ズボラ鬼がマジギレするとこうなります。
列車と融合した下弦の壱との戦い。
二百人も人質を取られ、劣勢かと思われた鬼殺隊だが、勝負は鬼殺隊のまさかの圧勝。思いの外あっさりと片付いてしまった。
(……何か、とても怖かったな新戸さん……)
列車が脱線した時に振り落とされ、全身を強打した炭治郎は、痛みに堪えつつ先程の戦闘を振り返っていた。
伊之助を呼び、新戸と合流して運転室に乗り込んだ矢先、新戸は峰打ちで運転士の意識を奪うと、足元に斬撃を飛ばして隠れていた魘夢の巨大な頸の骨を掘り返した。
魘夢は危険を察知し、床から数多の腕を生やして覆い隠そうとしたが、間髪を入れずに新戸が薙ぎ払い。さらに赤く染めた仕込み杖で嬲るように肉塊を斬り続け、反撃どころか再生すら許さない処刑を開始。その際の新戸の雰囲気は、ぬらりくらりとした不敵さから冷酷非情なものに変化しており、童磨との縁から顔馴染みとなっていた伊之助も震え上がっていた。
いくら人の心を土足で踏み入る外道とはいえ、新戸に一方的に嬲られている時の絶望と恐怖に満ちた悲鳴は、正直なところ炭治郎でも聞くに堪えなかった。しかし諫めることなどできるはずもなかった。
そしてついに魘夢の心はへし折れ、「早く殺してくれ」という叫びを上げ始めた。それを聞いてなおも嬲ろうとする新戸に炭治郎の罪悪感が限界を迎え、説得の末に〝ヒノカミ神楽
(頸を斬るのに嬲り殺しは止めようと説得するなんて……)
結果的には討伐完了だが、何だかよくわからないが後味が悪く感じる。
しかも自分に至っては、列車の脱線の際に受け身に失敗。打ち所が悪くて身体が動けず、痛みの感覚からして、どこか折ってしまっているだろう。
長男なのに情けない! と思っていると、そこへ杏寿郎が現れた。
「煉獄さん……皆は……」
「うむ。皆無事だ! 怪我人は大勢だが、命に別状はない。今は新戸とその弟子が、猪頭少年と共に救出作業に当たっている。君の妹は黄色い少年が庇ったようだ。二人とも気を失っているが、じき起きるだろう」
満足げに笑って見下ろす杏寿郎に、炭治郎は安堵の笑みを浮かべる。
今なら、新戸が言っていたあの人のことを聞けるかもしれない。
「あの……煉獄さん」
「どうした!」
「瑠火さんって、誰ですか……?」
ふと、耳を疑った。
炭治郎は、鬼殺隊に所属してまだ日が浅い。それなのに、知り得るはずのない名を口にしているではないか。
しかも、その名は――
「なぜ、俺の母上の名を君が知っている?」
「煉獄さんの……!?」
炭治郎は非常に驚いた様子だ。
彼が嘘をつくのは考えにくい。本当にその名の主の素性を知らないのだろう。
なら、どのような経緯でその名を聞いたのだろうか。
「竈門少年、いつ知った?」
「……新戸さんが、鬼に怒った時に言ったんです……「瑠火さん、俺はまだ未熟だ」って……」
「!!」
炭治郎の証言に、杏寿郎は目を大きく見開いた。
常時ぬらりくらりとした新戸が感情的になるなど、滅多にないことだ。彼は不満をネチネチ言ったりイライラすることこそあるが、本気で怒るところなど、杏寿郎でも見たことないのかもしれない。
しかも話の素振りからして、鬼は瑠火絡みで新戸の逆鱗に触れてしまった模様。
(よもやよもや、だ……)
杏寿郎は表情を綻ばせた。
彼女の死で、実の父は情熱を失った。今でこそ立ち直って手紙のやり取りをきっちりするが、それまでは刀を捨てて酒に溺れ、荒みきった怠惰な日々を過ごしていた。そんな落ちぶれてしまった彼に――物理的にも――喝を入れたのが、新戸だった。
新戸は瑠火の葬儀には参列しなかったが、今でも度々墓所へ向かうところを目撃していると
影響を受けたのは、煉獄家だけの話ではないのだ。
「……母上と新戸の関係については、あとで話そう。かなり長くなる。十五年も前からの付き合いだからな」
「十五年も……?」
杏寿郎がどこか懐かしそうな顔で告げた、その直後だった。
ドォン!!
「「!?」」
爆発にも似た衝撃音が地面を揺らし、「それ」は降り立った。
もうもうとした土煙の向こうから覗くのは、一人の若い男。
死人の様な肌に紅梅色の短髪、全身に浮かぶ藍色の線状の文様、鍛え上げられた筋肉質な体格、両目に刻まれた「上弦」と「参」の字。
(上弦の……参……!?)
