くの車道に飛び出る手前で勢いよくサドルに跨り、そこからは人目を(はばか)らず全速力で漕ぎ出した。

 

 ──可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い

 

 息が荒くなる。ペダルを全速力で漕いでいるからだ。

 鼓動が荒くなる。それは、全て平塚のせいだった──

 

 ──可愛いんだよ。可愛いすぎるんだよ。そんな顔、そんな仕草見せられたら、どうにかなっちまうだろっ……

 

 叫ぶことができたなら叫んでいただろう。サンドバックでもあったのなら思いっきり殴っていただろう。だが、そんなことは今はできないのであった。だから、その手に余るほどの激情の行先は、自然と全て二本の健脚(けんきゃく)の方へと向かって、よりペダルを回す速度はただひたすらに速く、速くなっていった。

 八幡にとっての、一番の嵐は、一挙一動で八幡を惑わせ、こんな狂おしいほどの激情をもたらす()()()なのだ。

 

 

 ──大通りと交わる交差点で信号待ちをしていた。数多の車が行き交う中、しばらく全速力で漕ぎ続けた八幡はガス欠のように荒い呼吸をしたままだった。しかし、やけに長い赤信号のおかげで、だんだんと息も落ち着いてきていた。

 

 恋心に気付いてしまったが故に、今日の平塚は八幡にとっては辛抱ならないものだった。

 待ち合わせの時と言い、プリクラで写真を撮った時と言い、いつもとは明らかに違い女々しくも愛らしい姿を見せていた上に、まさか今日この日のために、平塚が着飾ってくれるなど思いもしなかった。

 そして、だからこそ一つ、ある希望が、八幡がとびきり望んでいたが(なか)ば諦めていた希望が、今こうして芽を吹いて姿を見せたのだ。

 それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()という希望である。

 

 そして、そういえばこんな話があったことを、八幡は不意に思い出していた。

 

 総武高校のいわゆる学校の七不思議の一つ。

 

『キャンプファイヤーを共に踊った男女は結ばれる』

 

 八幡だけでなく、平塚すらも馬鹿馬鹿しいと毛嫌いしていたあの噂話。

 まさか間違ってもそれに(あやか)ろうとすることなど絶対にないと、過去の八幡は考えていたはずだ。いや、当たり前すぎて考えることすらしなかったであろう。

 

 現在の八幡は今ここで心に決めたのだった。

 文化祭は二人で回ることを約束した。そして、そのまま文化祭が終わった直後のキャンプファイヤーの時、平塚静を誘うことを。この誘いが受け入れられれば、実質その希望は現実のものとして花開くのである。

 そしてもし共に踊ることができた(あかつき)には、平塚静にこの想いを伝えようと──。

 

 しかし、その希望はただの八幡の思い込みにすぎないかもしれないということが分からないほど、恋に盲目(もうもく)にはなってはいなかった。さすがに経験がないから、どうしても分からないものは分からないのである。

 だから、当然、全て八幡の思い込みで、失敗するリスクも考慮できたのだ。むしろ、失敗と、その失敗による二次災害だけは、過去のトラウマが否が応でも八幡に教えてくれるのだった。

 高校に入ってからは失敗を極端に恐れて、傷つくことから逃げ続けてきて、孤独で生きることを孤高だと自己満足してきた男が、ここまでリスキーなことを選択するということを、もしそれこそ孤高狷介(ここうけんかい)を至高だと盲信する過去(むかし)の八幡が聞いたならば、一言目で思いつく限りの侮蔑で馬鹿にして、見下したような、そして全てを諦めたような腐り眼で、()め付けてくるだろう。

 

 しかし、それはもう過去(むかし)の八幡なのである──。

 

 たった一人の少女と出会ったことで、何もかも情けないほど変えられたのだ。そして、この無謀にも見える勇気も、彼女がいたからこそ得られたものの最たるものであった。

 

 そして、この決意が熟したのは、ただ純粋に、一秒でも早く、一瞬でも長く、平塚静の隣にいることを八幡が心の底から願っているからこそもあったのだ。

 だから酷く怖がりの八幡からすれば、こうして肖ること自体が、この恐怖と心の底からの願望のまさしく折衷(せっちゅう)案であったのだ。

 

 

 随分と長かった赤信号もついに青へと変わる。

 

 

 使い込んで色が落ち始めた灰色のラバーのハンドルを力を込めて、握る。靴底についた土で所々焦げ茶に汚れたペダルに左足を乗せる。

 

 

 ──青になった。

 

 

 いち早く歩き出した横断歩道を渡る人を、すぐに抜き去る。

 

 

 あとはもう、()()はない。

 

 街灯が照らす数秒後先の未来へと。

 

 前輪のライトが照らす目の前の未来へと。

 

 そして、()()()が続くはるか先の未来へと。

 

 ただ前へ、前へと。

 

 

 

 

 (おの)が決めた道を、彼はただ前へ、前へと突き進むだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











拙文を読んでいただきありがとうございます。
今回のお話ですが、めっちゃお洒落した平塚先生はそりゃ可愛いでしょ的な感じで執筆しました。
皆様のご感想、お気に入り登録、高評価大変励みになっております。ありがとうございます。
これからも、是非応援のほどよろしくお願い致します。

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