新手の鬼――上弦の参・猗窩座の襲来に、炭治郎は瞠目し、杏寿郎は鯉口を切った。
猗窩座はニイッと笑うと、炭治郎の眼前に迫り、拳を振るった。
――〝炎の呼吸 弐の型 昇り炎天〟
炭治郎の頭を打ち抜こうとした拳を、炎が立ち上るかのような斬り上げで杏寿郎は即応。
肘から下が縦に裂けたが、猗窩座は微笑んだまま背後へ後退。斬られた腕を瞬時に再生させ、元通りになった腕に残る血を舐め取りながら「いい刀だ」と呟いた。
「なぜ手負いの者から狙うのか理解できない」
そう低く告げる杏寿郎は、静かに怒った。
「話の邪魔になると思った。俺とお前の」
猗窩座は笑いながら答えた。
「君と俺が何の話をする? 初対面だが俺はすでに君が嫌いだ」
「そうか……俺も弱い人間が大嫌いだ。弱者を見ると虫唾が走る」
「君と俺では物事の価値基準が違うようだ」
素っ気無い会話のやり取りに気を悪くした様子を見せず、むしろ気が合うと言わんばかりに語る猗窩座は、どこかの教祖のような朗らかな口調と笑みで手招きした。
「では、素晴らしい提案をしよう。――お前も鬼にならないか?」
「ならない」
即答する杏寿郎に、猗窩座は両目を細めて笑う。
「見れば解る。お前の強さ。柱だな。その闘気、練り上げられている。
「俺は炎柱。煉獄杏寿郎だ」
「俺は猗窩座だ」
互いに己の名を名乗ると、猗窩座は指を差した。
「杏寿郎、お前がなぜ至高の領域に踏み入れないのか教えてやろう」
猗窩座は侮蔑に満ちた声色で告げた。
「人間だからだ。人間は弱く、老いていつか死ぬ。だが鬼は多少傷ついても死なない。百年でも二百年でも生きられる。強くなれる」
「……老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ」
強さというものは肉体に対してのみ使う言葉ではない――そう告げて、杏寿郎は「如何なる理由があろうとも鬼にはならない」と猗窩座の提案を一蹴。
猗窩座は物憂げに目を細めると、「そうか」と応えて右足を強く踏み込んだ。
「〝
腰を深く落として片腕を前に出して構えると、足元に氷花のような文様が浮かび上がった。
猗窩座は嗤い、冷たく告げた。
「鬼にならないならころ――」
「〝
メキィッ!
猗窩座が地面を蹴ろうとした瞬間、真横から凄まじい衝撃が襲い掛かった。
突然の不意打ちに吹っ飛ばされる猗窩座だったが、空中で受け身を取りながら地面に着地した。
「頭の足りねェ奴だな。価値基準が根本から違う相手なんざ、どんなに旨い話を持ち掛けても通じねェよ」
響いた声に、全員の視線が集中する。
その先には、酷く不機嫌な様子で仕込み杖を抜いた新戸がいた。
「ほう……来ていたのか、小守。随分と気が立ってるな」
「前座のせいでムシャクシャしてんだ、猫撫で声で喚くんじゃねェ」
剣呑な眼差しで敵を見据える。
こめかみには血管が浮き出ており、非常に機嫌が悪そうだ。
「さっきのやり取り聞いたぜ。人間は鬼に勝てないとでも言いたげだな」
「その通りだろう? お前も鬼だからわかるはずだ。人間はすぐに死んでしまうが、鬼はどんな怪我でもすぐ完治する。強き者は鬼となって――」
「
猗窩座の言葉を、新戸は遮った。
「敗北ってのはいつも信じ難いモンだ。だからこそ目を背けちゃいけねェんだ。お前らとの違いはそこだ」
「なら小守、お前も敵わなかった相手はいるのか?」
その言葉に、新戸は突然黙りこくった。
代わりに、眼光がさらに鋭くなって周囲の温度が一気に下がった。
「そうか、やはりいるのか! お前より強い存在が! そいつはどこにいるんだ?」
「…………やめろ」
「俺はお前の強さを知っている。それでも一度も勝てなかったんだろう? そいつも鬼になる資格がある」
「やめろ」
饒舌な猗窩座に、新戸は黙るよう要求し始めた。
その口調は次第に強くなり、殺気も膨らんでいく。
その意味を察したのか、猗窩座は同情するかのような眼差しで嗤った。
「……ああ、そうか。死んで勝ち逃げされたのか。望まぬ決着とは、
猗窩座が放った止めの一言で、新戸は堪忍袋の緒が切れた。
それと共に、己の記憶の中に在り続ける〝強い
*
軒に吊るした風鈴が涼やかな音を奏でる中、新戸は瑠火と一局指していた。
病床の身である瑠火に対し、鬼であるため常時ほぼ万全の新戸。全てにおいて正反対の二人だが、苦しめられるのはいつも新戸。
病に侵される前から連敗し続け、いい加減勝ちたいところだが――
「王手だ、瑠火さん」
新戸は勝利を確信した笑みを浮かべる。
しかし瑠火は、一切動じず一手を指した。
「逆王手です」
「……げっ!」
逆王手をかけられた新戸は、顔を青褪めた。詰んだのだ。
「まだまだですね」
「だーーーーっ!! 畜生、やられた!!」
頭を抱えて仰け反る新戸に、瑠火は微笑んだ。
かれこれ百戦連敗。馬鹿正直に指す訳でもなく、何度か追い詰める時はあったが、最後の最後にひっくり返されることもあった。要するに勝てないのだ。
「詰めが甘いですよ。将棋は王手をかけてからが正念場……王手をかけたからといって、それで勝負は決まるのではありません」
静かだが、よく通る声で評する瑠火。
ぐうの音も出ないのか、新戸は悔しそうに睨みつけるばかりだ。
「……でも、最初の頃とは比べ物にならない。やはり頭を使うのがお上手ですね」
「フンッ、俺が血鬼術に頼り切るようなカスと同じにされてたまるか」
拗ねたようにそっぽを向く新戸。
瑠火は新戸との将棋が、何よりの楽しみだった。人間と鬼の知恵比べに純粋な面白さもあったが、一番は新戸の普段見せない一面を知ることができるからだ。
夫の苦言に耳を貸さず、外聞すら意にも介さず、正義感もへったくれもない新戸だが、瑠火と将棋を指すとなれば別。次の一手にわかりやすいくらい四苦八苦し、詰みを悟れば駄々を捏ねる子供のように転げまわり、負けっぱなしでいられない意気地な一面を見せる。良くも悪くも正直とも言える姿に、瑠火は愛おしさすら覚えていた。
「くっ……出直してくる! 次こそは勝つからな!」
「……」
何度も聞いた捨て台詞を吐いて、立ち上がる新戸。
いつもの瑠火なら「またいつでも来なさい」と返していた。しかし、己の死期を悟っていた彼女は何も言えなかった。
新戸も薄々感じていたようで、背を向けたまま瑠火の顔を見ようとしない。
「……瑠火さん……また……指してくれるか?」
全ての感情を押さえ込んだような声で、新戸は振り返らずに声を掛けた。
僅かな望みに縋るようなそれに、瑠火は――
「ええ……いつか必ず、私に勝ってみてくださいね」
ただ静かに、期待の言葉を投げかけた。
その声はどこか寂しそうであり、黙って聞いていた新戸も、必死に耐えているようにも見えた。
それが、槇寿郎はおろか杏寿郎と千寿郎も知らない、二人にとっての最後の
*
次の瞬間、常人なら息を殺されそうなくらい、濃厚で円熟した殺気が襲い掛かった。
「――やめろと言ってるのが聞こえねェか」
殺意に満ち溢れた声に、空気が凍った。
炭治郎はおろか、多くの修羅場をくぐり抜けてきた杏寿郎ですら鳥肌が立つ程の圧迫感。普段の新戸からはあまりにもかけ離れていた。
「良い具合に仕上がってるじゃないか……それがお前のあるべき姿だ」
「黙れ。キャンキャン吠えるな」
恍惚とした様子の猗窩座に対し、鬼の狂暴性を剥き出しに血走った目で睨む新戸。
いつもの新戸なら、長々と会話に応じて時間を稼いだり策を練ってるところだが、今の彼はあまりにも口数が少ない。
頭に血が昇っている。
「いいよ、かかって来いよ。重ねてきた場数の差を教えてやるよ」
「……! 戦う気になってくれてるようだな!」
鬼の形相で猗窩座を睨む新戸は、背を向けたまま杏寿郎に声を掛けた。
「杏寿郎、この馬鹿は俺が相手する。
「何を言う、新戸! 俺は鬼殺隊の柱だ! 鬼を滅し、人を救うのが俺の責務だ!!」
「お前がこんな三下に殺されたら、瑠火さんに何て言えばいいんだよ」
その言葉に、杏寿郎は息を呑んだ。
(……新戸、やはり母上を……)
杏寿郎の胸に、亡き母の真っ直ぐな眼差しが浮かんだ。
あの強く優しい人に、新戸もまた無意識に惹かれたのだろう。
だからこそ、あんなにも感情を爆発させたのだ。
己が唯一感化した存在を嗤った猗窩座に。
「血鬼術・追儺式……」
新戸は冷たく告げると、仕込み杖の柄を鬼特有の怪力で凄まじい圧力を掛けた。
刀身はあっという間に赤く染まり、まるで今の新戸の激情ぶりを表しているかのようだ。
「〝奥義
(いきなり奥義だと!? やはり隠していたか、本来の強さを!!)
猗窩座は心底歓喜した。
かつて対峙した時は、ムカつく程の昼行灯ぶりで日の出までその場に留めようという姑息な手を使っていたが、新戸が今から仕掛けるのは真っ向勝負……猗窩座が最も好む戦いだ。
「死に晒せ、野良犬が」
新戸は地面を割る程に踏み込んで、爆発的な加速で斬りかかる。
対する猗窩座は、嬉しそうに拳で迎え撃つ。
激情と殺意に身を焦がし、
【ダメ鬼コソコソ噂話】
新戸は年に一回は瑠火の墓参りに行き、その時には酒壺(本格麦焼酎)と一輪のツユクサを供え、線香と一緒に愛飲の煙草を一本寝かせます。
墓参りは必ずたった一人で行きます。向かうところを煉獄家は見たことがありますが、墓前で何をしているのかは全く知りません。